侵入.3
「聞こえてるの私だけじゃないよね……」
矢子の言葉に鮫島が何度も頷く。大学生の女ふたりは互いに抱き合った。
泣き声は剥がれかけた壁に染み渡るように反響する。ぴちゃん、と汚れた水を打つ足音が聞こえた。
俺は咄嗟にスマートフォンのライトをつけて道先に翳した。
丸く切り取られた闇の中に、小さな影があった。毛糸のような癖のある髪をびしょびしょにして泣いている。
「知夏ちゃん……?」
白いキャップの女が俺の肩を叩く。
「あの子知ってるの? 幽霊じゃないよね」
「図書館で会った村の子です」
知夏は緊張の糸が切れたように座り込んだ。俺と鮫島は少女に駆け寄る。
「何でこんなところにきたんだ。危ないよ」
「みんなが山に入って行ったから……お姉ちゃんのこと何かわかるかもって……そしたら……」
知夏は腫れた目を擦り、鼻緒が千切れたサンダルを抱き締める。右足は裸足で、水を吸った泥と落ち葉が指股に絡んでいた。
後からやってきた矢子が少女の前に屈む。
「壊れちゃったか。山登りはちゃんとした靴履かないと駄目だよ。貸して」
矢子はハンカチを取り出してこよりのように細くし、手際良く鼻緒を作った。
「即席だけどこれで大丈夫」
知夏はサンダルを受け取り、消え入りそうな声で礼を述べた。
鮫島が俺の顔を窺う。
「知夏ちゃんは巻き込まないし、帰ろうか」
「会長はいいの? まだろくに撮影できてないけど」
「ホラーは安全圏で楽しむものだよ。身の危険があったら楽しめない」
遮るように、犬居の大声が響いた。
「オタク、こっち来い。何かあるぞ!」
鮫島が眉を顰めた。
「オタクって俺のことかな」
「会長だけじゃなく俺も含んでると思う」
俺ははぐれないよう知夏の手を引きながら、犬居たちがいる隠し部屋に入った。
俺は片手で口元を押さえる。肺が腐りそうな黴の匂いが充満していた。
壁から天井まで黒く長い毛髪じみた滴りがべったりと付着している。分娩台のような鉄の台座や、破れたライト、空の棚。全て廃業当時のままだろう。
錆びたワゴンには鉗子や注射器が置きっぱなしだった。何もかもが黴で青緑に染まっている。
白いキャップの女が呻いた。
「ねえ、リーダー、ここ嫌だよ。絶対虫出るよね。私、虫だけは本当に無理」
「だったら出てろ」
犬居は虫を追い払うように手を動かし、俺たちを呼んだ。
「お前らキモいこと詳しいんだろ。これ何だと思う?」
「リスペクトのない言い方ですね。キモいと言葉は理解不能なものへの思考停止であって……」
鮫島はぼやきつつ近づき、途中で喉を鳴らした。
犬居の足元には、錆びた鉄籠があった。鳥籠に似ているが、成人が入れそうなほど大きく、上部に穴が開いている。その横には、前世代のビデオデッキのような長方形の機材があった。
「これは……」
床に大量の白黒写真が散らばっている。
籠の中で膝を抱える全裸の老人、空の浴槽に横たわり両手足をベルトで拘束された女、全員が呆けた顔で別々のところを見ている集合写真。
鮫島が掠れた声で言った。
「ここは脳病院だったのかもしれない……」
「イカれた奴が入る場所か?」
「その言い方、炎上する訳だよ……」
犬居が威圧的な声を出し、鮫島は仰け反った。
「会長、何でそう思ったの?」
「例えば、これは灌水籠。昔は錯乱した患者は頭を冷やせば治ると信じられていたから、籠に入れてジョウロで水をかけたんだ。そのときの器具だよ」
鮫島は真っ二つに折れたビデオデッキらしきものを指す。
「こっちは痙攣に使われた電気治療器。今じゃ信じられないけど、こめかみに電極を刺して通電したんだ」
「この写真は患者と治療風景?」
「たぶんね。浴槽に浸かってるのも持続浴って言う当時の治療法だ」
狐塚が間延びした声を上げた。
「めちゃくちゃ頭いいじゃん。本当は大学教授とか?」
「高校生です」
「じゃあ、ここに入院してた?」
「ふざけないでください」
犬居は無遠慮に籠を叩いたり蹴ったりして感触を確かめる。
「イカれてるな。そんなことやってたの戦後とかの話だろ。いくら田舎だからって」
知夏が俺の手を強く握った。
「どうしたの?」
「お姉ちゃんもそうなの……」
