第9話 廃墟の島(2/2)★★★★
ガタガタ震える膝を押さえつけて、俺は団地の敷地に足を踏み入れた。
そこに塀や境目なんてない。けど肌を刺す緊張感は明らかに増して、まるであの世の一角に迷い込んだかのような錯覚に陥った。
重苦しい空気に耐えられず、反射的にヘッドライトのスイッチを入れた。しかし強い光が外壁の窓に向かって伸びたのを見て、俺は慌てて明かりを絞った。
さっきいたヤツに見つかったら終わる。本気でそう思ってた。
明かりは足元を照らすだけの最小限に。俺は体を屈めてジリジリと建物の裏手に向かって歩いた。
セーラー服のあいつが曲がった地点まで行き、向こうを覗くと建物の入り口が見えた。
半開きの配電盤や、カリカリになった新聞の突っ込まれた郵便受けなんかが並んでいる。脇にある掲示板には何も貼られていない。
それだけ見たら確実に廃墟だと思ったが、火災報知ボタンの上にあるランプが赤く光っているのを見て鳥肌が立った。
まだ電気が通ってる。本当に誰か住んでんのかよ。
入るだけでもこんな怖いのに、住むとかとても考えられない。失礼だけどそんな人間もまた普通じゃないと思った。
誰にも見つかりたくない……ここの住人も含めて。
額を濡らす玉のような汗をTシャツで拭い、足音を殺して建物の内部へと侵入した。
真っ直ぐ伸びた吹きさらしの廊下に、ペンキのはげた金属製のドアが並んでいる。その奥には階段があり、6階建てにも関わらずエレベーターらしきものはない。
すぐ脇にあった101号室の部屋。ドアの横にある小さな
おそらく一階のフロアには誰も住んでいない。
そうだとして……さっきのアイツはどこへ行った?
どこかの部屋に入ったのか。
急にドアが開いて鉢合わせたらやばいんじゃないのか?
そんなことを考えていたら、微かな足音のような響きが
頭上からの音。
おそらく二階の廊下からだった。
足音と息を殺して階段を駆け上がる。
2階の踊り場に着くと足音はより鮮明になった。何か声らしい音も聞こえる。
唾を飲み込んで、スマホのカメラとともに顔を半分だけ出してみる。
いたのは、さっき見たセーラー服のアイツだった。
喋り声もアイツが一人で発しているもので、他に誰かがいるわけじゃない。
耳を澄ますと、ガサガサして甲高い声質だが、何を言っているのかを聞き取ることができた。
「ねえ どこ」
「どこにいるのぉ」
この二言を延々と繰り返しているのだ。浮いている頭部をクルクル回しながら。
——あいつ、誰か探してるのか。誰を?
もう少し鮮明に撮影しようと、画面の拡大をした……その時。
ピコーン、と甲高い音がスマホから響いた。
アプリの通知音だ。
その瞬間。
クルクル回っていた女の頭が、こっちを向いてピタッと止まった。
そして無表情のまま口角だけを吊り上げると、さっきまでとはまるで別物の声量でこう喋った。
「ここにいたのぉ!!」
「ここにいたよぉぉ!!!!!!!!」
その声が廊下に響き渡って消えた——かと思うと、団地の各部屋からドタドタと足音が聞こえてきた。
ヤバい。
ヤバいヤバいヤバいやばい。
俺はすぐさま階段へ引き返そうとした。しかし下の階からも何やら物音が聞こえてきて、そのまま降りると階段の途中で鉢合わせになることを想像した。
半分パニックになった俺は、二階の廊下にある塀をよじ登った。そしてほぼ迷わず下の花壇に向かって飛び降りた。
正気を失いかけてたからこそできたダイブだったと思う。それが結果的には正解だった。
一階の廊下にはすでにあのセーラー服と同じようなヤツらが何人もいた。
作業服を着たヤツ。
花柄のエプロンをつけたヤツ。
短パンをはいた子供みたいなヤツ。
和服を着たヤツ。
そいつら全部、宙に浮いた頭をクルクル回しながら俺の方へ向かってきていた。
——ていうかセーラー服のあいつが探してたのは、俺だったのかよ。
なんで気づかれた。アイツら全員俺を追ってるのか。捕まったらどうなる?
