祭壇.3
足が針金で固定されたように動かない。
美春は崩れるように膝を折った。万華鏡じみた複眼の全てに俺たちの硬直した顔が映っていた。
鮫島が裏返った声を振り絞る。
「み、美春ちゃん、俺たちは、君の……」
耳元で金属を擦り合わせたような不快な激音が鼓膜を劈いた。
美春は下顎が外れんばかりに口を開けて絶叫する。ぶちぶちと顔の筋肉が断裂する音が聞こえた。
一瞬で、美春が視界から消えた。
俺たちは周囲を見回す。
「消えた……?」
鼻先を乾いた木の蔦のようなものがくすぐった。古い毛布に似た皮脂の匂いが濃く漂う。毛髪だ。
顔を上げた瞬間、真っ黒な複眼と空洞じみた口腔が目に映った。
誰のものかもわからない絶叫がこだました。俺たちは同時に駆け出す。
「天井に、天井に! 何だよ、あれ人間なのか?」
「鮫島くん、いいから走って!」
美春は天井の岩を四肢で掴み、虫のように追ってきた。上から垂れる緑の札が千切れ、木の葉のように降り注ぐ。
「香琉くん、右!」
視界の右端を白いものが掠めた。
アイロンの先端を押し付けられたような熱が二の腕に走り、鈍痛に代わる。シャツの袖が裂け、十八と彫られた古傷にミミズ腫れが重なっていた。
美春が金切り声で笑い、手を振りかぶる。俺は身を捻って避け、ひたすら奥へと走った。
頭痛で目に霞み、前を走るふたりの背が朧げになる。濡れた泡で足を滑らせかけたとき、幼さの残る声が聞こえた。
「じゅうはちばん……?」
前方に美春とは違う人影が佇んでいた。中学生くらいの少年だ。擦り切れた浅葱色の寝巻きから覗く腕に「十」と彫られている。美春と共にいた少年だ。
彼の瞳も深淵のような黒い複眼だった。
少年の唇から泡を吐くような音が漏れた。
「か……れ、か……れ」
矢子と鮫島が呆然と足を止める。天井の岩を素足で這い回る音が直近に迫っていた。このままでは逃げ場がない。
少年が両腕をだらりと垂らし、全速力で駆けてきた。闇に慣れた目が岩肌の小さな空洞を捉える。
「会長、矢子さん!」
少年が飛びかかる寸前、俺はふたりを穴へと突き飛ばした。
無数の点が凝縮された両眼が俺に迫る。俺は咄嗟に少年の脇腹を蹴り上げ、穴へと飛び込んだ。
暗闇が俺を包んだと思った瞬間、固く冷たい岩肌に叩きつけられた。
小石がパラパラと落下し、頭や肩を打つ。鮫島と矢子は噎せながら身を起こしたところだった。
「突き飛ばしてごめん。矢子さんもすみませんでした」
「助かったよ、ありがとう」
落ち着きを取り戻した鮫島は身を震わせる。
「香琉くんのお陰で助かったけど、もうめちゃくちゃだ。あのふたりもこの空間も何なんだよ……」
彼はスマートフォンの液晶が無事か確かめ、ライトで辺りを照らした。白い光が岩肌を舐め、鈍色の巨大な虫の頭を浮かび上がらせた。
「うわ!」
虫を模した像が岩に埋め込まれていた。毛の生えた脚も針のような口も、今にも動き出しそうなほど精巧な造りだ。
像の真下には緑の布をかけた机があった。
燭台や折れた蝋燭、壁の絵と同じピラミッドを再現したような金の三角錐を囲うように白い欠片が散乱している。
鮫島が欠片を手に取り、熱いものに触れたように落とした。
「歯だ……」
俺たちは禍々しい祭壇と向き合った。矢子が鳥肌の浮いた腕を摩る。
「ここで何をしていたんだろう。鮫島くん、わかる?」
「降霊術の道具にも思えます……狐塚さんの言ってたこと、当たりじゃないか? いや、まさかそんな……」
鮫島が恐怖を押し殺すように笑った。
「昔は小さな村で憑きもの筋と言われるような神がかりの人間が、祈祷師としてムラを統率する役目を担うこともあったんです。血筋を維持するために近親で結婚したり、同じようなひとを敢えて生み出そうとすることも……」
「つまり、どういうこと?」
「これを作ったひとたちはこの虫みたいな神を信仰していて、あの廃病院の患者に神を取り憑かせる実験をしていたのかも……」
矢子はしばらく絶句し、吐き捨てた。
「本当なら最悪だね」
鮫島が俺の腕を盗み見て、慌てて目を逸らす。
言いたいことはわかった。あの少年と俺には同じく数字が彫られている。俺も実験台だったのかと思ったんだろう。
鮫島は取り繕うようにスマートフォンを自分に向け、素っ頓狂な声を出した。
「あれ、嘘? 何でだ?」
「どうしたの?」
「ここWi-Fiが通ってる……」
設定画面には確かにパスワードでロックされたWi-Fiが表示されていた。村全体の通信が阻害されているのに、洞窟の奥底でそんなことがあるだろうか。