俺が問い返すと、知夏は小さな爪を俺の手の甲に食い込ませた。
「ここ、たまにそうなっちゃうひとがいるの。お姉ちゃんも変なものが見えるって言い出して、夜中に山に走って行ったりしたの。前は優しかったのに……」
「それで入院してたの?」
俺は床の白黒写真を見下ろした。意図を感じ取った鮫島が慌てて取りなす。
「大丈夫だよ。怖いお兄ちゃんの言う通り、こんなことをしてたのは昔のことだから。お姉ちゃんはちゃんとした治療を受けられたはずだ」
「でも、それからすぐ病院が潰れちゃったの。お姉ちゃんが最後の入院患者だって聞いた」
「知夏ちゃんのお姉さんは……」
知夏はかぶりを振る。
「入院してすぐ死んじゃった。でもね、おかしいの。すぐ火葬したからってお骨が帰ってきたけど、お母さんはこんなのお姉ちゃんじゃないって。私も違うと思う」
俺たちは言葉を失った。
「みんなおかしいよ。零子さんとあのひとたちが来てから変なの。でも、お金をくれるからってみんな知らん顔するの」
「あのひとって?」
「高校生の三人」
九恩たちのことだ。知夏は再びしゃくり上げる。
「腕に数字が書いてあるひとが来ると、変なことが起こるの」
俺は思わず知夏の手を離す。犬居の視線が俺の腕に注がれているのがわかった。
知夏は困惑の表情で俺を見上げる。
「俺は……」
底抜けに明るい声で狐塚が割り込んだ。
「怖いところで怖い話するのもうやめようぜ!」
言葉を挟む間もなく、狐塚は知夏を抱き上げた。
「子どもが聞く話でも来る場所でもないじゃん?」
「でも、お姉ちゃんが……」
「骨が別のやつのなら生きてるんじゃない?」
「じゃあ、何で戻ってこないの」
「わかんないけど、あ、何か悪いことしちゃって顔合わせづらいとか?」
鮫島は少女を抱えて部屋を出る彼の背を呆然と見送った。
「すごいな、あのひと。脳じゃなく脊髄で会話してる」
犬居は更に苛ついた仕草で灌水籠を蹴った。
「ユートは馬鹿なんだよ。オタク、ついて来い。向こう探すぞ」
「命令しないでもらえますか。行きますけど。従ってる訳じゃなく撮れ高のためですから」
鮫島は不平を漏らしながら犬居の後をついていく。
俺が最後に部屋を出ると、矢子が物陰から顔を出して手招きした。
「井綱くん、こっち」
「何かありましたか?」
「セーブポイント」
矢子は歯を見せて笑った。
言われるがままに角を曲がると、小部屋があった。
職員の休憩室だったのか、古びたロッカーが並び、真ん中には赤いブリキのスタンド式灰皿があった。
「喫煙所じゃないですか」
「やったね」
矢子は早速煙草に火をつける。黴の匂いを掻き消す紫煙と、彼女の頰を赤く照らす炎が今は救いに思えた。
「思ってたより嫌な場所だったね」
「鮫島は昔の脳病院じゃないかって言ってました」
「やっぱり? 私もさっき院長室っぽいところでたくさん資料を見つけたの。狐憑きとか憑きもの筋とか書いてあったよ」
「この村ではときどきそういうひとが出るんでしょうか」
「ここは人口も少ないから、近いひとどうしで結婚してると生まれやすいのかもしれないね。田舎だから馬鹿にしてる訳じゃないよ」
矢子は煙を吐いて髪を掻き上げた。
「ここでやってたことは私たちの常識とは違うけど、治そうと頑張ってたのは本当だと思う。私たちが勝手にジャッジできることじゃないよね」
俺は少し口角を上げた。
「矢子さんは優しいですね」
「自信がないだけだよ。私たちの常識も、未来人から見たら野蛮で非常識かもしれないし」
「鮫島が聞いたら、リスペクトがある、って言うと思います」
「何じゃそりゃ」
矢子は声をあげて笑った。
「そういえば鮫島くんは何してるの?」
「犬居さんと一緒に撮影に向かいました」
「ここなら怪談には事欠かないもんね」
「村のひと曰く、動く人体模型や口裂け女が出るそうです」
「怪談まで昭和だね」
そのとき、小部屋の前を人影が通りかかった。
白いキャップの女の後を、鼻にピアスの女が歩いている。覚束ない足取りと虚な目に、嫌な予感がした。
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