亡霊.1
***
生臭い熱気が満ちる暗闇に、一際黒い影が伸びていた。
燭台の炎の照り返しを受け、血を塗ったように輝く神像がある。大きさは周囲を取り巻く子どもたちの背丈の二倍はあった。
少年少女は白布の下の顔を不安に歪める。
普段、洞窟に鎮座している像はそれよりも小さかった。中心にあるのは安らかな顔だったはずだ。
半ば岩に埋もれたその像は、鎧兜じみた昆虫の頭を模していた。表面はニスを塗ったように黒く光り、炎の反射で血の涙を流しているように見えた。
脚は左右で五本ずつあり、生々しい産毛が風に揺れていた。背には薄い羽根があったが、青銅を張り合わせたような鱗で覆われ、蝉というより翼のようだった。
腕に十八と彫られた少年が怯えた声を出す。
「何この像……」
「像じゃないわ」
女の声が答えた。呼応するように、虫が産毛の生えた脚を蠢かせる。
十八番は悲鳴を上げて飛び退いた。虫の頭部の襞から伸びた口は熱気を啄むように上下していた。
女の声が岩に反響する。
「こちらに在わす方がお前たちに力を与えてくれているの。遥か遠くから訪れ、我々に叡智と技を与えてくれる。気に入られるようにちゃんとお仕えしなさい」
たじろぐ子どもたちの中で、二番の少年が進み出た。彼は棒切れのような腕で石を握り、鎮座する虫に向かって投擲した。虫の複眼に灰色の石が分割されて映り込む。
弧を描いて飛んだ石は、空中でガラス細工のように砕け散った。子どもたちが息を呑む。
闇の中から影のように黒服たちが訪れ、二番を打ち据える。女が呆れた声を漏らした。
「無駄死にしたくないなら試すような真似はやめなさい。お前たちがこの方の力を使いこなすことができたら、ここから出られるのよ」
子どもたちにどよめきが走った。
燭台の灯りが届かない洞窟の奥で、十八番は膝を抱えた。
「六番、さっきの先生の話って本当かな」
六番は答える代わりに、ひとの頭より大きな岩に触れた。ぴしりと鋭い音の後、岩は無数の欠片となって崩れ落ちた。十八番が微笑する。
「六番は心配いらないね。僕は全然駄目だ」
「あの女の言うことを本気にするな」
六番は平坦な声で答えた。
「どうして?」
「奴は希望をチラつかせるだけの詐欺師だ。自分は力を与えられなかったくせに、俺たちに先生だとか教祖だとか大母と呼ばせて従わせてる。俺たちを使い潰すつもりだ」
涼やかな声が割り込んだ。
「そうだね。警戒するのは正しいよ」
十八番が身を竦める。闇から浮き上がって見えるほど色白な少年が立っていた。
「九番……」
九番は白布の下で口角を上げた。
「六番は最近大人しいね。前の君なら僕を洞窟の先まで吹っ飛ばしてたのに」
六番は身じろぎもせず九番を見据えていた。
十八番が取りなすようにふたりの間に立つ。
「九番、警戒しろってどういうこと?」
「昨日、教祖が話し合っているのを盗み聞きしたんだ。もうすぐ儀式がある」
「儀式って何をするの?」
「殺しだよ。あの神は何より血と残虐を好むらしい」
「そんな……」
「神に自分の力を示せた子はここから出られるのは本当らしい。でも、それはひとりだけだ。思うに、僕たちを殺し合わせるんじゃないかな」
震える十八番を余所に、九番は夢想するように洞窟の天井を見上げた。
「誰が選ばれるだろうね。神と気質が似ているのは十五番だ。最近、六番に代わって二番が目立ってる。僕は無理だろうな」
九番は急に声音を変えた。
「怖がらないで、十八番。希望はあるよ」
「何……?」
「みんなで神様に選ばれればいいのさ。そうしたらみんなでここを出られる」
血管が透けるほど白い手が十八番の両肩に置かれた。
「僕たちが顔を隠されてるのは仲良くなって協力するのを防ぐためさ。教祖は怯えてるんだ。僕たちが力を合わせれば何とかなる」
六番が鋭い声で言った。
