アウトバースト!

骨太の生存術

アウトバースト!


「『ロケット』は安定制御できてたんじゃないのか?!」

 甲高い怒鳴り声が、豪華クルーザーのエンジン音の一オクターブ上を突き抜ける。

 アタルは大人のヒステリーが大の苦手だった。他人事だとわかっていても、のどや胸や胃のあたりにモヤモヤしたものをぎゅうぎゅうに詰めこまれるような気分になるのだ。

 アタルの母親は、二回りも歳の離れた新しい夫の癇癪にはもう慣れたもので、衛星電話にかかってきた電話が研究所からとわかると、さっさとキャビンに引っ込んでしまった。義理の兄となる大輔はというと、出港からずっと舳先にいて父親と距離を置いている。

 アタルの母のもうひとりの連れ子、特大ハムの塊のようなでっぷり太ったチワワのジョニーだけは、人の気も知らないで気ままにデッキをウロチョロしていて、たまに大きい波に揺さぶられて甲板の端から端までゴロゴロと転がっていたりする。

 アタルは手に絡みついてくる活き餌のイカの足を引きはがすと、もう釣り針につけるのをあきらめてクーラーボックスの中に投げつけた。釣り針を中途半端に腹から突き出させたイカは氷の上でビチビチとのたうちまわった。

「お手伝いしましょうか、お坊ちゃん?」

 フライングブリッジで舵輪を握っているやたら背の高い年寄りが声をかけてきた。

 長年の島尻家の使用人の一人だそうだが、聞けば、使用人は全部で七人もいて、その七人は血のつながった兄弟なのだという。この年寄りはその長兄で、他の六人の弟たちはみんなとても背が低いのに、この人だけやたら長身らしい。

 アタルは「結構です」と年寄りの気遣いを断った。ほんとうは釣りなんて野蛮なことはちっともしたくないのだ。だいたい、まだ生きているイカにブツリブツリと針を刺すなんて――と、ジョニーが近寄ってきてクーラーボックスに鼻を突っ込むと、いきなりイカをくわえ込んだ。当然のことながら、巨大怪獣vsクラーケンの大乱闘がはじまる。

「やめろ、このブタ犬! 向こう行ってろって!」

 イカを取り上げようとした途端、アタルはジョニーに手をかまれた。イカ墨まみれのジョニーは、吸盤に絡みつかれた鼻先に筋を立ててなおもアタルに牙を剥いてくる。

「お前まで僕をそういう扱いするのかよ」

 チワワは生意気にも鋭く低く吠えた。目の奥がなぜだかどうにもツンとしてくる。 

「そんなものあげないで。シャックリ出ちゃうじゃない」

 キャビンの奥から母の素っ気ない声が飛んでくる。

「僕じゃない、こいつが勝手に――お母さん、ちょっと来てよ! なんとかして!」

「いやよ、日焼けしちゃうもん」

 アタルはいままで口にしたことのないような悪態を――やはり今度もすんでのところで飲み込むと、精いっぱい小犬に威嚇しかえし、カジキマグロだって釣り上げられるんだと「島尻のおじさん」――もとい「新しいお父さん」が豪語していた太い釣り糸を引っ張って、どうにかイカの身の上半分を取り返した。残りの半分はどうにでもなれだ。

「何をバカなことを! ダメだ! 『ロケット』はフェイズ4に移行するだけだ!」継父がまたもすっとんきょうな声を上げた。「もしもそんなことしたら――おい! いったいぜんたいどうなってるんだ!」

 アタルはもやもやする胸をさすりながら船尾を離れた。船首へ向かう前に忘れずに、イカゲソの躍り食いをしているジョニーを母のいるキャビンへ蹴り落としてやった。

 船首では大輔が鬱々と遠くを見つめていた。その視線の先に小さく島が見えた。

「やあ、アタル君。何か釣れたかい?」

 義兄の表情はぱっと電灯が点ったように明るくなった。アタルは首を振った。

「魚どもめ、つれないやつらだなぁ」

 スベるのが一周回ってむしろオモシロい、それも一つの芸だというのを当の義兄本人から聞いたことがあったが、アタルは冷めた眼差しを返した。もちろん、「アタル君、そりゃつれないぜぇ」と畳みかけてきたら、駄洒落の出来はどうあれ、ニヤリと笑ってやることも忘れてはいない。

 アタルは母の財産目当ての再婚を心から歓迎しているわけではなかったが、義理の兄となる大輔とはうまくやっていける気がしていた。

 「中学生になったらもう大人」とドンと突き放す母親や、「まだまだ子供だ」とこちらのテリトリーに土足でズカズカと踏み込んでくる継父、それに公共の財布か公共のサンドバッグ程度にしか見てくれない同級生らとちがい、大輔はいつでも同じ目線で接してくれる。それに大輔は、本当なら実家になど近寄りたくないはずなのに、アタルら母子が移り住んできてからは、ときおりアタルを訪ねてラーメンや牛丼を食べに連れ出してくれたりもするのだ。愛があるのかどうか十三歳の夏ではまだ理解不能な年の差夫婦の二人にぶら下がるようにして暮らしているアタルは、いまや義兄の存在だけが心のよりどころだった。

「そういえばこないだ『ドサンコズの本気でけっぱれ!』、観ましたよ――」

 そこまで言ってアタルは言葉に詰まった。大輔の表情が途端に陰ったからである。

(ああ、やっぱりアレは不本意だったんだ――)

 こういう場合のセオリーはもっと軽妙にイジってやることなのだろうが、大輔のどこか尋常でなく思い詰めた様子にアタルも胸が詰まってしまい、それができなかった。

 気まずくなった雰囲気を変えてくれたのはむしろ大輔だった。

「あの島は『しりじま』って呼ばれてるんだ。おしりの尻で尻島。登記上は島尻家が所有している島だから『島尻島』って名称なんだけど――」大輔はこんもりと丸い山が二つ連なった地平線上の島を指さした。「本土から島に向かうと、あのお尻の形をした二つの山が出迎えてくれる。『尻島』って呼ばれる由来はそのせいらしいね。けど、あの島にあるのはあの山だけじゃないんだ。あの向こうには、屋久島に負けないくらい素晴らしい大自然が広がってるんだぜ」

 ようやく見せた義兄の自信に満ちた優しい横顔を見ていると、はじめは行きたくなかったこの旅行も、憂鬱だった理由を忘れられそうだった。

 尻島は、面積三○平方キロ弱のはるか太古に生まれた島で、その半分は起伏の激しい山地だが、残り半分は侵食のために平地になっている。尻の形に見える二つの山は、ゴツゴツしたほうが殿岳、こんもりとふっくらしたほうが姫岳と呼ばれている。山の名称の由来がやはり「お尻」に関係があるらしいということは、遅ればせながら第二次性徴を迎えたアタルにも納得がいくところではある。

「あの谷間に小水川っていうきれいな川が流れててね。上流には湯張ダムというのもあって、いまは研究所周辺はどこも立ち入り禁止になっちゃってるんだけどね、子どもの頃は母さんと二人で、川やダムの湖で泳いだり釣りしたりしてよく遊んだもんだよ――」

 そこで言葉を切った大輔がちょっとの間だけ遠い目をしたことにアタルは気付いた。そしてアタルの胸にもすっと寂しさがこみ上げてきた。母親と二人で、というのが自分の境遇と似通っている気がしたのだ。大輔は、でも、と明るく言った。

「ビーチだってすばらしいんだよ。真っ白い砂浜、遠浅のコバルトブルーの透き通った海、色とりどりの魚たち。ゲストハウスでお昼を食べたら、ひと泳ぎしよう」

 気丈に振る舞う義兄が、アタルにはどこか哀しげに見えてしかたなかった。大輔にはいつもはげまされているのだから、こういうときこそ自分がはげましてやる番だという気がしてくる。アタルは思い切って言ってみた。

「『本気でけっぱれ!』の『スベってドボン!』――むしろ僕はとても面白かったです」

 だが、アタルは唇をきつくかんだ。本当はアタルも悔しかったのだ。「面白かった」とは言ったが、それは大輔に対する正当な評価では断じてないのである。

「今度のネタライブ、絶対行きますから」

「ありがとう。でもアタル君、実は俺、もう――」

 大輔は不意に顔を上げた。アタルにもその「音」が聞こえた。

「研究所のあたりからだ」

 島のこんもりとした二つの山の間から、真っ黒い煙が立ちのぼりはじめた。


 チャプター1 僕と僕のゆかいな仲間たち


「最大船速は三五ノットを軽く超えるんだぞ」

 と、自慢げだったエリのおじさんの顔を僕は思い出していた。

 つやつやの茶まんじゅうのような顔からこぼれる笑顔、白シャツに短パン、たくましい焦げ茶色の肉体のそこかしこで金色の鎖や輪っかをじゃらじゃらいわせているおじさん。太く、大きい、さわやかな声で、誰にも知られていない穴場も穴場の無人島までたった三時間で着くんだぞと豪語していたエリのおじさん――。

 そのおじさんのクルーザーが見上げる高さの切り立った岸壁に向かって、たぶんフルスロットル最大船速三五ノットで突っ込んでいく――おじさんだけを乗せて。

 絶海孤島の砂浜に置き去りにされた僕たちみんなはなすすべなく見送るだけ――というこんな状況だというのに、僕はただただおじさんの名前を思い出そうとしている。

 というのも、おじさんは、僕の大事な恋人であるエリの伯父上なのだ。その人がいままさにってときに、名前も思い出せないなんてちょっとマズくはないか?

 僕が思うに、ナツキもミカもヨシもケイも、きっとおじさんの名前を憶えてなどいないだろう。誰もが「エリのおじさん」とか「クルーザーのおじさん」だとか「焦げ茶色のおじさん」などとしかおじさんのことを呼んでいないからだ。

 エリもエリだ。彼女だって、ただ「おじさん」としか――いや、それは僕の言いわけだ。きっと以前に自己紹介したときに、僕はおじさんの名前を聞いているはずなのだ。

 なので、僕はいま必死におじさんの名前を思い出そうとしている。そうしている間にも、クルーザーの船尾にすっぽり覆い被さった巨大な「水まんじゅう」は、ズルズルとフライングブリッジに這い上って舵取りに必死なおじさんに迫ろうとしている。どういうわけかクルーザーは制御不能、岸壁までもう秒読み段階――5、4、3――その前になんとしてもおじさんの名前を思い出してあげたいところだ。それが人情ってものだろう?

 ああ――僕は思わずうめいた。「水まんじゅう」はおじさんの背後で、風を受けるヨットの帆のようにぐんぐんと体を薄く広く引き延ばしながら立ち上がった。

 ごくごく薄っぺらなのにそれはあり得ない屈折率で、その薄膜内に大小無数の輝く太陽の姿を映しだしている。おじさんにとってはそれどころの話じゃないけれど、このみずみずしさでいっぱいの光と色の大洪水はぜひとも4Kテレビでの観賞をおすすめしたい。

 惜しむらくは、そんな劇的で素晴らしくアーティスティックな光景、そして破滅的というにふさわしい異様な力強さを見せながらも、もうあとほんの数瞬で消えてしまうことが宿命づけられている儚さこそが美しい光景――そんな一生に一度巡り会えるかどうかの希有な体験がすぐそばにあるのに、もっとも間近にいるおじさんが絶望を凍りつかせたような顔でごつごつの絶壁を見つめて絶叫しているばかりで、その絶景に背中を向けてしまっていることだ。なんてもったいない! ゼッタイにもったいない!

 人は死に際に何を見つめて死んでいくのだろう――そのときその瞬間、おじさんの胸中にはどんな思いが占めているのだろう。恐怖か諦めか、それとも心は走馬燈のようにぐるぐると記憶を駆け巡り、うたかたの多幸感に浸りきっていたりするのだろうか。

 おじさん、あなたは怖くありませんでしたか? それとも、幸せを感じましたか?

 おじさんにそれを訊ねる機会はない。おじさんは衝突の衝撃でそこかしこがぺしゃんこに潰れ、爆発であらゆるところが千々にちぎれ飛び、炎上する燃料を浴びて火だるまになって焼け死ぬか、もしくはあのキラキラの粘液の中で溺れ死ぬか、それとも溺れるというよりも生きたまま消化されて――いや、考えただけでそら恐ろしい!

 ――なんにせよ、いまのこの状況ではどうにもおじさんの名前を思い出せそうにない気がする。なんなら、少し時間をさかのぼって過去の記憶を探ってみたらどうだろう。これまでのどこかになにかしらヒントがあるはずだ。


 おじさんは三時間と言っていたけれど、実際は四時間半もかかった。向かい風で波が荒く、船の速度を上げられなかったせいらしい。船はまあまあ揺れたが、幸いなことに僕らは誰一人船酔いに悩まされることはなかった。おじさんが言うには、それもこれもおじさんの最高級クルーザーの性能の良さのおかげだそうだ。僕らにとってはまあそんなことはどうでもよくて、僕らはおのおの気ままに、時間が経つのも忘れて船旅を楽しんでいた。

 はじめはみんな豪華クルーザーが珍しく、こぞって舳先に立って例のアレ――ほら、ジャックとローズの例のアレを交代でやったり、フライングブリッジに上がって三六○度の眺望を楽しんだりもした。そのうちに風に当たるのに飽きて、ブリッジにおじさんを残してキャビンに引っ込み、ありがちだけど誰かが持ってきたトランプで遊んだりしていた。

「おい、食うか?」

 ナツキはそう言うと、自分のリュックから煎餅の袋を取り出して僕によこした。

 船酔いこそしていなかったが、さすがに胃袋に何かを入れる気にはなれず、それは他のみんなも同じだった。ナツキはみんなが断るのを意外そうにしていたが、煎餅の袋がみんなの間を一周して戻ってくると、さっそく一枚とってバリボリと食べはじめた。

 旅行の少し前からナツキがその何の変哲もないソフト煎餅を気に入って食べている姿をよく目にしていたが、どこがそんなにうまいのかとたずねても、彼はきょとんとして「別にふつう」と答えるばかりだ。彼が言うには、味がどうのというわけではないらしい。そのとき、ナツキは煎餅の袋に描かれたイラストを僕に見せた。

 それは妖怪「ぬりかべ®️」の漫画をモチーフにしたらしく、無気力の目つきだけは形もタッチもそのまんま。色合いは本家のこんにゃく色をいったん脱色してキツネ色に染め上げたものをまた脱色したようなもの。姿形はといえば、四角い体を煎餅らしく薄くまん丸にし、さらにその真ん中には本家には存在しない丸い鼻の「ぽっち」がひとつ――そんな愛すべき「かすかべいくん」は、隣の隣の市の全国的有名銘菓である「草加煎餅」に対抗して、春日部市が生み出した米菓「春日部煎餅」のマスコットキャラクターなのだという。

 春日部煎餅は本家本元草加煎餅よりもほんの一回り小ぶりで、本家がハードな醤油煎餅であるのに対し、真っ向対決を避けるために(真っ向から挑んでいるのは隣町の越谷煎餅)塩味のソフト煎餅となっている。

 味自体は何のヘンテツもなく、昔からよくあるヤツそのままだ。名を変えても、はたまた製造元がちがっても食べてみるとたいした差はない。塩味のソフト煎餅は、ただただ塩味のソフト煎餅でしかない――まあ、それが煎餅という存在が背負う宿命なのだろうけど。

「これくらいがオレは好きなんだ」

 そう言ってナツキはポケットからまさにその「春日部煎餅」を一枚取り出した――と思いきや、それは原寸大「かすかべいくん」キーホルダーで、その手の平大の体の真ん中の、ビー玉くらいの大きさのこんがり焼け焦げた鼻の頭を指先で愛おしそうになでまわすと、それは僕らのあいだを一周することなく彼の手の上でのみ見せびらかされただけで、再び大事そうにポケットにしまいこまれた。

 マイナーな煎餅のマイナーなマスコットキャラクターがグッズ化されていることにまずは驚きだが、ついでに驚いたことには(よくよく考えてみれば驚くに値することでもないが)「春日部煎餅」そのものにも、かつては「かすかべいくん」の鼻の「ぽっち」がたしかに存在していたというのである。

 この「ぽっち」をつけなくなってしまった理由は、どうやら袋の中で煎餅同士が擦れ合うと真っ先にその「ぽっち」がぽろりと取れてしまい、袋の底に丸いあられの粒のように溜まってしまうためだとのことである。鼻の取れた春日部煎餅は商品価値が下がるということで、あるときから表も裏も真っ平らなただの丸いソフト煎餅に先祖返りしてしまったのだが、マスコットキャラとしての「かすかべいくん」の鼻の「ぽっち」が削がれることなくいまでも健在なのは、大御所漫画家に依頼したパッケージイラストにしろ大量生産してしまったグッズにしろ、まさかいまさらそれらすべての「かすかべいくん」の鼻を取ってしまうわけにもいかなくなってしまったというのが大方の見方だそうである。

 ナツキの言う「これくらい」というのが味なのか大きさなのか形なのか、他に何を意味しているのかさっぱりだが、なにはともあれ、これ以上煎餅の話を広げても、どうしたっておじさんの名前にたどり着けるはずがない。こういうとき、いったん本題から離れてみるといいとも聞く。忘れた頃に思い出す、というのは僕の経験でもよくあることだし。

 ならばさっそく、登場ついでのナツキをはじめ、僕の仲間たちを紹介していこう。


 「絶海孤島」だとか「無人島」だとかのワードに「男女六人、夏合宿」のワードを結びつけることにエロスを感じ、それこそ男の体のある一部分を反応させるといった変態的な(ある意味、正常な)形で興奮を覚えていたナツキは、帰りの交通手段を失うことがほぼ確定という段になってようやく「絶海孤島」が持つ恐ろしい意味に気付いたらしく、さっきから悲嘆にくれるばかりで、おじさんが数秒後に迎えるであろう運命の終幕のことなどはまるでお構いなしのようだった。

 言っておくが、いつもの彼はそんな薄情者では決してない。かといって情に厚いわけでも決してない。ただたんに脳みそが単細胞――このままでは彼の人格を貶めてしまいかねない。いや、彼にだって長所のひとつやふたつはたしかにある――はずだ。

 ナツキは、どんな手を使って潜り込んだのか神のみぞ知るだが、一応一流私立大の一つと評されているV大の経済学部経営学科の学生だ。経済学部生といっても彼と知り合ってこのかた、彼の口から経済に関する観念――いや、数字そのものの言葉が出てきたためしはない。それだけ聞けば、彼が普段どのような学生生活を送っているか、その片鱗がうかがえると思う。もちろん、そんな経済学部生は彼だけに限ったことではないが。

 ただどういうわけか、ナツキは第二映画研究会の設立者であり、ショートフィルムを撮るとなったら、他の誰でもない、彼が「監督」の名が入ったチェアにふんぞりかえるといった一面を持っていたりもする。そこだけは他の経済学部生と大きくちがうところだ。

 実は、その一面こそが彼のすべてで、その「すべて」とはナツキの頭の中に詰まっている熱きエロスそのもののことなのである。彼という人間を言いあらわすのに他のファクターなどそもそも不要なのだ。

 第二映画研究会を立ち上げた理由というのが、彼の人生の永遠のテーマである「映画における『濡れ場』シーンの探求」が、シネコンを横目でにらんで通り過ぎ、ミニシアターに入り浸っては恍惚として、いまさら8ミリを回しはじめてしまうような連中がごろごろいる正規の映研ではまったく受け入れられなかったためだというのが本当のところだ。

 無論、たとえそのいさかいがなかったとしても、あくまでも理想を追求し続ける彼には苦難の道が待ち受けていることに変わりはなかった。

 現状、僕らの第二映画研究会は、「第二」なら気楽そうだからと新入生女子が多く入会し、シネコンで上映するようなエンタメ作品を鑑賞してはファミレスでワイワイとだべりあうのが主目的となりつつあるようなところだった。したがって、知る人ぞ知るナツキの本性も長身痩躯のさわやかな小顔の華やかなスマイルの下に潜伏してしまって久しい。だが、僕とヨシだけは、彼の野心の炎がいまだ吹き消されていないことを知っていた。

 学園祭に向けたショートフィルム撮影のためのこの夏合宿も、実は彼の野望を果たすために企画されたものなのである。

 僕らの自主製作映画「シトラス・セレナーデ」は、僕が都会育ちの大学生「若山八作」を演じ、エリがうぶな島娘「伊世」を演じるもので、その筋書きは、若い男女のひと夏の出会いと別れを描くといった、いまだ飽きもせず繰り返される使い古されたプロットの二束三文、純愛青春クソ物語なのだが、最大の見せ場は、陳腐なセリフを並べ立てただけのすべての着衣およびほんのお口汚しの水着シーンなどにあらず、クライマックスとなるそかはかとない厳かな濡れ場のシーンにこそあるのだった。

 しかし、水着になるのだけならまだしも、エリが服を脱ぐどころか僕とベッドシーンをカメラの前で熱演しようなどと露とも考えてくれるはずがないことはわかりきっていた。エリにそんなことを頼んだら即刻嫌われるに決まってる――実をいうと、エリは自分の役柄にそんなシーンがあることすらいまだに知らずにいるのだ。

 問題は共演女優だけにあらず、僕の方にも多少ある。

 男子なら誰もが当然ベッドシーンに興味を抱くものだが、観ると演じるとでは雲泥の差があるのはおわかりいただけるだろうか。持ち物に自信がもてないというわけでは断じてない。だがやはり、カメラが回る前となるとはたして――いや、何度でもいうが、持ち物に自信がないわけではない。ここだけはわかってもらいたい。

 ナツキには当然のごとく策があった。ナツキは自分が――つまり監督自ら「絡み」のシーンを吹き替えようと大まじめに目論んでいるのである。

 学生映画で大胆な濡れ場シーンを撮ったら大きな話題になるだろう。オレがやらなくて誰がやる――その信念をナツキはこの三年半の間、一度も揺るがしたことはなかった。

 そういうわけで、これまでにも僕ら男性陣はそういう目論見をもって何度もショートフィルムを撮ろうとしてきた。しかし、そのたびに「絡み」の相手役の女子が土壇場で躊躇して、結局一度も成功したためしがなかった。

 しかし、今度はちがう、ホンモノだ、そして「勃て、男子諸君よ!」とナツキは豪語し、僕らにミカという女の子を紹介した。ミカはナツキの相手役の「絡み」要員としてこの夏合宿に招待されたのである。

 ナツキがミカのような勝ち気な女の子をどう説得したのかはわからない。ただ、これまで何人もの女の子たちが残していった言葉がその理解を助けてくれそうではある。つまり、「女の子ならなぜかみんな、ナツキ君に無性に抱かれたくなるの」だという。そう嬉し恥ずかし語っては、女の子たちはみんなたしかに大人になって第二映研を去っていった。

 肝心の濡れ場シーンだが、台本には当該のシーンナンバーに当たり障りのない純愛セリフがいくつかあるだけで、エリに悟られないようにト書きは真っ白なままだった。エリは不思議がっていたが、そのシーンのセリフを含めて撮影プランについては実はナツキは僕とヨシにだけは詳しく語って聞かせてくれた。そのシーンを脳裏に描きながらアテレコのための陳腐な純愛セリフを口にしてみたとき――ただそれだけなのに、僕の心はすでにむせび泣いていた。ヨシすらも、そんな僕の様子に気付いてか目を潤ませていたほどだ。それほどに、このシーンは胸を熱くさせてくれるものなのである!

 ときどき薄暗がりの中の僕とエリの顔アップのカットを挟みつつ、ヨシが回すカメラに収められる予定の映像のほとんどは、体と体を密着させ、擦れ合わせ、つかみ合い、埋め合い、愛をもって打擲しあう男女の首から下の裸体だ。僕とエリの声とは明らかにちがううめき声とあえぎ声と卑猥なセリフの合間に僕とエリの純愛セリフを挿入する――このシーンの完成をもって彼の研究テーマがようやく一つの局面を迎えられるのだそうだ。

 ただ、事態が事態だ。こんなことが起きてしまっては、僕らはあの究極の、いつか伝説となるであろう濡れ場シーンを撮るチャンスを永久に失ってしまうのではないか――僕はそんなことが気になって、ふとミカをちらと見た。


 ミカは豊富な語彙力でおじさんを罵っていた――あまりの言葉なのでオブラートに包んで端的に省略するが、おじさんはもはや「糞尿垂らし放題の痴呆老人」だそうである。

 ミカは正式の部員ではなく、この夏合宿の前にナツキがみんなに引き合わせたのが最初の出会いだ。ナツキから、「文学部英文学科の女の子」と仲良くなったとは聞いていたが、それだけ聞くとどんな清楚なお嬢様だろうかと勝手な期待をしたものである。まさか、卒論テーマが「英語におけるセックススラングの語源と系統」だとは考えもしなかったが。

 彼女の言葉の選択は的確だ。思えば、ありのままを表現したことで対象をおじさんただ一人に絞りえた彼女の表現の方が、はるかに穏当なものだったかもしれない。オブラートで包んだつもりでも、語彙を単純化することで図らずも対象が普遍化されてしまいかねない僕の表現(糞尿うんぬんの)は、かえって老人蔑視だとのそしりを免れないだろう。ひょっとしたら、僕のこの「語彙の単純化がもたらす対象の普遍化」によって、ミカまでも不当な評価を受けてしまったかもしれない。ここは彼女の名誉回復のために一言申し上げよう。ミカには痴呆老人を貶める気は毛頭なかった。問題は僕にこそあるのだ。

 ただミカにまったく問題がないわけではなく、やはり今後も彼女の言葉をあらかた列挙していくのは適当とはいえない。質の問題もだが、量の問題でもあるからだ。彼女の言葉は、適宜僕の言葉で修正や数ページ分にわたる大幅な省略をされたり、それも適わなければ伏せ字にしたりする機会がありうることをここであらかじめ宣言しておくべきだろう。

 僕自身の問題についても、一つ宣言しておく必要がある。

 思考の展開によってはときどき僕自身の蔑視的、差別的見解を無意識のうちに差し挟んでしまうことが多々あるだろう。開き直りと取られてしまうのも致し方ないが、このあとの物語進行を円滑に進めるために、多少の差別語や蔑視表現は、僕自身がそのとき本当に無意識だったかどうかの区別なく、自動的に許しを与えていただくことを請い願いたい。無意識に発せられた差別や蔑視表現を、あれはいかん、これはけしからんと火をつけ、煙を立たせて回られても、僕はその火消しのためにいちいち物語を中断し、さかのぼって訂正、謝罪を挟むような無駄な時間の使い方はしたくないからだ。

 ますます不快に思われる方もおられただろうか。だからといって僕はこの方針を曲げるつもりはさらさらない。どうしても気に入らないというのなら、ご自由に別の適当で穏当な言葉で置き換えてもらっていい。それはあなたの思考の問題だ。多少書き換えたとしても著作権の侵害だと訴えることも僕はしない。

 もちろん僕は僕で、一応の自主規制的配慮を心がけようと思う。いずれ、こういった類いの表現部分において、語り部である僕とあなたの双方のちょうどうまい妥協点に落ち着けることを願って、ひとまずは先を続けさせてもらいたい。

 さて、くだらない話はおしまいにして、話を僕の友人たちに戻そう。

 本当のところ、みんなの紹介などさっさと終わらせて、おじさんの名前を思い出すためだけに時間を費やしたいところなのだ。なにせおじさんは最大船速三五ノット超の高速クルーザーで岸壁へ向かって――いや、もう舳先がだいぶ突っ込んでグシャグシャだ!


 少し先を急ごう。

 工学部生のヨシは第二映研の撮影監督で、自他共に認める映画オタクだ。それもモンスターパニックホラーに傾倒している。

 見た目は、背がずんぐりと低く、脂ぎって太っていて、度の強い脂ぎったメガネをテカテカ脂ぎった低い団子鼻に乗せ、始終脂ぎった人差し指でずり落ちるメガネをずり上げている。真ん中で分けた髪は脂ぎってべたべたではやくも脱毛と後退がはじまっている。着るのはきまってアメコミヒーローのキャラクターTシャツ。口を開けばボソボソと早口でしゃべるため、何を言ってるのかよくわからないことが多い。幸い、彼は自分のマニアックな話が誰に感心してもらえるかに頓着したことはなく、彼としては自分の持てる知識を披露する機会があっただけで十分に満足するタチなのである。

 「典型的な」オタク像、といったらお叱りを受けるだろうか。オタクに対する偏見だと。だから僕は先の教訓を活かして「典型的な」と一般化をするつもりはない。ありのままの描写を試みるのみだ。オタクを敵に回したなどと憤られても困る。責任はヨシ本人にある。おそらくミカの語彙力なら、僕よりもっと微に入り細に入った的確な表現で、僕の何倍何十倍もの言葉で描写してくれるだろう。そうすればきっと、よりもっとヨシただ一人を表す人物描写となるにちがいない。さきほどの懇切丁寧な描写でオタクどもを軒並み腹立たせてしまったとしたら、それは僕の語彙力がまだまだ未熟なせいだ。他意はないのだ。

 ヨシのその胸元に構えた4K動画も撮れると自慢の最新一眼レフは、彼がいま目にしているもの以上の光景を子細漏らさず記録している。ただ、僕から言わせれば、おじさんがあんなひどい目に遭っているというのに、そんなおじさんに向けてカメラを回すことはやはり不謹慎以外のなにものでもないのではないだろうか。

 ただ、いまの彼の行動を司っているのが、そんなゲスな野次馬根性などではなく、純粋に、粘液の化け物に襲われたおじさんの運命の行く末を追い求める彼のカメラマン魂、あるいは映画人魂なのだとしたら誰も彼を責められまい。

「あいつは『ブロブ』だ。絶対そうだ、そうにちがいない」

 彼はそう断言する。おじさんとクルーザーを飲み込んだ粘液の化け物が、一九八八年のモンスターパニック映画のモンスターそのものだというのだ。ただ、僕の印象では、粘液怪物の捕食行動はともかく、その消化プロセスは「ブロブ」とは異なるように思う。「ブロブ」に襲われた人は、まずどうしようもないほどにドロドロにただれるように溶かされる。その描写から鑑みるに、「ブロブ」は消化液は強力なのだが、吸収や分解が遅いのではないだろうか。だからひたすらドロドロに溶かして姿形を崩れさせていくばかりなのだ。

 一方で、おじさんを襲った粘液の怪物は、消化と吸収を同時に行うと思われる。おじさんを包み込んだ粘液は赤みを帯びているが、濁るほどでもない。焦げ茶色だったおじさんは粘液の中できれいな赤い筋肉をむき出しにしつつある。そのたくましい筋肉もだんだんとスッキリほっそりしていく。つまり、消化液で溶かすそばから急速に分解と吸収が行われているらしいのだ。

 そんな見事な消化吸収プロセスをもう少し見ていたい気もするがそうもいかない。最大船速三五ノットを誇るおじさんのクルーザーは、その勢い止むことなく刻一刻と破滅の前進を続け、跡形もなくなった舳先に次いで、いまついにキャビンとフライングブリッジがさらなる絶叫を上げながら岸壁にめり込んでいくところなのだ。

 そして、おじさんは――いや、やっぱりおじさんの話なんかよりも、ここはまずケイの話をしておきたい。些末なことで語りのペースを乱されたくはない。


 ケイはV大でもとびきり優秀な学生が集まる薬学部の学生だ。そして同時に、彼女は演劇部のスター女優でもあるのだ。

 昨秋の学園祭、学内最大の講堂で催された演劇部の演目「ハムレット」で、女だてらに(ただの慣用句に女性蔑視だと目くじら立てるのはおやめいただきたい)堂々と主演を演じきったことに僕は驚かされた。ケイを知ったのはそのときがはじめてだったのだが、後日、僕はわざわざ彼女を探しだして、直接その驚きと感動を興奮気味に伝えたものである。

 そのときケイは、どうというほどのものでもないという調子で返してきた。むしろ彼女は、学園祭最終日の夜の部で、小さな教室で一人三役(うち一つは死体役で、フェードインからおよそ一分後のフェードアウトまでずっと床に突っ伏しているだけという画期的なシーン)を熱演した自作一人芝居の方こそ褒めてもらいたかったのかもしれない。

 なんにせよ、彼女は本物の女優だ。もうすでにたたずまいから超一流女優のオーラだって感じられるほどなのだ。

 ただひとつ――それがすべてだという見方もあるが――玉に瑕なのが、器量の悪さだ。いわゆるブスなのである。

 女は顔で決まるものじゃない? もちろん僕もそう思う。そして男だって顔と背の高さと持ち物の大きさで決まるものではない。だが、現実はちがう。ナツキは頭の中身がどうあれモテる。ヨシのような男子は女子に見向きもされない。女ってヤツはそういう上っ面ばかりしか気にしない低脳な連中ばかりだというのは自明の理なのだ――いやいや、そうムキになるな女子諸君よ。男だって同類、男も女をまず顔から見る連中ばかりなのだ。この男女の対比に不公平さは微塵もないはずだ。

 幕を開けた「ハムレット」の客の入りは、千席もあるだだっ広い講堂にちらほら程度――一方で、同じ時刻に開催されたミスキャンパスコンテストの、まだ有象無象な候補者ばかりが犇めく二次審査会場でさえも満員御礼、立ち見もあふれかえらんばかりだった。さらに学園祭のクライマックス、ミスコンのグランプリ最終発表と開演時間が丸かぶりしていた一人芝居の方はというと、幕が開けて幕が引くまで、観客は僕ただ一人だった。客の入りと器量の善し悪しに相関関係があるという僕の見方も、まったく荒唐無稽とはいえまい。

 誤解してほしくないのは、客の入りが悪かったのは芝居の出来のせいではまったくないことだ。芝居の出来――とくに一人芝居の完成度はまったく素晴らしいものだった!

 毎年候補者の――というか女子大生という種族のど低能ぶりを暴き立てるためだけにあるかのようなミスキャンパス・トークショーはもちろんのこと、他の演者に足を引っ張られっぱなしの「ハムレット」とも比較するのもおこがましいほど、一人芝居『探偵』のエンターテイメント性は極上の域に達しているといっても過言ではないのだ!

 ただ、あの幕が引けたあとの僕一人だけのしんとした階段教室で、一切の感情を見せずに、僕一人のためだけに終演の挨拶に再び壇上に立ったケイに、その場で僕が言葉を尽くして褒め称えるのはどうにも気まずかった。ケイは黙ったままクールに一礼し、僕は黙って控えめの拍手を送る――これすらも彼女に惨めな思いをさせてしまわなかっただろうかと僕は不安になりさえした。こんな思いをするのだったら、僕もど低脳どもの群衆にまじって、僕のエリが候補者の一人として壇上に上がって他の女子学生とともに最終選考に残った感激のほどを語るミスコングランプリ最終発表の方を見に行っていた方が、ひょっとしたらケイにとってもよかったのかもしれない。

 僕がケイを賛辞した後しばらくして、ケイはどういうわけか第二映研に籍を置くことになった。彼女がその理由を語ったことはない。

 爆発の閃光にケイはもとから細い目をもう少しだけ細めた。その隙間に黒い瞳のきらめきがなかったら、まるで眠っているかのいるようだった。直後に吹いてきた、熱い、一瞬の突風に彼女の長い黒髪がなびき、ケイは髪をそっと手で押さえたが、その手から逃れた数本の毛先が唇に触れると、それを指でたぐりよせて他の髪になでつけた――ああ、つまり、僕はたまたまそばにいたケイの横顔を見ていたがために、おじさんが粘液とともに爆発四散する興奮モノの決定的瞬間を見逃してしまったわけである。

 そのとき不意に、ケイは僕を振り返った。彫刻刀の三角刀でえぐったような細い一重の三白眼で僕の顔を一秒ほど見つめ、ぺちゃんこの鼻の端をぴくぴく膨らませると、

「行きましょう。ここにいてもしかたないわ」

 と言って、ついと浜を離れていった。

 

 さてさて、忘れてならないのは僕のエリのことだ。

 なにもおじさんのことをないがしろにしようというわけではないのだ。エリのことを語る流れで、おじさんの話題も持ち上がるだろう。ひょっとしたらひょんなことからおじさんの名前を思い出せるかもしれない。実は僕はその一縷の望みに懸けている――とってつけた言いわけでは断じてない。

 エリはひどくうろたえていた。至極当然なことだ。エリにとっておじさんは伯父と姪の関係ではあったが、彼女が言うには、ちょっと歳の離れたお兄さんのような存在なのだ。

 エリから聞いた話では、おじさんは、おじさん一家が経営する缶詰工場で製造した、高級デパートでしか出回らないという一缶千円を超える高級サバ缶をときどき持ってきては食べさせてくれたそうである。エリは子供の頃、「おいしいサバ缶のおじさん」と親しみを込めて呼んでいたそうだ。そんな大切なおじさんの死を目の当たりにしては、エリが気が動転させるのもしかたのないことなのだ。

 エリは閃光に目がくらみ、爆発音に首をすくめ、遅れてきた爆風にあおられ、しかし少しでもおじさんの元へ駆け寄ろうと懸命に一歩踏み出し、だけど立ち上った黒い小さなキノコ雲を見上げて躊躇し、容赦なく押し寄せては引いていく波のどちらにもよろめき――ともかくすぐにでも、ふらつき震えるその小さな肩を誰かが支えてやる必要があった。

 それはまちがいなく僕の役目――のはずなのだが、それはエリがまだ僕という男を受け入れてくれるならばの話だ。というのは、この旅行の少し前からエリの態度が僕にひどく冷たいのである。

 もちろんその原因はわかっている。それは、ナツキが勝手に僕のアパートに置いていったアダルトDVD「秘技 地獄車」をエリに見つかってしまったことだった。

 誓って言うが、僕はそのDVDをまだ観てはいないし、今後も観る気はない。なぜならその手のジャンルは僕の趣味じゃないからだ。

 僕はあくまで普通の男だ。普通に女性の裸体に興味を示す精神状態を損なったことはないし、形態的に多少の物足りなさが――いや、形態的にも機能的にもまったく悩むことは何一つない健全なモノの持ち主である。それでも「秘技 地獄車」が描くマニアックなエロスには、やはりちょっと理性の上では抵抗がある。いや、僕はそういうささやかな身体的特徴をもつ女性を蔑視するわけではない。そのDVDは未見だが、エリも目の当たりにしたパッケージ写真からしても、そこに写る女性たちはいたって普通の女性だ――とある一部分だけが特徴的であるだけなのだ。

 だが、エリは、それこそが僕の好みだと勘違いしているようなのだ。

 こういうとき、女ってヤツは思い込みが過ぎて、決してこちらの弁解を聞こうとはしない。以降、彼女の僕を見る眼差しからいまだに冷ややかさは消し去れていない。

 それにしてもナツキの軽薄ないたずらが――「秘技 地獄車」なるエロDVDが、こうまでエリと僕との溝を深めることになるとは誰が予想できただろうか。

 あるとき、僕はふと軽口を思いついてエリに言ってみたことがある。

「そういえばさ、例のDVDのパッケージに写ってた、全身が黒々と日焼けしたあの男優、ヒロミツおじさんに似てない?」

 もちろん、その軽口はエリの神経を逆撫でした。いま思えば、エリを怒らせた原因は、ヒロミツおじさんを茶化したことにあったのかもしれない。

 僕はあっと声を上げた。

 ついに思い出した! おじさんの名前――ヒロミツおじさん!

 驚喜! 「秘技 地獄車」のおかげでついにおじさんの名前を思い出せた!

 僕が内心晴れ晴れとしているそばで、エリはいまにも波に足を取られてひっくり返りそうになっていた。おっと、過去のわだかまりがなんだというのだ。いまは緊急事態だ。エリには僕が必要だ。僕はいまにも倒れそうなエリを抱きかかえるようにして浜に上がった。エリは呆然としておじさんの名を呼び続けている。

「――おじさん――どうして逝っちゃったの――ヒロミチおじさん――」

 そう、ヒロミチおじさん。僕はちゃんと憶えていたよ。

 炎と黒煙が立ち上るおじさんのクルーザーの船体はあらかたバラバラになっていた。残ったのもぷかぷか浮かぶ亜熱帯の魚たちとともに波にもまれ、岸壁に打ち付けられたり、とげとげした岩礁にぶつかって少しずつ形を崩しつつあった。

 黒煙は青い空を黒ずませ、燃え切らないオイルは青い海に虹色にぎらつく黒い油膜を広げていく。僕らはその光景を前にただただ呆然としていた――悲嘆に暮れ、わだかまりも忘れて僕の胸で泣きむせぶエリ。相変わらず軽度のパニック症状を起こしているナツキ。ものすごい形相でおじさんに悪態を吐き続けているミカ。ヨシは狂喜しながら撮影を続け、しかも生実況まで吹き込んでいる。ケイはさっさと浜を後にしようとしている。

「エリ――ヒロミツ、いやヒロミチおじさんは――」

 エリは顔を上げて、おじさんが岸壁のシミ、海の藻屑、魚の餌となった方を見ようとした。僕はとっさにその視線を遮った。いまの彼女にはこの現実はまだつらすぎる――。

「ちがうの――邪魔よ、そこをどいてったら」

 エリは僕を突き飛ばすと、海面を指さした。

「ねえ、あれを見て――」

 海面に広がっていた油膜が、白く泡立つ波を斜めに横切ってこちらに漂ってこようとしていた。油膜は徐々に小さくなり、そのかわりキラキラとした柔らかい塊状に姿を変えていく。それが波打ち際に着く頃には、その塊はとある形になりつつあった。

 それはハムの塊みたいなものに貧弱な四本の触手を生やし、くるりと巻いたエビのむき身のような形をしたものをハムの端っこにちょんと突き立て、さらには野球ボールを塊の反対の端にのせている。触手の先端で砂をちょんちょんとつま先立ちするようにして立とうとするけれど、あまりに貧弱すぎて波によろけてばかりだ。その物体はいきなりぶるぶると体を震わせてしずくを振り飛ばしはじめた。その身震いが収まる頃には、その物体は拍子抜けするほど他愛のない生き物に変貌していた――それは間違いなく、ヤツだった。


 この島に上陸してからも、エリの冷め切った眼差しから距離を置くべく、みんなが嬉々として波打ち際に駆けおりていくのを横目に、僕は桟橋から防波堤に上がった。

 この島はまるで未開の無人島というわけではないらしい。船が着ける桟橋やささやかな防波堤があり、砂浜には小さなボートが何艘も伏せて置かれ、漁具を収めているらしい朽ちた小屋がたたずんでいる。おじさんが突っ込んでいった断崖絶壁の頂点には白い灯台、沿道に数軒点在する木造の家並み、そして山の谷間へと入っていく道があった。

 浜で遊ぶみんなの姿を眺めながら、エリの機嫌を直す方法とその金策をどうにかひねり出そうとしていると、僕の背後で子犬の鳴き声がした。

 振り返ると、そこにずぶ濡れの白いチワワがいた。小さい割にずいぶんと老け顔で、ちょこんと座って舌を口の横からはみ出させ、切なげな潤んだ目をして鼻を鳴らしている。ずぶ濡れだから余計に哀切きわまりない。僕は犬の前にしゃがみ込んだ。いや、何も助けてやろうってわけではない。お手でもさせるつもりだっただけだ――ただ、僕の手に差し出されたその足先はチワワのものではなかった。

 僕だって人類の特権として犬にお手をさせるくらいのことはこの人生で何度もしてきたことがある。ただ犬の指に、そんな肉食恐竜と見紛うほどの三日月型のカギ爪が剥きだしになっているのは見たことがない。狼爪という無用の五本目の指までも、邪魔そうにいかついカギ爪をぶら下げているのだ!

 僕はとっさに手を引っ込めた。振り下ろされた四本のカギ爪が防波堤のコンクリートをえぐり取り、ブラブラの狼爪のカギ爪がカチンと音を立てた――ぞっとして脳裏をよぎったのはクマだ。僕はどこをどうまちがってクマにお手を申し込んでしまったのか!

 でもおかしいな、チワワだと思ったんだけどな――僕はほんの一瞬のうちにそんなことを考えていたと思う。アドレナリンの脳内大放出が成せる技だ。だが、顔を上げてみてそこにいたのは、たしかにチワワだった。

 ほっと息をついた直後、チワワは別の何かに変身しはじめた。

 チワワだった顔はぬらぬらぐにゃぐにゃして鼻先が伸びたり縮んだり、頬がたるんだり引き締まったり、耳がぴんと立ったり垂れたり――要するに結局は別の犬の顔になろうとしているらしく、察するにずんぐりしたいかついマスチフになるか精悍なドーベルマンになるかでそいつは迷っているようだった。

 結局チワワだったやつは、首から上はずぶ濡れたドーベルマン、首から下はずぶ濡れたマスチフに決めたようだった。そのチョイスのセンスはお世辞にも良いとはいえない。

 とはいえ、僕にしてみればどっちでも同じだ。すぐにも合計十本のカギ爪と太い前足で、僕はがっちりと地面に押さえ込まれてしまったからだ。

 そいつはワニのように長い顎を半開きにして、よだれを僕の顔にしたたり落としてきた。僕は観念した。というのも、目の前に突きつけられた無数の蠢く犬歯があまりに恐ろしかったのだ。おおげさでなく、すべての歯が犬歯で、どの一本一本の先端にもまたさらに小さな顎があって、そのどの顎にもまた無数の犬歯がずらりと並んでいるのだ。なにはともあれ、僕の顔の皮をばりばりと剥いでやろうという意思がその犬歯の(犬歯の先端の顎にある犬歯の先端の顎にある犬歯の……)一本一本からひしひしと伝わってきた。

 いや、それとも僕の頭をがっちりとくわえこんで、ものすごい顎の力で頭蓋骨ごと噛み潰すつもりかな? そのとき、僕の頭ってどんな音がするんだろう? パーンと破裂かな? バキバキグシャリかな? トマトみたいにベチャッとかブチュッかな?

 ところが次の瞬間、妙なことが起こったのだ。

 ドーベルマンの真っ黒い顔がみるみるうちに透明なきらめく球体になっていったのである。そして完全な球体になると、それはいきなりぺしゃんこにつぶれ、ぱっと開いたクラゲの傘のように四方八方に広がった。

 これはほっとしていいのか、いけないのか――僕は海の中から青い空を見上げているようだった。物理学的にどういう屈折をしてそう見えるのか見当もつかないが、膜を透かした空にはゆらゆら揺れる太陽が無数にちりばめられていた。そして、ぐにゃぐにゃした粘液の膜は、僕を頭から包み込んだ。

 なぜか苦しくはなかった。不思議と怖くもなかった。ついさっきまであの悪夢のような犬歯の犬歯(そのまた犬歯!)に顔面を食いちぎられ、頭をブチュッとやられると恐れていたから余計にほっとしたのかもしれない。僕は粘液に包まれたまま身をゆだねていた。この心地よさなら誰だってそうする――。

 そのとき、粘液を通して何かが聞こえてきた。誰かが叫んでいる――おじさんだ。

 途端に僕を覆っていた膜が引きはがされた。そしてそいつは瞬く間に地獄で生まれ落ちたばかりのようなずぶ濡れの巨大な犬の化け物(今度は頭がマスチフ、体がドーベルマン)に姿を変え、クルーザーへと逃げていくおじさんを追いかけはじめたのだった。


 あのときドーベルマンとマスチフの合いの子の体をした、まるで地獄の番犬そのものといった姿はいまや見る影もなく、ただただでっぷり太った塊ハムのようなチワワはぶんぶんと体を震わせたり後ろ足で耳の後ろをカキカキしている。ときおりよろけて砂浜に尻餅をついてしまうのも愛嬌。気の済むまでそうした後で、チワワは首を愛らしく傾げたりして、くりっと出っ張った目と口の端から垂らした舌をキラキラさせてどこか友好的な雰囲気を醸しだしながら、とことこと僕たちの方に近づいてきた。

 女子には、およそ普遍的に見られる共通心理というものがある。それは、「カワイイは絶対正義」だとするものである。普段、その心理はときに男というケダモノに利用されてしまうのだが、今回ばかりはケダモノどころではない。ホンモノの怪物だ。しかも、怪物の術中にはまってしまう女というのが――ああ、やっぱり――僕のエリだ。

 エリは両手を広げて、チワワにおいでおいでをしている。チワワもチワワで、尻尾をちぎれんばかりにふりふりして、その胸に飛び込んでいこうとしている。

 ただ、どうやら怪物の策にはめられようとしているのはエリだけではなかった。

 カワイイもの好きのカワイイ女子にはどんなときでもどんなことでもとにかく同調してみせることが賢く生きることa.k.a.「ヤルためのテク」だと、その点だけを僕より徹底して心得ているナツキが、エリと一緒になっておいでおいでをしているのである。

 ――まあ当然の展開ではあるけれど、瞬く間にチワワだったそいつは風船のようにふくれあがり、僕を襲ったときの例の怪物――首から上がずぶ濡れのドーベルマン、首から下がずぶ濡れのマスチフに変貌した。

 怪物は無数の犬歯と犬歯の犬歯を――さらに犬歯の犬歯の犬歯をてんでに蠢かせ、十本のカギ爪をカチカチさせて、エリとナツキに覆い被さらんばかりに後ろ足で立ち上がった。

 そのとき、どこかから甲高い声が上がった。

「ジョニー、取ってこい!」

 それは僕の声でも僕らの誰のものでもなかった。それも当然で、あの怪物に「ジョニー」なんてしゃれた名前があるなんて僕らが知っているわけがない。

 そのとき僕らの頭上をテニスボールが放物線を描いて飛んでいき、打ち寄せる波間にぼちゃんと落ちた。すると怪物は、一目散にボールを追いかけて海に飛び込んでいった。

「みんなこっちに来るんだ! はやく!」

 堤防の上で少年が叫んだ。

「エリ、立つんだ! ナツキ、走れ!」

 僕は腰を抜かしているエリを抱きかかえると、まだ何が起きたか理解できていないヨシとミカを促し、ケイと少年がいる堤防に駆け上がった。

 振り返ると、「ジョニー」と呼ばれたチワワが波打ち際で体をぶるぶる震わせて水気を切っているところだった。そうしてる間に、せっかく取ってきたボールは波に洗われてころころと海へと転がっていく。「ジョニー」は慌ててそれを追いかけて、また波にのまれていたりする。やっと拾ったかと思うと、小さな顎で大きなボールを四苦八苦して噛もうとしている。この期に及んで、なんともまあ愛くるしい――と思いきや、その顔だけがドーベルマンに変わり、いきなりボールを噛み潰すと、砂浜に座り込んでうっとりした表情でグチャグチャとガムのように噛みはじめた。

「君がアレの――飼い主なのか?」

 僕が訊くと、少年はなぜか悲しそうな顔をした。

「すぐにここを離れた方がいいと思います――アイツ、鼻はよくきくので」

 この少年はあの怪物のことをよく知っているらしい。だが、事情を聞くにしても後にした方がいいだろう。僕らは先を行く少年を追って、山へと続く道を駆け上がっていった。


 チャプター2 愛と哀しみのジョニー


「ああ、もうやってらんねえ! ふざけんなちきしょう!」

 さっきからカッカして誰彼構わず当たり散らして(無論、その罵詈雑言の九九パーセントはここに記すことを控えさせていただく)いるのはミカだ。

 そんな彼女の小洒落たハイヒールのサンダルが獣道のぬかるみにずっぽりはまること七回、コケや藻で覆われた沢の岩や石ですべって転ぶこと十二回――それでも誰も彼女を気遣ってやろうとしなくなったのは、ミカが僕らのスニーカーをよこせと詰め寄るようになってからだ。ただ、そんな憎まれ口や尽きることのない悪態すらも、鬱蒼とした亜熱帯のジャングルが全部吸い取ってしまうようだった。

 この一時間、僕らは小水川の支流だという沢に沿って上流へ上流へとさかのぼりながら、向こう岸とこちらの岸を四度も行ったり来たりしている。沢を何度も渡るのは臭いを途絶えさせて追っ手を振り切るためだろう。

「おいガキ、赤むけチェリーボーイ、このあたしをどんだけ歩かせるんだよ!」

 少年は聞こえないふりをしているが、その背中はさっきからずっとちぢこまっている。ミカが卑猥な言葉をぶつけるたびに少年は足を速め、僕ら一行のペースは上がるばかりだ。

「そういえば、君の名前を聞いてなかったね」

 沢を渡りきったところで僕は少年に訊ねた。彼はむっつりと答えた。

「アタルです――島尻、アタル」

「私はエリ。よろしくね、アタル君。素敵な名前ね。すっごく好きよ」

 教育学部初等教育学科の授業か家庭教師のアルバイトで身につけたのか、エリが僕でさえ知らないお姉さん顔をして言った。アタル君はというと、もう耳まで真っ赤だ。

「名前なんか――僕の名前は、中毒の『中』です」

「食あたりのアタルじゃねーの。さっきからゲリっ腹みたいなツラしてっけどよ」

 二人の会話に割って入ったミカはケタケタと笑った。笑ってはいるが、目は血走っているし、かなり刺々しい。どうやらミカは、引きずり回されっぱなしのこの道中の恨みをどうにかして晴らそうとしているのだ。ナツキも同調してゲラゲラ笑い出す始末だ。

 アタル君はミカとナツキを順番ににらみつけると、前にも増してペースを上げた。

「まあ、そうカリカリすんなって! カリカリすんのは煎餅だけにしとけっての」

 ナツキが煎餅を一枚差し出すと、アタル君はナツキの手から袋ごとさっと奪って無心にむさぼり食いはじめた。

「アタル君、そろそろあなたの計画を聞かせてくれないかしら。私たち、囮には囮なりの段取りというものがあると思うのだけど?」

 ケイが涼しい顔によく似合う、澄んだ声で言った。

「ええ? この童貞***、あたしたちをアイツにヤラせようってのかよ!」

 ミカが般若の形相でアタル君にすごむと、少年も負けじと言い返した。

「あなたは、それまで生きててくれれば上出来ですよ」

「てめえ、この赤むけ皮かむり***野郎!」

 ミカはまたも口汚く、いたいけな年下の男の子を罵った。その悪態に少なからずうろたえているところを見ると(なぜヨシも?)、アタル君は――まだ未成熟なのだろう。それゆえかどうかわからないが、彼の反応にエリの母性本能は刺激されたらしい。

「アタル君は私たちを助けてくれたのよ。少しは感謝の気持ちを持ったらどう? アタル君には考えがあるのよね? 私は、アタル君の役に立てるなら――」

「真っ先にあのデカ**犬に処女を捧げるって?」

「誰が処女ですって! あたしはとっくに――」

「え、マジ? エリちゃんが? ショック! 君だけは最後の砦だと思ってたのに!」

 唐突にミカに矛先を向けられたエリが口走ると、ヨシが悲痛な叫び声を上げた。ヨシの手前、僕はエリの慌てて向けた視線に気付かぬふりしてアタル君に向き直った。

「とにかく、ケイちゃんの言うとおり、君の知ってることをすべて教えてくれないか。ただの囮やエサ以上に、僕らに役立てることがあればなんでもやるから」

 そう言うと、僕はみんなの顔を見回した。反対する者はいない。さすがエンタメ映画好きが集まる第二映研のメンバーだけあって、それぞれの役柄がわかっている。

 これがあっちの映研だとこうはいかないだろう。あいつらのことだから、この状況が現実なのか夢なのか、右往左往、喧々囂々の不毛な議論のあげく、常識を超越したこの不条理を受け入れるのはだいたい九〇分後で、その悟りは死とともに訪れるにちがいない。

 僕らはちがう。僕らはど派手な爆発や愛らしいチワワが瞬時にこの世のものではない怪物に変化するのも目の当たりにしたし、間一髪でその危機を脱するというお約束を経験してきたばかりだ。そんな僕らならば、九〇分後に迎えるのはラスボス撃破のハッピーエンド――僕らはいまやモンスター映画の登場人物なのである。

「すべての発端は、みなさんご存じの、五年前の小惑星クライシスでした」

 アタル君はそう切り出した――ほら来た、お約束の展開!

「NASAとJAXAが協力して破壊した小惑星の破片はほとんどが大気圏で燃え尽きましたが、燃え尽きなかったものが日本の領海内――尻島の沖合に落下したんです」

「小惑星クライシス――僕らが詳しいことを知ったのはハリウッドが映画化した後だ」

「『ハルマゲドン』! あたしあの映画、チョー好きなんですけど!」

 以降、ミカが情感込めて歌い上げるアメリカのロックバンドの大ヒットソングがBGMとしてヘビーローテーションで流れることになるが、アタル君も僕らも、ミカが上機嫌であるうちは放っておくべきという意見で一致したということを付け加えておこう。

「あの映画だってどこまでが真実かわかったもんじゃなかったけど、やっぱりそうか。大気圏を突破した破片が海に落ちたあとのことまでは描かれてはいなかったもんな」

「メディアがその事実を知らなかったのも当然です。海中に沈んだ破片は極秘の内に日米共同の海洋研究船の深海探査艇によって回収され、日本のある研究機関に運ばれました」

「その日本の研究機関っていうのが、この島にある研究所なのね」

 ケイがまとめると、アタル君はうなずいた。

「まずはこの島のことからお話ししましょう。この島は『尻島』といって――」

「知ってるぜ! 尻の形した山があるから『尻』島っていうんだろ? でも俺的にはCランクだな。もっとこう、モリッとしてブリッとしたのが俺の好み――げふっ」

 ナツキの脇腹にケイの肘がいい角度で突き刺さったところで、アタル君は話を続けた。

「島の呼び名には諸説ありますが、その由来のもっとも信憑性のあるものでは、僕の継父の家系――島尻家が代々この島を実質的に支配してきたことに由来するというものです」

 研究所でこの島に関する古い資料を見つけたのだとアタル君は言った。

「江戸時代には、この島を含む島嶼地域は薩摩藩の流刑地だったそうで、当時、蘭学と称していかがわしい人体実験を繰り返してきた島尻茂呂という医者が流罪となってこの島にやってきました。その人物はここで他の罪人たちにまっとうな治療をしていたそうですが、やはりひそかに人体実験や人体解剖を行っていたのではないかといわれています。そのことを批判したり追求したりする者もいたらしいのですが、そういった者たちは皆一様に原因不明の病気になったそうです。そして、それを治せるのは茂呂だけ。そうして島尻茂呂は恐れられながらもこの島に必要不可欠の人物として影響力を及ぼし、支配し、いつしかこの島は島尻茂呂の島――『島尻島』と呼ばれるようになったそうです。

 その名前のせいか、明治維新のどさくさに、この島は島尻家が所有することとなりました。その頃すでにここには医学研究所が設立されてましたが、もちろんまっとうな病院ではありません。戦前は、軍直轄で秘密裏に兵器開発が行われていたといわれています」

「マッドサイエンティストの系譜にBC兵器――実に興味深いわ」

 ケイは小鼻をピクつかせた。エリだけがぞっとした表情をしているが、彼女の好きな映画ベストテンには「ザ・フライ」と「ザ・フライ2 二世誕生」がきっちり入っている。

「戦後、兵器開発の研究所は解体されましたが、しばらくしてこの周辺の島嶼地域の生態系調査を行うという名目で民間の研究所が設立されました。もちろん設立者は島尻家ですし、軍の秘密兵器を開発していたようなところですから、生態系調査というのはあくまで表向きのことで、実態は細菌やウイルスなどの病原体研究が主だったようです」

「そんな研究所に持ち込まれた宇宙からの隕石、そして人食いモンスターの出現――要は、モンスター系エイリアンものってことだね」

 ヨシがひとまとめにしてそう言うと、ナツキがいきなり声を上げた。

「エイリアンにはたいてい火が効くんだ。火炎放射器を作ればいいんじゃね?」

「たしかに火は有効です。火炎放射器を作れるだけの材料だってあります。燃料タンクに圧搾空気のボンベ、混合弁に点火用のガス、配管として使えるパイプもあります――でも残念なことに、どれもすべて、ヤツらがウジャウジャしてる研究所の中にあるんです」

 その言葉に僕らは息をのんだ。怪物は一匹じゃないということか。

「この一ヶ月ずっとヤツらと戦ってきましたが、研究所はほとんど手つかずです」

「でもよ、火炎放射器があればだよ? ヤツらがまとめてかかってきたって、ボボボボォードババババァーってやってチョーヨユーなんじゃね?」

 ナツキはまだ諦めきれないようだ。僕だって同じだ。モンスターには火炎放射器が効果的だってことは絶対真理なのだから。

「アイデアはすごくいいと思うけど、もう少しアタル君のお話を聞きましょう? アタル君、どうぞ続けて。お姉さんたちにもっといろいろ教えてくれる?」

 思い返せば、僕らみんなそれぞれそこかしこにフラグを立ててきた気がする。

 ナツキは相変わらずバカをさらけ出して負のフラグを立て続けている。ミカはミカで、手の平返しにそれまでの誰彼構わずの傍若無人ぶりはなりを潜め、はた目にみても気味が悪いくらいに勝ち組とおぼしき人物にすり寄ろうとしている。ヨシもその類いだろう。僕から言わせれば、それだって死亡フラグだ。

 かといって、ケイのように賢そうにしたりエリのように従順に振る舞ったりすればいいのかというと、そうしたからといって生き残れる保証なんてない。こんなことを言ってしまっては元も子もないが、モンスター映画やパニック映画はいわば登場人物たちの死に方を見せるものなのだから、誰も死なないというわけにはいかないのだ。

 ただ、絶対確実に言えることは、語り部はほとんどの場合、主人公であると同時に生存者の一人だということだ。つまり、この七人の中で、少なくとも僕だけは生き残れるということになる。もちろん、最後の一人も死んでしまうというバッドエンドもなくはないが、それでも早々にご退場ということはない。というのは、僕はもうすでに一度殺されかけたが、その危機を生き延びたのだ。死の淵からの復活というエピソードが意味するところは、すなわち最後まで生き残るというプラスのフラグにちがいない。「生きてこそ」を観ればわかる。しかも重要な役割を演じ、みんなを生還へと導く大活躍をするのだ!

