地獄.3

 着地すると、目の前に引き攣った零子の顔があった。


 白装束どもは慌てふためくか、遠くの奴らは現状を把握しきれず戸惑うばかりだった。


 九恩と壱湖だけが素早く俺に狙いを定めた。透明な虫の脚が両側から鋏のように迫る。

 俺は踏み込むと同時に足元の岩を崩し、白装束の連中を引き寄せた。肉の盾が寸断され、熟れた果実のように弾ける。血に混じって乱れ飛ぶ骨の欠片が俺の腕を刺した。


 俺は手を捻り、天井の岩を落下させる。檻のように地面に突き刺さった岩は、俺と零子と比十四だけを他の連中から隔絶した。


 比十四が動く前に、俺は絹のような白髪を鷲掴みにする。

「動くなよ。このババアの白髪を頭皮ごと引き剥がすぞ」

 時が止まったように皆が微動だにしなかった。篝火の火影だけが轟々と揺らいでいた。



 俺は零子の髪を手放し、屈み込んで顔を覗いた。

「改めて、七年ぶりだな。会えて嬉しいだろ。俺も同じ気持ちだ。あれから一時もお前らを忘れたことはなかった」

「六番……!」

「そう。残忍で、狡猾で、非人間的な六番が帰ってきた」


 俺は手を差し出す。零子は舞踏の誘いに応える王女のようにおずおずと右手を出した。先程までの余裕は欠片もない。

「何のつもり……」

「久しぶりだから話をしよう。神の意志を知りたいんだろ? だったら、俺が一番わかってる」

 俺は土の匂いが残る唇を舐めた。


「生贄だ何だ、お前らは少しもわかっちゃいない。何故あの虫が俺たちに力を貸すと思う?」

「眷属を増やすため……?」

「そうだ。あの虫は多いほど力が増す。だが、壁画にあった通り、奴らは数を減らされ、遥か宇宙の母星を追われてここに来た。仲間の代わりに俺たち人間を同胞に近づけようとしてるんだ。今、虫が眠ってるのは、七年前に俺たちの数が減ったからだ」

 零子はただ俯く。理解しているのかわからない顔に苛ついた。


「あの虫の規格は俺たちには収まらない。だから、器として選んだ奴の身体と精神を拡張するんだ。詰め放題のビニール袋を極限まで薄く押し広げるみたいに」

 俺は左手の指でこめかみを叩く。

「イカれた奴が神の使者になれるんじゃない。神の力を受け入れきれなかった奴がぶっ壊れるだけだ。ビニール袋が避けて中身が溢れる」

「そんなこと……」

「考えてみろ。俺たちは十歳そこらとは思えない言語能力、劣悪な環境で生き抜く精神力、成長期にろくに食わなくても死なない生命力を持ってただろ。筋力だって、ほら」


 俺は零子の手を軽く握った。骨が粉砕される音が響き、支柱を失った指の肉が手の平の中で崩れる。

 零子が悲鳴を上げた。

 比十四が殺意を込めた目で見ているのがわかって、俺は握手のようにわざと何度も零子の手を振った。

「大母が子どもに甘えるなよ。このくらいの痛みなら十八番に何度も与えただろ」


 零子は顔中の穴から汁を流し、充血した目で俺を見上げた。

「記憶があるなら何故来たの……お前の力があれば逃げ続けることもできたでしょう。今まで身を隠せていたんだから……」

「頭を回せよ。記憶があって、本気で隠れる気なら、まず最初にこれを消すはずだろ」

 俺は血染めの袖を捲り、二の腕の数字を見せつける。零子はまだ困惑していた。


 俺はスマートフォンを取り出し、動画サイトを開く。

「さっきリアルタイムで映像を見せたよな? Wi-Fiが通ってるんだろ。パスワードは?」

 液晶を傾けると、零子は潰れたウィンナーのような指を庇いながらパスワードを打ち込んだ。


 俺はテリブルジャポンのチャンネルを開く。鮫島が毎回苦心して作っていたサムネイルから、河原の人魂探しの動画を探した。

「お前らはこの動画のコメントで俺を見つけたんだよな? 俺が赤い長距離トラック事件の被害者だと書き込んだ奴のIDは覚えてるか?」

 俺は自分のアカウントを開き、マイページに表示された名前を見せる。I remember。俺はずっと覚えている。

 零子の顔が更に白くなった。


「俺が罠にかかったと思っただろ。逆だ。俺がお前らを罠にかけたんだよ!」

 俺は笑って零子の頭に手を伸ばす。指先に軽い痺れが走った。


「零子様!」

 比十四が俺に伸ばした五指を突きつけていた。

「本当にろくな力がないんだな。二番の言ってた通りだ。どこかの村で落ちこぼれとして死ぬところを零子に拾われたってところか?」

「だったら、何だ」

「やっぱり俺たちだけじゃなく、全国で神の力を使えるガキを育てる実験をしてるんだな。じゃあ、零子もお前も末端か」

 細い目を見開く比十四に、今までの慇懃な様子は残っていなかった。


「拾った犬が駄目だと飼い主の程度も知れるな、十四番?」

「数字で呼ぶな。お前らと違って零子様にいただいた名前があるんだ!」

「墓石にそう書いておいてやるよ」


 俺は指にまとわりつく痺れを振り払い、脳内に反響する声に従う。比十四の手足が人形のように外れた。

「すぐには殺さない。お前らの努力の結晶がどうなるかよく見ておけよ」


 俺は立ち上がり、岩の囲いを弾き飛ばした。

 篝火の赤い光が差し込み、今かと待ち構えていた白装束の集団が現れた。


「生贄はここにいる奴ら全員だ!」

 歓喜の咆哮が聞こえる。洞窟の中の空気は微塵も震動していない。俺にしか聞こえない神の声だ。

 あの虫は最も自らに気質が似た俺を選んだ。


 俺は右手を突き上げる。

 透明な虫が喜び勇んで手脚を振り回した。白装束の連中の手が、脚が、首が乱れ飛ぶ。溢れた腑が血の竜巻に巻き上げられ、ミキサーの中にいるようだった。千切れた肉と骨の断片が頬を打つのすら爽快だった。


 篝火が薙ぎ倒され、血の海に飛び込んだ薪が線香花火に似た音を立てて煙を上げる。

 いくつかの火種は消えずに燃え広がった。煌々と輝く炎の赤が、洞窟を満遍なく塗り潰した血の赤を侵略していく。



 俺は死体の山を踏み越えて声を上げた。

「二番、いるんだろ!」

 闇に溶け込む浅黒い肌が徐々に近づく。二瀧に捕まえられた鮫島と矢子は震えながらしっかりと抱き合っていた。いつか聞いたホラー映画の主人公とヒロインのようだと思った。


 俺が視線で合図すると、二瀧は無言で顎をしゃくる。

 トラックが突っ込んだような轟音が轟き、洞窟の分厚い岩盤の一部が陥没した。ガラガラと岩が崩れ、丸穴が開く。炎で熱された空気が押し流され、外からの冷気が入れ替わりに雪崩れ込んだ。


 二瀧は鮫島と矢子を突き飛ばす。

 何気ない仕草だったが、ふたりは一瞬で外へ転がり出た。


 俺は二瀧と相対する。

「気が利くじゃないか」

「待ってたぜ。お前に左眼を潰されたときからずっと」

「右眼も盗ってほしかったのか?」


 俺たちはお互いに手を翳した。

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