侵入.4
矢子が吸殻を灰皿に捩じ込み、俺たちは通路に出る。
後方の女はしきりに口元で手を動かしていた。棒状のものを出し入れし、唇から液体を零している。
前を歩く女が振り返らずに言った。
「リーダーもユートもよく飽きないね。サラ、何してんの?」
「くひのなか、ひもひわるふて」
くぐもった声は歯を磨いているようだった。矢子が怪訝な表情をする。
「井綱くん、何て言ったか聞こえた?」
「口の中が気持ち悪くて、ですかね」
女は手を動かし続けていた。
俺たちは後をつける。ふらふらと歩く女の口元から何かが溢れてべしゃりと床に落ちた。
古い布の端切れのような、ねっとりと糸を引く何か。
矢子が足を早め、女の肩を掴む。止めようとしたが遅かった。振り向いた女の手に握られていたのは、先程の部屋にあった鉗子だった。
「くひのなか、なんはいるんだけろ、らしてくんない」
矢子が悲鳴を上げた。女の口は果実にナイフを捻じ込んで無理に引いたように、横一文字に裂けていた。
引き返してきた白いキャップの女が、友人の顔を見て叫ぶ。
「サラ、何、何してんの!」
耳まで口が裂けた女は、ごえっと喉を鳴らした。血肉が滴る傷口から黒い鉤爪が覗き、中から昆虫が這い出した。
廃病院に絶許が響き渡った。
矢子は絶句したまま壁にへばりついていた。俺は彼女の肩を揺らす。
「出ましょう。ここにいちゃ駄目だ」
我に返った矢子が何度も頷く。俺たちは元来た方へ走り出した。
女の泣き叫ぶ声が背後から迫ってくる。矢子は蒼白な顔で走り続けた。
「救急車呼ぼう。村のひとに入ったこと謝って、何とかしてもらおう」
「はい、でも、何であんなことに……」
「わかんないよ。ストレスでおかしくなっちゃったのかも。変なもの見たから」
壁に穴が開いているのか、廊下に一条の光が差していた。俺と矢子は足を止めた。
光の下を人間大のものが彷徨っている。人間を半分にしたようなものが。
てらてらと輝いているのは顔の筋肉と水晶のような眼球。肋骨に薄い横隔膜と内臓がぴったりと張られた様は傘の内側を覗いたようだった。
「人体模型……?」
矢子が頬を引き攣らせる。
「そんなものなかったでしょ……」
俺の喉から息が漏れた。人体模型の腹の部分が微かに上下している。薄く張られた膜が虫の羽のように震え、中の臓器が脈動した。
人体模型がゆっくりと身を翻してこちらを向く。
残った右半身の顔と洋服は、犬居のものだった。
膝から崩れ落ちる矢子を何とか支える。
「しっかりしてください。倒れたら駄目だ。脱出しないと!」
矢子が冷え切った手で俺の二の腕を掴んだ。古傷が鈍く痛む。
廊下の奥から獣のような声を上げて駆けてくる者がいた。俺は矢子を引きずって後退る。
髪とテリブルジャポンのTシャツを汗で張りつかせた鮫島が飛び出してきた。
「香琉くん、矢子さん、大丈夫か!」
俺と矢子は必死で頷く。
「俺たちは大丈夫だけど、何が起こってるんだ」
「わかんないよ。目の前で、犬居が……」
鮫島は腹を押さえて嘔吐した。胃液が靴先を濡らす。
鮫島は眼鏡を押し上げ、唇を拭った。
「信じらんないよ、悪い夢でも見てるみたいだ」
突然、鋭い頭痛が走った。脳髄に錐を差し込まれたような痛みに、俺はしゃがみ込む。
鮫島と矢子が俺を呼ぶ声が遠く聞こえた。代わりに、虫の羽音と硬い足を擦り合わせる音が響いた。自分の頭の中で響いているようだ。この感覚を知っている。
「そうだ、幻覚だ……」
「香琉くん……?」
「早くここから出ないと……」
巨人が廃病院を掴んで揺らしたような、激しい衝撃が走った。
天井から石綿の破片が落ち、ガラガラと不穏な音が響く。矢子が鋭く言った。
「崖崩れだ、早く行こう!」
轟音が響き、俺たちの目の前に巨大なものが落下した。剥がれ落ちた天井の一部に電線が絡んで、火花と粉塵を上げている。
