亡霊.4
狐塚は心配したのが馬鹿らしくなるほどの笑顔で俺たちを出迎えた。
「心配してくれたの? ありがたすぎるだろ。狭いとこだけど入って!」
「宿泊施設のひとに失礼ですよ」
鮫島は早くも後悔を顔に滲ませていた。小さな机にはチューハイの缶と柿の種が散らばり、ココナッツのような香水の匂いが漂っていた。
「この短期間でどうやってここまで散らかすんですか。ヤンキーの車の匂いがする……」
「マジ? リーダーの香水かな?」
片方のベッドは布団が捲られ、シーツに人型の跡がついている。死体よりも生々しい喪失の証に思えた。
狐塚に促され、俺たちは遠慮がちに
狐塚はしばらく視線を彷徨わせ、決まり悪そうに告げた。
「……実は昨日の夜、リーダーに言われてあそこにあった資料持ってきちゃったんだよね」
「駄目じゃないですか」
「ごめん、井綱くん! 資料貸す代わりにみんなには黙ってて!」
傍を見ると鮫島はぎこちなく右下を見ていた。普段なら真っ先にそういった行為を咎めるのに、と思っていると、彼は照れ笑いを浮かべた。
「実は俺も……理念と道徳に反するとは知りつつ、ただならぬものを感じて……」
大きなリュックサックから飛び出したのは、禍々しいシミで汚れた和綴じの資料だった。
「会長……」
「ごめんなさい、調査への貢献で罪滅ぼしするから執行猶予をください!」
鮫島が勢いよく頭を下げる。
俺は呆れつつ、盗品をベッドに広げた。
狐塚が持ち出した資料は焼け焦げたように変色して端々が千切れていた。僅かに判読できる文字もドイツ語らしく、大昔のカルテであることが予想できるだけだ。
何枚か捲ると、雑誌か新聞記事のコピーが現れた。書体も言葉遣いもひどく古い。鉛筆の走り書きで題が添えられていた。
「狐憑き退治の迷信、『郵便報知新聞』明治十年一月……」
記事には、妄想に取り憑かれた女が祈祷師たちに旧時代的な方法でお祓いを受けたことが簡潔に記されていた。
鮫島は待ち構えていたように解説を始める。
「明治になると西洋医学が導入されて、それまで信じられていた妖狐の祟りとかを迷信だと唾棄する風潮が現れたんだよね。今で言うと、知識人が似非科学を糾弾するのに近いかな」
狐塚が真面目な顔で頷く。
「狐か。他人事じゃねえわ」
「名前が同じだけでしょう。茶々いれないでください」
鮫島の方が詳しいだろうと、俺は手にした資料を預ける。彼は素早く紙束を捲った。
「こっちは香川修徳の『一本堂行余医言』。江戸時代に早くも狐憑きを精神疾患だと論じた書籍だね。次は陶山大録の『人孤弁惑談』。地方によって人間に取り憑くとされる妖魔の実態をひとまとめにしたんだ」
「鮫島くん、こっそり大学行ってない? いや、おれよりすげえわ」
鮫島は狐塚の言葉を無視し、次々と資料を確認する。
「全体的に人間に憑依して問題を起こす"憑きもの"に関しての資料だな。あとは、ムラ社会で排斥された、心身に問題のあるひとが取り憑かれやすい点にも着目してる。あとは、イズナっていう霊を使役して他人を呪った呪術師についての事件も……相当マイナーなところまで調べてるな」
狐塚は包帯を巻いた頭を抱えて唸った。
「じゃあ、あの病院は霊に取り憑かれたひとを集めて何かしようとしてたってこと?」
「何かって?」
「悪霊を操作できる最強の軍団を作ろうとしてたとか」
「漫画の読みすぎですよ」
俺は鮫島が盗ってきた方の和書に触れた。
「こっちは病院の資料らしくないな。何が書いてあるんだろう」
貼りついた頁を注意深く剥がすと、一枚の白黒写真が落下した。写り込んだセピア色の社と神像には覚えがある。俺たちが今日行った神社だ。
社は真新しくしっかりと建っている。周囲には村人らしき人物たちと、緋袴の女がいた。女の長髪の部分だけ色褪せ、白抜きしたように見えた。
