亡霊.2

 バンは零子を轢きかねない距離で停まり、猛然と排気ガスを上げた。

 狐塚と村長が後退りする。


 勢いよくバンのドアが開き、三十代ほどの男が咥え煙草で降りてきた。

 真夏だというのに寄れたトレンチコートを着込んでいる。元は彫りが深く端正な顔立ちだったのだろうが、目の下のクマとやつれた頬がそれを打ち消していた。


 刑事は零子に煙を吹きかけるように近づいた。

「またお前らか」

 零子は手で煙を払い、微笑を浮かべた。

「刑事さん、ご足労いただきありがとうございます。外と連絡が取れなくて大変ですね。貴方には好都合かしら」

「ああ、俺の好きにやらせてもらう。お前らには不都合だろうな」


 少し離れた場所に立つ九恩と壱湖は、注意深く彼を睨んでいた。隙を見せればすぐに食らいつきかねない目つきだった。


 零子は笑みを崩さず、俺たちに向き直った。

「こちらは村の刑事の尾崎おさきさんです。きっと力になってくれますよ。些細なことでも独自でずっと調査を続ける、とても熱心な方なの」

 尾崎は鼻で嘲笑を返した。



 村人に伴われて矢子が現れる。

 尾崎は鋭い目つきで彼女を見下ろした。

「で、バカ大学生が何をやった?」

 矢子は殊勝に俯いて見せる。


「昨日の夜、散歩してたら犬居くんたちが北の山に向かうのを見たんです。止めようと思って鮫島くんと井綱くんと追いかけたんですが……」

「村人に報告もなしで、か?」

「焦って判断力を失ったと反省しています。それから、知夏ちゃんが廃病院に入っていくのが見えて、そこからは皆で保護しようとしたんです。結果、崖崩れで……」


 廃病院、と聞いた尾崎が眉を動かした。

「お前ら、あの病院で何か見たか?」

「暗かったですし、必死だったので覚えていません」

 矢子が目を伏せると、尾崎は盛大に舌打ちした。

「馬鹿な若者にははなから期待してねえ。病院は俺が改めて捜査する。三人の死体も見つけてやるよ」


 零子が笑顔を貼り付けたままにじり寄った。

「既に我々が探していると言ったはずですが」

「お前らは信用できないからな。そこのガキ共もだ。余所者が入り込むとろくなことが起きねえ」


 いつの間にか周囲に群がっていた村人から潜めた声が上がった。

「デカい面しやがって。お前も余所者じゃねえか」

 尾崎が険しい表情で村人を睨む。黙り込む集団の中から笑い声が漏れた。

 壱湖は唇の端を吊り上げ、奇妙な仕草をした。左手を筒状にして、右手の拳で殴りつけるような。


 尾崎が煙草を地面に投げ捨て、素早く壱湖に歩み寄り、胸倉を掴んだ。

「てめえ、クソガキ!」

 壱湖が悲鳴を上げる。村人たちと九恩が数人がかりで尾崎を引き剥がした。

 彼は捕獲された猛獣のように吠える。

「覚悟しろよ。俺はまだ忘れてないからな」


 尾崎は村長に頭を押さえつけられながら、俺に視線を向けた。

「それから、お前もだ」

 言葉の意図が取れず、俺は聞き返す。

「聞いたぞ。お前も腕に数字が入ってるんだってな」

 俺は息を呑んだ。尾崎の充血した目が正面から俺を見据えていた。

「俺は全員を見張ってる。下手踏んでみろ。逃げられると思うなよ」

 俺は村人たちに押されて去っていく尾崎のトレンチコートの背を見つめ続けた。


 彼の姿が見えなくなってから、前歯の欠けた老女が俺に言った。

「気にすんじゃないよ。あいつは疫病神だ」

 暗渠のような歯の隙間から憎悪と軽蔑の言葉が漏れる。

「刑事だからって幅効かせてるけど、あの男はこの村の女に婿入りした余所者でね。てめえの嫁の頭がイカれて死んだのを、病院と出資者の零子さんのせいにして目の敵にしてんのさ」

