序幕2
●
「なんなんだよ、まったくもう」
ぶつぶつとつぶやきながらマルトは森の中をさまよっていた。
久しぶりに人間と出くわして、嬉しくなって姿を見せたらあれだ。
いまなら昔話で石を投げられて追いやられた鬼の気持ちが分かる。
大勢にめいっぱい拒絶されるのはこんなにも悲しくて惨めだ。
お前の居場所は決してここにないのだと宣言される絶望感、対話などまるで考えられないという排斥感はなかなか心にくるものがある。
それに――
同じ人間なのに、というのがさらにもどかしさのスパイスをかける。
「いや、確かにこっちは赤鬼のカッコだけどさ」
それは千紫万紅の世界では特に珍しいことではなかったのに。
あそこまで過剰反応されることだろうか。あれではまるで、文字どおりのバケモノに出くわしたかのようだった。
ふと不安と予感がよぎる。だが、マルトは意図的にそこから考えをそらした。
「さっきはうまくしゃべれなかったのが原因かもな。あ、あー」
赤黒く野太い指を自分の喉に当てて、発声練習をしてみる。
マルトはもともとおしゃべりが得意ではない。同じ一門のメンバーとの会話は気軽にこなせるが、見知らぬ人、例えば野良のプレイヤーや他の一門の人間に話しかけるのは最後まで苦手なままだった。ゲームなのだから現実世界を引きずらずにはっちゃければいいのにと我ながら思うが、こういう性分なのだから仕方がない。
ゲームだからといえば、マルトの恰好もそうだ。腰蓑を身につけただけの半裸というのは現実世界では許されない――少なくとも公共の場で堂々とする恰好ではない。赤鬼の彫刻のような筋肉は確かに見事だが、それが免罪符になるわけでもない。だが、これは千紫万紅というゲームなのだ。半裸の恰好でこのようにうろうろしていても寒さも心細さも感じないのは自然なことだ。
しかし、嗅覚の作用はどう説明すればいいだろう。
先ほどの人間集団に近づいたときには硬い鎧の鉄の匂いを嗅いだ気がした。それは混乱の最中の錯覚だと疑問符をつけるとしても、いま現に吸い込んでいる森林の匂いまでは否定しがたい。
そもそもメニュー画面が開けないのがおかしい。一門のメンバーにチャットを送ることもできないし、運営のサポートデスクへの問い合わせもできない。
マルトがさまよい歩き始めてから、メニュー画面が開けないので正確には分からないが、体感で少なくとも二時間は経っている。いまの状態が千紫万紅でエラーが起きた結果だとしたら、運営から何らかの報告があってしかるべきだ。
そもそも千紫万紅は厳密にはもう終わっているべきなのに、強制ログアウトもされずに妙なかたちで続いている。
膨らみ続ける違和感にそろそろ決着をつけるべきだ、とマルトの冷静な部分が訴えている。
マルトはやがて森の中を静かに流れる小川にたどりついた。
偶然ではない。
ここ数時間の緊急事態のせいか、マルトは喉が渇いていた。なんとなく水があるほうに足を向けた結果、小川があったのだ。水の匂いをたどれてしまったことはいったん無視するとして、喉が渇くということ自体がそもそもおかしい。
現実世界で千紫万紅を遊んでいる
しかし、重なるはずのないそれは、いま、どうしようもなく一致してしまっている。
マルトは三メートルを優に超える巨体をかがめ、小川の水をすくって口にふくんだ。
何の違和感も抵抗もなく、水が飲めてしまった。喉を通り抜ける感覚と渇きが癒える快楽はまぎれもなく現実世界と同じだ。
千紫万紅は没入感を高める機能として部分的な触覚がオプションで設定できるが、それは主にモンスターや敵対するプレイヤーとの戦闘を想定したものだ。腕や足で攻撃と防御をする際に「手応え」とでもいうべき感覚を生み出すためのもので、当然ながら飲食物を摂取することは想定されていないし、そもそもマルトはその機能をオフにしていた。アップデートで実装された直後に物珍しさから試してみたが、すぐに飽きたのだ。
仮に運営側の操作によって強制的に触覚がオンに切り替えられたのだとしても、水を飲む感覚の導入なんて重大なアップデート情報を自分が見逃すはずがない。そして、運営がこっそりそんな機能を導入する動機も考えられない。
手のひらから水が地面にこぼれていくのをマルトはぼんやりと眺める。
残る可能性は二つ。自分の精神がダメージを受けて正常な機能を失ってしまったか、あるいは――
「俺が千紫万紅の中に入り込んでしまったか……」
呆然とつぶやくマルトの意識は、ほんの数時間前、千紫万紅のサービス終了直前に飛んでいった。
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