第8話 魔物の襲来



半月が浮かんでいた。

月明かりが窓際の椅子を淡く縁取り、レースのカーテンが音をたてずに揺れていた。カーテンの揺れを見つめながら、ユリアはひたすら来訪者を待ち続ける。

すると突然、冷たい風が吹き込んだ。闇に溶け込むような黒い服を身にまとい、ぬるりと男が部屋に入り込む。



「よォ」



挨拶と、笑みらしき表情を浮かべた顔。前回の来訪とまったく同じやり取りだ。

ユリアは兄の顔を見て、気が重くなる心地がした。案の定、彼は任務の進捗について問う。ユリアは一瞬、嘘をつこうか迷った。しかし、それが自分の首を絞めることは明らかだった。深呼吸をし、覚悟を決めて口を開く。



「長期の任務になりそうだわ」

「……そう思った根拠は?」



男の張り付けられた笑みが少し歪み、声は5度ほど低くなった。ユリアは今日見たジグルドの訓練の様子を思い出しながら言葉をこぼす。



「訓練場で戦う姿を見たわ。彼は……あまりにも、強すぎる」



男は窓際の椅子に座り、肘掛けに肘を乗せて片頬をついた。「ふうん」と考えるような素振りを見せたあと、人差し指でユリアを指し示した。その仕草には、どこか侮蔑的な雰囲気があった。



「訓練相手は部下だろう? 動きもよく知っているはずだ」

「そ、それでも」



反抗しようとユリアが口を開こうとしたら、男は鋭い視線で射貫いた。その目には、冷酷さと何か捉えどころのない狂気のようなものが宿っていた。ユリアが幼い頃、男にされた「しつけ」という名の暴力を思い出し、震えながら押し黙る。

男は指を口元にあて、にやりと笑いながら言う。



「いい作戦がある」

「作戦……?」

「あぁ、お前は黙って屋敷で過ごしていればいい」



訳がわからず覗うような視線を送るが、男は何一つ情報を与えなかった。ニヤニヤと楽しそうに窓の外を眺めている。その表情を見て背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、ユリアはただ頷くことしかできなかった。







男が言う「作戦」にどこか引っかかりを感じながら、ユリアは毎日を過ごしていた。


ユリアの兄ーータリアはベルフォルカ家2番目の兄である。家の期待を一身に受けて育ち、彼も事も無げに期待に応えてきた。しかしあるターゲットを殺そうとしたとき、抵抗を受け、左腕を隠しナイフで刺されてしまった。ターゲットを殺すことは成功したものの、刺された場所が悪く、彼の腕には軽い麻痺が残ってしまった。


その日から、タリアが暗殺者として生きる道は絶たれた。


現在は他兄弟の暗殺の後始末や雑用などを任されているが、その仕事が彼にとってひどく退屈なものであると、ユリアは知っていた。

彼女は窓際で立ち尽くしながら、幼い頃の記憶を思い出す。


ユリアが5歳くらいの頃だった。

話し声が聞こえて部屋をこっそりと覗けば、両親から期待の言葉を一身に受け、あどけない笑みを浮かべるタリアがいた。



「タリア、お前はベルフォルカ家の誇りだ」

「ありがとうございます、父上」



幼いユリアは、兄の横顔を見つめていた。その姿は輝かしく、まるで英雄のようだった。「兄さんはすごいんだわ」と尊敬のまなざしを向けていたのだーーあの日までは。


記憶は突如として、別の場面へと移り変わる。


夕方だった。何やら物音がしてユリアは屋敷の裏側へと回った。ゴン、ゴンと何か固いもの同士をぶつける音。一日中陽が当たらないそこは陰湿で、湿った土の匂いと、どんよりと重い空気が流れていた。

そんな場所にタリアはうずくまって、何やら腕を振り上げては、思い切り地面に向かって振り落としている。ユリアには背を向けた状態のため、何を叩いているかはよく見えない。

タリアは恍惚とした声で言った。



「脳と心臓ってこうなってるんだァ……」



はっとユリアは我に返った。過去を消し去るように、ふるふると首を振る。


あの日から、ユリアにとってタリアは「尊敬する兄」から「絶対に逆らってはいけない兄」に変化した。幼い頃に受けた「しつけ」の影響もあるだろうが、理由はそれだけではなかった。人としての何かが欠如しているようなタリアの本性が、彼女に恐怖を植え付けさせたのだ。


頭を窓に押しつけるようにし、風景を眺める。屋敷へ来て2ヶ月が経とうとしていた。

この屋敷へ来た頃は厳しい冬が訪れていたが、少しずつ春の兆しが見えてきた。切り裂くような寒さはやわらぎ、風の中にも花の匂いを感じるようになった。


(タイムリミットは次の冬まで)


そこまでにジグルドを亡き者にしなければ、任務は失敗とみなされる。失敗すれば口封じも兼ねて自分は殺されるだろうとユリアには確信があった。


(逃げちゃえば?)


