生贄.3
火が鎮まっても、煙は濁流のように車内から流れ続けていた。
時折煤が風に攫われ、無惨な車内を見せつける。溶けた脂と灰が固まってテカテカとした運転席に、黒い塊がへばりついていた。
誰も言葉を発さなかった。煙が地を這うように絶望感が染み渡っていた。
山の麓からエンジン音と騒ぎ声が聞こえてくる。火事に気づいた村人たちが駆けつけたのだろう。零子の部下たちも混じっているかもしれない。
矢子は汚れた顔を拭った。
「……泣いてる暇もないね。行こう」
俺たちは頷いたが、狐塚だけは残り火がちらつく地面にへたり込んだ。
「どこに? もう車もねえし、おれら終わりじゃん」
「終わってないよ。私たちはまだ生きてる。早く立って」
矢子が腕を掴んで立ち上がらせると、狐塚は力なく笑った。
「楽しいことしたくて来ただけのにな……」
茂みの間から村人が見え隠れする。俺たちは黒く烟る自動車から離れた。鮫島は去り際、小さく合掌した。
行き先も決めず、俺たちは梢の檻の中を歩き回った。枝葉が頬や腕を引っ掻き、木の根が靴の裏を突き上げる。
服に染み付いた煙の匂いが、焼け死んだ岬の亡霊を憑けてきたように錯覚させた。
「車がないならさ、高速道路まで出てどうやって逃げるんの……」
狐塚が暗い声で言った。俺は少し迷ってから口にする。
「それなんですけど、もしかしたら、ここは俺のいた村じゃないかもしれない。記憶の中と地形が違う気がするんです」
「え?」
「久田さんが奴らは全国に拠点があると言ってました。零子は数年前に移住してきたようだし、ここが俺のいた場所によく似た別の村かもしれない」
「何だよそれ。じゃあ、高速道路に通じる道もねえってこと?」
狐塚の煤で汚れた顔が更に黒ずんでいく。
一縷の希望すらも奪ってしまったかもしれない。言わずにこのまま山を彷徨い続けるのとどちらがマシだろう。
木々のざわめきが苛むように聞こえたとき、鮫島が大声で割り込んだ。
「諦めるな!」
俺たち三人は呆気に取られる。
「会長、慰めは……」
「気休めじゃないよ。香琉くん、ここに来る前に話したこと覚えてる?」
「鉱山の開拓に来た囚人が刺青で記録を残したって話?」
「そう! だったら、金を運び出すルートがあるはずだ。今でも坑道が残ってるんじゃないか?」
矢子が記憶を探るように首を傾げる。
「坑道があるとしたら西の山かも。探索したとき、あそこの土に擦ったら輝く金属が混じってたから」
「行きましょう、まだ希望はある!」
全員の顔に微かな光が戻る。俺たちは死体のような冷たい土を踏んで歩き出した。
矢子を先頭に、西の山に入った。夕陽が毛細血管のような枝の隙間から覗く空を染める。
鮫島は目を左右に巡らせた。
「香琉くん、脱出を手伝ってくれる刑事さんたちはどうしてるんだろう」
「わからない。尾崎さんに咎められてるのかな」
「村人も追ってこないな。ちょっと不気味だ」
「今日は零子たちの取り巻きが少なかったんだ。どこかに行ったのかも」
「奴ら、何を企んでるんだ」
鮫島は苦々しく呟いた。
標高は北の山より低いが、その分地上の熱が木々の間に滞留し、進むたび粘つく汗が噴き出した。
かつてここを歩いた囚人は地獄への道のりに思えただろう。
俺は縮緬の袋から弥勒菩薩の香合守を出し、握って冷たさを確かめた。傍の矢子が覗き込む。
「御守り?」
「養母がくれました」
「袋も可愛いね。お義母さんが縫ったの?」
「たぶん。でも、仕上げは父だと思います。母は裁縫が苦手なので」
矢子は眉を下げて笑った。気を紛らわせようとしてくれているのだろう。
「養母は俺を引き取ると決めてから、見舞いの度、繕い物やりんごの皮剥きを見せてくれたんです。普通の家庭を教えてくれたのかも」
「いいお義母さんだね」
「俺の病室で針を失くして大騒ぎになったこともありましたけどね」
「何だか、私まで家族が恋しくなっちゃったな」
矢子は木々の天蓋を見上げた。
「昨日、私がここで死んでニュースになったら『有名登山家の娘』って書かれるんだろうなって思ったの。呆れるよね。私が何者でもないのは父親のせいじゃないのに」
「矢子さん……」
「帰ったら、改めて親子で向き合って、先のことを考えなきゃなって思ったんだ」
俺は点々と足元を照らす木漏れ日を踏みながら頷いた。
「俺も帰りたいです。奴らが家族に手を出すかもしれない」
「お互い頑張ろうね」
矢子は力強く前に踏み出した。
連綿と続く暗い森に小さな影が覗いた。
一瞬身構えたが、柔らかそうな癖っ毛が見えて安堵した。
「知夏ちゃん」
少女は険しい山にそぐわないサンダル履きで、足に生傷ができていた。狐塚が駆け寄って手を伸ばす。
「何してんの。そんなカッコで危ないよ」
知夏は拒むようにワンピースの裾をぎゅっと握り、後退った。茂みの向こうから老人たちの声が響く。
「知夏、もう戻ってこい!」
村人が俺たちを探しているんだ。
知夏は怯えた顔でミミズ腫れが走った自分の足を見つめていた。狐塚は視線を合わせ、穏やかに語りかける。
「嫌なら行かなくていいんだよ」
「……でも、ユートさんたちはいなくなっちゃうんでしょ。私はこの村にいなきゃいけないもん。みんなに嫌われたら生きてけない」
幼い声に不似合いな、諦観に満ちた言葉だった。
狐塚は少女の拳に手を重ね、固く握った指を解く。
「一緒に行こうぜ。おれもう少ししたら働けるから。知夏ちゃんも、お母さんも、お祖父ちゃんも、おれが何とかするから……」
知夏は下唇に力を込め、泣き出すのを堪えていた。
騒がしい足音が響き渡り、俺たちを人影が取り囲んだ。
「知夏!」
「いたぞ!」
知夏の母の声と老人たちの声が重なる。両者は俺たちを挟んで睨み合っていた。
ここにいる全員が木のように硬直していた。老人たちは血走った目で囁き合う。
「早く零子さんに伝えないと」
「本当に連れていくのか。子どもだぞ」
「やらなきゃ私たちの子も巻き添えだ」
後退りした俺たちを木の幹が阻んだ。村人たちはじりじりと迫ってくる。
矢子が意を決したようにポケットからナイフの柄を覗かせたときだった。
矍鑠とした老人の声が梢に反響した。
「よさないか」
村人たちが振り返る。禿頭の老父が杖を支えに佇んでいた。
知夏が声を上げる。
「お祖父ちゃん!」
彼女の家で襖から覗き見た、痩せ細った老人だ。言葉も覚束ない病人と、今の毅然とした姿は別人のようだった。
知夏の祖父は村人を見渡す。
「もうあの女に従うな。今まで見て見ぬ振りをして、この寒村で一生分以上の甘い汁を吸った結果がどうだ。ここには我が子を失った者もいるだろう」
老人は黙り込む人々の間を進み、狐塚の肩をしっかりと掴んだ。
「我々が滅ぶなら自業自得だ。だが、子に責はない。孫を頼まれてくれないか」
「はい……」
「案内しよう」
知夏の祖父は踵を返し、木の根が波のように唸る鳥を進み出した。老人たちは誰も追ってこなかった。
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