入村.1

 夜明けの穏やかな暗闇は強烈な日差しに押し流され、出発の朝が来た。


 俺が散々悩んだ末、初日は夏の制服で行くと決めたのを知ると、真美は大笑いした。

「真面目すぎ! 黒いベストまで着て絶対暑いじゃん。熱中症で死ぬよ」

「企画者に挨拶するんだからこのくらいでいいんだよ」

 俺は脇腹を小突く真美を押し退ける。腕の傷が隠れる袖丈の服を選ぶのに難儀したことは言わなかった。


 養母は俺たちを見て苦笑し、懐から小さな包みを取り出した。

「香琉、これ持って行って」

 縮緬の小袋を開くと、栗の実のような木製の何かが現れた。表面には小さな菩薩像が彫られている。

「香合仏って言ってね、お香を持ち歩く仏具だけど、御守り代わり。ちっちゃな弥勒菩薩が彫ってあるでしょう。お父さんが取り寄せたの」

 養父は照れくさそうに顔を背ける。


 俺は鞄にしっかりと袋を結びつけた。

「ありがとう。じゃあ、行ってきます」

 真美が手を振る。

「お土産忘れないでね。ど田舎だから期待してないけど」

「受験の問題集でいいかな」

「殺す。一生帰ってこないで」

 口を曲げる真美を養父が叱る。


 俺は三人に見送られながら、住宅街を歩き出した。

 目が眩むほど眩しい通りは全てがパステルカラーのモザイク画のようだ。

 見慣れた光景に、昨夜、寝る前に盗み聞きした養父母の会話を思い出した。

「何でかな、香琉が二度と戻ってこない気がするの」

 微かに間から襖の間から、顔を覆う養母を宥める養父の背が見えた。俺は縮緬の袋を握りしめた。



 駅で合流した鮫島は、登山家じみた巨大なリュックを背負っていた。迫り出した白いTシャツの腹には、オカルト雑誌のフォントを真似た字で「テリブルジャポン」と印刷されている。

