第29話 いちはつ園事件(2/2)★
入った部屋は、二段ベッドが左右に一台ずつ設置された寝室だった。そこにはくすんだベッドに腰掛けた村尾の姿があった。
村尾はくすんだ茶色の本に目を落としていた。私がもう一人の柏木の所在を問うと、村尾は「保護をしに」と、短く返した。
――保護って誰を? 続けて聞いた質問には「すぐ戻るそうです」そう村尾は答えた。それ以上は何も言わず黙って本のページをめくった。
私はよっぽど、もう引き上げようと村尾に提案したかった。この施設は何かがおかしい。一刻も早く立ち去るべきだ、と。
しかし年下の村尾が妙に冷静なのと、大騒ぎするもんじゃないという柏木の小言が脳裏を過ぎり、私は何も言えずその場に立ち尽くした。
部屋にはベッドとカレンダーだけがあった。日めくり式のカレンダーは二十年以上も前の日時を示したままに残されている。
村尾の腰かけるベッドには錆びた洗面器と、固くなったタオル。そしてカレンダーの紙で折った、小さな鶴が置かれていた。
「この日記を書いた子が折ったもののようです」
折鶴を見つめる私に、村尾はベッドに腰掛けたまま日記を差し出した。
村尾の指が日記の途中に挟まれており、開いたページにはこんな事が書かれていた。
7月29日
“みんなおなかがすいたよ。
たべものをもらいにいったあさちゃんが、あたまたたかれた。
ちがいっぱいでてごめんね、あさちゃん。なおるといいね。かえれるといいね“
子供の字で書かれたそれは、拙いながらも真に迫る状況を示す文章だった。
私は思わず過去のページを次々にめくった。
25日
“じしんがあった。トンネルがくずれた。
そとにでれなくなった。すこしのあいだがまんしてねってせんせいがいった。
ごうくんたちがけんかをしてた“
26日
“みずがでなくて、せんせいたちがあなをほった。すこしみずがでた。
ためいけのみずはくさくてのめない。
ごはんはひるだけたべれた。またけんかがあった。
トンネルはまだあかない“
27日
“せんせいがたたかれた。みょぉちゃんがつれてかれた。
たべものがぜんぶなくなってた。
はるくんがずっとないてる“
(次のページは絵のみ。棒を持った少年三人の絵)
30日
“おなかすいた。のどがすごくかわいた
トンネルはまだあかない。
はるくんはずっとねてる。
らんぼうしてる。だれかがこえがずっときこえる”
――そこまで読み、私は日記を落として口を押さえた。
まだ日記には続きがあったと思う。しかし、その先を知る勇気が私にはなかった。
「何十年か前に集落で地震の被害があった事は、何かの資料で見た覚えがあります」
えずく私にかまわず、村尾は平坦な声でこんな話をした。
「規模そのものは大した地震ではなかったようです。しかし古い木造家屋の多かった当時の村では、何軒かで建物に被害が生じました。この日記に書かれた日付は、ちょうどその時期と一致しています」
じゃあ“とんねるがくずれた”って……。私が呟くと「僕たちの通ってきた、あのトンネルの事でしょう」村尾は私が飲み込んだ言葉をそのまま口にした。
「もしもこの日記に書かれていることが事実であるとするなら、二十年前の地震で、トンネルの崩落と同時にこの学園は完全に孤立をしてしまった。そして極限状態に置かれたこの場所で、誰もが口を閉ざす程の凄惨な出来事が起きてしまったのかもしれません。
この集落に限らず、昔の田舎では評判というものが非常に重視をされたといいます。学園の存在そのものが記録として残されていなかったのも……つまりはそういうことなのでしょう。
当時の村の大人たちは村ぐるみで根回しを行い、この出来事を禁忌(タブー)とした。そしてコンクリートで塗り固めたトンネルごと、いちはつ園を“なかったもの”のように扱った。