ふっ、と心から声が聞こえる。あぁまただとユリアは聞こえないフリをした。ドレスショップの帰り、ジグルドと会話した日からユリアは謎の声に悩まされていた。


庭を歩いているとき、朝食を食べているとき、任務について考えているとき、ふとした瞬間に泡のようにぽこりと声が聞こえてくるのだ。厄介なのは、どこか懐かしい少女の声を聞くと、心臓あたりがぎゅっと痛くなることだ。

その痛みは、忘れかけていた何かを思い出させるような、切なさを伴うものだった。


痛みを誤魔化すようにして遠くに目線を向ければ、黒い塊が見えた。何だろうと眺めていると、地響きのような揺れが床から伝わってくる。黒い塊はだんだんと大きくなり、それが何かの集団であることが見えてきた。

目をこらすと、それは人型の魔物の群れだった。魔物の軍勢が、全速力で屋敷に向かって走ってくる。頭の中で警鐘が鳴った。


ユリアは反射的にドレスの上から武器をおさえる。腹あたりの隠しポケットと、かかとにも触れる。大丈夫、武器はあると確認したユリアは部屋を飛び出した。


今日はジグルドもヴィーノも訓練場へ行っており、屋敷にはいない。ライカは街に出かけており、この屋敷にはユリアとナシリアしかいなかった。あの大群と戦闘になれば間違いなく殺される。逃げの一手しかないと全速力で玄関へと走った。


屋敷を出れば、数体の魔物が既に屋敷の前におり、ユリアの姿を捉えて咆哮をあげた。ものすごい勢いでこちらへ向かってくる。逆方向へ逃げようとするが、そこには魔物が一体、待ち構えていた。


(殺るしかない……!)


ドレスの裾をあげナイフを取りだそうとしたとき、端目に黒い影が素早く通り過ぎた。影の正体を把握するより先に、ユリアの元に届いたのは鈍い衝撃音だった。



「ユリア様! 大丈夫ですか?!」



目の前に立っていたのはナシリアだった。こちらを振り向いて、心配そうな瞳で尋ねてくる。「ひっ」と思わず悲鳴を飲み込んだ。温厚で、人の良さそうな笑みを浮かべていたナシリアの手には、巨大なメイスが握られていた。

見るからに殺傷能力が高そうなメイスを振り回し、何度も魔物の頭をたたきつける。ゴォンと骨が割れる音がして、魔物はその場で倒れ込んだ。「こっちです!」とナシリアは言う。彼女の顔には魔物の返り血がびっしりと付着していた。


走りながら彼女に問う。



「あの魔物は……」

「ムンディルという巨人の魔物です。普段は山から出てこない魔物のはずなんですが……」



困惑したようにナシリアは呟く。巨人たちの足音がいくつも2人を追いかける。屋敷の裏手へと回ったとき、巨人たちが何故あそこまで怒りを露わにしていたのかを理解した。



そこにはムンディルの生首があった。大きさからしておそらく子どもだろう。

片付け忘れたボールのように、ころりと首が転がっている。



「なんですかこれ……!?」



ナシリアが声をあげる。一方でユリアの脳内には、薄ら笑いを浮かべたタリアの顔が浮かんだ。


(まさか、作戦って……!)


ウォオオオオと叫び声が轟いた。このままではマズいと全速力でその場から離れる。巨人たちの地を踏みならす音を背中にして、広大な裏庭を必死に逃げ続ける。


敷地を抜けた先は森が広がっていた。どこかに隠れられたらと見回すが、巨人たちの足が速すぎた。木を次々になぎ倒しながら、ナシリアとユリアを追いかける。



「あぁもうしつこいですね!」



ナシリアは振り向き、メイスを構えた。巨人が2体、彼女に向かって襲いかかる。

ナシリアは横に飛び退き、攻撃を回避した。同時に脇腹に思い切りメイスを打ち込む。

「ぐうっ」とうめき声をあげてムンディルは倒れたが、もう一体が拳でなぎ払うようにナシリアを殴った。彼女は咄嗟にメイスで防御したが、そのまま吹き飛ばされてしまう。



「ナシリアさん!」


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