「――よしわかった! つまりすなわちやっぱりどうしたって結局のところアタルの言うとおりにやんのが一番ってことなんじゃね? だったら楽勝じゃ――げふっ」

 ケイの肘がナツキを辛辣にあしらったところで、僕ははっと我にかえった。

「アタル君、フェイズ4個体の形態的特徴についてなんだけど、体表を構成する外皮様タンパク質は高速で生成と分解を繰り返しながらも、ある程度硬質化して形態を保つってことだけど、その強度はいったいどの程度なの?」

 僕はどきりとした。ケイはいったい何の話をしてるんだ?

「知りたいのは、私たちの力で破壊や切断はできるのか、それとも粘性体特有の弾性によって、加えられた力は吸収されてしまうのか――つまりエラストマーなのかゲルなのか、それともエラストマーゲルなのか、あるいはダイラタンシー流体的性質を表すのか」

 ケイの理解不能の質問にアタル君は平気な顔で答える。

「地球上に存在しうるどのタンパク質由来の物質の物性とも異なっているといえます。というのも、そもそもYBXのフェイズ4個体が地球上では不安定な鏡像異性体タンパク質を主に構成されているためでして、しかし、にもかかわらず地球上のタンパク質合成過程ではあり得ない速度で瞬時に生成、分解を繰り返しながらも一定の形態を保つからです。その理由は――」

 おいおいおいおい、ちょっと待って! いったいこの中学生は何の話をしてるんだ?

「――ブレア博士の見解によりますと、それはやはり未知の環境に体表をさらされながらも生存するための適応形態なんだと考えられます。体表を硬質化させるのはその方途の一つで、宿主とされた生物が言わずもがな一定の形態を形作っていることに起因していると考えられ、宿主の適応的習性を模倣する際に、その形態をも踏襲しようとするためです。ですから、平常時の体表の硬度や強度などの物性は宿主のものと同質、同程度でしょうが、急激な環境の変化などで宿主同等の硬度、強度では適応的でなくなる場合はその限りではありません。つまりは、YBXの意のまま。YBXが形作るタンパク質性の体組織は、どんな破壊の方法にしろ、そのときの状況に応じた防御策をとるものと考えられます」

「殺す、消滅させる、息の根を止めるという目的には、打撃も切断も無効だということね」「ただ、YBXのその体表のみならず、全体組織的規模で行われている瞬間的なタンパク質合成および分解のプロセスは、同時にYBXの神経回路的伝達網でもありますから――」

 背中を冷や汗が伝っていく――僕はアタル君の話の大半を聞き逃してしまっていた。

「ごめん、悪いけど――YBXのことをもう一度最初から説明してくれるかな」

 僕はできる限りさりげなさを装って話に割って入った。ケイは尖った肘を研ぎ上げるようにさすりながら言った。

「経済学部のこの人たちにもわかるように話してあげたらとは思うけど――無理よね」

「いや、僕はただYBXってなんのことかを――」

「いいのよ、無理しなくて。ほんというと、私だってよくわからないもの」

 エリがそっと耳打ちしてきた。アタル君に向ける暖かな眼差しとはちがい、その目には、とてもあからさまな憐憫の色が満ち満ちている。このままではマズイ――。

 僕はこっそりヨシに助けを求めようとした。だが、ヨシの顔には引きつった表情がずっと張り付いたままだ。アタル君はわざとらしくきょとんとした顔で言った。

「みなさん、大学生ですよね? 僕はさっきから何も難しいことは言ってませんが」

「んだよ、その言い草は! ***もしたことないくせにあたしのことナメようっての?」

 ミカが食ってかかると、アタル君はすぐさまエリの後ろに隠れた。

「***って何のことですか? 別にあなたのことをナメたいとも思いませんし」

「なにコイツ、***も知らねえのかよ! ***ってのはな、オンナの***を――」

「やめて!」

 エリの耳障りな金切り声でミカの罵詈雑言マシンガンが撃ち止むはずもなく、身も心も知識も第二次性徴をやっと迎えたばかりであると判明してしまったアタル君は、ボニーとクライドも哀れむほどに蜂の巣に(とくに下半身あたりの防備が薄かったようだ)されてしまったようで、いまや半べそかきながら僕らの十歩先をすねて歩いている。うぶの塊であるエリには、さすがに慰めの言葉は見つからない。

 とにもかくにも、僕はアタル君に追いついて声をかけた。

「アタル君、さっきも言ったように、YBXのことで聞きたいことがあるんだ。要するに、あーつまり――いや、そもそもYBXってなに?」

 返ってきたのは、当然、侮蔑の色濃い呆れ顔。

「いや、実は考え事をしてたせいで、ちょっと聞き逃しちゃったところがあってさ」

 果ては長いため息のオマケ付き――だからといって、この殺意はおくびにも出すわけにはいかない。

「YBXというのはですね、ある略語でして――」

「んなのどうだっていいんじゃね? 欲しいのは、なんつったって火炎放射器だぜ」

「いいじゃない、知りたいっていう人がいるんだから。YBXってね、実は映画の――」

「呼称はたいして重要ではないわ――でしょ? 先を続けて、アタル君」

 エリが僕に助け船を出そうというのに、三角刀でえぐったような細い目つきのケイは、その尖った視線で船底を穿つことに余念はないようだ。

 僕はもう救助を諦めて孤独に立ち泳ぎだ――僕はケイに同意して、アタル君に先を促した。実のところ、僕はすでに、渦巻くYとBとXの三文字に飲み込まれてしまっていた。

 それでもエリはやっぱり優しい――エリは僕の横に並んでそっと耳打ちしようとした。

「YBXっていうのはね、実は映画のね――」

「だから、そんなのどうだっていいの! エイリアンには火炎放射器――げふっ」

 三年来の友人への殺意をケイが肩代わりしてくれたのはいいが、その鋭利な肘の矛先が今度は僕に向けられないとも限らない。僕は大人しくアタル君の説明に耳を傾けた。

「――その隕石の破片の、大気圏突入の際に焼け焦げた表面を取りのぞいた内側を分析したところ、それはどこをとっても一般的な隕石を構成する鉱物などではなく、直径一○○マイクロメートル前後の、耐熱性・耐圧性・耐薬品性に優れた硬質のタンパク質の殻が無数に無駄なく整然と組み合わさったもので構成されており、それら殻の一つ一つに粘性物質が満たされていました。最初に『アメーバ状の生命体』ではなく、暫定的に『物質』と判断されたのは、その粘性物質がたんにタンパク質やアミノ酸の集合体でしかなかったからです。つまり、アメーバのような地球上に存在する単細胞生物とは異なり、殻内にはDNAなどの遺伝物質はおろか、生物細胞であれば普遍的に見られる種々の細胞小器官や細胞内構造体とみられるようなものが皆無だったのです。しかも安定的な外殻のタンパク質とは異なり、その中身の粘性体を形作るタンパク質やアミノ酸は、地球上の生物には有用でない異性体アミノ酸や、そもそもがまるで未知のアミノ酸様物質で構成され、そのためか殻から取り出すと途端に重合体を維持できずに瞬時に分解されてしまうようなものでした。したがって、この粘性体はただの有機物の集合体であって、地球外生命体であると判断するには決定打に欠けているような代物だったのです」

 今度は僕がため息をつく番だというのに、アタル君はといえばまるでお構いなしだ。

「ところが、すべての個体をよくよく観察すると、殻に閉じ込められている限りは安定して不活性だと思われていた有機物集合体が、実はある特定のタンパク質――わかりやすくAとします――だけがはじめはごくごくゆっくり、しかし徐々に確実に加速度的に分解されていくことがわかりました。この現象を発見したのはNASAの宇宙生物学者ブレア博士で、彼は一つの仮説を提唱し、ある日付と時刻を予想しました」

「予想?」

 僕はみんなを代表して訊ねた。

「その特定のタンパク質をAとします。各個体のA含有量はほぼ同じで、分解速度も同じ。つまり、全個体が同調して一斉にAの量を減らしていく――つまり、カウントダウンです」

 カウントダウン。映画好きには耳慣れた(それでいて心躍る!)言葉だ。

「そのAというのは別のBというタンパク質合成の抑制因子だと考えられ、Aがある程度減少したところで、タンパク質Bの合成がごくごくゆっくり開始されました――予想では、ごくごくゆっくりなのははじめのうちだけで、BはAが加速度的に分解して総量を減らしていくのとは対称的に、加速度的に合成されて増加していくものと思われました。しかし、当初の予想に反して、Bは一向に増加していきませんでした。合成されるとほぼ同時に分解されていくらしいのです。タンパク質Bとは何か――その答えはすぐにわかりました。そのBは実は、粘性体を包む非常に丈夫な殻を破るための分解酵素だったのです。Bは生成されると同時に殻を構成するタンパク質のいくつかの分子をくわえこんでもろともに分解し、そして再びさらなる分解酵素B合成のための材料となるのです。そして、小惑星クライシスでNASAとJAXAが発射した核弾頭搭載ロケットが小惑星に着弾してからおよそ八十二日後、正確には一九八二時間六分二十五秒経過後――ブレア博士が予言した日時です――、フェイズ1のYBXは一斉に殻を破り、アメーバ様の形態で活動をはじめました――これがYBXの第二形態、つまりフェイズ2です」

 やっと面白そうな話になってきた――いや待てよ、フェイズ2?

「その――『YBX』とかいうやつのフェイズは、いったいいくつあるのかな」

「わかっているだけでフェイズ4まであります」

 つまり、フェイズ2、3、4とあと三つぶんの口上があるわけだ――げんなり。

「フェイズ2が活動をはじめたってところだけど、その活動というのは――」

「一つはその体内で同時多発的に多種多様な低次から高次構造のタンパク質ポリペプチド鎖を合成し、同時に分解をも行うことです。合成されるタンパク質の中にはこの地球上で、いえ、この全宇宙つまり物理世界においては生成されるとほぼ同時に瞬時に自然崩壊してしまうような構造のものもあります。それら多種多様なタンパク質は相互に、複合的に、連鎖的に合成や分解を促進する触媒となるため、その生合成、分解は地球上の生命体が行う生合成や分解のプロセスとは根本的に異なる方途、そしてはるかに超える速度で行われます。したがって、一見したところフェイズ2の体内で合成・分解されるタンパク質はランダムと見られますが、実際は計算し尽くされたプロセスである可能性も否定できません。事実、部分的に選択的であることが観測されたものもあります」

 僕は、なるほどウンウンとうなずく――というのも、さっきからケイの値踏みするような眼差しに監視されているからだ。

「――多種多様なタンパク質合成・分解プロセスに付随する現象として、その体内でもっとも高頻度にみられるある特定のタンパク質の分解プロセスで、エネルギー収支の余剰分を光として放出するというのがあります。フェイズ2におけるその現象の意味や目的はまだ未解明だそうですが、考えられるのは、その光もまた合成・分解反応にもちいられる触媒の一種なのではないかということです。また、この光はフェイズ4では別の目的をもってもちいられていると考えられています。これについてはのちほどご説明します――そして、もう一つの活動というのは、エネルギー摂取です」

 つまり「捕食」だ。まさに『ジョニー』の「エネルギー摂取」という名の「捕食」を半ば体験した僕は途端にぞっとしたが、同時にふと疑問にも思った。

「そいつはたしかちっぽけな殻に入ってたんじゃなかったっけ? 僕が――僕らが遭遇したのはとんでもなくデカい化け物だったじゃないか」

「『ジョニー』はフェイズ4に分類されます。いわゆる『捕食』をして養分摂取をするという点に関してはフェイズ2とフェイズ4は似通っていますが、フェイズ2に関しては『捕食』の前と後にも大きく大別できる段階がありまして、α、β、γの三段階があります。たしかにフェイズ1を閉じ込めていた殻はとても小さく、直径が一○○マイクロメートルつまり○・一ミリしかありません。当然、その殻から脱してフェイズ2となって活動をはじめた個体も最初は同じ大きさです。この初期段階はαと呼ばれ、周辺に獲物となる生物がいない場合、YBXはひとまず同種個体と融合しあい、必要なエネルギーを補い合うようです。せいぜい一ミリメートル弱ほどにある程度大きくなってくると、移動速度も高まるためか明確に捕食行動に移行します。そして、自身より小さいかせいぜい二倍か三倍程度の少し大きいくらいの獲物――つまり微生物に対しては、アメーバと同様に体内に取り込んで消化するという方法を取るようになります。この段階をβと呼びます。ただ、それらよりはるかに相手が大きい場合、YBXは相手を体内に取り込むのではなく、相手の体内に入り込むという行動に出ます。これがフェイズ2の後期段階γです」

「寄生虫みたいなものね」

 エリがぞっとして肩を抱きすくめた。

「寄生虫なんてかわいいものですよ。YBXフェイズ2γは宿主の体内で、宿主をエネルギー源として利用しながら、ねずみ算的に分裂を繰り返して増殖し、また同時に機能はそのままでダウンサイジングし、宿主の細胞よりも小さくなっていきます。その間も数種類の免疫抑制物質を合成して実に効率よく宿主の免疫抗体をだまし、はぐらかして無効化しつつ、最終的には難なく宿主のほとんどすべての細胞内に――免疫細胞そのものの中にも――自らを埋め込み、あたかも既存の細胞内器官として振る舞うようになるのです」

「つまり、細胞から宿主を乗っ取るってこと?」

「といっても、あらゆる細胞内に入り込んだγは、そこで傍若無人の振る舞いをするわけではありません。あくまで細胞そのものがこれまで行ってきたタンパク質合成プロセスの補助的な役割を演じ、ある期間はあまり目立つことなく潜伏に徹しているようです――この期間、宿主はγがタンパク質合成を補助することで、より高効率にタンパク質合成が行えているようで、この状態に限っては相互に利益を得られるという点で、葉緑体やミトコンドリアなどと同じように細胞内共生関係にあるものと見なすことができまして――」

 まったく! 話が長いったらありゃしない! ましてや中学生なら中学生らしい言葉で喋るべきではないか? どうもキャラがウソくさいのだ。それに、おカタい言葉でたらたらと、こんなのもっとも忌むべき説明セリフだ。説明セリフはとかくストーリー進行を停滞させる。この長ったらしい解説でどれだけのページが費やされたことか!

「小惑星の破片から損傷を受けていないフェイズ1のYBXが全部で一九五六個体採取されました。それらすべてがフェイズ2に移行したわけではなく、一九五六個のうちほとんどがフェイズ1の状態のまま液体窒素で凍結保存され、二○○個体が殻を破ってフェイズ2αに移行、手始めに個体単体および個体群での培養、さらには飢餓状態および種々のエサ――α個体およびα融合体に比してあまり大きくない微生物など――を与えての培養など、幾通りもの対照実験が行われました。いずれの場合でも、エサを与えられたα個体およびα融合体はβ段階に移行し、捕食を開始、エサの質や量によってグループは多少は体の大きさの違いが見られましたが、機能的および行動的にほぼ同一と見られる状態を維持しました――つまり、βは休むことなく養分を摂取し、単細胞様の粘性体組織を形成するタンパク質の材料とタンパク質を合成するためのエネルギーを溜め込みつつ次第に肥大化していったのです。そしていよいよγ段階に――」

 ええい! もう思い切って、この先はかいつまんで要約してしまおう!

 要はフェイズ1はタマゴ。フェイズ2はタマゴから生まれた虫。αは生まれたばかりの赤ん坊。βはお腹が減ってる。γは寄生虫だけど宿主に優しい。宿主にイタズラしはじめるのがフェイズ3で、寄生虫は寄生虫なんだけど、ちょっと我が強くなってくるらしく、宿主をどうにかしてしまうらしい。実際問題、いまはそこまではどうでもいい。肝心なのはフェイズ4。コイツは宿主に見切りをつけ、全部喰ってしまい、喰ったあとは宿主になりすます――つまり、チワワの『ジョニー』だ! 実にわかりやすいじゃないか? さあ、みんな叫べ! これまでの時間を返せ!

「アタル君、細かいところはもういい。僕らが対峙することになるのは、当面のところ、あのチワワだ。あの犬の習性とか特徴とかをできるだけ多く知っておくべきじゃないかな。いや、そもそもフェイズ4になる段階で宿主は食い尽くされてしまったのに、なぜ宿主の習性や特徴をそっくり真似する必要があるんだろうか?」

「食い尽くすといっても、宿主の神経系は神経親和性のあるタンパク質保護膜で覆うことによってそのままの形態と機能を保ったままフェイズ4となっても利用されるからです」

「脳みそだけを食い残すってことだな」

 ヨシが引きつった顔で笑う一方で、エリは何度目かの大げさな身震いをした。

「先にお話しした例のタンパク質合成・分解過程で放出する光――フェイズ2では触媒として作用していると考えられましたが、フェイズ4ではその光が様々なパターンをもっていることがわかり、それらが宿主由来の神経細胞に作用しているようなのです。つまり、宿主の脳神経系とそれを包む粘性体との相互伝達手段としての光です。ただ、その発光パターン解析はまだ着手したばかりで、わずかに担当研究員のメモ書きがある程度です。わかっていることは――」

 「メモ」だけで延々と語れるアタル君の理解力がスゴイのか、それともその「メモ」が僕らの考える「メモ」とは概念からしてちがうのか――ともかく、彼の長ったらしい耳障りな用語をちりばめたフェイズ4に関する情報をまたしても僕流にまとめるとこうだ。

 フェイズ4個体の体内のそこかしこで発される光こそ、あの怪物全体を司る神経回路的なものなのだという。そしてYBXはすでにある宿主の神経系をどうにかこうにかごにょごにょムニャムニャして、その外見を宿主そっくりに変身させることもできるというのだ。

 その体表面では、タンパク質が実に精巧緻密に毛並みや毛穴、肌の質感や弾力までそのまま再現させることができるという。ただ、常に合成と分解をしてるせいで、ずぶ濡れの見た目になる。あのチワワが最初からずぶ濡れだったのはそういうことらしい。

 さらに、皮膚や毛並みを模した体表面は半透明で、スクリーンのような役目を果たしている。ここでも例の光は利用され、そのスクリーンに向けて体の内側から自由自在な光のパターンを投影して皮膚や毛先など隅々まで色や模様を再現しているのだという。

 外見はそうして細部にわたって再現されるが、その「形」に関してはまったく宿主そのままになるということでもないらしい。というのも、宿主の姿形を遺伝子レベルから胚発生を経て再構築したというわけではなく、たんに宿主の神経系に記憶として残っている宿主自身の外見的特徴のイメージを読み取って、あの粘液で表現しているだけだというのだ。

「願望が見た目に反映されたりするということ?」

 エリがなぜか興味津々で訊くと、アタル君はうなずいた。

「そう考えて差し支えないと思います。『ジョニー』はもともとチワワでしたが、おそらく、ドーベルマンやマスチフのような体の立派な犬になりたかったのでしょう。ただ基本的には、宿主の形態的特徴と本能――つまり、いままさにこの環境に適応している生物の姿形と習性を模倣するようです。結局は元の宿主が自分をどうイメージしているかによるところが大きいのだといえそうです」

「宇宙空間を漂う生命体の一つの進化形態ね。そのやり方なら、原住の生命体が存在している星ならどこにたどり着いても上手にやっていけるわ」

 ケイが平然と言った。とてもじゃないが平然としていられる神経が信じられない。そんなご都合主義の化け物がこの地球にはびこってしまったらいったいどうなるというのか。

「いまじゃ『ジョニー』の他に、研究所には何匹もああいうのがいるんだね?」

「研究員全員です。見たかぎり全員フェイズ4――もはや生ける屍――ゾンビです」

「その解釈はどうかなぁ。『ゾンビ』の定義は色々あるんだけど、そもそもね――」

 ヨシがしたり顔で口を挟もうとしたが、アタル君の耳にはまるで届いていなかった。というのも、アタル君は急にうつむいて、嗚咽しはじめたのだ。

「母さんも――それに、あんなに優しかった義兄さんも、いまはもうゾンビに――」

 アタル君は絞り出すように言った。ヨシは勝ち誇ったような薄ら笑いを浮かべた。

「だからさ、君はあんまりよくは知らないんだろうけどさ、ゾンビというのはそもそもブードゥー教でいうところの――げふっ」

 ザ・フラッシュもびっくりの早技でヨシに肘を繰り出してきたのは――エリだった。そのエリはまたもびっくりの早技で、アタル君の前で膝をついて小さな体を抱きしめていた。

「お母さんとお義兄さんのことが大好きだったのね、アタル君」

 アタル君は泣きじゃくりながら、エリの胸の中でうなずいた。

 エリだってあれほど大好きだったおじさんを亡くしたばかりで失意のさなかにあるはずなのに、彼女はアタル君を慰めながらその目に熱い決意の炎を宿していった。

 怪物どもは次々と誰かの大切な人を餌食にして回っている。みなしばらく何も言葉を交わすことはなかったが、どうにかしてこのか弱き少年の仇を討ってやろうと、僕らは互いに目と目を交わして無言の誓いを――いや、ナツキはさっと目をそらしたし、ミカはオシャレサンダルの泥を拭ってばかりだし、ヨシは脇腹をさすって半べそをかいてるし、ケイなんて「実に興味深い」とかブツブツつぶやいてピクピク小鼻を膨らませて考え事に没頭してる真っ最中だ。少なくとも僕だけは、エリの潤んだ熱い目を見つめ返し、エリも僕の瞳の奥に熱い決意がみなぎっていることをたしかめると、重々しくうなずいた。

 そのとき、いきなり後ろの茂みが音を立てた。僕らはぎょっとして振り返った。

「あら、なあんだ!」

 エリがすっとんきょうな声を上げて笑い出した。黒々とした目をきょとんとさせているその生き物は、とてつもなく愛らしい親子二匹のアライグマだった。ミカが悪態をついた。

「おどかしやがって、タヌキかよ――って、思ったほどタ**ンでかくねえのな」

「ミカさん、あのコはタンタンタヌキの――タヌキじゃないわ。ほら、何年か前にブームになったじゃない、夕日ヶ丘動物園のプー太郎くんって、ねえ?」

「エリ、プー太郎くんはレッサーパンダだよ。それにその動物はアライグマだし、見たところオスではないから、その――コウガンなるものはそもそも――」

「おおかた、研究所の実験動物が脱走したってところね。そうやって人為的に侵入した外来種が繁殖して、もともとあった生態系を崩壊させるのよ」

 ケイが吐き捨てるように言ったが、カワイイものには目がないエリには聞こえていない。

 人慣れしているのか、母アライグマの方がちょっと近寄ってきて後ろ足で立ち上がり、前足を振り動かして「ちょうだい、ちょうだい」とやってくる。

「きゃーッやっぱりプー太郎くんだァ!」

「ナツキ、あんたの煎餅よこしな――いいからさっさとよこせって!」

 ミカのような女にも動物好きの一面があるということか。でもまあ、こんな状況下だからこそ、みんなの目尻が下がるような出来事があるというのは実に喜ばしいこと――と、次の瞬間、ヒュッと空気を切り裂く音を立てながら、何かが僕らの脇をかすめていった。

 ナイフだ――それは一直線に母アライグマの胸にどすりと突き刺さった。

 投げたのはアタル君だ――ついさっきまでエリの胸で泣きじゃくっていたというのに。

 彼は逃げたアライグマの子どもを見送ると、まだ痙攣している親アライグマの胸からナイフを引き抜き、けろりとした顔で言った。

「いやいや、こいつはしばらくぶりのごちそうですねェ」


 アタル君と僕とケイは、罠の点検を一通り終えて戻ってきた。

 残ったエリたちはというと、ついさっきの惨劇のショックもどこへやら、いそいそと遅い昼食(丸ごとアライグマの香草焼き・山菜のおひたし添え)の支度にいそしんでいた。

 アタル君は香ばしい煙が立ちのぼっていくのを満足そうに見届けると、話を続けた。

「先ほどの話に戻りますが、『ジョニー』のようなフェイズ4ともなると、物理的攻撃に対して非常に耐性の高い生命体となるようです。殴る蹴るはもちろん刃物で切ることも、粘性を自在に操れるフェイズ4個体に対しては致命傷にはなりません――ですが実のところ、限定的ではありますが有効でもあるんです」

「殺せないけど、ダメージは通るってことかい?」

 僕が訊くと、アタル君はうなずいた。

「あの粘性体全体が光・神経ネットワークだということがカギです――といっても、全身に神経を張り巡らせている我々人間と同じですね。つまり、どこでも何か強い刺激や衝撃をくわえれば、その動きを統御する伝達ネットワークを麻痺させ、寸断させ、混乱させ、ひるませることができるということです」

 と、アタル君はいきなりケタケタと笑い出した。

「一度、『ジョニー』をバットで思いっきりぶん殴ってやったら、あいつキャインってほんとの犬みたく鳴いてのたうち回ってやがったんですよ。キャイン、キャインって!」

 アタル君は何度もバットを振り回す仕草をしながらひどく嬉しそうに話した。児童心理学も履修しているエリが心配そうにしているのは言うまでもない。

「効果があるといっても一時的なものか――骨は無いから折れないし、切ってもすぐに元通り。それじゃあ決定打に欠けるなぁ」

「それが弱点だというなら、その中枢である脳を直接破壊してしまうというのはどう?」

 ケイが訊ねると、エリは嫌な顔をした。だが、アタル君は気にも留めずに答えた。

「通常時は粘体で覆われているのですが、捕食行動のときは脳髄をさらけ出す瞬間があります。そのときならばどんな攻撃でもたやすく脳に到達させることは可能です――ですが、『ジョニー』には試さない方がいいでしょう」

「どうして? 粘体の全身を統御するのが宿主由来の脳であるならば、それが破壊されることによって全身の統御を完全にノックダウンさせることができるはずでしょう?」

「お忘れかもしれませんが、『ジョニー』はチワワです――あいつの脳みそは、とんでもなくちっちゃいんですよ。たとえ体つきは怪獣みたいになっても、脳だけはそのままです」

 僕が喰われそうになったとき、あのクラゲの傘みたいな膜の真ん中に、小さな何かがあったのはたしかだ。大きさはといえばほとんどクルミくらいだったろうか。だが、あの直径一メートルはあろうかという傘の中に自分から飛び込んでいって、傘の中心にあるちっぽけなクルミをどうにかするなんてあまり考えたくないことだ。

「たとえ破壊できたとしても、それでYBXの本体である粘体が死ぬわけじゃありません。YBXは元宿主の神経系を捨てて、無数に分裂し、ちりぢりになって逃げ出します。それこそがフェイズ4の本来の役割なんです。それゆえ、無闇に脳を破壊するのは良い戦法とはいえません。YBXをやたらと撒き散らすだけですから」

 ケイは指先で眉間をとんとんと叩きながらじっと考え込みはじめた。一人芝居「探偵」で探偵役のときに頻繁にやっていたポーズだ。

「経験から言うと、もっとも安全で有効といえる攻撃は、みなさんもご承知のとおり、すみやかに焼き尽くすことです。さすがのYBXといえどもしょせんはタンパク質、フライパンの上の卵と同じです。さきほど、罠をごらんになったでしょう?」

 アタルの仕掛けた罠というのは地形を利用した落とし穴だった。一メートルほどの深さの自然のくぼみをさらに掘り下げて、直径三~四メートル、深さ二メートルほどになった大きな穴の底にびっしりと竹槍を突き立て、さらに穴の入り口にツタで編んだ網をかぶせて落ち葉や草をまいてカムフラージュする。穴のふちや周りの樹上にはいくつもの鍋が並べてあり、それぞれ網とひもでつながっている。鍋の中には燃料がなみなみと入っていて、獲物が地面と気付かずに網に乗ってしまうと、燃料入りの鍋ともども穴に落ちこむ。穴の底の竹槍に串刺しにされてひるんでいるうちに、すかさず着火した発煙筒を投下すれば、哀れ怪物はなすすべなく業火に焼かれるという寸法である。

「あの仕掛けでこの一ヶ月戦ってきましたから」

 僕は合点がいった。アライグマを仕留めたときの投げナイフの腕前は目を瞠るものがあった。この一ヶ月間の戦いで培ってきたものなのだろう。実に頼りになる。

「でも『ジョニー』のヤツにだけは手を焼いていて――この一週間ずっとかかりきりです」

「その戦いに、終わりはあるのかな――」

 アライグマの丸焼きをひっくり返しながら、エリが悲痛な面持ちで言った。

「アタル君、もうやめましょ? 君がそこまで大変な思いをすることないわ。そういうのは誰か他の大人にまかせればいいのよ」

「僕がやらなきゃいけないんです。どうしても僕がやらなきゃ――」

 その理由にはエリもすぐに思い当たったようだ。それでもエリは引き下がらなかった。

「だったらなおさらよ! 大好きなお母さんやお義兄さんを、どうしてあなたが――」

 すると、ナツキがエリを止めた。

「家族だからこそじゃね? 男ってさ、家族の幸せとエロスにこそ生きる価値を見いだす生き物なんだよ。わかってやんなよ、エリちゃん」

 言ってることの半分はよくわからないが、なんかイイところをもってかれた気がする。

「母にとっては、この旅行は人生で初めての新婚旅行だったんです。シングルマザーだった母は、今度こそ幸せになろうとして――」

 エリはつと立ち上がってアタル君をぎゅっと胸に抱きしめた――中学生男子をそんなにも甘やかすことはないだろうに。アタルのヤツはエリの胸に顔を埋めて(幸い、そこにはうらやましがるほどの膨らみは皆無なのだが)声を上げて泣き出した。

「それに義兄さんは、そもそもここにくることを望んではいなかったんです――でもお父さんに認めてもらえなくて――義兄さんは、本当はお笑い芸人を続けたかったんだ!」

 僕にだって大人としての分別はある。泣いて我を通すことが子どもの特技とはいえ、そんな醜態をさらしてまで心情を吐露する姿を見せつけられては事を重く受け止めないわけにはいかない――たとえ、目の前にエサをぶらさげられてもだ。

 ただ、分別のかけらもないオトナは人口のある割合でたしかに存在する――ここにもだ。

「お前のアニキって芸人なの! ピン? コンビ? マジかよォ!」

 イジれるものが目の前にあるとイジらずにはいられないナツキが、さっきのよさげなセリフで稼いだポイントをさっそくきれいに帳消しにしてまでエサに食いついた。

 ナツキだけではない、いまこの場所にはその類いの人種の人口密度が高めのようである。

「どーせたいしたことねーよ。やめちまうってことは売れないヤツに決まってんじゃんか」

 モラルの崩壊は波打ち際の砂城のごとし――そもそも城というにはおこがましいほど、この二人の砂細工は脆すぎる。

「でもよ、オレ、お笑い詳しいからさ、芸名聞けばゼッテー知ってるって!」

「いつのまにか消えてく芸人がどんだけいるかわかってんのかよ。どうせそのクチだろ」

「んなことねえよ! マジスゲー! サインもらえねえかなァ」

「もう化けモンに食われちまったっつってんだろ。それにどーせゼッテーつまんねえヤツに決まってるよ。あたし、誰もアタルのアニキのこと『知らない』に千円賭けるね」

「乗った! オレ、マジ詳しいからよ。ゼッテー勝つぜ!」

「二人ともやめてよ! なんてひどい人たちなの!」

 エリがわめいた。アタル君は――エリの胸のところから、ものスゴい目でナツキとミカをにらんでいた。この二人、のちのち少年霊の怨念に呪い殺されるにちがいない。

 その目が僕にも向けられないように、僕は用心して口を開いた。

「アタル君、君のお母さんやお義兄さんが残念なことになったのは気の毒だと思う。だけど、YBXが君の言うとおりの生物であるならば、あの生き物は絶対にこの島から出してはいけないと思うんだ――それがたとえ、君のお母さんやお義兄さんの姿をしていても」

 少年霊――いや、アタル君はうなずいた。

「YBXは必ずここで食い止めます。まずは『ジョニー』。『ジョニー』が済んだら研究所――母も義兄も含め、すべてのYBXを根絶やしにしなくては――僕たちの手で」

 アタル君がそう言いきると、途端に僕らの間の空気が変わった。

「はぁ? 『僕たち』の『たち』って誰のことですかァ。まさかもちろんあたしは含まれてるわけありませんわよねェ?」

 空惚けた言い草もミカがやれば間接的な恫喝だ。でも、アタル君も負けていない。

「そんなビビってらっしゃるとは、先が思いやられますね――あ、でも、そんなに先はないか、あなたはとくに」

「なんだとてめえ!」

 ミカはアタル君に飛びかかった。だが、すんでのところで彼はエリの背後に隠れた。

「どうせエサになるなら、せいぜい囮にでもなって人類の未来に貢献したらどうだって言ってんですよ!」

「あたしが雑魚キャラだってのか? 言っとくけど、あたしはちがうからね!」

「あなたが何の役に立つっていうんですか。あなたが一番、何の役にも立ってないんですよ! さっきから文句垂れてばかりで、化粧がケバくて香水がぷんぷんクサくて足は遅いし。あなたの使い道なんてエサの他にないじゃないですか! あなたはあっちのデブの次ですからね!」

「俺が一番?!」

 そうこうしているうちに、ミカはちょこまかと逃げ回るアタル君の首根っこを捕まえた。

「ズボン脱がせろ! タ**ン潰して、***剥いてタコウインナーにしてやる!」

「やめて! お願い! 誰か止めて!」

 エリが悲鳴をあげた。僕はとっさにミカとアタル君の間に割って入った。

「どっちも落ち着いて! 仲間割れはよくない。みんなで力を合わせてがんばれば――」

「あなたたちが何の役に立つっていうんです? 誰ひとりいませんよ! 僕がいなきゃ今頃みんな『ジョニー』のゴハンになってるんだ! 僕がいなきゃあなたたち誰ひとり生きてはいませんからね! みんなひとり残らず僕に感謝してもらいたいくらいですよ!」

「これだから童貞チ**は。皮かぶり*ン*だけじゃなく、ケツの穴も**ポとおんなじでちっちぇんだろうよ」

 内容はともかく、ミカは大人の余裕を見せてクールに言った。

「童貞童貞って、中学生なんだから当たり前でしょうが。それより、あなたなんてヤリ**クソビッチ感がハンパないんですけど!」

「あたしの***は中一んときにはとっくに開通してんだよ!」

「そのことを言ってるんですよ! ドスグロ***のクソビッチ!」

「アタル君、なんてことを言うの!」

 聞くにたえない言い争いを鎮めようとエリ先生が躍起になる中、僕はどういうわけか、この先、結局はみんなで研究所に行くことになるんだろうという予感がしてならなかった。

「ケンカは後にしてさ、タヌキがこんがりキツネ色に焼けたぜ。さ、ゴハンにしようぜ」

 ナツキが上機嫌でみんなに声をかけたそのとき、真っ先に元気に「お返事」をしたのは僕らの誰でもない――他ならぬチワワの『ジョニー』だった。


「ジョニー!」

 アタル君はアライグマの丸焼きをひっつかみ、小脇に抱えて走り出した。

 すでによだれをダラダラ垂らしていた『ジョニー』は、首から下をドーベルマンの筋肉ムキムキの体に変形させると、軽々と僕らの頭上を飛び越えて飼い主を追いかけていった。

「あれじゃ追いつかれちゃう!」

 エリが「なんとかして」と目を向けたときには、僕はもう駆けだしていた――こういうことの積み重ねが、信頼を取り戻すのには大切なことなのだ。

 罠のある場所までそう距離はないが、それでもみるみるうちにアタル君と『ジョニー』の距離が詰まっていく。僕は走りながら、拳大の石を拾った。アタル君が危なくなったらこの石で援護するつもりだ。実はこう見えて僕は高校生の頃、甲子園出場校野球部で控えではあるけれど三年間ピッチャーをしていたのである! これは唐突でも何でもない!

 首から上はずぶ濡れのチワワ、首から下はずぶ濡れのドーベルマンといった出で立ちの『ジョニー』は、今度はその首から上をずぶ濡れのマスチフかずぶ濡れの土佐犬かというだぶだぶでいかつい姿に変形させた。刹那、発したひと唸りは、いままさに飛びかかろうとする寸前のものにちがいなかった――そして『ジョニー』が宙を飛んだ。

 だが、アタル君は『ジョニー』より先に飛んでいた。

 二人とも放物線の軌跡を一つに重ね、足下に広がる落とし穴をカモフラージュするネットの中心へ落ちていった――そのとき、アタル君は頭上からぶら下がるロープをがっしりとつかんで腕と足を絡ませた。その瞬間から二人の軌跡は空中で離れていくかに見えた――アタル君はブランコのように空へと舞い上がる軌道へ、そして『ジョニー』はそのまま、剥き出しの牙も空を切って落とし穴へ――。

「あっズルい!」

 僕は思わず声を上げた――『ジョニー』のヤツは瞬時にすらりと首の長いボルゾイの頭に変身し、そのリーチを存分に活かしてアタル君の尻に噛みついたのだ。

 アタル君はぎゃっと悲鳴を上げた――が、そのあとは思いのほか静かなもので、小さな少年は奇っ怪な怪物をぶら下げたまま振り子のようにぶらんぶらんとしていた。

「アタル君――大丈夫かい?」

 僕は声をかけたが、アタル君はロープにしがみつくのに必死だった。と、『ジョニー』の頭がゆっくりと、ぐにゃりととろけはじめた。それにつれて、見る間にアタル君のジーンズは溶けだし、赤くただれた尻が丸出しになっていった。

 アタル君は僕に目を留めると、ほろほろと泣き出した。

 僕はひとつうなずくと、ひとつ深呼吸し、石を手に大きく振りかぶった――いつものようにキャッチャーのサインには首を振らない。いつものようにど真ん中、直球勝負だ。

 僕の投球フォームはチームメイトの誰よりも美しいといわれたものだった。フラミンゴのようにすらりと真っ直ぐ地に立ち、それでいて揺るぎない軸足。直後、バレリーナのように踏み出す前足、よどみないムチのように肘が宙を舞い、大上段から振り下ろされる抜き身の刀のような鋭い腕の振り、蹴り足の力強さは百戦錬磨の闘鶏のごとし、うなりを上げて指先から離れるボール(石)、そして残心――ただ、僕が高校野球部における投手として、三年間を通じて甲子園のベンチではなく応援スタンドにしか席がなかった理由は、唯一にして壊滅的に致命的な欠点、すなわち、まったくのノーコンだったためである。

 キャッチャーのサインに首を振らないのではない。そもそも僕の場合、サインが意味を成さないからサインを出してくれないのだ。

 僕だってはなからこうなる予感はしていたんだ――僕が投げた拳大の石はものの見事に『ジョニー』を外れ、ロープにしがみつくアタル君の頭にアタって鈍い音を立てた――ある意味ではど真ん中ストライクだったわけだ。

 そして、やはりというか、どうしたってこの結果は避けられない――アタル君は『ジョニー』もろとも、燃料満タンの鍋を引きずり込みながら落とし穴に落ちていった。

 もちろん、落とし穴の底にびっしり竹槍が仕込んであったことを僕は忘れてはいない。だから僕はすぐに穴をのぞき込むなどという勇気を持てなかった。ましてや一刻も早くアタル君を助けようなどとはちらりとも思いつくことができなかった。僕がようやく自分の責任の重大さに気付いたのは、誰かが駆けてくる足音が聞こえてきてからだった。

 やっとおそるおそる、ガソリン臭が立ちのぼる穴をのぞき込むと、油をひっかぶったアタル君と『ジョニー』が穴の底でうごめいていた。

 『ジョニー』は四本くらいの竹槍に貫かれて動けずにいたが、ゆっくりとアライグマの丸焼きとアタル君を飲み込みながら全身を粘体化していった。

 アタル君にはまだ息があった――丸出しの赤剥けた尻を粘液に包みこまれながら、脇腹と太ももは槍に貫かれ、僕を見上げて恨めしげにうめき声を上げていた。

「ごめん――ほんとうに申し訳ないと思ってるよ」

 アタル君はモノスゴい形相で僕をにらみながら、赤茶けた粘液に飲み込まれていった。

 彼が怪物になったらきっと僕に恨みを晴らそうとするにちがいない。いや怪物ならまだしも、真っ白けの少年霊となったら――実を言うと、僕はあの手のホラーが苦手なのだ。

それはともかく、とてもじゃないがエリにこの光景は見せられない――そう考えていた矢先、まさにそのエリが誰より早く穴のふちにやってきてしまった。

 エリは落とし穴をのぞき込むと――幸いなことに、一瞬のうちに卒倒してくれた。

 さて、どうするかと思案しかけたところで、エリの後から来たケイが素早く発煙筒に着火して穴に投げこんだ。『ジョニー』の(あるいはアタル君の)断末魔の叫びがジャングルじゅうに轟き、鳥たちが一斉に飛び立って茜色の空をまだらに汚した。

「どうせあの子、助からないもの」

 鳥の羽音がやむと、ケイは穴の底から吹き上げる火柱を見つめながら静かに言った。

 と、いきなり炎の中から人の首ほどもある火の玉がぱちぱちと火の粉を振りまきながら飛び出してきた。どすんと落ちた火の玉はごろごろと転がって僕らの足下でぴたりと止まると、火が消える直前、一度ジュッと音を立てて白い小さなキノコ雲を立ちのぼらせた。やがてその黒焦げの表面が割れ、中から粘液がどろりとあふれてきた。

 それはただの粘液ではなかった。粘液に包まれた脳と脊髄と無数の末梢神経の束だった。

 チワワの脳みそというには大きすぎる――つまりは、アタル君のにちがいない。

 僕は早く叩きつぶさなくてはと(もちろん先の少年霊うんぬんの理由で)手近な石を拾って脳髄に向かって振り上げた。だが、すんでのところでケイに止められた。

「実に興味深いわ」

 ケイは小鼻をピクつかせ、粘液が何かの形になっていくさまをじっと見守りはじめた。

 

 大好きなおじさんに続いて甥っ子とでも思っていたにちがいないアタル君を失い、エリは穴のふちに突っ伏して泣きじゃくっていた。僕とケイをのぞくみんなは、いまでも彼がガソリンの業火に焼かれていると思い込んでいる。

「何やってんだ、あのガキはよォ――結局死ぬまで童貞チ**だったじゃんかよォ」

 ついさっきまでのつかみ合いのケンカもどこへやら、ミカの悪態もどこか空虚だ。

 ところで当のアタル君はというと、いま僕の背後で、みずみずしいゼリーに包まれた人の形にすくすく成長しようとしている。

 透き通ったゼリーの中では、無数のキラキラとした繊維状のものが現れるとアタル君の脳や脊髄、神経繊維へと伸びてあらゆるところでつながってチカチカと発光しはじめた。

 やがて人の形をしたゼリーの表面が白く濁りだすと、そこにタンクトップ――というか昔懐かしのランニングシャツに半ズボン姿の少年の姿が映し出された。

「実に興味深いわ」

 ケイが後ずさってつぶやいた。

「おい――そいつはいったいなんなんだよ! お前、何を隠してんだよ!」

 ナツキが僕を――僕の背後にいるモノを指さしていきなり叫んだ。

「あの怪物じゃねえか! あのクソガキ、仕留め損なったのかよ!」

「んだよ、これだから童貞***は! 肝心なところで萎えちまうんだよな!」

「おいお前、まさかそいつをかばってアタルを殺したのか? まさかお前、その怪物を連れ帰って金儲けしようっていうのか!」

 ヨシが何かの映画にかぶれた、とんでもない論理を展開させるのにはほとほとまいる。

「何言ってるんだよ。こいつは『ジョニー』じゃなくて、実は――」

 そう言っている間にも、粘体はずぶ濡れの男の子の姿に――もはや本当の生身の人間としか言いようのない姿になりつつあった。

「実は、この子、アタル君らしいんだ」

 ただ、これは僕らの知っているアタル君ではなかった。だが、細い目をした貧弱な体つきはたしかにアタル君の面影がある――おそらくはアタル君の幼少期の姿なのだろう。

「殺せ! アタルだろうがなんだろうが、殺しちまえ!」

「早く殺れ! お前が裏切り者じゃないってことを証明しろ!」

 ミカが叫ぶと、ナツキもヨシもすぐに同調した。

 やれやれ、それがついいままでアタル君の死を嘆いていた連中の言葉か。

 渋々ながら僕は近くに転がっている一番大きな石を抱え上げた。十キロはありそうだ。それにしても、一分前の、まだ水まんじゅうのような状態だったらまだやりやすかっただろうに。それがいまや、もう完全にプールから上がった五歳児の姿だ。

 僕はケイをにらみつけたが、彼女は知らんぷりだ。しかたなく、僕は「よいしょ」と気合いを入れて石を頭の上に持ち上げた。せめて一撃で、一瞬で――。

「ダメ! やめて!」

 エリはいきなり僕を思い切り突き飛ばした。頭の上まで振り上げた重さ十キロ超の石は、タックルされて転んだ僕の頭のすぐ横でどすりと地面にめり込んだ。

「よってたかってなんてことするのよ! まだこんな小さな子どもじゃない!」

 僕は何も言い返せなかった――あまりの恐怖に言葉が出なかったのだ。石が僕の頭をぺちゃんこにしていたかもしれない恐怖ではない。それとは別のだ。それは、僕自身の内奥に芽生えた、僕の意識や理性を超越した激しい思いだ――それは僕のではない、僕の中に棲む何者かの意思、あるいは強い意志だ。ひとたびその意志に囚われれば、決して後戻りすることのできない異次元へと連れ去られてしまう――僕ははっと我に返った。

「ひどいわ! みんなもよ! この子はアタル君なのよ。さっきまで一緒に過ごしたアタル君を、いきなり殺すなんてどうしてできるの?」

 エリの蔑む眼差しが僕には辛かった。僕はいつでもどんなときでも君のことを思っているのに――でも、それなのに、なぜ僕はさっき、はっきりと君に殺意を抱いたのだろう?

 僕はどうにか気持ちを落ち着かせた。大したことではない。「コロすぞ!」――誰だって無茶をするボケ役に最上級のハゲしいツッコミを入れたくなるものだ。殺意といってもその程度、その類いのものにちがいない――そのはずだ。

「とりあえず、害はなさそうね」

 のんきにも、ケイが言った。

 ずぶ濡れであること以外、もはや幼少期のアタル君としかいいようのない『それ』は、いつのまにかエリの腰にしがみついている。

「これも、あの子の願望なのね」

 ケイが珍しく興奮気味に、早口で語りだした。小鼻はピクピク、もう痙攣状態だ。

「YBXという生命体の生き残り戦略は、すでに十分に環境に適応している宿主がその胸に抱くさらなる高みや理想すなわち『願望』を存分に具現化することこそが現状以上に適応的であると定義づけている――そう考えられるわ。もっと速く走れれば、もっと遠くへ飛べたら、もっと力強ければ――チワワのジョニーちゃんは常日頃そんな『願望』を抱いていたにちがいないわ。そしてYBXに囚われたとき、彼はその『願望』を具現化した。『ジョニー』ちゃんは、あこがれだったドーベルマンやマスチフになることこそ、より高次の適応形態だと――いえ、彼にとっての幸福だったのかもしれないわね。そして『アタル君』にとっての幸福は――」

 チワワの願望とちがって、人間の願望は決して適応的、進化的高みへ向かうものだけではない。僕らはアタル君という少年と出会ってからお互いを知るまでに十分な時間があったわけではないが、誰もがみんな、彼が五歳児の頃が生涯でもっとも幸福だったのだろうと想像することができたし、意識的なのかそれとも潜在意識なのかはともかく、彼はその頃に戻りたかったのだということになんとなく腑に落ちてもいた。誰だっていま現在の自分自身に満足などしていないのだから。

 誰もが常に何かを求め続けている。何か別の存在になりたがっている。『アタル君』の「願望」は五歳児に戻ることだった。もしも僕らのうちの誰かが『ジョニー』や『アタル君』と同じ道をたどることになってしまったとしたら、はたして僕らが叶える「願望」とはいったいどのようなものなのだろうか――この黄昏どき、最後の残光の数瞬の間に互いに視線を交わし、そしてすぐに互いから視線をそらした僕らは、たしかに相手の目に宿る「願望」の片鱗を見いだそうと目をこらし、自分自身の胸の内に棲まわせている得体の知れぬ「願望」の正体を見抜こうとしていた。


 チャプター3 ウエルカム・トゥ・絶叫屋敷!


 見上げるほど大きく重厚な扉の真ん中の、ちっぽけなのぞき窓が開いた――と思いきやぴしゃりと大きな音を立てて閉まった。

 それもそのはずだ。誰だって目の血走った般若を家に招き入れる気にはならない。

 般若――もとい、怪物と化した『アタル君』に三時間も月明かりの道なき道を引きずり回されたせいでいいかげん脳天が沸騰しかけて誰も手がつけられないほどに大荒れに荒れているミカ御大は、こちら側にいる僕らでさえいたたまれなくなるような悪態と呪いの言葉を矢継ぎ早に繰り出した。扉をこじ開けようとしたり、体当たりしたりしないのはミカがたんに疲れ果てているだけだろう。彼女は最後になってようやく礼儀正しく付け加えた。

「遠路はるばるお越しくださったこのあたしたちを、A.S.A.Pさっさと丁重にお出迎えしやがって最高級のおもてなしをしやがれ、このフ**キン、サノバビッチが!」

 僕はもう一度ドアノッカーを打ち鳴らした。

「僕らはみんなアタル君に連れてこられたんです。アタル君をご存じでしょう?」

 僕には確信があった。『アタル君』がエリの手を引き引き、脇目もふらず真っ直ぐに亜熱帯の原生林とゴツゴツして危険きわまりない岩だらけの荒野を突っ切って最短距離でここへ向かったのには必ず意味があるはずなのだ。現に『アタル君』は、隣に建つ普通のコンクリートマンション風の建物にはまるで見向きもせず、この荘厳な洋館の玄関の前でようやくピタリと足を止めたのだから。

 僕がこの道中ずっと気が気でなかったのは、終始『アタル君』に手を握られっぱなしだったエリがこのガリガリで色白の少年モンスターの栄養分にされまいかということだった。エリの手に関しては杞憂だったが、ただおそろしいことに、『アタル君』は歩いている間じゅうずっと絶えず捕食をしていたことはたしかなのである。

 『アタル君』は僕らの先頭に立ち、導くようにして道なき道を突き進んでいった――のだが、枝や草や濡れた落ち葉やバカでかい蜘蛛の巣やなにやら、彼に触れたり踏んだりするすべての障害物を片っ端から消化していたようなのである。とはいえ、そのおかげで彼の歩いた後には細い道ができあがり、少なくとも僕らは大助かりだったのだ。

「そんなんじゃダメだったら。ここはあたしにまかせて――」

「このガキはよ、あんたのおっぱいにむしゃぶりつきてぇんだってよ!」

 エリはここでもアタル君に対して見せたような社交性を発揮しようとするが、そんなエリを押しのけ、ミカはノッカーを激しく打ち鳴らした。すると、ようやく扉の向こうでかんぬきが外される音がし、ひどく軋みながら扉が開いた。

 当てずっぽうながら、ミカの卑猥な言葉はものの見事に的確だったことがわかる。

 むしゃぶりつきたくなるような――いや、不道徳なほどに豊満すぎてはちきれそうなタンクトップからすらりと伸びた細い両腕でしがみつくように重い扉を支え、僕らより少し年上らしいその女性は小麦色の顔で僕を不安そうに見上げた。

「アタル君は――どこに?」

 僕はちょっと脇にどいた。ずぶ濡れの『アタル君』を目の当たりにした女性は絶句した。

「ああ、なんてこと――どうして――いったい何が?」

 彼女は答えを聞くまでもなかった。彼女は自ずと答えを知り、そしてその場にくずおれてしまった――はて、どうしたものか。

「なにモタモタしてるのよ!」

 エリが目をむいて僕を押しのけ、すぐさま女性を助け起こした。

「愚鈍ね」

 僕の横を通り過ぎざまにケイが素っ気なく言った。いや、僕だってエリのやるようにした方がいいことはわかっている。だけど卒倒したこの女性を抱き起こすには、なにぶん彼女の胸は実にむしゃぶりつきたくなる――いや、実に豊満すぎるのである。抱き起こしでもしたら、隠しきれない下心――いや、ありもしない下心をエリに疑われかねない。僕はこれ以上、あのエロDVDの一件で負った傷を広げたくなかったのだ。

「ホント、グドンね」

 ナツキがケイの口まねをして――一方で、その手はあのふくよかな部分をもみしだくようないやらしい動きをしながら僕をからかうと、ヨシはヨシでにやにやしながらすでにご自慢の4K動画も撮れるという一眼レフカメラを回している。

 まったく!

 女性を単純に性の対象としか考えない男どもには僕はいつもムカムカしている。犬や猿やゴキブリのような下等な精神構造しかもたない生物ならばそれも致し方あるまいと思うが、我々人類、ホモ・サピエンスはそんな下等生物をはるかに超越した存在であらねばならないのだ。それなのに男どもはそろいもそろって女性の顔や胸や尻の善し悪しで女性を選別しようとする! 男連中が集まれば、弾む話題は女性蔑視も極まれり、決まって下半身に絡んだ猥談ばかりと相場は決まっている。いつもいつもはなはだ不愉快なのだ!

 いや、女も女だ。女という生き物は、男という生き物の脳みその大半が下半身の分身に詰まっているという真実を知ろうともせず、ハエ取り紙、ねずみ取り、ゴキブリ駆除マットの誘引物質に引き寄せられる蠅やネズミやゴキブリのごとく、陳腐な甘言と見上げる背丈と、十年も保たない甘ったるい安っぽい顔立ちなどに簡単に虜にされてしまうのだ。

 昨秋の学園祭のミスキャンパスの女は、すでに学内きってのプレイボーイの汚らわしいツバがついているという噂だし、エリをのぞいて、他の候補者もツバまみれだ。いや、もはやその身にまみれてるのはツバどころの話ではないだろう!

 それとも、こんな異常な状況下でも活性化をみせるナツキらのその条件反射的な下等な精神構造は、近頃の大学生男子としてはむしろ正常で、僕の方こそ異常なのかもしれない。しかしたとえそうであっても、僕はそんな「男ども」に与する気はさらさらないのである!

 いずれにせよ、僕は女性に対して胸の大きさのみを性的選別の判断材料にする気は毛頭ない上、愛する人以外の女性に下心を抱く男の気持ちなどまったく理解できないし、したくもない。だから、目の前でいきなり卒倒したその女性に対しても、彼女の人格とそのむしゃぶりつきたくなる――もとい「豊満な胸」のどちらも、少しでも辱めるような行為にはどうしても及ぶことができなかったのである!

