亡霊.5

 あのふたりは何者なのか。生者か、死者か。何を伝えようとしていたのか。考えるうちに眠りについた。


 翌朝、祭りで神輿を担いでいるような威勢の良い声で目が覚めた。

 朝日で拷問器具のように熱くなった窓のサッシに手をかけると、土砂で塞がれた道に男たちが集っていた。



 外はいっそう暑さが増し、燻された土と水と草の匂いが立ち込めていた。


 土砂の除去作業に当たる村人の中には零子や比十四といた若い男も混じっていたが、殆どが老人だった。

 古書のように皺とシミが散らばる肌に玉の汗を浮かべている。大きなシャベルを振るい、猫車で集めた土を運搬していた。


 老人に混じる、若く黒い肌が目を引いた。二瀧じろうだ。

 バスの中での態度とは別人のように、粛々と竹簀に乗せた土砂を運んでいる。黒いタンクトップ姿で、大人のように引き締まった腕に彫られた「二」の字を顕にしていた。


 面倒なことになる前に帰ろうと思った矢先、彼の右目が俺を捉えた。

 二瀧は竹簀を捨て、一瞬で距離を詰めた。泥だらけの手で拭った顔と眼帯が黒い筋を引いている。

「井綱香琉。死ぬなとは言ったが、よくあれで生き延びたな」

「……廃病院のことか?」

「生き埋めになるところだっただろ」

「偶然壁が崩落して逃げられたんだ」


 彼は更に俺に詰め寄った。

「とぼけるなよ。七年経っても問題なく"使える"んだな」

 村人たちの間から、知らないうちに駆けつけていた鮫島が不安げに見守っていた。俺は身を反らす。

「何のことだか……」


 二瀧は唇の端を吊り上げた。

「何も知らないお友だちの前じゃ話せないか。夜ここに来い。来ないならそっちに行く」

 泥が混じった汗が俺の爪先に滴り落ちる。二瀧は何事もなかったように作業に戻った。



 水田の泥は沈殿し、表面だけは清廉な色が戻っていた。飛んできた石に薙ぎ倒された稲は行き倒れのように傾いき、先端を水に浸けている。


 鮫島は憤慨しながら畦道を進んだ。

「あいつ、何で香琉くんにだけ絡むんだ。ヤバい奴なのか?」

「心当たりはないけど目をつけられたみたいだ」

「もしかして、昔の香琉くんのこと何か知ってるのかな」

 俺は口を噤む。呼び出されたことは言わない方がいいだろう。


 役場の前に、白い日傘が花咲いてるのが見えた。

 零子と比十四が言葉を交わしていた。


 零子は俺たちに気づいて会釈する。傾いた日傘の先に、焦燥でやつれた男の顔が覗いた。昨夜、宿泊施設の裏の林にいた男だ。脚にギプスをはめ、両手で松葉杖をついていた。


 俺は何も知らないふりをして近づく。

「おはようございます。脚はどうしたんですか?」

 男の代わりに比十四が答えた。

「廃病院の周囲を捜索している最中に足を滑らせたんですよ」

「それは……お大事に」

「幸い軽傷ですが、住民にこういった危険が及びますから、今後許可されていない行動は謹んでくださいね」

 俺たちが頭を下げると、男は諂うような笑みを浮かべた。




 大蛇のようなホースがとぐろを巻く民家や、ポンプ式の井戸を通り過ぎ、俺たちは知夏の家に向かった。詳しいことを聞けそうだから、と、鮫島の提案だ。

「狐塚さんに知夏ちゃんの相手をしてもらって、その間にお母さんから話を聞こう」

「話してくれるかな」

「昨日の様子じゃ思うところがありそうだし、いけると思う」


 鮫島は眼鏡を押し上げた。

「それから、矢子さんが岬さんを説得して資料の解読を頼んでみるって言ってくれたよ」

「知夏ちゃんのお母さんに話を聞くより難易度が高そうだ」

「死ぬほど嫌味を言われるのは覚悟の上だな」


 俺は既に青息吐息の鮫島を覗き込んだ。

「会長、いつの間に矢子さんと話を?」

「眠れなかったからロビーに行ったら偶然会ったんだ……香琉くん、変な誤解しないでくれよ! やましいことなんて何もないんだから!」

 含み笑いを返すと、鮫島は俺の背をバンバンと叩いた。



 木乃伊のように乾いたカカシや、何も生えていない小さな畑を横目に進み、知夏の家が見えた。

 生垣の葉は茶色く変色して、通路に長い柿木の枝が突き出している。手入れをする余裕がないのが見て取れた。


 合流した狐塚は腕のギプスはそのままだったが、頭の包帯を外していた。

「もう傷は大丈夫なんですか?」

「へーきへーき。邪魔だし、蒸れるし、それに、知夏ちゃんが気まずく思うじゃん?」