そこかしこから崩落の音が聞こえ出した。
俺はふたりに腕を掴まれて立ち上がった。俺を引きずりながら矢子が叫ぶ。
「知夏ちゃんは?」
「見てないです! 狐塚さんと一緒にいたけど……」
「探さないと!」
頭痛で視界が歪む。ほとんど無意識のまま出口へ向かって走った。
先方から手の平でバンバンと壁を叩く音がした。
白いキャップの女が瓦礫を前に泣きじゃくっている。
「どうして開かないの!」
俺たちが侵入した破れ窓は、担架や崩れた壁で塞がれていた。矢子が唇を噛む。
「別の出口を探そう。知夏ちゃんも……」
白いキャップの女は糸が切れた人形のようにへたり込み、頭を抱えた。
「痛い、痛い、痛い……」
女は頭からキャップを毟り取る。ワインの栓を抜いたように、女の後頭部から大量の血が噴出した。
生温かい雫が飛び、頭蓋骨の欠片が俺の頰を打つ。最早叫び声も出なかった。
俺たちは闇雲に暗い廊下を走る。爪先がどぶんと水に浸かった。陥没した床板から、山奥とは思えない透き通った水が溢れていた。
矢子が青ざめる。
「まずいかも……」
頭痛が耐え切れないほど激しくなる。両手でこめかみを押さえて目を閉じた瞬間、鮮明な声が聞こえた。殺せ、と。
視界が爆ぜた。
***
目蓋の裏に、森が広がった。
鬱蒼とした黒い木々の隙間から、土埃を上げて傾く建物が見えた。
脱出していないはずなのに、俺は今、外から廃病院を見ている。
テレビのチャンネルを切り替えるように少年と少女の白い横顔が映った。九恩と壱湖だ。
壱湖は人形じみた無表情で廃病院を見つめている。
「二瀧の奴は別行動?」
「ああ、山道に向かった」
「刑事の嫁のときも来なかったし、ひとりだけ手を汚さないつもり?」
「自分の力を試したいんだよ。六番がいなくなってから比べる対象がいなくなったのに、まだ捕らわれてる」
「可哀想な奴」
ふたりがせせら笑う。
また視界が切り替わった。切り立った崖の先端からまばらな人家の明かりが見下ろせた。田園と役場、森を突き抜ける一本道。三顎村だ。
片目が塞がれているように、視界がやけに狭い。
視線が下を向き、黒い水溜まりを覗き込んだ。
眼帯を巻いた浅黒い顔が反射する。
二瀧の右目が月光を反射する。目が合ったような気がした。
***
殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。
頭の中で声が騒ぐ。
「五月蝿い!」
自分のものとは思えない咆哮が、俺の喉から伸びた。凄まじい音が耳を劈き、目の前の光景が崩れ落ちた。
何も見えないし、何も聞こえない。
冷たい空気が全身を包み、ぼやけていた意識が鮮明になった。
鮫島と矢子が俺に縋って唖然と座り込んでいる。
新鮮な夜の風が吹きつけ、土煙と血と黴の匂いを押し流した。
廃病院の巨壁がスプーンで削ったように抉れ、森の枝葉が押し寄せていた。月光が周囲に散乱する瓦礫を照らしている。
鮫島が途切れ途切れに言った。
「助かったのか……?」
「うん、偶然壁が落ちて……」
矢子が息を呑んだ。
「知夏ちゃん! あの子は?」
瓦礫の間から、ボンッと音を立てて鋼鉄のロッカーが倒れてきた。ひしゃげた扉が開き、血塗れの腕が突き出す。鮫島が裏返った声を出した。
「痛ってえ……」
血がこびりついた金髪が覗く。ロッカーから狐塚が額を押さえて這い出してきた。
「逃げてなかったんですか……」
「女の子ひとりで置いてくとか、ないだろ……」
狐塚の腕の中には気絶した知夏がいた。矢子が安堵の息を漏らす。
俺の脚を濡らすものが水なのか、返り血なのかわからなかった。頭痛は消え、奇妙な恍惚と達成感があった。
俺は虫のざわめきを聞きながら昏倒した。
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