始動.3
翌朝、真美が説得してくれたらしく、養父母は村起こしプログラムへの参加を許可してくれた。
鮫島は喜び、大急ぎで郵送する書類の作成に取り掛かった。古いエアコンが唸る予備教室で、鮫島は汗を拭いながらボールペンを走らせる。
「本日消印なら間に合うからさ!」
「でも、書類には六日って書いてあったよね。随分到着が遅いって思われないかな」
「任せなさい。美術大学に書類偽造学部があったら俺が首席合格だよ」
鮫島は修正ペンすら使わず、六に一本の棒を入れて十八に書き換えた。
「会長なら動画のアカウントが凍結されても詐欺で食べていけそうだ」
「嫌なこと言うなよ!」
鮫島は大きな腹を揺らして笑った後、ふと表情を曇らせた。
「香琉くん、今更だけど本当にいいの? ほら、あの動画のコメントさぁ……」
赤い長距離トラック事件に対しての言及に気づいてしまったのだろう。俺は大丈夫だと告げたが、鮫島はまだ暗い顔をしていた。
「あのコメントは非表示にしておいたけど……気づくのが遅くなっちゃって申し訳なかったな」
「会長のせいじゃないよ。騒ぎにもなってないし、七年前の事件なんか大抵のひとは忘れてるって」
「テリブルジャポンの面子にかけて、ああいう輩は取り締まっておくからさ! いざとなったら開示請求のためにIDも控えてあるし!」
鮫島は書き込みのスクリーンショットを見せつける。irememberと記されたアカウントは例の動画以外に何のコメントも残していないらしい。
俺は運営者に通報しようと意気込む鮫島を宥め、夏に公開されるホラー映画や妖怪画の展覧会の話題を振って話を逸らした。
明日からは夏休みだ。
午後五時を過ぎても明るいグラウンドではサッカー部が駆け回り、濃密な汗の匂いが絡んだ土煙が流れてくる。
駐輪場に入ると、自転車のフレームが一斉に西日を反射した。長い影が校舎に伸びる。
自分の自転車の鍵を外したとき、影が蠢いたような気がした。辺りに俺以外の人影はない。
足元を見下ろすと、俺の踵から伸びる影がざわりと揺れ、昆虫の脚のような突起が飛び出した。虫が俺に抱きついたように。
瞬きの間に影は元通りに戻っていた。俺は自転車に跨り、振り返らずに帰路を急いだ。
予定では、八月に入ると同時に三顎村へ旅立つ。
俺と鮫島は早めに宿題を終えるため、毎日図書館に集まった。
問題集に手をつけず怪奇小説を読み漁る鮫島に発破をかけ、帰り道にカラオケ帰りの真美と出くわしてサイダーを奢ったり、平穏な日々が過ぎた。
鮫島は血の繋がらない妹がいることを羨ましがったが、真美の横暴さを目の当たりにして考えを改めたという。
ごく普通の夏休みを過ごし、しばらく悪夢を見なかったから油断していた。出発前夜に見た夢は、今までで最も鮮明だった。
***
濃紺の夜闇に、毛細血管のような細い枯れ枝が広がっている。
がちり、がちり、と固い物を噛み砕くような音が響いていた。何の音か知っている。シャベルの先端が泥の中の石を突く音だ。
抉れた地面の丸穴を、汚れた白い着物の子どもたちが囲んでいた。痩せこけた腕の二倍は太いシャベルを手に、一心不乱に土を掘っている。皆、白布で顔を隠され、表情は読めない。
闇を煮詰めたような穴の中に、彼らと同じ白装束の人間が横たわっていた。強い酩酊感に襲われ、自分が穴底に投げ込まれたような錯覚を覚えた。湿気った土が身体にのしかかる冷たさと重みまで感じる。
穴を掘っていた子どものひとりがへたり込み、顔を覆う白布に黄色い汁が滲んだ。胃液を吐いてえづく少年を、周囲の子どもがシャベルの柄で打ち据える。
「十八番、しっかりしろ。お前も投げ込まれたいか」
輪から少し離れた場所にいた少年が、十八番と呼ばれた子を一瞥した。盛り上がった土が独りでに蠢き、意志を持ったように穴底へと雪崩れ込む。
遠くから女の声が聞こえた。
「六番、勝手なことはやめなさい。力を使えと誰が言ったの」
少年は答えない。先程までえづいていた十八番は這うように移動し、六番の足に縋りついた。
「何でそんなことするの。僕たち仲間なのに……」
六番は白布の下から穴底を見つめていた。
***
飛び起きた瞬間、部屋の暗さにまだ夢の中だと錯覚しかけた。
外から響き出す蝉の声とゴミ回収車の音が、俺を現実に引き戻す。俺は重い頭を振って起き上がり、洗面台へと向かった。
冷水で顔を洗い、目蓋の裏に未だに残った光景を押し流す。静まり返った廊下から足音が聞こえた。
養父が階段を降りるのが見える。
俺は眠る気にならず、後を追った。
家の裏口を出て、井綱仏具店の正面に回ると、清廉な青い光の中で養父が陳列棚を磨いていた。
しばらく眺めていると、養父が俺に気づいて扉を押し開けた。
「香琉、眠れなかったのか?」
「今日出発だと思ったらつい……」
「遠足前の小学生みたいだな」
眉根を下げて笑う顔は、最初に会ったときより皺が増えたと思った。
養父は丹念に売り物の仏具を磨いていく。白い埃が拭われて小さな仏像の顔が露わになる様は、彼が仏を彫っているように見えた。
養父は背を向けたまま呟いた。
「香琉、黒子が増えたな」
「そうかな」
「私は白髪が増えた。時間が経つの早いな」
噛み締めるような声に、俺も釣られて郷愁を覚えた。
養父は白檀の線香を手に取る。
「お前の名前はな、母さんがつけたんだ」
「そうだったんだ」
「覚えてないかもしれないが、お前に名前を聞いたとき、十八と答えたんだ。香という字は分けると十八日と読めるからな。四月十八日はお香の日だ」
「仏具屋の息子らしい名前だと思ってた」
「最初、私は反対したんだ。番号から名前をつけるなんて囚人のようだと。お前が気に入っているならいいが」
養父は肩を揺らして息を吐いた。
「香琉、悪い夢を見て起きたんじゃないか?」
「……そんなことないよ」
「お前がうちに来た頃はよく魘されていたからな。覚えてないか。夜中に殺すと叫んで飛び起きたこともあったんだぞ」
贅肉のない肩から長年の苦労が透けて見えたような気がした。俺は目を逸らす。
養父が鈴を磨くと、凛とした響きが店内に広がった。
「無事で帰ってきなさい。何があってもお前は私たちの息子だからな」
俺は頷き、朝日で輝く仏具を見つめた。
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