 何も考えていないような笑顔だが、前髪から覗く絆創膏が痛々しかった。



 磨りガラスの扉を叩くと、知夏の母が疲れ果てた笑みで出迎えた。

「来てくれてありがとうね。何もお構いはできないけど……知夏、ほら、お兄ちゃんたちが来たよ」

 ニスの剥げた廊下を踏む幼い足音が聞こえ、知夏が現れた。あの夜から会っていないが、怪我はなく、顔色も問題ないようだ。


 知夏は俺たちを見上げ、おずおずと言った。

「大丈夫だったの……? ユートさんも……」

 狐塚は素早く屈んで視線を合わせる。

「名前覚えててくれたんだ! 全然元気! 知夏ちゃんは?」

「大丈夫……」

「よかった! すげー可愛い顔だからさ。怪我してたらどうしようって心配だったんだわ」

 知夏は微かな笑みを浮かべた。


 知夏の母に促され、玉簾を潜って居間に入ると、むっとする熱気に混じって薬とし尿の匂いが鼻をついた。奥の襖が半分開き、古い樹木のような土色の腕が見えた。


「美春か?」

 しわがれた老人の声だった。知夏の母は溜息混じりに襖を閉める。

「お義父さん、お客さんですよ。美春はもういないの」

「知夏ちゃんのお祖父さんですか?」

「ええ、ちょっとボケちゃって」

「介護、大変ですね」

「元気な頃はいろいろお世話になったからね」



 知夏の母はレモン柄のグラスに麦茶を注いだ。庭の物干し竿に、医療用のコルセットとよれたパジャマのズボンが揺れている。


 俺と鮫島がどう切り出したものが迷っていると、知夏の母は察したように娘の背に触れた。

「お部屋で遊んできたら」

 知夏は狐塚の袖を控えめに引いた。

「ゲームする?」

「オッケー、何するの?」

 俺が引き止める間もなく、狐塚は席を立った。

「おれ聞いてもわからないからさ。後で教えて!」



 ふたりが立ち去り、静かになった部屋に扇風機が回る音が満ちる。緑の羽根に蚊取り線香の煙が切り刻まれた。

 黄ばんだ壁にセロハンテープで一枚の絵が貼られていた。白と黒の絵の具で冬の林を描いた寂しげな水彩画だ。知夏が描いたとは思えない。姉の美春だろうか。


 知夏の母も絵の向こうにあるものを懐かしむように壁を見つめていた。

「……何が聞きたいの?」

 俺は麦茶で乾いた唇を湿らせる。

「失礼とはわかっていますが、美春さんが亡くなったことについてです」

「昔から村でたまにおかしくなってしまうひとがいることは知っているでしょう? 夫の家系もそうなの。お義母さんもそれで亡くなったとか。病気は仕方ないことだけど……」


 知夏の母はグラスの水滴を指で拭った。

「美春の様子がおかしくなってから、お医者さんがすぐに入院させてくれた。うちにそんなお金はないと言ったら、零子さんが若い子の入院費は全て肩代わりしてくれるって」

 鮫島が瞳孔を震わせた。

「それで……」

「一週間後、急に容態が変化して亡くなったの。毎日お見舞いに行ってもそんな様子なかったのに。遺体は見ない方がいいからと、返ってきたのは骨壷だけ」


 俺は無意識に身を乗り出す。

「その頃、村で変わったことはありませんでしたか。美春さんの死と一見関係なさそうなことでも何か」

「香琉くん」

 鮫島の制止を、知夏の母は微笑で遮った。

「いいの。変わったことは、零子さんが村に新しい子を連れてきたことぐらい」

「新しい子?」

「中学生くらいの男の子。養護施設にいた持病がある子で、零子さんが偶然見つけて連れてきたの。病状がうちの村のひとたちと似てるからこちらで療養するって」


 それらしい子の姿はまだ見たことがない。鮫島が眉間に皺を寄せた。

「誰だろう。まさか二瀧か?」

「いいえ。彼もすぐ亡くなったみたい。ただ……」

 知夏の母は目を伏せた。

「あの子たちと同じように、腕に数字が刻まれていたの。十って」



 俺と鮫島は顔を見合わせた。神社と宿の裏の林で見た、あの少年だ。

「あら」

 知夏の母は腰を上げ、レースの埃除けをかけた棚に近づいた。面を伏せるように倒れていた写真立てを起こす。


 俺たちは声を漏らした。

 写真には四人が写っていた。今より若く元気そうな知夏の母と夫らしき男性、幼児用のツーピースを着た知夏。その隣で微笑む水玉のスカートの少女は美春に違いない。

 癖のある前髪で隠していたが、顔には赤黒い痣があった。

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