第5話 志願
そのまま家を出て、あてもなくただ町を歩いた。
きっとすごく悲しいはずなのに、ぽっかりと穴が開いたみたいになって、何も感じない。
これからどうしよう。
少なくとももうペターク商会で働くのは嫌だった。
同僚達とは仲良くやっていたと思う。嫌いではない。
だがしばらくはテオの顔もクラーラの顔も見たくなかった。
そんな風に思う自分が嫌だったが、そう思って当然だと考え直した。
距離を置きたい。
多分、今の自分には距離と時間が必要だ。
でも家に帰ればあの提案を迫られる。
――そもそも自分の帰る家は、最早どこなんだろう?
エステルはそこに思い至って、スッと体温が下がる心地がした。
学校から戻った後はほとんどペターク商会に行っていて、家には寝るために帰るぐらいでしかなかった。
忙しい時はペターク家で泊まることすらあった。勿論客室なんかじゃなくて、空いている使用人部屋の冷たい湿ったベッドでだ。
家族の顔を一週間見てなかった時さえある。元々商会の都合で家族全員が揃うのが当然というわけにはいかない家だったが、それでも子供の頃は可能な限り夕食は家族で共にしていたと思う。
私が夜遅くまで働いている時も両親とクラーラは一緒に夕食を囲んでいたのだろうか。
クラーラはずっと家に居るからそうなんだろう。
私はいなくてもいい。
エステルは傾いてきた太陽を背に、ふふっと笑った。
別に親に可愛がられたかった、というほどではない。
ただ妹と、クラーラと同じように接して欲しかった。
使用人を見るみたいな目で見ないで欲しかった。
丁度良い道具みたいに思わないで欲しかった。
テオやペターク商会の役に立ちたかった。
一生懸命勉強して、学費のために働いて、領都の店を調べたりして、友達と遊びに行くこともなかった。
テオが好きだったから。
テオの為になると思ったから。
テオに好かれたかったから。
結婚して良かったと思われたかったから。
でもクラーラの方がいいんだって!
そっかあ。
じゃあ、しょうがないね……
◇
エステルはふらふらと町を歩き続け、ふと、とある看板が目に入った。
「国軍兵訓練所・志願者受付中」
国軍とはここハンゼルカ王国の王国軍のことだ。
そういえば学校で習ったな、とエステルは思い出した。
国軍では平民から志願兵を常時受け付けている。
志願書にサインした時からその身柄は国軍預かりとなり、自由を失うかわりに衣食住を保証され、訓練所で訓練を受ける。訓練中は給料も支払われる。
訓練後、決められた年数の従軍義務があるが、それが終われば自由となり、そのまま国軍に勤め続けてもいいし、除隊してもよい。
そんな制度だった気がする。
エステルはふらふらと看板に向かって歩き、その横の開かれたドアを潜り、カウンターへ向かった。
カウンター奥で暇そうに頬杖を突いていた兵士がエステルを見て、ギョッとして立ち上がる。
「お嬢さん、ここはお店じゃないですよ。国軍の窓口です」
「看板を見たから知ってるわ。志願書を頂戴」
「は?」
「志願するから、志願書を頂戴」
「……本気で? 何か……そう、罰ゲームとかではなく?」
「志願するから、志願書を頂戴」
エステルは繰り返した。
この町からいなくなりたい。
あの人達のいないところへ行きたい。
でも自分一人ではどこにも行けない。
国軍なら力ずくでどこかへ連れ去ってくれる。
エステルはそう思った。
それに国軍の所属になればまず軍の意向、次に兵士の意志が尊重される。
親であっても手出しはできない。
「その……申し訳ないのですが、志願兵は男子に限るので」
「……は?」
「女性は、対象外なのです」
考えてみれば当然だった。遅まきながらそこに気付く。
女性の騎士はいる。貴人女性の警護に必要があるからだ。
だが騎士は基本的に貴族の子女が通う王立学院の卒業生がなるものだ。
国軍に女性兵士の枠はなかった。
「……そうですよね」
エステルはがっくりと座り込んでしまった。
兵士が慌ててカウンターから出て、椅子に誘導してくれる。
されるがままに椅子に腰を下ろし、項垂れた。
すべてが思い通りにいかない。
あの人達は思い通りにしているのに。
私はなんて駄目なんだろう。
エステルが落ち込んでいると、不意にいい香りが鼻腔をくすぐった。
のろのろと顔を上げるとサイドテーブルに無骨なカップが置かれ、芳醇な香りを漂わせている。
「どうぞ。一杯飲んで、落ち着いて」
更に顔を上げると、困惑顔の兵士と共に、もう一人別の兵士が立っていた。
カウンターに居た兵士とは服が違う。随分と立派だ。上官だろうか。
ぱりっとしていて、背も高く体格もいい。
このあたりでは珍しい若葉色の瞳に、柔らかそうな薄茶の髪は後ろで縛ってある。
隣国の軍人は髪を刈り上げるらしいが、ここハンゼルカ王国では自由だ。
昔は急所である首裏を隠すために戦士は髪を長く伸ばしていたので、今でも軍人、特に士官は髪を長めに整える人が多い。と、学校で知った。
いかにも優秀そうな顔をしている。
男性の美醜はエステルにはよく判らないが、多分美形と呼ばれる範疇なのではないかと思う。
どうでもいいが。
エステルはお礼を言うとカップを手に取った。
本当に良い香りがする。高級な茶葉に違いない。
一口飲むと華やかな香りと甘味すら感じる味わいに驚く。
こんな上等な葉をよく判らない迷い込んだ小娘に出してくれるなんて。
軍はいいところだな。エステルは思った。
「志願でいらしたとか。――失礼、私はクリストッフェル・デ・フレーテス。言いにくいと評判なのでフレーテスとお呼びください」
見た目の割に愛嬌のある様子でよろしくと手を差し出された。
エステルは習い覚えた動きでその手を握り返す。商談の前と後にする握手だ。
「……はい。でも女性はダメなんですね。言われてみればそうでした。お騒がせしてすみません」
エステルはカウンターの兵士にも頭を下げ、立ち上がろうとした。
「お待ちください、まずはご事情をうかがっても? お力になれると思います」
「本当ですか」
エステルは座り直した。藁にも縋る思いだった。
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