 下劣なヤツらめ、といつもながらの腹立ちをこの二人の「男ども」に覚えながらも、もう小一時間も前から遠く彼方から聞こえてくる――しかし確実に近づいてくる獣のうなり声のような断続的な轟きに身がすくみ、僕は急き立てられるように屋敷に駆け込んだ。


 この館の女主人のそばに「男ども」を置いておきたくないという僕の意を汲んでくれたケイが、ナツキとヨシにそこらじゅうに灯されている太いろうそくの一本を持たせて戸締まりのチェックに向かわせた。僕とケイも、女主人を介抱するエリと、なぜかエリではなく今度は女主人から片時も離れようとしない『アタル君』を残し、連れだって館の見回りに向かった。「勝手にさせてもらう」と早々に宣言したミカはどこかから見つけてきたタオルで体じゅうの泥や草の汁を落とし、身ぎれいにすることに余念がない。

 ゲストハウスというよりやはり館と呼んだ方がふさわしかろうこの荘厳な意匠を凝らした造りの堅牢で重厚な建物は、昭和初期に建築された洋館の趣があるように思えた。実際その通りらしく、かつてはこの尻島の主が棲む屋敷だったことはたしかなようで、大広間の壁に飾られた、ろうそくの明かりに浮かび上がる五代ぶんの主人の肖像画は、島尻一族がこの島で永く栄華を誇ってきた証なのだといえよう。そのせいか――あるいはマッドサイエンティスト一族がこの島を支配してきたという話を聞いたせいか、この洋館にはなにか島尻家の怨念のようなものが籠もっているような気がしてならず、ここで何かが起きるという嫌な予感はどうしても拭い去れなかった。警察の力の及ばない絶海孤島の妖しげな洋館で起こることといえば、ただ一つだ。

「この館で、今までに殺人事件の一つや二つはあったかもしれないね。ひょっとして、ひょっとしたら、今夜にも――」

 僕はケイにそう言ってみた。自作の一人芝居「探偵」を演じたケイはまちがいなくミステリ好きと踏んでいたからだ。しかし彼女は乗ってこなかった。

 それにしても、この合宿にケイのような孤高の人が参加したことが僕にとってはまず驚きだった。その理由はおろか、ケイという人そのものを僕らは誰もよくは知らない。ともあれ僕は、この合宿中に彼女のことをいくらかでも知ることができればと考えていた。

 なんにしてもこの特殊な状況では、いくらケイだろうといつか必ず本性を現さずにはいられなくなるだろう。

 僕は広間の壁にあるスイッチを指で弾いてみた。電気が通っているようだが、どうやら点灯するのは天上に目立たなく埋め込まれた小さなLED灯だけらしく、広間ごとにあるシャンデリアや廊下のしゃれた電灯はうんともすんともいわなかった。

「主電力がダウンしてるのよ。この館は予備電源に蓄電池を使っているようね。ただ、主電力の代用になるほど太陽光発電システムの蓄電池容量は多くはないということね」

「お得意の推理かい? 推理にしても、ずいぶん具体的だね。太陽光とか蓄電池とか」

「観察に基づく事実に導かれた結論よ。隣の建物の屋上に太陽光発電パネルが見えたの。そこからケーブルがこの館に引き込まれてた。つまり隣の築数年てところの建物ができたしばらくあとになって、後付けでこの館に補助的な電気を引いてきたってこと」

「へえ――じゃ、主電力がダウンとか、蓄電池の容量とかいうのはどういう理由?」

「このあたりはスコールが降るごく限られた時間をのぞいて、この何日かずっと晴天続きだったわ。それなのに、この館ではだいぶ長い間、いたるところでろうそくが使われてきた。節電の必要があるってことよ。蓄電池だけじゃ厨房の冷蔵庫を運転させるので精いっぱいなんでしょうね」

「どうして晴天続きだなんてわかるの? 僕らは今日初めてここに来たっていうのに」

 僕がなおも訊くと、ケイはついにめんどくさそうにため息をついた。

「あなたは天気予報ってものを知らないの?」

「ああ、なるほど――いや、ほら、こういうことは一応はっきりさせとくものだからね」

「なんのために?」

「なんのためって――まだ僕らにはわからなくていいことさ」

 僕は意味深にニヤリとしてみせた。ミステリ好きならこのときの会話を心に留めておくべきだろう――ただ残念なことに、ミステリ好きのはずのケイは別段の興味も示してくれず、二階の客室のひとつひとつをくまなく調べ回っては指先で眉間をトントンと叩きながらひとりブツブツつぶやくばかりだ。僕はすっかり蚊帳の外だ。

「三階は――露天風呂のようね」

「この洋館にかい?」

 僕は拍子抜けしたが、どうやら本当らしい。一応、建物の外観を損ねないように外からは露天風呂があることは見えないようになっている。だから、風呂に浸かりながら見える景色は残念なことにひとつきり――残念どころか、それは無数の宝石をちりばめたような満天の星空! しかも源泉掛け流し。効能は美容、疲労回復、関節痛、神経痛、高血圧――。

「宝石とか効能とか、ほんとうにどうでもいいことだわ」

 ケイは素っ気なく言った。僕は風呂の説明書きを読み上げただけなのに、どことなく蔑まれているような気がするのは僕の気にしすぎだろうか。この温泉の存在、僕らのさりげない会話こそが伏線となってのちのち重要な意味が出てくるかもしれないというのに。

 僕とケイが広間に戻ってきたときには、エリの助けを借りて奈津子さんは――「紹介するわ。こちら、このお屋敷のお手伝いさんで奈津子さんていうの」――ソファにもう起き上がっていた。すでに話が進んでいるようで、ちょうどいま奈津子さんは『アタル君』の存在を受け入れたようだった。

 さっきまでとちがって、エリにではなく、奈津子さんにぴたりと寄り添う『アタル君』の様子を、どこか悲しそうに見つめているエリがかわいそうで僕はいたたまれなかった。

 ところがそうは思わない連中もいるらしく、その筆頭がミカという人間で、ニヤニヤしながら静かな親権争いを高みの見物ときめこんでいる。

 ナツキはといえば早くも奈津子さんにお近づきになろうとしているらしく、さっきまでは恐がってちっとも近寄ろうとしなかったくせに、五歳児の姿をした怪物がそばにいるにもかかわらず奈津子さんと同じソファに膝がくっつくほど近くに陣取って、僕らを救い、身を挺してジョニーを倒したアタル君の武勇伝を語って聞かせている。

 無論、ナツキはあの悲惨な現場にはほとんど最後に到着したのだから、あの酷い顛末を知っているわけがないのだが、彼にとってはそんな顛末はもとより武勇伝だってどうでもいいようで、彼の視線をたどればすぐわかることだが、ナツキが真剣な眼差しで語りかけているのは奈津子さんにというより、タンクトップからのぞく深い谷に自分の声をこだまさせるためだけのようである。

「それにしても、どうして『アタル君』は奈津子さんのところへと行きたがったんだろう?」

 僕は疑問を口にした。奈津子さんは言った。

「私は、アタル君の義理のお兄さん――大輔さんと幼なじみなんです。アタル君は大輔さんのことをとても慕っていましたし、私と大輔さんは――」奈津子さんは声を詰まらせた。「大輔さんも、おじさまもアタル君のお母様も――とうとうアタル君まで――」

 奈津子さんは両手で顔を覆って肩をふるわせた。エリは無言で僕を責めたが、思いがけずケイが助け船を出してくれた――というよりほとんど駆逐艦の大進撃だ。

「そんなことより、この一ヶ月の出来事を全部詳しく聞かせていただけるかしら?」

「そんなこと、なにもいまじゃなくてもいいでしょう? 奈津子さんはまだ――」

 エリはけなげにも宿敵に気遣いを見せたが、当の奈津子さんがそれを無下にした。

「すべてお話しします――『アタル君』もきっとそのために戻ってきたのだと思います」


「私の家は代々この尻島でミカン農家を営んでおりましたが、同時に、島を所有されておられます島尻家の使用人もつとめさせていただいておりました」奈津子さんは静々と語り出した。「戦後、軍事研究所が閉鎖されても、漁港やその周辺は近海漁業の中継基地としてそれなりに栄えておりまして、百人ほどの島民が暮らしておりました。私の祖父や父は引き続きこのお屋敷の管理を任されておりまして――」

 僕らとそういくつも歳のちがわない奈津子さんという女性は、ぱっと見は色黒で元気溌剌とした「島っ娘」のイメージだが、びっくりするほどイメージからかけ離れたその語りの口調は終始慇懃すぎるほどに慇懃で、それに加えて「島時間」とでもいうのだろうか、うっそうと枝葉の生い茂る彼女の前口上はついに十五分の大台に突入し、それでもまだ終わる気配を見せないでいる。その話の中で、飼っていたヒヨコの名前や、のちにどの子がよく卵を生むようになったかとか、どの子が卵を産まないから食べてしまったとかいうほんの枝葉をはじめとして、僕らがいま直面している状況とはまるで関係なさそうな大枝を僕なりにチェーンソーで大胆にぶった切ってみると、つまりはこういうことらしい。

 尻島が大きな転機を迎えたのは、アタル君も話したとおり、映画「ハルマゲドン」の元となった事件――すなわち五年前に起きた小惑星クライシスだ。

 「わたし、あの映画がとても大好きでして、主演のブルース――ブルース何さんでしたっけ? ほら、あのお頭がとっても立派な――」

 さらにかいつまんで言うと、小惑星クライシスの際、小惑星のかけらが尻島の沖合に落下した衝撃で島は津波に襲われ、漁港やその周辺地域は壊滅した。それを機に、この洋館と職員宿舎の管理全般を担っていた奈津子さんとお父さんと六人の伯父だけを残して、生活の術を失った他の島民は残らず本土へ移り住まざるを得なくなってしまったという。

「島尻のおじさま、新しい奥様、大輔さん、それにアタル君がこの島を訪れたのはちょうど一ヶ月前のことです。おじさまと奥様はご入籍されたばかりで、アタル君の話によれば、二人のなれそめは六本木の『はちあわせ』というクラブだそうで――」

 僕はこれで七度目の咳払いをした。奈津子さんはきょろきょろと僕らを見回し、ようやくはっとした顔をした。

「それで――おじさまと研究所との電話が急に途絶えてしまったそのときに、研究所のあたりから爆発音と立ちのぼる煙を見かけたそうです。たしかに、煙の出所は小水川上流にある研究所併設の湯張ダム水力発電所の火災からのものでした。おじさまは到着されるなり、私の父と六人の伯父と一緒に研究所へ向かわれました。私は、奥様、大輔さん、そしてアタル君と、このゲストハウスでおじさまからの連絡を待つこととなったのです」

 奈津子さんは自分の肩を抱きすくめて震えを押し殺そうとした。

「でも、夜になっても、連絡はおろか、誰も帰ってきませんでした」

「この島では、連絡手段は何が使われてらっしゃるのかしら?」

 ケイが訊くと、奈津子さんは顔を上げ、よどみなく答えた。

「このゲストハウスとお隣の職員宿舎、そして研究所の各部屋とは内線電話でつながっております。それと、施設外での連絡手段として、トランシーバーが各施設に三台ずつあります。本土との連絡手段は衛星電話か無線機ですが、衛星電話はおじさまが個人的に一台お持ちになっていて、他には父が一台、研究所にも一台あります。無線機は研究所に一台あるだけです」

「つまり、いま三台の衛星電話、二台の無線機はともに研究所にある――このお屋敷から本土への連絡手段は、偶然にも皆無というわけね」

「え、ケータイ使えねぇの、ここ? どうりであたしのスマホ、バリ0なわけだわ」

 ミカがあらためてスマホをあちらこちらにかざしながら嘆いた。

「誠に申し訳ありません。でもどうぞ、トランシーバーはございますので」

 たしかにトランシーバーの充電器があったが、そこに挿さっているのは一台だけだった。

「おじさまからの連絡が断たれたのち、大輔さんと奥様も研究所へ向かわれまして、そのとき一台をお持ちになりました。ただそれも、その晩以来、ずっと音信不通です――」

「もう一台はアタル君が持ってた――」

 僕ははたと思い出して、『アタル君』のリュックからトランシーバーを取り出した。だが何かの拍子でだろうか、液晶画面が割れてしまっていた。

「一台じゃ何の意味もないわね。隣の宿舎から取ってこれるかしら」

「ええ、宿舎の『あの方々』は、みんなアタル君が――」奈津子さんは少し言いづらそうに口ごもった。「『あの方々』は、アタル君が言うには――皆様もご存じかと思いますが――本能や生前の願望のままに行動するそうなのです。なので、『ああ』なっても、研究所から帰ってきて、自室のベッドで昏々と眠り続けていた方々もいらっしゃったそうです」

 奈津子さんがそう言うと、僕らはみんな残らずぽかんとした。

「寝てるだけ?」

 ヨシが訊ねると、奈津子さんは憐れみをこめて「ええ」とうなずいた。

「職員のみなさん、いつもお忙しくて本当にお疲れでしたので」

 なんだかもの悲しくなってくる。あの怪物になればなんでも欲望のままに生きられるのに、百八つの煩悩の中からまさか睡眠欲を最優先するなんて。

「職員宿舎はいまはもぬけの殻なのね」

 ケイがたしかめると、奈津子さんは「はい」とうなずいた。

「アタル君が最後に施錠しました。ときどき戻ってくる方々もいらっしゃいましたが、もう中には入れないので、あきらめて研究所に戻っていくようです」

「それじゃ、あとでトランシーバーを誰かに取ってきてもらうことになるわね」

「トランシーバーが何で必要になるのさ? みんなで一緒に行動すればいい話だろ? こういう状況で、別行動するってことの意味くらいわかるだろう?」

 ヨシがおろおろしながら訊いた。僕はヨシの目を見て言った。

「よくわかるよ。わかるけど、君だってわかるだろう? ちがうか?」

 僕らの世界にはモンスター映画やホラーパニックものが無数に氾濫している。僕らは、怪獣映画の存在しない世界に生きている怪獣映画の間抜けな登場人物などではない。ここにはすでにトランシーバーが登場してしまっている。その役割はつまり、登場人物たちをバラバラに孤立させるためにあるのだ。そして孤立するということがこの手の物語の展開上必須であることもまた確定事項なのである。

 ヨシはがっくりとソファに腰を落とした。ケイは僕に向かって優雅に会釈し、そして奈津子さんに先を促した。

「それで――私とアタル君と、それにジョニーちゃんも一緒に研究所へ――」

 大輔さんがトランシーバーをなくしただけ、あるいは電池が切れただけ、連絡が取れなくなったのはほんの些細な手違いにちがいない――奈津子さんはそう信じたかった。だが、二人が荒れ果てた研究所の中庭で見たものは、彼らの想像をはるかに超えていた。

 それは、中庭に降り注ぐ月光の下で、はるか見上げるほどの、いびつな塔のごとく――。

「まるで床にひっくり返してしまった、鍋いっぱいの煮こごりのようでした」

 まざまざと記憶が蘇ったらしく、奈津子さんはぶるぶると身を震わせた。

「ご存じありませんか、尻島名物の『臓物の煮こごり』を。豚と鶏と魚の内臓を、それは丁寧に丁寧に洗って、醤油、酒、たっぷりのショウガ、ネギとニンニクと――」

 できあがりまでレシピを聴いてはみたけど――おぞましさの方だけは想像できる。

「それじゃ、ええと――ああ、アレです! 無数に積み上げた水まんじゅうにこれでもかとヌタウナギのぬたをぶっかけたような――えっと、これはちょっとちがいましたかね?」

 僕にはそのたとえが妥当かどうかは知るよしもない。奈津子はぽんと一つ手を打った。

「アレはそう、私が職員の皆さんに振る舞ったフルーツゼリーが傷んでいたせいで、皆さんが嘔吐してしまったあとのものスゴイ量のゲ*にそっくり! 潰れた赤いチェリーだとかミカンだとかが――でもチェリーもミカンもどれも全部ものスゴく大きくて――」

「奈津子さん! もういいから!」

 エリがたまらず叫んだ。奈津子さんはしゅんとして話を戻した。

「あれは間違いなく生きていました。あのとても大きなドロドロの塊のてっぺんには、たしかに島尻のおじさまのお顔があったのです。おじさまは――いいえ、あの『化け物』は、たしかに私のことをじっと見つめてきたんです。あの、いつものいやらしい目つきで!」

 奈津子さんは細い体をぎゅうっと両腕で抱え込んだ――それらは腕の隙間からいまにもこぼれおちそうだ。奈津子さんは「おじさま」のことを化け物になる前から内心では化け物扱いしていたようだが、僕が思うに「島尻のおじさま」に罪は微塵もないと――いや、大罪だ! これだから男ってやつは! 即刻死刑!

「そのとても大きなどろどろしたものの斜面から、小さな塊が一つこぼれてきました――それが実は、人の脳みそだったんです」奈津子さんは言葉を絞りだした。「それは奥様そっくりの姿になってアタル君を手招きして――でも、その代わりにジョニーちゃんが――アタル君が呼び戻そうとしても全然言うことをきいてくれなくて――『あれ』は私とアタル君に迫ってきました。でも、アタル君のおかげで、どうにかここに逃げ帰ってくることができました」

 と、いきなり玄関のドアが激しく叩かれた――同時に、耳を聾する獣のような咆哮が轟きはじめた。あまりのその激しさに建物全体が揺れはじめたほどだった。

 やがてドアの音も建物の揺れも収まり、静まりかえった。

「なんだよ、あれは!」

 ミカが引きつった顔で叫んだ。奈津子さんは首を振るばかりだった。

「フェイズ4は――生前の本能や習性、強い願望に囚われて行動する。つまり――」

 僕の言葉を引き取って、エリが奈津子さんの手を優しく握りしめながら続けた。

「『大輔さん』は、どうしても奈津子さんのもとへ戻ってきたかったのね」

 堰を切ったようにわっと泣き出した奈津子さんを、エリはその胸に抱き寄せた。

 何度も見たようなくだりだけど――自分だって身内を亡くしたばかりだというのに、その胸で奈津子を泣かせてあげるエリは、この世の誰とも比べものにならないくらい心優しく心美しい人だと僕は思う。たかが誤解で僕を蔑んでいた彼女はもうそこにはいない。僕はあらためてエリへの永遠の愛を誓った――そして同時に、彼女をこの手で守るとも。

 そう心に決めたのだが、僕はふとこう思いもした――もし、エリがあの怪物になってしまったとしても、エリは決して僕らの敵、人類の敵にはならないだろうと。エリならばきっと、この世界を愛で包み込んでくれる。それが彼女の心からの願いにちがいないからだ。

 ナツキはというと――世のすべての女性の貞操のためには、彼をあの怪物にならせるわけにはいかない。ヨシもだ。ミカは――すでにモンスターだが、どうやら怪物になれば無口になるようだから、むしろそうなることは僕らにとって良いことなのかもしれない。ケイは誰よりも理性的だ。だが、その理性が彼女の知られざる本性を覆い隠してしまっている気がしないでもない。そして、はたして僕自身は――。

「ゼッタイ、嫌だからな!」

 ヨシがいきなり叫んだ――僕が考え事にふけっている間に話が進んでいるのはお約束らしい。すでに僕をのぞくみんなの間で意見は真っ二つに分かれてしまっているようだった。

「クルーザーがもう一隻あるんだろ? それですぐにみんなで脱出すればいいだろうが!」

「船の鍵は父か島尻のおじさまが持っているはずです。それはつまり――」

「研究所? マジオワタww」

「ワラワラとか草生やしてる場合じゃねえよ! あんな化け物は警察とか自衛隊にまかせりゃいいんだってば! 俺たち、あのチワワ一匹にだって散々だったじゃないか!」

「チ**とケツの穴は比例するって本当だな。お前の粗チ*、腹の肉に埋もれちまってるだろ? それともお前、すでにメスなんじゃね? もはやチ**じゃなくてク****!」

「うるせえ、そんなの相対的な問題なんだよ! このドスグロヤリマ*ビッチが!」

「もうやめて! いいかげんにして!」

 エリが『アタル君』の耳を手で塞ぎながら金切り声でわめいた。たしかにヨシとミカのやりとりは五歳児に聞かせる言葉ではない。ただ当の『アタル君』は指をくわえながら、じっと上目遣いで僕らをいぶかしげに見つめている。エリは悲痛に叫んだ。

「怪物たちを全滅させるってことは、つまり、最後には『アタル君』もってこと?」

「最初でも、最後でも、どちらでも」

 ケイは平然と答えた。

「ゼッタイダメ!」

 エリはケイを、ミカを、ナツキを、そしてあろうことかやっと話が見えてきたばかりの僕をも蔑んだ目つきでにらみつけた。

「どうしてそんなひどいことを考えられるの? あなたたち、それでも人間なの? この子はまだほんの小さな子どもなのよ!」

 それはちがうと思ったが、僕は黙っていた。ミカのあからさまなあきれ顔が即座にみんなの胸中を代弁してくれていた。エリは今度は奈津子さんに訴えた。

「この人でなしたちの言ってることはつまり、『アタル君』だけじゃなく、『大輔さん』もってことなのよ。それでもいいの? 愛する人にそんなことができる?」

 奈津子さんは何も答えられずにうつむいた。代わりにケイが口を開いた。

「アタル君はやったわ。研究員たちを、彼はこの一ヶ月の間に大勢殺してきたそうじゃない――その『ほんの小さな子ども』が、実は誰よりもあなたの言う『人でなし』なのよ」

「それは、だって、そうしなきゃ――」

 エリは言葉を失って、『アタル君』をぎゅっと抱きしめようとした。だが、『アタル君』はエリの手をすり抜け、奈津子さんの腰にひたとしがみついた。

「ま、しゃあないよね。あんたのはママのとはいえないもんね」

 ミカは自分の豊かな胸元を両手で持ち上げてゆすった。エリは諦めたように力なくソファに腰を落とした。慌てた僕は、とにかく話題を変えるべく一つ提案した。

「クルーザーを鍵なしで動かせないかな。直結とかしてさ。ヨシ、君は工学部だ。そういうのはお手の物だろ? そしたら研究所に行く必要がなくなるんじゃないかな」

 せっかくの助け船もヨシは自信なさげだ。ケイが僕を明らかに軽蔑した目で見てくる。だが僕もいつまでも女子などに負けていられない。それにエリの手前でもある!

「得体の知れない怪物たちと戦うリスクを避けたいというのもあるけど、ヨシの言うとおり、怪物退治は自衛隊とか地球外生命体の専門家に任せるべきだというのももっともだと思う。それに、少なくとも『アタル君』は、僕らの味方だということはたしかだ」

 僕はエリを見つめた。エリはほっとしたように僕に微笑んでくれた。

「この際、民主的に挙手して多数決を取ろう。それで文句はないだろう?」

 僕はケイに提案した。無論、少なくとも僕、ヨシ、奈津子さんがエリに味方し、過半数を取ることを見込んでだ。だがケイは僕を無視しておもむろに奈津子さんに訊ねた。

「奈津子さん、アタル君は研究所の怪物たちを一掃する計画を立ててなかったかしら?」

 ケイに指摘され、奈津子さんははっと顔を上げた。ケイは確信したように続けた。

「アタル君のリュックに何本もの古い空き瓶が入ってたの。彼はこの一ヶ月間、島じゅうからかき集めていたのよね?」

 ケイは言葉を切ると、別に何を探す風でもなくこの広い居間を見回した。

「この屋敷を隅々まで見て回ったけど、集めた空き瓶はどこにも見当たらなかった――あるのはお隣の宿舎の方ね。彼の戦略によれば、単純に考えて、空き瓶は――」

「アタル君はそんなこと一言も話さなかったわ!」

 エリが割って入った。ヨシも加勢した。

「このガキは、僕らを囮に利用しようとしたんだぞ。そんな計画に乗れるかよ!」

「順番を決めとこうよ。ブタみたいな一番食いでのあるヤツが最初に囮になるの――この際、粗*ンだって構わないでしょ」

「だからそれは相対的な問題なんだって!」

 ヨシが猛然といきり立ったところでたいした迫力はない――いや、変な意味でなく。

「囮はいいアイデアね。一人に群がっている隙にまとめて倒せるもの」

 人間性的に対極にあるミカとケイが意見の同調を見せるときは、それはもう僕らの間では一分の隙もなく全方位的包囲網が敷かれた絶対的決定事項も同然なのだ。

「おっしゃるとおり、アタル君はある計画を立てていました――」

 奈津子さんが唐突に口を開き、大まじめな顔をして言った。

「――その名も『コードネーム:イオラオスの炎』」

 誰かがぷっと吹き出した。奈津子さんは気付かなかったようで、さらに続けた。

「ご存じですか、イオラオスの神話を。ヘラクレスが、九つの首を持つ怪物ヒュドラを倒すためにイオラオスに助けを求めたというお話です――」

 ミカがぷっと吹き出した。ナツキも笑いをこらえきれず盛大に吹き出した。ヨシも困惑しながらもニタニタしている。しかし理性の権化であるケイは――いや、ケイでさえも苦笑いだ。エリはやはりいい子だ。キラキラした目で奈津子さんの話に耳を傾けている。

 『コードネーム:イオラオスの炎』――僕はこっそり胸の内でつぶやいてみた。正直なところ、いやはやどうにもこそばゆい。でもまあ、アタル君は中学二年生だったのだから、もろにフィクション的でファンタジーでアクション映画かゲーム的なダサいネーミングセンスくらい、オトナの僕らは寛容に受け入れてやるべきだろう。

「ヘラクレスは剣でヒュドラの首を切ることはできましたが、切っても切っても首がまた生えてきてしまいます。そこで彼はイオラオスに助けを求め、首を切るそばから傷口を炎で焼くように言いつけました。すると傷口からヒュドラの首はもう生えてこなくなり、ついにはその怪物を倒すことができた――そういう物語です」

「つまり、片っ端から焼き殺すってことだろ。そんなの朝のイッパツ前ってとこだな」

「計画はシンプルなほど成功率は高くなるわ――ただ、アタル君一人ではできないプランね。怪物の数だけ火炎瓶を持ち歩かなきゃならない――つまり彼は、奈津子さん、あなたと二人で実行することを考えていたはずよ」

 ケイに問われると、奈津子さんは沈んだ表情をした。

「おっしゃるとおりです――でも私、そんなこと恐ろしくて!」

「私たちならもっと効率的にできるわ」

 ケイが何でもないことのように言った。

「『コードネーム:イオラオスの炎』ね――ぷっ――いいじゃない。あたし、やるわ!」

「いいじゃん、オレもやる――ぷっ」

 ミカが勢いよく手を挙げると、軽いノリでナツキも続く。だがヨシは相変わらずだ。

「俺はゼッタイ嫌だからな! そんな――ぷっ――計画なんてな!」

「この作戦には後方支援という大事な役回りもあるのよ。でも、それがお嫌なら、そうね、適材適所という点からすると、どちらかというとあなたはやっぱり真っ先に――囮?」

 ケイの脅しにヨシもついに手を挙げた。『コードネーム:イオラオスの炎』に過半数を超える四票が投じられたわけである。

「みんな、どうかしてるわ!」

 エリは汚物を見るような目で僕らを見回した――せめて反対票を投じた僕にだけはそんな目を向けないでくれ。

「研究所の人たちも『アタル君』も、もとはみんなあたしたちと同じ――いいえ、脳が生きてるというのなら、いまだって人間の心が残っているはずよ! それを焼き殺す? みんな、そんなに人殺しになりたいの? あなたたちは人殺しになろうとしているのよ!」

「アタル君が望んだことよ。彼はあの地球外生命体を自らの手で葬り去り、この地球を救い、そして奈津子さんを生きてこの島から脱出させたいと切に願っているの。だから彼は怪物と化したあとでも、私たちをここに導いた。つまり、アタル君の遺志――『コードネーム:イオラオスの炎』は彼の望み――」

「でも、だからって――」

 エリの反駁は、ケイのいつもの――冷ややかだが、圧の高い声音で遮られた。

「この世に理不尽がはびこる理由って、声をデカくすればわがままが通ると思い込む輩があまりに多すぎることに原因があると思ったことない? そんな連中が民主主義を穴だらけにする害虫だというのに、まっとうな私たちは、そんな害虫どもにまとわりつかれながら生きなくちゃならない――残念なことに、それがこの世の本質、この世の真理なのよね」

「害虫なんて――その言い方はあんまりよ!」

 エリははらはらと泣き出した。

 ケイの言うことはたしかに正論だが、僕の心中は穏やかではなかった――あろうことか、僕のエリを害虫扱いするなんて! 絶対許せない! 僕はケイに抗議した。

「少数意見にも耳を傾け、より良い結論を導こうというのも民主主義の理念だろう?」

「あなたも彼女と同じ――そういうことでよろしくて?」

 僕は返答に詰まった。害虫扱いはごめんだもの。

「お望みなら、あらためて決を採ってもよろしくてよ?」

 僕は言われるがままに決を採った。無論、票は動かない。エリは部屋の隅でダンゴムシのように膝を抱え、奈津子さんにぴったり寄り添う『アタル君』を恨めしそうに見つめている。奈津子さんは手を挙げなかった。

「決まりね。あなたの唯一の反対票は残念だけど、後方支援には必ず加わってもらうわ。一票を投じる権利には、決議に従う義務も伴う――これも民主主義よね」

 ケイは僕の肩をぽんと叩いた。僕はうなずくしかなかった。


 誰にも『アタル君』に危害を加えさせないように見守っててとエリに頼まれた僕は、『アタル君』のすぐそばで、彼が研究所から持ち帰った研究資料を読み込んでいた。

 少し前、『アタル君』は急に電池が切れたようにソファに倒れ込んだ。体表の硬質化がゆるんでいるのか、皮膚の質感や色も若干失われ、なかば半透明の粘体に戻っていた。ぎゅっと丸まったその体内で繰り広げられるキラキラと瞬く発光パターンは、無数の銀河の星々のようでもあり、同時にまるで夢見る赤ちゃんの寝息の様にも思えてくる。

「実に興味深いわ」

 ケイは小鼻をピクつかせながらそう言って、『アタル君』をつぶさに観察した。

 資料によれば、宿主の体組織のほとんどを粘性体で置き換えた状態であるフェイズ4であっても、宿主の脳神経系が生かされ、粘性体全体の統御に利用されているならば、休眠状態――すなわち睡眠は必然必須の現象なのだそうだ。わかりやすく言うと、『アタル君』はいま、幼児ゆえの「おねむ」の時間なのだ。

「といっても、あくまで一つの考え方でしょうね。彼の場合はまた別の見方もできるわ」

 別の見方というのは、脳神経系の飢餓状態によるものだという。

 フェイズ4の粘性体の活動に必要なエネルギーは、宿主の代謝プロセスに依存しているフェイズ3と比べて数倍から数十倍にもなる。それゆえ、フェイズ4個体は食欲旺盛になる。しかし『アタル君』は、フェイズ4であるにもかかわらず、彼の残された強い理性によって貪欲な食欲を抑え込んでいるのかもしれない、とケイは言った。

「言ってたわね、あなた。この子だけは味方だって。あながちでたらめでもないようね」

 ケイはドキリとするほど優しい目を僕に向けると、再び研究資料に没頭しはじめた。

 不意に部屋のどこかにあるスピーカーから、ポンポンポンポーンという木琴のディナーチャイムをイントロに、シューベルトの「鱒」を奏でるフルート演奏が優雅に流れ出した。さらにはちょっと昭和な雰囲気を醸し出している女性アナウンサー風の声が続いた。

「ご宿泊のお客様にお知らせいたします。お食事のご用意がととのいましたので、皆様、一階食堂へお越しくださいませ。繰り返しお知らせいたします。お食事のご用意が――」

 僕は重たい資料の束を放り出してソファから腰を上げると、眠っている『アタル君』を残し、ケイと連れだって食堂へ向かった。階上からもアナウンスに促されてみんなが降りてきて、僕らは銀の燭台を灯したアンティークの長テーブルを厳かに囲んだ。

 ナスやパプリカ、ズッキーニなど、自家製の新鮮な夏野菜と亜熱帯の魚介をふんだんに使った南欧風ごった煮と、ほろりと身がほどけるスペアリブをダブルメインディッシュとした豪華フルコースは実に絶品だった。だが、料理の素晴らしさを褒めちぎる僕の声は一、二度跳ね返りはするものの、重苦しい空気にむなしく千々に散りゆくばかりで、ケイの「あなた、のんきね」というとどめの一言でついに沈黙の底に沈んでいった。

 かいがいしくもエリが奈津子さんを手伝って作ったデザート(島特産の甘くさわやかな酸味が香るミカンのマーマレードをふんだんに使った島バナナの絶品パイは、東京のどんなスイーツの名店でも生み出すことはできないだろう!)がみんなに配られると、さっきからずっと沈黙にもだえるようだったナツキが、おそるおそる会話の口火を切った。

「オレ、お笑い好きだから、売れてない芸人でも結構知ってるはずなんだけどさ、『島尻大輔』って聞いても全然ピンとこないんだよね。ひょっとしたら芸名使ってたのかなァ」

「大輔さんのことを茶化すのはやめてください」

 奈津子さんは思いのほか強い口調で言うと、乱暴にパイにフォークを突き立てた。

「大輔さんには夢があったんです――でも、その夢を捨ててまで、この島で暮らすという大きな決意をされました。私はそのご意志をとても誇らしく思います」

「でもそれってさ、要は芸人として売れないから身の振り方を考えただけ――げふっ」

 僕はとっさにヨシの脇腹に肘をめり込ませてやるだけでなく、奈津子さんに対しても聞くに美しいフォローを怠らなかった。

「大輔さんはきっとこの島で暮らすことを楽しみにしていたはずですよ。だって、この島には素晴らしい大自然がある。山、青々とした常緑の森、エメラルドグリーンの海、おいしい果物においしい魚――それになにより、この島にはあなたがいます」

 僕が言うと奈津子さんはうれし恥ずかしといった表情を見せた。うっとりと「素敵」と目を輝かせたエリにもだいぶ好評のようだ――「うへぇ」と浮いた奥歯をむずがゆそうにしているミカや、僕を凍り付かせるようなケイの視線なんかは放っておけばいい。

 ただ、傷口に指を突っ込んで塩を塗り込もうとするナツキとヨシの大量失点からの僕の素敵なナイスフォローも、奈津子さんの気を紛らす効力はさほど長くは続かなかった。

「大輔さんは約束を果たしてくれようとしたんです。私たちがまだ十代だった頃、海辺で夕日を見つめながら交わした約束を――それなのに――」

 奈津子さんは沈んだ声を詰まらせた。ミカはそこへつれなく水を差した。

「メシも食い終わったことだしさ、そろそろフロ入りたいんだけど? あたしさっき、上の階に露天風呂みつけちゃってさ!」

「すぐに準備いたします」

 頬の涙を拭った奈津子さんは急き立てられるように席を立った。

 立ち働くことで気が紛れることもあると思えば、ミカの無遠慮もあながち悪くはないのかもしれない。それに、やはりなんといっても、エリが「ここの片付けはまかせて」と奈津子さんに目配せしたのが僕はとても誇らしかった。

「オイ、テメーラ男ども、ゼッテーのぞくんじゃねえぞ。ゼッテーだからな!」

 ミカはそう念を押し、僕ら男子をねめつけた――そのとき、ナツキがヨシに目配せするのを僕は見逃さなかった。


「実に――実に興味深いわね」

 ケイがまたもそうつぶやくのを聞いて、僕は分厚い研究資料の束から顔を上げた。

 怪物どもを倒すのにいいヒントが得られないかと、本当に科学の素養のあるケイと、なまじ過去に一般教養の基礎生物学(高校レベルのおさらい程度)で「優」を取ったことがあったばかりに科学の素養があると思われている僕は、引き続きアタル君が研究所から持ち帰った研究資料を読み込んでいた――とはいうものの、僕は早々にお手上げ状態だった。

 ケイは笑みすら浮かべながら小鼻を痙攣させているし、中学生のアタル君でさえYBXの実態を把握していた。それなのに僕ときたらまるでちんぷんかんぷんだ。いっそのこと放り出してしまえたらいいのだろうけど、エリの手前、僕にはそれはできなかった。だからさっきから僕は眉間に皺を寄せて、一介の経済学部生にとっては文字化けしているとしか思えない専門用語や記号の羅列に、ときどき「ふむ」だの「ウンウン」だのとうなずいてみせながら、風呂の順番を首を長くして待っているのである。

「どうやらアタル君は、フェイズ4に固執しすぎていたようね。YBXという生命体のおもしろみはそこじゃないのに」

 ケイはそう言うと、相変わらず小宇宙の星々のようにほのかに青白くキラキラしながら眠りこけている『アタル君』に向かって、優越感に浸りきった一瞥をくれた。

「おもしろくなんかない。コイツにどれだけの人の命が奪われていると思ってるんだよ」

 僕は溜まりに溜まったイライラをケイにぶつけた。

「あら、言葉が過ぎたようね。『おもしろみ』というより『本質』と言いたかったの」ケイは悪びれもせず、愉快そうに続けた。「彼は、フェイズ4こそYBXの最終進化形態と考えていた節があるのね。それも仕方ないと思うわ。彼が最前線で戦ってきた相手はフェイズ4だったから。でも、フェイズ4は、言ってしまえばYBXにとって実は生存戦略的にいえば、たんなる『よく熟れた実』という存在に過ぎないの。実は、フェイズ3こそがYBXという生命体の真骨頂なのよ!」

 ケイの熱の入った眼差しは、しかし僕と目が合った途端、一瞬にして氷点下に(絶対零度と言ってもいいだろう)下がったようだった。そんなにも酷薄な眼差しに一変させるなんて、僕はいったいどんな表情をしていたのだろう?

 しかしすぐに、ケイの目に穏やかな色が浮かんだように僕には見えた。

「あなた、ハリガネムシってご存じ?」

 僕は「もちろん」とうなずいてみせた――もちろんそんなの知るわけがない。僕は経済学部の学生なのだから。ただ、科学の素養が僕以下の経済学部生などこの世にごまんといることだけは忘れないでほしい。

「フェイズ3のYBXは、ハリガネムシという生き物に似たところがあるのよ」

 ケイはそう言ったきり、再び手元の資料に目を落として一人の世界に入り込んでいった。

 なんにせよ僕はケイの真正面に座って見栄を張り続けることに限界を感じ、「喉が渇いた」と嘘をついて厨房に向かった――いや、実際、喉はカラカラだったのだ。


 厨房からは軽くはじける水音にのって、エリのコロコロとした笑い声が聞こえてきた。

 中をのぞいてみると、二つ並んだ大きなシンクの前で、エリは奈津子さんにディスポーザーの使い方を教わっていた。シンクの底で、夕飯の残飯――スペアリブの骨や魚の骨、野菜くずが派手に耳障りな轟音を立てながら砕かれている。その様子にエリは歓声を上げていた。それが済むと、二人は洗い上げた皿を拭きはじめた。白い皿に白いふきんを滑らせるエリの慣れた手つきに、僕はどこかほっとした気分になった。

 僕は、僕のアパートのキッチンに立ったエリが料理したり皿を洗ったりしている後ろ姿が好きだった。顔と顔、目と目を合わせているときよりもずっと気楽に話せるからだ。というのは、エリの大きな目に見つめられると僕の胸はいつもドキドキして、心臓は麻痺の三歩手前まで駆け足してしまうのだ。愛はときに殺人的なのである。

 食事中は心ここにあらずだった奈津子さんもいまは笑顔だ。エリには人の心をほぐしてくれるなにかしらの力があるのだ。そんなエリを「害虫」だのなんだのとあんなひどい態度や口調で責め立てる人間がこの世にいようとは! ケイという女には人の心が通っていないのではないか。彼女はきっと人を愛する心というものが欠落しているにちがいない

 エリは僕に気付いて振り返り、にっこり微笑んだ。誤解やわだかまりなどまるでなかったかのようだ。いまさらながら、さっきエリの味方をして怪物掃討作戦に反対票を投じた僕の素晴らしい戦略が功を奏したのかもしれない。それに、さっき大輔さんを茶化そうとしたバカどもを退けて、奈津子さんに美しいナイスフォローをしたこともだ。

「お邪魔じゃなかったら、コップに一杯、水をいただけるかな」

 僕が頼むと、エリはかいがいしく、拭き上げたばかりのコップに水を注いでくれた。

「私ね、奈津子さんにさっきいただいたパイのレシピを教えてもらったの。帰りに、この島特産のミカンとバナナをたくさんいただく約束もしたの。帰ったら作ってあげるね」

「それは――楽しみだなぁ」

 こんな状況だというのに、パイのレシピだなんて――それでも僕がどうにか調子を合わせるのを、奈津子さんはエリの隣で苦笑い気味に聞いていた。

 僕は、たとえこの島から脱出できたとしても、さわやかに鼻腔を駆け抜けるミカンの酸味にとろりとしたバナナの甘みが口いっぱいに広がる香ばしい焼きたてパイのことだけは頭にこびりついて離れない――いや、ちっとも思い出す気にはならないだろう。なぜなら、この島ではあまりに多くの人々が得体の知れない怪物に殺されているからだ。それに、エリだって彼女の大事な――えーと――「おじさん」を亡くしているのだ。

 それゆえ、まかりまちがっても、青空のようにさわやかに澄み切ったミカンの酸味が鼻腔を駆け抜け、ねっとりとろりとしたふくよかな島バナナの甘みをかりっとさくっとしたキツネ色の焼きたてパイ生地で閉じ込めた宝石箱のような極上スイーツのことなど考えるだけでヨダレが――いや、けっして思い起こしたりはしないだろう。

 だけどもしかしたら、エリはあえて明るく振る舞っているのかもしれない。彼女なりの奈津子さんに対する心遣いなのだ。そう考えると、本当は自分のことで精いっぱいのはずなのに、こんなときでも周囲に気配りをみせるエリのけなげさには頭が下がる思いだ。

 その後も、僕はちびちびと水をなめるように飲みながら(飲み干すまではここにいる口実になる)、エリと奈津子さんの女子トークに耳を傾けていた。自明の理ではあるが、やはり女子トーク、有益な情報どころか聴く価値のある話題など皆無だ。僕は諦めて、もう一度研究資料に取り組むことを決意してコップの水を飲み干した。

 そのとき広間の方から、耳をつんざく悲鳴が聞こえてきた――いや、悲鳴どころか、そのせいでこの建物全体がビリビリと震えだした。僕は耳を塞ぎながら広間へと駆けだした。

 大絶叫していたのは『アタル君』だった。

 『アタル君』は全身のいたるところからストロボのように閃光を発しながら、文字通り、口を――表現として許されるならば顎の外れたパックマンRのように、あらん限りに開いて泣きわめいていた。その小さな体から発される声はもはや五歳児のものなんかではない――まぎれもなくモンスターの咆哮に他ならなかった。

「いったい何があったの?!」

 エリが僕の後から駆け込んできて、『アタル君』の声に負けじと叫んだ。ナツキもヨシも耳を塞ぎながら首を振り、ここにずっといたはずのケイは肩をすくめるばかりだ。ミカはバスタオルをずぶ濡れの体に巻き付けて風呂場から駆けつけてきた。

 そのとき、どこか遠くの方から、『アタル君』の絶叫よりも太く低く、危険がいままさに迫ってくることを知らせるサイレンも同然の獰猛な咆哮が呼応するように轟きだした。それを聞いた僕はあまりの恐ろしさに――男性諸氏ならご理解いただけるだろう――袋の皮がきゅっと縮み上がってしまったくらいだ。

「黙らせろ!」

 僕は怒鳴った。『アタル君』は仲間を呼んでいるにちがいなかった。ナツキがとっさにミカのバスタオルを剥いで(ミカは「キャッ」と乙女な悲鳴を上げて一瞬のうちに裸の胸を隠してしゃがみこんだ)『アタル君』の顔にぐるぐると巻き付けた。

「ちょっと何するのよ! ひどいじゃない!」

 わめくエリを無視して、僕とナツキは必死に『アタル君』の口のあたりを包み込んで押さえつけた。だが『アタル君』の頭はぐにゃりとしてズルリとバスタオルをすり抜けてしまう。そこへエリが間に割って入ってきて、『アタル君』の体を抱きしめ、頭だったグニャグニャしたところを優しく撫でながら、声をかけてあやしはじめた。すると、さすが教育学部初等教育学科、エリは見事に五歳児を泣き止ませた。

 エリはケイをにらみつけ、声を尖らせた。

「あなたね――あなたに決まってる、『アタル君』にひどいことをしたのは! あなたしかこの部屋にいなかったもの!」

「ひどいわね。仲間のことを疑って、怪物に肩入れするなんて」

 ケイは平然と返した。エリはそれをかき消す勢いで声を荒げた。

「仲間? 私のこと害虫扱いしたくせに――それに怪物ですって? あなたのほうがよっぽど怪物でしょうが! もうこの子に近づかないで!」

 ケイはツンとすまして「お風呂をいただくわ」と広間を出ていった。

 館の外のサイレンのような咆哮はいつの間にか途絶えていた。ミカは不意に思い出したように、ナツキの頭をおもいきりげんこつで殴った。そのミカの体には、もうすでに奈津子さんに渡された毛布が厳重に巻き付けられていた。

 『アタル君』は頭の形を元通りにすると、つとエリから離れ、奈津子さんの腰にしがみついた。そのときのエリの悲しそうな顔といったら――。

 その後、ナツキとヨシも示し合わせたように広間からいなくなったし、ミカも『アタル君』を気味悪がって広間を出ていったのを最後に姿を見せていない。ケイは風呂上がりに広間に立ち寄ったが、資料を抱え込むと、すぐにぷいと出ていってしまった。

 柱時計の十時の鐘を聞いたのは――再び休眠状態に戻った『アタル君』を除くとして、僕とエリと奈津子さんだけだった。

 エリは押し黙ったまま、奈津子さんに寄り添うように――いや、へばりつくようにして眠る『アタル君』をじっと見つめていたが、おもむろに口を開いた。

「奈津子さん、お先にお風呂どうぞ。そのあと、お部屋で少しお休みになったら?」

 たしかに奈津子さんは疲れ切った顔をしていた。それに、いくら懐かれているからといっても、ああも『アタル君』にべったりされていては気の休む間もないはずだ。なぜなら『アタル君』は、いまとても養分を必要としているはずなのだから。

「そうしなよ奈津子さん。『アタル君』は僕らで見ててあげますから」

「――ええ、ありがとう。そうさせていただきます」

 奈津子さんは礼を言うと、広間を出ていった。

 奈津子さんが出ていくなり、エリは『アタル君』のすぐそばに移って寄り添った。

「エリ、君はどうしてそんなにまでその子にこだわるんだい?」

 僕は訊いた。ふっと緩んでいたエリの表情が途端にはにかんだ。

「そう見える?」

 エリはそう問い返すと、昏々と眠る『アタル君』のベトベトの額を優しく撫でた。

「この子――私の弟に似てるの」

「君に弟がいたなんて――」

 僕は驚いた。エリに弟がいるという話はこれまで聞いたことがなかった。

 エリがまれにこぼす家族の話といえば、毎晩遅くに酒の臭いをまとって帰ってくる母親と、高級サバ缶を手土産に訪れるあの――えーと、「おじさん」くらいのものだ。

 おじさんが家を訪れると、きまって小遣いをもらえた上に、いつも不機嫌な母親もこのときだけは優しくなり、しばらくお外で遊んでおいでと手を振って送り出されるのだという――無論、エリがそのことの意味に気付いていないのは不幸中の幸いだろう。

「トシオっていうの。小さい頃――そうね、ちょうどこの『アタル君』くらいの頃に急にいなくなっちゃったの。どこをどんなに探しても見つからなくて、それでお母さんに訊いたら、お父さんがどこかに連れて行っちゃったって――」

「じゃあ、トシオ君はお父さんといまもどこかで――」

 そう言いかけて僕は急にぞっとした。もしかしたら、エリにはお父さんなんてとうの昔にいなくて――おじさんとお母さんが共謀してエリの弟、トシオ君を――いや、お父さんだって実はおじさんとお母さんによって、すでに――。

「そう。トシオはお父さんと暮らしてるんだって――でもお母さんは、トシオに会っちゃダメだって――会いたくなっちゃダメだって」

 そう言いながら、エリは何もない宙のどこか一点をぼんやりと見つめた――と、エリはいきなり僕に向き直って嬉々とした表情をした。

「でも、やっと会えたのよ! トシオに!」

「エリ、その子はトシオ君じゃない――」

 僕がそう言うと、エリははっと我に返った。

「いやぁね、冗談に決まってるじゃない――私、何か変なこと言った?」

 しかしエリはまたも焦点をどこでもないところに合わせてぽつりとつぶやいた。

「トシオは弟だもの、私が親になることなんてできないわ――でもこの子はトシオじゃない。だから私でも、トシオのママになれるのよ」

「エリ、君はひどく疲れてるみたいだね」

 僕は息苦しくなってきて、やっとそれだけ言った。そのとき、不意にエリの視線の焦点が僕に絞り込まれた。

「そうよ! パパも必要よね!」

「いったい何を言い出すんだい? まさか君は――」

「ねえ、私のこと好きでしょ? だったら私とトシオと三人で――」

「エリ、この子はトシオ君じゃない、『アタル君』だ! それに、この子はもう普通の子どもなんかじゃないだろ? なによりこの『アタル君』は、君より奈津子さんの方に懐いてるんだ。誰が親になるかなんて、そんなこと僕らが勝手に決めるわけには――」

「あの人はダメよ。ゼッタイ。この子を任せるなんてとんでもないことよ」

 エリは急に冷めた目をして断言した。僕はもうわけがわからなくなっていた――さっきまでエリは奈津子さんとあんなに仲良く女子トークで盛り上がっていたはずなのに。

「わからない? あの人は他のみんなと同じ、トシオのことを怖がってる。いなくなってほしいと思ってる――でも私たちはちがうわ。ほらこうして私たち――家族みたいでしょ? 私たちだけがトシオの親になれると思うの。そうでしょ?」

 僕はエリのぼんやりと眠たげな――いや、何かに取り憑かれたような視線から逃れようとして部屋じゅうをウロウロしはじめた。しかし、どんなに死角に逃げ込もうとしても、エリの視線は僕を追いかけてきてけっして逃がそうとしない。ああ、これはいったい何の呪いだというのだ?

「エリ、君は――だって君はついさっきまで僕のことを軽蔑していたじゃないか? ほら、あのほんのちょっぴりエッチなDVDの件でさ――」

「誤解よ――誤解なんて、すぐに解けるわ」

 エリはつぶやいた。どっちの誤解? 「秘技 地獄車」のことでエリが僕を誤解していたことか? それとも、エリが誤解しているということを僕が誤解しているということか? 誤解なんてすぐに解けるって、どっちが誤解を解くの? エリ? それとも僕?

 エリは何かに取り憑かれているにちがいなかった。それがトシオ君の呪いなのか、そもそもエリの人生そのものが呪われているのか。そのせいで僕までその呪縛に巻き込まれてしまう運命にあるのか――。

 そのとき、どこかから悲鳴があがった。断続的にひっきりなしに聞こえてくる――。

「奈津子さんだ!」

 人が悲鳴を上げて助けを呼んでいるさなかに少々不謹慎だが――助かった!

 僕は部屋を飛び出して階段を駆け上がった。悲鳴は上階から聞こえてくる。僕のうしろからは、おそらく正気に戻ったであろうエリも続いてきていた。いや、これが実は正気ではなくて、ただ僕を逃がすまいとして追いかけてきているのだとしたら――。

 僕は背筋が凍る思いを必死で押さえつけて、とにかくエリに追いつかれないように全速力で階段を駆け上がった。だが、実は高校駅伝で難関の上り坂での追い上げの名手、マウンテン・ウィッチの異名をとるエリからは、何人たりとも逃れられるわけがないのだ――案の定、僕はあっという間に鬼の形相のエリに追いつかれてしまった。

「何もたもたしてるの! 急いで!」

 エリは僕を追い抜きざまにそう叫んだ。

 良かった――エリは正気らしい。僕はよく動くエリの小ぶりの尻を追いかけながら、またも不謹慎にも「助かった!」と心中で叫んでいた。

 三階にある露店風呂のドアの前で、エリは険のある目で僕を振り返った。

「来ちゃダメ!」

 それはそうだと僕は納得してうなずいた。奈津子さんが風呂に入っていたのだとしたら、つまり、彼女はいま裸にちがいない――僕は肩で息をしながら、懸命にその先の妄想を拒もうとした。般若心経を口の中で唱えてみたりもした。そうして気持ちと、気持ちとは裏腹に正直な体の生理的反応との両方を鎮めていると、ふと足下に濡れた靴の跡があることに気付いた。それは転々と、しかし一直線に、僕とエリが登ってきた階段を降りていっている。まあ、これが奈津子さんの悲鳴の原因なのだろう。普通、謎解きはクライマックスでするものだが、この際どうでもいい――これはヨシのスニーカーの足跡だ。

 しばらくして「何があったの?」とミカが来たところでエリと奈津子さんが出てきた。

 奈津子さんはろくに体も拭かずに半分ずぶ濡れのままで、しずくが伝う胸元を重たそうに抱きかかえている――何があったかわかりきっていたが、ここは僕が無関係だということをわかってもらうためには地球外生命体のせいにしてとぼけるしかなさそうだ。

「奈津子さん、いったい何が――あの怪物が襲ってきたんですか?」

「それ以上に酷いことよ! まったく、これだから男って生き物は!」

 エリは速効で僕をにらんで吐き捨てると、奈津子さんの肩を抱きかかえながら憤然と階段を降りていった。ミカはいきなり顔を寄せてきて僕にささやいた。

「あんたも一枚噛んでるんだろ?」

 僕は全力で首を振って否定した。僕はそんな卑劣漢ではない。なんなら、いまからでもヨシの部屋に行ってデジカメのデータを全部消去させたってもったいないけどいい!

「あの子、あんたの彼女よりいいモン持ってるもんねぇ」

「ミカさん、私のことでなにか?!」

 階段の下から金切り声を上げたエリが、鬼の形相で僕とミカをにらみ上げていた――ミカのささやき声が聞こえていたのだ。そのエラい剣幕にさすがのミカもたじたじだ。

 この一件、本来ならばエリに僕も悪事の一味だと誤解されたことを嘆くべきなのだろうが、僕としてはむしろ喜ぶべきといえよう。エリはその後、僕の存在を無視し続けたが、そのかわり、彼女はもう「トシオ君」ならぬ『アタル君』との幸福な家族設計を語らなくなってくれたのだ。

 盗撮事件の犯人一味だと決めつけられるなんてまったくのとばっちりなのだが、少なくとも、そんな性的潔癖症はエリ本来の性格だから、一応は正気に戻ってくれたということなのだろう――と、同時に彼女は、やはりあのアダルトDVD「秘技 地獄車」のこともすっかり思い出して腹を立ててしまっているにちがいなかった。

(誤解なんて、すぐに解けるわ――)

 現実は、狂気に囚われていたときのエリの言葉のようには、誤解なんてすぐには解けないものなのである――相手が女って生き物の場合はとくにだ。

 高校の野球部員とそのマネージャーとして僕とエリは知り合った。たまたま進んだ大学も一緒だったため気安く話をする間柄になって何となく付き合いはじめ、そのうちに彼女にはとあるコンプレックスがあることを僕は知った。ただ、それが何かを僕は絶対に誰にも話すまいとかたく誓っている――といっても、エリはそのコンプレックスをその小さな小さな胸の内に隠しているつもりなのだが、実は誰の目にも明らかなことだった。

 あのミスコン最終審査落ち(落選の原因はまさにそのコンプレックスの源にあった)の大学祭の後で、僕だけはエリの胸に深々と(いや「深く」は無理だ)刻まれた傷口に決して触れないようにして、そうっと彼女のご機嫌を取ることにどれほどの時間と労力と食事代を注いだことか。それをあのDVDにぶちこわされ、いままた盗撮騒ぎのせいで僕の財布はさっそく悲鳴を上げようと大口を開けている。

 いま、ふと気付いたのだが、奈津子さんにライバル心を抱いているのは『アタル君』が懐いているかどうかというよりも、そのせいなのかもしれない。いや、まさか、そんなことで?! しかし、やはり、そうとしか――。


 はっとしていねむりから覚めたときは、もう日をまたいで午前一時を回っていた。夜半過ぎから急に吹き荒れはじめた風は、いまや建物を打つ雨音も騒々しい嵐と変貌していた――が、目覚めのきっかけは風や雨の音のせいではなく、またも誰かの悲鳴だった。

 今度はナツキだった。

 僕はとっさにエリと目を合わせたが、エリの視線はすぐにぷいと逸れた。仕方ない、僕一人で見てこようと立ち上がったとき、ナツキの悲鳴はこっちから行かずとも向こうからものスゴい勢いで迫ってきた。

「おい、なっちゃんが! なっちゃんが!」

 ナツキがわめきながら広間に飛び込んできた。

「なっちゃんが――死んでる! 殺されてるんだ!」

 普通の人なら動揺や困惑や、あるいは激しい衝撃を受けるであろう数秒の間を利用して、僕ははてさてとこれまでの一連の境遇を思い返してみた。

 到着早々ゼリー風のチワワに襲われ、次いでおじさんの爆死、さらにはアタル君が現れて――そう、僕らはこの絶海孤島でYBXと呼ばれる水まんじゅうのお化けのような地球外生命体の襲撃に遭い、そしてこれから研究所に乗り込んでいって、人間対エイリアンの地球存亡を賭けた戦いが始まろうとしてるところなのである。それなのに、いったいこれはどういう展開だ? 僕の認識していたジャンルがそもそもまちがっていたのか?