最悪の想像が浮かんでは消える。それからは必死に走ったつもりだが、飛び降りた時に捻った足首の痛みが邪魔をした。旧繁華街の通りまでは出たものの、港まで逃げ切るのはとても無理だ。宿ですら怪しい。
どっかに隠れるしか……そう思った時、一軒の店から手招きをする影が見えた。
昼間会った、雑貨屋のおっちゃんだった。
おっちゃんは俺を店に招き入れると、「本当に行ったんか、あの団地」と血の気の引いた俺の顔を見ながら言った。
「入り口で引き返すのが普通の心臓なんだが……。兄ちゃん、肝が座っとんなあ」
「あ、は、ははは」
「おっと」
乾いた声を出す俺の口を押さえ、おっちゃんは顎で外を見るように促した。ガラス戸の向こうに目をやると、ヤツらは何かぶつぶつ言いながら並んで歩いている。
宿も港もヤツらの向かっている道の先だ。
もはや普通に帰るって選択肢はない。
「兄ちゃん、すぐ逃げた方がいいな。ここもそのうち見つかる」
「逃げる……いいっすね、でもどこに」
「知り合いに船乗りがいる。今の時間なら夜釣りに出る頃かもしれん」
——要はおっちゃんの話じゃ、その船乗りに頼めば本土まで送ってくれるかもってことだった。朝になれば一旦アイツらは姿を消すが、明日になれば諦めるのか、どこまで追ってくるかは予想がつかない。一刻も早く島から逃げるのがベストってことだった。
「でも宿には荷物がまだ……。あれ? そういえば財布もない」
その時になって初めて、尻ポケットの財布が消えているのに気がついた。おそらく二階から飛んだ時に落としたんだろう。
現金はどうでもいいが、財布には免許証やクレカも入っている。どうしようって顔をする俺に、おっちゃんは「命があるだけええだろ」と肩を叩いた。
「裏口を出て街灯のある道をまっすぐ行けば、船乗りの家に着く。
道祖神も多いからアイツらもよっぽど寄り付かねえだろう。まあ知らんが。はっはっは」
「笑えないっす……」
「まあ頑張りな。
ああそうだ。酒、ごちそうさん。うまかったぞ」
そう言って裏口の扉をそっと押すおっちゃん。
俺は頭を下げておっちゃんと別れ、ぼんやり明るいコンクリートの道に出た。
足首の痛みはまるでひいてなかった。けどラッキーなことに途中で捨てられた自転車を見つけ、それに乗ってなんとか進むことができた。
遠くに家と灯りが見えた時は涙が出た。
ドアをけたたましく叩くと奥さんらしき人が表に出てきて、事情を話すと船乗りの旦那さんを呼んでくれた。
旦那さんは旦那さんで「雑貨屋の……。おっさんの頼みじゃ断れんわな」と言って、すぐ船を出してくれることになった。
あまりにあっさり話がまとまったので、おっちゃんの人望に本気で感謝した。いい人だったもんな。
船に乗り込み、港に繋いだロープが外れたのを見て、やっと俺は緊張の糸から解放された気がした。それでやっと握りっぱなしだったスマホから指が外れたくらいだ。自転車を運転してる時も離さなかったのか……って思うと、なんか笑えた。
島の姿がだんだん小さくなっていく。
財布を残してきたのだけ痛いが、もう二度とくることはないだろう。
——とまあ、こうして俺は無事に九州本土に戻ることができたわけだが、話はこれで終わらない。
地獄みたいな後日談がある。
スマホで金をおろし、なんとかタクシーで家に帰った時にはもう明け方になっていた。
タクシーの中で眠っていたのもあって、帰宅した俺は図太いことに映像の編集を始めたのだ。
