生贄.5
体温でぬるくなった海水のような血潮が顔にかかった。
千切れた指がぼとぼとと地面に落ちて散らばる。尾崎の声が森に響き渡った。
「二瀧……」
俺を一瞥してから、背後の木の陰に問いかけた。
「お前らがやるか? 俺は後始末には興味がない」
九恩と壱湖が人形じみた微笑を浮かべて進み出る。血と汗と泥まみれの俺たちと違って一点の汚れもない。白い肌は、蒸し暑い森で彼らの周りだけ熱が失われたようだった。
尾崎は歯でトレンチコートの袖を縛って止血し、銃に左手を伸ばす。
「お前ら!」
最初に銃が砕け、次に左手が飴細工のように曲がった。宙を向いた指が虚しく彷徨う。
尾崎の額が内側から押されたように飛び出した。ぐご、と奇怪な呻きの後、尾崎の身体が爆発した。
血の雨が降り注ぎ、骨や内臓の欠片がぺちぺちと身体を打つ。
中身を失ったトレンチコートが落ち葉の上に広がり、転げ出た煙草の箱を、赤くぬめった心臓らしき臓器が押し潰した。
九恩と壱湖は料理を失敗したような軽い口調で笑い合った。
「ちゃんと合わせてよ。もっと遊びたかったのに」
「悪かったよ。二人同時に力を使うとかかる負荷が計算しにくいんだ」
九恩は木の枝にカーテンのように垂れ下がる腸や服の端切れを眺めた。
「でも、奥さんと同じところで同じように僕たちに殺されたんだ。同じあの世にいけるんじゃないかな」
甲高い笑い声が鼓膜を劈いた。
九恩は頬に一雫ついた返り血を拭い、冷然と俺たちを見回す。
「偉いね、十八番。ちゃんとこの山に辿り着いたんだ。でも、ちょっと連れ合いが多すぎるかな」
視線を受けた知夏の母がびくりと身体を震わせた。
腕の中の老人は浅い呼吸を繰り返している。
九恩は唇に指を当てた。
「邪魔をしないと約束するなら貴女と娘さんは見逃します。ご岳父も治療しますよ」
知夏の母は唇を噛み締め、悔しさに耐えるように呻きを漏らした。
九恩は微笑を返し、振り返らずに言う。
「応急処置を」
音もなく黒服の集団が現れ、知夏の母から老父を奪った。零子と比十四の取り巻きだ。
数人が手際よく傷の消毒と縫合を始め、残りの男女は俺たちを監視していた。
九恩が肩を竦める。
「さて、行こうか。みんなが十八番を待っているよ」
俺が答える前に、鮫島が飛び出した。
「香琉くんをどうする気だ! 行かせないぞ!」
「それは君が決めることじゃないよ」
黒服の男が鮫島の肩を掴んで振り向かせ、鉄拳で横面を殴りつける。破れた眼鏡が足元に飛んだ。
「会長を離せ!」
見えない弾丸が男の身体を貫通した。
左胸から腹にかけて抉り抜かれていた。背骨の断面と内臓が覗く丸穴の向こうに黒い木々が見えた。
男が頭から倒れ、二、三度痙攣して動きを止めた。
俺は鼻を押さえる。生温かい血が両鼻から流れていた。
壱湖が侮蔑の目を向ける。
「何だ、力使えるじゃん。出し惜しみしやがって」
鮫島は怯えた顔で俺を見つめていた。二瀧が俺の襟首を掴んで直立させる。
「これでわかっただろ。こいつは化け物だ。お前が守れるなんて思い上がるなよ」
「だ、誰が化け物だ……」
鮫島は裸眼の目をぎゅっと瞑り、かぶりを振った。
「香琉くんは化け物なんかじゃない! 俺の友だちだ!」
「会長……」
苛立ち混じりに踏み出した二瀧を、九恩が制する。
「仲がいいんだね。だったら、一緒に来てもらおう」
抵抗する間もなく、黒服が俺と鮫島の両脇を固めた。
男たちに引き摺られながら視界の端を次々と木立が流れ、再び岩壁の前に放り出された。入り口は縄で囲まれた巨岩が塞いでいる。
