亡霊.3
幻影が消えても、俺たち四人は動かなかった。全員が今見たものは現実か決めかねていた。
狐塚の声が静寂を破った。
「痛え……」
我に返ると、彼が頭を抱えてしゃがみ込んでいた。額の包帯から滲んだ血が顎を伝い落ちている。
矢子が素早く狐塚の頭にタオルを押し当てた。
「ちょっと! 大丈夫?」
「傷開いちゃったみたいで……」
「ちゃんとタオル押し当てて。手足の痺れはない? 呂律が回らないとかは?」
狐塚は力なく首を振る。鮫島が彼の腕を肩に回した。
「病院まで運ぼう。香琉くん、手伝って」
俺と鮫島はできるだけ揺らさないよう、狐塚を担いで坂を降りた。血は既に固まりかけていたが、顔色が青白い。
「病院遠いな! 思ってたより村が広い!」
鮫島が苛立ち気味に叫んだとき、古びた自転車に乗った中年の女が通りすがった。縮れた髪と疲れ果てた目元にどこか覚えがある。
女は俺たちを見るなり、目を見開いた。
「ど、どうしたの」
「昨日縫った傷口が開いてしまったみたいで……」
女は唇を噛み、ひどく狼狽えた後、意を決した言った。
「乗って、おばさんが病院まで連れて行くから」
サドルの後ろに狐塚を乗せると、彼女は思い切りペダルを踏んだ。ジーンズの下の棒のような脹脛からは想像できない力で自転車を漕ぎ、彼女は一瞬で遠ざかった。
俺たちが必死で追いかけ、
医院の内部は日めくりカレンダーや、点で気孔を記した手の模型が飾られ、昭和のままのようだった。
医者はミミズクのような太い眉毛を下げる。
「元気なのはいいことだが気をつけてくれよ。ただでさえ土砂崩れで物資が届くまであと一週間はかかるんだ」
狐塚は真新しい包帯を押さえて頷く。医者はすぐに笑みを作った。
「応急処置がしっかりしていたお陰で大事に至らなくてよかった。矢子くんに感謝しないとな」
「いや、本当っすね……」
「君たち、神社に行ってたのか?」
俺と鮫島は身を強ばらせた。
「何故わかるんですか?」
医者の妻が奥から冷茶を盆に乗せて現れた。
「あの坂の上には神社しかありませんから。お若いのに興味がおありなんて珍しいですね」
「今はパワースポットといって若者にも人気らしいぞ」
夫婦は仲睦まじく笑う。
鮫島は冷茶を一気に煽って言った。
「パワースポット大好きなんですよ。いいですよね。あの社にいらっしゃるのはどういった神様なんですか」
「三顎本尊といってな。虫のような姿だから少し不気味に映るかもしれないが、ありがたい守り神なんだ」
「常世神にも似ていますね?」
「あら、本当にお詳しいんですね」
医者の妻は控えめに微笑む。
茶のグラスに手を伸ばそうとすると、鞄につけた小袋が肘を軽く打った。養母からもらった香合守だ。
俺はふと思い出して尋ねる。
「ここの神様は足は虫ですが顔は人間ですね。観音様のような……」
「その通り。お顔は弥勒菩薩なんだ」
俺は縮緬の袋から御守りを出す。栗の実のような木の中に彫られた安らかな顔は確かに似ていた。
「昔からこの村はたまに精神を病んでしまう者がいてな。その上、土砂崩れで道が途絶えて、治療しようにも医者も呼べない薬もないということが度々あった。だから、お救いくださる神様を祀ったんだ」
医者の妻は白髪混じりの神を耳にかけた。
「今は零子さんが女神様のようなものですねえ」
「零子さんが?」
「元は曽祖母様がこの村のご出身だったとかで、都会で成した財を惜しみなく村の復興に当ててくださるんですよ」
「図書館の方も仰ってましたね」
「村の信仰を迷信と笑わずに大事にしてくださって。北の山に新しく神社を建ててくださったんですが、結局病院が移転すると同時にあちらには誰も行かなくなってしまいました」