「なっちゃんの部屋に行ったらさ、ドアが開いててよ――入ってみたら足下によォ!」

「ナツキ、黙れ。『彼』に聞こえる――」

 僕が声を落として言うと、ナツキはハッとしてウンウンとうなずいた。いまの『アタル君』に奈津子さんの死を悟られるのは得策ではない。

「みんなに奈津子さんの部屋の前に来るように伝えてくれ。エリはここで待ってて――絶対『アタル君』を起こさないように」

 エリはその意味を汲んでうなずくと、僕とナツキは部屋を飛び出していった。

 奈津子さんは本当に死んでいた。

 奈津子さんのあの、この母なる地球が生みし神秘の、大自然が織りなし育んだ調和と秩序のたまものたる荘厳な双子の丘のその頂から、いままさにはるか彼方の宇宙へとテイクオフせんとする希望と願望と欲望を満載にした二艘のスターシップは、いまや暴虐と破壊の限りを尽くされ、地獄絵図の混沌をのみ残すばかりだった――要は、胸のあたりをめった刺しにされていたのである。

 近年の映画やドラマだと、ナイフで刺された痕などただ赤黒い裂け目でしかなかったり、ひどいものになるとただ胸のあたりを赤く染色しているだけだったりするし、グロさを極めた八○年代スプラッタームービーでさえもこうまでではなかったかもしれない。

 現実はもっと生々しいもので、切り刻まれたタンクトップの隙間からのぞく乳房は、さっきまでのぱっつんぱっつんのハリと健やかなマシュマロのような柔らかさはどこへやら、まだ粘り気と艶をとどめた赤い血でその縁を濡らした無数の裂け目は、中から盛り上がってくるぬらぬらと黄ばんだ脂肪でふさがれようとしていた。

 僕はこれまで、女性の胸の膨らみに詰まっているものがなんなのかは理解しているつもりではあったが、どうやらこれを機にトラウマになるかもしれない。現時点で、僕はもう金輪際、たっぷりチーズ入りを売りにしたハンバーグやチーズブリトーなどを食べる気には決してならないだろうし、今後は(エリのは除外できるとしても)たいていの女性の標準的な規模の乳房を拝む機会があったとしてもひょっとしたら般若心経を唱える必要もなくなっているかもしれない。それほどに奈津子さんの胸は――いや、もはやくどくどと言葉を並べ立てるようなことはすまい。この際「筆舌に尽くしがたい」という人類の言語の低レベルさをさらけ出す便利な慣用句で済ませてしまおう。所詮、人類の言語の出来など、ちっぽけな頭蓋骨に囚われた脳髄の搾り滓に端を発するにすぎないのだから。

 ヨシは来るなり、咀嚼の足りていない吐瀉物を盛大に廊下にぶちまけはじめた。ケイは押し黙ったまま僕の肩越しに奈津子さんの死体を見下ろしているばかりだ。そのため結局僕が死体を検めることになった。僕だって映研部員の一員だ。ミステリーやサスペンスものの映画はしょっちゅう観るし、映研のモットーから少々外れるが、最近、国内外問わず、二番煎じ三番煎じもお構いなく、鑑識捜査もののテレビドラマシリーズを片っ端から観ていた時期もあった。だから一応、それなりに検死の知識はあるつもりだ。

 僕は一通り鑑識員や検死官のまねごとをすると、奈津子さんにシーツをかぶせてやり、みんなを促して部屋を出た。そして、そっとエリを呼び寄せ、『アタル君』を広間に残したまま僕らは隣の食堂に集まった。

「あくまで素人の見解なんだけど」僕はそう前置きした。「十二カ所の刺し傷があった。死因は心臓からの失血性ショック――それも最初の一突きだ。うまく肋骨をすり抜けて柄の部分まで深々と刺さり、心臓にまで達していた。死体のそばに落ちてた果物ナイフが刺創とピタリ一致する。それが凶器だということはまちがいない。出血のほとんどはその一カ所からで、ほか十一個の傷からは出血が少ないし、傷も浅い。つまり最初の一突きで絶命していたのに、さらに十一回もナイフで切り刻まれてる――まるで吹き荒れる嵐のようだよ。犯人はよほどの恨みがあったにちがいない」

「犯人? あのガキじゃねえの? あいつ、いつもなっちゃんと一緒にいたんだぜ!」

 ナツキが声を上げると、エリが猛然と否定した。

「ちがうわ! 『あの子』はずっと私と一緒にいたんだから!」

「犯人はこの中にいる!」

 僕は毅然と言い放った。みんなの視線が僕にさっと集まる――心拍数がグンと跳ね上がるこの感覚! ところが、ケイが即座に僕を否定した。

「時期尚早ね。犯人は私たちじゃなく、この屋敷にまだ潜んでいるかもしれないわ」

 いやたしかに、少々タイミングが早すぎたかもしれない。もっと混沌として場が荒れてからのほうがよかったかも――でも、このセリフは誰にも奪われたくなかったのだ。

「僕らが到着したとき、すぐにこの屋敷をくまなく捜索したじゃないか」

「あのとき、私たちは隠れている誰かを探そうとしていたわけじゃないし、この古いお屋敷の構造に詳しいわけじゃない。私たちが見落としている隠し部屋があるかもしれないし、そうでなくても、いくらでも潜めるところはあると思うわ」

 ケイの考えにみんながうなずいた。それで僕らは屋敷じゅうを再捜索した。もちろんケイの主導ですみずみまでだ――僕なんかは蚊帳の外だ。

 もちろん、僕ら以外の誰も、どこにも潜んではいなかった。

 僕はあらためて(主導権を握るべく!)みんなを見回して言った。

「『アタル君』を含め、怪物の手口ではないことは明らかだ。凶器を使った殺害方法もそうだし、なによりあの怪物だったらまず死体を残さず食べちゃってるだろう?」

「たしかにあれは食べ残したらもったいないわ」

 イヒヒと笑いながらミカは両手に一つずつ何か大きな丸いものを――自分のよりも大きな何かを抱えるようにして、重たそうにゆっさゆさと揺さぶった。みんなの不興を買ったのは当然としても、冗談を言った当の本人もさすがに表情を引きつらせている。

「死亡推定時刻は専門家じゃないから僕には正確なことは全然わからないけど――でも、奈津子さんが風呂から部屋に戻ったのは午後十時半頃、ナツキが遺体を発見したのは午前一時すぎ。犯行が行われたのがその間だというのはたしかだ」

「私たち、その間は『あの子』と一緒にずっと広間にいたわ」

 エリが言った。僕は肯定の意味を込めて大きくうなずいた。しかしケイの目から疑いの色は消えなかった。しかたなく僕は正直に言った。

「実を言うと、僕は少しうたた寝をしていた。だから、その間のことはちょっと――」

 エリの眼差しからさっと温度がなくなった。僕は話を逸らそうとした。

「最後に生きている奈津子さんを見たのは誰だ?」

「あんたバカ? そんなの犯人に決まってんじゃん!」

 ミカが僕を茶化した――誰かこの女にミステリの常套句を教えてやってくれ。

「奈津子さんに付き添ってお風呂場からお部屋に一緒に行ったわ」

 エリが堂々と手を挙げた。

「あの悲鳴のとき――十時半だね。部屋に送っていって、すぐに別れたのかい?」

 僕はみんなに聞かせるつもりでエリに訊いた。エリも僕の意を汲んで答えてくれた。

「少しお話をしたわ。ひどくショックを受けてたの。十五分くらいかしら。そのあと広間に戻ったわ。『あの子』をほっとくわけにはいかないもの」

 ケイが唐突に口を開いた。

「真っ先にしれっとアリバイを証言してる人こそ、もっとも疑わしい人物っていう筋書きはざらにあるものよね」

 その言葉の意味を飲み込むのにコンマ何秒かかかったが、僕より先にエリが反応した。

「私がやったって言いたいの? どうしてあなたはいつも私につっかかってくるの?」

「そうだよ、エリがそんなことするわけないじゃないか! だいたい十五分かそこらで人を一人殺して――そうだ、あれほどの傷だ、服に返り血を浴びてたっておかしくない。だけどエリの服にはどこにも血痕はないだろう」

「可能性の一つよ。殺すのにかける時間なんて十五分もあれば足りないかしら? それにシーツかなにかを頭からかぶっていれば返り血が服に付くのを防げるでしょうし」

「だからって――どうしてエリが奈津子さんを殺さなくちゃならないんだ?」

「殺害の動機は誰よりじゅうぶんじゃなくて?」

「動機?」

「親権争い――といっていいかしら。エリさん、あなた奈津子さんに惨敗のようね」

「何を言うの! 『あの子』は私じゃなきゃ絶対ダメなんだから! あんな女に――」

 エリははっと口をつぐんだ――三流ミステリに典型的な、犯人がやるヘマだ。ケイが勝ち誇った顔をした。そのとき、ナツキとヨシが視線を交わしてからおどおどと手を挙げた。

「実はオレら、十二時過ぎになっちゃんの部屋に行ってるんだ――そのときは生きてたよ」 二人の態度からしてどんな話かは想像に難くない。ケイにやり込められて意気消沈していたエリが急に思い出したように、あらためて男三人に軽蔑の眼差しをくれた――僕はついいまのいままで君のことを擁護してあげてたんだけどな――。

「話だけかい? もめたりしなかったかい?」

 いっそう目を剥いたエリの視線にはたと気付いて、僕は大急ぎで補足した。いまは極力誤解を生む言葉は避けなければならないというのに!

「つまり――『言い争いをしなかったか』という意味でだ」

「全然、まったく、ほんのひともみもしてねえよ! 実は、なっちゃんの前でデータを全部消すことにしたんだよ。なっちゃんはそれで許してくれたしよ――」

「データのコピーを取る時間はじゅうぶんあったみたいだけどねぇ」

「コピーィ?! なんていやらしいの!」

 ミカがニタニタしながら口を挟んだせいで、どうやらエリは「コピー」の存在を本気にしてしまったようだ。僕はエリの視線からさっと逃れた――だけど、先が思いやられる。

「その頬の腫れ、いや手の痕かな、それはそのときに奈津子さんにぶたれたものかい?」

 僕が何気なくナツキに訊くと、彼はハッとして頬の腫れを隠した――そのとき、ヨシがすっとんきょうな声を上げた。

「なっちゃんはぶったりしなかったぞ! ナツキ、お前、あのあとまた行ったのか!」

「いやらしい!」

 エリが叫んだ――いや、そういうことをいま議論してるんじゃないんだ。

「たしかに行ったけどよ、そのときだってなっちゃんは生きてたって! オレが殺すわけねーだろ! 十二時半過ぎだよ、ちょっと気持ちも落ち着いてるかと思ってさ」

「いやらしい!」

「ちがうんだって! そりゃできることなら夜這いを――いや、ただ話をしに行っただけなんだ。『シトラス・セレナーデ』のことで返事を聞きたくてさ」

「僕たちの映画のことで、どうしてひっぱたかれるんだ?」   

「実はさ、晩メシのあとにこっそりオファーしてたんだよ。そのときは断られたんだけど、でも押しまくれば開くモンってあるだろ、女の子ってさ」

「いやらしい、いやらしい! どこを開くっていうのよ!」

「いやソコじゃないって! オレたちの映画に出てくれって頼んだだけだって!」

「役を増やすのか? そういうことは共同プロデューサーの僕にも相談してくれないと」

「役を増やすつもりはないって――つまり、お前の、『若山八作』の相手役にだよ」

 エリは途端に唖然とした。ナツキが言いたいのはつまり――

「島育ちの純朴な少女役にはうってつけだろ? 多少年増だってかまわないさ。むしろ年上なのに世間知らずってのが萌えポイントじゃね? なにより健康的なのが大事でさぁ――小麦色に日焼けた肌、それに恵み豊かな南国を思わせる、あのたわわに実った――こう言っちゃ悪いけど、オレが監督なんだからキビしくハッキリ言わせてもらうよ」

 もうすでにエリは泣き顔だ。ナツキよ、それ以上言ってくれるな――しかし、ナツキは的確にエリに追い打ちをかけた。

「エリちゃんはさ、純粋でカワイイのは認めるけど、どこを取ってもやっぱり――貧相なんだよなァ」

 その「どこを取っても」の「どこ」のジェスチャーが、「どこ」でもなく体のある一点のみを示したことが、エリの顔を真っ赤にさせ、烈火の如く怒らせた。

「ひどい! 私がどれだけ『伊世』役に力を入れてるか知ってるでしょう! こんな私でも構わないって言ってくれたじゃない!」

「つまり、新たな殺害動機ね」

 ケイが冷然と言い放った。エリは息をのんだ。

「バカな!」

 僕はケイに食ってかかった。そしてナツキに詰め寄った。

「ナツキ、奈津子さんはオファーを断ったんだろ?」

「ああ、キッパリな」

「そんなのは関係ないわ。エリさん、あなたは奈津子さんと十五分ほどお話したといってたわね――あなたはほかの誰よりも彼女と打ち解けていたし、そのときにオファーのことも相談されたんじゃないかしら。受けるか受けないか迷ってるって。そのとき、あなたははじめて自分の役が奪われそうだと知った。親権も奪われ、役も奪われる――あなたは彼氏が居眠りしている隙に、奈津子さんのお部屋へ向かった――いいえ、先にキッチンに立ち寄り、夕食のお手伝いのときに使ったばかりの果物ナイフを手にしてね」

 エリがさっと青ざめると、ケイは高らかに笑った。僕は食い下がった。

「親権はともかく、『伊世』役を奪われるのはエリだけじゃない。そうだろ、ナツキ?」

「ああ。だから、断られたし、こうしてひっぱたかれちまったわけさ」

「それはどういうことかしら?」

 エリとケイが僕とナツキを交互に見やった。無論、主人公である僕「若山八作」に捨てられた元恋人「清美」を演じるケイの座は安泰だろう。彼女は回想シーンで僕にツバを吐くワンシーンのみの出演だからだ。ただ、僕らの映画には隠された「役」がある。

「ミカちゃんの役だよ。秘密にしてたけど、実は『伊世』役はダブルキャストなんだ」

「なっちゃんがオファーを受けてくれれば『伊世』役は一人で済む。吹き替えしなくて済むぶんリアルになるしな。それにミカのもいいんだけど、やっぱりどっちかっていうとなっちゃんの方が、その、こう、『たわわ』って点でいうとさ。な、わかるだろ?」

 ナツキは補足した。ケイもエリもまだきょとんとしている。それで五分ほど費やして、台本のト書きでは空白だったシーンの真の意味とミカの役どころを説明したところ、やはり、当然のごとくエリは「いやらしい!」を連発するし、ケイの眼差しも絶対零度まで下がる結果となった。

 もう一つもたらした結果に関しては思った通りに功を奏したようで、つまり、ある程度ミカにも疑いの目が注がれるようになったのである。

「バッカじゃねえの!」ミカは一蹴した。「あたしゃね、別にあのパイオツ女に役を取られたって全然かまわないんだよ。むしろ大歓迎なくらいだ――もともと無理矢理ナツキにヤラれるところだったんだからさ」

「無理矢理? そんな役を? どうして?」

 エリがミカに心の底からの同情の眼差しを向けた。

 たしかに疑問だ。もともと僕もヨシも、ナツキがミカをどう説得したのかについては答えを持っていない。だが、ここまで明らかになってしまっても、ミカもナツキもその理由を話そうとはしなかった。

「あたしはシロ。役を奪われたってぜんぜん構いやしない。乙女の貞操を守れるんだから、誰かを恨んだりするわけもない。ま、その点に関してはコイツが保証してくれるだろうね」

 ミカがナツキを小突くと、ナツキは「その通り」とうなずいたきり押し黙ってしまった。

「それじゃ聞くけど、ナツキが奈津子さんに会った十二時半過ぎから、遺体を発見する一時までのあいだ、君はどこにいたんだ?」

「風呂を出てからからずっと自分の部屋だよ。だからアリバイはないね――ていうかさ、結局のところ、アリバイなんて誰もないんじゃね? あんただってそこの洗濯板に梅干し女と口裏合わせてるだけかもしれないし、そこのデブだって自分の部屋に引きこもってせっせと粗チ*をいじくってたんだろうし」

「だから言ってるだろ、そんなのは相対的な問題なんだって! だいたいね、小っさくたって肝心なのは膨張率と固さであって――」

 ムキになって反論しようとするヨシを僕は「黙れ」と遮った。

「ナツキ、君が十二時半過ぎに奈津子さんに会ったとき、そのとき彼女はたしかに生きていたんだね? それで、一時過ぎに部屋に行ったら死んでた。なんでまた奈津子さんに会いに行ったんだ?」

 ナツキはなぜかうれしそうに頬をさすった。

「ほら、『さんこの礼』って言うだろ? 礼を尽くせば、きっと股を――いや、心を開いてくれると思ってさ」

「あんたが言うと、字面的にどうしても卑猥に聞こえるんだよね」

「とにかくオレは犯人じゃねえよ。ありゃ逸材だぜ? 殺すなんてもったいないじゃん」

 僕の知るナツキは人殺しを考えるような人間ではないし、頬をぶたれたからって逆上するような人間ではない。彼はむしろそのアクシデントをエロスのための糧にするタイプだ。

 しかし、どうやらそんな彼にも、僕の知らない一面が実はあるらしい。ナツキのような単細胞生物が、どうやってミカのような勝ち気な女子に濡れ場の役を押しつけることができたのかが僕には皆目見当がつかない。そんな僕すら知らない彼の謎に包まれた一面が、内に秘めた殺人衝動を突き動かした可能性もなきにしもあらずである。

 犯行時刻は午前十二時半過ぎから一時の間。アリバイは誰にもない。

 エリに関して言えば、たしかにトシオ君――いや、『アタル君』の親権に関しては根が底知れぬほど深い問題だし、「伊世」役のことで奈津子さんを邪魔に思っていたかもしれない。しかし、大学祭のミスコン最終審査落ちと同じ理由で自主映画の役を降ろされたとしても、彼女はそんなことでめげる子ではないことを――いや、エリはめげる子だ。いや、だが、彼女がそれが小さいことについてコンプレックスを抱いているような素振りはこれまで――えーと、いつもよく目にしていたっけ。いや、むしろ、動機はそのことかも――。

 ――エリのことはおいといて、ヨシはどうだろう。彼は気が小さく、およそ殺人者からはもっとも遠い存在のように思える。だが、彼は血みどろスプラッター殺戮シーンをオカズにメシが喰えるスラッシャームービーオタクだ。あの奈津子さんの遺体の惨状は、実はヨシが長年蓄積し続けてきた狂気が外にほとばしった結果なのだという解釈もできる。

 ミカもナツキとの密約がやはり気になる。あのさばさばとした男勝りのミカが、誰にも話したがらない秘密をもつなど、彼女らしくない気がするのだ。そういう意味でも、僕らはミカの本性を何も知らないのである。

 一方で、ケイはというと、彼女には殺害動機などないように思える。それに、ケイのような冷静沈着な人間があんな衝動的な殺人を犯すとも思えない。しかし、犯行の見た目の残忍さは、衝動的で無計画であると思わせるためではないだろうか。それを踏まえると、自ずと浮かび上がってくるのが、実はなにより非情を極めた冷静沈着な完全犯罪を目論む犯人像――すなわちケイだ。

 僕? もちろん僕には殺害動機などあるわけがない。奈津子さんを邪魔な存在だと思ったこともないし、恨みに思うことなど何一つない。ナツキが「伊世」役をオファーしていたというのもいまはじめて知ったことだし、トシオ君――いや、『アタル君』の「親権」に関してはむしろ奈津子さんのほうにあってくれと切に願っていたくらいだ。つまり、奈津子さんが死んで得することは僕には何もないのである。それに、僕は誰よりも率先してこの事件の探偵役を買って出ているのだ。捜査している探偵が実は犯人だったなんて話は――まあ、ないことはないが、もうやり尽くされた感があるし、探偵イコール犯人なんて三流のミステリは実際ひどく陳腐なものだ。この物語にそんな駄作要素は微塵もない! この僕が保証する!

「名探偵推理編はおしまいかしら?」

 沈思黙考している僕を嘲笑うかのようにケイは僕に言い放った。僕はヤケ気味に答えた。

「そのようだね。舞台は暗転。次の幕開けの、大団円解決編に乞うご期待ってところかな――現実は、君の芝居のように都合良くはいかないものだけどね」

 僕が最後に最大の皮肉を込めると、ケイはうっすらと笑みを浮かべた。

「この幕間に眠気覚ましのお茶の時間にしません? どうぞ広間でおくつろぎになってて」

 ケイにとってはあくびの出るほど眠たい推理編だったわけだ。そうと知って憤懣やるかたない僕を尻目に、ケイはいそいそと真夜中のティータイムの支度をしはじめた。

 

「――きて――起きて! ねえったら、起きて!」

 エリの金切り声で僕は飛び起きた――正確に言えば、飛び起きることはできなかった。

 僕はがんじがらめにされていた。それもダクトテープで椅子にグルグル巻き――ガムテープなんてヤワなもんじゃない、コレがあればなんでも作れる、あのダクトテープでだ!

 縛られているのは僕だけではなかった。僕らみんなだ――ケイを除いて。

 僕はまだめまいでぐるぐる回る視界をぐるりと巡らせてみた。どうやらここは厨房のようだった。食堂にあった猫足の重たいアンティークの椅子に縛り付けられた僕らは、調理台などあらかた脇へどかして広くなった真ん中に一列に並べられていた。

 ケイは燭台のろうそくに静かに火を灯していた。その橙色の明かりにぼうっと浮かび上がるケイの顔は――驚くには値しない、いつもの能面のような顔だった。

「何しやがんだ、この腐れ***! ふざけんじゃねえよ!」

「オレ、こういうプレイ一度はしてみたかったんだけど――いまじゃないんだよね」

「んなこと言ってる場合かよ! 俺たちは殺されるんだよ! 食べられちゃうんだよ!」

「あたしの『あの子』に手を出したら承知しないから!」

 みんな相変わらずだ。僕は冷静に疑問を口にした。

「いっらいあれおんらおろろ――」

 僕はろれつの回らない自分の滑稽さに思わずぷっと吹いた。

「しっかりして! あの人、狂ってるわ!」

「あらひどいわ、エリさん。彼に変なことを吹き込まないでちょうだい」

 そう言うとケイはいきなり顔を寄せて、僕の目をのぞき込んできた。

「ちょっと分量が多すぎたようね。私、勘違いしてたみたい。あなたって、もうちょっといいカラダをしてると思ってたわ」

 ケイはそう言うと、僕の全身にじっとりと視線を這わせた。僕はぞくりとした。

 思い返せばこれまでも、誰かの熱い視線を全身に感じて鳥肌が立つといったことが多々あった。いまさらながら、あれはすべてケイの視線だったのではという気がしてくる。

「大団円解決編は私に任せて――あなたは根本から間違っていたのよ」

「いっらいらんろおろ? (いったい、なんのこと?)」

 僕はまたおかしくてぷっと吹いた。

 ケイは僕らの視線が集まる中心に立ち、満杯の灯油タンクを足下に置くと、しなやかにすっと長身の背筋を伸ばして僕らを見回してから丁寧にお辞儀をした。まるで一人舞台だ。

「みなさん、ようこそお越しいただき――」

「『ようこそ』じゃねえし! クスリ盛られただけだし!」

 ミカが吠えた。ケイはにっこりと微笑んだ。

「安心して。何度も実験したことのあるクスリだし、分量は――ちょっと手違いはあったけど――みんなそれぞれの体重に合わせてあるから。ああ、でも作り方は教えられないわ。読者のみんなが真似しちゃうといけないもの」

 読者のみんなとはいったい何のことかと僕は思ったが、みんななぜかスルーしたし、ケイ自身も自分がそんなことを口走ったことにすら気付いていないようだった。

「昏睡レイプは最低の犯罪だからな! 人でなし! けだもの! 死刑だ!」

 ヨシが泣きわめいた。ケイは眉をひそめた。

「どこかの大学のクズ学生と一緒にしないで。心外だわ――私、ブタ面には興味ないし」

 ケイはそう吐き捨てると、おもむろに僕に歩み寄ってきて僕の肩を、さらには僕の頬を指先で撫で、そして頬に頬を寄せてささやいてきた。

「あなたは別よ――もしもあなたが望むなら」

 僕の理性はぞっとした――ただ、僕のコイツは正直だ。

「いやらしい! 汚らわしい! サイアク! こんなときにはしたない!」

 僕はドキリとしたが、エリはケイに向かって怒鳴っていた。ケイは高らかに笑い出した。

「ああ、おかしい! ムキになっちゃって! あなた、私がこんな男に惚れると思って? 誰がこんな安っぽい男に!」

「それはそのとおり――なんてことを言うの! 訂正しなさい!」

「おうら、おうおあらにううな(そうだ、ぼくをばかにするな)」

 どうも舌のしびれが抜けない――そうだ、この機会を逃す手はない。普段の僕にはとてもじゃないがハードルの高い卑猥な言葉で、お高くとまったケイのヤツをこっぴどく罵倒してやろう。さんざん僕を馬鹿にしてきたお返しだ!

「あれうおんららあっれりろ。おあえらんららぁ、おうのいんおええっやえやにいれ、いいいいいあええあうあんあら(********っ***。*******ぁ。********っ******、**************)」

 僕はそう言い放ってやっとスカッとした。そして気付いた――みんなが僕を見て、口をあんぐり開けて唖然としているのだ。

「まさかそんなことを言う人だとは思わなかったわ――いやらしい! サイテー!」

 エリは泣き出しそうな顔で僕を罵った。さらには、ヨシは余命一ヶ月と宣告された哀れな病人を見るような目で僕を見つめ――ミカはむしろ喜んでゲラゲラと大笑いしている。

「許して。そんなにも副作用がひどいなんて――ウサギもマウスも喋ったりしないから」

 ケイですら、火照った頬をおさえて僕に心から謝ってくる。

「彼の名誉に関わることだ。このことはオレたちだけの秘密にしよう。いいな?」

 ナツキの一言に、みんなが神妙にうなずいた――どうやらみんな僕の言葉を理解できているらしい。おかしいのは僕だけ? いったいどんなクスリだっていうんだ?

 動揺を抑えきれない僕をほったらかしにして、ケイがあらたまって口を開いた。

「誤解しているようだけど、私は別に狂ってしまったわけではないの。これには正当な理由があって、私の説明を聞けばきっと納得してもらえると思うわ」

「どの口がそう言うのよ! 『あの子』はどこ? 『あの子』に何かしたんでしょ!」

 エリがわめき散らすと、ケイはうんざりした顔をした。

「小うるさいあなたが寝てる隙に燃やしてやってもよかったんだけど、まだ指一本触れてないわ。安心してちょうだい。だからお願い、いまヒステリックになるのだけはやめていただける? いちいち『メンヘラ女』に邪魔されると話が先に進まないの」

「『メンヘラ女』って――私が? こんなの誰だって――ねえ、そうでしょ?」

 エリがみんなに問いかけると、ナツキは天井の隅っこを気にしはじめ、ヨシは床の隅っこを気にしはじめた。ミカはゲタゲタ笑っている。エリは血走った目で僕を見つめた。

「ねえ、あなたも私のこと『メンヘラ女』って思ってるの? そうなの? そうなのね!」

 エリの顔が狂気に歪んでいく――僕はめまいでくらくらしているふりを続けた。

「――き、きみは、ぼぼぼぼくらにクスーリをもって、いいいいすにしばりあげーて(ここでちょっと副作用のために苦しそうに顔を歪めてみせて)――ああうう、いっいっいったい、なにをしようって――いうーんだ? ああ、クソ、めめめめまいがァァ」

 ケイは僕に哀れむような目を向けた――君はわかってくれるかい? 情緒の取り扱いが難しい女の子と付き合うということを?

「どうやらまだ副作用が続いているようね。エリさん、彼をそっとしておいてあげて」

 と、ケイは僕をフォローしてくれた――かなりわざとらしい口調だったけど。エリはしょんぼりとうなだれた。ケイはあらためて話しはじめた。

「あなたたちがまだ知らない重要な事実があるの。これはそれを知った上での必要な措置なのよ――『コードネーム・イオラオスの炎』を成功させるためのね」

 ケイはそう言ってみんなの顔を見回し、反論がないとわかると僕に向き直った。

「まず迷探偵さん、奈津子さんが殺害された事件については、あなたの考察はまるで無駄だったの。三流のミステリ小説やB級サイコ映画じゃあるまいし、ここは現実なのよ? 私たちの中に、あれほど残忍な手口でか弱き女性を殺せる者がいると思って?」

 そう言われるとその通りだ。

「人を殺めることができるような人間は、普段の生活の端々にも異常性が垣間見られるものよ。その点、あなたたちはごくごく普通。お馬鹿さんなくらい常識的で――同じくらい常識がないともいえるけど――基本的に甘えん坊でのんきな人畜無害の大学生だと思うの。もちろん、あなたたちのことをすべて知っているというわけではないけれど」

「君は気付いていないのかもしれないけど、君はいま、僕らの誰よりも、僕らが予想だにしなかった異常性を発現しているようだよ」

 僕はケイを皮肉った――そのあとに続いた沈黙は、エリが僕をじっとりと恨めしげにねめつける間だ。めまいのふりがバレてしまったが、メンヘラ女には構わずに僕は続けた。

「それに僕らにとって、ケイ、君という人は、そもそもはじめからもっともよく理解できない人物だった。君のことを人畜無害だなんて、はじめから誰も思ってやしないよ」

「この異常な状況が続いた一日のうちで、いまがもっとも合理的にコントロールされているってことが、あなたにはわからないのかしら?」

「君だけにしか通らない論理だね。僕らにしてみれば、いまこのときこそ、まったく不条理極まりない時間だよ」

「私を信じてと言うしかないわね」

 ケイは僕らを小バカにしたように大げさに肩をすくめた。僕は食ってかかった。

「いったい何を信じろと?」

「検査の結果よ――縛めを解くのはそれからよ」

「やァだ、あたしまだ処女よ! 検査なんて必要ない! まあちょっとカユイけどさァ」

「そういやぁオレもここ最近ムズがゆいんだ」

「てめェかよ! あたしにうつしたのは!」

「そんなこといってる場合じゃないでしょ! いやらしい! けがらわしい!」

「そもそも言ってることがわかんないよ! 俺たちの中に人殺しはいないっていうんだろ? なのになんでこんなことするんだよ!」

 ダクトテープに縛られた体を窮屈そうによじってヨシがわめいた。僕は冷静に答えた。

「僕たちの中に、奈津子さんを殺した犯人がたしかにいるからだ」

「その意味がわからないっつうの! いないのにいるとか、意味不明なんだよ!」

「なぞなぞじゃね? 答えは――あっ、イヌか? 居るのに居ぬ、なんてな。オレ、天才」

「ならよ、ヨシお前ツイてるぜ。ブタは容疑者から外れるの確定だもんな」

「誰がブタだ! この腐れビッチ!」

 ケイは大きくため息をついた――僕もだ。

「ヨシ君、たしかに私たちの中に人殺しのような人間はいないわ。でもたしかにこの中に殺人犯がいるの。いないけれど、いる――このなぞなぞを解くには、私たちはYBXという寄生生命体についてもっと知らなくてはならないのよ。つまり――」

「やっぱ『アタル』かよ! だからアイツはさっさと殺しとけばよかったんだよ!」

「ちがうわ! あたしの『あの子』がそんなことするわけないじゃない!」

「オレが言ったとおり、答えは犬。つまり『ジョニー』はまだ死んじゃいねえってことだ」

「よし、わかった! 犯人はあたし――なんちゃって!」

 ヨシが叫べばエリがヒステリーを起こし、ナツキが混ぜっ返せば、ミカがさらに引っかき回す。僕はというと、めまいがしてきた――ケイに盛られたクスリとは別の原因でだ。やはり、大学での友人選びは慎重に慎重を期すべきなのかもしれない。

「シャラップ! あんたたち、お黙り! ちっとも話が進まないじゃないの!」

 ケイは一喝した。そしてダクトテープをちぎりはじめると、僕以外の四人の口に手際よく貼り付けていった。それで気が済んだのか、彼女はにっこりと笑った。

「アタル君が持ち帰った研究所の資料を読んだわ。それには、彼がその重要さに気付いていなかったか、あるいは必要と思わなかったのか――とにかく、YBXという生命体には、彼がほとんど話さなかったもう一つの形態があるの。実際それこそが、私たちがもっとも絶望するべき恐ろしいものなのよ」

 ケイは唐突に震える肩を抱いてくずおれ、うちひしがれた。かと思うと、いきなり堂々と立ち上がって朗々とした声で語り出した――いちいちが芝居がかっている。

「ただじっと固い殻に閉じこもりしそれは、指折り数をかぞえ、ときを待つ存在。カウントゼロの呼び声とともに殻を破り、動き出す――それは寄生体。未知なるこの星に生まれし彼ら寄生体が求める主、それは未知なるこの星に生きとし生けるものにおいて、もっとも崇高でもっとも精緻な生きもの――我々、人類――」

「それは人間の驕りじゃないかな」

 僕が口を挟むと、ケイは普段のむすっとした顔に戻ってムッとした。僕は構わず続けた。

「人間なんてちっぽけな生きものだよ。力は弱いし動きも遅い。脳が大きくて知能があるとはいわれるけど、地球上の生物の中で、生きものとして一番かというと僕は疑問だね」

 ケイはダクトテープをびりっとちぎると、ついに僕の口にも貼り付けた。

「フェイズ3――宿主の体じゅうの細胞内に潜伏していた第二形態が、ついに寄生体として本領を発揮しはじめる活動期のこと。研究所から這い出てくる粘液ドロドロの怪物や、チワワの『ジョニー』ちゃんたち――いわゆるフェイズ4を相手にずっと戦ってきたアタル君は、おそらく、この第三形態のYBXには出会ったことがないのかもしれないわね。だから彼は、この第三形態の生態についてまるで重要視していなかったの」

 嘲笑の笑みを浮かべたケイだったが、アタル君へのフォローも忘れなかった。

「もちろん、アタル君の働きは賞賛されてしかるべきものよ。フェイズ4は、寄生生命体YBXの生活環の最後の段階。宿主が死ぬと、彼らは暖かいベッドを出て、次の宿主を見つけるまで再び厳しい環境に曝されなくてはならない。もっとも、死んだ宿主の体をはじめ、あらゆる獲物をむさぼり食いながら体積にして何億倍、何兆倍にも増殖した上、その塊のどこをどれだけ小さくちぎりとってもフェイズ2個体になり得るのだから、YBXの最終形態はいわば何億何兆もの胞子をおさめた『袋』――我々地球の生命としては絶望的に脅威的なものなの。それをアタル君ひとりの力でこの一ヶ月ものあいだ抑え込んできたことは事実だし、私たちが彼の遺志を引き継がなくてはならないことに変わりはないわ」

 ケイは「でも――」と言った。

「たったいま私たちが直面している敵は、粘液の怪物――フェイズ4じゃない。寄生して宿主を操る第三形態――フェイズ3のYBXなのよ」

 ケイはおもむろにミカの口のテープを剥がした。

「ミカさん、この世で一番おそろしい生き物は何かおわかり? もしもあなたのような人でも怖いものがあればの話なんだけど」

「あたしはクマちゃんだと思うね。山で出くわしたらぜったいヤバい。死んだフリが通じないんでしょ? ヤバいって、ソレ! クマちゃん、ゼッタイ最恐モガモガ」

 ケイはミカの口に乱暴にテープを貼り直すと、今度は僕の口のテープを剥がした。

「さっき、あなたにハリガネムシの話をしたわよね」 

「針金みたいな生き物だろ。そのくらい知ってるさ」

 僕はつっけんどんに答えた。エリの前で僕の無知を暴こうとする魂胆が見え見えなのだ。ケイはぷっと吹き出すと、「まあいいわ」と僕の反抗を軽くあしらった。

「ハリガネムシは寄生虫の一種よ。おっしゃるとおり、針金のような虫よ。基本的には水の中にいる生物なんだけど、その生活環の大部分を、カマキリやカマドウマといった昆虫を宿主とした寄生体として過ごす生き物なの。特筆すべきは、虫の体内で成虫となったハリガネムシが、いかにして本来の生息環境である川や池に戻って伴侶を探すかといったところなんだけど――」

 ケイはもったいぶるように僕らを見回した。恐がらせようとしているつもりなのだろう。誰がその手には乗るかと僕は身構えた。

「ハリガネムシはね、宿主のカマキリを水に飛び込ませるの――宿主の脳をちょっといじくってね。カマキリはけっして喉が渇いて水を飲みたくなったから水辺に行くわけじゃない。カマキリはそのとき、自分は水中でも泳げるんだっていうニセモノの本能を植え付けられてしまったのよ。それでハリガネムシはカマキリの体内から飛び出して、晴れて伴侶を求めて泳ぎ出るのよ」

「それで――どうなるんだい?」

 僕はブルッとしてゴクリとツバをのんだ。

「カマキリ? もちろん溺れて死ぬだけよ」

 ケイはニヤリとした。僕はハッとした――僕を恐がらせようなんて、その手には乗るか!

「ムシの話はどうでもいい。僕らをこんな目に遭わせる正当な理由の方を聞きたいね」

「もちろんよ。ハリガネムシとまったく同じではないけれど、YBXという寄生体はフェイズ3において、宿主の脳にとりつき、宿主の行動を支配すると言いたいわけ」

 ケイは小鼻を思い切り膨らませ、珍しく熱っぽく語りだした。

「そのやり方が実に興味深いのよ! YBXはその体内で安定・不安定を問わず、ありとあらゆるアミノ酸の組み合わせで、ありとあらゆるタンパク質を産み出すの。それが目的があるのか、まるで無目的のランダムなのかはまだ解明されていないけれど、いずれにせよYBXはいわば年中無休二十四時間操業のあらゆる種類の生産ラインを備えたタンパク質工場といえるものなの。我々人類にとって、地球外生命体YBXはあらゆるタンパク質の無限の泉。もしもそのタンパク質合成メカニズムを解明できて、制御できて、意図的に選択的に有用なタンパク質を産生できたら――それこそ世界が一変するわ!」

「だからどうだというんだ? そういうことを聴かされるために僕らはこうして――」

「いちいち話の腰を折らないでちょうだい――そのタンパク質の中には地球上の生物の神経細胞に親和性のあるタンパク質もあって、それをいわば鍵のように使うのよ。そして、宿主のニューラルネットワークのロックを解錠して侵入する」

「つまり、僕らの中の誰かに、YBXに寄生されたものがいて、その寄生虫が僕らの誰かの脳に取り憑いて操り、奈津子さんを殺させたというのかい?」

「その場合、いくつもの『なぜ』について考えなくてはならないわ――YBXに取り憑かれた誰かは、なぜ奈津子さんを殺したのか。捕食行動でも新たな寄生行動でもなく、なぜただ殺したのか。しかも、なぜナイフで執拗なまでに刺したのか。そしてなぜ犯人は、犯行後も私たちの中に紛れて隠れているのか――」

 そのとき僕は気付いた。

「まさか、僕らの中にモガモガ」

 ケイは僕の口にベタリとテープを貼りつけると、さて、と僕らを順繰り見回した。

「『オッカムのカミソリ』という言葉をご存じの方がいて? ある事象を説明するのに、立てる仮定は必要最小限にすべきというものよ。さっき挙げたいくつもの『なぜ』に一つ一つ無理に辻褄を合わせて答えるよりも、この場合、もっと単純な説明ができるわ」

 ケイはいったん言葉を切り、もったいぶってから続けた。

「つまり、YBXの本来の習性である、すでにその生息環境に適応している生物の本能や習性、そしてより適応性を高めるための欲求――言い換えると『願望』を、そのまま体現せんとする形態的変貌および行動こそが、唯一にして単純そして明快な答えなのよ。つまり、私たちの中に殺人願望を抱いている人物がいるということ」

 僕が言おうとしたことなのにと思っていると、ケイは僕に絶対零度の一瞥をくれた。

「たいていの場合、非社会的だったり倫理に反する欲求は、根っからの狂人でもない限り理性によって心理の奥底に抑え込まれてしまうもの。そこをYBXは、その抑圧された深層心理の扉を開いてくれる。YBXが宿主をあらゆるしがらみから解放してくれるのよ――ある意味、素晴らしき互恵的共生関係といえるわ。ただ、いまのこの場合、やってることが殺人という犯罪だから、適応という点を鑑みれば、私がいまあなたたちを尋問したところでYBXに操られた犯人は決して自白したりはしないでしょうね」

「むむむん、むむむむんむむん! (それなら、なぜこんなことを!)」

 ケイは三角刀でえぐったような目をいっそう細めて微笑むと、食器棚から数枚の小皿を取り出してきてキッチンワゴンの上に並べた。

「いまからあなたたちに簡単な検査を受けてもらうわ。これはあなたたちが頼れる仲間かどうか判断するためなの――聞かれる前に、当然の疑問にお答えするわ。どうやって寄生されてるか否かをたしかめるのか――」

 ケイはポケットからカッターナイフと金魚の形をした醤油差しを取り出した。

「YBXはそもそもタンパク質の塊。タンパク質は熱や酸などに侵されたとき、不可逆的にその性質を変えてしまう――これをタンパク質の変性というのだけれど、身近な例を挙げれば、目玉焼きやヨーグルトを想像していただければいいわ。タマゴは火を通せば固まる。ヨーグルトは、乳酸菌が乳酸発酵した酸が乳成分であるタンパク質を固化したもの。そして、私たち人間も火であぶられればヤケドするし、酸でも皮膚がただれるわ」

 それを聞いて、ミカとヨシが暴れ出した。

「早合点しないで。そんなことはしないわ――でもそれに似たことはさせていただくけど」

 またミカとヨシが暴れ出した。ケイは「お黙り!」とヨシの頬を平手打ちした。

「どう? 痛かったかしら? 私たち人間には皮膚組織があって、それは熱や酸に侵されてヤケドやただれもするけど、同時に痛みという刺激を受けて即座に回避するといった反射行動を取らせたりするための末梢神経をも内包しているの。つまり、皮膚組織は、より内側の重要な組織を守る『防壁』の役目を果たしているのよ。個体としてのYBXも熱や酸が弱点だけれど、その防御方法というのは、私たちの皮膚組織のような『防壁』による防御という概念はなく、粘体の体内のあらゆるところで常に無尽蔵に産生し続けているタンパク質を、変性しかけている部位に集中的に送り込み、変性反応が止むまでタンパク質を供給し続け、全身に被害が及ばないようにするという単純な方法なの。高効率にタンパク質を生産・供給し続けられるがゆえの人海戦術的防衛システムなのね。それでタンパク質の供給が間に合えば、たとえば『ジョニー』ちゃんのようにクルーザーの爆発のようなことがあっても、生存に必要な部分に損傷を受けずに生き残れるし、一方で炎に包まれてしまってタンパク質の供給が追いつかなければ、全身が燃え尽きて死滅することになる。アタル君が考案したYBX掃討作戦、その名も『コードネーム:イオラオスの炎』はそれなりに理にかなっているのよ――でも、こうした防御方法は、タンパク質を産生するための素材が潤沢なフェイズ4のように、ある程度大型化している個体にのみ通用するもの」

 ケイは火の灯った燭台を手にし、目の前にかかげた。

「こんな小さな炎でも、タンパク質の産生・供給量が限られる顕微鏡サイズの場合だったら、粘体組織は瞬く間に固化して燃え尽きるか干からびるかして死んでしまうわ。そんな極小サイズのYBXが取る防御方法はいたって単純――」

 そう言いながらケイは、金魚の醤油差しのふたを取って小皿に透明な液体を垂らすと、燭台の炎を近づけた。すると、液体がピチャッとかすかに音を立てて皿の上ではじけた。

「おわかり?」

 ドヤ顔のケイ以外、僕らはきょとんとして顔を見合わせた。僕らの誰もが何が起きたのかわかっていないことにケイは数秒遅れて気付いたようだ。

「これは『アタル君』の体から取った組織なのよ!」

 ケイは液体を皿にすべて絞り出すと、ろうそくの炎に逃げ惑う液体を執拗に追い回した。

 途端にエリが猛然と怒りだし、椅子をガタガタさせてうめき声を上げた。

 僕は思い出した――数時間前、『アタル君』が泣きわめいたときだ。あのときケイは、YBXのフェイズ4そのものの『アタル君』から粘液をちぎりとったにちがいないのだ。

 狂ったように椅子をガタガタさせるエリを尻目に、ケイは今度は炎でカッターナイフの刃をあぶりはじめた。見ると、小皿にはもう黒い焦げつきしか残っていない。

「いまからあなたたちみんなの血をいただいて、順番に検査していくわ。もしも陽性――つまりYBXに寄生されてると判明したら、申し訳ないけど『対処』させてもらうわ」

 そう言ってケイは満タンの灯油タンクを自分の足下に引き寄せた。僕は口をテープで塞がれたままだったが、毅然とした目をして口をもごもごさせた――冷静に何か意味のあることを喋ろうとしているように思わせるためにだ。

 思惑通り、ケイは僕の口のテープを剥がしてくれた。

「君が寄生されていない保証はどこにあるんだ? そんなことじゃ誰も納得しないよ」

 だが、ケイは高らかにケラケラと笑うばかりだ。

「私がYBXに寄生されてる? そんなわけないじゃない! 私は誰よりも率先してヤツらを殺そうとしてるのよ。ヤツらにとって私こそが天敵なの!」

 それでも僕は食い下がった。

「君も自身の潔白を証明するんだ!」

 ケイは僕の口を手で塞いだ――テープでなく手でだ。そしてその手が離れるとき、気のせいか、ケイの指先が名残惜しそうに僕の唇をそっと撫でたような気がした。

 いったいいまのはなんなんだと戸惑っていると、ナツキが目配せをしてきた。どうやら気のせいではないのかもしれない。ナツキもケイの妙な挙動を目撃したようだった。ナツキは目で「押せ!」と言った――いや、「押し倒せ」か?

 僕は声を落として静かに言った。

「ケイ、聞いてくれ。僕は君のことを、たとえこんなことをしているいまでも信頼している。なぜなら君の行動の正当な理由が理解できたからだ――」

 ナツキは呆れて天を仰いだ――これじゃダメか? ええい、ままよ!

「ケイ、実は――僕は前から君のことが好きだったんだ!」

 そう叫んだ途端に騒ぐのをやめたエリが、いまいったいどんな目で僕を見ていることか! だけど僕はなおも続けた――なぜなら、ケイが興味を示したからだ。

「そう、あれは君の芝居をはじめて観たときからだよ。僕は君に一目で惚れてしまったんだ。だってそうだろ? 君ほど魅力的な女性はいないよ。どこをどう探したって君ほど素晴らしい女性はいない――僕は幸運だ。僕は君に出会うことができたんだ!」

 しかし、なんともまあよくもいけしゃあしゃあとこんなあからさまな嘘をつけるもんだ。こんな口から出任せを真に受ける女はいないし、ましてやケイのような聡明な女性が――おっと、どうやら効いてるみたいだ。ケイの頬が「ぽっ」と赤く染まりだした。ナツキは僕にさっきのと同じ目配せを送ってくる――「押し倒せ!」

「そんな、私、どうしたら――」

 ケイは火照った頬を手で押さえ、そして高鳴る胸を手で押さえて立ち尽くしている。いまだかつてない、戸惑いと恥じらいに囚われたような、それでいて甘えたような声音で何かを言いかけた。はじめて見るケイのそんな様子に僕は内心ぞっとしたが――僕だって「シトラス・セレナーデ」の主演「若山八作」――「清美」を捨てるプレイボーイだが「伊世」に出会って真実の愛に目覚める純真な男――という大役を仰せつかった僕に、こんなことなどわけないのである!

「ケイ、僕は君のことをずっと――」

 いざ本丸攻めというところで、ケイはいきなり僕の口にテープを貼り付けた――あろうことか、鼻もふさがれてる!

「あなた、こんなときにずいぶんとのんきね」

 さっきまでのケイはどこへやら、彼女は僕を笑った。ああ、大失敗だ! エリだけが僕の嘘くさい演技を真に受けて目を剥いて蔑んでいるし、ナツキは監督として僕の演技に失望しているし、ヨシとミカは笑いすぎていまにも重い猫足の椅子ごと床を転げ回りそうだ。誰も僕の呼吸がもはや破綻しかけていることを気に掛けてくれやしない! わずかに開いたテープの隙間から空気を吸い込もうとするたびにテープが弁のようになってぺたりと隙間を塞ぐし、そのくせ吐くときだけは弁が解放され、まるで真空ポンプのように僕の肺を空っぽにしようとする――僕は意識を失いかけ、もうダメだ、と全身をつっぱって椅子ごとひっくり返った――。


 どうやら僕はほんとうに意識を失っていたらしい。

 気付いたときには僕の椅子は起こされていて、口のテープは剥がされていた。僕の視界はまだぼんやりと暗幕が降りていたが、どうにか言葉だけは絞り出すことができた。

「もう一度言うよ――僕は君をずっと愛して――いや、ちがった――君こそ検査しなくちゃ――でなきゃ、みんな君を信じないよ――だからまず僕から――それから――」

 ケイは息も絶え絶えの僕を遮ると、面倒くさそうに「わかったわ」と言ってあしらった。

「やるだけ無駄でしょうけど」

 ケイはなんのためらいもなくさっさと人差し指の先をカッターで切り、小皿に血をボトボトと絞り出した。そしておもむろに燭台の炎を近づけた。

「だめだ! それだと、君がもしも陽性だったら、いったい誰が――」

 そのとき、皿の上でケイの血がバチバチバチバチとはじけ散った。


 激しく飛び散った血のほとんどを浴びたのはケイだったが、それも当然だろう。血は、主のもとへ帰ろうとしたのだ。

 しかし、目を見開いたケイの顔が真っ赤に染まったのは一瞬のことで、ほんのまばたき一つのうちに鮮血のどぎつい赤色は彼女の皮膚にしみこんでいった。

「ケイ、いったい誰が――」

 僕は言いかけてやめた。ケイ以外の誰もが身動き一つできない状況で、こんな愚問は口にするだけ無駄だろう――ケイ、いったい誰が君に『対処』するんだい?

 ケイは呆然としていた。YBXに寄生された自分の血を吸い込んだのも束の間、顔面は見る間に蒼白となり、それと同時に、これまで決して揺らぐことのなかった彼女の中の確固とした自信やプライドといったものが、いまや轟音を立てて崩れ去っていくのが聞こえてくるようだった。僕らには、ケイがなにもかもを諦めたことがはっきりとわかった。

 空虚に見開いたその三白眼の片隅からひとすじ、そして後を追うようにもうひとすじの涙が頬へと伝った――と思ったのだが、どうやらそれはちがった。

 涙だと思ったしずくは頬の真ん中で唐突にピタリと止まり、後を追いかけてきたしずくと合流して大きな玉になった。ケイはほとんど無意識に玉となったそのしずくをぬぐった。その途端、彼女の顔じゅうの毛穴という毛穴から汗が噴き出しはじめた。

 汗であるはずがなかった。噴き出した無数の玉のしずくたちは互いにつながり合って薄い膜となり、ケイを包み込み――そしてみるみるうちに皮膚を溶かしはじめた。

 YBXが産生するタンパク質分解酵素の絶え間ない供給速度とその速さゆえの分解反応速度は、アタル君の尻を数秒で赤剥けにしたときと同じように、ケイの色白美肌のすぐ下にあるどぎつい赤々とした皮下組織を露わにしていくと同時に、彼女のワンピースの服や下着をも見る間に水に濡れたトイレットペーパーのように溶かしていった。

 エリの怒りのこもったうめき声に、僕はハッと我に返った――いや、別に何かを期待して凝視していたわけじゃない。いや、でも、正直に言えば、ケイの持ちものに関しては誰もが期待して当然ではあるのだ。ほら、男性諸氏にならご理解いただけると思うが、顔さえ隠せばどうにかなるという場合だってまったくないわけではないだろう? ただ、その溶けつつある下着のその下にあるものがぞっとするほど赤剥けた皮下組織でしかないという現実に、僕ともあろう者が考え至るのがちょっと遅れてしまっただけなのだ。

 ところで、そういう現実に考え至ってみると、僕らが美しいと感じたり下心を抱いたりする対象となるものが実はほんの薄っぺらい上っ面の皮一枚だけなのだということに今更ながら気付かされる。僕のコイツもそれがよくわかっているようで、エリが怒り出すほどのことでもなく、もはや般若心経など必要なさそうだった。

 ヨシが縛られたまま重たい椅子ごとガタガタと跳ね回りだした。ミカとナツキも狂ったように暴れはじめた。だが残念なことに、この猫足の見事なアンティーク椅子はとても頑丈らしい。でなきゃ百年も保つまい。

 ケイは、もはやキャンバスの繊維が溶けきってしまって分厚いゴムの靴底しか残っていないコンバースを脱ぎ散らかしながら、一歩、また一歩と僕の方へと近づいてきた。露わになった胸のふくよかな膨らみだったものは、見るも無惨に僕の眼前で網の目状の乳腺や毛細血管を片端から破壊されていき、黄色いチーズのようにとろけた脂肪を赤々と染めていく。やがて、その流れ出る血もやはり酵素の餌食に遭って赤みが失せて溶けた脂肪と混ざり合い、ただひたすらぬらぬらと黄濁した粘液をぼたぼたとしたたらせるばかりだった。

 ケイは僕の目をじっと見据え、まだかろうじて形を残している口を動かした。ゴボゴボと音がした。僕の名を呼んだのだろう。だが、澄んでいて芯があり、舞台が広ければ広いほど力強さを倍増させるいつものケイの声は見る影もなかった。声帯も侵されつつあるためか、その声はかすれ、くぐもり、ほとんどうめき声でしかなかった。当の本人も自分の声の醜悪な変貌に驚き、悲しそうな顔をした――少なくとも僕にはそう見えた。「そう見えた」というのは、彼女のまぶたは数秒前に溶けきってしまって眼球が丸出しになっており、表情を作る筋肉だってどろどろに溶けてもはや機能していないのだ。

「ずっ――ずっと、すき、すきだっ――たの――あい、あい、してるわ」

 ケイは振り絞るようにして、ねばねばした泡を吐きながら言った。その目は(僕にはそう見えるのだ!)本気らしかった。

「やめて! 彼から離れなさい、このどブス!」

 どうにかして自分で口元のテープを剥がしたエリがヒステリックに金切り声を上げた。

「ね、ねえ――き、きす、して」

 ケイは懇願するような目をして僕に迫ってきた。ケイの顔の造作の中でかろうじて唯一魅力的といえた薄い唇は、いまや酵素のおかげで芸能人のように真っ白くなった歯を剥き出しにしてしまうほどに崩れてしまっている。どうやら歯茎も溶けつつあり、さらに一歩を踏み出したところで前歯と八重歯のいくつかが唇の名残となった肉片の隙間から落ちてぽとりぽとりと足下ではね、さらにもう一歩進んで僕に覆い被さってきたときには、ぽっかりと穴の開いた頬から奥歯がぼろぼろとこぼれてきて僕の顔にふりかかってきた。

 ケイの赤くただれた歯茎の隙間から、輪をかけて赤々とした舌が伸びてきて僕の唇をこじ開けようとする寸前、故意か偶然か(いや故意だろう)ケイのベトベトした手の指は冷静と情熱の狭間で迷子になっている僕のコイツの隠れ場所をまさぐっていて、それを察してとたんに元気になった僕のコイツは居所を突き止められてあわやあっちに連れて行かれそうになっていた。僕はたまらず叫んだ。

「ケイ、君は怪物に心を操られてまで、こんなことをしたいわけじゃないだろう?」

 ケイは(その手と絶妙な動きをする指先も)ピタリと止まり、意外そうな目をした。

「もし本当に僕のことを心から愛していたのなら、YBXに寄生されていた君はとっくに目的を叶えていたはずじゃないか? そのためのクスリだってあった。だが、君は真っ先にそうはしなかった。君は別の――真の願望を満たしたんだろう?」

 ケイが目を細めて(あくまで比喩表現だ)僕を見つめた。

「君は一人芝居を演じたかったんじゃないか? 君一人で二役――殺人犯でありながらそれを自ら解決に導く探偵を演じたかったんじゃないのか? それが君の真の願望だ」

 ケイの目にふっと影が差した――ように見えた。

「その理由がわかるのは僕だけだ。学園祭での君の自作自演の一人芝居『探偵』は、僕一人しか観客がいなかったからね。君は本当はもっと多くの観客にあの芝居を見てもらいたかったんだよね? あの素晴らしい、最高傑作の喜劇を――」

 刹那、ケイの剥き出しの眼球に憤然と燃え立つ怒りが宿った――ような気がした。

「きげき、じゃ、ない――あれは、ひげき、よ。しつ、れい、ね、あなた!」

 しまった――僕はてっきりあれはシュールなコメディだと――だってあの一分間の死体だけのシーン! あれはゼッタイ笑うところだって!

 そのときエリが、僕でも持ち上げられない重い猫足のアンティークチェアごとケイに体当たりした――エリは小学校の先生を志す華奢な女子に見えて、実は、高校性の頃は僕のいた野球部のマネージャー兼高校駅伝のマウンテン・ウィッチと呼ばれていただけでなく、なんと都合のいいことに、重量挙げのインターハイ出場選手でもあったのだ!

 どっと突き飛ばされて床に倒れ、そこらじゅうを蠢く粘液でべっとりにしたケイは、突然、身をもだえるようにしてあたりを引っかき回しながらのたうちまわりはじめた。

 僕らは片っ端から厨房をひっくり返すケイをどうにかよけながら縛めを解く手段を探した。ナイフがあればと考えたが、後ろ手に縛られた手でヘタに刃物を握って自分や誰かのテープを切ろうとすればテープと一緒に指も切り落としかねないと考え、僕的にはその案は却下した。映画や小説、マンガでよくやる手だけど、誰がこんな阿鼻叫喚の地獄絵図のさなかで冷静に手元あやまたず縛めだけを切断することができるというのか。あんなのはぜんぶ嘘っぱち、一事が万事ああだからフィクションはいつも半笑いでバカにされるのだ。

 そんなわけで僕らがただただむやみやたらと逃げ惑っているうちに、ケイの体は粘液の侵食が臓器にも及び、みるみるうちに姿形を小さくし、対照的に体積を増していく濁った粘液の中に霧散していった。同時に、骨格を溶かすための酸も産生されているらしく、剥き出しとなった骨の周囲で無数の濁った泡が立ち上って、体表からなにやら臭い立つガスを噴き出している。そして酸や酵素による分解を免れた、神経親和性タンパク質で厳重に保護された脳髄から脊髄、それらにつながる細かな末梢神経網のみが次第に露わになっていく。すると、それらを取り巻くようにして柔らかい光、鋭い閃光――いわば宿主由来の既存の神経網を統御せんとするための寄生体からの信号がまたたきはじめた。

 粘体はやがては、『アタル君』のときと同じように人型に姿形を変え、最後には体表になめらかな人肌のテクスチャーを投影し、見かけ上ケイそのものの姿になるのだろう。そして変態が完了すれば、おそらく次にケイが取る行動はといえばひとつきり――。

 ケイは――いや『ケイ』になりかけている粘体は、まだ半透明の濁った体から目もくらむような閃光を断続的に放った。あまりのまぶしさに、僕はもうそのまま光に食われるのかと思ったほどだ。だが、粘液の化け物はいきなり調理器具やがらくたの散乱した床に倒れ込み、ピクリとも動かなくなった。

 僕らは顔を見合わせた。そのとき、ケイが倒れたあたりでカチャリという音がした。

 ポンポンポンポーン♪

「ご宿泊のお客様にお知らせいたします。お食事のご用意がととのいましたので、皆様、一階食堂へお越しくださいませ。繰り返しお知らせいたします。お食事のご用意が――」

 木琴のディナーチャイムに続く「鱒」をBGMに、昭和レトロな女声のアナウンスがスピーカーから流れはじめた――ヨシが絶望のため息を漏らした。そう、「お食事」の時間だ。といっても、どうみても僕らのではない――もちろん『ケイ』のである。

 柔らかなフルートの旋律に呼応して、粘っこいしずくをしたたらせた『ケイ』が見事すぎる裸体(せっかくなのだからついでにどうにかすべき箇所があったはずだろうと僕は思うのだが、どうやら『ケイ』は親がくれたその顔で満足しているらしい)を優雅にくねらせながら立ち上がった。そしてまだ半透明のまぶたの奥から潤んだ目で僕らを見回した。

「ケイ、僕らは――いや少なくとも僕はまだ、君と友達だよな?」

 『ケイ』は、肉食獣の咆哮そのものの雄叫びで返答した。『ケイ』のせっかくの見事な乳房は真ん中から縦に亀裂が走り、頭のてっぺんまで裂けていくと、屈折率のおかしなキラキラ光る薄い膜を左右に広げて僕らに――いや、真っ直ぐ僕に向かって迫ってきた。

「ま、待て! 僕よりもっとこってりたっぷり食いでのあるヤツが――」

 そう言いかけて僕は、ケイがいつもヘルシーな食事を心がけていることを思い出した。鶏ももよりササミ、ササミならササミチーズカツよりバンバンジーという具合にだ。

 案の定、『ケイ』は食いでのありそうなのに背を向け、鶏ガラも同然の僕に向かって透明な薄い膜を四方八方に広げた。異常な屈折率をしたキラキラとしたクラゲの傘のような薄膜は、その向こうにある景色を何十、何百とだぶらせて映し出した――が、チワワの『ジョニー』に襲われたときはいっぱいの太陽がキラキラしていて思わず見とれてしまったものだが、いまはただ粘膜の向こう側で叫び狂うブタみたいに太ったヤツのヒドイ面ばかりが何十、何百と映し出されて僕はなんだかもう胸焼けがしてきてしかたなかった。

「だっ、だれっ、もっ――あた、あたしっ、をっ――みっ、みてっ、くれないっ――あな、たっ、だけはっ、ちがっ、とおもっ――てたっ、のにっ!」

 何十、何百ものブタ、もといヨシの狂乱の顔に囲まれた中心にあるリンゴ飴のリンゴ様の『ケイ』の脳髄と、女優魂ここにありと言わんばかりに雄弁な二つの目玉のあたりからわき起こった嘆きの咆哮が、僕の世界のすべてをぶるぶると震わせた。だが、その叫びを打ち消すほどの怒声が僕のすぐ横で上がった――僕の鼓膜をほとんど破る勢いで!

「黙れ、どブス! 恨むなら自分の親を恨め!」

 その声と同時に、『ケイ』の顔(といっても脳と目玉だけ)のど真ん中に、特大のフライパンが唸りをあげて見舞った。『ケイ』の頭が、脳と目玉だけでなく脊髄と糸のような無数の末梢神経の束を伴って粘液の塊からちぎれるようにして吹き飛んでいった。

 エリだった。エリが縛られていた椅子は、さっきの体当たりで『ケイ』もろとも床に転がったときに壊れ、そして手を縛っていたテープも(ああ、やっぱり手首のあたりがぞっとするほど血まみれ!)どこかで刃物を見つけてきてほどいたにちがいなかった。

 壁に当たって跳ね返ってきた『ケイ』の脳髄を、難しいイレギュラーなバウンドだったが、エリはバックハンドで見事に打ち返した。そう、エリは実は高校の頃、野球部のマネージャー兼マウンテン・ウィッチ兼重量挙げ選手であると同時に、硬式庭球部のエースだったのだ! それゆえ、イレギュラーなバウンドなどお手のものなのである!

