常に、正しい選択を
ホテルの部屋に戻ると、新品らしき赤いパーティードレスとハイヒールのパンプスが置かれていた。
[趣味わる……]
ドレスに着替え、姿見の前に立つ。胸元が開いたタイトなワンピースは、なで肩と貧相な胸を強調している。
鏡の中の自分と目が合う。F1レースの負荷に耐えられるよう鍛えたプロレスラーのような体に少女のような顔が乗っかった、我ながらアンバランスな見た目だ。
[メイクしなきゃないかな……アイツすっぴんで行くと嫌味言ってくるからな……]
バッグからオールインワンのリキッドファンデーションを取り出して顔に塗りたくっていると、下から車のクラクションが聞こえた。
[やべ、もう来やがった!]
急いでリップを塗り、転びそうになりながらロビーにダッシュした。
**
ホテルの前に、真っ赤なポルシェが停まっている。バカ社長の愛車だ。
「すいません、お待たせしてしまって……」
「いえ、構いませんよ。それより――」
バカ社長の手が腰と顎に添えられる。いわゆる顎クイの体勢だ。
「やはりあなたには、赤がよく似合う……ああ、でも」
顎に添えられた親指が、唇を撫でる。
「その色のルージュなら、付けない方が素敵ですよ」
ルージュじゃなくて色付きリップだけど、いちいち訂正する気力もないからとりあえず笑っとく。
日曜のレースに向けてイメージトレーニングをしながら車で揺られていたら、あっという間に目的地であるフレンチレストランに着いた。
山中湖を一望できるロケーションは、昼間に来たらさぞや綺麗なんだろうな。
「2名様でご予約の坂東様ですね。お待ちしておりました」
がらんとした店内で、窓際の席がひとつだけセッティングされている。
「今日は貸切にしました。以前、『人の目がある場所でお酒は飲みたくない』と仰っていたので」
確かに知らん人の前で酔ったら何されるかわかんないから飲みたくないとは言ったけど、まさか酒を飲ませるためだけに貸切にされるとは思わないだろ。普通。
「この店は、料理と最もマリアージュするワインを楽しめるのが魅力なんですよ」
魚介たっぷりのブイヤベースには甲州ワイン白。
「おいしい……!」
酒には詳しくないけど、確かに料理に合う。
「茉莉花さん。ワインはそんな、ジュースみたいに一気にあおるものじゃないですよ」
「申し訳ございません。普段お酒を飲まないものですから、飲み方がわからなくて……」
鴨肉と野菜がゴロゴロ入った
「おいしそうに食べますね。フレンチはお好きですか?」
「おいしいものならなんでも好きですけれども、ミンスミートパイが特に好きですわ。以前カミーユ――ロレックス選手のお宅で頂いたんです」
バカ社長が眉を顰める。いらん誤解を招いた気がするな。
「……ホリデーに、デトロイトからわざわざ
「まさか!彼の家に、ボクシングジムがありますの。CGLの施設だとボクシングトレーニングができないと話したら、私たちCGLの選手にそこを貸してくださったんです」
外はさっくり身はふわふわな白身魚のムニエルにはシャルドネ白。
「……そうですか。では、現在恋人はいないんですね」
口直しにリキュールたっぷりのイチゴのグラニテを挟んで、サシが綺麗に入った甲州牛ロースの網焼きにはボルドー赤。
「やめましょう。楽しい食事中にそんな、下世話な話――」
「茉莉花さん」
あとはデザートが来れば終わりというタイミングで、バカ社長が鞄からタブレットを取り出す。
「少々、調べさせていただきました。あなたのご実家について」
差し出されたタブレットには、実家の遠景が映し出されていた。
「出身は静岡県御殿場市。兄の
「……よく、ご存知で」
「ええ。茉莉花さんのご実家に伺って、お母様に直接教えて頂きましたから」
目眩がする。こいつに常識ってもんはないのか?