「君たちも危ないから二度と行くんじゃないぞ」
医者は冗談めかして目を三角にする。矢子は何かを逡巡するように明後日の方向を見た。
狐塚を残して病院を出ると、彼を送ってくれた女が所在なさげに佇んでいた。俺たちは会釈する。
「さっきはありがとうございました」
「感謝するのはこちらの方で……」
女は深く身を折る。俺たちが戸惑っていると、彼女は濃いクマのある目を細めた。
「知夏の母です。昨夜は娘がご迷惑をおかけしました」
癖のある髪に覆われた薄幸そうな面差しが少女に重なった。
知夏の母は悲鳴じみた音を立てる自転車を引いて畦道を歩き出した。
「貴方たち、あの病院に行ったの?」
俺たち三人は首肯を返す。
「あの子も目を離すとすぐに忍び込もうとするの。
「知夏ちゃんのお姉さんは……」
「亡くなりました。神経に問題があってね。身体の弱い子だったの」
鮫島が言いづらそうに唇を開く。
「失礼ですが、遺骨を返されたとき、別人だと仰ったと……」
「そんなことまで話してたの」
知夏の母は道端の神像を眺めて一度足を止めた。
「最初は受け入れられなかっただけ。今はもう気持ちに整理がついたから大丈夫。あの刑事さんとは違う」
「刑事って尾崎さんですか」
「ええ、親身になってくれたけど途中からついていけなくなった。突拍子もないことを言うんだもの。病院で人体実験が行われてるとかね」
廃病院の禍々しい器具の数々が蘇った。
「零子さんやお医者様が精神に問題のあるひとたちを集めて怪しい実験をしてるって言うの。奥さんのことがあってからね」
「尾崎さんの奥さんも、知夏ちゃんのお姉さんと同じように……」
「怒りのやり場がないのはわかるけど、これ以上村を荒らすのはやめてほしいですよ。そんなことある訳ない」
知夏の母は自分の影を見下ろした。
「それに、もしそうだったとしても、零子さんの出資がなければ村は存続できないんだから」
固い声に俺たちは言葉を失う。知夏の母はかぶりを振って無理に微笑んだ。
「変な話をしてごめんね。知夏が会いたがってるから、今度よければうちに来て」
彼女はさびた自転車に跨った。傾きかけた日が啄むように首筋を照らした。
宿泊施設に戻ると、蒸し暑い外とは別世界のような冷気が俺たちを出迎えた。
ロビーの机の上、色褪せた黄色いケースに弁当が並んでいた。鮫島は早速味噌カツ弁当を取る。
「飯の心配がないのは助かるな。Wi-Fiが復旧しないのは痛いけど」
「俺も昨日から家族に連絡できてないんだ。心配してるかな」
「それもそうだけど、今夜は
「こんなときでも会長はオカルトマニアだな」
「今回はすごいんだよ! 冷泉が唯一認めた本物の霊媒師、
鮫島は虚空に向かって熱弁する。霊媒師といえば、初日に村で見かけた和服の男の姿を見かけない。鮫島の見立てでは彼も祈祷師の類のようだ。
あの男に言われた言葉が脳裏を過った。ひとを殺したのか、と。
鮫島は俺の憂いを素早く読み取ったのか、明るい声を出した。
「そうだ。今日の調査で気になったことがあるんだけど、狐塚さんの部屋に行って話し合わないか?」
「狐塚さんと? 苦手なタイプだと思ってた」
「苦手だし、あのノリは疲れるけど、目の前で仲間が死んで怪我もして落ち込んでるだろ。ひとりにしない方がいいんじゃないか」
「会長は優しいな」
「本当だよ。俺がモテない世界が間違ってる」
鮫島は俺の背を叩いて急かす。
ロビーを抜ける直前、視線を感じた。振り返ると、零子の右腕、比十四がいた。
いつから立っていたのか。会話を聞かれたかもしれない。
俺と目が合うと、彼は目を更に細めて視線を返した。
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