 それはそうと、エリが自力で縛めから脱出したのをみならって、ヨシもナツキもミカも思い切り椅子ごと床に身を投げ出し、猫足のアンティークチェアの破壊を試みはじめた。

 僕自身にそういう鑑定眼があるというわけではないし、そういうのはどんなものでも骨董商に任せるべきなのだろうけれど、やはりこれら重厚な椅子は価値あるものではなかろうかと僕は思うのだ。思うに、このゲストハウスにあるこれらアンティークの家具は江戸時代以来この島を支配してきた島尻家が、明治時代の西洋文化流入以降、あるいはもっと以前、それこそ江戸時代の頃から収集してきた、もはや唯一無二の逸品である可能性もある。いま僕が触れているこの肘掛けのぬくもりのある手触り、堅くも柔らかな質感は、この百年、いや二百年、朽ちることはもちろんのこと少しの劣化もなく、むしろ熟成され、きっと奈津子さんの先祖が代々、丹念な手入れを施してきたにちがいないのだ。この程度の良さからすると、きっと目を剥くほどの歴史的価値があることはまちがいないだろう。値を付けるとしたらゼロがいったいいくつ並ぶことだろうか。一、十、百、千、万、十万、百万――それなのにコイツらときたら、何の躊躇もなく木っ端みじんにしていきやがるじゃないか!

 僕の目の前に猫の足の先を模した椅子の脚が転がっていて、よくよく考えてみればただ木材から彫りだした造形物だというのに、僕にはなぜかそれが妙に痛々しげに思え、人の尻の重みを支えるためだけに費やしてきたその長い歳月もついに終焉を迎えるのだと思うと、猫足よ、お前はいま命尽きるのだろうが、新たに生まれ変われるとしたら今度こそ椅子の脚などではなく本当の猫の足になるのだぞとエールを送りたくなってもくる。

「なにボンヤリしてんだよ! さっさと椅子をぶっ壊して――おっと危ない!」

 ナツキは、僕が語りかけていたまさにその猫足を乱暴にひっつかむと、襲いかかってきた『ケイ』の脳髄を見事にバシリとはたき落とした――猫足よ、お前も本望だろう!

「おい、見ろよ――」

 ヨシが指さした先で『ケイ』の脳髄と脊髄以下末梢神経は、カタツムリのごとく波打つ粘液の上にのってヨタヨタと運ばれていくところだった。それは僕らが見ている前で調理台に這い上り、シンクの中へと這いずっていった。ヨシが叫んだ。

「排水溝から逃げるつもりだぞ!」

「いや、あそこは――」

 僕が言い終わらないうちに、エリが気付いてシンクに駆け寄った。僕はいつまでもひとりだけ身動きできないでいるわけにはいかなかった。いまこそ、僕にはやらねばならないことが――いや、言わねばならないセリフがある!

 僕は椅子ごと思い切り飛び上がって、床にひっくり返った。

 だが、椅子は後ろの脚が二本折れただけで、僕は後ろに中途半端にでんぐり返ったまま重い椅子にのしかかられ、視界のほとんどが自分の股間でいっぱいになるというどうにも情けない格好で身動き一つできなくなってしまった。その間に、エリはシンクに食器を片っ端から投げ込んで『ケイ』を排水溝へと追い込んだ――びっしりと繊細な装飾が施された陶磁器の数々もどれも年代物で値打ちがあるはずだが、もはやなにも言うまい。

 エリはシンクを食器の破片で埋め尽くすと振り返り、あられもない格好でいる僕――を無視して、僕以外の誰かに向かって叫んだ。

「いまよ! スイッチを入れて!」

 ヨシがすぐにその意を察してシンクの脇にあるボタンに飛びついた――が、ふと手を止め、顔を上げた。いわずもがな、したり顔だ。そして、ヨシは言った――もちろんオーストリア訛りの未来の殺人マシーン風スペイン語でだ。

「アスタラビスタ・ベイベ」

 ああ、やられた! とっておきの決めぜりふを端役ごときに奪われるなんて!

 ヨシは絶妙な間をおいて――そして『ケイ』は、ただの排水溝ならぬ「ディスポーザー」の底で、きっと驚きで目を剥いていることだろう――スイッチを入れた。

 骨をも砕く堅牢な破砕刃をそなえたディスポーザーがモーター音を轟かせはじめた。といっても三秒ほどベチャベチャと音がしていただけで、すぐに空回りだけとなったが。

 『ケイ』の断末魔は聞こえてこなかった。ヨシはヒュウと口笛を吹いた。

「V大が誇る才女も、案外、骨のないヤツだったな」

「ヤベェ、それマジ三周回ってチョーウケる!」

 ミカがケラケラと笑いだした――それでも三秒の時差があったことは言うまでもない。

「それにしてもまさかあのケイがな――」

 まだ呆然としているナツキのつぶやきに、一方でまだ興奮冷めやらずといったヨシがやたらハイテンションでまくし立てた。

「あの『ツンデレ』の『デレ』のない『ツン』オンリーのおケイ殿がな! いやいや、貴兄も隅には置けませんなァ! グッフフ」

「やめて! 愛を茶化さないで!」

 唐突にエリが叫んだ。その頬には幾重にも涙の筋が光っていた。

「あなたみたいなブ――野蛮な人には人を愛する気持ちなんてわからないのよ! なによ、さっきの決めぜりふ? これって面白がること? あなたは人を――それも私たちの仲間を笑って殺したのよ! ほんっとサイテーね!」

 エリはケダモノを見るような蔑んだ目でヨシをにらむと、汚いものをみてしまったとばかりにさっと顔を背けた。ヨシはといえば、かわいそうに、いまにも泣き出しそうだ。エリに否定されたことよりも、エリがつい口走りかけた「ブ」ではじまる言葉に傷ついているにちがいない。まさかケイだけでなくエリにまで家畜扱いされるとは、ナント哀れなヤツ! しょせん、君は脇役なのだ。脇役にはあの決めぜりふは似合わないのだよ!

 さて――僕はといえば、相変わらずでんぐり返りそこねた格好のままだ。内心では、三角関係未遂に片が付いてホッとしてもいた。僕は一度に二人もの女性を愛せるほど器用ではないし、二人のうちどちらを取るかと問われても、僕は胸を張って、人は中身に決まってると答えるだろう――無論、心の中身か服の中身かはそのときどきの状況にもよるが。

 エリは涙を拭くと、僕の縛めを丁寧にほどいて助け起こしてくれた。

「私にはわかるの、ケイさんの気持ち。だって同じ人を好きだったんだもん。いまならこう思える――正々堂々勝負してもよかったなって。でも私、あの人にはゼッタイ負けない」

 そのとき、シンクの底――ディスポーザーがボコボコと音を立てた。僕らはびっくりして一斉に振り返ったが、そんななか、誰より早くディスポーザーのスイッチに飛びついてボタンを――僕は見た、その残忍な目を――押したのはエリだった。

「あんた、もう成仏したほうがいいと思うよ」

「アーメン――一応な」

 ヨシがしんみりとつぶやき、ナツキが十字を切った。僕もどこか感傷的になっていた。

 ケイはとんでもない最期を迎えてしまったが、それでもこれまでの思い出を振り返ると、僕らはかけがえのないものを失ったにちがいないのだ。誤解や批判を恐れずに言うが、ケイは「ど」が付くほどの不器量ではあった。だが、怪物と化して好きなように容姿を変えることができたのにそれをしなかったということは、自分の顔の造作を少しも恥じてはいなかったということなのだ。そんなケイという存在は、思い返してみれば、崇高な神々しささえあったと僕は思う。女優としての彼女は唯一無二だと僕はいまでも確信しているし、それに、演じる以外の才覚もたぐいまれなものを備える女性だったのだ。

 それよりなにより、男性諸氏ならご理解いただけると思うが、顔や才覚など実はどうでもよくて、何にもまして、あの見惚れるほどのナイスなおっぱ――。

 いきなり建物すべてを揺るがすような音量のサイレンが鳴り響きはじめた――いや、サイレンではない、それはびりびりと耳をつんざく絶望的な恐怖の金切り声と、僕らの腹の臓物を引っかき回す低く重い怒号がおりまざった獣の咆哮そのものだった。エリが叫んだ。

「上の階――『あの子』だわ!」

 背筋が凍った。『アタル君』が見つけたのだ――奈津子さんの変わり果てた姿を!

 僕らは一斉に厨房を飛び出した――首根っこをつかんで地面へと押しつぶそうとしてくる圧倒的な咆哮に一足ごとに押し戻されそうになりながら、僕らはあえぐようにして二階の奈津子さんの部屋へ這い上っていった。

 しかし、やはり遅かった。『アタル君』が奈津子さんを発見してしまっただけでは済まなくなっていた――館の外のどこかすぐ近くから、また別の獰猛な雄叫びが上がったのだ。

 二階のどこかのガラス窓が砕けた。外の雄叫びはいまや館の中から発され、鋭く短く、断続的に上がった――『アタル君』を呼んでいるにちがいなかった。

 僕らが階段を上がりきると、絨毯敷きの廊下の突き当たりで雷光にきらめく雨粒を浴びたずぶ濡れの『男』の姿があった――予想していたとおり、『男』は人間ではなかった。

 ほとんど人間の男性の姿形をしているが、その体表ではキラキラと発光する半透明の粘液が蠢いていて、その頭部の真ん中で、二つの目玉がぎょろりと動いて僕を射抜いた。

 その『男』と僕のちょうど真ん中あたり――奈津子さんの部屋の前で呆然と突っ立っている『アタル君』は、自らの叫び声から生じる衝撃波で体表を千々に乱れさせていた。

 そのとき、エリは『アタル君』に駆け寄って胸に抱き寄せた。

「エリ、離れるんだ!」

 その間にも『アタル君』はどんどんユルユルになってエリを飲み込んでいく。消化こそされていないが、それも時間の問題だろう。僕らの誰かが奈津子さんを殺したのだと、『アタル君』が僕らを敵視すれば、いくらガリガリペッタンコで食いでのない――もとい、『アタル君』のことを弟のように愛してやまないエリとはいえ、ヤツらのエサにされない保証はない。僕は一か八か水まんじゅうと化した『アタル君』の体に手を突っ込んでエリから引きはがそうとした。しかし、その粘液が水まんじゅうだと思い込んでいたのは間違いだった。それは――ええと、つまり「潤滑ゼリー」そのものだ。

 大抵の年頃過ぎた男女なら誰でも知っているだろうし、使ったことのある方もいるだろう。人によってはそのときの必需品という方もいるだろうから、別に例えとして間違いでもなんでもないはずだ。こんなギリギリの例えを持ち出して結局何が言いたいかというと、そのときはあると良いモノだけど、そのときでもないのにただただヌルヌルしてるせいでエリの体にまとわりつくその粘液をこそげとろうとしたら僕のコイツがどうにかなってしまうためにとっても厄介だといいたいわけだ。僕は必死に般若心経を唱えて僕のコイツに僕自身の理性を投影させようとしながら、エリの体じゅうにべったりとまとわりつく粘液をすくっては床にベチャリベチャリと叩きつけていると、ふと思い当たることがあった。

 はて、あの『男』どこかで見たことがある――。

 体表面では皮膚を模して濁ったり、湧き出てくる新しい粘液のために半透明になったりをそこかしこで忙しなくしているのだが、顔だけは人間の顔の形を保ち続けている。どこで見たのか思い出せないが、たしかに最近どこかで会ったことがある気がする。

 『男』は訝るように、一歩、また一歩と僕らの方へ近づいてきて、奈津子さんの部屋の前で立ち止まった――開いたドアのすぐそこには奈津子さんの遺体があるのだ。

 『男』はいまにも泣き出しそうに顔を歪ませると、奈津子さんの亡骸を胸に抱きしめた。やがて奈津子さんは『男』の胸に埋もれるようにして消えてなくなった。『男』はその目に敵意を剥き出しにして僕らに向き直った――このとき、僕はこの『男』こそ『大輔さん』なのだと確信した。

「奈津子さんを殺した犯人は、僕らの手で殺しました。だけど悪いのはその犯人じゃない。すべて地球外生命体の寄生虫みたいなヤツのせいなんです――わかってもらえますか?」

 僕は懸命に問いかけた。『大輔さん』さんならわかってくれると信じてだ。

 『アタル君』は僕らの敵とはならなかった。彼はモンスターと化してもただただ奈津子さんを慕い続けていた。この『大輔さん』さんも、愛する奈津子さんを想い、そして義理の弟の『アタル君』を思いやるあまり、こうしてここに迎えに来ているだけなのだ。

 その『大輔さん』がひとつうめき声をあげると、エリと僕にまとわりついていた粘液がドロリと剥がれ落ちて床に散らばった粘液と集合しはじめ、やがて一つの塊になって再び『アタル君』の姿を形作りはじめた。『大輔さん』さんはその『アタル君』を抱き上げると二人は一つに溶け合い、そしてきびすを返して破れた窓から飛び出していった。

「行かないで! お願い!」

「エリ、いいんだ。彼は行かせるべきなんだ。僕らが立ち入る問題じゃない」

 僕はエリを引き留めた。だがエリはキッと僕をにらみ上げると、エリはいきなり下の階へと駆け下りていった。僕は慌てて追いすがった。

「エリ! どこへ行こうっていうんだ!」

「決まってるでしょ! 追いかけるのよ! 『あの子』はあたしが守るの!」

 そしてエリは、僕が止めるのも聞かずに玄関のドアを開け放って駆けだしていった。

「行かせりゃいいじゃん。自己責任ってことでさ」

 ミカがのんびり言うと、ヨシがうめいた。

「一人減り、また一人減り――ああ、俺たちはすぐに全滅だァ」

「そうはさせない――僕らはみんなで生きて帰るんだ!」

 キリッと毅然とキッパリとキメキメに宣言すると、僕は勇んでエリの後を追った。


 チャプター4 「コードネーム:イオラオスの炎」大作戦!(笑)


 土砂降りのスコールに一メートル先もかすむ視界の中、断続的な稲光にぎらりと照らされたぬかるみは、点々と続く小さな靴の跡を黒々と浮かび上がらせていた。

 エリの足跡は研究所へではなく、ゲストハウスに隣接したマンション風の職員宿舎の方へ向かっていた。いまは亡き奈津子さんによれば、そこにはアタル君が「コードネーム:イオラオスの炎」作戦のために蓄えた武器があるという――はたしてエリは、武器という武器を華奢な体のそこかしこにひっさげて宿舎から飛び出してきた。

 その出で立ちといったら、二メートル半はあろうかという鉄パイプの槍を二本も肩に担ぎ、片手には避暑地の殺人鬼もびっくりの巨大な肉切り包丁をひっさげ、腰に回したごつい軍用ベルトの両腰にはマチェットとハチェットをぶちこみ、さらにはスケール感がおかしいとしかいいようのない巨大な鞘に収められたランボーナイフをもぶら下げている。

 それだけではない。両肩から斜めにたすき掛けにした左右二つの肩掛け鞄には、一升瓶のとりわけ大きな火炎瓶が五本ずつ突っ込んである。さすが野球部のマネージャーにして重量挙げ選手にしてマウンテン・ウィッチにしてテニス部の――それはともかく、エリはそんな超重装備でもあの割り箸のようなか細い脚で仁王立ちし、眼光鋭くして撃ちてし止まん、狩ってくるぞと勇ましくその第一歩を――いや、玄関を出たところの深いぬかるみにどっぷりはまって一歩も動けなくなってしまったようだ。

「止めないでよ! やめてったら!」

 僕らは暴れるエリを泥の中から引っこ抜くと、出てきたばかりの宿舎に押し込んだ。

「おい――そいつはいったいなんなんだ?」

 ナツキがはたと気付いて、エリの腹のあたりを指さした。見ると、エリはいつのまにかブラウスの下にラクダ色の腹巻きを着ている。その腹巻きの横一列に並んだ細長いポケットには、なにか茶色い筒のようなモノが十本くらい挿さっている――いわずもがな、ダイナマイトだ。

「ナニかニオうと思ったら、腹マイトかよ!」

「昭和の香りかよ?!」

 ナツキとミカが悲鳴を上げて飛び退いた。エリは片手に導火線の先端を――気の早いことにもう片手にはライターを握りしめ、目を血走らせてチャッチャッと石を擦っている。

「こ、これで『あたしの子』をさらったヤツを、こ、木っ端みじんにしてやるんだから」

「何をバカなことを! そんなことしたら君まで吹っ飛ぶじゃないか」

「いいの! あたしはどうなっても!」

 ヨシが僕の背後に隠れながら、エリの腹のダイナマイトに目をこらして言った。

「それ、濡れてるのは雨のせいか? それともナニかニトロ的なモノがにじみ出てきちゃったりしてるんじゃないのか?」

 と、瞬く間にミカとナツキとヨシの姿が見えなくなった。

「――エリ、そっとだ、そっとそいつを脱ぐんだ、ほら、いい子だから――」

 僕はエリのブラウスを――普段は滅多にさせてくれないことだが、たまにさせてくれるとき以上の慎重さでそっと脱がしていった。

 どうにかブラウスを脱がし、エリをキャミソール一枚と腹巻き姿にしてはみたが、十数本のダイナマイトは導火線が複雑に絡まっていて、一本ずつでも全部まとめてでも腹巻きから抜き取るのは不可能で、どうやら腹巻きごと脱がすしかないようだった。

 エリは、ぶすっとしながらもしぶしぶ幼児のようにバンザイをした。

 僕はエリの脇の下で腹巻きの端をつまみ、ゆっくりとずり上げていった。このときほどエリが貧――平均を下回る胸囲であってよかったと思ったことはない。いや、他意はない。僕はいまのエリのスタイルに不満を抱いたことは――――――――一度だってない。

 腹巻きは、ダイナマイトの筒の固いところをのぞけば、エリの細い体にぴったり沿うようにして脱げていった。その固い筒がエリの小さな二つの丘と、丘の上の豆粒のような突起物を乗り越えるときだけちょっとひっかかってゾクゾクっと――いや、ゾッとするほどヒヤヒヤしたが、どうにかそこをクリアするとあとはスルリと脱がすことができた。

「エリ! 僕は常々あれほどちゃんと――」

「だってラクなんだもん!」

「もう子どもじゃないんだから! 男ってのはいつだっていやらしい目で――」

 僕はむくれるエリのキャミソールの胸にブラウスを押しつけ、急いで着させた。

 脱がせた腹マイトをおそるおそる調べたところ、濡れているのは腹巻きだけで、爆薬そのものはどれも乾いているようだった。

 こいつは使える。

 怪物の大口に「Eat THIS!」と決めセリフとともに爆薬を放り込んで木っ端みじんに吹き飛ばすシーンは、もやモンスター映画の定番中の定番だ――定番すぎて見飽きてるくらいだが。

「みんな出てこいよ。もう安全だから」

「俺は知ってるんだからな、こういうパターンを!」

 ヨシだけはまだ柱の陰でわめいている。

 映画だと、クライマックスの前に爆薬の威力を試す機会があるのはお決まりだ。ヨシが危惧するとおり、そのお試しのためにときたま脇役が犠牲を払うことが多々ある。無論、そんな事態は極力避けるつもりだ。とはいえ、勝利はいつだってある程度の犠牲の上に成り立つものではないだろうか。さらにいえば、勝利の価値というものは、払った犠牲のほどに比例してよりいっそう高まるものなのだ。

 ひとつ言えることは、僕らは最終決戦兵器――ダイナマイトを手に入れたのだ。これを勝利の方程式への第一歩と言わずしてなんと言おう?

「エリ、僕らも一緒に行く。僕らは仲間なんだから――なあ、みんな?」

「ていうかさァ、あたしたちィ、そのコのわがまま勝手に付き合う義理あるのぉ?」

「いいの! あたし一人で行くんだから!」

 わめき散らして再び腹巻きを頭からかぶろうとするエリを、僕はどうにか押しとどめた。

「一緒にいなくちゃダメだ。ヨシがさっき言ってた。バラバラになれば結局全滅だって」

「一緒にいたってダイナマイトでバラバラだってば!」柱の陰からヨシが狂ったように叫んだ。「そもそも怪物だらけの研究所に飛び込んでく必要なんてあるのかよ!」

「船の鍵も衛星電話も研究所にしかないんだ。いずれにせよ僕らは研究所へ行くしかない」

「ていうか、泳いで帰ればよくない? あたし水泳得意だし。チョーヨユーッスヨ」

「あんたたちの手なんか借りない! あたしが一人で――」

「いいからみんな、僕の話を聞け!」僕は一喝した。「さっきまではみんな『イオラオスの炎』作戦に賛成してたじゃないか? 研究所に行く気満々だっただろう!」

「そういうあんたは、その女と一緒になって反対してたけどね」

 ミカが皮肉った。僕はしどろもどろになった。

「そりゃ、事情が変わることもあるさ。頼りになる戦力も減っちゃったし――いや、だからこそ僕らは一致団結しなきゃ! 待ってたって誰も助けに来てくれないんだぞ!」

 僕がそう言いきると、みんなはようやく押し黙った。

「どうしてアタル君は一ヶ月も孤独に戦っていたんだと思う? 奈津子さんはどうしてこの島から脱出できなかったんだと思う? 誰もこの島にやってこないからだよ。この島は完全に孤立してしまってるんだ。それに、研究所の人たちがみんな怪物になってしまったせいで、本土に無線や電話で救助を求める者もいない。船も無線も電話もない僕らは、誰も頼れない状況にあるんだ。僕らは自力で脱出しなくちゃならないんだよ。

 考えてみてくれ。僕らはアタル君にあの怪物の倒し方を教えてもらった。現に一匹――そう言っちゃケイちゃんには申し訳ないけど――僕らはすでに怪物を倒してるんだ。こう言ってもいいだろう――いまこの地球上で、僕らだけがあの怪物に打ち勝つ知識と力を持っているんだとね。そうだとも、僕らだけがあの怪物を倒すことができるんだ! それとも、あの怪物どもを、この地球上に、この僕たちの母なる大地に解き放っていいとでもいうのか? 僕らの地球は瞬く間にヤツらに侵略されるぞ!」

「ダメ! そんなの絶対ダメ! でも『あの子』だけは――フガフガ」

 僕は手を突き出してエリの口を塞ぎ、その先を言わせなかった。『アタル君』だけは怪物とは別だと言いたいのだろうが、僕に言わせれば『アタル君』も駆逐すべき怪物だ――いや、この際、彼の名前はうまく利用できるかもしれない。僕はエリにグッと力強くうなずいてみせ、そしてみんな一人一人の目を見つめながら、ゆっくりと順々に見回した。

「アタル君も同じ思いだった――いや、それ以上だ! 彼は、奈津子さんとたった二人で研究所に乗り込もうとしていたんだ。これほどの武器をそろえて、たった二人で怪物たちに立ち向かおうとしてたんだ! なぜか? 僕らの地球を守るためにだ! ほんの小さな男の子と、か弱い女性の二人きりで成し遂げようとしたことが、どうしてこの僕らにできない? そんなはずがないじゃないか! 僕らが力を合わせれば何だってできるんだ!」

 みんなはじっと黙り込んでいた。それぞれが自分の胸に問いかけているのかもしれない。

 いいぞ――いい雰囲気になってきた。ここにきてようやく僕という存在の真価が発揮されてきたわけだ。鉄は熱いうちに打て、だ――僕は突きだした拳をグッと握りしめた。

「いまの僕らには、とてつもなく崇高な使命がある。それは――」

 僕はたっぷり間を置いてから続け――。

「やっぱ、クルーザーの鍵――じゃね?」

 ナツキが言った。ヨシも追随する。

「無線か衛星電話でSOSを出すってのもアリだしな」

 エリが鉄パイプの槍をつかんで立ち上がった。

「私は『あの子』を助け出すために行く。これは私の闘い。一人でも行くわ」

 いやエリ、そこは協調性! きょーちょーせい! これは僕らみんなの――。

「しゃあねぇ、ちゃちゃっと三こすりくらいで済ませちまって、とっとと帰ろーぜ!」

 ミカが軽々しく脳天気に言うと、勝手に音頭をとりはじめた。

「よっしゃ、男はキ**マ、女は***をキュッと引き締めて、景気よく一本締めといきますか! さあ、みなさん、お手を拝借! イヨーォッ!」

 ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱんぱん!

 ――ぶちこわしだ。僕の見せ場、ぜーんぶぶちこわしだ。


 みんなはどういうわけか「イオラオスの炎」作戦の陣頭指揮を僕に執らせることに決めたらしく、部屋の隅で膝を抱えていた僕は、噛む爪もなくなったところだし、その提案を快く受け入れることにした。

 僕らはゲストハウスからロココ調のアンティークなキッチンワゴンとワインラックを失敬してくると、ダクトテープ(これがあればなんでも作れる!)を駆使して火炎瓶運搬用台車を二台作った。一台につき火炎瓶を二十本、つまり二台で計四十本の火炎瓶を運ぶことができる。さらに、宿舎からかき集めた六つの肩掛け鞄にそれぞれ五本ずつ火炎瓶を詰め込んで、僕とヨシとナツキで二つずつ肩に提げることにした。これで火炎瓶は合計七十本。研究所にどれほどの怪物が潜んでいるかわからないが、これで少なくとも七十体は倒すことができるだろう。もちろん、延焼を防ぐために消火器も四本用意した。

 僕らは議論し、体表を自在に硬化させられるはずの『ジョニー』が落とし穴の竹槍に体を貫かれていたことから、槍による刺突は体表を破って脳髄に達することができるだろうという結論を導いた。アタル君もそれを見込んでこの鉄パイプの槍を準備したのだろう。

 それを踏まえると「コードネーム:イオラオスの炎」作戦はこうなる――「ヘラクレス」が槍で怪物の急所すなわち粘体に包まれた脳髄部分を狙い澄ました槍の一突きで貫き、ひるんだところへ「イオラオス」が着火した火炎瓶を投擲して火だるまにして粘液を燃やし尽くし、頃合いを見て消化器を適時撒いて燃え広がらないようにする。

 効率を考えて二班に分かれ、それぞれに鉄パイプの槍担当、火炎瓶担当、消火器担当を決めた。第一班はエリと僕で、エリは言わずもがな野球部のマネージャーにして重量挙げ選手でテニス部のエースでマウンテン・ウィッチで、実は近所の薙刀教室の師範代だということで「ヘラクレス」役に任命し、指揮官の僕が「イオラオス」となり火炎瓶と消火器の二人分の役割を担う。第二班はもっとも好戦的なミカが「ヘラクレス」、ナツキは助っ人の「イオラオス」、そしてヨシは――役名なしの消火器担当だ。

 丸めた布団を相手に模擬戦闘訓練を何度も繰り返しながら、僕はみんなに檄を飛ばした。

「いいぞ、みんな! 僕らはやれる! 自信を持とう!」

「誰が口を開けと言った、この短小****ど腐れ***のマザーファ*カー! お前が口を開けるときは隣のブタの粗**をフェ***するときだけだ! いまのお前は黙って目の前にいる、余った皮の皺にこびりついたザー*ンの**カスどもを殺せばいいんだ!」

 はじめのうちは慣れない僕らだったが、訓練を重ねるうちに気分がノってきたミカがハートマン軍曹ばりの卑猥な罵詈雑言でみんなを(あろうことか指揮官の僕にも!)叱咤激励しはじめると、僕らは次第に何者も恐れぬ殺戮マシーンへと変貌していった。

 一訓練生からようやく指揮官への復帰の許可が下りて、僕はみんなに模擬戦闘訓練オールAの評定を下すと、僕らは装備を表に停めてあるランドローバーに積みこみはじめた。

「ハヤト、研究所に詰めてる連中ってよ、女もいるよな?」

 ナツキが声を潜めて僕に耳打ちしてきた。何のことかと訝っているとナツキは言った。

「オレの持論なんだけどよ、女ってのはいつだって潜在的にめくるめくようなセックスを求めてる生きモンなんだ。それがよ、あの寄生虫に取り憑かれるとアレだろ、本能の赴くままにってコト、なんじゃね? だってほら、あの『ケイ』だってそうだったじゃん。つまり、俺が言いたいのは――女の怪物が『迫って』きたら、お前どうするよ?」

「どうするって――」

 僕の脳には、ただただ鬼教官に刷り込まれた「鏖」の一文字しか思い浮かばない。

「オレはな――宇宙人とハメ撮りする、世界で最初の人類になるんだ」

 そう言ってナツキは、プロ仕様のヨシの一眼レフを構えながら、卑猥に腰を振ってみせた。死に際をどう生きるかくらいは本人の自由だ。僕は「それでこそ君だ」と答えた。

 一方でヨシは、ちょっと気の毒なくらい浮かない顔をしていた。

「みんなで固まって戦うったってさ、結局バラバラになっちまうもんなんだよな。それがお決まりだろ? そうなったら一番食いでのある俺が置いてけぼりにされて、真っ先にヤツらのエサになるんだ――もうわかりきってるんだよ、このテのパターンは」

「僕らは全員で一つのチームだ。誰も欠けさせないよ――いい物を持ってきた。ほら」

 そう言って僕はヨシにトランシーバーを差し出した。

「後方支援の君が持っているべきだ」

 よかれと思ったのだが、ヨシはあからさまに嫌そうな顔をした。

「トランシーバーなんてものはな、肝心なときにピーピーガーガーって通信不能になるためにある小道具なんだって」

「一度連絡が途絶えても、いよいよ最後ってときにはまた繋がって一緒に脱出するってパターンだってないことはないだろ?」

 ヨシは気の進まない顔をしながらも「まあな」と言ってトランシーバーを受け取った。

「ところでさ、誰がこの車を運転するの?」

 ミカの指摘に僕ははっとした。

「あたしは性格上向いてないって、ウチの親に車の運転は禁止されてんだ」

 僕が平静を装って運転席をのぞくと、はたしてペダルが三つ、無骨なシフトレバーのマニュアル車だった。そういえば、車体が錆びてたりしてだいぶくたびれていたから古い型なのかなとは案じていたのだ。うろたえる僕をミカがキャハハと嘲笑った。

「まさかキミ、オートマ限定? ダッセー! オトコのくせに!」

「そ、それは、悪しき固定観念であって――そ、それに、いまどきの車はみんなオートマチックばかりだし――そ、そうだ、ナツキだってオートマ限定だろ?」

「オレ? オレは免許なんて持ってねーよ。だってクルマなんていらねーじゃん? ウチのじいやがどこでも連れてってくれるじゃん?」

 そうなのだ。実はナツキはかなり裕福な家庭で育っていて、思えばたしかにナツキが電車やバスに乗っているところを見たことがない。

「ごめんなさい、実は私も免許持ってないの」

 エリは恥ずかしそうにうつむいた。エリの悲惨な境遇を知っているのは僕だけだ。彼女は利子付きの奨学金を借り受けながら大学に通い、毎月、雀の涙ほどのピザ屋のバイト代からアルコール依存症の母親に仕送りをしてやっているのだ。

 ヨシは得意満面――いや、それを通り越してゲスな笑みを浮かべていた。

「ランドローバー・ディフェンダー、三・五リッターV8、一三四馬力、五速マニュアルトランスミッション。二インチアップのリフトアップ仕様で、ウインチも装備されているね――ちょっとレトロだけど、まさに男の中の男が乗るクルマだね、コイツは」 


「もう一度確認だけど――」

 ドロドロにぬかるむ火山灰土と赤茶けた轍の水たまり、そして壁のごとくそそり立つ異様に背の高い熊笹の藪をランドローバーのヘッドライトが照らしだし、さっと薙いではまた闇に消えていく――そんな単調な景色が続く中、車内は異様な雰囲気が漂っていた。

 その重苦しい空気を醸し出すのは、無論、後部座席から身を乗り出しているナツキとミカのらんらんと光る目に他ならない。ミラーに映るその四つの目にビクつきながらヨシは助手席の僕に訊ねた。

「研究所に着いたら、隠密行動で鍵か無線機か衛星電話を探すんだよね?」

「ああ。騒ぎが大きくなってからだと、悠長に探索なんかできないかもしれないからね」

「もし案外あっけなく見つかったら、即撤収だよね?」

「殲滅よ――『あの子』を助けるのよ。誰にも邪魔させない」

 エリが即座に口を挟んだ。その目は、ミカとナツキとはちがった種類の殺気を宿している。ヨシと僕は目を見合わると、エリはそっとしておくのがいいとうなずきあった。

「――それが終わったらだけど、この車で、島の反対側の波止場に向かうんだよね?」

「そうだ」

「ボクの運転で?」

「もちろん。この車はマニュアル車だから、君しか運転できない」

「となるとさ――ボク、さっきも言ったかもしれないけど――」

「キョドんなよ。わかってるって。お前のことはオレが守ってやるよ」

 ナツキが感情のこもっていない声音で言った。ナツキとミカはまばたき一つせずにヨシの運転の一挙手一投足を凝視している。

「うん――みんな頼むよ」

 ヨシはミラー越しに懇願した――とはいうものの、それがごくごく期待薄であることを彼は覚悟していることだろう。

 あの一言だ。あれがよくなかったのだ。

 車を運転できるのが自分一人だけだとわかると、ヨシは唐突にこうのたまったのだ。

「おマエら、わかってるだろうな? オレが死んだらおマエらは脱出できずにアイツらの餌食だからな。おマエらが生きるか死ぬかはこのオレにかかってるんだからな。全員、心してオレを守れよな」

 騒然となったその場は有能な指揮官である僕の説得――「僕らはチームだ!」――によって丸く収めることができたが、以来僕らの鉄の結束は錆びつき、腐食のほどはなはだしい。

「ミカちゃん、乗り心地はどう? デコボコ道だからちょっと揺れちゃうけど、ボク、これでもがんばって丁寧に運転してるんだよ」

 ヨシが気遣って、バックミラーの光る目に言った。そのうちの一対の光る目が答えた。

「わかってるよ。さっきからずっとあんたがどうやって運転してるか見てるんだから――あんたがいなくてもあたしが自分で運転できるようにね」

「オレはもうだいたい憶えたぜ。グラセフとあんまし変わんねえのな」

 ナツキが悪魔的にケケケと低く笑うと、ヨシは泣き出しそうな目を僕に向けた――実は、僕は僕でさっきから、ひそかにクラッチとギアチェンジのタイミングのコツを会得しようと目を皿にしてヨシの運転を注視しているのだ。

「なんとか言ってやってくれよォ」

「ああ、ええと――僕たちはお互いに助け合って、一人も欠けることなくみんなで一緒に生きて帰るんだ。いいね?」

 無論、僕の声は空々しく響き、後部座席から這い寄る闇にのまれて消えていくばかりだ。


 宿舎と研究所をつなぐ道のりが、すべて未舗装でこれほど凹凸がひどく、それどころか途中急流が道を横切っていて、そこをランドローバーのウインチワイヤーを手に乗員の一人が(もちろん僕だ)まず腰まで浸かって、四、五回転んで流されかけながら川を渡り切り、向こう岸の立木にワイヤーを結んで車を渡河させなくてはならないはずがなく、ついには地面をのたうち回っているような見たこともない巨木に阻まれて、いま来た道を引き返すしかないような状況になってようやく、ヨシは真っ青な顔をして道に迷ったことを認めた。それ以前のこともあったし、そのときのみんなのヨシを見る目つきといったらなかった。そういえばそのとき、ヨシは僕に助けを求めるどころか、僕と目を合わそうとすらしなかった。たぶん僕の目つきも、彼にとっては見るにたえないものだったのだろう。

 幸いなことに、いともたやすくスルスルと樹高十数メートルの高木にのぼったエリが(彼女が実は幼少の頃に三重県のとある山里に預けられていたということは、僕だけが知るエリの生い立ちの秘密の一つだ)現在地からほんの目と鼻の先ほどのところに月明かりにボンヤリと浮かぶ巨大な建造物を見つけたことで、ヨシに対する僕の――いや、僕以外のみんなの殺意がいくらか緩和されたようだった。

「でもまあ、時間的にはあんまり変わらなかったと思うよ――ま、こっちの道とあっちの道と、ヨーイドンで比べたわけじゃないからなんとも言えないけどね」

 研究所へと続く待望の舗装路を見つけたとき、ヨシは悪びれもせずにそうのたまった。

 僕らの誰もがヨシへの殺意を再燃させなかったのにはわけがある――突如、僕らの眼前に全貌をあらわした研究所のたたずまいが、僕らの想像の範疇をはるかに超えるもので、ただただ驚き、圧倒されてしまっていたためである。

 亜熱帯性原生林のど真ん中に切り開かれた広大な敷地に、その研究所はあった。

 視界いっぱいの巨大な建造物は、僕らの大学にある、雨に濡れて黒ずんだ段ボール箱と揶揄されたり、あるいはある一部の学生には江戸時代に(人によっては平安時代といっても通用してしまう)建てられたものだと信じられていたりする、おんぼろで陰気なホルマリン臭い理学部研究棟とは似ても似つかないほど近未来的なものだった。

 もはや世界樹の切り株といってよいくらいに極太の巨大な円柱状の三階建ての建物は、高さは二十メートル弱で幅はゆうに百メートルを超えている。建物の裏手にはまた別の建物があるようだが、おそらくは変電所や電力施設だったり、焼却炉などの廃棄物処理施設だろう。一階と二階はぐるりと鏡面のガラス張りだが、三階部分は窓一つない。それよりも特徴的といえるのは、建物の屋上の中央部分にある半球状の巨大ガラスドームだ。目をこらすと、ドームの中で蛍が舞うような光がちらちらと明滅している。

 エリはいきなり車を飛び降り、槍をつかんで建物へと駆けだしていった。僕はヨシに車を正面につけるように言うと、車を降りてエリを追いかけた。

「エリ! 待つんだ!」

 エリに追いつくと、僕とエリは正面のドアの前に立った。電力は生きているらしく、自動ドアが開いた。ただ、深夜のせいなのか、それともやはりゲストハウスと同様に主電力がダウンしているために補助電源だけが機能しているせいか、最小限のLED非常灯だけが点っている。エントランスホールには人影もなく、僕とエリとランドローバーが立てた騒音は薄暗いホールに響きはしたが、やがて再び静寂が戻った。

「エリ――最初の計画通り、隠密行動で頼むよ。いいね?」

 エリは物言いたそうな目で僕を見返したが、どうやら納得してくれたようだった。

 エリとミカに見張りに立ってもらいながら車からキッチンワゴンを降ろし、手早く準備を整えると、訓練通りの戦闘隊形で建物に踏み込んでいった。

「まったく何がなにやらだ。まずはどこかで研究所の見取り図を――」

「あったぜ」

 ミカがエントランス入ってすぐ横の壁に掲げられた詳細な見取り図のプレートを見つけ、さっそくスマホのカメラを向けている。

「いきなり全体マップが手に入るって、どんなクソゲーだよ」

 みんなでスマホをパシャパシャいわせたあとで、ヨシが僕に耳打ちした。

 建物の形はちょうど厚切りのバウムクーヘンで例えられるように、円柱状の真ん中には直径三十メートルほどの中庭があり、屋上のガラスドームまで吹き抜けとなっている。現在地は警備デスクを中心に据えたこぢんまりとしたエントランスホールで、この東隣の区画は警備室、無線室、各機械制御室などが押し込まれている。エントランスホールの西側から真北にかけた広大なひとつながりのスペースは、カフェテリア兼ラウンジとなっていて、北端の一角に厨房が設けられている。

 各区画の外周は回廊でつながっており、エレベーターと階段は警備デスク裏と、それと対照的な位置――中庭を挟んだ真北――カフェテリアの端にある。北側の階段とエレベーターは三階まで通じているが、警備デスク裏にあるのは二階止まりだ。

 二階は吹き抜けを除いて、S、E、W、Nと東西南北均等な扇形に区切られており、Nエリアに所長室、秘書室、大小いくつかの部署・会議室があり、他三区画は研究室や実験室となっている。それぞれの区画は、ガラス張りの外周に沿った回廊や中庭の吹き抜けに蜘蛛の巣状に張り巡らされた渡り廊下で行き来ができるようだ。

 三階には回廊や渡り廊下はなく、北側エレベーター・階段ホールの狭い一区画にはじまり、残りを均等に三等分した区画が時計回りに連結されている。

「まずはミッション1、無線室にたどり着け、だ。警備室を通り抜けていくか、回廊を回って無線室の正面ドアからアクセスするかだけど――」

 僕は忍び足で警備室の小窓の下に駆け寄った。

 「巡回中」の札の横から部屋をのぞきこみ、中が無人であることを確認すると、すぐ横にあるドアのノブに手を掛けてみた。だが案の定、施錠されている。

 あたりを見回してみると、ドアの脇に三十センチ四方の黒いパネルが据え付けられている。このテのゲームなら「カードキーを手に入れろ」なんてサイドミッションがはじまるところだ。ただ、見たところ、カードを読み込むようなパネルやスリットは見当たらない。あるのは細長い横長の透明な窓だ。僕はおそるおそるその中をのぞきこんだ。するといきなりけたたましいブザーが鳴りはじめ、脇の黒いパネルで毒々しい赤いランプが点滅し、さらには例の古風な女性アナウンサー風のアナウンスが僕を拒絶しはじめた。

「セキュリティ認証できません。あなたは部外者です。関係者以外の立ち入りは禁止されております。セキュリティ認証できません。あなたは部外者です――」

「なにやってんだよバカ!」「余計なことしやがってクソが!」「どアホが!」「役立たず!」「クズ!」「**カス!」――。

 いったい誰がそんなにもひどく僕を罵倒したのかをたしかめてしっかりと心に刻みこむ間もなく、警備室の小窓の向こうに、ひょろりと背の高い出っ歯の警備員が真っ直ぐこちらに駆け寄ってくるのが見えた。僕はとっさにすぐそばの観葉植物の後ろに隠れた。みんなはもうすでにずっと後ろのラウンジソファの陰に隠れている。

 ドアがシュッと音を立てて開いた。

 警備員と一目でわかるのは、色や質感、汚れまで体表に表現させたガードマンの制服のためだが、その行動もまさに警備員そのものだった。

 その『出っ歯』の警備員の眼差しは虚ろだったが、仕事熱心であるのは本能にまで刻み込まれた習性のようなものだろう。『出っ歯』は警報を解除すると、指さし確認でパネルやドアをチェックし、ちょっと首を傾げた。そして、腰のあたりから引き抜いた黒々ツヤツヤした粘液滴る警棒を手に、焦点の合っていない眼差しであたりを見回りはじめた。

 僕が隠れた観葉植物が、都合のいいことにかなり大きめのウチワサボテンだったのが幸いして、『出っ歯』は僕に気付かず、また一つ首を傾げると、くるりと踵を返して僕を拒絶したセキュリティパネルの小さな窓に顔を近づけた。

「認証しました。タカクラタカシさん、入室を許可します。お勤めご苦労様です」

 ドアがシュッと開き、『タカクラタカシ』をヒュッと吸い込むとシュッと閉まった。

 回廊へのドアの脇にも、同じセキュリティパネルが設置されている。セキュリティを突破できない限り、無線室のある東区画に入ることすらできないわけだ。

 僕らはとりあえず無線室に入るのは諦め、カフェテリアへ向かうことにした。

 僕はこの後、これらのセキュリティを突破する「カギ」を手に入れるのだが、この流れだとその経緯を語らずには済まされないだろう。もしそれを端折ってしまったり、別のもっと品のある――いや、体裁の良い作り話にすり替えてしまうこともできなくはないが、それをしてしまうと、映画やドラマ、小説にありがちなご都合主義だといった批判を浴びかねない。ここはやはり真相を包み隠さず語るべきだろうと僕は判断した次第である――そう、なにも隠すことはない、何も恥じることはないのだ。これは誰にでも起こりうる自然の摂理なのだから。それに、「カギ」を手に入れるまでのその過程はどうあれ、最終的には僕は主人公らしく恐怖に打ち勝ち、勇気を振り絞ることができたことこそ、これから語るエピソードのもっとも重要なポイントなのだと強調しておきたいところでもある。

 ではさっそく、まずはそのエピソードの導入部から――。

 エントランスから西側の広大なカフェテリア・ラウンジは、休憩や食事だけでなく、一部は応接セットやテーブルと椅子をパーティションで囲った簡易応接室、簡易会議室にもなっている。カフェテリアの突き当たりには北側エレベーターと階段ホール、さらには東区画への回廊のドアがある。ただ、そこへたどり着くにも多少問題があった。

 この薄暗く広いカフェテリア区画に、見えているだけでも二十体ほどの怪物と化した『研究員』たちがいるのだ。さらに、パーティションや観葉植物の陰にも蠢く気配がする。

 怪物と化した後、宿舎に帰って眠りこけるばかりの怠け者もいれば、こんなに遅くなっても宿舎に帰ろうともせず居残って仕事をしたいという願望の持ち主もこれだけ存在するということなのだろうか。あるいは居残れば居残るほど残業代が支払われていたのなら、このカフェテリアで時間を潰しているだけの根っからの賃金泥棒も少なからずいるのかもしれない――少なくともこのカフェテリアにたむろしている連中の大多数はそうにちがいない。見れば、椅子やソファにふんぞり返って、睡眠時無呼吸症候群のような途切れ途切れのいびきをかきながら泥のように眠りこけている者がほとんどだ。

 眠っていない者も、どうやら精神的に病んでいるようだ――神経質そうにガリガリと頭をかきむしり、イライラとうめきながらキョロキョロしてウロウロ行ったり来たりを繰り返している。

「ああなってからも、ああはなりたくないもんだな」

 ヨシがぽつりとつぶやくと、ミカもしみじみと同調した。

「みじめね――あれが願望? 心の底からやりたいことって、あんなこと? もしあたしが怪物になったら、きっとこの世界を素敵なものに変えてみせるのに」

 ミカの物言いが珍しく、僕らは思わずきょとんとした。

「んだよ、何がおかしいんだよ? あたしゃね、心の底から――」

「シッ、誰か来る」

 エリが鋭く言った。僕らはとっさにサボテンのプランターの陰に隠れた。

 ブヨブヨに軟化したこめかみに手を突っ込んで、脳髄をかきむしってる『研究員』がフラフラとこちらへやってくる。

「す、すいへ、いりーべ、ぼくの、ふね――すいへ、いりーべ、ぼぼ、ぼくの、ふね――」

 怪物は指先に眼球の視神経を絡みつかせながらブツブツつぶやき、粘液を撒き散らしてサボテンに潤いを与えながら、僕らが隠れているほんの三十センチ前を通り過ぎていった。

 驚いたことに、見るとサボテンは粘液の飛沫を即座に吸い取っているようだった。粘液の飛沫が触れたあたりが半透明化してキラキラと発光している。

 僕らはひとまず作戦会議のためにエントランスホールへ退却した。

「野郎、船がナントカって言ってたぜ」

 ミカが言った。それにナツキがうなずいた。

「アイツがクルーザーのカギを持ってるんじゃね? 追いかけて殺るか?」

「キミらはどこまでバカなんだね。あれはね『水兵リーベ僕の船』といって――モゴムガ」

 僕はヨシの口を塞いだ。いまは一人でも仲間を減らしたくないのだ。僕は指揮官としていまやるべきことを明確にした。

「あんな一介の『研究員』が船のカギを持ってるはずがない。持ってるのは所長か奈津子さんの父親だけと考えて的を絞るべきだ。無線室は後回しにして、北側の階段を使って二階の所長室へ向かおう。ミッション2、所長室へ向かえ、だ」

「1をクリアしてないのに次のミッションなんてあり得ないぜ。またチートかよ!」

 ヨシが僕の手をふりほどいてうめいた。エリが冷静に言った。

「それもダメね。さっき見えたけど、エレベーターにも階段にも、カフェテリアの先へ行くにも、あのセキュリティパネルがあったわ」

「じゃあ――まずはミッション3、セキュリティドアを突破せよ、かな」

「1と2はどうすんだよ!」

「ドアなんて、コイツで吹っ飛ばしちまえばいいんだって!」

 ミカがそう言っていきなりダイナマイトを取り出すと、ヨシはひぃと悲鳴を上げた。

 僕はだんだん自信がなくなってきた――とともに、またもお腹が痛くなってきた。

 実を言うと、奈津子さんの手料理を食べてから、奈津子さんが殺される前に三回、殺した――殺された後にも二回、合計で五回もこんな調子が続いている。三回目にトイレを出た後はみんなはもう寝静まっていて、エリもうたた寝している真夜中ではあったけれど、僕はあまりに頭にきて、奈津子さんの部屋に食材の保管状況や、厨房や調理時の衛生状況について問いただしに行ったりもしたほどだ。彼女ははじめ否定したが、最後の最後には非を認めた。当然、責任を取ってもらった。まったく、調理前に手を洗わないなんて、なんて不衛生なんだろう。僕は不潔な人間は大嫌いで、死に値するとすら思っている――といっても、僕だけがアタリを引くのもヘンだとは後で思ったりもしたけれど。

「ちょっと――トイレに行ってきていいかな」

「大か? 大だろ? 大っぽい顔してるしな!」

 ミカが下品にもきゃははと笑いだした。僕はムッとして言い返した。

「小学生じゃあるまいし、たかが――」

「じゃあ大学生だけに? 大学生だけにィ?? 大が? 大がァ??」

 ばかばかしくて相手にする気にもならない――というよりお腹が痛くて、相手にしてられない。エリは同情の目をして「行っておいで」と促してくれた。

「わかるよ、いきなりキリキリってな。恥なんかじゃないぞ。遠慮せずに行ってこい」

 自分も過敏性腸症候群のくせに、ヨシもそう言って僕を哀れんでくる。くそ、ヨシにまで――なんともまあ情けない。だが、背に腹は代えられない。

「す、すぐ戻るから、待っててくれ」

「爆撃機、離陸を許可する!」

「ヤツらにドカンとお見舞いしてやれ!」

 ナツキとミカが最敬礼で僕を送り出してくれた。


 良いニュースと悪いニュースはいつでも対になって訪れるものだ。僕はそれがこの世界の本質だと確信している――月並みだけれど。

 良いニュースは、トイレへは観葉植物の陰に隠れながら怪物たちに見つかることなくたどり着くことができたことだ。それに、トイレの中も常夜灯が点ってくれている。

 悪いニュースは、三つある個室のどこもトイレットペーパーが残り少なかったことだ。とはいえ、その問題は、他の二つの個室から拝借すれば済むことだ。僕は大急ぎでトイレットペーパーを失敬して、奥の個室に飛び込んだ。

 そして! やっと! ついに! ああ! 耳に轟くは第九! 「歓喜の歌」!

 ♪ 晴れたる青空 漂う雲よ!

   小鳥は歌えり 林に森に!

   心は朗らか 喜び満ちて!

   見交わす我らの 明るき笑顔! 

 それにしても、映画や小説のヒーローたちはいったいいつトイレに行くのだろうか。彼らも人間なのだから、物語のどこかで必ず用を足しているはずなのだ。それなのに、用を足すシーンはほとんど一切描かれない。物語の作り手次第というわけか? ハッ! 所詮は作り話にすぎないのだ!

 それにひきかえ、これは現実だ。作り話なんかではない。その証拠に、主人公でもこうしてちゃんともよおすのだ! それに僕はごまかしたりはしない! 事細かに包み隠さず、目の前にあるモノをきちんと色や形や匂いなどすべてを描写してやろうじゃないか! では、まずカタチだが、こりゃまたなんとも――。

 不意にドアの外で足音がした。誰かがトイレに駆け込んできたらしい。まあ、おそらくは過敏性腸症候群を抱えるヨシにちがいない。大学でも講義を抜け出してトイレに駆け込むと、お隣さんがヨシだったということがたびたびあったものだ。

 隣で扉が閉じるなり、ズボンを下ろす音のあと、苦しそうなうめき声がしはじめた。

「ヨシ、なんだお前もかよ――」

 そう言いかけて僕はハッと気付いた。どうもズボンを下ろす衣擦れの音がおかしい。まるでじっとりと血で濡れた人間の生皮を剥ぐときのような音がしたのだ――もちろん人間の生皮など剥いだことはないので想像だ。もうちょっと適切な表現もできたが、人によってはただただ卑猥に聞こえてしまい、適切どころかむしろ不適切な表現とお叱りを受けてしまう恐れがあるため控えめな表現ゆえ、曖昧な表現となった次第である。

 それはともかく、いまから一部始終を語るのだが、あまりに下品な描写ばかりを重ねてしまうと僕のこの物語全体の品格をことごとく地に貶めかねないため、比較的品は良いが少々回りくどい表現が頻出することをお許し願いたい。

 さて、隣の個室からは我が国が誇る世界遺産、日本十三名瀑の一つ、雄大な那智の大滝の滝壺に絶え間なく注ぎ込まれる瀑布の、耳を聾する轟きが断続的に十秒、いや十五秒ほど続き、そのあと、ベートーベン交響曲第九番「歓喜の歌」の頭の中いっぱいに響き渡るあの最高潮の合唱(晴れたる青空! 漂う雲よ!)に思わずこぼれる満足そうなため息は、もちろんヨシのものではなかった。

 そして、それら一切がいきなりピタリと止んだかと思うと、唐突に、隣り合わせた仕切り壁がコンコンとノックされた。

 僕はなにはともあれ、そりゃもう当然鼻腔を閉じ、じっと息を詰めていた。だがしかし、隣の個室に僕がいることは彼には当然バレている。だからノックしてきたわけで、トイレにおけるノックの意味は万国共通、親から子へ、子々孫々と伝わる常識で、すなわち表から個室のドアをノックされたら「まだ出られませんか?」だし、隣の個室との仕切り壁がノックされたら「紙を少しわけてもらえませんか?」だ。それに、こうして隣の個室からノックされる理由に僕は心当たりがあるのだ。僕が隣とその隣の個室からトイレットペーパーをあらかたぶんどってきてしまったからである。

 コンコン、コンコン。

 もはや居留守は使えない。息を止めるのだってそうは続かない。ふと見上げてみると、常夜灯の照明が届かない薄暗い天井は仕切り壁との間が二十センチほど開いている。どうりでお隣さんのモノのはんなりとした香りがふうわりとおりてくるわけだ。

 僕はペーパーのロールを一つ手に取り、仕切り壁の上の端にそっと置いた。すると、それはすぐに滴る粘液で濡れた手にむんずとつかまれ、「ゴボゴボ」といううめき声がして向こう側に消えた。

 彼はたぶん「ありがとう」と言ったのだと思う。僕はどう返事したらよいものかと迷ったが、気持ちだけは「どういたしまして」と念じながら、適当にゴロゴロと喉を鳴らして返事をしてみた。お隣さんは再び(暫時、水しぶきに煙る滝壺の清涼なイメージをご想像いただきたい)をはじめた。

 こういうときはお互い様だよなぁ、ひょっとして人類と地球外生命体の間で交わされたはじめての助け合いかもしれないと、ようやく僕も落ち着いて用を足し終え、さて、とトイレットペーパーに手を伸ばしかけたところで、またも壁がノックされた。

 コンコン、コンコン。

 僕は焦った。奈津子さんの不衛生な料理のせいか、どうにもキレが悪いのだ。大急ぎで自分のを一度拭き上げてみたが、どうやらもう二度、三度――いや、もっと拭き上げる必要がありそうなのだ。拭き上げ回数を激減してくれる温水洗浄便座はあるにはあるが、この研究所は観葉植物までも地球外寄生生命体に蝕まれているのだ。生水を飲むことはもちろんのこと、とても不用心に我が肛門をさらす――失礼、背中を見せる気にはなれない。

 僕は急いで二度拭きを試みた。その間にも仕切り壁はノックされ続けた――トントントン! ドンドンドンドン!

 しつこい! ちょっと、そりゃ横暴じゃあないか! 僕のだってねぇ――!

 憤っている場合ではない、僕はもうノックの連打を無視して三度拭きを試みようとして紙を引き出して手にグルグルと巻き取った――と、僕は唖然とした。やっぱりだ――いきなりカラカラとトイレットペーパーの芯がむなしい音を立てたのである!

 いや、まだある! 僕は急いで最後のロール――これだってあと一回分あるかないかだ――をセットし、紙の端っこを引っ張り出そうとした。

 僕はハッとした――いつの間にかノックが止んでいる。

 僕は隣の個室の気配に耳をそばだてた。さっきまで壁一枚隔ててすぐそこにあった息づかいは、いまはなかった――いや、なにか液体が循環する蠢きだけは感じられた。

 そのとき、僕は頭のてっぺんに何かを感じた。

 足下の床に、ぽつり、ぽつりと何かのしずくが滴った。僕はぞっとして天井を見上げた。

 個室と個室の間にそそり立つ仕切り壁の上に――さっきトイレットペーパーをお裾分けしてあげたそこには、ずぶ濡れて垂れ下がったウェービーヘアの間からぎょろりと目玉をぎらつかせた「顔」があった。

 僕はカッとなった――これは誤植ではない。「ハッと」でも「ゾッと」でもないのだ。頭にきてカッとなったのだ! あるいは恥ずかしめに遭って顔がカッと熱くなっただけかもしれないが!

 非常識なヤツめ! もっともプライベートであるべきこの空間、この時間を、他人が干渉(観賞ではない、念のため。いや、もちろん観賞もいけない!)していいわけがない!

 それはともかく、「顔」だと思ったのはほんの一瞬だけで、それは中心に二つの眼球とその後ろの脳髄や脊髄を残してあっという間に半透明のクラゲの傘のようにぱっと広がり、不自然なほどの屈折率で背後にあるたった一つの常夜灯をその粘液の薄膜に無数に映し出して蠢かせながら僕に覆い被さってきた。

 こんな状況ではどんなヒーローも戦闘力はガタ落ちするに決まっている。ヴァン=ダムだってシュワルツェネッガーだって全身素っ裸なら縦横無尽に闘えるだろうけど、下半身だけ曝しているとなると(ましてや、まだ拭き足りないとなると!)話は別のはずだ。

 僕は自分にそう言いきかせて、自分自身の敗北を受け入れようとした。そして、ドロリと降りてきた怪物の長い手が、ねっとりと最後のトイレットペーパーのロールを奪い去っていくのを、僕はただただ見ているしかなかった。

 悔しかった。あと一拭き、あとほんの一拭き、それで僕の――ゲホンゲホン――は清潔に保たれ、満足できたはずだった。僕は泣く泣くパンツとズボンを上げた。あらゆるものを押し流すナイアガラの瀑布も、僕の心を苦しめる恥辱とちょっとした穢れだけは流し去ることはできなかった。

 せめて、と僕は丹念に、それはそれは丹念に手を洗った。それで僕の穢れが清められるわけではない。ただ、冷たい水は僕の体の芯をむしろ熱くさせた。そう、穢れなきヒーローなどこの世には存在しないのだ。逆説的だが、悪を完膚なきまでに打ち倒す正義の原動力こそ、実は暴虐の悪そのもの――汚れ、いや穢れなのだ。このとき、僕の腹痛の治まった腹の底では激しい復讐心が煮えたぎって――またお腹が痛くなってきた。

 真ん中の個室のドアが開いた。

 『ウェービーヘア』は満足そうなうめき声を上げながら出てきた。そいつは僕を見ると驚いて一瞬のうちに頭をぱっとクラゲの傘のように広げたが、刃渡り三十センチはあろうかという僕のランボーナイフの方が速かった。そいつの顔の真ん中に右手でナイフを深々と突き立てると同時に左手で二つの眼球をひっつかみ、刃先をぐるりとこじって視神経を立て続けに切断した。

 『ウェービーヘア』はその特徴たるウェービーヘアからドロドロに溶けだしていった。まだ硬化状態にあるそいつの腹のあたりを蹴って個室へ押し戻してやると、僕は便器の水洗レバーをひねった。そいつは滝――いや、ダムの決壊のごとき奔流に尻から落ち込むと、そのままグズグズに軟化して粘液で便器をいっぱいにして――詰まった。

「おい、きみ! トイレットペーパー以外のものを流しちゃダメじゃないか!」

 僕はピシャリと決めセリフを吐いた――いや、どうも語呂が微妙だし、陳腐な翻訳調な気がする。なにより、そのまんまだ。それに実際、流そうとしたのは彼でなく僕だし。

「ヘイユー! お前はサイコーにオモシロいヤツだったな!」

 つまり、思いっきり便器に詰まったのだから、すっごくツマらないヤツの逆の意味でサイコーにオモシロいって――ダメだ。僕にはダジャレのセンスがないのかもしれない。

 その後もしばらく考えを巡らしてはみたものの、どうしてもいいのが思いつかなかった。

 決めセリフに関してはまあいいやとあきらめることにしたが、そのとき僕ははたと思い当たって、さっきぶんどられたトイレットペーパーの残りを探した。

 あった――が、それはたしかに一回分ほど残っていたが、ほとんどもう溶けかけていた。コイツが濡れた手で触ったからだ。

 高ぶった気分が急に転じて負の方向へと落ち込んでいくとき、僕はようやくあたりの惨状に気付いた。床は便器からあふれた汚物と粘液で水浸しだ。昔、うちのばあちゃんが言っていたのだが、トイレにはトイレの神様がいて――まあいいか。僕は深々とため息をついて、遅ればせながら得も言われぬ臭気でトイレじゅうが満たされていることに気付いた。

 開き直ってはみたけれど、やはりトイレを汚してしまった罰当たりな気分とお尻だけはスッキリとぬぐえないまま、僕は二つの眼球――すなわちセキュリティドアの「カギ」を手にトイレを後にした。

 ――とまあ、こういうわけである。


「さあみんな、無線室へ行くぞ」

 みんなの「さすが隊長、見直したぜ!」といった僕への賛辞がくすぐったくもあったが、僕はあえて大したことじゃない風を装った。経緯を事細かに聞かれたくなかったからだ。誰だって、穢れたヒーローの烙印を押されたくはない――この連中には、とくにだ。

 神経症的にウロウロ、キョロキョロしている怪物たちの動きと視野の範囲を見極め、僕らはパーティションに隠れたりサボテンと同化したり、ダンボール箱をかぶって隠れたりしながらどうにかカフェテリアの奥までたどり着いた。そしてセキュリティドアの前で、またもみんなの尊敬の眼差しを痛いほど背中に感じながら、僕は二つの眼球を網膜認証デバイスにかざした。これで難なくドアが開くはず――。

「セキュリティ認証できません。あなたは部外者です。関係者以外の立ち入りは禁止されております。セキュリティ認証できません――」

 またしてもけたたましいアラームと口うるさいおばさんの小言だ!

