祭壇.2

 行動するなら村人の目につかない夜がいい。視界の悪い山は危険だが、矢子がいれば何とかなる。

 幸い、死体騒動と尾崎からの宣戦布告で村人たちはいつもより活気がなかった。


 鮫島は時間を潰すついでに狐塚を見舞おうと提案した。彼は知夏の家で保護されているらしい。


 連綿と続く畦道を歩いていると、向こうに汗の染みた和服の背が見えた。初日以来見かけなかった、霊媒師じみた長髪の男だ。

 鮫島が苦笑いする。

「キャラが濃いひとなのに忘れてたな」


 男は張り詰めた形相で道端の神像を見つめていた。脂汗を吸った黒髪は雫で膨れ、たっぷりと墨を浸した筆のようだった。

 鮫島が彼に近づく。

「どうかしたんですか?」

「被せてあるんだよ……やっぱり被せてある……日本の信仰どころか宗教ですらない……」


 男は紫色の唇を震わせると、草履が脱げんばかりに駆け出した。一瞬で檜皮色の着物が遠ざかる。鮫島は呆れ混じりに首を振り、再び歩き出した。

 男の不可解な言葉がやけに耳に残った。



 知夏の家を訪れると、縁側で項垂れる狐塚の姿があった。傍には小さな膝を揃えて座る知夏の姿がある。ふたりは兄妹のように並んで木漏れ日を眺めていた。


 知夏の母が現れ、やつれた頰で微笑む。俺たちは会釈を返した。

「ご遺体見つかったんだってね」

「北の山で刑事さんが掘り起こしたそうです」

「……私もそうしていれば、美春みはるを見つけられたかもしれないのにね」

 俺たちは何も言えなかった。知夏の母は夜闇を切り取って貼りつけたような黒い山を見上げる。あの山に彼女の娘がまだ埋まっているかもしれない。


 知夏の母はかぶりを振った。

「狐塚くんが来てくれてよかった。あの子の世話をしている間は余計なことを考えなくて済む。知夏もたぶんそうだと思う」

 照りつける太陽が項垂れた俺たちの首筋をなぞる。

 これ以上いてもできることは何もないだろう。


 労いを伝えて帰ろうとすると、知夏の母が独り言のように言った。

「祟りだって、村のひとが言ってたでしょう。気にしなくていいからね。全部私たちが悪いの」

「そんなことないですよ……」


 彼女は生垣の向こうの神像を仰ぐように目を細めた。

「もし、神様が怒るんだとしたら、何でも神様のせいにする私たちに怒ってるのかも」

 俺は無意識に口を開いていた。

「人間を助けてくれない神なら大事にする必要はないと思います」

 鮫島が驚いて俺を見る。知夏の母は眉を下げて再び笑みを作った。


 帰り道、鮫島は舌触りを確かめるように何度も「祟りか」と繰り返した。



 日が暮れたのは十九時を過ぎてからだった。

 延々と空に居座っていた太陽は跡形もなく、世界から光が消えたような闇が横たわっている。


 矢子と合流してから俺たちは北の山に踏み入った。

 木々は鋼鉄の檻のように視界を塞いでいる。尾崎たちが掘り返したのか、道は所々穴が開き、木の根元に土の山ができていた。


 柔らかい泥に足を取られそうになりながら進む。

 数日前、犬居いぬいと先頭にここを歩いた記憶が蘇った。あの日見た木々のビニールテープはまだ残っている。


 つまづきかけた鮫島の腕を、矢子が素早く引いた。

「穴が多いから気をつけて」

「ありがとうございます」


 鮫島は頰を紅潮させたが、一瞬で顔を青く染めた。

「会長、どうしたの?」

「これ、木じゃないよな……」

 震える指で足元を指す。掘り返された土の奥底に、皿の破片のような白いものが埋まっていた。人骨に見えた。


 矢子は屈み込んで破片に触れる。

「骨に見えるけど、そうなら尾崎さんが見落とすはずないよね」

「動物でしょうか」

「そういうことにしよう」



 俺たちは爪先で穴に土をかぶせて先を急いだ。

 木々が途切れた箇所から崩壊した廃病院が覗いていた。黒く汚れた瓦礫が散乱している。


 迂回して山奥へと進むと、黒の中に茫洋とした赤が滲み出した。

 鬱蒼と茂る木々に埋もれた朱塗りの社が見える。鼓動が跳ねた。


 木造の社は近くで見ると、赤い塗装が剥がれ、陰鬱な木の色が露出していた。僅かに金箔が残る格子の扉は獣が裂いたように破れ、内部が伺える。

 落ち葉と雨水が溜まる中に、泥で汚れた神像が鎮座していた。


 社は狭く、隠し扉があるようにも見えない。拍子抜けしかけたとき、鮫島が言った。

「神社なのに鳥居がないな」

 確かに道のりにそれらしきものは見当たらなかった。参道と言えるものもほぼない。


