亡霊.6
二階から知夏と狐塚が降りてきた。
「知夏ちゃんマジでつえーわ。三勝二敗。おれのが一回多く負けてんの」
冷え切った空気を押し流す明るい声に、知夏の母が微笑を返す。こうしていると井綱家と変わりない、普通の満ち足りた家族に思えた。
もう数日連絡できていない養父母と義妹を思い出して胸が痛んだ。
母子に見送られて家を出た後、伸びた柿の木が見えなくなってから、俺たちは狐塚に先程のことを話した。
「狐塚さん、神社で幽霊みたいなふたりを見たの、覚えてますか?」
「覚えてるけど……幻覚じゃねえ?」
「四人一緒に同じ幻覚を見るなんて有り得ますか?」
狐塚は額を掻き、絆創膏に滲んだ血に気づいて慌てて手を下ろす。
「もし、知夏ちゃんのお姉ちゃんの幽霊だったらさあ、おれらじゃなく家族のところに行くだろ」
俺は答えられずに下を向いた。
鮫島はテリブルジャポンのTシャツで眼鏡を拭う。
「知夏ちゃんのお母さん、まだ娘さんの死に納得できてないように見えた。村を出て行ったり、警察に行ったりしないのかな」
「お祖父さんの介護も知夏ちゃんもいるし、難しいんじゃないかな」
狐塚がじりじりと燃える太陽に目を細める。
「大丈夫だって思いたいのかもなあ。おれもリーダーがたまにやべえことするなと思ってても、まあ大丈夫でしょって思ってたもん。仲間には甘くなっちゃうんだよな」
ムラ社会の悪い性質だと唾棄することはできなかった。俺だってクラスメイトが自分の椅子に座れないときも見て見ぬふりをしていたようなものだ。
俺たちは太陽に責め立てられるように、炎天下を項垂れて進んだ。
昼食を終えてから矢子の部屋を訪ねることになっていた。
鮫島はヤスリをかけるように汗拭きシートで何度も身体を拭う。全身から漂うシトラスの香りで噎せ返りそうだ。
「矢子さんに会うからってそんなに気を遣わなくても……」
「何言ってるんだ、香琉くん。エチケットだよ! 夏場は当然だ!」
俺は鮫島の大声を躱して矢子の部屋をノックする。扉を開けると、岬が童顔に似つかわしくない鬼女の能面のような表情で出迎えた。
「聞きましたよ。立ち入り禁止の廃病院に行って、あんなことになって、村のひとに迷惑もかけて! 最低ですね。恥ずかしくないんですか?」
「岬さん、いたんですか……」
「いちゃいけないんですか? 来いって言われたんですけど」
ベッドに腰掛けた矢子が合掌して詫びる。
「私もこってり搾られたんだけど、鮫島くんたちにも直接言わないと気が収まらないって……」
俺たちが苦笑いを返すと、「何がおかしいんですか!」と再び怒号が飛んだ。
岬は頭から湯気を立てる勢いで鼻を鳴らし、和綴じの古書を掲げた。
「矢子さんは村人から借りたって言ってますけど本当ですよね? 盗み出したなら今すぐ村長さんに伝えますから!」
矢子が視線で合図し、俺たちは勿論ですと頷く。冷房の効いた部屋なのに背中から汗が噴き出した。
岬はまだ怪訝な顔をしつつ、矢子の隣に腰を下ろした。
「くずし字は大学で習った程度ですが、少しは解読できました」
「流石岬さん」
「煽ても無駄ですよ。まず、神社を建てる際、他所から分霊を受けたとの見立てですが、それにしてはおかしいです。普通はどういった神格なのか記録があるはずなのにここには何もありません」
桜貝のような爪が筆文字を指したが、文節の区切れ目すらもわからなかった。
「つまり?」
「独自の神を祀ったとしか思えないんです。"ナトコ"という女性がそれを牽引したのは確かですが、彼女が巫女だと示す証拠もありませんでした。村で権力を持っていた家系の息女であると伺えますが……」
鮫島が口を挟む。
「めくらのみこ、っていうのがナトコさんじゃないんですか?」
「どうも人物を指す言葉ですらないようです」
「じゃあ、何ですか?」
「教典……でしょうか」
岬は歯切れ悪く言った。
