第10話 ジグルドは語る



 ユリアの首から手が離れ、彼女は崩れ込む。激しく咳き込み、ひゅーひゅーと細く息をしながら顔をあげる。涙で滲む世界には、ジグルドが立っていた。首元に剣の刃先をあてられたタリアは、薄く笑いながら両手をあげている。ジグルドは問う。



「何者だ?」

「ユリアの兄ですよ。挨拶が遅くなって申し訳ない」



 首元に刃先があてられているというのに、タリアの表情は変わらない。ジグルドの眉がぴくりと動き、「兄……?」と呟いた瞬間、タリアは滑らすように素早く足を回した。

 ベルフォルカ家特注の靴のかかとには、毒が塗られた刃が仕込まれている。かすっただけでも命を落とすほどの威力だ。ユリアが声をあげようとしたが、聞こえてきたのは金属同士がぶつかる音だった。


「クソっ……!」とタリアが吐き捨てた瞬間、ジグルドは恐るべきスピードでタリアの背中を押さえつけた。腕をにじりあげ、ミシミシと骨が鳴る。



「ぐっ……」

「足癖の悪いネズミだな」



 ジグルドの足下を見れば、ズボンの布地は破れ、金属のすね当てが露出していた。身動き1つできないタリアは、ユリアの方を見ながら怒りに任せて叫んだ。



「ユリアァァ! てめぇ裏切りやがったな!」

「ち、ちが……」

「アァ?! 俺が来ることを教えたんだろう!!」

「何を言ってるんだ?」



 ジグルドは平然と言い、さらに強く腕を締め上げる。絶叫が部屋に響き渡った。



「ユリア嬢からは何も聞いていない」

「だったら俺が来たことが何故分かった?!」

「もしかしてあれで気配を消していたつもりなのか? 過去2回の訪問も?」



 問われ、タリアは「なっ」と驚きの声をあげた。ユリアも声にこそ出さなかったが、タリアの来訪がすべて露呈されていた事実に愕然としていた。



「ずいぶんと間抜けなネズミだな」

「お前ェェェェェ!!!」



 タリアは発狂する。自分の来訪が全て見破られていたこと、反撃1つ加えられず組み敷かれていること。ジグルドの行動すべてがタリアのプライドをズタズタに切り裂いた。タリアは狂人のように怨嗟の声を上げ続ける。



「うるさいですよ~!」



 緊迫した空気には似合わないのんびりとした声が聞こえ、ガッと鈍い音が響いた。がくりとタリアの頭がさがる。ナシリアが手に持ったお玉で思い切り頭を殴ったのだ。



「少しは気が済んだか?」

「全然ですよ! 殺されそうになったんです! もっと仕返ししないと!」



 ナシリアは両拳を握り、いい笑顔で返す。そんな彼女にジグルドは何も言わず、無言を貫いた。

 いつの間にか部屋にいたライカは、タリアの体を軽々と抱き上げ、「地下牢に繋いでおきます」と言う。ジグルドは「あぁ」とだけ頷いた。


 3人は部屋から退出し、部屋にはユリアとジグルド、そしてヴィーノが残った。ヴィーノは扉近くに立ち、腕を組みながらユリアを睨んでいる。



「……怪我はないか?」



 ジグルドの心配する声に、ユリアはふるりと体を震わせた。深い絶望と諦めが彼女を襲う。


(任務、失敗ね……)


 自分は泳がされていただけだったのだと、ユリアは自嘲の笑みを浮かべた。タリアの過去の来訪も、ムンディルの屋敷襲撃事件の犯人であるタリアと関わりがあることも露見されてしまった。ユリアが暗殺者であることも既に分かっていたのだろう。

 彼女は首を差し出すようにして、頭を垂れた。



「覚悟は、できています」



 命が終わる瞬間は、こんな感じなのかとユリアは他人事のように思った。

 首への衝撃に備えて体を硬直させたが、いつまで経っても想像していた痛みは来なかった。そろりと顔をあげれば、不思議そうな表情を浮かべたジグルドが立っている。



「何をしている?」

「……私を殺さないのですか」

「何故?」



 ジグルドは唇だけを動かした。顔の筋肉が全く動かない男の表情を見て、ユリアは納得した。


(楽には死なせないということね……)