「裏切り者を紛れ込ませるためじゃないか」
「何?」
「俺たちはお互いの顔を知らない。ここから逃げて布を外せば誰が誰かわからない。逃げた先で、教祖の手下が仲間のふりをして近付いて俺たちを殺せるように仕組んでるんだ」
九番は肩を竦めた。
「何にせよ、このままじゃ死ぬだけだよ。生きるためには儀式を切り抜けないと」
十八番が俯く。
「わかってるけど……」
「わかってるのと対処できるのは違う。知恵と力をつけて、みんなでここから出よう」
遠くから伸びる火の影が風もないのに揺らいだ。
***
「
目を開くと、脂汗でゼラチンのように光った
鮫島は俺を眺めてから深く息を吐いた。
「よかった。昼になっても目を覚さないからどうしようかと……」
「ごめん、魘されてた?」
鮫島は一瞬表情を曇らせ、言いづらそうに呟いた。
「魘されてたっていうか……笑ってた」
俺は口元を拭う。冷房の風で乾いた唾液が貼りついていた。
眠気が徐々に覚めると同時に、昨夜の光景が蘇る。あれも悪夢の一環だったのではないかと思いかけた。鮫島は考えを見透かしたように首を振った。
「着替えて飯を食ったら行こう。いろいろまずいことになってる」
宿泊施設を出て、自分の目を疑った。
昨日まで青空を映して清廉に輝いていた田園が泥水で濁っている。理由は明白だった。
三顎村への唯一の道、俺たちが通ってきた森が新しくできた山で覆い隠されている。堆積した土砂の間から、巻き込まれた木々が悲惨に突き出していた。
除去するのにどれほど時間がかかるだろう。
鮫島の軽口の通り、この村は外界から隔絶された空間になった。
「昨日からWi-Fiも繋がらないんだ。連絡が取れない」
鮫島が肩を落とす。スマートフォンを開くと、確かに電波は通らず、昨夜養父母から送られてきたメッセージの通知も開けなかった。
俺は土砂崩れの跡を眺めつつ、ふと思う。
「会長、俺たちが昨日行ったのは北の山だよね。何で反対側の道が崩れてるんだ」
「村長曰く、地盤が緩いから一箇所に地震が起こると別の場所も連鎖的に崩落するらしい。昔から何度も被害が出てるみたいだ」
鮫島は憎らしいほど眩しい太陽に照らされる畦道を歩き出した。
「会長、あれから他のみんなは?」
「
「ごめん……」
「君のせいじゃないよ。
俺は唾を飲み込んでから言った。
「あの大学生三人は……?」
「それが、死体が見つかってないらしいんだ」
「そんな訳ないっすよ! ちゃんと探してください!」
向こうから声が響いた。金髪の上から包帯を巻き、腕をギプスで吊った狐塚が、村長と
村長が汚れたタオルで額を拭いながら彼を嗜めた。
「落ち着きなさい。傷を縫ったばかりなんだから……」
「おれのことはいいんすよ! 三人が見つからないっておかしいじゃないっすか!」
零子はレースの日傘から白髪を靡かせて言った。
「厳しいことを言いますが、北の山は立ち入り禁止と伝えたはずです。あそこは危険で、一度踏み入ったら村人でも捜索が困難ですよ」
いつになく厳しい口調だった。
「不幸なことに、土砂崩れのせいでただでさえ人手不足です。
村長が作り笑いを浮かべる。
「バツが悪くて隠れてるのかも知れませんからなあ。ほとぼりが冷めれば帰ってくるでしょう」
狐塚は唇を噛み締めた。包帯には痛々しい血が滲んでいた。
声をかけるべきか迷っていると、けたたましいエンジン音が聞こえた。
畦道の向こうから古びたバンが土煙を上げてこちらに向かってくる。荒々しく蛇行運転する車は小石を跳ね上げ、道端の神像を打ちつけた。
零子が目を細める。
「よかった。ちょうど刑事さんが来ましたよ」
言葉に反して、彼女の視線は仄暗い敵意に満ちていた。
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