二階から飛び降りでも離さなかったスマホには、今回の戦利品とも言っていい映像が残っている。これをSNSに流そうものならバズることは間違いないだろうと確信してた。なんせ本物なんだからね。
映像は団地に入ったあたりから始まっていた。
そして一階を歩いている時には、セーラー服のアイツの足音や声が確かに入っていて、これはイケるぞって思った。
しかし映像はダメだった。
ヤツらの姿が映っていないのだ。
ヤツらの叫び声や俺の悲鳴は収録されている。けど映っているのは俺の手足や団地の風景だけ。
アイツらの姿が一切映っていないのだ。
これでは何が起きているのかわからないし、なんなら俺一人のヤラセにすら見えてしまう。
あんなに苦労したのに。何か……何か映っていないか。そう思って俺は目を皿のようにして映像を見続けた。
そして問題の瞬間は訪れた。おっちゃんの店に入ったシーンだ。
何かが映ってるって思ったでしょ。
その逆。
おっちゃんの姿が映ってなかった。
画面外にいる誰かと俺が喋ってる……そんな感じに見える映像になっていた。
背中に冷たい汗をかきながら、俺は「おっちゃんまじかよ……」って呟いた。
いやそうなったら、もうあの島で出会った人間みんなが幽霊なのかって思って映像を進めてみた。けど船乗りとその奥さんはちゃんと映っていた。もう何がなんだかって感じだ。
だっておっちゃんは幽霊なのに、生きている船乗りを紹介してくれたってことだろ。
そんでもって船乗りは幽霊からの紹介だってわかってて、俺を乗せてくれたってことになる。
——あの島みんな普通じゃねえよ。
俺はバクバク鳴ってる心臓を押さえながら、再びおっちゃんと喋っているシーンを見返した。
その時だ。
俺はある音声が気になった。
おっちゃんと俺の会話に混じっている妙な雑音。声のようにも聞こえる。
確かあの時は、ヤツらが集団で通りを歩いていたタイミング。そういえば何かぶつぶつ言っていたのを思い出した。
あの時は内容まで気にかける余裕がなかった。
アイツら一体何を喋っていたんだ?
なんだか聞いたことのある単語が混じっているようにも聞こえるが、ガサガサ鳴ってよくわからない。
そこで俺はノイズを調整し、音声を8割くらいのスピードに調整して再生してみた。
コウベシナガタクテライケチョウ二ノキュウニイマルゴゴウシツコウベシナガタクテライケチョウ二ノ
コウベシ ナガタク テライケチョウ 二ノキュウ ニイマルゴゴウシツ
神戸市長田区寺池町2の9 205号室
ヤツらがお経のように繰り返していたのは、俺の住所だった。
——落とした財布。
中に入っていた免許証。
港へ一斉に向かうアイツらの目。
全てのピースが頭の中でカチッとハマった瞬間、俺は絶叫をあげてアパートを飛び出した。
そのまま夜逃げのような形で友達の家に転がり込み、二つ県をまたいだ場所まで引越し。荷物の搬入は全て業者に依頼した。金がかかって借金までしたけど背に腹は変えられない。
金なんか命あってのものだってことは、痛いほど知ったつもりだからね。
とまあ、これがネットで言われている“ヤバい島”で俺が体験したことの全てだ。
島の名誉のために言うけど、悪い島だって言うつもりはないよ。悪いのはナメた真似をやらかした俺だと思ってる。
何が言いたいかって?
そりゃあ何に対してもリスペクトを欠いた行動をすればうまくいかないし、時に危ない目にもあうってこと。
刺激を求めるのもいいけど……そこは大事にしないとな。
今になって本当にそう思う。
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