新しいグラスを出して氷水を飲むと、おれは戸締まりを始めた。


 ボロいほうきを手にとって、タンスに近寄る。柄を、タンスの一番低い所にある引手にひっかけて慎重に引く。抽斗が開くと、金属板が勢いよく飛び出す。しかも、金属板にはスパイク付き――棘はプラスチック製の柄にがっつりと食い込んだ。

 おれが昔仕掛けておいたトラップが、今もちゃんと作動することに安堵をおぼえた。抽斗は埃っぽい紙で内張りされていた。

 この罠は一番下の段にだけ仕掛けてある。なぜなら、タンスの中を漁るような奴は必ず下の段から開けていくからだ(先に上の段を開けると、下の段を調べるには、上の段を閉める必要がある。非効率的だ。だから、プロは下の段から開けていく)。

 足止めの役目しか果たせない中途半端なトラップだが、こいつには裏の役目がある。それは「この段にこそ、大事なものが隠されているんだ」と相手に思わせることだ。おれは一番下の引き出しに、水色の錠剤入りの包装シートをいっぱい詰めこんだ。

 トラップを仕掛け直し、慎重に引き出しを閉めると、おれはフロッピーディスクを隠す作業にとりかかった。


 レコード棚の上に座っているクマの人形を手に取る。座高三十センチ程度の大きさで、サイケデリックな色合いをしたラヴ&ピースなやつだ。

 クマの首を廻してひねると、首がすぽっと抜ける。胴体には何も入っていない。胴回りは四十センチほど。そこにフロッピーをしまう。ありふれた隠し場所だ。

 マックスとか沢口先輩の周辺にいると、こういう用心を日頃からする必要に迫られる。ましてガキ寄りに動こうというのなら、まして病む街の地雷を抱えているのなら、警戒するに越したことはない。


 最後のチェックをする。トラップは他にも三つほど仕掛けておいた。

「便利さに 慣れて忘れる 火のこわさ」

 レコード棚の隣に貼られたポスターには、そう書いてある。消防庁のポスターで、西荻窪駅前の西友からパクってきたやつだ。モデルの榎本加奈子えのもとかなこは黄色いセーターを着て、右の頬を押さえてポーズをとっている。よくわからないポーズだ。親知らずが痛むわけではないだろう。それはそれとして、五七五の警句はごもっとも。慣れほど怖いものはない。念のため、もう一度部屋をチェックしておこう。


 戸締まりを済ませると、おれはクマの人形をリュックに詰め込んだ。スノボジャケットを引っ掴み、ふにゃふにゃのリュックを背負う。水色のリュックにはマグライトとマイナスドライバー、アクリル・スプレーを入れておいた。


 階段をゆっくり降りる。踊り場には光が差し込み、埃の筋が見えた。

 一階にたどり着き、集合ポスト前で立ち止まる。郵便受けにも細工をしておくべきだろう。慣れて忘れるなんとやらってやつだ。

 ステンレス製の扉を開けると防犯ブザーが鳴るようにセットする。扉には番号錠もしているが、念には念を入れておこう。


 マンションを出て、駐車場へ向かう。晴れてはいるが、三鷹の方角に雲があるのが見える。天気予報では、今日の降水確率は0%となっていた。雨に降られることはなさそうだ。

 駐車場には車が一台と自転車が三台停まっていた。おれの自転車はパナソニックの青いロードバイク。チタンフレームだ。

 駐車場は狭いのに、車が邪魔くさい。停め方が下手な奴にはいらいらさせられる。日産ルキノ。赤いクーペがスペースを埋めていた。おかげで、ロードバイクを出すのにも苦労させられる。幸先はよくない。ウォレットチェーンが車にこすれる。構わない。そのまま無理やり自転車を出す。

 午後三時。まず向かうべきは、ヒラタナオがよく顔を出すという荻窪だろう。

 ところで、江口洋介えぐちようすけはCMで言ってたはずだ。「ルキノって、いいかも」よくねーよ。だって、2ドアのサニーだろ?

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