生贄.4

 狐塚は知夏を抱きかかえて山道を登った。前を歩く祖父と母が時折気遣わしげな視線を送る。


 頭上の空が赤から藍、やがて漆黒になった。

 闇が滲む地面が土から石に変わる。人頭じみた巨岩の道が広がっていた。

 北の山と似た光景だ。


 知夏の祖父が傍を進む鮫島を見た。

「鉱山はこの先だが、私の祖父の代に閉鎖された。今も通れるかはわからんぞ」

「駄目で元々ですよ。助かります」

「あの土砂崩れさえなければ楽に逃してやれたんだが……」


 俺は元来た道を顧みた。

 斜面から見下ろす村は暗く沈んでいたが、北と東の二山は月光で妖しい緑に輝いて見えた。

 洞窟の中の壁画にあった、二つの緑の太陽を想起させる。中央にあるこの山は昆虫たちが頂くピラミッドだ。



 再び歩き出し、夜が完全に更ける頃、知夏の祖父が足を止めた。

 眼前に巨大な岩の壁が聳え立っている。黒い岩肌は砂金を塗したように微かに輝いていた。この先に採掘場があったのだろう。

 しかし、縄で固定された巨大な丸岩が坑道への入り口を塞いでいた。


 狐塚が落胆の声を漏らす。

「やっぱり駄目か……」

 知夏の母が老人の袖を引いた。

「お義父さん、何処かに抜け道があるか知りませんか」

「囚人が脱走しようと岩を掘ったという話を聞いたことがある。周りを見てみるか」



 俺たちは巨壁をなぞるように巡回した。

 それらしきものはなく、全員に焦りと失望が滲み始める。


 知夏が啜り泣きを漏らしたとき、鮫島が声を上げた。

「こっちに亀裂がある!」

 岩壁の穴を塞ぐように小石が詰め込まれた亀裂があった。近づこうとする鮫島を矢子が留める。

「待って、鉱山だからガスが漏れてるかも」

 矢子はライターを取り出し、亀裂に火を翳して確かめた。

「大丈夫そうだね」

「流石、準備がいいですね」

「え? いや、これは……」

 鮫島の羨望の眼差しに、矢子は照れ笑いを浮かべた。



 ふたりが小石を取り除き出したとき、何度目かの頭痛が走った。


 少し離れた場所に、今まで気づかなかった古井戸があった。石を積み上げた簡素な造りの井戸は鶴瓶もなく、一部分が崩れ落ちていた。

 昨夜、北の洞窟で見た幻覚と同じだ。



 頭痛は錐で脳髄を突き刺されているようにひどくなる。

 鼓膜の内側に音が響いた。甲高い笑い声と呻き声。泣き叫ぶ女の罵声。硬い野菜と柔らかい肉を同時に刻むような音。


 九恩と壱湖の声がした。

「ウィンナーの輪切りみたいになるかと思ったのに上手くいかないね」

「骨が邪魔してるんだ。そろそろ遊びはやめよう。夜明けまでに吐かせたい」


 地面に茸のような小さな突起があった。赤い汁が付着した先端が天を示している。第一関節で切断された指だ。


 俺は古井戸に歩み寄り、崩れた石に縋って中を除いた。底のない暗闇に白いものが浮かび上がった。

 全裸の男女の死体。尾崎の部下の刑事たちだ。



 振り返って危険を伝える前に、火花が森を照らし、雷鳴に似た激しい音が轟いた。

 鮫島たちが地に伏せる。


 状況を把握するより早く、背後からトレンチコートの腕が伸びた。煙草の匂いが鼻を突く。襟首を掴まれ、喉が詰まった。


「見つけたぞ、クソガキ」

 尾崎が俺の首を締め上げた。足が宙に浮き、呼吸が止まる。酸欠で脳が熱く、目の前が明滅した。


「香琉くんを離せ!」

 白く染まった視界の端に、こちらへ突進する鮫島が見えた。不意打ちを食らった尾崎が吹っ飛び、俺の襟首を離した。

 堰き止められていた血と酸素が逆流し、身体が熱くなる。


 俺は地面に倒れ込んでえづいた。

 狐塚が泣きじゃくる知夏を抱えて蹲っている。矢子は呆然と立ち尽くしていた。

 梢の中に未だ銃声が反響している。


「香琉くん、立って!」

 俺を助け起こした鮫島の背後に、錆びついた銃口が覗いた。尾崎は引鉄に指をかけて俺を見定めていた。

「動くなよ」

 鮫島が細く息を漏らす。


 知夏の母が駆けつけ、俺たちと尾崎の間に割り込んだ。

「何を考えてるんですか、刑事さん!」

 尾崎は肩で息をしながら銃で井戸を指す。

「何もクソもねえ! 俺の部下が殺された。嬲り殺しだ。こいつらを逃そうとしたせいだ」

「それで八つ当たりを? 正気じゃない!」

「八つ当たりなもんかよ。数字のガキがやったんだ」

