入村.4

 ベッドに横たわった瞬間、眠りに落ちると同時に目蓋の裏にドス黒い闇が広がった。



 ***


 一寸先も見えない暗闇の中、無数の生首が並んでいるような岩肌だけがわかった。洞窟を抉り抜いた空間に、生臭い熱気が立ち込めている。


 布で顔を隠した白装束の子どもたちが車座に集まっていた。中心には、洞窟の天井から縄で吊るされた白い袋がぶら下がっている。

 シーツらしき白布の中は小動物を詰め込んだように歪な凹凸があり、微かに蠢いていた。


 女の声が告げた。

「十一番、次」

 脂でベタついた髪の少女が拳を握る。吊るされた袋の一部が凹み、くぐもった呻きが漏れた。

 布の中心から赤茶けた染みが滲み、中身の輪郭をなぞり出す。鼻と口の凹凸が露わになった。


 女が冷然と言った。

「全然駄目、どこを狙ってるの」

 打ち据えられた少女が倒れ込む。姿の見えない女の溜息が聞こえた。

「七番も十三番も見込みなし。九番は少しは上達したみたい。十五番はわざと外したでしょう。爪だけ剥がすなんて」

 甲高い笑い声が答えた。


 女は声を低くする。

「十八番、次」

 小柄な少年は今にも泣き出しそうに言った。

「先生、できません……」

「何故? この男に情をかける必要なんてない。お前たちを見捨ててひとりだけ助けようとしたんだから」

 袋の中から、布に呼吸を阻まれて苦しげな息遣いが漏れる。袋の一部が破れ、腐った果実のような赤黒いものが滴り落ちた。


「こいつは誰だと思う? 自分を可哀想な少女を助ける英雄? 違うわ、十歳も離れた子どもに惚れて脱走を図ったただの馬鹿。逃げる最中にひとも殺したクズよ」

 袋の中から獣のような叫びが響いた。

「あの子は……?」

「三番? とっくに埋めたわ」

「殺したのか!」

「当然でしょう。哀れね、お前のやったことは全部無駄」


 絶望の泣き声が漏れ、やがて苦痛の呻きに変わった。十八番は身体を震わせる。

「でも、できないよ。殺せない。だって……」

「じゃあ、お前が死にたい?」

 女の声を合図に、洞窟の奥からスーツ姿の男たちが現れる。


 男たちが十八番を取り囲んだ瞬間、地鳴りのような音が響いた。男たちが突風に吹き飛ばされたように岩壁に打ちつけられる。十八番が悲鳴をあげて蹲った。


 女が鋭く叫ぶ。

「六番、何のつもり」

 骸骨のように痩せた少年が、白布の下から虚空を睨んだ。天井から吊るされた袋が膨れ上がり、火薬を仕込んでいたように破裂する。断末魔の叫びすらなかった。


 浅黒い肌の少年が前に踏み出す。

 血染めの袋の残骸が次々と弾け、白い塊が混じった赤い粘液が岩壁を染め上げた。


「二番もやめなさい。もう死んでるでしょう」

 女の制止を受け、二番と呼ばれた色黒の少年が退がる。静まり返った洞窟に、粘質の水滴が岩を打つ音だけが響いた。


 吹き飛ばされた男たちが立ち上がり、袋の残骸を回収する。女の吐息が聞こえた。

「六番、何か言ったら?」

「俺が全部殺す」

 そう呟き、六番は血糊を蹴散らして歩き出した。十八番が後を追う。


 暗がりに立つ女に若い男が駆け寄った。

「六番は桁違いですね」

「力は群を抜いてる。性格も残忍で狡猾。人間らしい情動が欠片もない。でも、最近は少し変わったわ」

「十八番ですか」

「絆されているみたい。二番は六番に対抗心を燃やしてる。妙な影響がなければいいのだけど」



 洞窟の奥には、岩肌の亀裂から漏れた清水の溜まり場があった。


 十八番は嗚咽しながら何度も顔と手を洗い続ける。

 六番は彼の背を見下ろしていた。

「もう汚れは落ちただろ」

「……三番を埋めてから顔にずっと土がついてるんだ。どんなに洗っても取れないんだよ」


 六番は屈んで十八番の顔の白布を押し上げた。

「ただの黒子だ」


 十八番は再び布で顔を覆って座り込んだ。闇の中に、虫の脚を生やした木像の神が鎮座している。

「六番、あのひとと三番は逃げようとしたんだよね」

「ああ、馬鹿だな。親に捨てられたのに何処に行くって言うんだ」


 十八番は膝を抱えて俯いた。

「家族のこと、外の世界のこと、覚えてる?」

「何も」

「僕は少しだけ覚えてるよ。ここに来る前、川の近くに住んでたんだ。夏になると蛍が見えた」

 六番は無言で彼の隣に座った。十八番は小さく微笑む。


