地獄.2

 ***


 儀式の夜、俺は十八番の手を引いて地獄の底から逃げ出した。


 追ってくる者はいなかった。誰も彼もが正気を失って殺し合っていた。

 切断されたばかりの鉄のような濃密な血の匂いの空気を掻き分け、崩落する洞窟を走り続ける。



 外の光が見えたところで、十八番の腕が俺の手から擦り抜けた。痩せこけた彼は地面に倒れ込んでいた。

「どうした」

 泥まみれの手足を見ると、爪が剥がれて土と混じった血が滲んでいた。十五番のやり口だ。逃げる途中で攻撃を受けたのだろう。


「ごめん、六番。力が出ないんだ。僕のことはいいから、ひとりで逃げて……」

 十八番は膝を抱えて蹲る。俺たちは朝から何も食っていなかった。


 洞窟の端に大人たちが置き去りにした鞄があるのが見えた。俺はファスナーを引き千切り、前に中身を放り出す。

「何か食えるものはあるか?」

 十八番は戸惑いながら、地面に散らばったあんぱんといちご牛乳のパックを指さす。あの頃の俺には幼児の干し首が入った奇妙な光沢の袋と、水が詰まった紙製の灯籠にしか見えなかった。


 十八番は啜り泣きながら必死であんぱんといちご牛乳を頬張った。白布を外した顔に三つの黒子があった。

「甘い……何年ぶりだろう……」

「食い終わったらここを出るぞ」

「六番も食べてよ」

「少しでいいから」

 彼はなおも痩せた手でちぎったパンを俺に差し出す。一口齧ると、摂取したことのない量の糖分で頭がぐらついた。



 十八番が食べ終えたのを確かめてから、俺は彼を背負った。枯れ木のような軽さだった。

 細い両腕が俺の首に回される。肋の凹凸が痛かったが、微かな温もりが心地よかった。


 俺は血で滑る岩を踏み締め、洞窟の外に出た。

 冷たく清潔な夜風が、熱気と不快な匂いを洗い流した。眼下に小さな灯が点々と散らばり、紺碧の夜を彩っていた。


 十八番が声を漏らす。

「綺麗……蛍みたいだ」

「お前が言ってたものか」

「そうだよ。今は違うけど、これからは本物も見られる。一緒に行こうね、六番」


 屈託なく微笑んだ十八番の横顔が、音を立てて爆ぜた。

 何が起こったのか理解ができなかった。俺の肩の上にあったはずの顔がない。鮮血を噴き上げる首の断面が見え、中の背骨が覗けた。

 十八番の体温より温かい血が俺の全身を濡らす。


 視界の端に白い着物の影が映った。顔を覆う白布の下から狡猾に笑う唇が見える。

「九番!」


 足元が轟音を立てて崩落した。

 落ちながら思考を巡らせた。油断していた。奴は俺を狙った。俺が十八番を背負っていたことに気づかなかったんだ。

 俺の代わりに十八番が殺された。



 気がつくと、完全に崩壊した洞窟の中にいた。人頭を並べたような巨岩は血と炎で赤く輝いていた。


 俺はねじくれた細道を駆け、岩の凹凸を掴み、道の起伏を乗り越えたところで足を止める。首のない十八番の死体が横たわっていた。


 異形の神像が俺を見下ろしていた。

 木像の中央には菩薩に似た安らかな女の顔があったが、それを囲む無数の手足は細く端くれだって、昆虫の脚のようだった。


 この神を祀る奴らは逃げた。十八番を殺しておいて。

 身体が震える。喉の奥から衝動が駆け上った。

「村から出たくらいで逃げられると思うなよ!」

 獣の吠える声がこだまし、自分が叫んでいるのだとわかった。

「必ずお前たちはここに戻ってくる!そのときは、皆殺しだ!」



 俺は十八番の死体に触れた。

 奴らが戻ってきたら、俺が死んでいないことに気づくだろう。隠さなきゃいけない。

 冷たい腕をなぞると、彫られた数字の凹凸が指先に触れた。


 近くに誰かの千切れた手首が転がっていた。肉を削いで先端を尖らせ、十八番の腕から数字を抉り取る。

 胸の中で彼に詫びた。死人は痛がりも嫌がりもしないとわかっていても言わずにはいられなかった。



 俺は洞窟を駆け抜け、地上へ出た。

 木々の間から巨大な橋が広がり、眼下を魚影に似た鉄の塊が高速で擦り抜けるのが見えた。


 俺は橋に足をかけ、広い荷台のトラック目掛けて飛び降りる。幌について身体を安定させてから、まず自分の爪を剥いだ。

 そして、着物の袖を捲り、骨のナイフで切りつける。六に線を足し、十八に書き換えた。

 失血で意識が朦朧とする。流れる高速道路を見つめながら、絶対に殺すと誓った。



 井綱夫妻に救われて入院してからは、記憶を失い、ショックで声が出ないふりをした。病室のテレビと新聞でひたすら外界の知識を蓄えた。


 ボロを出さない程度には外の世界のことを覚えてから、俺は養母から縫い針を、病院の受付からボールペンを盗んだ。

 自身に刺青を施して神の存在を伝えた囚人の話は、零子から聞き及んでいた。