「すごいね。会長が自分で作ったの?」

「勿論! シルクスクリーンを使えば簡単よ。運営兼宣伝部長だからさ。予備もあるけど、香琉くんにはサイズが合わないな」



 駅のホームに電車が滑り込み、俺たちは荷物を抱えて乗車する。

 終点まで乗り続けたのも、観光客でごった返す巨大な駅で右往左往するのも、新幹線に乗ったのも、中学校の修学旅行以来だった。


 気圧と、車内のビニールのような匂いと、窓外の激しい陽光が嘘のような冷たさに、少し気が遠くなる。

 鮫島は一駅の間に焼売弁当と菓子パンと冷凍クレープを平らげた。

「まさか香琉くんと旅行できると思わなかったよ。夏休みに一週間も外泊なんて最早不良だな。オタク卒業だ」

「俺も会長が誘ってくれなきゃ行かなかったよ。ありがとう」

 俺がまだ半分残った弁当を箸で突っついていると、鮫島は満足げに目を細めた。


「香琉くんはいつも俺の言うこと聞いてくれるからさ。本当は嫌じゃないかって不安だったんだ」

「そんなことないよ。会長の企画はいつも面白いし、俺自身にあんまりやりたいことってないんだ」

「これから見つけていこうよ。人生は長いよ。中年になってからの方が長い。怖いな!」

 鮫島は身震いした。

 俺は笑いながら窓外を眺める。高速で切り替わる映像のような街のひとつひとつに膨大な住民がいて、ひとりずつの人生がある。奇妙な感覚だった。



 新幹線を降りてから鈍行列車を乗り継ぎ、指定された駅で降りた。

 ロータリーは閑散として、閉店した本屋と古びた象のマスコットが立つ薬局があるだけだ。バスも一時間に一本しかない。


 ちょうどよく臙脂色のバスが訪れた。

 乗客は俺たち以外誰もいない。


 まばらな住宅と飲食店が並ぶ街が遠ざかり、バスが緩い傾斜の山道に差し掛かった。道の左右の石垣は落石防止のネットが貼られ、時折夜のように鬱蒼とした林を抜けた。

 道の下には青々とした水田が広がり、土の道をトラックが悠々と走っていく。日本の田舎の夏の原風景らしい光景だ。


 しばらくバスに揺られた頃、鮫島がリュックサックから資料を取り出した。

「これから行く三顎村だけど、撮れ高が多そうだ」

「ってことは、怪談絡み?」

「うん、昨日調べてきた」

 鮫島は粗い印刷の紙をクリアファイルから取り出す。


「村は三方向を山に囲まれて、唯一拓けた一本道も度々土砂崩れで分断されたから、近くの村とも殆ど付き合いがなかったんだって。ミステリなら絶対に殺人事件が起こるよ」

「会長が求めてるのはミステリじゃなくホラーだろ」

「両方の性質は似通ってるよ。謎を隠しやすい場所が舞台ってこと」

 鮫島が指した資料には、古びた木の皮のような写真があった。黄ばんだ皮には墨で字が彫られている。


「古文書?」

「人間の生皮だよ」

 鮫島は声を潜める。

「三顎村の山では一時期金が採れて、囚人が鉱夫代わりに借り出されたんだ。中には脱走を図って村人を脅して居座ろうとする奴もいた。どうなったと思う?」

 俺は首を横に振る。

「囚人はひとりを除いて全員姿を消した。唯一の生存者は看守に縋りついて二度と逃げないから助けてくれと泣きついたらしい」

「冗談だろ……」

「冷泉葵太郎の記事だ。信頼できる」


 鮫島の資料はよく見ると出典の雑誌名が几帳面に書き出されていた。

「囚人は正気を失いかけたけど、山奥で見た恐ろしいものを自分の身体に刺青を施して記録したらしい」

「自分で刺青なんてできるのか?」

「縫い針と墨があればできるよ。海外の刑務所ではボールペンのインクでも代用してる」

「その恐ろしいものって?」

「解読は難しい。しかも、囚人自身が悍ましさに耐えかねて自分の皮を剥がしたらしくて、所々記録が逸脱してるんだけど……」



 会話を遮るように、バスが大きく跳ねて停車した。

 停留所の錆びた看板と、木造の待合室が目に入る。腐りかけた木の屋根の下には何かの像があった。道祖神かと思ったが、歪な像の背は無数の枝か昆虫の脚に似た突起が覆っていた。

「会長、あれ何だろう?」

「見たことないな。千手観音にも似てるけど……」



 バスが再び跳ね、地元の高校生らしい制服姿の男女が乗ってきた。鮫島が資料をリュックサックに捩じ込む。


 少年の方は華奢で、陶器のように色が白く、シャツの下の腕から青い血管が透けるほどだった。少女の方は墨を流したような長い黒髪をセーラー服の胸に垂らし、どこか鋭い目つきで車内を見回した。


 ふたりは真っ直ぐに進み、空席がこれほどあるのに俺たちの前で足を止めた。俺と鮫島は顔を見合わせる。

 少年が切長の目を更に細めて微笑んだ。

「テリブルジャポンのおふたりですね?」

「何でわかるんですか……」


 鮫島は呟いてから自身のTシャツを見下ろした。少女が甲高い声で笑う。

「変な服! 自分で作ったの?」

 鮫島が頰を赤くすると、少女が顔を近づけた。

「真っ赤になった! 私、赤色は大好き」

「やめなよ、壱湖いちこ


 少年は長い前髪を払って俺たちを見比べた。

「村起こしプログラムにご参加いただきありがとうございます。地元の高校生です。主催者から案内を任されたんですよ」

 大人びた口調で告げ、手を差し出す。

「僕はこん九恩くおん。こちらは昆壱湖です」

「兄妹ですか」

 俺の問いに九恩はかぶりを振った。

「いいえ、田舎ですから住民は殆ど昆姓なんです。同い年ですから、敬語はなしでいきましょう」


 俺と鮫島は順番に名乗って握手に応じる。

 細い手を握った瞬間、脳が頭蓋の中で震撼したような眩暈を感じた。思わず手を離すと、九恩は真っ黒な瞳で俺を覗き込んだ。

「何か?」

 鮫島が心配そうに俺を見つめる。俺は何でもないと顔を背けた。


 ふたりは前の座席に座り、乗車口を見た。

「案内役はもうひとりいるんだけど……」

二瀧じろうの奴、何してるんだろう。あ、やっと来た」



 壱湖が声を上げると同時に、タラップを踏んで同じ制服の少年が現れた。


 華奢で色白なふたりとは対照的に、ニスを塗ったように日焼けした長身で短髪の少年だった。彼が振り返る。左目には白い眼帯が巻かれていた。


 二瀧と呼ばれた少年は同郷のふたりを顧みることなく突き進み、俺の前で立ち止まった。

「はじめまして、か?」

 威圧感のある低い声だった。鮫島が目を泳がせる。

「そりゃそうでしょ……」


 二瀧は俺を見下ろして口角を吊り上げると、急に顔を近づけた。浅黒い手が無遠慮に俺のベストの下に潜り込む。鮫島が慌てて二瀧の腕を掴んだ。

「ちょっとちょっと、何するんだよ!」


 二瀧の拳には、俺の学生証が握られていた。

「井綱香琉、そんな名前になったのか」

「何で……」

 俺は唾を呑み込む。鮫島が学生証を引ったくろうと飛び上がったが、二瀧は平然と避けた。

「何だよ」

「何だよじゃないよ! さっきから失礼だな! 先に自分の名前を名乗れよ!」


 二瀧は不遜な笑みを浮かべて学生証を俺の胸ポケットに戻した。

「昆二瀧。これからよろしく。都会人には向かない場所だろうけど、下手打って死ぬんじゃねえぞ」


 そう言って、二瀧は少し離れた場所に座った。鮫島が肩を怒らせる。

「よろしくって態度じゃないだろ。何だよアイツ……」

 俺は襟元を直しながら二瀧の方を見る。彼は視線を返すと、見せつけるように半袖のシャツを捲り上げた。


 褐色の上腕には、古い傷痕で「二」と刻まれていた。

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