「何やってんだよバカ! アホ! クズ! ウ*コ漏らし!」

 みんなの総ツッコミを怒濤のごとく背中に浴びながら、慌てて二つの眼球の上下左右を入れ替えたり、視線の向きを真っ直ぐにそろえたりして、どうにか『野次馬』が集まってくる前にドアを開けることができた。

「認証しました。灰田芳生博士、入構を許可します。今日も一日ごきげんよう」

 僕がこの手で殺した怪物の生前の名前(「灰田芳生」博士――どこかで聞いたことがあるような気がする)を知って生々しさに打ちのめされるのもそこそこに、とにもかくにも僕らは無線室にたどり着いたのである。

 無線室には旧式の無線機があるにはあった。だが、そこには『巨漢の警備員』の大きな背中があり、文字通り無線機にへばりついていた。

 『巨漢』はヘッドフォンとも同化していて、太い指先で無線機パネルの小さなダイヤルをぐりぐりと回している。そして不意に手を止めたかと思うと、奇妙な低いうめき声を上げはじめた――どうやら何かを聞きながら笑っているらしい。

「ラジオ――かな?」

 僕がヨシにそうささやくと、ヨシがさっと青ざめた。

「しまった、今週はとっておきの渾身のネタが炸裂するはずだったのに! こともあろうに、このオレ様が聞き逃すなんて!」

「そんなのもう『うP職人』がネットにアップしてんじゃね?」

「ダメなんだって、生じゃなきゃ! お前みたいなそこらのリスナーと一緒にするなよ!」

 ヨシは暢気に言うナツキに食ってかかった。ナツキはムッとして言い返した。

「心外だな。オレはその点はちゃんとしてるぜ。それにアレしてると長持ちするし――」

「ねえ、いったい何の話をしてるの?」

「幸せの在り方は人それぞれだということだよ」

 エリの疑問には僕が適当に答えておいた。大学では影のない存在であるヨシが実は「タコライスよりイカめしが好き」という別名を持っていて、その筋ではその名を知らない者はいないという話をしたところで、エリが「きょとん」なことには変わりないだろう。

「なんにせよ、あの警備員を無線機から引きはがすのは無理そうだな。仕留めるにしても、火を着けたら無線機まで燃えてしまうし――」

「いっそのこと吹っ飛ばしちゃおっか?」

 ミカがまたもダイナマイトとライターを取り出して、いまにも導火線に火を着けたそうにしている。僕は慌てて彼女の手からライターを取り上げた。

「そんな大騒ぎしたら一気にヤツらが押し寄せてくる。ここはスルーして先に進もう」

「アイツ――ウケてくれてたかな、俺のネタで」

 ようやくあきらめのついたヨシがぽつりとつぶやいた。

 今度は慎重に、二つの眼球の上下左右、視線の向きを合わせて北側階段のセキュリティドアをパスした僕らは、階段を上がってすぐのエリアにある所長室へ向かった。

 所長室の前室には秘書室があったが、いまはどちらも不在のようだ。僕らは手分けしてクルーザーの鍵と衛星電話の捜索をはじめた。

 捜索をはじめてすぐに、秘書室からいきなり歓喜の声が上がった――ミカだ。

「ラッキー! これ、秋の新色! まりやんがCMしてたヤツ! 欲しかったヤツぅ!」

 ミカは高級そうな口紅を何本も手にしてはしゃいでいた。彼女は秘書のデスクを漁っていたようだ。ミカのポシェットは捜索開始から二分ですでにぱんぱんにふくれている。

「ああいうのを欲しがる女とは付き合いたくないな」

 ヨシが冷めた目をしてつぶやくと、ナツキがなだめるように言った。

「それがオンナって生きモンなの。おれは好きだぜ、ああいうオンナ――鼻先にニンジンちらつかせるとすぐヤレるんだ」

 ナツキは経験上そう語るのだろう。それに一定数、ナツキの言うとおりのような女性が存在することもたしかだと思う。だが、僕のエリはちがう。たしかにエリだって、超大人気アイドルグループのメンバーまりやんがイメージキャラクターを務める新発売の化粧品に憧れて「いいなぁ」とため息をもらすことはあるが、その芽生えた物欲が自分に分相応かどうかを判断するたしかな分別を彼女が持っていることを僕は知っている。たとえ怪物になったとしても、エリだけはそんな低俗な物欲に振り回されることはないはずだ。

 そのエリは、窓にかかったブラインドの隙間から真っ暗な中庭をじっと見つめていた。

「――あそこに『あの子』がいるわ」

 エリの横に立って僕も中庭をのぞいてみた。そこは広大な空間があるようなのだが、真っ暗で何も見えず、ときどき蛍が舞うようなちらちらとした光の明滅があるだけだった。

「息づかいが聞こえてくるの――まだ生きてるのよ、『トシオ』は」

 前からエリはメルヘンチックというか、メンヘラチックというか、「不思議ちゃん」の気があることはわかっていたし、人よりちょっと繊細なコなんだろうと気付かぬふりをしてきたが、いまは勝手なことをされては困るのだ。

「わかってるよ、エリ。『アタル君』はまだ生きてる――でも、彼を助けに行くのは脱出手段を確保してからだ。せっかく救出しても生きて帰れないんじゃすべて無駄になる」

 僕の説得にエリはうなずいてくれた。

「おい、引き出しの奥にいいモンが隠してあったぜ」

 秘書室から顔を出してきたナツキは、僕の目の前に、一粒ずつパックされたガムかラムネの包装が数珠つなぎになったようなものをたらりと垂らした。無論、それが幼少の頃の懐かしの駄菓子屋を思い起こさせたのもほんの一瞬だけで、すぐにそれがまったく似て非なる別物だということはわかった。だが、目をみはって顔を赤らめているエリの手前、それが何なのか即答するのもはばかられた。

「コイツは一箱十五個入りなんだが、残ってるのは五個だ――おっと、いまお前は頭の中で差し引き十個――十個も使ったのかと思っただろ? それは大きな間違いだぜ。秘書のネーチャン、ダースで買ってやがるんだ。経費で落とすつもりなんだろう、ネット通販の領収書がしっかり帳簿に挟まってたよ。ほぼ半年前に、生理用品とかいう名目でな。つまりだ、使用済みはたったの十個なんかじゃなく、十一箱と十個だ。合計百七十五個――つまり半年間、およそ百八十日間で百七十五回ってことだ、わかるか?」

「僕にはさっぱりだ。さすが経済学部だな」

 できる限り褒めちぎってやったが、僕の脳裏にふと一つの疑問が湧き上がった。

「所長は新婚なんじゃなかったか? 新しい奥さんを連れてきてたんだろ?」

「そんなの関係ねえよ。『社長と秘書』の密室シチュエーションなんて、一万年後のサルでもおっ立つモンだぜ」

 ナツキ流の進化論の意味は微妙によくわからないが、彼は彼なりに言い得て妙と満足げだ。そんなことよりも、エリの所在なげな恥じらいに、僕は思わず、あのめくるめくような時の流れを百七十五回も? と妄想してしまい――僕はどうやらいますぐに般若心経を唱える必要がありそうだった。

 そのとき、秘書室からキャッと悲鳴が聞こえた。

「ねえ、みんな来て来て! チョーヤベーって!」

 ミカに呼ばれて秘書室に駆け込むと、ミカが驚いた理由が僕らにもすぐにわかった。

 『女』だ――もちろん二重カギ括弧付きのヤツだ。

 その『女』は、格別優雅にランウェイを歩くしんがりのトップモデルのように、足がもつれる寸前まで腰をくねらせながら廊下から入ってきた。そしてビタリと立ち止まると、ぴっちりとしたタイトスカートがはち切れそうな尻をぎゅっときつくデスクの角の一点に押し当てるようにしてもたれかかり、見るからに丈の短かすぎるスカートの裾から伸びる長くすらりとした、白くそしてまばゆくキラキラとしたふとももを組んで、小ぶりの膝からつるりとしたすね、そしてこの世のすべての美しい女性靴の型となり得たであろう流麗な爪先――その爪先に引っかかったエナメルのハイヒールをゆったりと弾ませるように揺らしながら、ちらちらと小指の小粒な爪の深紅のペディキュアを見え隠れさせはじめた――ここまで描写してみせたのに上半身の方を語らないというのは、世の必然として、男性諸氏からは許すまじ怠慢であるとの批判を浴びせかけられることが容易に想像できるゆえ、ここで僕はやはり期待されるとおりにできうる限りの詳述を試みるべきであろう。

 そう、まずは白のブラウスだ。

 本来純白であろうシルクのブラウスは、南国のスコールを傘も差さずに雨宿りのひさしまで走ってきたかのようにずぶ濡れで、そのために薄い生地一枚下の別世界――肌の色と淡い紫色のレース模様をくっきりと透けさせていて、ずぶ濡れゆえに肌に張り付くのを嫌って胸元は大きく開けられ、そのはだけた真ん中で深々と落ちこんでいく恐るべきクレバスは、僕の視線をその底なしの陰影の彼方へと引きずり込もうとしている。七分丈の袖はなおも肘の上までまくり上げられ、透き通るような――いや、文字通り透き通っている乳白色の柔らかな二の腕を露わにし、その腕は絶え間なく、といっても優雅にごくごくゆっくりと動き続け、○○と――いや、まるまるとふくれあがった胸をあるときは押しつぶすように、あるときは挟み込むようにしてけだるげに腕組みしたり、ずぶ濡れて粘液したたる長い髪をけだるげにかきあげたり、きめ細やかな上質のベルベットを思わせるリッチな色合いのルージュ――それこそ超人気アイドルグループのミューズまりやんがCMしている夏色モデルを引いたぷっくりとしたアンジー風の唇をけだるげに指先で触れるか触れないか、けだるげな表情で誰にともなくけだるげに焦らしてみせたり、腹のあたりにもぴったりと張り付くブラウスをときどきけだるげな指先でちょっと持ち上げては布地に透けるへその影をうっすらぼやかしてみせたり――このへんでもうこのくだりは終わりにしてよいだろうか。というのは、このまま続けていると、僕が思うに、男性諸氏にとっては至極残念なことをお知らせしなくてはならなくなるからだ。それは何かというと――いや、やはりやめておこう。僕の確信するところ、「いいカラダをしていても、振り返ってみたら」式の評価の転覆、価値観のカタストロフィーを迫られることになるだろうからだ。

 それにしても、なんと女性に対して失礼なことか! 男どもの性よ! いやはやまったく! 本当に情けない! 人は顔で判断されるものではない!

 僕がそう胸の内で激高して世の男どもにツバを吐きかけてやりたいと思っているところ、ナツキがピュゥと感嘆の口笛を吹いた。ヨシも、いまにもよだれを垂らしそうなくらいに締まりの無い口元で『女秘書』を上から下までなめ回すように眺めている。

「おい――なあ?」

「ああ――」

 ゴクリとツバを飲み下すナツキとヨシ――おいおい、君たちはあの『女』のどこを見ているんだ? あの顔をちゃんと見たのか? けだるげな表情――いや、ただひたすら造作がけだるげなだけの顔面を!――いや、どっちにしても、まったく! 男という生き物のくだらなさよ!

 男どもの熱い視線を感じたのか、『女秘書』はデスクの角の一点にめり込ませた尻を支点にして僕らに向き直ると、これ見よがしにゆっくりと大きな仕草で足を組み替えた――そんなツラでそんなモノを見せられても、妖艶だとか色気むんむんどころか、もはやただひたすらシャロン・ストーンの劣化版の廉価版の海賊版くらいにしか見えない。

 『女秘書』は向きを変え、今度は僕に中身を見せつけるように足を組み替えた。

「おい――なあ?」

「ああ――」

 ゴクリ――あ、いや、まったく男という生き物は!

 『女秘書』はアンジー風の唇の端をアンジー風にぎゅっと持ち上げて満足そうに微笑み、たわわな尻の弾力を存分に活かしてデスクの角の一点から弾けるように立ち上がると、物憂げにため息をつきながら(ゴボゴボと耳障りな音がしたけど)僕らに近づいてきた。僕はエリをかばってランボーナイフを抜こうと身構えたが、ナツキがついと前に進み出た。

「おいおい、そんな物騒なモノはしまっとけって。ここはオレのにまかせろ」

「のってなんだよ、のって!」

 ヨシが妙なハイテンションではやしたてる。ナツキは『女秘書』に負けず劣らずアンニュイなため息をつくと、僕らが見たこともないようなアンニュイな色気をその背中に漂わせながら女の方へアンニュイに歩み寄っていった。

 と、おもむろに『女秘書』の頭がぱっと裂け、一瞬にして例のエチゼンクラゲの傘ような頭になった。さらには、ナツキにとって、あるいは世の男性すべてにとって残念なことに、女の全身――はち切れかかっていたスカートもすけすけのブラウスも、もちろん○○と――いや、まるまるとした紫色のレース模様もへその影もなにもかもがドロリと崩れ、例のキラキラネバネバの粘液の塊に変貌した。

「おいおい、こりゃ百万年後のサルだって萎えちまうぜ」

 ナツキが独特な進化論を展開しつつ心底残念そうなため息をつくやいなや、エリが一歩踏み出し、目にも留まらぬ速さで気合い一閃、槍がクラゲ頭のど真ん中に突き立った。

 左右の大脳の中心、とろんとけだるげな両眼のど真ん中――数秒前にはそこにあったアンニュイを通り越してしまりのない顔のど真ん中を正確に突き上げた直径三センチの尖った鉄パイプは、エリの手元でぐいとひねり上げられ、左脳と右脳を分断させた。間髪入れずエリはまたも鋭く気を発すると、延髄の上で左右にこぼれ落ちそうになる左脳と右脳それぞれに瞬く間に槍の切っ先を突き込んだ。さすが薙刀師範代!

 僕は反射的に(地獄の特訓の成果だ!)火炎瓶に点火して『女秘書』の足下に叩きつけた。砕けた火炎瓶は瞬時に床を火の海にし、『女秘書』の残骸はフライパンの上の目玉焼きの白身のごとくぶくぶくと泡立ちながら白濁しはじめ――そしてあろうことか、火災警報器が作動し、耳を聾するサイレンが鳴り響きはじめた。

「火災を検知しました。消化剤を散布しますので、すみやかにこの区画から退去してください、火災を検知しました。消化剤を散布しますので、すみやかに――」

 例の昭和レトロの声がせかせかとアナウンスをはじめると、ミカが僕の肩を小突いた。

「放火だぞ、放火! は・ん・ざ・い!」

 だけどこの「コードネーム:イオラオスの炎」作戦では最初からこうする手はずだったし、それにこれはあの地獄のような訓練のせいで反射的に体が勝手に動いてしまったせいであって、いまさら放火だとか犯罪だとか責められても――と、天井から勢いよくガスが噴き出しはじめ、途端にナツキとミカが慌てだした。

「これ、毒ガスじゃね? 閉鎖するとか言ってたろ。オレたち、閉じ込められたんじゃね?」

「あのブタはどこ行った! あたしたちを置いてとっとと逃げやがったぞ!」

「とにかくこの部屋から出るんだ!」

 僕らは床に広がった炎と天井のあちこちから噴き下ろす毒ガスをかいくぐりながら、猛然と廊下へ走った。だが、廊下の右も左もガスの煙幕で視界が遮られ、やがて僕らは完全に毒ガスの霧にまかれてしまった。それに、すでにかなり毒ガスを吸い込んでしまっている――もはや絶体絶命だ!

 すると廊下の向こうからヨシが現れ、僕らを手招いて先導した。僕らは大急ぎでヨシの後を追った。ところが、僕らの目の前に完全に閉じた防火シャッターが立ちはだかった。

 僕らは呆然と立ち尽くすしかなかった。やはり僕らは毒ガスが充満する空間に閉じ込められてしまったのだ――だけどヨシは何の迷いもなく、シャッターの横にあるドアノブを探り当て、重たそうなくぐり戸を開けた。

「君たちはモノを知らなさすぎるなァ。建築基準法とか消防法って知らないの? 閉じ込められるなんてのは、映画の中だけの話だぜ」

 ヨシはニヤリとした。僕らは我先にと扉をくぐり抜けた。

「イヤァ、モウダメカトオモッタヨ」

 僕はぎょっとしてその甲高い声を振り返った――いや、その声はたしかに僕の口から出たものにまちがいなかった。

「きゃはははは、ナニ、ソノコエ!」

 そう僕をからかったミカも自分の声に驚いている。僕はぞっとした。

「ドクがすノセイダ! ボクラハミンナドクがすヲスイスギタンダ! ボクノセイダ!」

「ダイジョウブヨ、オチツイテ――」

「アア、えり、キミマデ――ボクハイッタイナンテコトヲシテシマッタンダ!」

「心配すんなよ、そんなことくらいでさぁ」

 ヨシだけはいつもと変わらない声で笑った。僕はカッとなってヨシにつかみかかった。

「ボクラヲオキザリニシテヒトリデニゲヨウトシタナ! オマエッテヤツハ、ドウセソンナヤツダロウト――」

「心配すんなよ、ハロンガスってやつだよ。こういうところは水の出るスプリンクラーじゃなくてガスで消火するんだよ。ハロンガスを吸うとヘリウムガスを吸ったみたいになるんだ。ほっとけば治るって、一時的なモンさ。パーティグッズと思え」

「ナニコレちょーヤバイ! うけルゥ!」

 パニックになりかけた僕をよそに、ミカとナツキは楽しそうにはしゃいでいる。

「エー、アタシ、マンビキナンテシテマセンヨー、カンチガイデスッテー」

「ソノオオキナフクラミハナニ? ゼンブヌイデクレル? イヤナラケイサツヨブカラネ」

「イヤーンゴメンナサーイ、ホンノデキゴコロダッタンデスー」

「フザケテルバアイジャナイワ!」

 エリが小さく鋭い声を発し、槍を構えた。

 ラボから回廊にあふれ出てくる『研究員』たちが、向こうの階段へとぞろぞろと向かっていく――どうやらふつうに避難指示のアナウンスに導かれているようだ。

 と、彼らのうちの一人が不意に振り返り、僕と目が合った。そいつは束の間、不思議そうな顔で首を傾げていた――どうかそのまま、通り過ぎてくれ――が、ひと思案したあげく、僕を指さして獰猛な咆哮を上げた。

 その雄叫びは、顔面が四方八方に傘のように広がるにつれて凶暴なまでにトーンが上がり、僕らの耳をつんざいた。そして、それに呼応するように、他の『研究員』たちも一斉に振り返って僕らを認めると、一斉に頭をパッと弾けさせた。

 背後は閉ざされたシャッター、階段は廊下のずっと先、蠢き犇めく数十体のクラゲ頭どもの向こうだ――僕は火炎瓶満載の改造キッチンワゴンからロマネ・コンティのボトルを引き抜き、点火した。

「ミンナ、ジュンビハイイカ――ココヲトッパスルゾ!」

 僕らも怪物に負けじと、さらに五オクターブは高音の雄叫びを上げて突進していった。

 幾重もの甲高い咆哮と、幾重もの断末魔の絶叫があたり一帯を飛び交った。

 一騎当千のエリと鬼教官ミカの二本の槍は間断なく繰り出され、次々と怪物の顔のど真ん中に突き立ち、脳髄を破壊されて身もだえする粘液の残骸に僕とナツキが火炎瓶を叩きつけていく――その怪物の燃えかすに消化剤を吹き付けるヨシが悲鳴を上げた。

「この消化器もハロんがすダゼ! ナンデモカジョウセッシュハヨクナインダッテ!」

 ヨシの心配をよそに、すぐにもうもうと渦巻く黒煙をセンサーが感知して天井からハロンガスが噴出しはじめた。ただそれも燃料投下ペースに勝るものではなく、炎にまかれた怪物どもは片っ端から消し炭と化し、回廊は阿鼻叫喚の灼熱地獄となっていった。

 炎に照らされた怪物どもの眼球に怯えの色がにじみはじめた。さすがの貪欲なヤツらも食欲減退は必至だろう。僕らはじりじりと怪物の群れを押し返していった。

 当然のことながら、僕らみんなに殺戮の手をゆるめるという選択肢はなかった。

 エリとミカは逃げる背中だろうがひざまずいて命乞いしようが構わず、『クラゲ頭』の脳髄を槍で貫き続けた。僕とナツキとヨシは火炎瓶を節約するために、脳をやられてふらつく怪物を燃えさかる炎の中に突き飛ばし、蹴り転がし、引きずり倒す作戦に切り替えた。

 僕らはついに残りの『研究員』たちを防火シャッターまで追い詰めた。愚かにも脇に潜り戸があることを知らないらしく、ヤツらは逃げ道を塞がれ右往左往しているばかりだ。

「オラァ、トットトナラバネエカ!」

 ミカは戦意喪失の『研究員』たちを槍の切っ先で突っついてシャッターの前に一列に並んでひざまずかせると、エリと二人で効率よく端から順に処刑していった。僕とナツキは火炎瓶の燃料を振りまいて一気に火を着け、効率よく残骸を燃やしていった。

 最後の一体が燃え尽きるのをたしかめると、耳に残る断末魔の残響と、得も言われぬ香ばしさが入り交じったハロンガスの霧の中、僕らは悠々と潜り戸を通り抜けた。

 だが、階段ホールに出ると、そこも避難中の『研究員』たちでいっぱいだった。

「ミナゴロシヨ!」

「ダメダ、えり。ゼンインヲアイテニシテイタラカエンビンガタリナクナル。ココハイチジタイキャクダ。カイダンヲオリヨウ」

 僕は上から降りてくる一群の前に火炎瓶を叩きつけて進路を塞ぎ、下へと降りかけている群れの背中を蹴飛ばして将棋倒しにして前の方の何体かを潰してやった。それでも立ち上がってくる残りはミカの長槍がきれいに始末していった。

「サア、イクゾ!」

 むずかるエリを無理矢理引っ張って階下に降りると、カフェテリアを埋め尽くす無数の『クラゲ頭』が警報に戸惑って立ち尽くしていた。全員がキラキラとクラゲの傘を明滅させている。そのうちの何体かが僕らに気付き、途端に明滅がせわしくなった。僕らのことを話し合っているのかもしれない。その腰が引けた様子からすると、彼らの耳にも階上での断末魔の声が届いていたにちがいない。だが、やがてその明滅パターンが変化した――いままで見たことがないほど高速で激しいものにだ!

「ヤツラ、オレタチトヤリアウツモリジャネ?」

 ナツキが僕に耳打ちした。

 たしかに、さすがに多勢に無勢だ。火炎瓶も足りない。このカフェテリアを突破する西回りを避け、反対の区画に飛び込んで東回りにエントランスに向かうべきだろう。僕はポケットから二つの眼球を取り出し、背後のセキュリティパネルに飛びついた。

「認証しました。灰田芳生博士、入構を許可します。引き続きごきげんよう」

 セキュリティが解除されてドアが開いたとき、エリが後ずさって言った。

「ミンナ、ゴメンナサイ――『アノコ』ハ、『アタシノコ』ナンダカラ!」

「えり、ダメダ!」

 エリは踵を返すと槍を振り回しながら怪物の群れに突進し、その華奢な体はあっという間に怪物たちが発する光の海に飲み込まれてしまった。ときおり槍の先が光の上で翻り、飛び散る粘液が断末魔の閃光を強く放っているのが見えた。そうしてその激しいきらめきは群れの奥へ奥へと伝播していった。

 僕はエリを追いかけようとしたが、ヨシに腕をつかまれ引き戻された。

「えりガヌケタダケデモ、ソウトウナセンリョクだうんナンダ。ヒトリノミガッテナコウドウノセイデ、ゼンメツスルカモシレナインダゾ」

「ワカッテル――ダケド!」

「ホットケ、ジコチューオンナハ。オレハマエカラオモッテタンダヨ。ダイタイ、みすこんニデヨウナンテオンナハナ、ジコケンジヨクガツヨイダケノアバズレニキマッテルッテ」

「ナンダト――モウイッペンイッテミロ!」

 僕はヨシに食ってかかった。だが、ミカが僕を止めた。

「ヤメナヨ。オイカケタッテ、アンタノチカラジャナンノタスケニモナラナイヨ。ソレニ、アノコハモウ、アアスルッテキメチマッタンダ。ドウシタッテ、ツレモドセナイサ」

「ボクヲトメルナ――ミンナハサキニイッテテクレ。ボクハえりヲツレテアトヲオウ」

「ホラナ! ヤッパリばらばらニナッテゼンメツモガモガブホ」

 ヨシが顔を真っ赤にしてわめきちらそうとしたところを、ナツキが強引にヨシの口を塞いで黙らせた。ナツキは僕に言った。

「イッテヤレ。イッテ、オトコニナッテコイ――オレノヨウナオトコニナ!」

 ――すんでのところであやうくうなずくところだった。僕はヨシにトランシーバーを取り出させ、僕のトランシーバーとチャンネルを合わさせた。

「カナラズレンラクスル。アンゼンナトコロデマッテルンダ。ゼッタイダゾ!」

 僕はヨシに念を押すと、エリの後を追いかけた。

 エリが駆け抜けたところには断末魔の残光でほの明るい一本道ができていた。それは海を割ったモーゼの奇跡のごとく、怪物の群れをぱっくりと二つに分断させていた。そしてそれは中庭へ通じるドアへの最短距離だった――そのドアの前で、最後の一体が放った光に浮かんだエリの小さな背中は、薄れゆく残光の中、そのドアの向こうへ消えていった。

「えり、マツンダ!」

 その道は、奇跡がほどけていくかのように見る間に光が消えていき、押し寄せる化け物たちによって狭められていく。悔しいがミカの言うとおりだ――それがひとたび閉じてしまえば、僕の力では二度と切り開くことはできそうにない。エリと僕とをつなぐ一本の道が、いまにも閉ざされようとしていた。

 奇跡よ、もう一度――僕はその一本道めがけて次々と火炎瓶を叩きつけた。

 等間隔に砕け散った五本の火炎瓶の炎は瞬く間に一直線につながり、中庭へのドアまでの床に生きた大蛇のようにのたうつ炎を立ち上げさせ、エリへの道を閉ざそうとする『クラゲ頭』たちをひるませて再び大きく分断させた。

 道は再び開かれた!――けど、さて、どうしよう?

 まさか火の海にダイブするわけにもいくまい。一思案の間にも、天井から猛然とガスが噴きだしはじめ、炎の勢いを弱めていく。すぐにもまた道が閉ざされてしまう――。

「コイツヲウケトレ!」

 ヨシの声だ――ヨシは『クラゲ頭』に阻まれながらも、肩に担いだ消火器を僕に向かって放り投げた!

 危ない! そんな重たいものを人に向かって放り投げるんじゃない!

 幸い消火器は、僕がさっとよけたところで、二つ三つの柔らかな脳髄がしっかりと受け止めてくれた。

「ソイツヲジブンニフキカケナガラツッパシルンダ!」

「オンニキル!」

 僕は消火器を拾い上げると、自分の足下や体に吹き付けながら炎の中に飛び込んだ。

 アチチ! やっぱり熱いじゃないか! アイツ、テキトーなこと言いやがって! 

 中庭へのドアに飛び込むやいなや、僕が通ってきた一本道はすっかり鎮火し、僕を餌食にしようと殺到してきた『クラゲ頭』で閉ざされてしまった。もう後戻りはできない。消火器をつっかえ棒にしてドアが開かないようにすると、僕は中庭を振り返った。

 さっきまでの暗闇とはうってかわって、強烈な月光が差し込んで明るくなっていた――いや、月の光だと思ったが、ただの月の光ではなかった。それは、ガラスドームへと吹き抜ける空間にそびえ立つはるか見上げるほどの粘体の、その塊の中で乱反射しては異常な屈折率で体表に投影された幾千幾万の輝く月そのものの姿だった。その粘体は、満ち満ちる月の姿を無数に映し出すのみならず、いまこの澄み切った天空が抱く星々のごとく、あらゆるところで発光し、明滅しながら、ある部分は重力のままにスローモーションの雪崩のように崩れ落ち、同時に別の部分は重力に逆らって泉のように湧き上がる流動体だった。

 その頂点には一人の男性的な人型の塊が上半身のみを突き出していて、粘体の中をあぶくのように湧き上がってくる大小百を軽く超える数の朱色の玉を、愛でるように手に触れ、手の内でもてあそび、ふたたび奔流へとそっと押し流してやっていた。その立ち姿、その立ち居振る舞いは巨大な粘体の生命体を統べる者然としていて、まさに粘体の王――『キング』の名にふさわしい者であった――。

 いやいや、ちょっと待て。

 こんな美辞麗句を並べ立てた描写をすると、とても幻想的でそれはそれは美しい絶景が僕の目の前に広がっているのだと勘違いされかねない。そんなものは映画や小説の世界の中だけの光景だ。現実はそんなに生やさしいものではないのである。よくよく見ると、この粘体のお化け、とんでもない姿なのだ。

 やはり奈津子さん流に言うと、島名物「臓物の煮こごり」を寸胴一万杯分ほどぶちまけたような、あるいは無数に積み上げた食いかけの水まんじゅうにしこたまヌタウナギのぬたをぶっかけたような、はたまた胃液で溶けつつあるフルーツゼリーの吐瀉物をもういちどゼラチンでゆるく固めたような、といった描写が適当だろう。

 その巨大なネバネバドロドロの塊の中には、研究員たちを食い尽くしたためにもはや満腹で消化する気もないのか、まだ未消化の骨や内臓のようなものが残っていて、その骨と肉の残骸にまじって缶詰の柄付きの赤いチェリーのような玉が犇めいている。目をこらして見ると、その玉の表面にはイチゴのタネのような小さな白い粒が二つずつくっついていて――どうやらそれは眼球らしい。となれば、チェリーの粒と思われるものは生き物の脳だ。チェリーの柄にあたるものは、脊椎を溶かしきったあとの脊髄というところだろう。そんな小さな朱色の玉が、循環する粘液にのせられて上の方へと浮かび上がっていくわけだ。そして、粘体の頭のてっぺんからぷつりぷつりと噴き出ては『キング』にいじくられつつ、粘液の塊の表面を滑り落ちてくる――僕にはそれがまるで、粘体の親玉が食べてしまうのが惜しくて口の中でいつまでもコロコロ転がしているまさにあの赤いかわいらしい、パフェかプリンアラモードにくっついてくるチェリーのように思えて仕方なかった。

 自己陶酔的描写の勢いにまかせて『キング』と名付けてしまったが、よくよく見ればただのオッサンだ。あんなオッサンがいやらしい手つきでそばに浮き上がってくる脳髄を片っ端からなで回しているのだ。まったくどスケベきわまりない。きっと捕まえた獲物を自分の体に取り込んで消化してしまうときだって、それはそれはいやらしい手つきで――。

 僕はハッとしてエリの姿を探した。エリはもう、『キング』、いや、あのどスケベなオッサンに食われて、コロコロと舌先でなめ回されてしまって――ああ、もう!

 だが、僕はホッとした。僕が探し求めていた狂おしいほど愛おしい小さな後ろ姿は、頭上から降り注ぐ光の雨を一身に浴びながら、まだそこにぼうっと突っ立っていたのだ。

「えり!」

 僕はエリに駆け寄った。僕を振り返ったエリの頬には涙が伝っていた。

 エリの視線の先には、『キング』の足下にたたずむ大人と子どもの姿があった。それは『大輔さん』と『アタル君』だった。

 ていうか、まだそんなとこにいるのかよ! そこに行き着くのにどんだけ時間食ってんだ! こんな展開ばっかりだからご都合主義だって映画や小説はすぐディスられるんだ! 腹痛でトイレに駆け込んだら後からセキュリティドアの「カギ」がのこのこやってきたのもそうだし、いまだって月明かりが画的にイイからって、ちょうどいいタイミングでイイ感じのライティングになるように差し込んできたのもそうだ。今度は何か? 僕らが到着するのを待ってましたとばかりに、いまから親子愛憎のメロドラマでも見せてくれるっていうのか?

 そんなふうにほとほと呆れている僕をよそに、粘体の頂点に立つ『キング』のすぐそばからクイーンならぬ女性の人型がむくりと立ち上がると、それは粘体の急斜面をゆっくりと滑るように降りてきた。そして『クイーン』は、ちょっとかがみ込んで目線を『アタル君』の背丈に合わせると、おもむろに両手を広げた。おおかたの予想通り、『アタル君』は『大輔さん』の制止を振り切って、『クイーン』ならぬ『母親』の胸に飛び込んでいった――やれやれ、まったく! どうやらほんとうにメロメロのメロドラマの幕開けだ!

 わかってほしいのは、このわざとらしい展開は本当に偶然の一致以外のなにものでもないということだ。話を面白くするための脚色などではない。それに、こんなことはよくあることじゃないか? 少女が連れ去られてもすぐにはフェイスハガーに襲われてなくて、間一髪というところで主人公に助けられたりとか、大作ですらタイミングばっちりのご都合主義が横行しているくらいなのだ――というか、大作だからこそという見方もあるけれど。もっともその少女は続編で――おっと、ネタバレはこのへんでやめとこう。

 『母と子』はひとつに溶け合いながら無邪気に再会を喜んでいた――僕には、粘体の怪物同士が獰猛なうめき声をあげながら共食いしているようにしか見えないが。

 なんにせよ、見るにたえない陳腐なドラマはいつだって無尽蔵に作られるものだ。それにリモコンでチャンネルを変えてしまえば、そんな番組がこの世に存在してたって僕にとって害があるものでもない。同じように、ここはとくに触れずにそっと退散するべきところだろう。それに嫌な予感もする。僕はエリの手を引っ張ってこの場を去ろうと――ああ、なんてことだ! 予感的中だ! エリの顔はもう涙と鼻水でグッシャグシャだ!

 そう、エリは感動しいなのだ。あのテの母子の光景は、しかも感動の再会となると、それはそれはエリの大の大好物なのだ。こうなるともうテレビのリモコンはエリのもの。エンドロールが流れ終わるまでチャンネルを変えることは決して許されない。

 だがそれでも、僕はエリの腕をつかんで引っ張っていこうとした。エリよ、君こそ、さんざん泣いて感動した後はすごくお腹が減るって言ってた張本人だろう? ヤツらだって同じだ、いまごろもうお腹が減ってくるころかもしれないじゃないか!

 しかしそのとき、僕の決意をくじけさせるほどの咆哮が中庭じゅうにわんわんと轟いた。

 『キング』だ――というより研究所の所長、いや、どスケベなオッサンにして大輔さんのオヤッサンだ。

 『キング』もまた流れ落ちる粘液にのって滑るように降りてきた。『キング』はもう一度怒りを込めて咆えた。僕は首がすくむほどビビったが、一番ビビってるのは『大輔さん』だった。父親の一喝で、もう体がゼリーのようにぷるぷる震えてしまっている。『キング』はいかめしい顔つきでまたも咆えたてた。

「わが息子よ!」

 ――とでも翻訳しておこうか。この後、うめき声の応酬が少しばかり続くのだが、まあ彼らも元は人間、そして父と子、だいたいの内容は想像できる。僕による脚色はあるけれど、アタル君から聞いた話に基づけば、僕の意訳もあながち的外れでもないだろう。

「どうしようもない放蕩息子よ、お前もそろそろ身を固めてまともな仕事を――」

「僕は芸人を続けたいんだ!」

「認めん! 父さんのように社会的地位のあるまともな人間になるのだ!」

「父さんがまともだって言うの? 母さんをほったらかしにして、秘書やホステスと浮気してた父さんがまともなわけないじゃないか!」

 と、いきなり『親父』が『息子』の頬をぶっ叩いた。それはもう勢いがよすぎて、『大輔さん』の脳がまとっていた粘液がほとんど飛び散ってしまったほどだ。

 しかし、くずおれかけた『大輔さん』をしっかと抱きとめたのも、やはり『父親』だった――そして強い! 熱い! 硬すぎる! なんて抱擁だ! 言葉はいらない! ただただキツい抱擁で『父』と『息子』は身も心も溶け合うようにわかり合えるのだ!

 『父と子』は泣いていた。そして、『息子』が失った粘液を『父親』のとめどない涙が――いや、だくだくとあふれて流れ落ちる粘液が補っていった。

 ああ、まずい――これは涙腺にくるなぁ――。

 やがて『父と息子』、そして『母と幼子』は、まばゆく光る粘液の塊の中へと溶け込んでいった。そして、怪物たちも満足ゴキゲン、めでたしめでたしのエンドロール――なのだが、ふと僕の胸にまたも嫌な予感がよぎった。エンドロール後のオマケ的、続編つなぎ的なシーン――例のアレが来る予感だ。

 予感的中。それは、こんな無邪気なシーンで終わったところからはじまった。

 こうして仲良し家族は幸福に暮らしましたとさ、ちゃんちゃん、はいエンドロール――ではなく、何の脈絡もなく粘液の塊からまるでおとぎ話のこびとのようにぴょこんと飛び出してきた『アタル君』が、屈託のない五歳児のあざといあどけなさでエリにおいでおいでと手招きしやがったのだ! それに対して、あろうことかエリは大きくうなずいた!

「あたし、行くわ――」

 はらはらとさわやかな涙を流しながらエリは僕に言った。いつの間にか声が戻っている。

「ダメダ、えり! イッチャダメダ!」

 僕の声はまだだった。さっきさんざんガスを自分に振りかけたせいかもしれない。

「トシオが――待ってるのよ」

「アレハとしおクンジャナイ! キミノオトウトナンカジャナイゾ!」

「そうよね、『アタル君』だったわね――でも、どっちだっていい。あの人たちと一緒にいたいの。心からの本心よ。心からの願望よ。心の向くままに生きて何がいけないの?」

「ソレナラボクガイルジャナイカ、えり。ボクハ――」

「あたしは愛が欲しいの! 心から愛されたいの!」

 エリは痛々しく叫んだ。多少、気圧されはしたが僕は力強く言った。

「えり、ボクハキミヲココロカラアイシテイル――」

「あなたの言葉は軽いのよ! 軽すぎるの! ふわふわなのよ!」  

「エヘン! ボクハキミヲ――ゴホン! ボクハキミヲアイシテ――クソ!」

 僕は精いっぱい重々しい声を出そうとしたが、このキンキン声はどうにもならなかった。

「この世に本当の愛はないわ。あたしにとってこの現実はつらすぎるの。でも、あの人たちは純粋だわ。本能のおもむくままに――無垢の愛のままに生きるのだから」

「えり、イカナイデクレ――」

「さよなら――あなたは誰よりも優しい人だから、もっといい人と出会えるわ」

 エリは僕を見つめてそう言った――エリ、君は気付いていないだけかもしれないが、その言葉は女が男をフルときの常套句なんだよ。

 エリの言葉を何度も反芻しているうちに、エリはもう僕に背を向け、『アタル君』がさしのべる手に手を添えて光の塊の中へと入っていってしまった。

 エリはすっかり粘液に包まれると、無数のあぶくとともに光の中心、粘体の塔の中心に浮かび上がっていき、僕を振り返った――そして、エリは、ゆっくりと、溶けはじめた。

 薄いブラウスとスカート、スニーカーは見る間に消え去り、上下の下着もまたじわじわと溶け、その下の白い肌がみるみる露わに



              たときのベッドの上に咲いた可憐な白い花、そして弾けるように狂い咲いた僕だけの花びらは、もう僕の心の記憶にのみあるだけとなってしまった。

 ついには、エリは脳髄と二つの眼球と脊髄のみの姿となった。僕のエリはもう二度と取り戻せない。笑顔も泣き顔も、声も仕草も、僕が心から愛した彼女のすべてが――僕の胸は潰れるほどぎゅっと締め付けられた。ただ、救いは、エリを包む粘液に不浄な濁りは一切なく、きらびやかに輝く無数の月と無数の星々の光に囲まれ、まるで彼らの――もう怪物などとは呼べまい――一員となったことを祝福されているかのようだった。エリは最後に、その穏やかな二つの眼で僕のことをじっと見つめると、彼らと一緒に粘液の塔を上へ上へとゆらゆらとのぼっていった。

 エリは言った――この世に本当の愛はない、現実はつらすぎると。僕は誰よりも君のそばで君を見守っていたつもりだった。つまり、僕はただただ君を苦しめる者のひとりにすぎなかったというのか――そうなのかもしれない。でもエリ、君はいま幸せかい? そこでなら真の愛に巡り会えるというのかい?

 僕の頬はいつの間にか涙で濡れそぼっていた。納得しようとした。だが、どうしても僕は諦めきれなかった――エリ、僕の愛は本当に軽かったのかい? 僕のこの心からの愛の叫びは、もう君に決して届かせることはできないのかい?

 僕は叫んだ。思いの丈を精いっぱい込めて――。

「えりぃーッ! ボクハキミヲ! ココロノソコカラアイシテ――」

「クッタバレェーッ、コノふにゃ**ヤロォォォーッ!」

 僕の愛の叫びをいともたやすくかき消したそのキンキン声は、やはりミカだった。

 ミカはわめきながら中庭に飛び込んできて、粘液の塔に向かって猛然と突進していった。ミカのその手は幾多の脳髄を叩きつぶして血みどろになった鉄パイプの長槍を携えていて、彼女はその槍を走りながら肩に担ぎあげると、まるで槍投げの選手のように――いや、そんな生やさしいものじゃない、その殺気、その鬼気迫る勢いはまさに古代ローマ帝国レギオンの投槍兵のごとし! ミカは大きく踏み込むと、槍を斜め上方に投げ上げた。

 僕は開いた口がふさがらなかった。この感動のラストシーンに水を差すヤツがいるってことに呆れて? いやいや、斜めにカットされて尖った鉄パイプの先から、なんと火花が噴き出ていることにだ――あれはまちがいなく点火された導火線だ! ダイナマイトの!

 槍はちょうど塔の頂点に登り切った島尻一家とエリを串刺しにしたかにみえた。

「ヤッタゼ、バーロー! ソーロー! ザー**ヤローッ!」

 そして次の瞬間、粘液の塔が爆発した。

 膨大な量の粘液、何十もの脳髄やその断片を中庭じゅうにまき散らし、衝撃波でガラスドームをはじめ周囲のガラスというガラスが粉々に割り砕かれ、雹のように僕らの頭上に降り注いだ。爆発の衝撃が直撃した二階の渡り廊下も半分は破壊し尽くされ、がれきがそこかしこでなだれ落ち、鉄柱や梁が不気味に軋みながら僕に向かって倒れてきた。

 がれきが僕を押しつぶそうとしただけではない、窓の割れたカフェテリアからどっと『クラゲ頭』たちがなだれ込んできたのだ――もはやこれまでと観念しかけたとき、僕はいきなり激しく突き飛ばされた。直後、僕がついいままで立っていた場所に渡り廊下のがれきが折り重なるように崩れてきて、さらには倒れた鉄柱が僕に襲いかかってきた怪物どもの先陣を軒並み押しつぶした。

 僕を助けたのはミカだった。ミカは「イタタ」と体を起こすと、つっけんどんに言った。

「ナニぼさっトシテンノサ。アヤウクアンタモぺしゃんこダッタヨ――」

 僕は怒りにまかせてミカにつかみかかり、壁に押しつけた。

「ナンテコトヲ――ナンテコトヲシテクレタンダ! アソコニハえりガ――」

「イヤン、ヤダヤメテ、コンナトコジャイヤ! モットチャントシタトコロデ――」

「フザケルナ! キミノセイデえりガ――えリがバラバラになって――あー、あーあー、本日は晴天なり、本日は晴天なり」

 どうやら声が元に戻ったようだ。

「エーズルイーアタシハー? ホンジツハセイテンナリ! ホンジツハセイテンナリ! トウキョウトッキョキョキャキョク! アカマキギャミアオマキギャミキマキギャミ!」

 二人で声の調子をたしかめているうちに、ミカも本来の声が戻ってきたようだ。僕らは思わず目を見合わせて笑った。そのうちにミカの笑顔がどこかちょっと照れくさそうだということに気付いた。僕はさっきからずっとミカを壁際に詰め寄っていて、いわゆる「壁ドン」をしている格好だったのだ。僕はすぐに飛び退いた。

「ごめん――ありがとう。怒るなんてどうかしてた。君のおかげで僕は――」

「礼を言うのはあとよ」

 ミカの視線を追って振り返ると、『クラゲ頭』の第二陣が倒れた鉄柱を乗り越えてくるところだった。それどころか、僕らは囲まれていた。ミカが僕の腕をぎゅっとつかんだ。

「絶体絶命ね」

「――いや、まだだ」

 崩れて積み重なった渡り廊下の残骸を三メートルほど登れば二階部分に上がれそうだった。僕はがれきを拾って先頭の『クラゲ頭』を叩きつぶした。

「ここはまかせろ、上に登るんだ!」

 ミカはうなずくとミニスカートをたくし上げてがれきの絶壁を登りはじめた。僕はさらに三、四体の脳髄を的確に叩きつぶすと、ミカの後を追った。

 ――決して狙っていたわけではない。たんに今度は僕がこの身を挺す番だと思っただけだ。だから、ミカを先に行かせたのだ。だから、これは偶然だ。がれきの崖を見上げたときに見える素晴らしいこの眺め――いや、そもそもこんなことを考えている場合ではない! 僕の足のすぐ下からは『クラゲ頭』たちが這い上ってきているし、頭上ではミカが最後のオーバーハングに手こずっている。いまのこの状況、決してラッキーなわけではないのだ! 神にかけて誓う!

「キャッ!」

 ミカが悲鳴を上げた。ハッとして顔を上げると、素晴らしい眺めが――いや、ただ覆う生地のちょっと少なめなミカのお尻が、僕の眼前まで滑り落ちてきた。僕は両手両足を踏ん張って、それを顔面で受け止めた。

「モゴモゴ、フガフガ! フンガフンガ、ブホンブホン! (しっかりつかまれ!)」

「キャッ!」

 ミカはなぜか悲鳴を上げて露わな尻を手で隠した――つまり、ミカは僕の助言に真っ向反して、がれきにしがみついていた手を離してしまったのだ。

 僕はとっさに手を伸ばした。高さは三メートル、落ちたら粘液のプールだ――柔らかそうだからいいか、なんてチラと頭をよぎったことはミカには内緒だ。すんでのところで僕はミカの手首をがっしりとつかんだ。

「はなさないで!」

「はなすもんか!」

 僕は歯を食いしばってミカの体を引っぱり上げた。そのすぐ下ではすでにヌメヌメと滴る触手となった粘液の手が伸びてきて、ミカの足首に絡みつこうとしていた。触手にさわられるたびにミカは足で蹴って払いのけようとしていたが、らちがあかないようだった。

「ミカちゃん、僕の体を足がかりにしてよじ登るんだ――」

 ――わかってもらえるだろうか。これだって他意は無いのだ。ミカを真っ先に助けたいと切に願うばかりのこの僕に、一体どんな罪があろうか?

 ミカは僕の足や腰にしがみつきながら僕の体を這いのぼりはじめた。僕はがれきから突き出た鉄筋の端をしっかり握って、あまり余計なことは考えないようにした。必要とあらば般若心経の一節を唱える用意はできている。ミカの体のいろんなところが僕の体のそこかしこに密着したりして、踏ん張る手足の痛みを忘れさせてくれるような心が揺れ動く幸福なひとときだが、僕はそれでも平常心を保って――ええい、もう正直に言おう! これだけがんばってるんだから、僕にだって多少のご褒美があったっていいじゃないか!

 ミカはついにオーバーハングを乗り越えると、手を伸ばして僕を引っ張り上げてくれた。

「サンキュー」

「こちらこそ」

 ん? 何かヘンな感じだ。ミカはハッとして崖の下をのぞき込んだ。

「来るよ、アイツら」

 『クラゲ頭』たちははじめオーバーハングの下で右往左往していたが、すぐにヤツらも僕らを真似て、仲間を踏み台にしてオーバーハングを乗り越えようとしはじめた。さらには避難指示に従わずに二階のラボに残っていた(こういう輩は必ず一定数存在するものだ)『研究員』たちが僕らに気付いて、窓に張り付いて僕らを威嚇してくる。

 僕はあたりを見回した。対面の渡り廊下にはラボへ出られるドアも割れた窓もあるが、僕らが立っているところは背後に怪物だらけの窓があるだけだ。さらには左右とも足下は崩れ落ちている。僕らはどこにも逃げ場がなかった。

「あれを見て!」

 ミカが指さした先には天井から垂れ下がったケーブルがブラブラと揺れていた――なんとまあ都合のいいことに。

 僕は助走をつけて崖の縁で飛んでケーブルにしがみつくと、振り子のようにミカのところに揺り戻った。そのときにはもう、積み重なるようにオーバーハングを越えてきた『クラゲ頭』たちが、ミカの足下に殺到しようとしていた。チャンスは一度きりだ。

「飛べ!」

 僕が叫ぶと、ミカは崖の端からジャンプした。僕はミカを抱き留めると、がっしりとミカの腰を抱き寄せた。

 しかし、この勢いでは向こう側に届きそうになかった。二人で体を弾ませながらブランコのように宙を漕いで勢いをつけた。元いた側では『クラゲ頭』たちがオーバーハングを登りきり、カサを広げて僕らが揺れ戻ってくるのを待ち構えていた。だが、そいつらはエリの的確な三連キックで脳髄を蹴り飛ばされてふらつき、崖の下へと転げ落ちていった。

「君が先に飛べ!」

 ミカはサーカスの空中ブランコのように僕の腕にぶら下がった。地上ではダイナマイトの爆発で吹き飛んだ粘液が一カ所に集まりだし、一つの脳髄を中心に再び塔をつくろうと――いや、その先端は明らかに僕らを捕らえようとグングンとのびはじめていた。

「いまだ!」

 僕は力を振り絞ってミカを放り投げた。ミカは宙を飛んだ――そして、向こう側の渡り廊下に転げるようにして無事に着地した。

「飛んで! はやく!」

 ミカは僕を振り返って叫んだ。

 いまや元いた側は『クラゲ頭』たちが犇めき、地上からは巨大な粘液の触手が咆哮を上げながら僕を飲み込もうと口を広げていた。僕は足を大きく広げて触手をかわし、崖の上のブヨブヨたちを蹴散らしつつ壁を蹴ってさらに勢いをつけると、もう一度触手をかわし、ミカのいる向こう側へ飛んだ――ミカが僕を抱きとめようとしてくれたが、僕らは抱き合ったままゴロゴロとがれきとガラスの粒だらけの床を転がった。

 ちょうどそのとき、さっきまでいた対岸の渡り廊下は『クラゲ頭』たちの重みで音を立てて崩れ落ちた。巨大な触手もがれきの雪崩に飲み込まれて沈黙した。

「間一髪ってところね」

 ミカが僕を助け起こしながら言った。

「こんなの朝飯前さ」

 そうキメたあと、僕は激しく後悔した。こんな使い古された決めセリフを口走るなんて――だが、ミカは少しも茶化すことなく、いままで見せたことのない素敵な笑顔でわらってくれた。はたしてそこまでウケるものだとはとても思えないのだが、シンプルイズベスト、一周回って新鮮ということもあるのかもしれない。

「ところで、ナツキとヨシはどうしたんだ」

「あいつらね、あたしを置いて逃げたんだよ。いたいけな女の子を置き去りなんてヒドくない? チョーアタマくる!」

 ミカは頬を膨らませてご立腹だ。ダイナマイトで『キング』一家を吹っ飛ばした猛者のセリフではないなと思いつつも、僕は調子を合わせた。それで少しは気をよくしてくれたのか、ミカは機嫌を良くしたようだった。

「といっても、ベトベトザー**野郎どものなかに、すっごく手強いのがいてさ。そいつに追い回されてはぐれちゃったんだ――でも、もう平気。ひとりじゃないモン」

 ミカはにっこりと微笑んだ。僕はなぜだか急にドキドキとしてきて、ミカから離れるように慌ててラボを抜けて回廊へ向かった。

 回廊に人影はなく、爆発の影響か、いまだ舞い上がっている埃が常夜灯の下で漂っていた。割れずに済んだ外周の窓からは月明かりが差し込み、リノリウム敷きの床に散らばるガラス粒を宝石のようにきらめかせている。

 僕はふと思い出して、ミカの髪に潜り込んだガラス粒を取ってやった。ガラスの雨をかぶったのは僕だけではないのだ。そして、あのときミカが飛び込んできてくれてなかったら、僕はきっと、生き延びることよりエリを追いかける方を選んでいたかもしれないのだ。

「君には礼を言わなきゃなと思うんだ」

「あたしだって――」

 ミカははにかむと、急に僕の腕にしがみついてきた。生き残った二人の男女がいい関係になるというよくある展開がいま目の前で起こりそうなことに悪い気はしなかったが、僕の心の整理がつくのにはもう少しだけ時間がかかりそうなのだ。それが現実というものだ。

「ミカちゃん、気を悪くして欲しくないんだけど、僕はまだエリのことが――」

 ミカは途端に険しい顔つきになって、手を押しつけて僕の口を塞いだ。

 わかったオーケー、僕はもうエリのことを忘れることにする――いや、そういうことではなかったらしい。ミカは僕の背後を指さしてささやいた。

「来る――」

 緩くカーブする回廊の向こうから、カツ、カツと規則正しい靴音がやってくる。

「きっと、さっき言った手強いヤツらよ――」

 僕は返事代わりに、ミカをかばうように立ち、腰のランボーナイフを鞘から抜いて構えた――と、ふと僕は気付いた。

「君、いまヤツ『ら』って言ったよね――」

 振り返ると、ミカの姿はすでにそこになかった。彼女はさっさと階段ホールへ逃げ込んでいったようだ。そのとき、僕の背筋はゾクリとした。なぜか急に靴音がサラウンドになって聞こえはじめたのだ――つまり、前からも後ろからも同じ靴音が聞こえてくるのだ。

 なんのことはない、後ろからも靴音がしてくるだけだ。

「二人もいるなんてきいてないよ!」

 僕は階段ホールへ逃げ込んだ。そこへミカが下の階から慌てて駆け戻ってくる。

「二人じゃない、三人よ!」

 ミカは立ち止まることなく三階へと駆け上がっていった。彼女の言うとおり、下の階からも靴音が上がってくる。僕は急いでミカの後を追った。

 三階には回廊はなく、右も左も十メートルほど先で突き当たりの壁となっていた。どちらの壁にもドアがあるが、セキュリティパネルが設置されているのは東側だけで、西側のドアは緊急避難時のみに使われるもののようだった。どちらのドアにもいいかげん見慣れた黄色地に黒のバイオハザードマークがこれ見よがしに貼ってあった。

 まるで軍隊の行進のような靴音が、僕らを追って階段を上がってくる。ためらっている暇はなかった。僕は一目散にセキュリティパネルに取りついた。

 ミカはその手前の倉庫に飛び込み、なにやら中で物をひっくり返しはじめた。

「ミカちゃん、なにをしてるんだ。ヤツらがもうすぐそこまで来て――」

 そう声をかけたとき、僕はうっかり目玉を二つとも落としてしまった――慌てたときほど、ヌルヌルする丸いモノの扱いにくさったらない!