壱湖が二瀧を肘でついた。
「早くどかしてよ」
「お前、また俺をだしに使っただろ」
「何の話? ああ、岬を殺したときのこと? そんなことで拗ねてんの?」
二瀧は舌打ちし、虚空に手を翳した。
轟音と共に三メートルほどある岩が縄を引き千切り、独りでに転がった。
魔物が口を開けたような坑道の入り口が黒く広がっていた。
黒服たちに押し出されて一歩踏み入った瞬間、熱気が全身にまとわりついた。酸素が薄く、空気が重い。巨大な獣の腹に呑まれたようだ。
かつての坑道らしき道には等間隔で燭台が並び、火の照り返しが岩を赤く染めていた。奥から響く羽音が壁にぶつかるごとに増強され、無数の虫が周囲を羽ばたいているようだった。
錆びたツルハシが道の端に転がっていた。
俺たちは奥へと進む。踏み出すごとに外の光が遠ざかった。
鮫島は小声で独り言を繰り返している。
「見てるならどうか香琉くんを助けてください。どうか……」
六番に呼びかけているんだとわかった。罪悪感で胸が痛む。迂闊だった。彼をここまで巻き込むつもりはなかったのに。
九恩がくすりと笑った。
「六番ならもう死んだよ」
俺は黒服の肩越しに睨みつける。
「……何故、六番が死んだとわかるんだ。あのとき、死体は顔と腕が潰れてた。誰がわかるはずがない」
九恩は挑むように見つめ返した。
「死ぬところを見たと言ったら?」
「……お前が殺したのか!」
身を乗り出した途端、右の男にこめかみを殴られた。止まっていた鼻血が再び溢れる。
壱湖が呆れた声を出した。
「情けない面。何で六番が死んでこいつが生き残ったんだろう。ママも馬鹿だよ。こんな奴を生贄に選ぶなんて。九恩もおかしいと思わない?」
「生贄と使者は違うよ。僕たちは神の意志を伝える役目があるんだ。死ぬ訳にはいかない。でも、使い捨ての起爆剤なら彼程度がちょうどいいだろ?」
笑い合うふたりとは対照的に、二瀧は鋭く俺を睨み続けていた。
四方から岩が迫り出し、道が細くなった。今のうちに鮫島を逃さなければ脱出は難しくなる。
俺が逡巡していると、黒服が背を突いた。
「何してる。早く歩け」
そのとき、重いものが風を切る音が響き、黒い軌道が閃いた。男たちが呻いて壁に叩きつけられる。
錆びたツルハシが岸壁に突き刺さっていた。
「鮫島くん、井綱くん、こっち!」
矢子が両手を俺たちに差し伸べていた。
「矢子さん!」
鮫島が駆け寄ろうとして足をもつれさせ、転倒する。
「会長!」
俺が鮫島を助け起こす間に足音が近づいてきた。
騒ぎを聞きつけた九恩たちが戻ってきたのだ。
矢子がナイフを構える。それでは対抗できない。壱湖が嗜虐の笑みを浮かべる。
俺は矢子からナイフを奪い取り、自分の喉元に突きつけた。
「来るな!」
三人が足を止めた。
「俺が必要なんだろう。ふたりに手を出すならお前らには従わない」
「香琉くん……!」
俺は切っ先を喉に食い込ませる。ひりつく痛みと共に先端が皮膚を破り、血が手の甲を滴り落ちた。
二瀧が溜息を吐き、俺の手首を掴んだ。
「哀れだな、井綱香琉。足手纏いが多いと苦労するだろ」
ナイフがガラスのように砕け、痛みが軽くなった。
「お前は連れて行く。こいつらは殺さない。せいぜい特等席で見せてやれよ」
二瀧は黒く硬い腕で、矢子と鮫島を捕らえた。
道の果てが近づいていた。
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