祭壇.4

 鮫島は頰に涙の跡を残したまま目を輝かせた。

「まさかこんなところで会えるなんて! メディアに顔を出してなかったから気づかなかった! 伝説が目の前にいたのに、俺は何て馬鹿なんだ! 握手してください」


 鮫島は胃液で汚れた久田の手を握ろうとする。

「汚いからやめなさい……私を知ってるのか」

「勿論、冷泉葵太郎の『実録・日本津々浦々霊媒紀行』全部読んでますから! 魚の亡霊に囚われた漁村一括邪霊は本当に驚異的でした! 呪われた双子が住んでいた丘の幽霊屋敷突撃は往年のゴシックホラーもかくやの展開で……」


 言葉の奔流に圧倒された久田が苦笑いを浮かべる。

 矢子が俺の肩を叩いて小さく微笑んだ。

「すっかり元気だね」

「よかったです。あれでこそ会長なので」



 久田は鮫島の勢いに仰け反りながら言った。

「握手もサインも後でするから早くここを出よう。また吐きそうだ……」

 鮫島はふいに表情を曇らせ、足元の美春の遺体を見下ろした。

「この子たちを、美春ちゃんを家族のところに返してあげないと……」

「刑事さんがまた北の山を改めると言っていた。後は彼らに任せよう」



 俺たちは久田を先頭に、邪教の洞窟を抜けた。夜風が血の匂いと生臭い熱気を洗い流す。

 ふと、幻覚で見た井戸がここには見当たらなかったことを思い出す。


 辺りを見回していると、矢子が俺を呼んだ。

「尾崎さんと鉢合わせるかも。早く下山しよう」

「今行きます」

 不穏な予感を振り払い、俺は皆の後を追った。


 山を下りて麓に到達した頃には、深夜零時を回っていた。

 村は渾々と湧く黒い水に満たされたように夜闇に染まっている。虫の声と風の音が聞こえるだけの静かな村だ。邪教と非道の洞窟が同じ場所にあると誰が想像できるだろう。


 久田は様々な液体で汚れた着物を見下ろす。

「ひとまず宿泊施設に戻ろう」

 矢子は微かに眉を顰めた。

「結局あそこか。他に行く場所もないけど……」

「流石に室内までは監視されていないはずだ。着いたらそこで話をするよ」



 誘蛾灯のようにぼんやりと光る、煉瓦色の宿泊施設に辿り着くと、鮫島は大きく息を吐いた。

 やっとひとこごちついたらしい。村人に用意された場所である以上、安全とは言い切れないが仕方ない。どの道この村から出られない限り罠の中だ。



 俺たちは各自の部屋で顔と手を洗い、久田の部屋に集合した。室内に物はほぼなく、初日のままのようだ。


 鮫島は自室から持ってきた本を抱きしめながら尋ねる。

「久田さんは何故あそこに?」

「部屋にいたら嫌な予感がしたんだ。土砂崩れがあった日と同じ予感が……耐えきれずに飛び出したら、君たちが北の山に入るのが見えたから……」


 歯切れの悪い言葉に、矢子は眉を顰めた。

「久田さんは霊媒師、なんですよね?」

「まあ、一応、祖母の代から……」

「教えてください。あの山には何がいるんですか。村人たちは何をしていたんですが」

「言葉では説明しにくいな……」



 久田は汗とも泥ともつかないシミが付着した和服の裾で額を拭った。

「あれは幽霊とか神とかじゃない。化け物としか言いようがないんだ。祖母は宇宙から来たんじゃないかと言っていたが、あながち間違いでもないと思う」

「宇宙ですか……」

 矢子の怪訝な声に彼は自嘲の笑みを浮かべる。

「信じられないのもわかるよ」

「あの洞窟では神として祀られていたようですが」

「そう思う人間もいるだろう。あれは人智を超えた力を持っているんだ。もしかしたら、神話の中の幻想生物のいくつかはあれを目撃したひとが考えたのかもしれない」


 鮫島が期待と不安の入り混じった目を向ける。

「人智を超えた力って?」

「神の御技というにはあまりに禍々しいし、理解不能なものだよ。いるだけで人間を死に至らせたり、精神を壊したりできる。戯れに人間に力を分け与えることもあるが、大抵はあれを直視したら心を病んでしまう」