「ここを出られたらまた見たいな。六番も一緒に行こう」

「出られる訳ないだろ」

「いつかきっと行けるよ。先生が言ってた。儀式が終わったら僕たちを外に連れ出すって」

「また殺しをさせられるだけだ。人殺しがまともに生きられるはずない」


 十八番は傍の少年の手を握った。

「そう思うならもう誰も殺さないで。一緒にここを出て、まともに生きよう」

 六番は永遠のような沈黙の後、痩せた手を握り返した。



 ***



 目覚めるなり、見慣れない天井に困惑する。


 青白い闇の中で鮫島のいびきが聞こえた。ここは三顎村の宿泊所だ。あの洞窟じゃない。

 俺は胸の鼓動が落ち着くまで、眠る鮫島を見守った。呼吸に合わせて規則正しく上下していた。


 気分は落ち着いたが、もう一度眠る気にはなれない。俺は顔を洗い、サンダルを履いて部屋を出た。



 静寂に包まれたロビーは時が止まったようだった。自動販売機が茫洋と光り、時計の針は午前四時二十分を指していた。


 重いガラス戸を押すと、草と水と土の匂いを孕んだ濃密な空気が押し寄せた。

 朝靄が木々を濡らし、トラックの走行音や鳥の声が鮮明に聞こえる。何もかもの質感が都会よりも力強く迫ってくるように感じた。


 辺りはまだ暗いが、既に蒸し暑い。かえって眠気が覚めそうだ。

 戻ろうかと思ったとき、木々がざわめいた。梢の間から人影が見える。昨夜、窓の外から監視していたスーツの男を思い出した。


 人影は俺に気づいたのか、素早く身を隠した。

 少しの間逡巡する。ここなら何かあっても大声を出せばすぐ皆が気づいてくれるはずだ。



 俺は影を追って茂みに分け入った。

 朝靄に混じって焦げくさい煙が漂っている。匂いをたどって踏み込むと、背の低い木々の向こうに人影を見つけた。


「バレちゃったかあ」

 決まり悪そうに上体を覗かせたのは、Tシャツ姿の矢子だった。髪は寝癖がついて、化粧もしてない。


「こんな時間に何してたんですか?」

 ふと、空気中を漂う煙が矢子の手元に繋がっているのがわかった。人差し指と中指の間に短くなった煙草が挟まれている。


 矢子は勢いよく頭を下げた。

「誰にも言わないで! キャンパーが喫煙者だと心情悪いの。勿論火の始末はちゃんとしてるけど」

 俺は思わず笑いを漏らした。

「誰にも言いませんよ」

「本当? ありがとう」


 矢子は安堵したように木にもたれかかった。

「井綱くんだよね。眠れなかったの?」

「目が覚めてしまって」

「環境変わるとそういうことあるよね。私も煙草我慢して眠ったら結局起きちゃった。電子タバコなら部屋で吸えるけど紙巻きしか駄目なんだよ」


 俺は矢子の隣の木に身体を預けた。

「煙草吸うの意外でした。健康的に見えたから」

「君と同い年の頃から吸ってるよ。ダサいでしょ」

「かっこいいんじゃないですか」

「いい子だなあ。気遣ってくれちゃって」


 矢子は慣れた仕草で煙草を歯に挟む。

「親父が登山家だって言ったでしょ。昔からよく山登りに付き合ってて、私も将来当然そうなると思ってた。でも、十七のとき、冬の雪山で遭難しかけて、急に山が怖くなったんだ」

「それから煙草を?」

「そう。山を諦める口実が欲しかったんだろうね」

 彼女は自嘲気味に笑った。


「親父にバレても叱られなかった。安心したけど、期待されてなかったんだなと思って寂しかったな。中途半端だよね。何したいんだよって感じ」

「いいと思いますよ。これから何にでもなれる」


 俺は思わず口に出していた。矢子が目を丸くする。

「君、達観してるね」

「俺は将来どうなりたいかとか考えられてないんです。今やるべきことで精一杯で」


 矢子は僅かに目を逸らした。赤い長距離トラック事件のことを連想しているんだろうか。


 薄暗がりに灯っていた煙草の火が消えた。矢子は携帯灰皿に吸殻を投げ込む。

「半端者どうしここで何か見つかるといいね」

「そうですね」

「でも、目標なくても生きてるだけで御の字だよ。毎日元気で普通に暮らせればそれで幸せ」


 矢子は二本の指を唇に当てて煙草を吸う仕草をした。

「ふたりだけの秘密ね」

 俺は木にもたれたまま彼女を見送る。遠ざかる足音を、蝉の声が掻き消した。

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