 俺は鏡に向かい、十八番にあった黒子の位置を思い出す。自分の顔に針を打ち、インクを流して黒子を作った。


 もうすぐマスコミが赤い長距離トラック事件の被害者を盗撮しに来る頃だろう。記事に載れば奴らが俺の存在に気づく。

 子どもたちは互いの顔を知らないが、零子は知っているはずだ。この先、成長して人相が変わっても、黒子の位置で十八番だと思い込むだろう。



 だが、身体が大きくなって皮膚が伸び、腕の数字はより十八らしく見えるようになったが、零子たちは俺を見つけなかった。

 家族や友人の間で人間らしい生活を手に入れても、鼓膜の奥で「殺せ」と騒ぐ虫の声は消えなかった。俺の声だったのかもしれない。

 だから、罠をかけることにした。



 奴らは引っかかった。

 俺は刺青の黒子を継ぎ足し、彫刻刀で腕の傷を深く彫り直し、村へ向かった。


 奴らは平気な顔をしてそこにいた。

 飛び立つ直前の虫の羽のように衝動が胸を打ち付けたが、俺は無理やり捻じ伏せて何も知らぬ顔をした。狩人と獲物がどちらか、奴らに錯覚させる。


 鮫島を巻き込んだのは悪いと思ったが、守りきれる自信はあった。だが、他の配信者を全員生き残らせるには骨が折れる。

 選別が必要だ。


 鮫島は大学生四人組を見て、ホラー映画のトラブルメーカーのような存在だと言っていた。初めに、奴らには場を引っ掻き回してもらう。

 全員いると面倒事も増える。助けるのはひとりにしよう。唯一俺と鮫島に謝罪した金髪の男がいい。


 初日の夜、宿泊施設の裏で人影を見て飛び出したとき、矢子と出会したのは危うかった。誤って殺すところだった。


 刑事が村で暴れ出すまで、零子たちの取り巻きは殺さず、崖から落として骨を折る程度に留めた。

 北の山で人骨を見て、尾崎が殺人を行っているか、少なくとも黙認していると確かめてからは自由に動けるようになった。

 久田から話を聞いた夜、宿の周りにいた奴らは全員殺した。



 零子も比十四も九番も十五番も、俺の正体に気づかなかった。

 奴らは塵だ。はなから警戒していない。

 見込みがあるとすれば二番だけだ。俺の読みは当たっていた。



 あの夜、退路を塞ぐ土砂の山を背に、二番は俺を見下ろして言った。

「井綱香琉か。似合わない名前だな。人間みたいだ」

「……お前は何を知ってるんだ」

「全部わかってるさ」

 二番は胸ぐらを掴まんばかりに俺に詰め寄った。汗と薄荷と煙草の混じった匂いが鼻先を掠める。


 彼は耳元で囁いた。

「復讐だろ、六番」


 俺は口元を押さえるので精一杯だった。笑いが溢れるのを必死で堪える。期待通りだった。


 俺は周囲に聞かれないよう、二番のタンクトップの肩紐を掴んで引き寄せる。唇が耳朶に触れそうな距離で言った。

「全部わかってて、止める気はないんだな?」

 二番は驚きを顔に浮かべたが、すぐに口角を上げた。

「本気のお前と戦って殺したい」

 俺は答える代わりに手を離し、二番の煙草の箱から一本抜き取り、火をつけた。



 立ち去る二番の背を見ながら思った。

 こいつの左眼を潰しておいてよかった。顔を知らなくても、片目がない男がいれば二番だとわかる。


 二番は思考も、実力も、最も俺に近かった。警戒すべきなのは奴だけだ。邪魔をしないなら好都合。

 俺の全力を引き出すためには、まず鮫島たちを人質を取るような真似はしないだろう。寧ろ万一のときは手助けも厭わないはずだ。


 俺は夜風に煙を吐きかけ、遠くなる二番の背を掻き消す。

「哀れだな、二番。俺が消えてもまだ一番になれなかったのか」


 一度も絶えたことのない「殺せ」と苛む声が、喝采のように聞こえた。



 ***



 俺は手を払い、周囲の土を吹き飛ばした。

 泥が紙吹雪のように舞い上がり、白装束の奴らを襲った。歓声に似た悲鳴が聞こえる。


 俺は二本の指を翳し、穴底から地上までの距離を測る。

「これなら五、六人で足りるか」

 まだ僅かに霞んだ視界に透明な虫の脚が映った。産毛の生えた関節をなぞるように指を動かす。


 泥の間欠泉に戸惑っていた奴らの首が一斉に捩じ切れた。生首がぼとぼとと落下し、首なし死体が俺の前に積み上がる。


 左足を一歩引いたとき、一番上の奴が呻いた。

 血塗れで男か女かもわからないが、そいつだけはまだ息があった。薄皮一枚で繋がった首が今にも落ちそうで、開け損ねた使い捨ての醤油の袋を連想した。


「死にたくない……」

 垂れ下がった首と目が合った。

「だろうな。大抵の奴はそうだ」



 俺は死体の山を駆け登り、穴底から跳び出した。

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