第20話 旧・田ノ浦養老院

 42年の役場勤めでもっとも背筋の凍った体験を話そう。


 もう昔のことだが、私の勤めていた村に“田ノたのうら養老院ようろういん”という施設があった。


 養老院とは老人ホームの前身で、1963年に老人福祉法が制定されるまではそのように呼ばれていた。


 介護は家族で請け負うことが一般的だった時代。ああいった施設は珍しく、県にも数えるほどしかなかった。戦後に開業した田ノ浦養老院は、戦争で身寄りを失った老人たちの受け入れにも積極的で、何度か地方紙にも取り上げられたという。


 私が存在を知ったのは、田ノ浦養老院が書類上は“老人ホーム”に改称した後の話だ。しかし看板の表記は“養老院”のままであり、入居者家族も、地域住民たちも旧称のまま呼んでいた。

 

 田ノ浦養老院は福祉の面だけではなく、村の経済の要でもあった。近隣の街だけでなく、噂を聞いて遠方から親を入居させる家族もあるほどで、地主の家族などから多額の寄付も受けていた。そんな金が道路の補修や村の祭りに回されていた時期もあり、村人たちから“田ノ浦さん“と呼ばれ親しまれていた。


 風向きが変わったのは80年代に入ってすぐのことだ。介護にあたっていた職員たちが大量に離職し、騒ぎとなった。それに伴って、田ノ浦養老院がひた隠しにしてきた様々な問題が浮き彫りとなる。労働環境の悪さはもとより、杜撰な衛生管理、虐待ともいえる介護実態などが離職した職員の口から語られたのだ。

 

 最終的には経営者の一族にまで捜査の手が伸び、逮捕。親族ではない幹部の一人が経営を引き継ぐも悪い噂の払拭には至らず、一年後に廃業となった。


 ——私がそんな田ノ浦養老院に立ち入ったのは、建物が廃墟となって3年後のことだった。


 廃業後、施設の土地と建物は村の管理下へとおさまっていた。村が色々と手を回し、多方面への補償で首が回らなくなった経営一族から買い叩いたという話だ。施設は当時、村には珍しかったコンクリート造りの二階建てで、何かしらの利用価値があると判断されたらしい。


 しかし村の議会もいい加減なもので、その施設をどう利用するかは人任せときた。具体的な案はまとまらないまま施設は放置され、それでも村の管理物件である以上は定期的に様子を見てこないといけない。それが私に命じられた仕事だった。


 利用する予定も決まっていない廃墟の見回りなど気が進むはずがない。しかしそれ以上に私の腰を重くしたのは、課長からの忠告だった。


 危険だと判断したらすぐ戻れ。


 嫌なことを思い出すような表情でそう言うのだ。


 実は以前にも二度ほど、田ノ浦養老院には役場の人間が見回りに入っている。しかしその二回とも、施設の最奥まで見回ることができずに引き返したという過去があった。

 

 今の課長は見回りを経験した職員の一人で、宴会の席ではあるが、その時の感想を一言こうこぼした。


 あそこはお化け屋敷だ、と。


「上の思いつきで急に派遣しなきゃならないことになってすまない。本来なら誰か同行させたいところだが」

 

 申し訳なさそうな課長に、私は「いえ」と首を横に振った。村をあげた収穫祭が迫っていて職員は皆手が離せず、課長はその中でもいちばん忙しい立場にある。わがままを言える状況ではないのはわかっていた。


 私があのお化け屋敷に足を踏み入れたのはそんな経緯いきさつだった。





 


 砂利と雑草の駐車場に自転車を停め、私は正面玄関へ通じる石畳を歩いた。竹林がそばにあるせいか通路の侵食が早く、昼間にもかかわらず辺りは鬱蒼としていた。


 ゲートボール場のような広場を横目に、ガラス扉に鍵を差し込む。出迎えたのはスチール製の下駄箱と施設の案内板だった。


 医務室、食堂、職員駐在所、交流ルーム、浴場、汚物処理室……など。ここ東棟の1階には介護施設として必要な設備が集まっていた。そのほかに個室が4部屋あった。2階は全て個室となっており、部屋数は14部屋ほど。東棟だけでも、村の建造物としては学校に並ぶ規模と言っていい。


 西棟へつながる廊下は職員駐在所の横から伸びていた。案内板を見る限りでは妙に廊下が長く、敷地スレスレの竹林のそばにあった。西棟には食堂と小さな浴場、そして個室が数部屋。2階はなくて、東棟と比べたらかなり小さい。


 私はまず東棟から見て回った。窓ガラスなどは無事で、埃かぶってはいるものの内部はさほど荒れていなかった。しかし写真や名簿などがそのまま残されており、今ほど個人情報にうるさい時代ではなかったものの、特記事項として記入をしておいた。