 俺は村人が語った三顎本尊の由来を思い返す。与えるものが富ではなく、知恵と力だったのはそういう訳か。


「久田さんは大丈夫なんですか?」

「理由はわからないが、私や祖母のように耐性を持った者もいるんだ。その中には、あれを神だと思い込んで、自分を選ばれた特別な者だと感じるものもいる。あの洞窟を作ったのもその類だろう」


 だからか、と俺は胸の中で呟く。廃病院での非人道的な実験の数々。あの施設の運営者はかつて憑きもの筋と言われた、精神に疾患を起こしやすい者を神に近づきやすい者だと考えたのだろう。

 実際は順序が逆だ。あの神を目撃した者は精神に異常をきたす。ただそれだけの単純なことを誤解していたんだ。


「この村に来る気なんかなかったんだ……私にできることはほとんどない」

 久田はペットボトルの茶を唇の端から零しながら飲み干し、息を吐いた。

「でも、冷泉さんが『奴らに目をつけられてるなら、村に行かなくてもいずれ追い詰められるだろう。だったら、自ら出向いた方が敵の動向がわかりやすい』って……」

「すごい、冷泉葵太郎との話が生で聞けるなんて」

 身を乗り出す鮫島を矢子が押し留める。

「はしゃいでる場合じゃないよ。久田さん、奴らって?」

「もうわかってるんじゃないか。私たちを呼んだ零子さんだよ」

 俺たちは息を呑んだ。


 久田は力なくかぶりを振る。

「除霊のために全国を回ってわかった。あれを神として祀り、力を分けてもらおうとする輩は日本中にいる。組織を作って、あの洞窟のように弱い者を食い物にして実験を行っているんだ。私たちには到底立ち向かえない」


 全員の沈黙が部屋に重く渦巻いた。久田の言うことが本当なら、逃げ場がないのは村の中だけの話じゃない。この国のどこにいても、だ。



 矢子は声を震わせる。

「……久田さんが敵視されるのはわかるけど、何で私みたいなただのキャンパーまで?」

「大方、山を散策するうちに奴らの基地を動画に映してしまったんだろう。そうして消された者たちを知っている。テンポアップロードの大学生たちもおそらく同じ理由だ」

 そういえば、矢子は以前、あの四人組と遭遇したと話していた。


「じゃあ、岬さんは何故?」

「朗読した民話の一部にあれの正体に関わるものが混じっていたのかもしれない。他に考えられる理由は……君だ」

 久田は震える指で俺を指した。


「岬さんは赤い長距離トラック事件に関するネットの記事を削除させたと豪語していた。奴らは君を探していたから、彼女の存在が不都合だったんだ」

 鮫島が目を瞬かせた。

「香琉くんが? どうして?」


 久田の指の震えが激しくなる。

「いい加減に教えてくれないか。君は奴らの実験施設から逃げ出してきたんだろう。本当は覚えてるんじゃないのか」

「久田さんまでそんなこと言うのはやめてくださいよ。香琉くん、気にしなくていいから……」



 俺は首を横に振った。

「その通りです。俺はあそこにいたんだと思います」

 三人の視線が針のように突き刺さる。久田は足袋で床を踏み鳴らすように脚を震わせた。

「やっぱり隠してたのか」

「違います、記憶がなかったんです。でも、時々夢であの場所を見て……この村に来てから、確信しました」

「何故、君はわざわざこの村に戻って来たんだ」


 鮫島が泣き出しそうな目で俺を見ていた。胸が締め付けられる。そんな資格はないこともわかる。

 俺は鮫島を巻き込んだのだから。

「……友だちを探しに」

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