「元は海外の言葉のようです。めくらのみこも日本に入る際、訛ったもので本来の発音とは違うかもしれません」
海外というとキリシタンが浮かんだが、あの神像はどう見てもそれらの信仰とはかけ離れている。
矢子は首を傾げた。
「日本の小さな村の神社が海外からの宗教に鞍替えして今まで守り続けるなんて有り得るのかな」
「何とも言えませんが、当時、村で神経に関する流行り病が起こり、村人が大勢死に至ったそうです。神頼みになったのも頷けます」
俺は手を挙げて言った。
「村のひとは三顎本尊は常世虫と弥勒菩薩を掛け合わせたものだって言っていました。生きるための知恵と力を授けるとか」
「本当ですか?」
岬は怪訝に眉を顰める。
「常世虫の由来は中国の三尸という説もあるので村の名前とも重なりますが、その線は薄いですよ」
「何故ですか」
「常世虫は青虫や蚕の類とされる幼虫です。昆虫のような脚はないはずです」
三顎本尊の背から突き出す、生理的嫌悪感を覚えるような脚がくっきりと思い出された。
「それに、常世虫がもたらすのは富ですよ。病気の治療に効くという話は聞いたことがありません」
調査は再び暗礁に乗り上げたようだ。岬は俺に古書を突き返した。
「もういいですか。これから図書館で壱湖ちゃんの読書感想文を見てあげる約束なんです」
「壱湖に?」
甲高い笑い声と、刑事を睨む視線が蘇る。彼女は零子に懐いていた。俺たちが村を嗅ぎ回っていることが漏れたら厄介だ。
「何でまた彼女に……」
「可哀想じゃないですか。こんな狭い村で不自由に暮らしていてるんですよ。女の子は結婚して子どもを育てるのが幸せだって思い込んでます。ちゃんと勉強させてあげないと」
岬は有無を言わさず、俺たちを押し退けて扉から出て行った。
鮫島が竦める。
「植民地主義っぽい考え方だな……」
「悪いひとじゃないんだけどね。行き過ぎなければ」
矢子は薄く笑い、天井を見上げた。
「これ以上、村に深入りしない方がいいのかも」
「どうしてですか?」
「冷たい言い方だけど、元々私たちに関係ない場所だよ。住民がこれでいいなら、私たちが口出しすることじゃない。適当に動画を作って、道が開通したら帰るだけでいいよ」
鮫島は彼女の高い鼻梁をじっと見つめた。
「矢子さん、何かあったんですか?」
「……昨日の深夜、外の空気吸いに行ったら、この窓の下に昆医院の院長さんと村長さんがいたんだ。他にも何人か村のひとがいて監視してるみたいだった」
鮫島は凍りついた表情で俺を見た。
「香琉くんも狐塚さんの部屋から飛び出したとき……」
「言わないでおいたけど、スマートフォンを持ったひとがいた。電波は通らないはずなのに」
室温が数度下がった気がした。
矢子は壁にもたれ、自嘲気味に笑った。
「村のひとが全員敵に回ったら逃げ場もないし勝ち目もないよ。もう考えないでおこう。廃病院で起きたことだって集団幻覚だったかもしれないしさ」
鮫島がこうべを垂れる。いつもの自信に満ちた表情とは別人のようだ。見ていられず、俺は彼の膝を古書で叩いた。
「香琉くん……」
「今夜ひとに会ってくる。この村が何を隠してるかを聞けるかもしれない」
「村人に会うの? 危険だよ。矢子さんだって言ってるじゃないか」
「大丈夫、そのひとは村の皆とはどこか違うから」
鮫島は心配そうに俺を見上げた。
陽が沈み、空の赤みと共に火照りが引くように気温が下がった。
紺碧の水田から蛙の鳴き声が聞こえ、波紋が広がると映り込んだ月も砕ける。俺は畦道を急いだ。
少しも減ったように見えない土砂の山が近づいた頃、人影が目につい。
夜に溶け込む黒い肌に、眼帯の白だけが際立って見える。
「来たのか」
二瀧は獰猛に笑った。
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