第26話 林道脇の廃ワゴン(2/2)★
昨日とはうって変わり、一晩寝てもまるで気分は晴れなかった。
そもそも寝つくのに苦労した。瞼を閉じると、作り物じみたおばさんの笑顔や、バケモノの汚れた口元が頭に浮かぶのだ。
その度に、気にするなって自分に言い聞かせた。おばさんはやばい人っぽいが、少なくとも身バレはしていない。それが確認できただけでも良しとするべきだと。
Sには事情を知られているが、少なくともあいつから俺の話が漏れることはないだろう。できれば今後は林道を通るのも避けたいと思ったが、あの道を通らないと学校への到着が20分くらい遅れてしまう。たまにならいいが毎日はきつい。
確か昨日の朝にSがおばさんから話しかけられたのは林道。夕方に俺たちが話しかけられたのは交差点だった。
どこであのおばさんが見ているかわからない。通る時はなるべくワゴンのことを意識しないようにする——それくらいしかできることはなさそうだ。
いろいろ考えながら朝の支度をしてたら、いつもより家を出るのが遅れてしまった。朝食を食べる暇もなかったので、ゼリー飲料を咥えて玄関を出た。
そしたらだ。いつも使ってる通学用の自転車がパンクしていることに気がついた。
重なった不運にイラついて俺は頭を掻いた。修理してたら始業にはとても間に合わない。
仕方なく俺はガレージからロードバイクを引っ張り出した。通学許可シールを貼ってないので先生に事情を話す必要があるが、親に送ってもらうと帰りが徒歩になる可能性がある。それは面倒だった。
ロードバイクにカバンを括り付けて家を出る。いつもよりペダルが重く感じた。
しかしもうすぐ林道、ってとこで見慣れた姿を見つけた。Sだった。
Sは自転車を降りてスマホを見ていたが、俺の姿を見つけると「よう」と手を振った。昨日の今日で俺が不安がってるんじゃないかと、待ってくれていたらしい。
二人で走り始めると、Sは「そういえば、今日はロードバイクだな」って聞いてきた。朝みたらいつもの自転車がパンクしてたって話すと、パンクしたときに気づくだろって笑われた。確かにだ。いつパンクしたんだろう。
それからはいつもの雑談。一人でいる時より格段に気が紛れた。林道の廃ワゴンは少し気になったけど、気づいたら学校に到着したくらいの感じだ。
教室に入ったのはいつもよりちょっと遅い時間だった。
すると室内がザワザワしているのに気がついた。
なんかあったんだろうか? そう思ってたら、こっちから聞く前にクラスメイトの一人が俺に「すまん!」って謝りにきた。昨日、女子たちに俺が猫を助けた活躍を広めたやつだ。
いやなんの謝罪かわからん、って思って事情を尋ねる。
するとそいつの口からゾッとするような情報が飛び出した。
「昨日の帰りにさ……校門のところに変なおばさんがいたんだよ。後輩を待ってたら、そのおばさんが『ネコを助けた男の子を知りませんか』って聞いてきてさ。
悪いことした話じゃないから、つい俺……『それ多分うちのクラスのやつですよ』って答えたんだ。
そしたら笑顔だったおばさんは急に真顔になって『名前は?』とか『どこに住んでる?』とか……挙句の果てには写真を見せて欲しいとか言ってきてさ。そこでやっと普通じゃないなって思って『個人情報なんで』って、いったん校舎に逃げたんだよ。
それで遠くから校門を覗いたら、おばさんは門を通る生徒に片っ端から質問をしてんの。
どう考えてもヤバいから、変な人がいるって先生に報告したんだ。そしたら先生が声かけた……のかどうかは見てないんだけど、帰る時にはおばさんはいなくなってたんだけどさ』
そして再び「マズかったならごめん!」と両手を合わせるクラスメイト。俺は混乱しながら「いや、名前とかは言ってないんだろ。大丈夫……」と言い聞かせた。たぶん自分自身に向けて。
一緒に聞いていたSが「うちのクラスの女子たちは」と尋ねる。たしか何人かに言いふらしていたはずだ。しかし彼女らはそもそも警戒しておばさんを無視をしたらしい。そのあたり、女子の方が警戒するセンサーが鋭いのかとホッとした。
そうは言ってもその日は一日、勉強も部活も手につかなかった。練習も上の空で、先輩に「体調悪いの?」って聞かれたくらいだ。