 尾崎は俺の手を捩じ上げ、シャツの袖を捲った。二の腕の「十八」が晒される。知夏の母が目を剥いた。


 尾崎は俺を突き飛ばし、銃口で頭を小突いた。

「お前も奴らの仲間か?」

「そんな訳ないだろ……俺は狙われてる」

「だよな。零子たちが血眼で探してた。仲間じゃなくとも奴らと関わってるのは確かだ」


 鮫島が震える声で叫ぶ。

「香琉くんをどうする気だ!」

「釣りの餌にする。零子とガキどもに地獄を見せるときだ」

「ふざけるな! 刑事がそんなことをしていいと思ってるのか」

「そんなこと? 俺の嫁がどんな目に遭ったかこいつで再現してやろうか」

 暗闇の中で尾崎の双眸が爛々と光った。常軌を逸した輝きだった。


 鮫島は膝をがくがくと鳴らしながら尾崎を睨みつけた。

「や、やれるもんならやってみろ!」

「殺せないと思うか? 俺はなあ、嫁が死んでからずっと、関わった奴らを北の山に埋めてきたんだよ」


 鮫島が息を呑む。

 廃神社を探して山を登ったとき、木の根の下に白骨らしきものが埋まっていた。刑事が見落とすはずはないと矢子が言った。あれは尾崎が報復のために殺してきた者たちの亡骸か。



 知夏の母が湿った笑い声を漏らした。尾崎が銃口を彷徨わせる。

「何がおかしい?」

「そんなことまでしたの。私の娘のときはろくに探さなかったくせに」


 彼女はやつれた頰に皮肉な笑みを浮かべた。

「奥さんが臨月だったから昆医院と敵対したくなかったんでしょう? あのときちゃんと調査していれば奥さんも守れたかもしれないのにね」

「てめえ……」

「いいの。この村は皆そう。自分の身内が一番大事。私だって、貴方のどうでもいい復讐より娘の方が大事だもの」


 尾崎が怒りに顔を歪め、発砲した。

 銃声が轟き、赤い花弁が散る。脇腹から血を流して崩れ落ちたのは、知夏の祖父だった。


「お義父さん!」

 知夏の母は自身を庇って被弾した老父の脇腹に手を当てる。指の間から鮮明な血が滲み出した。

 老父はくぐもった呻きを漏らす。

「私は大丈夫だ。逃げなさい……」


 尾崎はまだ突然の出来事に戸惑っている。鮫島が俺の腕を引いた。

「立って!」


 俺は鮫島と手を取って駆け出した。

 轟音と火花が闇を染め、俺の真横の木に丸穴が開く。硝煙が強く香った。


 俺は咄嗟に鮫島を突き飛ばした。つんのめった彼の上を弾丸が貫く。

「香琉くん……!」

 地に伏した鮫島が悲痛な声を漏らす。


 尾崎が膝を地について銃を構えていた。このままでは鮫島が先にやられる。やるしかないか。

 俺が向き直った瞬間、蛍光ピンクの影が尾崎に飛びかかった。


「やめろ!」

 矢子が絶叫しながらナイフを振りかぶった。トレンチコートの袖が裂け、繊維が散る。

「イカれてんのか、この女!」

 尾崎が矢子を蹴り上げ、ふたりが地面に転がる。


「矢子さん!」

 尾崎が泥を払って立ち上がり、掠れた笑い声を上げた。

「とんでもねえ奴だ。ガキにひとが殺せんのか?」

「やってやる。いつまでも中途半端でたまるか……」

「女には手を出したくねえんだがな」

「だったら、黙って死ね!」


 矢子はナイフを突き出した。ひっ先が宙を掻く。尾崎は刺突を受け流し、肘打ちで矢子を弾いた。


 倒れた矢子に鮫島が覆いかぶさる。尾崎がふたりに照準を定め、撃鉄を起こした。

「待て!」

 俺は尾崎に相対し、両手を上げた。

「俺を殺したら餌に使えないぞ」

「そうだな。使えるか試すか」


 尾崎は俺の頭を掴んで引き倒した。

「見えてるか、ガキども! コイツが必要なんだろ! とっとと出てこないと殺すぞ!」


 怒声は虚しく木々に反響し、夜空に吸い込まれた。尾崎は座った目で俺を睥睨する。

「使えねえな」

 鮫島と矢子が涙を溜めた目で俺を見ている。俺は視線で大丈夫だと返した。


 尾崎が再び引鉄に指をかけた。

「あの世で俺の嫁に会ったら、愛してると伝えてくれよ」

 低い声が答えた。

「そんなくだらないことなら自分で伝えに行けよ」


 闇の中に、白眼帯と右目が現れた。二瀧が唇の端を吊り上げる。

 尾崎の腕が水風船のように爆ぜた。

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