悪魔は静かに罠を張る
目が覚めると、そこは富士グランレイクホテルの部屋だった。
[あ〜〜……頭いてぇ……]
見事な二日酔い。しかも、昨日の夜ディーちゃんに会ってからの記憶がない。
[おはようジャスミン]
[んあ?なんでゴーちゃんがいるんだよ]
服は……下着一丁だけど着てる。ゴーちゃんもトレーニングウェアを着てるし、体に違和感はないから、ヤったわけじゃなさそう。
[なんでって、カゲツと一緒に泥酔したお前を介抱してたんだよ。『女性と2人きりで夜を共にすることはできない』って言われたからな……俺はゲイじゃないから断言するが、お前が心配するような事は何ひとつしていない。とっととシャワー浴びて水飲んで着替えろ]
[オーライ。いつもありがとな、ゴーちゃん]
シャワーを浴びて戻ると、ゴーちゃんはメモを残して部屋を出て行ったようだった。
【試走前ミーティングはA.M.8:00〜ピットビルA
A.M.10:00の計量受付終了までには来い】
時計を見ると、時刻午前7時50分。髪も乾かさずに、ダッシュで部屋を出た。
**
FE+1フェスティバル2日目。土曜日ということもあって、昨日より会場は賑わっている。
明日の4×11ラップリレー前にFEマシンに乗れるのは今日の試走のみ。どのチームもやる気満々なんだが……
[リコと!ロイが!来ねえ!!]
10時の計量受付終了まであと30分だってのに、リコとロイがサーキットに来ない。
[昨日ペルセウスのヤツらと外に飯食いに行くって言ってたな。腹でも壊したのか?]
ゴーちゃんがロイの、オレがリコに電話をかける。
[ゔーん……はい、ヘンリー……ゔぇっ]
5分ぐらいコールを鳴らして、ようやくリコが電話に出た。
[リコ!オマエ今どこにいんだよ!もう計量受付終わるぞ!]
[ずいまぜん……うぷっ、二日酔いが酷くて、部屋で寝てました……]
[ロイはどうした!]
[トイレで吐いてます……]
電話口からもわかるほど明らかに体調が悪い。この調子じゃ今日の試走はムリそうだ。
[おや、CGLは2人でレースに臨むおつもりかな?]
頭上から声が聞こえて振り向くと、黒いレーシングスーツとメドゥーサのエンブレムが見えた。
[デーモン……!]
[サンダース!]
ユージーン・サンダース、42歳。現在F1レーサー最年長で、ペルセウス所属のベテランレーサー。
サーキット外では物腰柔らかな壮年の偉丈夫だが、一度ハンドルを握れば反則スレスレのラフプレーで相手をコースアウトに追い込む。悪魔に憑かれたような豹変ぶりから、『
[とぼけやがって。アンタがうちのリコとロイを潰したんだろ?]
[はて……私はただ、若手と楽しく飲んで、食事をしただけだが]
[よく言う。サンダース、アンタ馬鹿みたいに酒に強いんだからアンタが楽しくても周りは楽しくないんだよ]
[おや、あなた方の怠慢を我々のせいにしないでいただきたいですね]
デーモンの巨体の後ろから、針金人形みたいなレーサーが出てくる。
[よう、ディック。あんまり細いから見えなかったぜ]
[
モビーディック・ヴォーグ。歳はオレと同じぐらいだけど、頰がこけた神経質そうな顔してるからデーモンと同年代に見える。
[全く、若手2人は体調管理不足でダウン。エースは男と
ヴォーグはゴシップに詳しく、罵倒でレーサーを精神的に追い詰める。ついたあだ名は『
[品性がないのは認めるが、ひとつだけ間違ってる]
オレよりだいぶ高い位置にある胸ぐらを掴んで、辛気臭い顔を引き寄せる。
[――オレはまだ、
キャノンの足の甲を思い切り踏みつけて、サーキットに向かう。
[っ……今に見ていろ
背後からキャノンの金切り声が聞こえた。
**
[mademoiselle。少し、いいかい?]
試走が終わってCGLのブースに戻る途中、ハミルトンさんに声をかけられた。手には屋台で売っていたおでんを持っている。いつ買ったんだ?
[……これはオフレコだが、EUに本社を置く大手自動車メーカーが、年明けに『ガソリンを使用するエンジン車の新規開発を2045年までに終了する』と連名で声明を出すらしい。無論、ペルセウスもね]
牛すじを飲み込んで、ハミルトンさんがポツリと呟く。
[F1から撤退するんですか。ペルセウスが]
[おそらく……アメリカでも各州でエンジン車規制法が可決されているし、F1の歴史は2045年で幕を下ろすことになりそうだ]
手渡されたおでんは湯気を立てていて、持っているだけで体が温まる。
[どうして、その話をオレに?]
[キミは今シーズンで引退するらしいじゃないか。ちょっとした餞別だよ。今後の舵取りに役立ててくれたまえ]
おでんを汁まで飲み干して、ハミルトンさんは配信用ブースに歩いていった。
「そっか……終わるんだ……F1……」
にわかには信じられない話だけど、「2050年までにCO2排出量を実質ゼロにする」という世界的な目標に向けてガソリン車は世界から排斥されつつある。
「F1は環境汚染を加速させる悪」「FEは環境を守る善」。
カゲキな環境活動家も、SNSで見た情報だけで情報通面する論客も、F1レーサーへの誹謗中傷を躊躇わない。
女のオレは、デビューしてからずっとインターネット上でサンドバッグかズリネタにされてきた……自分が気持ちよくなるためなら、人は簡単に他人を踏み躙る。だから、オレは強くなるしかなかった。
ふと、巨大な看板の前で足が止まる。
[
来場者がレーサーの顔写真と名前が書かれた欄にシールを貼る、端的に言えば人気投票だ。最終日の4×11ラップリレーで使えるファンブースト権を巡って、各チームがアピールしている。
[はは……人気ねえな、オレ]
シールはほとんどディーちゃん、カミーユ、CGLeのコーラルちゃんの欄に貼られている。
[見る目ありませんね、日本の方々は]
頭上から声がする。びっくりして振り返ると、ベンチコートを着たディーちゃんがいた。白いシールを手に取って、「照茉莉花」と書かれた欄に貼る。
[ほら、これで0票じゃありません]
ディーちゃんがにっこり笑う。可愛いなあ。オレよりずっと可愛い。
[……ありがと。ディーちゃんぐらいだよ、オレのこと好きだって言ってくれんの]
[そうですか?貴女のことを見ている人は、結構いますよ]
ディーちゃんと話していると、配信用ブースからハーフアップの男性が走ってきた。
黒い地金に紫の塗料かなんかが吹いてあるピアスをつけていて、ちょっとヤンキーっぽい。
「あ、あの!照茉莉花選手ですよね!?」
「ええ、そうですけど……」
「すげえ、本物だ……!あの、高校生の頃からずっと応援してます!同年代でレーサーやってて、すげーなーって思ってて――」
男性がまくし立てながら白いシールを2枚貼ってくれる。
「こらーっ!パパ上、ハウス!」
パパ上と呼ばれた男性は、中学生ぐらいの男の子に引きずられて配信用ブースに戻っていく。親子かな?多分。
「明日のレース!応援してます!」
その人は、オレの姿が見えなくなるまで、ずっと手を振ってくれた。
[ティグル。貴女はもう、ひとりじゃないですよ]
ストロベリーブロンドの髪が、陽光を浴びてキラキラと光って、眩しかった。
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