第5話 亜空間記憶残響
目を覚ますと、再び光に包まれていた。だが、前とは違う。今度は光の中に何かが浮かんでいる。断片的な映像や音、そして感情が、まるでスクリーンの上に映し出されるように次々と現れては消えていく。俺はその中で立ち尽くし、目の前に広がるこの奇妙な光景に圧倒されていた。
「これは…俺の記憶か?」
ふと、俺の心に浮かんだその言葉は、正解のように響いた。そう、これは俺の記憶だ。だが、ただの記憶ではない。深く、忘れ去られた、あるいは無意識のうちに閉じ込めてしまった記憶。俺が生きていた頃の、もっと前の記憶だ。
次第にその映像がはっきりとした形を持ち始めた。目の前に現れたのは、幼い俺が母親の手を引かれて歩く光景だった。街角の古びたパン屋の前で、俺は母親にねだってパンを買ってもらったことを思い出す。あの日の風景、パンの香り、母の笑顔――すべてが鮮明に蘇ってきた。
「懐かしい…」
自然とそう呟く俺の目に、涙がにじんでいた。母親と過ごした日々の記憶は、いつしか俺の心の奥深くに眠ってしまっていた。だが、今、その記憶が再び蘇り、俺の胸に強い感情を呼び起こしている。
「母さん…」
俺はその場で立ち尽くし、手を伸ばした。だが、記憶の中の母親は俺の手を取ることなく、遠ざかっていく。俺は慌てて彼女を追いかけようとするが、足が動かない。目の前の映像が徐々に薄れていき、再び光に包まれた空間に戻ってきた。
「どうして…どうしてこんなことを思い出すんだ?」
俺はその場に座り込んだ。胸の奥で何かが疼く。忘れ去りたいと願っていた記憶が、次々と蘇ってきているのだ。母親との別れ、友人との喧嘩、そして最期の日々――すべてが鮮明に浮かび上がる。
「まだ、成仏はできない…ということか。」
先ほどまでの確信が揺らぎ始める。成仏するために、俺は自分自身を許したはずだ。それなのに、なぜ今になって過去の記憶がこれほど鮮明に蘇るのか? そして、なぜこれらの記憶が俺を引き止めるのか?
「君が抱えているのは、まだ未解決の問題だ。」
突然、あの穏やかな声が耳元で響いた。俺は驚いて顔を上げると、先ほどの白いローブをまとった人物が再び現れていた。
「君が自分自身を許したことは素晴らしいことだ。だが、まだ心の奥底に隠れている感情がある。それを見つめ直すことが、君の最後の試練だ。」
「最後の試練…」
俺はその言葉を反芻した。そして、自分の心の中に再び目を向ける。確かに、俺の中にはまだ何かが引っかかっている。何かが俺を縛り付け、前に進むことを拒んでいる。
「君の記憶の中に、未解決の感情がある。それを見つめ直し、解決することが成仏への道となる。」
彼の言葉に、俺はゆっくりと頷いた。たしかに、母親との別れや過去の友人との出来事が俺の中に強く残っている。それが俺をここに留めている原因なのだろう。
「どうすれば…解決できるんだ?」
俺の問いに、彼は優しく微笑んで答えた。
「自分自身と対話することだ。過去の自分と向き合い、その感情を受け入れることが大切だ。」
その言葉に、俺は再び目を閉じた。そして、深く呼吸をして心を落ち着ける。目の前に浮かんでいるのは、過去の俺自身だ。幼い頃の俺、青春時代の俺、そして最期の俺。すべてが俺であり、今の俺を形作っている。
「俺は、君たちを受け入れる。」
その言葉を胸の奥から絞り出すようにして呟くと、目の前の映像が再び動き出した。今度は、俺の記憶の中の人物たちが一斉に動き始める。母親の笑顔、友人の怒り、そして最期の俺の無力感――それらが次々と俺の前に現れ、俺を取り囲んでいく。
だが、今回は違う。俺はそれらの感情をしっかりと見つめ、受け入れることを決意した。母親の愛情、友人との絆、そして最期に感じた恐怖――それらすべてが俺の一部であり、それを拒むことなく受け入れる。
「これが、俺の人生だ。」
そう言葉にした瞬間、周囲の光景が再び揺らぎ始めた。そして、俺の心の中で何かが解き放たれる感覚がした。まるで重荷が取り除かれたかのように、胸の奥が軽くなる。
「これで、君は成仏できるだろう。」
再び、彼の声が響いた。俺は深く頷き、彼に感謝の言葉を伝えた。
「ありがとう。俺は、ようやく前に進むことができる。」
彼は微笑んで俺の手を取った。そして、再び草原へと戻ってきた。だが、今度は何かが違う。俺の心には確かな安らぎが広がっていた。
「君の旅はこれで終わりだ。」
彼の言葉に、俺は深い感謝を感じながら、目の前の光景を見つめた。草原の向こうには、眩い光が広がっている。その光の中に、俺は歩みを進める決意を固めた。
「さようなら、俺の過去。そして、ありがとう。」
そう呟きながら、俺はゆっくりと光の中へと歩みを進めた。光が俺を包み込み、次第に全てが白く染まっていく。そして、俺は最後の一歩を踏み出した。
その瞬間、全てが静かになり、俺の心には深い平安が訪れた。成仏すること、それは自分自身を受け入れ、過去を乗り越えることだ。そして、新たな始まりへの第一歩を踏み出すことでもあるのだと、俺はようやく理解した。
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