 灰田博士の眼球は床で小気味よく跳ね回り、てんでばらばらに転がっていった。僕はとっさに飛びついて一つ――こっちは左目――をキャッチし、もう一つを追いかけた。

 そのとき、堅い靴のかかとを足並みそろえて打ち鳴らした音が廊下に轟き、かすかな残響を残して静まった。僕はおそるおそる顔を上げた。

 ミカの言うとおり、三人――いや、言葉の正確さを期すなら一粒と一頭と一本というのが妥当だろうか、つまり、チビと巨漢とノッポが僕の前に立ちはだかっていた。しかも三人とも警備員の制服を着ていて、凶暴な黒くヌラヌラした警棒を手にヒタヒタとうちつけて静かに威嚇してくる。僕は戦況分析のために脳をフル回転させた。

 チビ:「高杉」という名札を胸につけているが『チビ』。とにかく小さい。こういう系統のヤツはとにかくお調子者。ウザい。

 巨漢:名札は――いや、もう『巨漢』でいいだろう。無線室で見かけた深夜ラジオのヘビーリスナーだ。それゆえ、布袋様に似た温厚そうな顔の下に実は狂気を秘めているにちがいない。深夜ラジオオタクとはそういうものだ。鈍重そうだが、見た目通り鈍重だ。階段をあがるだけですでにあえいで――あらら、へたりこんでしまった――戦力外。

 ノッポ:そして出っ歯。たしか『タカクラタカシ』という名前だったか。いや、名前なんてどうだっていい。きっと嫌みや皮肉ばかり言ってるやつにちがいない。

 瞬時に的確な分析を済ますと、僕はランボーナイフを構え、じりじりともう一つの眼球――あっちは右目――の方へと近づいていった。

 敵も『巨漢』をのぞいて、黒く太いヌラヌラした警棒を腰の前で構えた。相当な自信があるらしい。消化即吸収を武器にしたクラゲ頭の形態になる必要はないということか。

「お、おとな、し、しく、おな、おなわお、おちょ、ちょう、ちょう、だい、し、ろ」

 『チビ』はたどたどしくどうにかそう言い切ると、満足そうにケタケタ笑い出した――まあ、チャンスさえあれば、誰にも言ってみたいセリフはあるものだ。お返しに僕も何かないかと考えてみたが、僕の返事を待たずに『チビ』はいきなり飛びかかってきた。

 とりあえずはリーチを活かした前蹴りで『チビ』を突き転がした隙に目玉を拾うことはできたが、『タカクラタカシ』への対処が遅れた。最初の一撃はどうにかナイフで受け止めたが、刃ががっちり警棒に食い込んでしまったせいで、ナイフはあっけなく手からもぎ取られてしまった。直後、あわや左右からの『チビ』と『タカクラタカシ』の完璧な連携攻撃が僕に襲いかかろうというとき、いきなり現れた真っ白い濃い霧が僕らを包み込んだ。

 巨大なガスボンベを引きずって倉庫から飛び出してきたミカが、ガスを撒き散らしながら二人を牽制しはじめたのである。

 またガスか、と僕は少々ウンザリしたが、とにかもかくにも助かった。もうもうと噴き出す白いガスが慌てて飛び退く『チビ』と『タカクラタカシ』を見え隠れさせている。

「こっちはまかせて、ドアを開けて!」

 僕は急いでセキュリティパネルに取りつき、目玉をかざしてロックを解除しようとした。だが、どうにもうまく認証されない。どうやら床を転がったせいで埃がまとわりついてしまったようだ。ヌルヌルしてるせいか息を吹きかけても埃は吹き払えない。しかしヘタにこすって拭おうものなら角膜を傷つけてしまうかもしれない。僕はツバをペッと吐きかけてみたが、なんだかあぶくだらけで余計に汚らしくなってしまった。そこで僕は思い切って、視神経をつまんで目玉を二つとも口に放り込むと、両側の頬の袋に一つずつ含んで舌の先で交互にコロコロ転がした。パフェやプリンアラモードのサクランボを歯で噛まないようにしながら舌の上で転がすあの要領だ。どうにも埃臭いが背に腹は代えられない。そしてそれらをぷっと吐き出すと、狙い通り目玉は二つともきれいになった。だが次の瞬間、僕はあっと驚いてまたも二つの目玉を床に落としてしまった。

 もうもうたる白いガスがおさまったところに、氷の塊となった『チビ』と『タカクラタカシ』のオブジェが立っていたのだ。

「液体窒素よ」

 ミカは鼻高々だ。

 『チビ』は愕然とぽっかり開けた口がどこか哀れだった。出っ歯の『タカクラタカシ』はというと――まあ、描写しづらいほどに微妙な格好で凍りついていた。あえて言葉を尽くすなら、左肩はやや上がり気味だが肘は九〇度に折れて手は胸の真ん中、手の平は上向き、右腕は高く上に突き上げられ、手首は直角に折れ、手の平はちょうど頭の上で下に向けられている。右足は膝から屈折し、ぴんとつま先立ちした左足に左膝の前で交差している。一言でいえば――いや、いろいろな意味でこれが描写の限界だ。

 ミカは『チビ』の手からガチガチに硬直した黒く太い警棒をもぎ取った。

 僕はうらやましくて仕方なかった――いや、その黒く太い棒がではなくて、この凍りついた怪物たちを破壊することがだ。だが、それをする栄誉、権利はミカにこそあるのだ。

 しかし、あろうことかミカはなにも決めセリフを言わずに警棒をチビとノッポに振り下ろしたのだ! まったく、これだからシロウトは! もったいない!

 『チビ』と『出っ歯』のオブジェは一瞬でバラバラに砕け、かけらというかけらが床を滑って廊下の隅々まで飛び散っていった。

 さらにミカはバカでかいボンベを引きずっていって、いまだに床にのびてあえいでいる『巨漢』の前に立つや、おもむろにボンベを頭の上に抱え上げた。

「待って! もしかしたら、彼はたぶん――僕らの仲間だと思う」

「はぁ? 何言ってんの?」

 ミカは僕の言葉を訝りながらも、ボンベをおろした。

「ねえ、君――『タコライスよりイカめしが好き』を知ってるだろ?」

 『巨漢』は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにうなずいてヘラヘラとにやけだした。

「それは僕の友人なんだ。それとさ――ひょっとしたら君は『すっとこベーコン次郎』も知ってるんじゃないのかい?」

 『巨漢』は首を傾げた。辛抱強く待ったが、それでも彼は首をひねるばかりだった。

「――ミカちゃん、やっちゃって」

 ミカは待ってましたとボンベを高々と抱え上げると、『巨漢』の脳天めがけて叩きつけた。ビシャリと音がして『巨漢』の頭が潰れた。

 ミカは恍惚とした表情を浮かべて大きくため息を吐いた。

「ねえ、『すっとこベーコン次郎』ってなんのこと? なんか似たようなのをどこかで聞いたことがある気がするんだけど――ま、いっか。とにかく、ここを出ましょ」

 僕は後味の悪い気がしてならなかったが、もはやしかたあるまい。僕はどうにも気分がすぐれないまま、床に散らばった氷塊の中から落とした目玉を探した。

 そのとき僕は気付いた。氷のかけらが溶けつつあるのだ。しかも溶けた表面は元の粘液となり、床を這ってひとところに集まろうとしていた。

「あたしもヤキが回ったわね――ちゃんと脳みそを潰して焼き払っとくんだったわ」

 僕とミカはじりじりとあとじさりした。

 二つの崩れかけた脳髄が、廊下の隅で粘液に包まれた一つの塊となろうとしていた。

 ええと、『チビ』とノッポの『タカクラタカシ』が合体すると――まず出っ歯はどうなる?――いや、それどころではない! 僕は急いで目玉を拾い、もう一度口に放り込んでぐにゅぐにゅとゆすいで埃を落とすと、セキュリティドアの解錠に取りかかった。ミカは液体窒素のボンベのバルブをひねっていたが、ガスはもう出てこなかった。

「ミカちゃん、こっちだ。すぐここを開けるから――」

「認証しました。灰田芳生博士、ハザードレベル『1』エリアへの入室を許可します。『この先は 注意怠り 命取り』。引き続きごきげんよう」

「入って!」

 ミカを開いたドアの中に押し込むと、僕はナイフを拾いつつ怪物を振り返った。

 千々にちぎれた『警備員』たちの体はいまやすっかり解凍されていた。二つの脳髄を核とした粘体の足下に、より小さな粘体の細片が引き寄せられ、吸い上げられ、湧き上がるように上へ上へと立ち上がっていった。その高さが天井に突き当たると、そこではじめて核の最奥部にあった二つの脳髄は、左脳、右脳、そして小脳以下の各部位にバラバラに分解され、粘液の中で光ファイバーのような糸によって再びつなぎ合わされていった。そして結合されるそばから脳と脳の間に稲妻が走りだし、二つの脳髄は一つの脳髄として機能を取り戻していった。

 四つの眼球もまた視神経を互いに絡み合わせ、同時に、光る糸で縫い合わされるようにして脳髄の前で横一列に並んだ――『四ツ目』の化け物だ。

 他は足し算だ。背丈も腕も足も、チビとノッポを足すと、つまり結局はただたんにひょろりとしただけのヤツになろうとしていた――いや、『四ツ目』は頭を失った『巨漢』の体をも取り込もうとしていた! これは誤算だ! チビと出っ歯とデブを足すと、ええと、つまり――チビと出っ歯とデブを足した怪物になるのだ!

 それらが滞ることなくほんの十数秒のうちに完遂される頃、『四ツ目』はどこをどう足し算したのか知らないが、廊下の高さと幅いっぱいの巨体になっていた。そしてその頭が瞬時に巨大な傘となって広がると、びりびりと建物全体を振るわすほどの咆哮を上げた。

 僕には勝算があった。僕は部屋に入ってドアが閉まるのをたしかめるとミカに言った。

「大丈夫、ヤツはすぐには入ってこれないよ。見ててごらん」

 案の定、パネルの前で『四ツ目』は立ち往生している。認証エラーの連続で例のおばさんの声に叱られているのだ。四ツ目の怪物は四つの目玉をイライラとぐるぐるさせている。

「セキュリティをパスするのに目玉は四つもいらないってこと。四つの目玉のうち必要なのは二つ。それも左右の並びも決まっていて、パスできる組み合わせは、ええと――まあ、正確な計算は置いといて、全部で何通りかあるうちのたった二通りだけ」

 怪物は僕らの頭を軽くひねり潰せるくらいの大きな手と凶暴に尖った堅そうな指で、自分の小さな目玉をグリグリとつまんで引っ張ってセキュリティパネルにかざしたりしている。そしてまたもセキュリティに拒絶されている。

「どや顔してる場合じゃないよ。たんに時間の問題でしょ」ミカはにべもなく言った。「それにさ、あたし気付いちゃったんだけど、アイツがそこでモタモタしてる限り、あたしたちはこの階から出られないのよ。建物の見取り図を見たでしょ?」

 僕はうなずくしかなかった。この三階エリアには外周や中庭に面した窓は一切なく、エレベーターも階段も一カ所のみ。つまり、このハザード区画の部屋を先にどんどん進んでも、ぐるり一周回って、出口はいま『四ツ目』の背後にある緊急避難用のドアだけなのだ。

「いっそのこと、アイツ、吹っ飛ばしちゃおっか」

 ミカはおもむろにポシェットからダイナマイトを取り出して、ライターをチャチャッといわせて火を着けようとした。僕は慌てて止めた。

「こんな狭いところで爆発させたら、僕らだってひとたまりもないよ。そりゃ、衝撃波で鼓膜は破れ、内臓は破裂して――さっき、あんなに広い中庭でさえどうなったか、忘れたわけじゃないだろう? 大丈夫、このドアから入ってくるにしてもあの図体じゃ無理だ」

「わかったわかった。とりあえず、ま、のちのち考えましょ」

 僕は急に不安になってきた。ミカは僕に断りなくやるに決まってる――いつか必ずだ。

 僕らは黄色の完全防護服が何着もぶら下がる小部屋やその隣の紫外線ライトが灯る消毒・洗浄室を通り抜け、さらに奥の部屋――ハザードレベル『1』の部屋へ入っていった。

 そこは実験器具や様々な機器がある部屋だった。僕らはそこで武器を探したが、解剖器具以上の大きさのものはなく、どう考えてもあの廊下いっぱいの図体をした怪物に対抗できそうなものはなかった。僕らはこの部屋に早々に見切りを付けると、再び目玉のカギを使ってさらに先のエリアへと入っていった。

 ハザードレベル『2』エリアは、壁一面が大小のステンレス製ケージで占められていた。どのケージにも「オルトロス」や「ハーピー」、「エキドナ」、「シーザー」といった名札がかかっていたが、どれもが煤けたガラス扉で密閉されており、その中は黒焦げの燃えかすがあるばかりだった。

「怪物になる前の研究員たちがやったのか、それともアタル君がやったのか――」

 PCのモニターを見てみると、たしかに「緊急焼却処理完了」の文字が点滅している。どのケージにも隅にノズルのようなものがあり、緊急事態となればそこから火炎が放射され、被検体の動物たち――フェイズ2かフェイズ3に寄生された宿主、あるいはフェイズ4の宿主の形態を模した粘体生物を焼き尽くす仕掛けになっているにちがいない。ただ、「ロケット」と「アラクネ」だけはガラス扉が煤けていなかった。

「それにしてもこの名前――みんな実験動物につけられた名前だろうね。『オルトロス』はたぶん犬だ。『エキドナ』はヘビ、『ハーピー』は鳥かな? 『シーザー』は――」

「チンパンジーでしょ?」

 僕が驚くと、床に四つん這いになってキャビネットを漁っているミカが平然と言った。

「むしろ映研のあんたがどうしてわからないの? 『ロケット』は――キャッ!」

 ミカが突然悲鳴をあげた。僕はすぐにミカに駆け寄って助け起こすと、ミカの顔面に白いネバネバした粘液がひっかかっていた。

「ヤダヤダもう! あたし、これゼッタイNGなんだよね!」

 そのとき、戸棚から這い出てきたタランチュラのようなクモがキャビネットと床の隙間に潜り込んでいった。僕はそいつを追い立てて、そばにあったガラス瓶に閉じ込めた。クモは僕に怒って僕を威嚇し、足の先からいきなり糸を吐き出した。ガラス瓶の内側にドロリとした白い粘液が引っかかった。

「こいつは『アラクネ』だろうね。ほら、やっぱりクモの糸みたいだよ。スパイダーマンみたいな、ドビュッと飛び出す白いヤツあるじゃん。あれのもっとドロッとしたやつだ」

「なんでもいいから取って! クサい、キモい!」

 僕だってそんなの嫌だけどしかたない――いや、実を言うと僕は急にドキドキしてきたのだ。ミカは目をぎゅっと閉じて僕に顔を突き出してくる――顔をそんなものでベトベトにしながらだ。僕らの関係はいまのところ何もないのに、何かいろいろないくつものプロセスをすっ飛ばしてとんでもないことをしでかしてしまったようで、そこはかとない後ろめたさがこみあげてくるとともにナニやらムズムズとした――いや、この先は語るまい。

 幸い、その白濁した粘液はどうやら消化のためのものというわけではないらしい。

「コラーゲンみたいなものだと思えばむしろありがたいんじゃないかな」

「男はいつだってそう言うのよね! バッカじゃないの! 死ねばいいのに!」

「じっとしてくれなきゃ取るに取れないよ」

 僕がちょっと意地悪く言うと、ミカは黙ってされるがままになった。僕はごくごく丁寧にたっぷりと時間をかけて、ミカの顔じゅうに付着したその白濁した粘液をぬぐい取ってやった。すっかりきれいにしてやると、ミカの顔はツルッツルのモッチモチになった。

「ウッソ、マジコレ? マジヤバ!」

 ミカも自分で頬をペタペタたたいてその効能をたしかめて嬉々としている。僕のテキトーな慰めもあながちでたらめではなかったようだ。

 ゲストハウスで読んだ資料にも、この地球外生命体のありとあらゆる種類のタンパク質産生能力には様々な可能性が秘められており、必ずや医薬品業界に革新をもたらすだろうとあった。そしてまた、この小さきイタズラな八本足――『アラクネ』と呼ばれる実験体によって研究所の女性研究員の顔面が卑猥に穢された暁には、即座に化粧品の用途としての活用が見いだされていたにちがいない。

「あたし、このクモちゃん連れて帰る! それで毎日このコにぶっかけてもらって――」

「それはダメだ」

「どうして? 別に害はないんでしょ?」

「いまのところはね。でも、本来クモが糸を出すのは捕食行動の一環だ。コイツはもうただのクモじゃない。YBXが組み込まれたクモなんだ。コイツがちょっとでもこの糸を獲物を捕まえるだけでなく、同時に消化にも役立てたいと思ったら――」

「思うわけないじゃん。このコはただのクモ。ファーブルは本能は不変だって言ってたわ」

 ミカの口からファーブルの名前が出たことに僕は驚いた。ミカは不思議そうな顔をした。

「あら、知らない? ファーブル昆虫記は誰だって子どもの頃に読むものだと思ってたわ」

「読んだことくらいあるさ。でもファーブルはもう百年以上も前の人だ。本能だって自然選択によって進化するっていうのがいまの定説だよ。もちろんコイツらはもはや通常の生物進化とはちがう方法で進化していくんだろうけど。ひょっとしたら自然選択なんか全部すっ飛ばしてしまうかもね。きっとダーウィンもドーキンスもびっくりだよ」

「うーん、でもぉ、ほらぁ、あたしのほっぺさわってみてェ――モチモチプニプニ、マシュマロオッパイみたいでしょぉ?」

 ミカは僕の両手を取ると、自分の頬にぺたりと押し当てさせた。いやはやたしかに、これはこれは実にマシュマロなおっ――おっと、こんなのにはだまされないぞ。

「ある朝突然、この糸が消化液に変化したりして、ミカちゃんのそのきれいな顔がドロドロに溶け出しちゃったらどう? 嫌でしょ? いまはたまたま運が良かったんだよ」

 僕はガラス瓶に閉じ込めたクモを「アラクネ」のケージに放り込んで閉じ込めた。『アラクネ』は瓶から這い出てきて、またも足を広げて白い粘液を吐き出して威嚇してくる。

「コイツらがひとたび野に放たれたら、地球上の生物には抵抗する術は一つもないんだ」

 僕はPCのキーボードを叩いて緊急焼却処理プログラムを起動させると、クモを閉じ込めたケージの番号を打ち込み、実行キーを叩いた。小さなケージに据え付けられた噴射ノズルは鉛筆ほどの細いものだったが、クモを真っ黒焦げにするには十分な炎が噴出した。

 ミカはほっぺたをペタペタしながら残念そうに言った。

「あーあ、もったいない。どうせならもっとぶっかけてもらうんだったなぁ――」

 それにしてもこの檻から逃げ出した『ロケット』はどこへ行ったのか――それに、実験体『ロケット』とはいったいどんな生物なのだろうか。

 そのとき、どこかから――レベル『1』のセキュリティドアだ――自動ドアが開く音がし、同時に例のおばさんの声が聞こえてきた。

「入室を許可します。『あやしいな そんな意識が 大切です』。日々お勤めご苦労様です」

「図体がデカいから入ってこれないって言ったじゃん! どうすんのさ!」

 ミカが叫ぶより早く、僕は洗浄室を駆け戻り、セキュリティドアの小窓からレベル『1』の部屋をのぞいた――と、部屋の対角にあるドアが開き、『四ツ目』が入ってきた。

 ミカの疑問の答えはすぐに解けた。

 『四ツ目』――もはやチビでも出っ歯でもデブでもない、三体を足して三で割った普通の警備員――は小窓からのぞいている僕に真っ直ぐ向かってきた。ただ、どうにも動きをノロい。『四ツ目』もそのことを気にしてか、後ろを振り返った。

 『四ツ目』がどうやって部屋に入ってこれたのか、その理由がわかった。

 正面から相対するとたしかに制帽をかぶった頭や手足、体表に投影された制服の柄など姿形はガードマンそのものだが、それは真正面からの見た目だけで、その全体の姿はいわゆる「押し出しようかん」そのものだ。つまり、迫りくる『四ツ目』の正面は、「ようかん」でいえばこちらの端っこで、長い胴体を引きずったまま向こうの端っこはまだ洗浄室から出てすらいないのだ。そのおかげでか、『四ツ目』の動きはひどく遅くなっていた。

 だが、部屋の気密を保つためだろうか、自動ドアが勝手に閉まりはじめ、あろうことか『四ツ目』が引きずっている胴体の向こう半分をぷるんとちょん切ってしまったのだ――と、このへんの様子については、どうか「押し出しようかん」は別名「糸切りようかん」とも呼ばれることを思い起こしていただければ理解は容易だろう。

 『四ツ目』としてはかえって都合が良かった――『四ツ目』のこちらの正面はニヤリとほくそ笑むと、短くなった残りの胴体を引きずりながら、今度は倍の速さで迫ってきた。

「来るぞ!」

 僕はミカの手を引いてレベル『2』ルームへ戻ろうと駆けだし、洗浄室出口の開扉ボタンを叩いた――だが、ドアはウンともスンともいわなかった。その理由はただ一つ――汚染を拡散させないために洗浄室の前後二つのドアは、決して同時に開くことはないからだ。

 僕らの後ろのドアで、例のおばさん声が言った。

「ハザードレベル『2』エリアへの入室を許可します。『大切な 家族のための 防護服』。引き続きごきげんよう」

 僕らはおそるおそる振り返った――向こうのドアがまさに開かれようとしていた。

 僕にかわってミカが狂ったように開扉ボタンを連打しはじめたが、ドアは一向に開かない。『四ツ目』は悠然と向こうのドアから入ってきた。僕らは袋小路に追い詰められたネズミも同然だった。

 しかし不思議なことに、『四ツ目』は敷居をまたいだところで立ち止まり、そこから動こうとしなかった。不敵な笑みを浮かべ、黒く太い警棒をビタンビタンと手の平に打ち付けているだけだった。

「アイツ、どうして襲ってこないの――」

 ミカはボタンを押すことを諦め、僕の腕にすがりついてきた。ミカらしくないと思ったが、ちらと見た彼女の顔はモチモチでツルツルでまるでマシュマロオッパ――いや、か弱き少女の横顔でしかなかった。さすがのミカのような女傑でも、未知の怪物との死闘がこれほどまでに続けば、ついには張り詰めていた糸が断ち切れてしまうものなのだろう。

 僕は構えたランボーナイフに力を込めてみた――大丈夫、僕はまだ闘える。このか弱き少女を守ってみせる! なぜなら僕は主人公、この物語のヒーローなのだから!

 ――ところで、『四ツ目』はなぜ襲ってこようとしないのだろう。

 数秒がまるで永遠と思えた。僕と怪物の視線が激しく絡み合う――といえば聞こえはイイが、目玉の数ですでに負けている。

 そのとき、しびれを切らしたかのように、『四ツ目』の背後のドアが閉まりはじめた――僕はそれを待っていたのだ!

「ミカちゃん、いまだ! ボタンを――」

 僕はハッとした。ひょっとして、もしかして、いやまさか――僕は疑念を抱いたまま『四ツ目』の四つの目を見た。その四つのどの目も、何かを確信しているようだった。

 閉じゆくドアが、ぷつりと『四ツ目』の背中を断ち切った――と同時に、残った『四ツ目』は一瞬で姿形を整えると、すぐにだいたい一人ぶんの姿に変貌した――つまり、もっとも身軽な姿にである! 『四ツ目』こそ、この瞬間を待っていたにちがいないのだ!

 『四ツ目』は瞬時に僕に飛びかかってきた。

 チビの俊敏さ! 圧倒的に手足の長い出っ歯でノッポのリーチ! さらには巨漢の漲る力!――それらをぜんぶ足して三で割ったせいで結局はごくごく普通のスピードとパワーで、警棒を僕の頭に振り下ろしてきた。

 僕はとっさにかがみこんで、頭をかばった腕と背中のリュックで警棒の一撃を受け止めながら『四ツ目』の足にタックルした。『四ツ目』の突進は止まったが、防御の腕越しに後頭部が受けた衝撃は、風呂場で滑って後頭部をしたたかに打ったくらいにずしりとダメージが重く、僕は床に這いつくばったまま立ち上がれなくなってしまった。追撃をくらえばどうしたって耐えられそうにない。誰だって風呂場で二度も滑って二度も後頭部を打った日には、いっそのこともうこのまま死んだ方がマシだと思ってしまわないか?

 だが、僕はまだ生きていた。『四ツ目』の警棒の第二撃は、朦朧とする僕の目の前の床を激しく打っただけだった――ミカが僕を開いたドアの方へ引きずってくれたのだ。

「立って! 立てっつってんだろ、このヘタレが!」

 なぜかミカに脇腹を蹴飛ばされた僕はどうにか立ち上がると、ミカの肩を借りながらドアへと駆けだした。しかしドアをくぐる寸前で『四ツ目』が僕のリュックをひっつかんだ。僕はドアの縁をつかんでこらえた。ミカは僕の手からナイフを取り上げると、僕の肩越しに『四ツ目』の顔に突きかかった。

 僕の耳元で「ぷちっ」というかわいらしい音がした。直後、怪物の悲鳴が僕の耳をつんざいた。見ると、僕を飲み込もうとしているクラゲ頭の真ん中で、目玉の一つにナイフが突き立っていた。

「目だ! 目を潰すんだ!」

 僕はミカに怒鳴った。ミカは僕の顔のすぐ横でめったやたらにナイフを振り回した。そして、彼女は僕の耳を削ぎ落とすことなく、ついにやり遂げた――僕の耳元でまたも「ぷちっ」という音がしたのだ。『四ツ目(?)』はのけぞって悶絶し、僕のリュックを離した。

「どうしよう! ナイフを取られちゃった!」

「いいから、走れ!」

 僕とミカは猛然と次のドアへ走った。背後からは怒りの咆哮が迫ってくる。

 僕の意識の半分はつるっと滑った風呂場に置き去りにしてきてしまったが――あれ、それとも、えっと、なんでこんなに頭が痛いんだっけ?――まあそれはともかく、もう半分はきちんとやるべき仕事をした。あやまたず目玉のカギでセキュリティをパスさせたのだ。

「認証しました。ハザードレベル『3』エリアへの入室を許可します。『おっとっと――」

 のんきに安全標語を聞いてる場合ではなかった。僕らは力を合わせて自動ドアを強引に閉じた。ガチリとロックが掛かると洗浄室は減圧され、鼓膜がかすかに膨らむのを感じた。

「キャッ!」

 ミカがいきなりドアから飛びすさった。彼女の足下に怪物が伸ばした触手の切れ端がぼたりと落ちて暴れ出したのだ。小窓の向こうでは『四ツ目(?)』はナイフが突き立ったままの顔を痛々しそうに歪ませている。僕は触手の切れ端を隅の方へ蹴飛ばすと、洗浄室を抜けて、レベル『3』の部屋に入った。

「ミカちゃん、いくつヤツの目を潰した?」

「わかんない、たぶん二つか三つ――二つは確実だけど」

 潰した目が三つなら『一ツ目』はもうセキュリティドアをパスできない。『二ツ目』なら、パスできる可能性は――ただ一つだけ残されていることになる。

 ミカは最低でも二つの目玉を潰した。残った眼球は二つきりなので組み合わせは変えられず、できるのは左右を入れ替えることだけ。二つの無傷な眼球が残っていてもそれがパスできない組み合わせなら、『二ツ目』は永久にこのドアを開けることはできない。パスできる組み合わせが残る確率は三分の一で、それさえ揃えられれば左右の入れ替えは可能だ。つまり、三分の一の確率で、『二ツ目』はドアを突破してくるのだ。

 その確率が高いか低いか――これは一度のジャンケンで勝つ確率に等しい。ヤツはジャンケン一回勝負で必ず勝たなくてはならない。僕らはただ負けなければいいだけだ――。

 しかし、僕の楽観的な思惑はあっという間に打ち砕かれた。僕らの背後で洗浄室のドアが閉じるやいなや、その洗浄室の奥、すなわち入口側のドアからくぐもった声が――。

「認証しました。ハザードレベル『3』エリアへの入室を許可します。『おっとっと さわらぬ神に――」 

「隠れて!」

 僕はミカに鋭くささやくと、それぞれ物陰に身を隠した。

 レベル『3』ルームは、そこはかとない不穏な気配を息づかせている何台ものコンピューター、何台ものモニターを載せたデスクがあり、それらの間を無数のケーブルが縦横無尽に走っている。壁一面には、ビーカーや試験管などの味気ないガラス細工、実験器具の無骨なステンレス工芸品、ありとあらゆる毒物劇物薬物の小瓶が犇めいているマッドサイエンティスト御用達のキャビネットが隙間なく連なり、さらに部屋の真ん中には、三方に分厚い窓ガラスを巡らした巨大なステンレス製のチャンバーがあった。そのガラス窓のない一面には重たそうな気密ハッチが「LEVEL4」の文字とバイオハザードマークが毒々しい赤文字で彩られている。

 部屋の奥には、三階エリアをぐるり一周してエレベーター・階段ホールへの非常口のドアがあるはずだが、この部屋の性質上、滅多なことでは出入りする機会はないのだろう、天井まであるキャビネットによってドアは完全にふさがれていた。消防法がどうのこうのと言ってもはじまらない。もしものときは、いま来た道を戻るしかない。

 僕はちらとミカを見た。ミカは四つん這いになって、短いスカートの尻を僕に向けて突きだし、窮屈そうにキャビネットの下の戸棚に潜り込もうとしている。その眺めといったらいやはや――いや、それどころじゃない! そんなところじゃすぐにバレるって!

 そのとき洗浄室のドアが開いた。

 『二ツ目』だ――それぞれの手には、黒々とヌラヌラした警棒と、あろうことか僕のあの凶暴凶悪なランボーナイフを握りしめている。それにひきかえ、僕はそれらに勝てるようなモノは何一つ持ち合わせていない。もちろん、「モノ」とは武器という意味だ。

 ともかく、反撃のチャンスはまるでありそうになかった。いまはただ、息を殺して物音を立てずに隠れているしか――。

 ぷう。

 まさかとは思ったが、ミカと目が合って確信した。ミカは首を振って全力で否定したが、あの顔の赤らめ具合からすると、彼女がやったのはたしかだ。

 『二ツ目』は鼻をひくつかせながらミカが隠れている方を振り返った。このままではミカが見つかってしまう。

 僕は――毅然と立ち上がった! いや、これはまったく僕の意に反していることだ! たぶんまだどこかの風呂場に置き去りにしてきた――そもそも風呂場って何のことだっけ?――マトモな方の意識が僕のところへ戻ってきていないにちがいない。だが、そんな事情を怪物が知るはずもなく、『二ツ目』はゆっくりと僕の方に向き直った。

 こうなってしまったら粘液したたる黒光りした警棒で殴り殺されるか、あるいは刃渡り三十センチはあろうかという凶暴なナイフで骨までぶつ切りにされるかだ――と、考えてみたけど、どっちも嫌だ。それに僕には一つだけ秘策があった。

「こっちだ、化けモン!」

 僕はチャンバーの気密ハッチを開け、その中に飛び込んだ。

 そのときまで僕はまるで考えもしなかったが、チャンバー内は天井の排気ダクトで空気が吸い出されて負圧される構造になっているらしい。そのことに気付いたときにはもはや手遅れだった。そのため、閉まる直前にハッチの隙間から空気がヒュッと流れ込んだとき、ミカのおならの臭いを一瞬嗅いでしまった――このことはここだけの秘密だ。

 僕はチャンバー内の中央にある無菌アイソレーター(ゴム製のグローブがガラス窓にはめ込まれていて、このグローブを通してその内部で手作業をするための箱)の向こう側に回り込むと、『二ツ目』を挑発した。

 「どうした、来いって言ってんだろ! このミニマム***野郎。チビとノッポとデブのを足したって三で割っちまえば、どうせ平均以下に決まってるぜ!」

 だが、僕ははたと気付いた。この極厚のガラス窓と頑丈な気密ハッチの負圧された箱の中から、僕の声はチャンバーの外にいる『二ツ目』に届いているのだろうか。もし聞こえていなかったとすると、ただただ無駄に僕の品格を貶めただけじゃないか!

 どうやら心配には及ばなかったようだ。『二ツ目』は僕を追ってチャンバーに入ってきた。そして、アイソレーターを挟んで僕と『二ツ目』は対峙した。

「す、す、すみや、やかに、にこ、ここここをで、てく、だ、ださい」

 『二ツ目』はそう言葉を絞り出すと、クラゲ頭の傘がぱっと開いた。今度は二オクターブも高い声がメガホン効果で、真っ直ぐ僕の鼓膜にキンキンと響いてくる。

「コ、コココハ、セイケ、ケツ、ケツナ、バショ――デス、ノデ、ケシ、ケッシ――ッシテ、ヨゴ、シ、シテハ、ナリマセ、ン」

「へえ――言われたとおりにすれば、僕らを食べないと約束するっていうのか?」

「モ、モ、モ、モチ、ノ、ロン、デス――」

「ウソつけ!」

 今度は返事はなかった――あるとすれば、『二ツ目』の喉元でひそかにゴクリと生唾を飲みこんだ音が、メガホン効果のせいでぜんぜん「ひそかに」でもなんでもなく僕の鼓膜に轟々と響いたことだ。

 僕はじりとアイソレーターの陰から体の半分をさらけ出して見せたが、『二ツ目』はハッチの前から動こうとしなかった。全盛期のロナウジーニョばりのフェイントを入れてみたが、まったく動じない。万策尽きたかに思えた。

 と、僕はふと思いついて、少々下品だけど、カーッぺッと床にツバを吐いてみた。すると、『二ツ目』の左目がぴくりと跳ね上がった。

 僕は今度は盛大に鼻くそをほじくり、取れたススだらけの特大のヤツを実験器具に擦りつけた。怪物の両目がピクピクとひくついた。

 ようやくヤツは、僕を捕って食おうという欲求よりも、僕がここを好き放題に汚染していることに腹を立てはじめたようだ。職務に忠実な見上げたヤツだ。

 とは言うが、どうもまだ僕の方で思い切りが足りないようだ。少々どころではない下品さが必要なのかもしれない。僕はミカがのぞき見てないことをたしかめると、おもむろにズボンのファスナーをおろし、悠然と道具を取り出して(この状況下にしてはまずまずだ)放尿しようとした。もちろん大きい方だって構わないが、それはさっきトイレで済ませてしまっている。

「ソ、ソ、ソ、ソンナ、コト、イ、イ、イ、イ、イケ、イケマセン!」

 『二ツ目』はついにキレて、僕に飛びかかってきた。

 僕は素早く道具を元の場所に押し込むと、アイソレーターを『二ツ目』とは反対側に回り込んで入れ替わるようにしてチャンバーの外へ飛び出した。そして、すぐさまハッチを閉じて気密ロックのハンドルをグルグル回し、さらにハッチの周囲四カ所にあるレバー式のロックをひねって完全に閉鎖した。

「ミカちゃん、先にここを出るんだ!」

「待って! その前に――」

 ミカはおもむろに僕の股間に手をさしのべ――。

「全開だったよ」

 ミカはにっこりと微笑んで、僕のズボンのファスナーを上げてくれた。何事もなかったかのように平静を装って(こぼれ出てなくてよかった!)、僕はミカを促した。

「さあ、行くんだ。僕はコイツを始末してから後を追う」

 ミカはうんとうなずくと洗浄室へと駆け込んでいった――が、すぐに慌てて戻ってきた。

「大変! アイツのドロドロのベチョベチョでアソコはもうドロドロのベッチョベチョ!」

 たしかにドアの小窓からのぞいてみると、『二ツ目』が切り離してきた粘液が統率を失って足の踏み場もないほどそこらじゅうを這いずり回っていた。

「非常口から出るしかない――」

 ミカには非常口ドアを塞いでいるキャビネットなどの障害物をどかすように頼むと、僕はチャンバーに直結されているPCのキーボードを叩いた。

 分厚いガラスの向こうで『二ツ目』が何か喋っているみたいだが何も聞こえてこない。どうせ「コ、コ、ココヲ、アケ、アケ、ナサイ」とでも言っているのだろう。僕は無視して、モニターに表示された選択項目に端から視線を滑らせていった。隣の部屋の実験体ケージのように、このチャンバーにも緊急焼却処理プログラムが備わっているはずだ。

 あった。

 選択項目の一つをクリックし、リターンキーを押し込んだ。プログラムを起動させる手順も同じだった。ちがうのは、例のおばさんの声でアナウンスが流れることだった。

「緊急焼却処理プログラムが起動しました。このプログラムの実行により、対象の被検体は焼却処分されます。実行しますか? 『はい』の場合はYを、『いいえ』の場合は――」

 僕はキーボードの「Y」を叩いた。例のおばさんの声が続ける。

「『はい』のキーが押されました。『プログラムの実行』でよろしいですね。『はい』の場合はYを、『いいえ』の場合はNを――」

 僕はグッとこらえ、またもYキーを静かに押し込んだ。

「『はい』のキーが押されました。『プログラムの実行』を開始します。本当によろしいですね? 『はい』の場合はYを――」

「クソババアが!」

 僕は指が折れるほど思い切りYキーを叩きこんだ。すると、やっとのことでけたたましい警報が鳴りはじめた。

「ただいまより、緊急焼却処理プログラムを実行します――」

「それだよソレ! ババア、カモン!」

「――カウントダウンを開始します。三○○、二九九、二九八――」

 何かの冗談だろうか? 三○○秒って――五分? マジで言ってるそれ?

 『二ツ目』は両腕を高々と掲げ、指の先から伸ばした触手をガラス窓の隅々まで広げていた。隙間を探しているのだ。たしかにこの負圧チャンバーは簡易的なもので完全な密閉容器ではないのかもしれない。とはいえ、簡単に通れる隙間などないはずだ。ましてや高分子タンパク質の粘液などが通り抜けられるはずが――。

 ガラスの隅の方が、なにやらかすかに曇りはじめた。チャンバーの外側の表面だ。

 曇りはやがて結露して滴となり、チカチカときらめきはじめた。その光の信号は、明らかにチャンバーの中にいる『二ツ目』と交信しているようだった。

 滴は窓の表面で薄い膜となり、やがて厚みを増しはじめていった――ごくごくゆっくりだが、『二ツ目』は粘液の体をごくごく低分子にしてかすかな隙間を通過させ、チャンバーの外で再結集しようとしているのだ。

「二七七、二七六、二七五――」

「ミカちゃん、非常口はまだか!」

「だめぇ、重いぃ~動かない~」

「モタモタするな!」

 天井まであるキャビネットと奮闘中のミカを叱り飛ばし、僕はキーボードを叩いてさらにオプション項目を開いてみた。

 あった――「カウントダウンの省略」だ。

 僕は項目を選んでYキーを連打した。どうせこのババアは何度も「Y」を押せと――。

「入力エラーです。キーを正しく入力してください」

 僕は発狂しかけた――が、どうにか般若心経のおかげでこらえることができた。僕はクソババアが求めるままにYキーを一度だけそっと押し直した。

「カウントダウンの省略を実行します。本当によろしいですね? 『はい』の場合はYを、『いいえ』の場合は――」

 ――僕の心は、風一つない、とある早朝の精進湖のように静かだった。いまなら逆さ富士だって映り込むことだろう。ついに、この最後のYキーの一押しを残すのみだ。ついに、ついにこの長い闘いが終わる――。

「アスタラビスタ――いや、『地獄で会おうぜ、ベイビー』byトダナツコだぜ」

 僕は『二ツ目』の悔しそうに歪む顔をとっくりと眺めながら、Yキーを押し込んだ。

「緊急焼却処理のカウントダウンを省略します。緊急実行ボタンを押してください。緊急実行ボタンを押してください――」

「ファック!」

 いったいなんだってんだ! このくだり、こんなに要る?!

 とにもかくにも緊急実行ボタンとやらを押さねば終わらない。僕は一割の冷静さで九割の発狂を抑え込みつつ、それらしきボタンを必死になって探しまわった――いや、エヘン、キーボードのすぐ横に、百メートル先からでもはっきりわかる真っ赤な特大のボタンがこれみよがしに据え付けられてある。僕はボタンに手の平を押し当てて構えた。『二ツ目』も、ちょっと戸惑いながら、さっきと同じ顔をしてくれた。

「ゴホン――『地獄で会おうぜ、ベイビー』byトダナツコ、だぜ」

 僕は手の平で赤いボタンを叩いた。

 シュッとガスの流れる音がしたかと思うと、直後、一斉に炎が噴き出した――アイソレーターの中の小さなガラスのシャーレに向かって、ちろちろと小さな炎がだ。

 真っ白に燃え尽きたのは僕の頭だ。もう何も考えたくない。何も信じるものか――。

 『二ツ目』は勝ち誇った顔をしている――ヤツの無数の触手はもうチャンバーの外に勢ぞろいしていて、僕の顔の前でもったいぶるように宙に躍っていた。まるでいままさに食われんとする獲物の恐怖を煽り、その恐怖が極限に達するのを眺めているかのようだった。

 そのとき、僕はいきなり腕をがっしりとつかまれ、引っ張られた。

「来て!」

 ミカは僕を隣の洗浄室に押し込み、ボタンを押してドアを閉めると、両手で耳を塞いで隅にうずくまった。僕はあっけにとられたが、何が起きるかすぐにわかった。

 向こうの部屋――レベル『3』で大爆発が起きた。轟音と爆風をともなって洗浄室のドアが吹き飛んできて、僕の脇をかすめて反対側の壁に突き刺さった。

 僕はとっさに耳を塞いでいたが、それでも激しい耳鳴りがして何も聞こえなくなった。

 ドアの破れた部屋はもうもうとした煙が充満していた。そこかしこで火花がはじけ飛び、チャンバーは割れた卵のように真っ二つになって黒焦げで、天井のあたりで小さな炎がガス管から噴き出し、すぐ横の管から噴き出るハロンガスによって吹き消されようとしている。部屋の奥の非常口を塞いでいたキャビネットが、ひしゃげた状態で反対の壁まで吹き飛んでいた。見ると、非常口のドアも吹き飛んでなくなっている。

「ミカちゃん、あれほど狭い場所でダイナマイトはいけないって――」

「文句は後にして!」

 ミカの視線を追って振り返ると、チャンバーの裂け目から、もはや原形をとどめていない『二ツ目』が千々にちぎれた粘液の細片を再集結させながら這い出てくるところだった。ミカは有無を言わさず、ダイナマイトの導火線に着火すると、粘液に向かって放り投げた。すぐさま僕らは非常口を走り抜け、階段ホールに飛び込んで階段を駆け下りようとした。そのとき、背後で再び爆発が起き、わずかに遅れてきた爆風が僕らを吹き飛ばした。

 一瞬の出来事のはずだが、僕にとってはすべてがスローモーションだった。まるで無重力空間で優雅に宇宙遊泳するように、音もなく、動きはゆっくりで、僕の意識だけが研ぎ澄まされていく――。

 階段ホールを縦横無尽に反射する爆風――それらに次々と、しかしゆっくりともみくちゃにされながら、それでも僕は体をひねり、手を伸ばし、僕のすぐそばを漂うミカの腰をたぐるようにして抱き寄せた。ミカもゆっくりと僕の体に手を回す――そうして僕らは宙を漂い、舞いながらしっかりと抱き合った。二人で一つになれば、吹き荒れる爆風の嵐もどうというものでもない。僕らは見つめ合い、その固く揺るぎない絆をたしかに感じ合ったものだった。

 さて、いよいよ階段を十数段もすっ飛ばしての着地が僕らを待ち受けていた。それまでの流れで、僕はミカの体の下側になっていたのだが、このまま着地してはどうにも痛そうだ。そこで僕はほんの気持ち――ミカにそれと悟られない程度に体にひねりをくわえてミカの体を下にしようと試みた。いや、まさか、ミカを着地のクッションにしようというわけでは――エヘンないオホンわけゴホンではない。

 とにかくまあほんのちょっと足を後ろに振り出すと、しっかりと抱き合った僕とミカの体は回転をはじめた。ちょうどいいところで足を今度は逆の方向に振ると回転が止まった。

 ミカちゃん、これは偶然なんだよ、僕にはもはやどうにもできない、不可抗力なんだ――僕はそういう思いを込めた目でミカを見つめた――思わず頬が緩みそうになる。

 だけどやっぱり、神様はどこかで見ているのだろう――爆風は最後の最後で、僕らの体をクルリとひっくり返したのだ。

「げふっ!」

 僕は背中から床に落ち、ものの見事にミカのクッション代わりにされ――いや、身を挺してか弱き女性を守るという男気を見せることができたのだ。

 僕はあまりの痛みにしばらく声が出せなかった。

「あたしを守ってくれたのね!」

 ミカは感激に涙ぐみ、僕を強く抱きしめた――まあ、そういうことにしておこう。

 そして、満身創痍の僕にかいがいしく肩を貸してくれるミカとともに、僕らはついに、僕らの手によって破壊の限りを尽くした阿鼻叫喚の地獄絵図と化した研究所を脱出した。

 しかしというか、やはりというか――そこにランドローバーはなかった。

「ガッデム! クソデブのバラ肉チャーシューめ! 腹肉埋まり粗**野郎!」

 ミカは声の限りに明るみはじめた空に咆えた。僕はミカをなだめた。

「きっと安全なところで待機しているんだ。ビショップだってちゃんとリプリーを――」

「とっとと逃げたんだよ、あのハム野郎はよ! ん? ん?」

 ――たしかにそうだ。ヨシという人間があの忠実なアンドロイドと同じだとはどう前向きに考えても認めることはできない。あまりの落胆に僕は地面に座り込んでしまった。だが、それでもミカは僕の肩をしっかりと担ぎ直すと、ランドローバーの轍をたどって歩みを早めた。見ると、僕より薄着の彼女は体じゅう切り傷や擦り傷だらけだ。僕ばかり肩を借りて甘えているわけにはいかなかった。僕らは互いに互いを支え合いながら先を急いだ。

 そのとき、前方で茂みが音を立て、いきなり僕らの前に何かが飛び出してきた。

 僕はミカをかばうようにして前に踏み出した――うむ、コレが本来の僕だ。

 だが、ミカも同じだった。彼女も同じように前に歩み出て、僕にぴったりと寄り添った。死ぬときは一緒よ――その目がそう言っていた。

「おいおいお前ら、いつからそんなカンケーになったワケ?」

 何のことはない、飛び出してきたのはナツキだった。

「無事だったのか!」

 僕は気を遣ってミカから体を離そうとしたが、ミカは離れようとしなかった。むしろ、もっと体を密着させてきたくらいだ。ミカはナツキをにらみつけた。

「どのツラ下げてノコノコ出てこれんのさ? か弱きオトメを置き去りにしたくせに!」

「待て待て! 逆だよ逆! むしろお前がオレとヨシを置いてけぼりにしたんだってば!」

「何言ってんのよ! どうしてあたしがあんたらの面倒を見なくちゃなんないのよ!」

 ナツキに食ってかかるミカをなだめると、僕はナツキに訊いた。

「ヨシはどうしたんだ? 一緒じゃないのか?」

 ナツキは大げさに肩をすくめた。

「ヨシに関しちゃむしろオレがお前に聞きたいよ――それ、まだ使えるんだろ?」

 ナツキに指摘されて僕は腰に手をやった。

 トランシーバーだ。あのドタバタのなかでも、失くしも壊れもしなかったようだ。

 僕はトランシーバーの送話ボタンを押した。

「あー、えーと――ヨシ、応答せよ」

 この定型セリフを口にするのはどうも気恥ずかしいが、そんなことを気にしているのは僕だけらしい。ミカもナツキも固唾をのんで応答を待っている。だが、応答はない。

「ヨシ、戻ってきてくれ。僕らはまだ研究所の近くだ。頼む、応答してくれ――」

 僕が送話ボタンを放した瞬間、スピーカーがピーピーガーガーとわめきだし、ランドローバーの激しいエンジンの唸りとヨシの切羽詰まった声が聞こえてきた。

「バカ野郎、いまさら勝手なこと言うな! オレを置き去りにしやがって! いまお前らなんかにかまってる暇は――ギャーッ」

 ヨシの絶叫はブツリと切れ、それから何度応答を求めても返事はかえってこなかった。

「やられたな、アイツ。しっかし、クルマがないと、港に行くにもゲストハウスに帰るにもツラそうだなァ。まあ、のんびりてくてく歩いて行こうや。な?」

 ナツキがのんきに言った――だがそのとき、僕とミカはすっかり言葉を失っていた。

「ん? どした? 間抜けなツラして?」

 そんなことを言っているナツキの背後で、みるみるうちに見上げるほどの高さの粘液の塊が立ち上がっていった――そしてそいつはいきなり太い触手を伸ばしてきて、ナツキの体をグルグル巻きにして高々と持ち上げた。

「うぉぉ、苦し――ヒャヒャヒャ、くすぐってェ!」

 ナツキを締め上げ(?)ながら、粘液の塊は最終的に三メートルほどの高さになり、その頂点から七個の脳髄がひものような脊髄をともなってあふれだし、なだれ落ちてきた。

 粘液塊の大元のほうは、一つの脳髄と脊髄を頂点に戴くと、他七つの脳髄たちに粘液を分け与えながら僕とそう変わらない背丈の人型になっていった。そして、その顔は――やはり『大輔さん』だった。あの島尻一家大爆殺でも死んでいなかったのだ。

 その『大輔さん』の足下では、まだ完全体となりきれていない半透明のブヨブヨの、やたら年寄り顔の『こびと』たちが目を剥いて僕とミカをにらんでいる――ひょっとしたらこの七人の『こびと』たちは、奈津子さんの父親と六人の伯父たちなのかもしれない。

 『大輔さん』の眼差しは激しい憎悪のために、グラグラと煮えたぎるようだった。そして、その腕がゆっくりと上がっていき、僕とミカを射抜くように指さした。

 僕はつとミカから離れてみた――『大輔さん』の指先と『こびと』たちの視線はミカにとどまった。ほらね、僕は関係ない。島尻一家を爆殺したのは僕じゃないんだから――。

「ヤベェ、マジ怖エェ」

 ミカは僕にガッシリとしがみついてきた。困ったことに、『大輔さん』の憎悪の眼差しと指先と七対の視線はまたも僕にロックオンされた――とんだとばっちりだ。

 だが、そんな僕を救ったのは意外にもナツキだった。

「まあまあ、待てって! とりあえずあの二人はほっとけって!」

 『大輔さん』の触手に宙吊りにされたままのナツキはそう声を張り上げると、『大輔さん』たちの注目を一手に引き受けてくれた。

「オレさ、あんたらの仲間になるよ」

「ナツキ、何をバカなことを言ってるんだ! みんなで生きて帰るんだって約束したろ!」

「いやだってさ、オレもうオシマイじゃね? これ見てよ。捕まっちゃってんだぜ、オレ」

「ダメだ! 諦めるな! いま助ける――」

 僕はナツキの足をつかんで引っ張った。だが、あろうことかナツキは僕を蹴り飛ばした。

「悪ィ悪ィ! でもよ、オレはいいんだって、止めんなって!」

 そのナツキの頭に、『大輔さん』から伸びてきたチカチカ光る細い触手が何本も突き立ち、ナツキの顔に苦痛が浮かんだ。だが、それは次第に恍惚としたものに変わっていった。そして触手を通じて、『大輔さん』からナツキへ、ナツキから『大輔さん』へ光のきらめきが行き来していた。

「――どうやら本当みたいだぜ。こうされてるとわかるんだ。コイツらさ、何のしがらみもなく本能のままに生きる生き物だ。オレは――オレは――ヤリたい放題、ヤッてヤッてヤリまくってヤルぜ!」

「こんなときまで何をバカなことを――」

「エロスに生きる。それがオレの本望だ――お前ならわかってくれるだろ?」

 ナツキはそう言うと、触手に四苦八苦しながらジーンズのポケットに手を突っ込んだ。

「コレを受け取ってくれ」

 ナツキがポケットから取り出して、僕に投げてよこしたものは、彼が片時も離さず持ち歩いていた原寸大「かすかべいくん」のキーホルダーだった。

 あらためて紹介すると、「かすかべいくん」とは、あの全国的に有名な伝統ある銘菓「草加煎餅」に対抗して、二つ隣の春日部市が安易に生みだした「春日部煎餅」をモチーフにしたゆるキャラのことだ。直径七、八センチほどの大きさのソフト煎餅を模したザラザラの丸い板に寝ぼけたような垂れ目とぷっくりとした丸い鼻の「ぽっち」があるが、その表情はモチーフにした妖怪「ぬりかべR」同様、愛嬌のかけらもない。

「形見だと思って大事にしてくれよな」

 ナツキは親指を立て、ニヤリと口の端を持ち上げて笑った。僕はその微笑みに、ナツキという男の、プレイボーイとしての生き様の集大成を見た気がした。いろいろと――いや、かなりの部分相容れないヤツだったが、同性の僕でさえも惚れ込む男ぶりを見せる一面もたしかにあったのだ。それが何だったかというと、ええと――すぐには思い出せないが、とにかく、バカなヤツだったことだけははっきり言える。そのこと一つだけでも――、

「ナツキ、僕は君のことを決して忘れない! 君が怪物になっても僕は君を誇りに――」

 刹那、ナツキの頭に突き立った触手が引き抜かれると、別の触手が目にも留まらぬ速さで横ざまに振り回された。ナツキは首のところでばっさりと切断された。

 その首が僕の足下にゴロゴロと転がってきた。その顔は「え?」という表情のままで凍りついている。僕は気味悪くて思わずギャッと悲鳴を上げ、ナツキの首を藪の中へと蹴り飛ばしてしまった。

 その点、ミカは冷静だった。

「世の女性にとってはバンバンザイよ。さて――いまのうちにさっさと退散するよ!」

 ミカはきびすを返してさっさと藪に飛び込んで姿を消した。

 見ると、七体のブヨブヨした『こびと』――奈津子さんの父親と伯父さんたちが、地面に転がっている首から下だけのナツキに群がってむさぼり食っている。

 クラゲ頭に噛みつかれたナツキの体は、赤茶けた肉片、肉汁にされて怪物たちの体に浸透し、『こびと』たちを肥えさせ、ものの十数秒で跡形もなくなった。そして、むしろ老人感を増した七人の『こびと』たちは、今度は僕に向き直った。

 僕はナツキの形見、「かすかべいくん」のキーホルダーを握りしめ、ミカの後を追って藪に飛び込んだ――と、いきなり何かを踏んづけて転んだ。何かと思ったら、「え?」という表情をしたナツキの頭だ。僕はその髪の毛をむんずとつかむと、後ろに放り投げた。こう言ってはなんだけど――ナツキの頭脳が、ついに役に立つときがきたのだ!

 ミカに追いついた僕は、道なき道を駆け抜けた。鬱蒼とした藪を這いすすみ、枝葉の茂る薄明の密林を縫うようにかいくぐり、だだっ広い草原を真っ直ぐ突っ切った。ただ、僕らの背後からも絶えず足音がピタリとつかず離れずついてきていた。いくら走っても追跡が止む様子はなかった。その上、僕もミカも次第に息が上がってきているのはまちがいなかった。このままでは遅かれ早かれ追いつかれてしまう――いまの僕らに希望があるとすれば、先を突き進むミカが、僕らをどこか安全な場所か、あるいは追っ手を撃退するための武器がある場所に導いてくれていることだ。

 草原の端から再び薄暗い森に入ったところで、ふと僕の胸に不安がよぎった。もし、ミカが実はノープランだったとしたら? いや、まさかそんなことは――だって、ミカのこの自信たっぷりの走りっぷりを見れば、何か目的を持ってどこかへ向かっているとしか思えない――それでも僕はついにこらえられなくなってミカの背中に声をかけた。

「ミカちゃん、一つ訊いていいかい?」

「その前にあたしに質問させて――あたしたち、いったいどこに向かってるわけ?」

「オーマイガッ」

 そのとき、僕の視界からいきなりミカの姿が消えた。一瞬後にはその理由がわかった――何の前触れもなく突然に、僕の足が宙を空回りしはじめたのだ。

 崖だ――そう思ったときには僕はもう重力に任せて自由落下をはじめていた。

 樹木の枝葉が次から次へと僕の顔を横ざまにはたいていく――と、いきなり僕の尻は軟らかい土の地面に尻餅をついた。ただ、地面だと思ったところはまだまだ急な斜面だった。それどころか、斜面はますます傾斜度を増していく。必死につかんだ下生えの草という草はことごとく土から抜けてしまい、ちっともスピードをゆるめてくれる助けにはならなかった。このまま速度と角度を増していくと、内臓が、いや僕のすべてがふわりと浮かび上がって、下っ腹のもう少し下のあたりがこそばゆくなって、ついには僕のコイツは観念してちぢこまって――ああ、もうゼッタイヤバい!

「フォォォォォーゥ! イィィィィィィィィィーハァー!」

 ありえない――まさかのミカの歓声だ。

 いい気なものだ、こんな状況を楽しめるなんて。この下に何があるか知ったら、ミカもきっと――いや、知ったとしても理解する暇もあるまい。崖の下というものには、ごろごろした岩場がつきものなのだ。もしもそうでなかったら、それはやはり、忌むべき「ご都合主義」というものだろう。

 ご都合主義的展開には二通りある。一つは、登場人物がのちのちの展開を予測して知恵を巡らせていたという素振りも伏線も何もなしに、「そのとき」がきてはじめて実は意図してあらかじめ周到な準備を整えておいたから平気でした、という目も当てられないヤツ。そしてもう一つは、頼んでもないのに向こうから勝手に都合をつけてくれるヤツだ。

 ただ、一つめのはともかく、もう一つのは運だとかツキだとか巡り合わせだとか「神」の御業が関係してくるものなのだから、本来なら、いまこの僕が誰かにとやかく言われる筋合いなどないのだ。その点に不満をもち、「神」がものした筋書きに駄作だなんだと文句をつけるにわか批評家の読者・観客がいるとしたら、それは罰当たりというものだ。そんな不信心な読者・観客は地獄に落ちるに決まってる。

 もしも、これから僕らが着地する地面が、青々と実りはじめた柔らかな稲穂、縁までなみなみと湛えた水、深々とした肥沃な泥などではなくて、僕が想像するままのゴロゴロの岩ばかりの固いものだったとしたら、僕がいまこうして語り聞かせている物語はここでブツリと断ち切れて、ただただ間の抜けたバッドエンディングとなるだけだ。そうはなっていないということはつまりそういうことなのだ。ときに「神」は力業で物語をエンディングまで推し進める優れた――遠慮呵責ない言い方(真の意味でも)をすれば「三流以下のど素人」の――シナリオライターたりえるのだ。

 というわけで、僕とミカが超ギネス級のジェットコースターの斜度をはるかに凌駕する崖を滑り落ちた後の着地点は、幸いにも、青々と実りはじめた柔らかな稲穂、縁までなみなみと湛えた水、深々とした肥沃な泥――まさしく「神」の御業――だったのである。

「くっさい! ナニコレ、サイアク!」

 ザ・グレート・カブキの毒霧のごとく泥を吐き散らしながら、ミカが悲鳴を上げた。

 僕はそんなミカに無性に腹が立ち、哀しくもなった。いままさに神の御手に抱かれて生き生きと健やかに育つ稲穂は、神への感謝を忘れずに日々重重と頭を垂れて信心深くなっていくというのに、その恩恵にあずかった君が、あろうことか神の御業にツバするとは!

「ミカちゃん、少しはこの稲穂を見習ったらどう? つまりだね、コレこそ神様が――」

「ああ、もうくっさい! ホントナニコレ?」

 たしかに臭う。不意に僕の胸に嫌な予感が忍び寄ってきた――神のほくそ笑みとともに。

 毎度のことながら、やはり考えている暇などなかった。僕らを追って七人の『こびと』たちも次々と空から降ってきたのだ。僕らはとっさに生い茂る稲穂の中に隠れた。

「ねえ、この泥を体に塗れば、あいつら、あたしたちのことが見えなくなるかも!」

 田んぼの泥を自分の頬に塗りたくりながら、ミカが僕にささやいた。僕は首を振った。

「残念ながら、ヤツらの目は普通の人間の目だよ。熱探知でもなんでもない」

「そりゃそうよね――オエッ」

 僕らは慎重に這い進んで、どうにか畦までたどり着いた。

 見渡すと、このあたり一帯には山の斜面を開墾した棚田が広がっていた。ゲストハウスで提供する食材は肉も野菜もほとんどが自家製だと奈津子さんは自慢げだったが、米もまた、先祖伝来のこの棚田で作ったものなのだろう。

 そのとき僕の胸にさっきの嫌な予感がよみがえってきた。

 先祖伝来ということは江戸時代からの、ということになる。ひょっとしたらその製法も当時とそう変わりないかもしれない。ということはつまり――。

 突如、僕らの背後で『こびと』の咆哮が上がった――見つかった!

「走れ!」

 僕らは畦を飛び越えて一段下の田んぼに飛び込んだ。薄暗い中で細い畦道をジグザグに駆け抜けることはできそうになかった。泥に足を取られるが、最短でこの棚田を突っ切るしかなかった。僕らは必死に稲穂をかき分け、泥水を這い、いくつもの畦を越えて棚田を下へ下へ、谷の底へ向かって走った――そこには薄闇にほの白く浮かぶ細い道があった。

 最後の田んぼを横切れば小道はもう目前だった。道を下っていけば民家や農作業小屋があるかもしれない。となれば、何かしら武器になりそうなものもあるはずだ。武器さえあれば僕とミカならあの『こびと』くらいなら束になってかかってきても――ああ、振り返って見なければよかった!