 辺りを見回したとき、突き刺すような頭痛が走った。廃病院のときと同じだ。

 歪む視界に、見えないはずの光景が映る。鉄の棒を組み合わせたような武骨な鳥居と、人頭じみた岩で覆われた小道。石造りの古井戸。


 俺はこめかみを押さえて声を絞り出した。

「裏に何かあるかもしれない……」

 俺は戸惑うふたりを置いて神社の裏に回った。



 先程見えたのと同じ光景が広がっていた。錆びた鉄の鳥居は膝丈ほどもなく、道の中央ではなく両端にいくつも並んでいる。ガードレールのようだ。


 鳥居が導く先には岩の道があった。追ってきたふたりが同時に息を呑む。鮫島は本当に行くのかと目配せし、俺は頷いた。



 岩は左右と足元に敷き詰められ、魔物の下顎を覗き込んだようだった。暗く続く道を進めば丸呑みにされる想像が浮かぶ。


 矢子が眉を顰めた。

「道が狭くなってる。岩も高く積み上がってきてるし。というより、洞窟を切り拓いたのかな」

「通れるかな。ダイエットしとけばよかった」

 鮫島の空元気を吹き飛ばすように重い風が流れた。



 目の前の闇が濃くなった。違う、一切の光を通さない鉄の扉が道を塞いでいた。

 錠がかかっていたが、試しに指で触れると、抵抗すらなくごとりと足元に落ちた。

 俺はふたりを確かめてから、扉を押し開いた。



 獣臭と熱気が押し寄せる。洞窟の中は完全なる闇だった。

 壁をまさぐる矢子の手だけが辛うじて見えた。細指が何かの突起に触れ、虫の羽音に似た音と共に、黄色い明かりが灯った。


 異様な空間がそこにあった。


 天井から無数の緑の札が垂れている。湿気で千切れた紙が地面に散らばり、黴の匂いを立てていた。

 半紙に描かれた昆虫。地層のように堆積する溶けた蝋燭。

 どの宗教とも結びつかない装飾だ。


 道の両側には何枚もの鏡が設置され、俺たち三人の硬直した表情を何重にも映している。

 鏡の中の鮫島がスマートフォンのライトをつけると、光が乱反射して虚像が掻き消された。

「進もうか……」

 俺たちは濡れた石畳の上を歩き出した。



 染み出した水が断続的に足元を穿つ音だけが響く。遠近感を失いそうな虚像の回廊が途切れたとき、矢子が声を上げた。


 壁の左側に鏡の代わりに写真が貼られていた。

 廃病院の白黒写真と違い、画素の細かい最新のものだ。防水加工なのか、湿気でよれた様子もない。


 写っているのは、灰色のてらてらと光るゼリー状のもの。電極が何本も刺さっている。口に出さなくても三人が同じものを思い浮かべていた。人間の脳だ。


「何これ……」

 他にも写真があった。干物のように痩せた少女の背。謎の液体が入ったアンプル。石牢に中腰で佇む少年。血の海に沈むメスと鉗子。

 非人道的な実験の様子であることだけはわかる。



「香琉くん、こっちにも……」

 鮫島が指す方を見ると、右側にあるのは写真ではなく絵だった。物語を示すように規則正しく並んでいる。


 こちらはもっと不可解だ。

 一枚目は緑の球体がふたつ浮かぶ森とピラミッド。その頂点には十本足の昆虫がいた。


 次は、多くの虫たちが獣のような生物に口の針を刺し、脚で切り刻む虐殺の光景だ。


 しかし、その次の絵で虫たちは奇妙な触腕の生えたものに追われて逃げ惑っている。裏返った虫の死体も描かれていた。

 後は見たこともない風景を彷徨う虫たちの逃避行が続く。


 最後の絵を見て俺たちは皆、唾を飲み込んだ。

 少数となった虫たちが鋭利な足と硬質な羽根で目指しているのは、地球だった。



 鮫島が途切れ途切れに言う。

「全然わからないけどこの虫を祀ってるってこと? 常世虫とも弥勒菩薩とも関係ないじゃないか。何なんだよこれ……」

「わからないけど……」


 頭痛が激しくなっていた。暗さと不気味さから来る恐怖ではない、嫌な予感が背筋を伝う。



 ひたりと、裸足の脚が石床を打つ音が響いた。

 俺たちは振り返ってライトを向ける。

 真円の発光に照らし出されたのは、縮れた髪の少女だった。顔に赤黒い痣がある。海から上がってきたように全身を濡らし、雫を落としていた。


 彼女が知夏の姉なのか。俺は恐る恐る声に出す。

「美春……?」

 少女が顔を上げる。見開かれた目は人間のそれではない。

 無数の細かい球体が密集した、虫の複眼だった。

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