外の人間や、私たちのような若者に知られることがないように、と」
そこまで言うと村尾はベッドを立ち、私に一瞥をも向けず部屋の出入り口へと歩いた。
私はあわてて駆け寄り、村尾の腕をつかんだ。そして、どこへ行くつもりなの、と問うと「保護をしなくてはなりません」と答えて扉のノブを回した。
そして最後
「さっきから聞こえているじゃないですか。
助けて、という声が」
村尾は首だけをこちらに回して言った。
村尾の両目は左右の黒目が別々の方向を向いていた。
喉の奥から短い悲鳴が漏れ、腕を掴む手が緩んだ。村尾は束縛から抜け出すと、聞き取れない独り言を息継ぎもなしに言いながら、ふらふらと廊下に出て行った。
私は千鳥足の村尾を呆然と見送った。けれどこのまま行かせるわけにはいけない。固まる身体を奮い立たせ、私は彼の後を追って廊下に出た。
出ると廊下の上下左右、全方位から子供の笑い声が響いてきた。
その中を村尾は、首をぐらぐらさせ、奇声を漏らしながら、時折両方の壁にぶつかりながら進んでいる。
向かう先には突き当りの部屋があった。風もないのに、ぱたぱたと扉が動いている。まるで手招きをしているみたいに。
そして開いた扉の部屋は、村尾と私のいる方へと迫ってきた。
音もなく。ゆっくりと“突き当りの部屋が近づいてきた”のだ。
ここまで来たらもう他人を案じている余裕はなかった。部屋に飲み込まれようとしている村尾を助けようとすれば、きっと私も助からない。もはや学園を出て助けを求めるしかないと思った。
私は出たばかりの部屋に戻り、バッグで思い切り窓ガラスを叩き割った。そして窓から中庭に降り、校舎を回ってグラウンドへ出た。
そのままグラウンドを突っ切り、校門を走り抜ける。わき目もふらずにトンネルへと向かった。
門さえ出てしまえばトンネルまでの距離はさほどない。
そしてトンネルの外なら電波がつながる。すぐに助けを呼べる。私は細い林道を一心不乱に走り、ついにトンネルの手前まで来た。
全長五十メートルほどの短いトンネル。駆け抜けてしまえば十秒もかからない。
そして幸いなことに、トンネルの向こうには動く人の影が微かに見えた。帰りの遅い私たちを案じて、村人が捜しに来てくれたのかもしれない。
助かった。と、思った。
そう思ってトンネルの中を走った。
しかしその半ばにして、私は硬い何かにぶつかり、しりもちをついた。
暗がりで何にぶつかったのか最初はわからなかった。立ち上がり、もう一度トンネルの出口へ向かおうとした。しかし硬くて、ひんやりとした“何か”が行く手を遮り、その先へ進むことができない。
唖然としてトンネルの向こうへと視線を送る。トンネルの外からは提灯の明りが、人魂のようにこちらへと向かってくる。
その明りが私の目の前にまで寄ったとき、ようやく私は行く手を遮るものの正体がわかった。
柵。
格子状に巡らされた鋼鉄の柵が、トンネルの内部に建築されていたのだ。
顔すら入れられないほど綿密に組まれた格子に、そこへ張られた無数の札。異様な壁が“こちら側”と“向こう側”の行き来を遮っていた。
目の前には五十~六十歳を超える老人たちが、提灯を持って柵の前に集まっていた。しかしその時は集まった顔ぶれなどどうでもよかった。
よかった。人がいて。
中で大変なことがあったんです。
柏木さんも村尾もまだ中にいます。
早く柵を外して。ここから出してください。
私は柵に掴みかかり、目の前の老人たちに必死で訴えた。しかし老人たちは両手を合わせ、何かお経のような言葉をぶつぶつ言うばかり。
私の声は聞こえているし見えているに決まっている。なのに誰一人として私に目を合わせない。まるで“存在していない”かのように扱うのだ。
何をしているんですか?