鮫島が首を伸ばした。
「神社が建てられた当時の様子だな」
改めて資料を捲ると、最初の頁に筆文字で一言記されていた。めくらのみこ。
「会長、盲目の巫女ってことか?」
「たぶん。ここに映ってる女性を指すのかな。写真の日焼けが激しくて顔がほとんど見えないけど」
狐塚が写真に顔を近づける。
「日焼けっていうかこれ、白髪じゃないの? 零子さんみたいな」
俺と鮫島は同時に喉を鳴らす。ぼやけて周囲の光景と混じった頭部は、確かに白髪にも見えた。
零子と神社、廃病院、知夏の母の言葉。
俺は不穏な予感を掻き消して古書を開き直した。記録は全て流れるようなくずし字で書かれていた。
所々読み取れる字だけなぞると、「外なる神」「なとこ」「白痴」「虫」「しもべ」などが浮かび上がった。
鮫島は低く唸る。
「白痴は今じゃ差別用語だけど、精神病患者に使われた言葉だよね。やっぱり憑きものの治療のために外部から分霊を受けて神社を建てたってことかな。虫の神様に下僕として信仰を誓うとか……?」
「くずし字を解読できそうなひとはいるかな。
「あのひとに廃病院から資料を盗みましたって言う気か? 絶対駄目だよ! 最終日までネチネチ叱られるに決まってる!」
鮫島は身震いし、ベッドに倒れ込んだ。
「全貌が掴めそうで掴めなかったな。素人じゃ限界があるか……」
「頼りになんなくてごめんなー」
「狐塚さんには期待してないので大丈夫です」
狐塚はあっけらかんと笑う。
俺は和綴じの背表紙をなぞった。
「でも、村人が何かを隠してるのは事実だと思う」
「そりゃそうだけど……」
「神社で社の後ろに誰か隠れてただろ。あれは村長と昆医院の医者だ」
狐塚が首を傾げる。
「いつ見えたん? おれ全然わかんなかったけど」
鮫島は枕から顔を上げ、くぐもった声で言った。
「言わなかったけど、香琉くんってたまにそういうときあるよね。見えないはずものが見えてるっていうか」
「マジ? 井綱くんも超能力少年だったんだ!」
「誰も超能力は使えませんってば」
俺は曖昧に笑って本をしまおうとした瞬間、頁の間から乾いた蜘蛛の死骸が零れ落ちた。
狐塚が飛び上がる。
「うわ、気色悪っ! おれ蜘蛛ダメなんだよ!」
「もう死んでるから大丈夫ですよ。すぐに捨てます」
俺はティッシュで蜘蛛を掴む。狐塚は背を向けて壁に張りついていた。この様子では部屋に置いて帰る訳にもいかない。
外に捨てようと窓を開いた瞬間、外の林が夕陽を反射して煌めいた。
木々の間から鏡を傾けたように光が漏れていた。俺は目を凝らす。節くれだった幹の影から、スマートフォンを手にした人物が見え隠れする。まだこの村の通信は復帰してないはずだ。
「井綱くん、もう捨てた?」
狐塚は顔を手で覆っていた。俺に気づいたのか、林の中の人物は一歩後退った。
「外に捨ててきます」
俺は狐塚の部屋を飛び出し、ロビーを抜け、重たいガラス戸を押す。
夕日は急速に傾き、林に触れる空の裾はどす黒かった。
俺は一足早く夜に染まったような暗い林に足を踏み入れた。スマートフォンを持っていた人物は見覚えがあった。初日に比十四と一緒にいた男だ。
濡れた落ち葉を踏みしめながら進むと、背後に影がちらついた。俺は息を殺して振り返る。
佇んでいたのは例の男ではなかった。
神社で見かけた、亡霊のようなふたりだ。痣のある少女。腕に十と彫られた少年。
彼らは何かを訴えるように俺を見つめると、昼間と同じように姿を消した。遅れてくぐもった悲鳴が響き、木々が一斉にざわめいた。
後には虫の声が聞こえるばかりだった。
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