生贄.2
硬いものに触れたと思った瞬間、高速で振動する羽が俺の二の腕を叩いた。虫を素手で掴んだような不快感が全身に走る。
巨大な虫が俺と鮫島を羽の檻で閉ざしていた。
兜じみた硬質な頭部が眼前にある。濁った複眼が無数に分裂した俺たちを映す。
鮫島は唇から泡を飛ばして叫んだ。
「か、香琉くん!」
幻覚だとわかっているが、鼓膜を破るほどの羽ばたきが消えない。虫の顎の下から三叉に分かれた針が突き出し、唾液を滴らせた。先端が喉元に迫る。
「消えろ!」
裏返った声が羽音を切り裂いた。
視界を塞ぐ巨大な虫が消え、代わりに、汗で濃色に染まった着物の背があった。
鮫島が安堵と驚愕がないまぜになった声を漏らした。
「久田さん……!」
久田は両腕を虚空に突き出していた。手首の数珠が何かに共鳴するように揺れている。
彼は俺たちを背に庇い、大樹の影を睨んだ。
「出てきなさい。そこにいるんだろう」
「わかってるのと対処できるのは違いますよ」
涼やかな声が答えた。
新緑の木がざわめき、一枚の葉が落ちる。黒い影と白い影。久田が奥歯を噛んだ。
「やはり君たちか……」
九恩と
二瀧は右目を細め、潰れたポケットWi-Fiを見下ろした。
「拍子抜けだな、井綱香琉。外部に助けを求める気だったのか?」
「二瀧は彼を評価しすぎだよ。僕たちと戦うとでも?」
九恩は頰に笑みを浮かべた。日に焼けた二瀧と並ぶと肌の白さが目立ち、人間味を感じない。
俺は警戒しつつ、ふたりを見据える。
「お前たちは何をする気だ」
「君こそ拾った命を捨てに来たの? それとも、六番を探しに来たのかな」
九恩は口元に手をやり、肩を揺らして笑った。
「可哀想に、本当に記憶がないんだね。彼を探しに来ても無駄なのに」
「どういう意味だ……」
「六番は死んだよ。十八番、君は無意味に罠にかかったんだ」
頭痛が脳髄を刺し、あの光景が蘇る。
暗い洞窟。火に照らされた異形の神像。血溜まりに倒れた死体。顔と番号が彫られた腕は潰れていた。自分と同い年の白装束の少年。
「嘘だ……」
俺は痛みに耐えながら呻く。
「僕も信じられなかったよ。一番強かった彼が死んで、落ちこぼれの君が生き残るなんて」
怒りと激痛で一瞬、意識が飛びかけた。
まずいと思ったときには遅かった。久田が九恩に向かって手を伸ばす。
「久田さん、駄目だ!」
九恩は身じろぎもしなかった。
久田は直立したまま小さく咳をした。魚の小骨が喉に刺さったような、さりげない動作だった。彼の口の端から赤い雫が一筋垂れる。
久田は身を折り、大量の血を吐き出した。
びしゃびしゃと溢れた鮮血が地面を打ち、飛沫が俺のスニーカーを濡らす。
久田は自分の吐いた血の中に倒れ込んだ。鮫島の絶叫が響き渡った。
「久田さん! 嘘だ、こんな……!」
鮫島は倒れた久田を揺さぶる。答えはなく、身体が揺れるたびに血と泥を吸い上げた着物がどす黒く染まった。
九恩は目を瞬かせた。
「楽に殺すつもりはなかったのにな。運がいいね。よほど神に愛されてたんだろう」
「お前がノーコンなだけだ」
二瀧が吐き捨てる。
鮫島は飛び退って距離を取り、顔を涙でぐしゃぐしゃにしたまま俺を庇った。
「お前ら……」
鮫島の膝が震えていた。九恩は拍子抜けするほど淡々と言った。
「逃げていいよ、十八番」
「どういうつもりだ……」
「その方が手間が省けるんだ。必死で逃げなよ。あと十秒で視界から消えなきゃ殺す」
鮫島は血塗れの手で俺の腕を掴んだ。
「香琉くん、逃げよう」
「でも……」
「久田さんが守ってくれたんだ! こんなところで死ねないだろ!」
俺は鮫島に引き摺られて駆け出す。
振り返ると、二瀧が全てを見透かしたように口角を吊り上げていた。
当てもなく走り続け、水田が途切れたところで鮫島が足を止めた。
彼は喉を鳴らし、悔しさを吐き出すように吠えた。
「くそ、あいつら、畜生……!」
「会長……」
俺はいつもより小さく見える背を摩ることしかできなかった。
鮫島は身体中の水分を絞り出すように泣きじゃくった後、眼鏡を外して目蓋を拭った。
「……もう大丈夫。取り乱してごめん」
「いいんだ。取り乱して当然だよ」
「……あいつら好き勝手言いやがって。許せないよな。香琉くんも気にするなよ」
俺はかぶりを振った。
「励ましてくれてありがとう。でも、たぶん九恩の言ってたことは本当だ。自分でももしかしたらと思ってたんだ」
「違うよ、あいつらは香琉くんを絶望させるために嘘をついたんだ!」
眼鏡を掛け直した鮫島は、いつもの自信に満ちた表情に戻っていた。