「『30過ぎてもずっと車のことばかりだから、まりちゃんには早くいい人を見つけてほしい』としきりに言っていました。お母様のためにも、俺と結婚するのが最適解だとは思いませんか?」
「3年前の冬に初めて会った時、貴女は
背筋がゾッとする。この人は、善意でやってるんだ。オレの意思をガン無視したプロポーズも、似合わない服を贈るのも、全部。
「だってそうでしょう?貴女はずっと間違え続けている。だから10年間一度もタイトルを獲れなかった」
違う。タイトルを獲れなかったのは、前任の設計者がオレの体を気遣ってマシンの出力を抑えてたからだ。
「実際に、俺が出資し始めてから貴女の戦績はめざましく向上している。俺が、貴女に、正しい道を示したから」
違う。オレが勝てるようになったのは、命を削って走るようになったからだ。設計者とメカニックのおかげで、アンタのおかげじゃない。
「……ごめんなさい。明日は試走があるので、そろそろおいとまさせて――」
立ちあがろうとしたら、急に酔いが回ってきた。視界がぐらぐらするし、頭がうまく回らない。
「大丈夫ですか?ずいぶんと酔っているようですが」
「いえ、ほんとに、だいじょうぶですから」
千鳥足でなんとかレストランの入り口まで戻ったけど、外に出る途中の階段で足が滑る。
「危ない!」
腕を思いきり引っ張られて、バカ社長に抱き留められる。痛みと寒さで酔いが一気に醒めた。
「全く……やっぱり、君には俺がいないと駄目だな」
バカ社長の顔が眼前に迫る。完全にキスする空気だ。
「茉莉花」
顎を持ち上げる手が冷たい。薄い胸板が、肩を掴む手が痛い。あれ、男の人って、こんな怖かったっけ。
『マツリカ』
違う。今目の前にいるのはバカ社長だ。ディーちゃんじゃない。
「大丈夫。俺に、全て任せて」
『愛してる、マツリカ。僕の魔女』
ああ、なんで。なんでこんな時に、ディーちゃんのこと思い出すんだ。
[ティグルーーっ!!]
ついに幻聴まで聞こえてきた。こんなとこにいるわけないのに――
[ティグル、ご無事ですか?何もされていませんね?]
目を開けると、眼前にディーちゃんの心配そうな顔があった。幻覚にしてはリアルすぎる。
「……ディー、ちゃん……?」
[はい。ディーちゃんですよ]
急に体が温まる。
数秒遅れて、ディーちゃんが着ていたコートを羽織らせて、抱きしめてくれているんだとわかった。
「ストーキングとは感心しませんね、カゲツ選手」
[貴方こそ。女性を酔わせて無理矢理キスしようとするなんて、紳士のすることですか?]
天使のような顔には似つかわしくない厚い胸板。温かい大きな手。ジャスミンの甘い匂い。
バカ社長よりずっと身長高いし体格もいいのに、抱きしめられても全然怖くない。むしろ安心する。
「そうか?ディナーデートの模範解答だと思うんだが」
『……最低だな』
いつも喋ってる時よりも低い声。洗練されたハイブランドファッション。レーシングスーツを着てないディーちゃんは、知らない大人の男の顔をしている。
フランス語だから何言ってんのかわかんないけど。
「男の嫉妬は見苦しいぞ。坂東グループの後継者で資産も社会的地位もある俺と、しがないワインセラーの息子でレースしかない君……どちらが茉莉花さんを幸せにできるかなんて、競うまでもないだろう?」
『僕は、テラス・マツリカの
「……それがなんだ?」
レース終わりでもないのに心臓がバクバクして、息がうまくできなくて、でもバクバクも息ができないのも嫌じゃなくて。
『12年ずっと背中を追いかけてきた。マツリカの全部を知っているわけではないけど、どれだけの苦しみを抱えてサーキットに立っているかも知っている。だからこそ、はっきりと分かる』
ああ。どうしよう、オレ――
『貴方に、マツリカのチェッカーフラッグを振る資格はない』
ディーちゃんのこと、好きになっちゃった。
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