 暗殺を生業とする家に生まれた以上、痛みに対する訓練も行っていた。どんな激痛を与えられても、家や任務に関しての情報を吐かない自信もある。しかしこれから待ち受ける数々の拷問を想像すると、息が苦しくなった。ユリアは立ち上がり、ジグルドの目を見据える。



「わかりました。地下牢へ行けばいいのですね?」

「あの男に会いたいのか?」



 ジグルドの疑問に、ユリアは眉根を寄せる。何だか会話が噛み合っていない気がする。

 彼女は先ほどまで浮かんでいた考えを口にした。



「私を拷問して、情報を吐かせたいのでしょう?」

「……」



 ジグルドの紫の瞳がわずかに大きくなった。ユリアはますます混乱する。

 戸惑うような空気が2人の間に流れた。沈黙をやぶったのはジグルドだった。



「俺は君を痛めつけるつもりはない。拷問など以ての外だ」

「暗殺者の私に情けをかけるのですか?」



 ユリアは前髪をかきあげ、自棄になって言った。

「暗殺者?」と返すジグルドに、彼女は苛ついた。この期に及んでまだ白を切らすのかと叫びたくなる。ちなみにヴィーノは「だから言ったじゃないか!」と内心ジグルドのことを責め立てていた。

 ジグルドはしばらく「ふむ」と考え込み、ふっと笑った。初めて見る笑顔に、ユリアは思わず見つめてしまう。



「困った。それでも俺は君を痛めつけることができない」

「な、なぜ……」

「君には感謝しているからな」

「感謝……?」

「あぁ妖精みたいな君に出会ってから、俺の人生は薔薇色になった」



 急に出てきた「妖精」「薔薇色」というメルヘンな単語に、目を見開くユリア。ヴィーノは「やめろ、それ以上言うな」と頭をかきむしっている。そんな彼に気づくことなく、ジグルドは言葉を並べはじめた。



「漆黒のなめらかな髪と、春の空を思わせるような水色の瞳、桜の色づきを思わせるような薄紅色の頬。スープを飲む姿も洗練されていて、見ていていつも癒やされていた。声もまるで底まで透き通る泉のように澄んでいて、いつまでも聞いていたいと思っていた。あぁ黒いドレスを着た姿も素晴らしかった。ドレスショップごと買い上げたいと思ったほどだ。君が来てから俺の人生は彩り豊かなものになった。本当に感謝している」

「………………………………」



 口を金魚のようにパクパクと開閉させ、言葉が紡げなくなっているユリア。

 扉の近くでは無言で頭を抱えるヴィーノがいた。ジグルドは真顔でユリアを捉え続けている。


 ユリアの脳内では、今までの夫たちとの会話が走馬灯のように流れていた。


「かわいい」「まるで人形のようだ」と男たちは口々に褒め、ユリアを愛でた。そのたびに彼女の心の一部が冷え切っていった。彼らが見ているのはユリアではない。暗殺者という本性を隠した、従順で可憐な仮面をかぶった令嬢だった。


 しかしジグルドはユリアの本性を知った上で、歯の浮くようなセリフを並べた。普通の令嬢であればドン引きする場面かもしれない。しかしユリアはあまりにも自分自身を見てもらえる機会がなかった。それ故に耐性がなかった。


 彼女は顔を真っ赤にさせた。「なっ、なっ……」とうわずった声で言い、両手で頬を包む。そんなユリアの様子を見て、ヴィーノは「えぇ……」と絶句したように呟いた。



「そこで照れるの……?」



 しかしヴィーノの呟きが2人に聞こえることはなかった。



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暗殺ターゲットになぜか溺愛されています?! 海城あおの @umishiro_aono

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