「君の友だちは神の力を一番上手く使えたんだろう?」
「うん……」
「今まで不思議に思ってたんだ。廃病院で都合よく壁が崩れたり、あの洞窟で襲ってきた男の子の頭が爆発したのは何故かって」
彼は人差し指を立てた。
「君の友だちが守ってくれたんだよ」
「そんなことあるかな……」
「そうじゃなきゃ説明がつかない。どこかで香琉くんを見守ってるんだ。君の友だちはきっと生きてる」
鮫島は力強く俺の肩を叩いた。手の平はもう震えていなかった。
「ありがとう。でも、俺の友だちは彼だけじゃない。会長もだよ。俺は会長にも生きてほしい」
「当然だ! 三人で男子会を開くまで死ねないな!」
俺たちは返り血と泥で汚れたまま笑った。
畦道を再び歩き出すと、空が更に暗く翳った。
三方を囲う山から微かな陽光が差し込み、緑の太陽が昇ったようだった。
遠くに矢子と狐塚の姿が見えた。鮫島が弾丸のように駆け出す。
「ふたりとも! 大変だ!」
矢子は鮫島を抱き止め、Tシャツに飛び散った血痕に気づいた。
「どうしたの、その血。何があったの」
「久田さんが、俺たちを庇って……」
鮫島は再びしゃくり上げながら事のあらましを語る。ふたりは沈鬱な表情で聞いていた。
鮫島は話を終えてから、ようやく矢子に抱きしめられていることに気づいて顔を赤くした。
「す、すみません」
「大丈夫だよ。ふたりともよく無事だったね」
矢子は暗く翳る山の麓を顎で指した。
「岬さんが車を取りに行ってる。早く合流しよう」
俺たち四人は無言で歩き続けた。
狐塚は忙しなく辺りを見回していた。
「どうかしたんですか?」
「あのさあ、知夏ちゃんたちも逃げられねえかなって。こんなことがあった村いたくないっしょ」
「そうですけど、お母さんとお祖父さんのこともあるし……」
「やっぱり難しいかあ」
茂みを掻き分けて進み、視界の開けた場所で矢子が足を止めた。
「ここで待ち合わせなんだけど、まだいないね」
「何かあったんですかね。無事だといいけど……」
鮫島が左右を見回す。
再び錐で頭蓋を貫いたような頭痛が走った。
テレビの砂嵐に似た幻覚で視界が埋め尽くされる。
痛みを逃そうと蹲った瞬間、目蓋の裏に山道が広がった。
***
木々に隠すように停めた軽自動車の前で、所在なさげに岬が立っていた。背後から足音が響いた。
「岬さん、逃げるの……?」
茂みを分けて現れたのは
「壱湖ちゃん……?」
壱湖は戸惑う岬に抱きついた。
「私も連れてって! もう嫌だよ、こんな村!」
「落ち着いて、誰にやられたんですか」
壱湖は啜り泣く。
「二瀧。あいつ、私が従わないといつもこうするよ」
「酷い……」
岬は煩悶するように目を瞑り、壱湖を抱きしめ返した。
「わかりました。一緒に逃げましょう。乗って」
岬は車の後部座席に壱湖を座らせてから運転席に乗り込んだ。
「手伝ってもらった読書感想文、完成させたかったな。ねえ、東京にはいろんな本があるの?」
「そうですよ。 『地獄変』なんて読まなくても他にたくさんあります」
「岬さんあの本嫌いだもんね。九恩はそんなに厳しくしたら好きな色の話くらいしかできないって言ってたけど」
壱湖は表情を打ち消した。車内にカチカチと小さな音が響く。
シートベルトを締めた岬は訝しげに振り返る。
「何の音ですか?」
「岬さんは優しいね。こんな簡単に引っかかるなんて」
壱湖は膝を立て、太腿の裏にカッターナイフの刃を滑らせた。薄い紅の傷から血が滴る。
「私は赤色が好き」
***
幻覚が薄れ、茂みから静電気のような音が聞こえた。風が唸る。
夏風とは違う、焦げくさい匂いの熱風がどこからか流れてきた。
矢子たちは岬を探して彷徨っている。俺は声を振り絞った。
「みんな、離れろ!」
三人が振り返ると同時に、紅蓮の毛皮を纏った獣が茂みから飛び出し、木の幹に激突した。
轟音と火花。濛々と黒煙が迸り、ガソリンの匂いが目と鼻を突き刺した。目と鼻が激しく痛み、息が詰まる。
黒く染まった視界に、煌々と輝く赤があった。
矢子が噎せ返りながら立ちすくむ。
「嘘でしょ……」
軽自動車が燃え盛っていた。
熱で歪んだフロントガラスがひび割れ、蛇の舌のような炎が漏れ出ている。
車内も火の海だ。
ガラスの亀裂から枯れ木のような黒い五指が飛び出す。指は助けを求めて宙を掻き、力なく垂れ下がった。
炎が岬の身体を車ごと灰に変えるまで、俺たちは立ち尽くしていた。
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