「奥さんが亡くなったんですか」

「尾崎の嫁はおかしくなって山を駆け回って怪我したんだ。それをあの子たちに酷い目に遭わされって言うんだよ。夫婦揃ってアレだよ」

 老女はこめかみをトントンと叩く。俺は九恩と壱湖を盗み見た。


 長い顎髭を蓄えた老人が苦笑いで会話に混じった。

「ちゃんと診断書もあるってのに聞かんのですわ。挙句、捜査だ何だと未だに村を引っ掻き回してね。要は厄介者です」

 彼は村唯一の医者だという。病院が移転する前はあの廃病院を経営していたということだ。

 医者らしくない藍染のシャツを着てひとが良さそうに笑う老爺と、院内の禍々しい設備は、考えても結びつかなかった。


 医者の妻らしき気弱そうな老女が身を縮めた。

「でも、今の時期に土砂崩れなんて縁起でもないですねえ」

 鮫島が目ざとく首を伸ばす。

「今の時期というと?」

「昔はもうすぐお祭りだったんですよ。年寄りばっかりだし、今の時代に合わないってやらなくなったんですけど。神様が怒ってるんじゃないかってねえ」

 村人たちは気まずそうに顔を背ける。医者の老人だけが矍鑠と笑った。

「お前まで迷信じみたことを言うもんじゃないよ。さあ、男衆は土砂を退けに行かないとな」



 村人たちが解散したのを見計らって、矢子が俺たちの元に訪れる。

「大変なことになっちゃったね」

「矢子さん、刑事さんに言ったこと、事実とだいぶ違いませんか?」

「死人に口なし。あんな話しても信じてもらえないだろうしね」

「死人って……」

 矢子は唇に人差し指を押し当てる。


「井綱くんは覚えてないかもしれないけど、山から帰るとき、私たち三人の死体を見たんだよ。瓦礫に潰されてた。見つからないはずないんだよ」

 鮫島が青い顔で頷いた。

「刑事さんの話は極端だと思うけど、村のひとたちは何か隠してる気がする。自分たちが招いた配信者が事故死したとわかったら体裁が悪いのかもしれないけど……」


 俺は昨夜と変わらず黒々と聳える北の山を見上げた。

「村の祭りの話といい、何か見えてきそうだな」

 鮫島は一変して頰を紅潮させた。

「そう! 絶対何かあるよね! 今まで遠慮してたけど、巻き込まれたとして俺たちには事実を知る権利があるよ! 調べてみよう!」

「会長はわかりやすいな」

 俺は苦笑してから村を見回す。柄になく寂しげに佇んでいた狐塚と目が合った。



 村の信仰を調べるにはまず神社に行こうと決めたが、鮫島は浮かない顔をしていた。

 矢子だけでなく狐塚が同行するのが気に食わないらしい。

「何で迷惑配信者の仲間を連れて行くことになっちゃうかな……」

 狐塚は先程の憂いを吹き飛ばしてしきりに喋り続けている。

「そりゃ仲間の敵討ちには参加するでしょ! 絶対この村なんか隠してるって。リーダーたちが拉致されてるかもしれないんだから早く探してやらないと」

「敵って言ったり探すって言ったり。死んでると思ってるんですか、生きてると思ってるんですか」

「あ、そっか!」


 神社へと続く緩やかな坂道を登りながら、彼はひとり納得したように頷く。

「崖崩れとかやばいし、俺は見てないけど矢子ちゃんはすげえ怖いもん見たらしいじゃん? おれ、村に呪術師とかいると思うんだよね」

「漫画じゃないんだから……」

 矢子が呆れた声を出した。



 進むごとに空気は冷たくなり、周囲の木々の密度も増して、陽の光が遮られた。木の葉の影が天蓋のように頭上を覆う。

 湖の底に似た青い森の中に、苔むした石の鳥居が立っていた。

 奥へと続く石畳は瘡蓋のように剥がれ、傾いた木の社が見える。長年誰も手入れしていないとわかる有様だ。


 鮫島が率先して鳥居を潜り、社へと駆け寄った。後を追うと、村でも見かけた木彫りの神像が目についた。崩れた社を笠のように被った安らかな顔の後ろから、虫の足が生えている。


「三顎本尊……」

 鮫島は社にもたれかかる看板の文字を読み上げた。ほとんど腐り落ちて判読できないが、僅かに筆文字が残っている。三顎本尊は守り神で、村人に生き抜くための知恵と力をもたらしてくれるらしい。


「抽象的でよくわからないな……」

 鮫島は眉間に皺を寄せた。狐塚が首を傾げる。

「力って超能力みたいな? だったら、崖崩れを起こしたのもこの神様なんじゃない?」

「狐塚さんは黙っててください」


 矢子は看板を睨みながら呟いた。

「言うか迷ってたんだけど、あの病院が崩れるとき……」


 言葉を遮るように、木々がざわめいた。

 社の後ろに誰かいる。俺たちは咄嗟に身構えた。


 茂みの中から慌てて身を隠すような物音が漏れる。矢子が短く言った。

「猪か何かかも。危ないから行こう」


 俺たちは踵を返しかけ、立ち尽くした。

 社と反対側に、ふたつの人影がある。

 高校生くらいの縮れた髪の少女と、それより僅かに幼い青白い顔の少年だった。

 少女の顔には赤黒い痣があった。少年の剥き出しの腕には、十と彫られていた。


 俺たちが言葉を失っていると、瞬きの間にふたりは消えていた。

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