生贄.1
寝不足の頭は重く、脳の芯に弱い火が灯ったように熱い。目蓋の裏がちくちくと痛んだ。
各々が朝食を手に取って着席したが、食べる者はいなかった。
「……矢子さんから聞いた話は刑事さんに伝えました」
「誰にも言わないでって言ったよね。
「あんな乱暴なひとに言いませんよ。若い男女のふたりです。驚いてましたけど、脱出を手伝ってくれるそうですよ」
「……わかったけど、これ以上勝手なことはしないで」
岬は不満を滲ませる矢子に構わず、俺を見据えた。
「車に乗れるのは四人までです。私と矢子さんと残り二人ですが……
「どうして?」
「この村と関係があるんですよね。仲間じゃないってどうして言えるんですか。本来彼がこの話し合いの場にいるのもおかしいです」
「
俺は彼の手を引いて押し留めた。
「そう思われて当然だと思う。俺は残るよ。友だちもまだ見つかってないし、奴らの狙いが俺ならすぐ殺されることはないと思う」
鮫島は強く唇を噛んだ。
「だったら、俺も残るよ」
「そんな、会長は逃げてくれよ」
「私も残ろう。あれと戦えるのは私だけだから……」
手首に提げた透明な数珠が音を立てる。水晶の球体に、灰のような細かい粒が浮かんでいた。
岬が溜息を吐く。
「何でもいいですけど、早く決めてくださいね」
「ていうか、鮫島くん、おれの言ってたこと全部当たってたってこと?」
「今それを言いますか?」
「あってんじゃん。井綱くんが超能力少年で、悪の組織がいて、でも、久田さんは戦えるんだろ? 大丈夫、いけるって! 最強パーティじゃん!」
矢子が小さく吹き出した。
「狐塚くんの話聞いてると悩んでるのが馬鹿みたいだね。とにかく元気をつけるためにご飯食べようか」
「そうだよ。腹が減っては、って言うじゃん」
俺たちは弁当の蓋を外す。温かい結露が手の甲を伝った。生温かい米を噛んでも味がしなかった。
鮫島は素早く弁当を平らげ、丸い容器に入った杏仁豆腐を久田に押し付けた。
「よかったらこれ……」
「どうして?」
久田は怪訝な顔をしたが、鮫島が胸に抱いたオカルト雑誌を見て頰を綻ばせた。
「ああ、サインが欲しいと言っていたんだったな」
「ありがとうございます!」
久田は苦笑しながら本を受け取った。
「礼を言うのは私の方だよ」
「何でですか?」
「ひとりだったら逃げていた。あれと戦って人々を守っても誰にも顧みられないと思っていたからさ。でも、見てくれているひとはいたんだな」
着物の袖を翻し、久田は流れるような筆致で書いたサインを返した。鮫島は泣きそうな顔で本を抱きしめた。
宿泊施設を出ると、どろりとした灰色の雲が垂れていた。久田は空を睨む。
「今夜だろうな……」
何が、と問う前に思い至った。
「あれが、虫みたいな神が何かを起こすんですか」
「おそらくそうだ。奴らの動きは星辰、星の動きに左右されるんだ」
「本物の神様みたいですね」
「冗談はよしてくれ」
久田は先程までの頼もしさは見る影もない、くたびれた顔で言った。
薄雲を食い破った陽光が地上を射抜いていた。
また広場が騒がしかった。
村人と言い争う尾崎を見て、矢子が表情を曇らせる。
「ふたりの遺体を見つけたのかもね」
俺は口を噤む。
俺は慎重にひとだかりに視線を巡らせる。
レースの日傘から一段明度の低い白髪が覗いた。
俺は目を背け、輪の中心の尾崎に目を向けた。
目の下のクマも、よれたトレンチコートの泥も、いっそう黒ずんでいる。
咥え煙草の尾崎に初老の男が掴みかかった。
「俺の弟は見つからないのか!」
「何?」
「先月いなくなったって言ったじゃねえか! まともに探したのか?」
「詳しく調べてよかったのか? お前の弟が生徒に手を出したことまで洗い出してもいいんだぞ。女子どもに手ぇ出してよく被害者ヅラできたもんだ」
初老の男が顔を赤くした。尾崎は薄笑いで煙を吐きかけた後、怒鳴り散らす。
「あいつらどこ行ったんだ! まだ寝てんのか。貧弱なガキどもめ……」
俺は昨日見かけた尾崎の部下ふたりがいないことに気づく。
姿を探していると幼い手で袖を引かれた。寝癖で縮毛を更にくしゃくしゃにした知夏が俺を見上げていた。
「知夏ちゃん……」
「お姉ちゃん、やっと帰ってこられたから……お母さんもよかったって言ってる……」
少女は赤い目を擦る。夜通し泣いていたのだろう。
「……ユートさんはいないの?」