あと15分もすれば練習も終わりだったが、俺は早めに上がらせてもらうことになった。少しでも明るいうちに帰れるのはありがたいと思った。
とはいえ部活がある日は下校する生徒が分散するため、ただでさえ人の通りが少ない。そんな状況で廃ワゴンのある林道を通るのが嫌で、俺はきついのを承知で迂回するルートで家まで帰ることにした。
迂回ルートは林道を通るのに比べて余分に時間がかかる。おまけに勾配も激しい。ロードバイクに乗っていたのは不幸中の幸いだった。
そして家がもうすぐ見えてくる頃になって——俺の耳が動物の鳴き声を拾った。
道の脇にある畑から聞こえる、ニャーニャーという声。
自転車を停めて草をかき分けると、そこには罠にかかった子猫がいた。
土で隠すように埋められた鼠取りのような装置が子猫の足に噛みついている。薄い茶色の毛が赤く染まり、関節から先が変な方向に曲がっていた。
子猫は俺を見ると、怯えるような、助けを求めるような、複雑な色を帯びた声を上げた。
——なんだよこれ……ひでえことしやがる。
俺は夢中になって罠を引っ張った。力ずくでは外れないが、小さいフックみたいな部品を押しながら下におろすと外すことができた。
足が外れた子猫はその場から逃げるようにヨタヨタと歩き始める。いやこんな有様じゃカラスとかに見つかって終わりだろう。
ひとまず家で治療しないと。そう思って俺は子猫を抱き抱えた。その時だった。
「あなた、猫アレルギーじゃないわねえ」
底冷えするような声が背後から聞こえた。
振り向くと、顔面から数センチの距離におばさんのあの笑顔が迫っていた。
「横取りしたのは、変わった自転車に乗った男のニンゲンって聞いたけど……それ、あなたのことねぇ?」
「え、ち、違……」
「おばさんと行きましょう、見てもらえばわかるから。
ああ、よかった。良かった。これであたしは大丈夫〜」
変なリズムの歌みたいに言い出すおばさん。表情とか声色とか全部ひっくるめて体感したことのないサイコ感に吐き気すらした。
このままだと殺される。根拠もなくそう思った。
するとその時……かすかにサイレンの音が聞こえた。
救急車とか消防車とかいろいろあるけど、あれは間違いない。パトカーのサイレンだった。
それが徐々に大きくなって聞こえてくる。ワンテンポ遅れておばさんの耳にも届いたのだろう。おばさんは独り言をピタッとやめると、バッと音が出るんじゃないかってくらい激しく顔を上げて道の先を見た。
そして曲がり角の向こうから「お巡りさん、こっちです!!」の声。
おばさんはもう一度俺を見ると、剥がれるんじゃないかってくらい激しく爪を噛んでその場を走り去った。信じられないスピードだった。
俺はというと完全に腰が抜けていて、呆然とサイレンの聞こえる曲がり角を見た。
すると顔を覗かせたのは——スマホを手にしたSだった。
スマホからはサイレンの音が延々と流れている。
「は……S……? あれ、パトカー……」
俺が口を開くと「いや、警察なんていねーよ……」と、Sもまたへたり込むようにその場に膝をついた。
話を聞くとSは俺が心配になり、俺の家まで寄ろうと考えたらしい。
そしたらおばさんが俺にグイッと顔を近づけている光景に出くわした。
後ろで組まれていたおばさんの手には包丁が握られていたという。
パトカーのサイレンは、通報しても間に合わないと思ったSの機転だったのだ。
さすがにこの話は両親にも警察にも黙っているわけにはいかなかった。その日のうちに俺は両親と警察に駆け込んで事情を話した。
警察はすぐに緊急配備をしき、廃ワゴン車の捜査にも動いてくれた。
次の日は怖くて学校を休んだ。すると警察の人がやってきて、廃ワゴンの特徴についていろいろ聞かれた。
いや昨日、捜査したんでしょ? って聞いたら、あのワゴンは林道脇から消えていたそうだ。
それからあの場所でも他の場所でも、俺はワゴンを見かけていない。いなくなってくれたのは幸いだが……まだあのおばさんが捕まっていないことだけは気がかりだ。
そしておばさんは何をしようとしていたのか。何者だったのか。
そして車の中にいたあれは一体……。
できれば一生、知ることなく過ごせることを願うばかりだ。
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