「もしかして、これかな」
矢子は燭台の裏に置かれたものを取り上げた。それは祭壇に不似合いな、空港でレンタルできるような小型のWi-Fiだった。
俺は矢子の手の中を覗き込む。
「通信機器を置くってことは、外部と連絡を取る必要があったんでしょうか」
「そうだね。普通は隠すと思うけど」
「……組織犯かもしれないですね」
「こんなイカれた儀式を指示してる奴らがいるってことかな」
俺たちは無言で顔を見合わせる。零子はこの村に多額の出資をしていた。彼女の背景に何かがいるなら納得がいく。
矢子はWi-Fiを上着のポケットにねじ込んだ。
「とにかくあの子たちを切り抜けて脱出しないと」
「今のところここまで追ってくる様子はありませんね」
俺が飛び込んだ穴から外の様子を窺おうとした瞬間、白眼のない顔面が視界を塞いだ。
「香琉くん、危ない!」
鮫島が俺に飛びついて後ろに引き倒した。十番の少年が穴に顔をねじ込み、入ろうと身を乗り出している。岩がゴリゴリと削れ、少年の身体が徐々に侵入してきた。
矢子が震える手でポケットから取り出したナイフを握る。
少年が掠れた声で叫んだ。
「か……れ!」
鮫島の太い腕から冷や汗と体温と震えが伝わる。彼は少年の言葉に耳を傾けていた。
「帰れって言ってる……?」
「え……?」
「ここは危険だから帰れって言ってるのかな……」
鮫島は誤解している。あの少年が同じ境遇の俺に危険を伝え、逃げろと告げているんだと思っているんだ。
「違うよ……」
俺はかぶりを振った。
「代われって言ってるんだろ」
少年の憎悪の叫びが炸裂した。
「じゅうはちばん! なんでおまえだけ!」
憎しみで歪んだ顔が鬼灯のように赤く膨れ上がり、爆ぜた。生温かい血と柔らかい脳漿の混じった雫が頰を打つ。頭部を失った少年の身体が、ずるずると倒れた。
返り血を浴びた鮫島が我を忘れて叫ぶ。
「会長、しっかり!」
「鮫島くん落ち着いて、今のうちに逃げないと!」
矢子が鮫島を無理やり引きずり起こした。
俺は穴に挟まった少年の死体を押し出す。頚椎の露出した首の断面から、ホースに残った水のように血が飛んだ。
穴から抜け出すと、美春が亡霊のように佇んでいた。
泣くような、笑うような声を漏らし、自分の首筋を掻きむしっている。縮れた髪から粘質な血が溢れて糸を引いた。
鮫島が荒い息をしながら美春を見つめた。
「この子が何でこんな目に遭わなきゃいけないんだよ……」
眼鏡に付着した泥と埃を、溢れる涙が洗い流す。
鮫島は矢子の手を振り解いて、美春に歩み寄った。
「……君のお母さんと妹さんに会ったんだ。ふたりともずっと君のことを想ってた。やっと見つけてあげられたのに……」
俺と矢子は鮫島の大きな背を見守る。美春の複眼が啜り泣く彼の顔を映し出した。
「お母さんと、知夏に、謝らないと……」
美春の口から漏れたのは先程の絶叫とは違う、掠れた声だった。
「お見舞い、来てくれたのに……帰れって、私、物投げつけて……それっきりだったから……」
鮫島は痩せこけた少女の腕に手を伸ばす。
「ふたりとも怒ってないよ……知夏ちゃん、優しいお姉さんだったって言ってた……」
美春は指先を痙攣させた。顔から表情が失われていく。彼女の顎が再び開き、金属を擦り合わせるような音が漏れ出した。
「会長、駄目だ!」
鮫島が振り返るのと、美春が腕を振り上げるのは同時だった。鋭い爪が鎌のように虚空を掻く。まずい。
洞窟の奥から眩い光が差した。
「全員離れるんだ!」
男の声が響き渡る。美春は素早く身を翻し、声の方に狙いを定めた。
彼女は猛然と駆け出し、見えない壁にぶつかったように仰け反った。和服の袖が少女の身体を抱き止めた。
美春は虫の眼から一筋涙を零し、解放されたような表情で事切れた。
祈祷師じみた長髪の男は、彼女の亡骸を地面に横たわらせた。滴る血が岩に染み渡る。菩薩のような安らかな顔だった。
「駄目だったか……」
男は静かに美春の目蓋を下ろし、呆然とする俺たちを見据えた。
「君たち、何を考えてるんだ! どんなに危険かわかってるのか! ここは……」
男は顔を背けて盛大に嘔吐した。
美春の亡骸に飛沫がかからないよう、ふらふらと壁に縋りつく姿に、今さっきまでの高潔さはない。
「貴方は……」
男は胃液を口の端から垂らして言った。
「
鮫島が目を剥く。
「久田って!
男は息も絶え絶えに頷いた。
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