「狐塚さんなら向こうにいるよ。会いたい?」
知夏はかぶりを振って駆け去った。
俺たちが逃げた後も、彼女はこの村で暮らし続けるのか。それ以前に、虫の神が目覚めるのなら、
分厚い雲に蓋をされた地上には熱気が篭っていた。
水田が灰色の空を映して、村全体が古い写真のネガの光景のように見える。
俺と鮫島は大樹の根元に座り、流れる雲を眺めていた。
「ホラー映画みたいって無邪気に言ってた頃が懐かしいや」
「会長は狐塚さんたちを見て最初に死ぬタイプって言ってたよね」
「うん。でも、話してみたらいいひとだってわかったよ。それに生き残ってるしな。偏見はよくなかった」
鮫島は繕うように明るい声を出す。
「映画だったら香琉くんと矢子さんは確実に生き残るね! 主人公とヒロインだ」
「何だよそれ。じゃあ、会長は?」
「俺は有能なデブメガネオタクだから見せ場があるよ! 生存確率は三割くらい」
「嫌だなあ」
俺は肩を竦め、風の音に耳を澄ませた。
「もし、俺がホラー映画の主人公じゃなく殺人鬼だったらどうする?」
鮫島は眼鏡の奥の目を丸くし、全て察したように俯いた。
「神の力を使うための実験会場で……ってこと?」
「うん。たぶん、俺はひとを殺したんだと思う。久田さんもそう言ってた」
長い沈黙を木々のざわめきだけが繋いだ。
鮫島は鼻から息を吐く。
「俺は正義漢じゃないから、警察に突き出したりできずになあなあにしちゃうと思う。でも、もう誰も殺さないでくれって頼むかな。無意味な口約束だけどさ」
遠い記憶の中で同じ会話があった。俺は膝を抱え、悍ましいが懐かしい悪夢の断片を探した。
丘の向こうから目が覚めるような金髪が覗いた。
「噂をすれば狐塚さんだ」
彼は俺たちに大きく手を振って近づいた。
「知夏ちゃんが会いたがってましたよ」
「マジ? これ渡したらすぐ行くわ」
「これって?」
狐塚が差し出したのは、昨夜、矢子が祭壇で見つけたポケットWiFiだった。
「おれならいけるかなって試してみたらマジで使えちゃったんだよね」
「どうやったんですか?」
俺たちが唖然として問うと、狐塚は決まり悪そうに頭を掻く。
「リーダーが住宅街とかで配信するとき、近所のWiFi使えたら楽じゃねえかって言うから……」
「ハッキングですか? 犯罪ですよ!」
声を張り上げる鮫島に、狐塚は軽い口調で詫びると、再び走り去っていった。
行為の是非を問う気はなかった。鮫島も同じ気持ちだろう。
「いけないことだけど、連絡が取れるのは大進歩だよな。通報もできるし、早速……」
俺はWi-Fiに手を伸ばす鮫島を制止した。
「何で止めるんだよ」
「久田さんが、奴らの組織は全国にあるって言ってた。迂闊に通報したらまずいかもしれない」
「警察もグルだって言うの? 流石に考えすぎじゃない?」
ぼやきつつ、鮫島は腕を下ろした。
「家族に連絡くらいは取ってもいいよね」
「うん、俺もそうする。心配してるはずだ」
はやる気持ちをおさえてWi-Fiを接続するなり、怒涛のように通知が流れ込んだ。案の定、養父母と義妹からだった。
俺は井綱夫妻にメッセージを送り、
通知をスライドするなり、真美の大声が耳を劈いた。
「馬鹿じゃないの! 何で連絡しない訳! パパにもママにも心配かけてさ!」
周りに自宅の居間が広がったような懐かしさだった。俺は詫びを告げ、土砂崩れのことだけを簡潔に伝える。
真美は殺すと息巻いていたが、やがて気持ちが鎮まったのか、急にくすりと笑った。
「ねえ、聞いて。今パパがお客さんと話しててね、誰だと思う?」
「誰?」
「
全身の血が凍った。俺はスマートフォンを握りしめる。
「香琉たちの配信も観てて……」
「そいつに近づくな!」
思わず叫んでから口元を押さえる。鮫島が俺を不安げに見つめた。
「え、ちょっと何? どうしたの?」
「いいから、そいつは絶対家に近づけるな」
真美の声が震え出す。
「お兄ちゃん、急に怖いよ。まさか、行く前に殺すって言ったの怒ってるの? 冗談だよ。いつも言ってるじゃん……」
ブツリ、と通話が途切れた。
鮫島が青ざめている。木の根元に置いていたポケットWi-Fiが丸めた紙屑のように潰れていた。
虫の羽音が聞こえた。
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