冗談はやめて……ください。本当に怖いの。遊んでいる場合じゃないんです。
訴えながら柵に力を込めた。しかし柵は軋む音さえも立てず、ただ老人たちのしわがれ声ばかりがトンネルに響く。
ほどなくしてトンネルの向こうからはリヤカーを引く老人が姿を見せた。リヤカーには袋がたくさん積まれていた。
土嚢というものだ。洪水とかで水を防ぐために使うあれ。
――嫌な予感がして、訴える声を一段と強める。しかし老人たちはお経を唱えながら、柵の向こうに黙々と土嚢を積んでゆく。
嘘でしょ……?
ねぇ、やめてよ。……やめなさいよっ!
――本当にもうまずいの。聞こえるでしょ、ねえ。さっきから子供の声が聞こえるの。
だんだんと近づいてくるのそれが。足音もするわ。
なんで無視するの? わかってるでしょ。聞こえてるじゃない!
よく覚えていないが私はそのようなことをまくし立てた。
すると端のほうでお経を唱えていたお婆さんが、わずかにこちらを見た。目も合った気がした。少なくとも私を気にしたのは間違いなかった。
しかし隣のおじいさんが
「何も見えんし、何も聞こえん。何もおらん。何もなかった」
眉ひとつ動かさずにそう言うと、お婆さんは硬く目を閉じてお経を続けた。そしておばあさんはもう顔を上げることもなかった。
提灯を傍らに置いて跪き、お経を唱える老人たち。その姿が土嚢に隠れ、向こう側の微かな明りが消えてゆく。
わけはわからないが、老人たちが私を助けようとしていないのはわかった。
“なかったこと”にしようとしているのだ。老人たちが二十年前にもそうしたように。
いちはつ園の怨念も、真実を知った私も。丸ごとトンネルの向こうへ閉じ込めるつもりなのだ。
――それから向こうの光が完全に見えなくなって、お経も聞こえなくなった頃。私はトンネルを離れ、一人このいちはつ園の敷地に戻ってきた。
そして今は、校舎の脇の溜め池の前でこの記録を綴っている。
私はきっと、もう、無事にここから出られない。子供の声がだんだんはっきりと聞こえてくる。脳の芯に直接、響くような声。
自分が変になっていくのがわかる。まともに文を記す時間も、もうあまり残されていないかもしれない。
けれど、せめて残したい。このままではあまりに悔しくて、悲しくて、やりきれないから。
ここで見たこと。知ったこと。そして私という人間がここにいたという事実を、ありのままに残しておきたいのだ。
このメモは袋に入れて、溜め池の排水溝に流す。もしかしたら外へ流れついて、誰かの目に触れることがあるかもしれない。
このメモを見つけたあなた。
お願いします。どうか、いつか私を見つけてください。
私はいつまでも、ここから出られる日を待っていますから。
◇◇
「――せんきゅーひゃく、きゅーじゅーきゅーねん」
村のある川のほとり。小さな女の子が、川の中で小さな袋を拾った。
透明な袋の中には四枚のメモ用紙が入っていた。紙の裏表に、小さな文字がびっしりと書かれたメモ。
女の子は丁寧に袋の口を解くと、中のメモを広げ、走り書きの文章に目を落としていた。
「しちがつ、さんじゅーにち」
覚えたての数字と漢字を、たどたどしくも声に出して読んでゆく。
しかしすぐに詰まってしまったのか、女の子は首を傾げた。
「ねぇ、これ何て読むの?」
「――なんだい、そのメモ」
「何て読むの!」
「はいはい。しょうごすぎ、と読むんだよ」
「その次は?」
「しゅうらくのいったいでじしんが……このお手紙はまだちょっと、まやちゃんには難しいなぁ」
「そうなの?」
「ほらほら、お魚さんが待っているよ。遊んでおいで」
言われると、女の子は「うん!」と元気よく返事をして川へと戻った。
その背中を穏やかな笑顔で見送る。
そしてメモにもう一瞥だけ向けると、老人は後ろ手にメモを破り捨てた。
「この村で、恐ろしいことは何もなかった」
老人は呟くと、トンネルの中で叫んでいた女の残像を振り払った。そして細切れになった紙屑を放り捨て、魚と戯れる孫のもとへと向かった。
宙を舞う欠片はひらひらと翻って水面に落ち、そのまま流れにのまれ消えていった。
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