 お化け屋敷と聞いて最初は肩に力が入ったものの、東棟の見回りでは何も起こらなかった。


 まあ昼間だし、幽霊と私の労働時間が被っていないことが幸いしたんだろう。そんな軽い気持ちで、私は西棟へ向かう廊下に足を踏み入れた。


 最初に長い廊下があって、西棟に向かうまでには2回の曲がり角がある。そして私は1回目の角を曲がった時、思わず足を止めた。


 目の前に木造の扉が出現したのだ。


 通路を塞ぐ壁と扉は、今まで歩いてきた廊下の壁とは明らかに材質が違った。おそらく建物の建設時にはなくて、後から増設したものだろう。


 扉には開閉式の小窓がついているが、こちらから金属のツマミでロックできるようになっている。拘置所の独房をイメージするような扉だ。


 さらにその扉は独特な形の鍵穴をしていた。東棟は大半の部屋がマスターキーで開くのだが、この扉は専用の鍵を使わないと開かないようになっている。


 そうまでして西棟と東棟の行き来を防ぎたい事情があったということか……。私は扉を開けながら、新聞で見た記事を思い出していた。


 田ノ浦養老院が行っていた虐待。

 その大半は、隔離された西棟で行われていたという話だ。


 扉を開けると、心なしか雰囲気が変わった気がした。この扉を境に視界が薄暗くなったのだ。廊下の窓が明らかに小さくなり、外には鉄格子がはまっている。


 介護施設では安全上の理由から、部屋の隔離も必要な場合があるとは聞く。特に徘徊する老人については、施設から出て行方不明になるのを警戒しなくてはならないからだ。


 しかしこの施設の場合は違うと感じた。この扉を境に廊下のカーペットは手入れがなされておらず、下のモルタル材が見えている。蛍光灯も一部が外してあった。設備の管理状況に、合理性からは程遠い差別を感じたからだ。


 年に何件か報告されていた、誤飲や転倒による死亡事故。

 遡って調べられることはなかったが、果たして本当に事故だったのか。


 課長の言っていた「お化け屋敷」という言葉が脳裏によぎった。お化けが出るというのは、誰かの未練がそこに残っているということ。


 それがこうして、腫れ物に触るような形で放置されたままでいいのか——。


 そんな考え事をしていたら、つい足が止まって視線が落ちた。

 ちょうどその時、つま先に丸いものが転がってきて当たった。


 紙風船だった。


 縦に5色で色分けされた、紙風船と聞けば真っ先に思い浮かべるデザインのあれだ。にもかかわらず、私はそれが紙風船だと理解するのに少しの時間を要した。


 この施設は閉鎖されてから3年以上が経っている。紙風船は3年も球形を保っていられるものなのか?


 なぜそれが今、私の足元に転がってくる?


 進行方向にはB棟の食堂が見える。もちろんその先には誰もいない。いるはずがない。


 自分が唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。危険だと思ったらすぐ戻れ……課長に耳打ちされた言葉を思わず呟く自分がいた。


 しかし冷静に考えたら「紙風船が怖くて帰ってきました」ではさすがに面目が立たない。私は意を決して紙風船の転がってきた先、B棟食堂に足を踏み入れる。


 東棟のそれと比べたらこぢんまりとした空間だった。


 白い長机が4つ並び、集団で食事が取れるようになっている。……それ自体は特に言及することもないのだが、私が目を奪われたのは一脚だけ残された椅子だった。


 異様に長い背もたれから垂れる無数の黒いベルト。そして手すりに固定された分厚い革の手袋。


 映画でしか見たことがないが、あれは死刑囚を拘束するような椅子だった。


 それが度を超した代物であることは一目で理解できた。いくら認知症の老人であれ、あんなものに座らされたら尊厳もへったくれもない。


 その形状のおぞましさに体が震えた……それはもちろんだが、さらに私を恐怖のどん底に落としたのはあの空間の不自然さだ。


 廃業直前にこの施設には警察の捜査が入っている。虐待の証拠品はその時に警察が押収したはずだった。


 なぜこの椅子が残されているのか。それも一脚だけ。


 何かを訴えかけるように。


 そんな疑問を抱いたその瞬間だった。




 

「んーー!! んーーーー!!!! んんんーーーーーーーーー!!!!!!」





 突如として断末魔のような唸りが食堂に響いた。 


 同時に椅子がガタガタと揺れ始める。


 その時、私の理性は限界を迎えた。私は恥も外聞もなく喚きながら元きた廊下を逆走する。


 しかし廊下に出たら出たで、心臓が止まるような光景が待っていた。両サイドにある窓の鉄格子、それを黒い手首が握っている。

 ものすごい力で引っ張っているのか、ガシャガシャガシャ! とけたたましい音を立てていた。


 あの時の心情や行動はよく覚えていないし、思い出したくもない。とにかく無我夢中で駐輪場に向かって走り……正気を取り戻した時には自宅の和室にいた。


 農作業から戻った両親が心配して、役場に電話を入れたのだろう。程なくして課長が私の自宅にやってきた。


 そしてひたすら「すまなかった。申し訳ないことをさせてしまった」と繰り返し、頭を下げていた。


 



 

 

 後日、課長は果物の盛り合わせを手土産に改めて私の家へ見舞いにきた。


 課長はまだ謝っていたが、彼も同じような思いをした経験者だと思うと責めることはできなかった。


 それ以降、退職まで私に見回りの仕事が回ってくることはなかった。ちなみに田ノ浦養老院の建物は、利用されることも解体されることもなく今も存在している。不要な建物を買い取った失政の責任を誰も取りたくないのだろう。


 役場の後輩の話では、建物の見回りはやったことにして済ませており、村長もそれを黙認しているようだ。


 そして心霊現象が起きることを知りながら、お祓いや祈祷にあたるような行事も開かれていない。


 問題の先送りと事なかれ主義の遺物と言っていいだろう。あの廃墟は村の歩んできた歴史を教えてくれる。


 そんな村で42年も勤めた、私の言えたことではないがね。

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