 ヤツらはもう、どう好意的に見ても『こびと』ではなくなっていた。もはや七人の『こびと』ならぬ七頭の『肥えたブタ』だ。僕らを救った青々と実りはじめた柔らかな稲穂、縁までなみなみと湛えた水、深々とした肥沃な泥が、ヤツらをブクブクと肥え太らせたのだ――これが「神」の御業だというのか!

 深く重たい泥に足を取られて思うように進まないばかりか、崖から落ちる以前に僕とミカの体力はとっくに底をついていた。だがそれでも僕らは泥を這い進み続けた。ミカがもうダメと足を止めてしゃがみこめば僕が肩を抱きあげ、僕が肺を破裂させそうになってうずくまればミカが僕の頬をぶっ叩き、どうにか僕らは田んぼを抜けることができた。

 ヤツらが鈍重になってくれたおかげで距離はさほど詰められていないが、触れるものを手当たり次第ひっきりなしに栄養分に取り込んでいるということは、疲労やエネルギー切れなどないということだ。だとしたら追いつかれるのは時間の問題だ。いっそのこと崖から落ちたときに岩に叩きつけられて即死していた方がラクだったかもしれない。だが、それでも僕らは走り続けようとした――僕らの足下に地面がある限り。

 嫌な予感という妙な感覚は、「僕」という無知蒙昧な「意識」をも支配し司る全知全能の真の主体が、「僕」に危険が降りかかっているかすでに片足を突っ込んでいるのを未然に防いだり避けさせたりするために、心の奥底から呼びかけているのが何重もの膜越しに漏れ聞こえてきているものなのだと思うときがある――ただ、いつだってその声はくぐもっていて何を言いたいのかがわからない。

 いまだってそうだ。両足を突っ込んで――いや頭のてっぺんまでどっぷり浸かってはじめて「ああ、こういうことだったのね、アレは」と思い知るのである。

 僕らの行く手に田んぼはもうなかったはずだった。だけど、僕とミカは突如として深いぬかるみにはまったのである。深いといっても頭まで浸かるほどでもなく、せいぜい腰くらいだ。だが僕もミカもそのぬかるみの中で、もののみごとに足を滑らせ、やっぱり頭のてっぺんまでどっぷりと浸かってしまったのだ――で、そのぬかるみとやらが実際なんなのかというと、これはひょっとしたら、おそらくは、あの、例の、いわゆるのつぼである可能性もなきにしもあらず、といったことがまったくないわけではないのかも――いや、ここは潔く認めねばなるまい! 僕らは肥溜めに落ちてしまったのだ!

 肥溜めのなんたるかをあまりよくは知らない方に向けてご説明するならば、要は田畑のそばの地面に穴を掘り、そこに原材料をなみなみと投入し、自然に発酵させて肥料を製造しようという昔ながらの農業設備である。問題となるのが、その主原料だ。というか原料はひとつだけ、つまり人糞、俗に言うウ*チ――いや、俗に言わなくてもウ*チはウ*チなのである!

 ミカは――さっそくゲェゲェやってる。まあ、当然の反応だろう。

 実際いま僕らが谷間の暗闇の中ではまりこんでいる場所が本当はなんなのか認識できていなかったとしても、この息が詰まるような臭いのために本能がゲェゲェさせるし、そうしながらこのドロドロベトベトがなんなのかすぐに連想できてゲェゲェできるし、すぐさま運命の賽をテキトーに転がしてよりによって僕らをこの地面の穴に導いた「神」を全身全霊をもって呪ってゲェゲェすることだって容易にゲェゲェできるだろう。

 僕だって喉元までこみ上げてくるものがある。ただ僕はこの運命をすみずみまで納得した上で受け入れたいのだ。ただただ本能的、反射的に行動してしまえば、僕は怪物どもと同等だ。僕という存在と怪物との間に、たしかな一線が引かれるべきだと僕は思うのだ。

 原料となったものが宿舎や研究所でのものなのか、それともこの近くに住む奈津子さんひとりのものなのか、しかしこの肥溜めのサイズからして研究員全員のものでは少なすぎるし、奈津子さんひとりだけのものにしては多すぎるし、ひょっとしたら奈津子さんのものにくわえて奈津子さんのお父さんや伯父さんたちのもの、さらには飼育している牛や豚のものも混じっているのかもしれないし、でもそういう趣味ではないけれど願わくば奈津子さんひとりだけのものであってほしいと切に願ってみたり、はたまた発酵具合によっては多少口に含んでも無害となっている可能性もなきにしもあらずで、しかし奈津子さんひとりだけのものと思えばどっちでもいいかなというか、むしろ人の性癖によってはご褒美というか――ああ、もうダメだ、たえられない!

 僕はミカとならんで、東京は奥多摩の観光名所、双竜の滝のほとばしる水流のごとくゲェゲェやった。そうして奈津子さん特製の南欧風ごった煮やダブルメインディッシュの一翼を担った極上スペアリブの半消化済みのヤツが下肥に混ざり、いまや発酵プロセスに組み入れられていく――ふと、その料理の材料もこの下肥の養分を吸い取って生長したのだなと思うと、万物は流転するという輪廻転生の真理性を否が応でも悟らざるを得ない。

 追加の胃液もふんだんにまぶしたところで、朦朧とした涙目であたりを見回してみると、どうやら僕とミカはすっかり七人の『こびと』たちならぬ七頭の『肥えたブタ』どもに包囲されてしまっていた。逃げ道はもはや蟻の這い出る隙間も――おや、どういうわけか、ヤツら、僕らを包囲しているというより、かなり遠巻きにして突っ立っている。

「やっぱりあたしたちのこと見えてないのよ」

「いや、見えてるんだけど――僕らの扱いに困ってるってところだろうね」

 僕は肥溜めから這い出ると、ヌルヌルするミカの腕をつかんで引っ張り上げた。そこでジ・エンド――僕もミカも、精根尽き果てて地面に体を投げ出した。

 実際、僕はもうどうでもよくなっていた。このドロドロの体を消滅させてくれるなら喜んで『ブタ』どものエサになってもいいと思えるくらいだ。だが、『ブタ』どもはちっともそうしようとしない。こんなに無防備なのに――でも、ま、そりゃそうだろう。

「ンな目で見てんじゃねーよ! 好きでクソまみれになってるワケじゃねーんだよ!」

 ミカがイライラして体についた下肥をたっぷりひとすくいしてヤツらに投げつけた。

 『ブタ』どもはキャッと悲鳴を上げて一斉に飛び退いた。

 そのうちの一人の足にほんのひとしずくひっかかったらしい。いきなりそいつは絶叫を上げて転げ回りはじめ、あげく自分でその足をもぎ取って放り捨てたのである!

 地面に転がったその『足』は、粘液に戻るなり地面にしみこんでいった。

 それを機に、七人の『こびと』ならぬ七頭の『肥えたブタ』はちりぢりに逃げ出した。

「あたしたち、よっぽどなのね」

 僕は体にまとわりつく下肥a.k.aクソをひとすくいしてしみじみと思った――やはり僕らは「神」の御業に感謝すべきなのだろう。たとえ「神」が三流シナリオライターだとしてもだ。どんな形であれ、とりあえず僕らはまだ生き延びているのだから。


 チャプター5 大きなガジュマルの木の下で


 一目散に砂浜を突っ切り、ミカは白波の立つ暗い海へ飛び込んでいった。

 彼女が駆けだしたときのその横顔を、僕は一瞬だけ見た。迷子の子どもがついに母親と巡り会えたときのように、顔をくしゃくしゃにして泣いていたように思う――「思う」だけで断言できないのは、あたりがまだ薄暗かったためと、僕を追い越していったミカが全速力で駆けていったためと、こびりついた下肥でどうしようもなく顔が汚れていたためだ。

 僕らは糞尿まみれの惨めな姿のまま、疲れ切った体に鞭打って、鬱蒼としたジャングルの道なき道をほとんど這うようにしてきたのだ。そんな道のりのあととなれば、むせかえるような自分の臭気のわずかな隙間から風の中にたしかな甘い潮の香りを嗅ぎつけ、僕らをひたすら笑いものにしているかのような虫たちの喧噪の中から優しい潮騒を聞きつけ、そして樹木の切れ間から輝くばかりに発光している砂浜と静謐な暗い海面を見つけたときには、誰だって心からの安堵のために自制のたがが外れてしまうにちがいない。

 ミカはしばらく浮き上がってこなかった。驚くほど遠くの海面にぽつんと彼女が浮かび上がったときには、彼女はもう泣いてはいなかった。彼女は僕を振り返って笑った――と思う。まだ明けていない薄闇に、彼女の白い歯並びが光ったように見えたのだ。きっとそうにちがいないと思い込むことにしたら、僕はようやく少しだけほっとすることができた。

 この入り江には小さな集落の名残があった。人が住むような家屋ではもはやないのかもしれないけれど、家々の軒先には古いボートやスチロールのブイ、もつれきった投網など、放置された漁具が曙光の底からほの白く浮かび上がろうとしていた。

 僕はミカに、集落を見て回ってくると声をかけた。束ねていた長い髪をほどき、頭を傾けて髪を洗いはじめたミカは、僕を振り返って、今度こそたしかに真っ白な歯を見せた。

 運のいいことに最初に入った小屋の台所で石けんを見つけ、さらには野良着のような古シャツやジーンズを手に入れた。浜辺に戻ると、僕はミカに石けんを手渡した。

「こっち見んじゃねーぞ」

 ミカはじろりと僕をにらんだ――といっても、いつもの調子はなりを潜め、どこか照れくさそうではあった。僕はミカのそばを離れると、大の字になってぷかぷかと凪の波間に浮いて、とにもかくにも石けん待ちだ。

 もう一つどこかで石けんを見つけてくるべきだったかなと考えていると、ミカが脱ぎ散らかした衣服が僕のところへ漂ってきた。その中に見たこともないほど大きなカップのブラジャーとありえないほど小さなパンテ――いまの時代はショーツと呼ぶべきだろうか、とにかくその上下の下着がワンセットになって僕の鼻先を過ぎていった。僕は思わずミカを振り返った。無論、ミカは素っ裸だった――はずだ。

 ここでも「はずだ」と断言できないでいるのは、そのときミカは日の出前の黄昏の陽光をちょうど背負っていたためで、僕にはミカのシルエットしか見えていなかったのだ。それに、すぐに目をそらしたせいでもあった。

 僕は慌てて沖へと流されかけているそれらをかき集めた。ブラウス、キャミソール、巨大なブラ、パンテ――ショーツに薄っぺらなミニスカート。他に身につけてたものって?

 ――どうも誘惑に勝てそうにない。でもでもでも、ちょっとくらいなら――そりゃ、ミカだってリスクを承知のはずだ。でなきゃ、年頃の成人男子である僕のすぐそばでそんなあられもない格好になるはずがないのだ。

 いや、ミカはむしろ僕を挑発しているのかもしれない。そうでなくては説明できないことがいくつもある。一つは、さっき言葉とは裏腹に垣間見せた乙女の恥じらい、もう一つはこの広い海で、なぜか僕のいる一点をめがけて漂ってきた彼女の衣服や下着だ。彼女は自分がいま裸でいることを僕にアピールし、その姿を見せたがっているにちがいないのだ。

 勝手な憶測かもしれない。しかし、もしもミカが望んでいるとしたら、レディのお誘いを無視することこそジェントルマン的には失礼ではないか? よし決めた。後ろ姿――それもシルエットで妥協しよう。

 ミカは――ミカのシルエットは、石けんを両手でこすり合わせて泡立てては、長い髪の先まで泡を揉み込んでいた。そのために首を傾げ、露わになったうなじでは、透き通った後れ毛の先が朝日に繊細にきらめき、ときおり伝う滴がきらめきをのみこんで強く輝きを放っていた。ダイナマイト付きの鉄槍をああも見事に投げたとはとても思えないほどの華奢な肩から伸びる細い腕はぴたりと体の曲線に引き寄せられ、さらに細い手指が髪の毛の間で虹色の泡をまとってなまめかしく踊っている。

 特筆すべきはその腰つきだ。蜂のようにくびれたウエストから弾ける劇的な膨らみは、漲るヒップの頂点を最後に潔く収束に向かい、長く肉付きの健やかな左右の太ももですっきりとまとめあげられている。刻一刻と昇る太陽の光が、刻一刻とそのほっぺたを金色に染め上げていく。そしていま、凪から目覚めた海が立てた最初の白波が、ミカの尻で泡立って砕け、太ももの隙間で渦を巻いた。それをきっかけに、ミカは両手を高々と上げて伸びをして、そのまま人魚のように海面に飛び込んだ。

 少し沖のほうで浮かび上がった姿もまた人魚のようだった。彼女は髪を水にひたし、仰向けに泳ぎはじめた。想像だにしなかった(いや、ほんとは想像はしていた、なにせあのサイズだ!)豊かさをもつ胸の膨らみが、瞬き、輝く水面に見え隠れした。ミカは潜っては浮かび、潜っては浮かんで泳いでいた。そしておもむろに泳ぐのをやめ、今度は体に石けんをこすりつけはじめた。乳房は長い髪に覆われ、陽の影に隠されていたが、すぐにも波が髪をよそへと洗い流した。やがて水平線から太陽が顔を出し、その光が水面を乱反射し、白々とした露わな肌を煌々と黄金色に照らしだそうと――。

 僕はミカから視線を引きはがした。朝日が照らすその姿は美しさをはるか通り越し、僕には神々しすぎる。それなのに僕のコイツときたら神の御業を冒涜しようというのか?

「なにブツブツ言ってんの? お経? キモーい」

 あまりにすぐ後ろから声がしたものだから、僕らはぎょっとした。

「はい、石けん――落とさないようにね」

 ミカは後ろ手に出した僕の手にしっかりと石けんを握らせた。そのときの感触がまたもう――ぬるっとしたあたたかい指で僕の手や指を包み込もうとするものだから、般若心経の効果もますます薄れるというものだ。

「ああ、そうだ。君の服が流されるところだったよ。ほら――」

 僕はミカの服と下着を後ろ手に渡そうとした。だがミカは受け取ろうとしなかった。

「もういいの。クサいから捨てるつもりだったし。服、見つけてきてくれたんでしょ?」

「そうだけど、でも下着くらいは――」

「いらない。無いほうがラクだし。欲しかったらあげる」

「え、ほんと? あ、いや、えーと――いらないよ」

 ミカは僕の手からぱっと自分の服を取り上げると沖へ放り捨てた。そして僕に言った。

「お背中、流しましょうか?」

「あ、いや、コイツは自分で――」

 僕はどぎまぎしつつも断った。無論、コイツはミカの提案に歓喜している。

「そう。じゃ、あたし先に上がってるわね」

 そうは言ったが、ミカはしばらく素っ裸のままで優雅に泳ぎ続けていた。

 オレンジ色に輝く肌が水面に見え隠れするたびに、その肌のすみずみまでなめまわしたこの石けんに僕は嫉妬したりうらやんだりするばかりだった。ただ、少なくともいまの僕はその特権を間接的にだが享受できているのだから、ある程度の満足を覚えるべきなのかもしれない――僕の言うことがひょっとしたら女性諸氏にはあまりにお聞き苦しく、僕の正気を疑われかねないだろうが、男性諸氏なら当然、相当な部分をおわかりいただけると思う。まったく理解不能という殿方が仮にもおられるとしたら、そのときは僕を蔑む前に、まずご自身の想像力の致命的な欠如を疑うべきだろう。

 僕が浜に上がったときにはミカはすでに服を着ていて、バナナの葉を敷き詰めた木陰で小ぶりの島バナナの実を口いっぱいにほおばっているところだった。

 ミカは野良着のシャツの袖とジーンズの裾のほとんどをちぎりとって、見事なノースリーブとホットパンツを繕っていた。いまにもこぼれおちそうな胸の真ん中でシャツの前を朝咲きの花とともに結び合わせ、くびれたウエストとへそを露わにしたその着こなしは、南の島のビーチにはこの上ないほど似合っていた。ほとんどお尻がはみ出てる手製ホットパンツのベルト代わりの蔓も唯一無二、世界で一つだけのオシャレアイテムといえよう。

 想定外だったのは、僕の服もそうやって同じように改造されてしまっていたことだ。つまり、ノースリーブとホットパンツと蔓と朝咲きの花。だからといって、それを着ないわけにはいかなかった。僕もパンツ以外の着ていた服を捨ててしまったからだ。ひとつ救いだったのは、ホットパンツの裾がミカのより長めに切ってあったことだ。これならコイツが横っちょからこぼれる心配もないし、ちょっと短めの半パンと見えなくもない。

 僕はミカに後ろを向いてもらうと、やはり茶色のシミが抜けないパンツも脱ぎ捨て、用意された服とオシャレアイテムを残さず身につけた。

 朝咲きの花を胸ポケットに挿すと、ミカはケラケラと嬉しそうに笑った。

「マジすっごく似合う! チョーワイルド!」

 そのコメントは、時勢的にはもう揶揄に他ならないのだろうが、僕は全然気にならなかった。というのも、化粧を落としたミカのすっぴんが思いがけなくあどけなくて、彼女特有の毒っ気がすべて洗い流されてしまったように思え、むしろミカの笑顔に僕の胸は華やいだくらいなのだ。

「これからどうする?」

 ミカはもう一つ小ぶりの島バナナの皮を剥くと、大きな口でほおばった。スーパーで売っている外国産バナナに比べて細くて短いが、ミカの小振りの口にはちょうどいいくらいだ。だいたい、日本人には国産のもので十分なのだ。外国産のものを輸入してきて、わざわざ我々日本男子に劣等感を覚えさせる必要がどこにあるというのだ?

「ねえ、なに考えてるの? しかめっ面してさ」ミカは口元をもぐもぐさせながら言った。「あたしたちはもう二人だけなのに、あの化け物たちはまだウヨウヨしてる。さっきは助かったけど、だからってこの先ずっと何度もウ*チまみれになるなんてゼッタイお断りよ」

 そのとき僕ははたと気付いた。

「ひょっとしたら、ヤツらは全然そうは考えていないんじゃないかな」

「どういうこと?」

 ミカはまた小さなバナナを口いっぱいにほおばった。ほとんど一口だ。

「僕らがこの先もずっと、汚物まみれでいることを厭わないでいるってことだよ」

「んなわけないじゃん! いやよ! そんなの絶対イヤ!」

「いや、彼らが勝手にそう思い込んでくれてるかもしれないってことさ。利口なぶん、彼らはもう、僕らをエサにしようとは考えていないかもしれない」

「たった一度だけよ? そのたった一度でもう諦めてくれたと考えるのは単純すぎないかしら? 手を変え品を変え、何度でも襲ってくるかもしれないじゃない」

 学習能力が高いはずだという僕の仮定は、言い換えれば、頭が回るということでもあるのだ。ミカの言うとおり、ヤツらの適応能力を見くびってはいけないのかもしれない。

「ヤツらが諦めてくれるまでは、もう何度かウ*チまみれ――ということになるかな」

「そのうちあたし、日焼け止めがわりにウ*チを塗りたくることに慣れちゃうんでしょうね――ああやだやだ! それなら、さっさとヤツらのエサになった方がマシだわ!」

 ミカは開き直ってせっせと島バナナをほおばりはじめた。「小さい、小さい」と文句を垂れながらも、見る間にバナナの皮の山ができていった。

「それにさ、あの『大輔』ってヤツ? あいつ、あたしのことすっごくいやらしい目で見てたでしょ! ああいう目つきのヤツってヤバいヤツに決まってんのよ!」

「いや、あれは君が彼の家族をダイナマイトなんかで――」

「一種のストーカーね。あの変態、あたしを捕まえて******や********とか********とかするのよきっと! アイツに捕まって*****とか**************されるくらいならいっそのこと自分で死ぬわ!」

「なんてことを言うんだ! 死ぬなんて許さないよ! それなら*******とか***********で*******された方がマシだよ」

「お気楽ね、男って。女の身になって*************されることを考えてみなさいよ――はーぁ、もうどうでもよくなっちゃった」

 ミカは投げやりに言いながらバナナを一本、口に詰め込んだ。

「皮ばっかりで中身が小さいのよ、このバナナ! もっとおっきいのないの?」

 バナナの食べ方も下品で投げやりだ。僕はだんだんと腹が立ってきた。

「少なくとも――僕らはいくらかは時間を稼げたと思う。生き残るために――そして人類のために、僕らにやれることがまだまだあるはずだよ」

「せいぜい肥溜めの横に住まいを建てることね。いつでも飛び込めるようにね。どうぞご勝手に。でも、あたしのことはほっといて。あたしはあたしで勝手にやらせてもらうわ」

 ミカはごろりと横に寝そべって、不作法にバナナを食い散らかしはじめた。

「ネガティブな発言ばかりだな。君らしくないよ、『死ぬ』だとか『小さい』だとか」

「あんたがあたしの何を知ってるっていうのさ! それに『小さい』って何のことよ?」ミカは体を起こして僕をにらみあげた。「ウ*チまみれはもうイヤだっていってるの! それにこの皮ばっかりのちっさいバナナにもウンザリなのよ!」

 ミカは食べかけのバナナを僕に投げつけた。僕はカッとなってミカの頬を張り飛ばした。言ってもわからない女は――いや、日本男子をコケにする女はこうしてやるのが――。

「てっめえ、このDVクズ男! ふざっけんな!」

 ミカは僕に馬乗りになると、右拳をグーにして正確無比に僕の顎を打ち抜いた。それだけでテンカウント立ち上がれそうになかったのに、彼女は仁王立ちになり、おもむろに二歩バックステップしたかと思うと、足をムチのようにしならせ、まるでサッカーボールのように僕の股間を蹴り上げた。言わずもがな、僕は即失神KO――男なんてこんなものだ。


 長い長い夢を見たあと、僕は目覚めた。目の前にミカの泣き出しそうな顔があった。

「よかった、死んじゃったかと思った!」

 僕は起き上がろうとして下腹部の痛みに思わずうめいた。そしておそるおそる手で探り、ソイツがまだソコにあるのか確かめようとした。するとミカが顔を赤らめて言った。

「さっき、ちらっと見ちゃったけど――ちゃんとカタチはあったから大丈夫だと思う」

 ――いったいコイツのどのフェイズのことを言っているのだろうか。僕は必死に、蹴り上げられる寸前の状況下におけるコイツの状態を思い出そうとした。だが、そんなことは無駄かもしれない。コイツは失神した僕以上にヒドいダメージを負っていたはずだから、どう考えてもフェイズ1だろう。でもミカは「ちゃんとカタチはあった」と言うからフェイズ1というわけではないかも――いや、そもそも女性の目から見て「ちゃんと」というのはどのフェイズを指しているのだろうか。僕的には、女性の前で開陳するときの「ちゃんと」といえるフェイズは少なくとも3くらい――ああもう、いまさらだ!

「ほんと、ごめんなさい。あたし、ついカッとなっちゃうタイプだから」

「――いや、悪いのは僕の方だ。もう二度とあんなことはしない。誓うよ」

 幸い、ミカは僕のことを許してくれ、僕の誓いを信じてくれたようだった。

「あたし、やっぱり諦めない。あなたとがんばってみるわ」

 ミカがDV男から離れられない女の一面をもっているらしいことが良いことなのか気の毒なことなのか――何にせよ、僕にとってはもっけの幸いだ。なにせ「DVクズ男」から「あなた」に昇格だ。

「ミカちゃん、僕に考えがあるんだ。ヤツらを迎え撃つにはこれしかない」

 僕は今後のプランを語った――といっても、さっき夢で見たことなんだけど。

 夢なんてものはたいていコントロール不能で、支離滅裂、意味不明の悪夢的なものだ。だが、僕がそのとき見た夢はどこか予言めいていたのだ。

 その夢とは、僕とミカがたった二人で無人島で生きていくというものだ。草でこしらえた腰蓑姿の僕らは、浜辺に建てた小屋で寝起きし、果物や木の実を採り、魚を釣り、手製の槍や弓で狩りをし、仕掛けた罠に掛かった動物を食べ、充実した生活を送っている。

 僕らにとって世界は無人島のみで、この世界の住人はもちろん僕とミカだけだ。だから僕らは当然、自然の成り行きでお互い惹かれあい、愛しあい、恋人に、そして夫婦になって毎晩毎晩――いやもちろん、このくだり(ああ! 失神していても夢のこのシーンの最中ならば、僕のコイツはきっと最終形態だったにちがいない!)はミカには話していない。ミカはナツキの恋人だったし、僕だってエリを失った傷が癒えたわけではない。「いつかは夫婦」なんてことを口にして節操のない男と思われるのは避けたい。それに、少なくとも僕には揺るぎない貞操観念に裏打ちされた理性という鋼の防壁があるのだ!

 それに、いくら予言めいているとはいえあくまで夢は夢だし、もし本当に予言だったとしても、それをこの現実でいますぐ実行すべきだと主張するほど恥知らずではないし、そもそも予言ならほっといても現実になるのが予言だし、いっそのこと予言どうこうなんてどうでもよくて、夢を己の力で具現化してみせてこそ男というもの――いや、だから、そのことに関して話し合うのは、いまはまだ時期尚早だろう。

 僕は身の内の反逆者をなだめつつ、夢で見た罠の仕掛けについて説明すると、さっそく僕らは集落の小屋で道具探しをはじめた。ナタとナイフを見つけたところで、僕は材料を探しにジャングルに入っていった。ミカにはそのまま集落の探索を続けてもらった。

 材料がそろうと、僕は罠を作りはじめた。

 決戦の場として選んだのは、やはりこの集落だ。迷路のようなジャングルよりも、この集落のほうが敵を罠に誘い込むのに都合がよさそうだからだ。

 罠を一つ仕掛け終えると、僕はミカを呼んで実演してみせることにした。

 僕は重たそうな流木を肩に担いで、ミカと一緒に小屋と小屋の間の草ぼうぼうの細い道に入っていった。そして、草むらのあたりに立てた目印で立ち止まった。

「罠って、どこにあるの?」

 ミカがこわごわと訊ねた。僕は巧妙に枯れ草で隠した足下のひもを指さし、それを慎重にまたぎ、同時に頭を低くして蜘蛛の巣の束でカムフラージュしたロープをくぐった。ミカもおっかなびっくり仕掛けを通り抜けると、僕は流木をちょうど頭の位置の高さに掲げて、足下のひもを踏んだ。すると、ひもに連動した留め具が外れ、しならせておいた竹が唸りを上げて跳ね上がり、僕が持っていた流木は一瞬にしてロープの輪にぎゅっと締め上げられて高々と宙へ釣り上げられた。

「わっスゴッ! こういうのディスカバリーチャンネルで観たことある!」

 ミカは歓喜の声を上げた――言われてみると、僕もディスカバリーチャンネルで観たことがあった気がする。仕掛けの何から何まで、夢で見た僕のオリジナルかと思い込んでいたのだが、まあ、夢なんてしょせん記憶のイタズラだ。なにはともあれ、この罠はかなり有効そうではあることに僕は満足した――ただ、ミカは不安そうだった。

「こんなのがあちこちに仕掛けてあったら、あたし、まちがって引っかかっちゃうかも」

 僕らは地上三メートルの高さでブラブラ揺れる太い流木を見上げてゾッとした。

 結局、この罠はこの一つきりにすることにして、そのかわりミカの心配をヒントに、僕はもう一つ別のコンセプトの罠を思いつき、さっそく仕掛け作りに取りかかった。ミカも僕の作った巧妙な罠仕掛けに触発されたのか、自分も武器を作ると言いだし、はりきって集落へと材料探しに出かけた。

 僕は午後いっぱいをつかってもう一つの罠を完成させた。その仕組み上、ジャングルを少し入ったところに仕掛けることになったが、ナタで草や枝を切り払って集落からその場所への誘導路を作ることでひとまずよしとした。

 そして、決戦に備え、僕は例の肥溜めからポリタンク一杯の下肥を汲んできた。

「ほんとはいやだけど、生きるために仕方ないのよね」

 ミカは気を取り直すと、自作の武器の数々を僕に披露しはじめた。

 まずは三本の竹槍だ。それもただの竹槍ではない。先端には、今度はダイナマイトではなく、やすりの削り跡も生々しく、鋭く研ぎ上げられた分厚い鉄板製の穂先ががんじがらめに縛り付けられていた。

 ミカはそのうちの一本をおもむろに肩に担ぐなり、助走無しで鋭くステップを踏むと、研究所で怪物のボスを爆殺したあのレギオン兵ばりの投擲をいま一度みせてくれた。

「せいりゃあッ」

 野太いかけ声とともにミカの手から放れた槍は鏑矢のような鋭い唸りを上げて空気を切り裂き、放物線の頂点で陽光に照らされてぎらりと一閃すると、吸い込まれるように三十メートル先の人の胴ほどもある木の幹に突き立って無数の破片を飛び散らせた。見ると、その木の幹はすでに無数の傷跡でボロボロだ――それどころか、その大木はいきなりめきめきと音を立てて倒れた。

「ウオッシャーッ!!」

 ミカは両腕を高々と空に突き上げ、雄叫びを上げた。

「それと――こっちはあなたが使って」

 ミカがニコニコしながら僕に差し出したのはバットだ。それもただのバットではない。真芯のあたりに五寸釘が数十本も打ち込まれている、いわゆる釘バットだ。

 ただバットにむやみやたらに釘を打ったというだけのものではなく、それはそれは丁寧な作りで、等間隔にぐるりびっしりと打ち込んだ八列×十本の釘の頭は、一つ一つ切り落とした上に鋭く尖らせてあり、殺傷能力は格段にアップされているようだった。

「ミカちゃん、この数字は何かな――」

 僕はそう言いかけて、はたとその数字の意味に思い当たった。

 「756」。

 バットのヘッドのあたりにサインペンで書かれた数字は、かすれてはいたがたしかに「756」と読める。バットの真芯のあたりにも文字のような筆跡が見られるが、打ち込んだ釘のせいでグチャグチャになってしまって判別不能だ。

 まあサインバットなんてプロ野球選手なら求められるがままに無数に生みだしてきただろうし、これが本当にあの○選手があの偉業のあとでこのバットを手にとってファンのために書いたものかどうかもわからない。いや、もしもあの日に書かれたもののうちの一本だとしたら、僕のような野球少年だった者なら誰にとっても永遠のスーパースターである0選手のサインバットはそれはとてつもなく価値あるもので――いや、なんにせよ、こんな釘だらけになってしまったんじゃ、もはや価値がどうのなんて語る価値もないだろう。

 ミカはキラキラした目で待っている――しかも、おあつらえ向きのスイカまである。

 食べ物を粗末にするのはよくないことだが、割ったあとでおいしくいただけば各方面からの批判もなかろうと、僕はバットを構えてスイカの前に立った。

「もうちょい右、右!」

 右もなにも、そもそも僕は目隠しなどしていないし、スイカがあるのは僕の真正面だ。

「信じてってば、右よ、右! ウッソぴょーん、左ですゥ!」

 スイカ割りの遊びで、わざと間違った指示をする輩というのは必ずいる。子どもの頃、何度見当ちがいの地面を叩いて大いに笑われたか――いま思い返してみると、僕はいつだって道化役だったのかもしれない。次の順番の、僕よりも幼いいとこは、僕からバットを引き継いだ後、いつも外野から正しい指示をもらって、少なくともスイカの真正面には立たせてもらえる。僕はいつだって主役ではなかったということなのだろう。

 余計なことを考えている場合ではない。僕はバットを振りかぶった。

 ――ところで、もう一つ思い出したことがある。スイカ割りという遊びの残念なところは、たいていの場合、スイカが思ったほどキレイに割れてくれないことだ。僕の次の順番のいとこは正しい指示を出してもらっているくせに、たいていの場合、スイカの表面をかすっただけだったり、表面をちょびっと凹ますだけなのだ。ただ、そんなものでも大当たりだと喝采を浴びるのだから、道化にされたこっちとしてはちっともおもしろくない。

 一度、スイカにほんのちょっとひびを入らせただけで有頂天になっているいとこの手からバットを奪って、そのスイカをもはや誰も食べられないくらいに滅多打ちして叩き割ってやったときは実に気持ちがよかったものである。大人たちの冷ややかな目なんて全然気にならなかったくらいだ。

 そのときの成功体験をイメージしながら、僕はおもいきりバットを振り下ろした。

 結果は上々どころか、まるで魔法がかっていた。

 鋭く尖らせた釘の束がいともたやすくスイカの皮を割り裂くや、構造的に脆くなったその破砕面へ、一気に振り下ろされたバットの速度そして重み(「756」という数字の重みだろうか)によって生み出されるエネルギーが一点に集中して解放され、一瞬ごとに加速度的に増幅する内部圧力がついにスイカを内側から爆裂させたのである。

 当の僕はもとより、すぐそばで固唾をのんでいたミカまでもスイカの真っ赤な返り血を全身に浴びたのはいうまでもない。しかし、たんなる鈍器を超越した釘バット「756」の威力は上々、これなら僕ですらあと百本ちょっとはホームランの量産まちがいなしだ。

 その後、僕らは竹で作った銛で魚を捕り、浜辺に火をおこして、どうにか日暮れ前までに夕飯の下ごしらえをすることができた。魚は内臓を抜いて、ちょっと海水をかけて塩味をつけ、ひとつかみの松葉を敷いたバナナの葉でくるみ、砂に埋めて蒸し焼きだ。

「できあがるまで、もうしばらくかかるよ」

 僕がそう告げると、ミカはおもむろに服を脱ぎ、生まれたままの姿で海へと駆けていった。僕は慌てて目をそらした――が、もちろん今度も欲望には打ち勝てなかった。僕はまたしてもミカの裸体の後ろ姿をこっそり盗み見た。それでもミカは僕のことをまるで気にかけていないようだった。それどころか、波間から僕を呼びさえするのだ。

「ねえ! 石けん、忘れたァ!」

 海に入っていって石けんを渡すとき、僕はもちろんあまりミカの裸を見ないようにしていたが、否が応でも視界に入る。彼女は胸元を抱くようにして隠していただけだった。

「ありがと」

 ミカはちょっとはにかみながら言った。

 礼に応えるのに顔を背ける者などいまい。僕は「どういたしまして」とミカの顔を見て言った。そのときの濡れた髪の間にあるミカの顔が、僕には不思議といとおしかった。

 暖かい海が僕の理性を溶かし去ってしまったのだろうか。それとも、不思議でもなんでもなく、誰もが美しいものを愛でるように、たんに僕はその美しさに見惚れてしまっていただけなのかもしれない。山の際から差す夕暮れどきの斜光に映えるミカの白い顔と水滴が滑り落ちていく肌の輝きには、十分にそんな力があるにちがいなかった。

 だが、やはり僕は背を向けた。まだ僕の中には溶けきらない理性があった。ミカにはナツキ、僕にはエリがいた。どちらももはや取り戻すことのできない過去のものとなってしまったが、それでもその事実は依然として容易に踏み越えられるものではないのだ。

 後ろで水がはねる音がした。僕は驚いて振り返った。なめらかな黄金色に照らされた尻が波間に浮かび、沈んでいくのが見えた。そしてその少し先のあたりで黒いシルエットが浮かび上がると、それは今朝と同じように、首を傾げて髪を垂らして髪を洗い、石けんを体の隅々まで滑らせはじめた。

 今朝とは真逆だった――分刻みに陽の光が薄れていくことが僕の視線を大胆にさせ、秒ごとに増すいとおしさに僕は胸の高鳴りの真の意味をもはや疑わなくなっていった。そのとき、ミカは僕の視線に気付いた。だが、露わな裸体を隠すどころか、僕に向かって大きく手を振った。僕はやっぱり慌てて背を向け、そして――完全に恋に落ちた。

 もちろん、そのすぐあとに僕の中に戸惑いや葛藤がまったく起こらなかったわけではない。ただたんに下心のせいだろうと自己嫌悪に陥ったりもしたし、もはや正直すぎるコイツの本能に僕の理性が乗っ取られてしまったせいだと情けなくもあった。だが、正直なコイツをどうして責められようか。責めを負うべきは、いまだ頑なでいる僕自身ではないのか? 邪魔ばかりするこの理性こそ実は唾棄すべき不誠実さだとはいえないだろうか?

 自問自答は堂々巡りで、結局答えを導き出してくれたのはミカだった。

 静かな波音に混じって、水をかき分ける音が近づいてきた。ミカは僕のすぐ後ろに立つと、今朝と同じことを言った。

「お背中、流しましょうか?」

 ミカは返事を待たずに僕のシャツを脱がすと、黙々と僕の背中に石けんと手の平をこすりつけはじめた。やがてぬるぬるとした柔らかい手の平は肩から腕に回り、手から指先へと進んでいった。それがもう片方の肩から腕へ移り、やはり指先の一本一本へとゆっくりと這っていったあと、ミカの両の手の平はいきなり僕の両脇の下から胸へと回り込んだ。そのときにはミカの息づかいが背中に感じられた。そうなってから、ミカは僕にやっと聞こえるくらいの声でつぶやいた。

「あたしたち、もうこの世で最後の人間なのかも」

 僕の背中に熱い吐息がかかった。ミカは僕の背中に額を押し当てていた。震えているのがわかった。すすり泣いているのだ。

「この海って、どこまでもつながってるのよね。それに、この海は生き物でいっぱい――つまりそれって、生き物が橋渡しになって、あの怪物たちを地球の隅々まで行き渡らせてるってことよね?」

「それは考えすぎだよ。現に、ここにいる僕らはまだこうして――」

「だからよ。だから、あたしたち二人だけが、この地球上で最後の人間、最後の地球の生き物の生き残りなのよ」

 背中越しのミカの声は僕の胸の中まで響き渡った。その悲しげなこだまに揺さぶられ、僕の返答は喉元でつかえてしまっていた。

「それでもまだ人間でいたい? いっそのこと一緒にあいつらの仲間になっちゃおっか?」

「そんなこと考えちゃダメだ」

 僕は語気鋭く言った。だがミカはすぐに反論してきた。

「どうして? 願望のままに生きることがどうしていけないの? 本音で生きられない、こんな『人間』で在り続けることがそんなに大事?」

「君だって研究所で散々見てきただろう? あいつらの惨めな姿を。人間の願望なんて、所詮あんなもんでしかないんだ。君だってああなるに決まってるさ」

 僕がそう断じると、ミカは強く反発した。

「あたしはちがうわ。あたしにはどうしてもやり遂げたいことがあるの。心からの願望よ」

「やり遂げたいことがあるなら、人間として生きてやり遂げればいいことじゃないか」 

「無理よ。人ひとりの力ってとってもちっぽけだもの――でも、あの怪物になれば、きっとあたしの願いが叶えられると思うの」

「願いって、いったいどんな?」

 ミカはただ、僕の胸に回した手で、僕をぎゅっときつく抱きしめただけだった。僕は優しく、そして毅然と言った。

「とにかく生きよう。僕ら二人だけでもいい。僕ら二人で、あの怪物どもを倒すんだ」

「どうして?」

「地球を守るためじゃないか! 僕らの地球がエイリアンに侵略されようとしてるんだぞ」

「地球が、地球のではない生き物に取って代わられてはいけない理由なんてあるの?」

 僕は返答に窮した。ミカは続けた。

「突き詰めれば、あたしたちもあの怪物たちも、子孫を残そうとしているだけじゃないのかしら。命ってそうよ。命を未来へつないでいくのが生命の本能だし、心からの願い――それを邪魔するなんて、あたしたち、傲慢すぎないかしら?」

「ヤツらの考えてることは、この地球のなにもかもを粘液で埋め尽くすことだけだ。この地球は、未来永劫、地球に生きる生き物だけのものなんだ」

「地球を独り占めなんて、それこそエゴよ。人間の驕りよ」

「だとしてもだ。僕は、この地球のすべての生命のために――すべての生命の未来のために、この地球を汚すことしか考えていない侵略者の手から守り抜きたいんだ!」

 キマった――僕を抱きすくめるミカの手にぎゅっと力がこもったのが良い証拠だ。僕は自分の言葉を何度も反芻しながら、この心地よい沈黙の時間を存分にかみしめた。

「あたしたちの未来は?」ミカは不意につぶやいた。「もしもあたしたちが、もうこの世で最後の地球生まれの生き物だとしたら――この地球はあたしたちだけのもの?」

「そういうことだね。ヤツらになんかゼッタイ渡すものか!」

「あたしたち二人と――あたしたちの子どもや孫たちの?」

「えっと――そ、そういうことになるのかな」

 僕はどぎまぎした。ただ、僕のコイツは僕より物わかりがいいようだ。

 ミカの手は僕の腹の下の方へと降りていき、蔓をほどき、ズボンのボタンを外し、ファスナーをゆっくりと降ろしていった。ただただズキンズキンする僕の頭の中はぼうっとするばかりだった(ちょっと待て、いったいどっちの頭のことだ?)。

 だが、僕のコイツがコイツの本心とは裏腹の抵抗(ファスナーが頭に引っかかる!)を示してみせたとき、僕はすんでのところで我に返り、ミカの手をつかんだ。

 だが、ミカの手は止まらなかった。ファスナーは屹立とした僕のコイツの抵抗の山を乗り越えた。その山を越えたら、もうあとは下り坂だ。ファスナーはつるりと坂を降りきると、ズボンはするりと僕の太ももをすり抜け、水中に沈んでいった。僕のコイツは暗い海に解き放たれた――いまや僕のわずかな理性だけが最後の砦だった。

「ミカちゃん、ダメだ、いけないよ。僕にはエリが――」

「あたしじゃイヤ? あたしのこと、汚れてると思ってる?」

「汚れてる? まさか、どうして!」

「だって――」

 そのとき、僕のすぐそばに、なにか平らな丸いものがぷかりと浮かび上がってきた。

 「かすかべいくん」のキーホルダーだ。脱がされたズボンのポケットからこぼれ落ちたのだろう。僕は慌ててそれを拾い上げた。

「そんなもの捨てて!」

 ミカはいきなり悲痛に叫んだ。

「でも――これはナツキの形見なんだ」

 僕の手の平の上で、手の平大の「かすかべいくん」の愛想のない顔が不満げだ。小指の先ほどの丸い鼻がつるつるとしているのは、ナツキが愛でていた証だろう。

「あんな男のことなんか、思い出したくもない!」

「ミカちゃん、いったいどうしたんだい。君とナツキは――」

「アレは若気の至りだったの、それに学費とか留学費用を稼がなくちゃならなくて――」

 「アレ」とはいったい何のことだろう。ナツキと付き合っていたことを指しているのか、それとも――それに「若気の至り」とか「学費を稼ぐ」とかというのは――。

「誰にも知られないと思ってたのに――でもあいつは、ソノことをバラすぞって――」

 誰にも知られない? ソノこと? バラす? いったい何の話だ?

「あいつ、いつもそのキーホルダーをちらつかせて、弱みを握ってるんだぞって――」

 ミカは僕の背中に熱い頬を押しつけて泣きだした。

「お願い――そんなもの捨てて――見たくもない」

「わかった、捨てるよ。いま捨てるから――」

 僕は「かすかべいくん」のキーホルダーを沖へ投げ捨てた。手の平大の「かすかべいくん」はフリスビーのように風を受けてふわりといったん浮かびあがり、そして水面で二度はねたあと、黄昏の薄闇の中、ちらちらと波間を漂い、やがて見えなくなった。

「捨てたよ。だからもう泣かないで――」

 僕はミカを慰めようと振り返った――そのとき、僕はぎょっとした。

 どういうわけか、「かすかべいくん」が再び僕の目の前に突如現れたのである!

 さっきあんなに遠くへ投げ捨てたはずなのに――いや、たしかに最後には見失ってしまったが、それでもこの一瞬のうちにここまで舞い戻ってくるなんてことはありえない!

 しかも僕の目の前にいる「かすかべいくん」は一つではない、二つに増殖しているのだ!

 ミカは僕の視線と動揺に気付いて、腰の細さに比べて大きすぎる乳房を隠すように恥ずかしげに抱きかかえた。そのとき、その乳房のそれぞれの頂にどんと鎮座まします手の平大の「かすかべいくん」(あ、なるほど)もミカの腕に隠れた。

 すべてに合点がいった。映研部員でもないミカがこの合宿に参加し、誰もが断ったどぎつい濡れ場シーンを演じることを承諾した理由、ナツキが僕にややハードコアなアダルトDVD「秘技 地獄車」を合宿前に観ておけと勧めてきた理由、ナツキの死にミカがあんなにも冷淡な態度をとった理由、さらにはたったいま涙ながらにミカが語った言葉の数々、ポチッとした丸鼻で手の平大の「かすかべいくん」キーホルダー――だが、僕にはそんなことはどうでもよかった。僕はミカを抱き寄せようとした。だが、彼女はいやいやとからだをよじって抵抗した。そして、薄闇にもはっきりとわかるほど泣きはらした赤い目で僕を見つめた。

「あなたもアイツと一緒?」

「ちがう――断じてちがう!」

「それなら、抱いて――」

 僕はミカの腕をつかんで引き寄せ、力いっぱい胸に抱きしめた。


 ガジュマルの木の下にバナナの葉を敷き詰め、そこに横たわった僕らは、たき火の揺れる明かりに照らされたお互いの体の弾力をすみずみまでたしかめながら、その熱さを味わった。砂に埋めた魚の蒸し焼きはもう食べ頃だろう。だが、その匂いにつられてあふれてくる唾液は、たき火にあぶられて火照る互いの体を冷ますためにとっておけばいい。それでも足りなければ、互いの体を止めどなく流れ伝う、煙にいぶされた汗のしずくで補えるだろう。赤々と燃える薪が爆ぜるたびに、体中に電流が走ったかのようにミカは全身の産毛を逆立て、体をのけぞらせた。僕はそのたびにミカを抱き寄せた。

「見て」

 僕の胸の下で不意にミカが言った。その伸ばした指先は、たき火の赤い光に妖しく照らされる無数のガジュマルの幹を差していた。

「あんなふうに、して――」

 ミカの言わんとするところは僕にもすぐに理解できた。ガジュマルの幹という幹はがんじがらめに卑猥に絡み合い、まるで僕らがこれからしようとしている行為をことごとく予言しているかのようだった。僕らはその予言に急かされるようにきつく絡み合い、激しく唇を押し付け合い、腕は腕を、脚は脚を、腰は腰を求め合った。


 振り注ぐ満天の星と月光は海面で絶えず揺らめき、その光のきらめきの中で、僕とミカは一糸まとわぬ体をくっつけあって、もうほんの少しだけ光の反射を乱す程度に静かに漂っていた。いつかどちらかがこうしていることに飽きたら浜に上がろうと決めていたが、僕もミカもどちらもそんなことは言い出さなかった。結局、くっつけあっていたお互いの腹のどちらかがグゥと鳴ったときに、その失態のなすりつけあいの果てに、僕らのどちらも空腹であることを告白しあって終わりとなった。

 蒸し焼きにした魚はどれもとびきりのうまさだった。僕らは原始人のように身をむしってむさぼり、ときおりうまそうなところをお互いの口に放り込んでやったりもした。魚がなくなれば、バナナを食べた。皮ばかりの小さい実でもミカは嬉しそうにうまそうにほおばった。あらかた食べ尽くすと、僕は、僕の腕の中にもぐりこんできたミカに訊ねた。

「さっき話そうとしてた、君が成し遂げたい願望って――」

「やだ、その話! 絶対バカにするもん!」

 ミカはくるりと身を翻して僕に背を向けた。僕は何も言わずミカの背を抱いたまま待った。僕の腕の中でミカの体はまたも火照りはじめていた。やがてミカはぽつりと言った。

「ちっちゃい頃からずっと考えてたの――この世界を平和にするって。悪いヤツらを皆殺しにして、いい人ばかりの世界にするの」

 それを聞いて僕は目頭が熱くなった。ミカの悲惨な境遇はつい最近のことだけではなかったのだ。彼女の「ちっちゃい頃」に何があったかはわからないが、幼い少女をそこまで思い詰めさせてしまう出来事なんて――そんなもの、いくらでも想像できるご時世だ。

「あたし、バカっぽいでしょ? そんなことできやしないのに――」

「君が怪物になっても、心からそう願うならその通りになるさ」

「やさしいのね――でもホント。それがあたしの願い」

 ミカはまたくるりとこちらを向いて、僕の胸に紅潮して熱くなった頬を押しつけてきた。と、不意に彼女は顔を上げた。

「だからって、怪物の仲間になりたいってわけじゃないの。あたしはいまあなたと――」

 僕はミカの開きかけた唇を僕の唇で塞いだ。ミカの唇は香ばしい塩気とさわやかなバナナの甘い香りがした。唇を離すと、ミカは「好き」とつぶやいた。

 それっきり僕らは言葉を交わさなかったが、僕らは沈黙に包まれたわけではなかった。波打ち際をすすぐ水音は向こうの方で絶えずしていて、虫はそこかしこで節操なく求婚している。たき火にくべた薪が弾けるたびに、ついさっきのひりひりするようなひとときのことが脳裏をよぎって僕の鼓動は甲高く鳴ってばかりだった。だからこそ、というのではないけれど、ミカの「好き」というごくごく短い一言で一日を締めくくるにはやはりどうしても物足りない気もしていた――僕のコイツもそう言っている。

 僕がそんなことを頭の中で巡らしていると、ミカが口を開いた。

「ねえ、知ってる? 異常な状況下で結ばれた男女の関係は長続きしないんだって」

 どこかで聞いたことがあるセリフだ。

「あたしの研究によるとね。それで――あら、騎兵隊のお出まし?」

 ミカは僕の勇ましい突撃隊長を手で探り当てると、いたずらっぽい目で僕にささやいた。

「ねえ――アレ、やってあげよっか?」

「アレって?」

「アレよアレ。ナツキのヤツに観ろって言われてたでしょ?」

「観ろって――ひょっとして、アレのことか」

「そう、『秘技 地獄車』」

「いや、実はまだ観てないんだ――」

「なーんだ。じゃ、やってあげる」

 ミカは嬉々として僕の腹の上にまたがると、勢いよくシャツの前を開いた。さっき挿したばかりの夜咲きの花がはじけ飛んだ。

 いやはやまったく、このど迫力! 地獄車とはよくいったものだ。とどまるところを知らぬアツく燃える羅刹の火車に乗っかられ、すべてを蹂躙し尽くす荒ぶる両輪大回転、僕が逝くのは無間地獄か極楽か、はたしてはたして――!!!


 唐突に頭の中で轟きだしたサイレンに僕は飛び起きた。

 目覚めてみるとそれはサイレンではなかった。だが、危機を報せる信号であることに変わりなかった。それは怪物の咆哮に他ならなかった。

「ヤツらよ! 宣戦布告よ!」

 その獰猛な吠え声は、可聴域の端から端、超高音から重低音が荒々しく織り交じり、気が遠くなるほど際限なく長く鳴り続けるために、森の木々の梢をことごとく揺らし、その葉という葉ともども眠っていた鳥という鳥を落としかねないほどのものだった。

 事実、僕は三半規管をおかされてしまったらしく、頭がくらくらして立ち上がれずにいた――いや、正直に言うと、僕の三半規管は地獄車に蹂躙されたときから異常を来している。一方でミカはすでに服を着ていて、竹槍を構えて臨戦態勢だ。

 咆哮が止んだ――が、森中を逃げ惑う鳥たちの狂騒は止まず、それどころかその騒動の源は急速に僕らの方へ近づいてくるようだった。

「来る! 立って、早く!」

 そう言われても、僕はどうにも動けそうになかった。三半規管どころの話ではないのだ。地獄(いやもちろん極楽さ!)から生還したばかりの僕の体はすでにボロボロだった。いま僕が見舞われている症状を頭のてっぺんから列挙していくと、まず軽い脳震盪に軽いめまい、軽い顎関節症、ちょっと両頬が腫れぼったく、首に軽いむち打ちもあり、両手首がやや腱鞘炎気味でギックリ寸前ガクガクの腰――そのとき、僕はハッとした。

 やはり、被害は甚大だった。僕のコイツは完全に昏睡状態にあった。どうりでさっきからレスポンスが皆無だったわけだ。

「いや、どうも立つのは無理みたいだよ」

 僕は失望を隠さずにそう答えると、ミカは「わかった」とうなずき、いきなり一切の迷いなくポリタンクの下肥を頭にさっと振りかけ、次いで残り全部――上澄みではなく、よりによって沈殿していた固形物ばかりのヤツを僕の全身にぶちまけた。

「ここは任せて――オエッ――あたしが罠に誘い込んでくるから」

「ミカちゃん、君一人じゃ――オエッ」

 ミカは僕の目を見つめ――オエッとやった。

「大丈夫、心配しないで――ボオエッ」

 ミカはいかつい竹槍を小脇に抱え、たいまつを掲げて集落への小道を駆けだしていった――そして、その後を追うようにして、黒い疾風が怒濤の如く駆け抜けていった。

 そいつは――シルエットからして巨大な熊だろうか、ぎらりと光る目を僕に向けたはずだが、すぐに顔を背けて逃げるように走り去っていった。下肥の効果は今回も上々だ。

 僕はベトベトの体に服を着ると、くらくらしながらもどうにか立ち上がった――が、そこまでだ。どうやらミカが食べ散らかしたバナナの皮を踏んでしまったらしい。一瞬で天地が逆になる貴重な経験だ。

 そのとき、いきなり身の毛もよだつ金切り声が耳をつんざいた――その絶叫は何度も何度も断続的に繰り返され、その何倍ものこだまをともなってあたりに響き渡った。

 悲鳴はひとつ残らず、すべてミカのものだった。

 集落への小道を逸れて深い藪をくぐり、やっとのことで石がごろごろしている川縁に出たときには、僕の耳に届くミカの声は痛々しいすすり泣きに変わっていた。淡く儚く降り注ぐ月光の下で、泣き声と獣の荒い息づかいの源に、何か蠢く巨大な塊があった。

 石と石の隙間に、消えかけたたいまつが落ちていた。ミカが落としたものだろう。それを手に取り、息を吹きかけて火の勢いを強くし、高く掲げてみた――蠢く塊がゆらゆら揺れる炎にぼうっと浮かび上がった。

 毛むくじゃらの巨大な塊は獣の背中だった。その白黒縞々の、僕の胴の二倍はありそうな太い尻尾がバタンバタンといらだたしげに地面を打っている。獣は不意に振り返った。

 身の丈三メートルはあろうかというその獣は、狸に似た模様の顔を悲しげに歪ませ、ひどく苛立っていた。ヒグマを思わせる巨体に比べ、ひどく繊細で器用そうな細い手の中に、ぼろきれのようになったミカの姿があった。

 獣は両手でミカの体をわしづかみにし、頭からざぶりと川に突っ込んでは長く尖った爪でミカの体中を引っ掻いたりもみくちゃにしたりしている。それは延々と繰り返され、それでも獣は決して満足することなく、低く悩ましげなうなり声をあげていた。

 『アライグマ』だ――おそらく研究所から脱走した実験動物だろう。YBXに寄生され、フェイズ4となってついには見上げるような巨体を獲得したにちがいない。たしか焼却処理されていない『ロケット』という名札がかかった檻があった――まさか喋ったりはしないだろうが。なんにせよアライグマはアライグマだ。どうやら、『アライグマ』はミカを餌食にする前に川で洗おうとしていたらしい。

 巷に聞く雑学で、アライグマの「洗う」習性は実は誤解で、食べ物なら何でも洗ってから食べるわけではない、というのがある。だが、コレに限っていえば、獲物が汚れてるから洗っているに決まってる。糞尿を頭からかぶった獲物など、アライグマでなくてもキレイに洗ってから食すのは自然の理である。そいつが苛立っているのは、洗っても洗っても、獲物にしみついた臭いが落ちないせいなのかもしれない。

 『アライグマ』はついに諦めて、ミカを岩場に放り捨てて逃げ出してしまった。

「た――たす、け――て」

 僕はミカに駆け寄ったが、もはや手の施しようがなかった。

 あの巨大な『アライグマ』の器用な両手にもみくちゃにされたために、ミカの腕や足はどれも異常な向きにねじ曲がっていた。真っ白な顔は月明かりのせいだけではなく、かなりの失血をしているためだろう。十本のカギ爪で掻きむしられたせいで、ミカの艶めかしく白かった肌はすみずみまでズタズタに切り裂かれて血みどろになっていた。破れたシャツからのぞく「かすかべいくん」たちもそろって無残に袈裟切りにされている。

「いっそ――殺し、て――」

 ミカは絞り出すようにしてそう言うと、はらはらと涙をこぼしはじめた。

 なんという不運、なんという神のいたずら! せめてあの怪物どもの仲間入りを果たせていれば、ミカは思う存分願望のままに生きられて、ひょっとしたらこの世界から悪人は一掃されて平和なものになっていたかもしれないのに! 怪物よけに最適の聖水が、運命の神の鼻をもひん曲げさせてしまったというのか!

 ミカのこんな姿を見ているのは忍びなかった。ミカの言うとおり、すみやかに――僕は立ち上がって、釘バットを振りかぶった――と、ミカが目を見開いてびっくりしている。

「それ――いや――怖い――」

「だって、でも――」

 僕はそういえばとあたりを見回した。ミカの竹槍がどこかに落ちているかもしれない。あれなら苦しませずにすむかもしれない。だが、竹槍はどこにも見当たらなかった。

「申し訳ないけどコレしかないんだ。ナタもナイフも置いて来ちゃったし」

 それでもミカは首をふっていやいやをした。蒼白な表情は傷の痛みやはたまた儚き運命への悲しみのためなどではなく、いまや恐怖で凍りついているようだ。

「大丈夫だよ、安心して。きっとうまくいく――」

 ミカちゃん、さよなら――僕は再びバットを振り上げて、そして振り下ろした。

 ――前にもちょっと述べたことだけれども、スイカ割りの際に往々にしてあることで、振り下ろしたバットなり棒なりがスイカに当たったはいいが、スイカの皮のつるっとした表面のせいでバットがツルリと滑ってしまってまったく割れなかったり、中途半端な割れ方をしたりすることがあるのは、誰しも観たり実際に自分自身で経験したりすることと思う――実を言うと、それがいままさに起こってしまったのである。

 釘バットというのがこれまたいけない。ただ、つるっとツルリでは済まされない。

 振り下ろしたバットはミカの額で滑り、剣山のように密集した釘は額の半分と頭皮の四分の一ほどをズルリとむしり取ってからむなしく地面を打った。

「痛――い、痛い、い――たい」

 しまったと思ったが、どうにももう遅い。ミカは恨めしげな目をして――といっても、片方はもう白目を剥いてしまっている――僕に向かって呪いの言葉を吐いた。

「てめえ、この――タンショウ、ホウケ――」

 僕は慌ててもう一度ミカの頭めがけてバットを振り下ろした。

 しかし、これほどまでに頭蓋骨と釘バットの相性が悪いものだとはまったく思いもしなかった! ミカだってしばらくの間はそう思っていたにちがいない。僕は彼女の目から生気が消えるまで何度も殴り続けなくてはならなかった――もっとも、最後にはどっちの目玉もどこかへ行ってしまったが。

 ふう――。

 僕はひとつ息をつき、それからミカ手製の竹槍を墓標にして(ついさっき、すぐそばに落ちていたのを見つけた)ミカの遺体を川縁に丁重に葬ると、僕は汚物と返り血まみれの服を脱ぎ捨ててせせらぎの流れで体を洗った。

 悲しくてしかたがなかった。僕はもうミカのぬくもりも柔らかさも感じることは決してない。それどころか、ミカの言っていたことがいずれ真実になるのだとしたら、ミカを失った僕は、もうこの地球上で最後の人類となってしまうのかもしれない。オス一匹が生き残っていたところで子孫は残せない。人類はもう絶滅したも同然だ。もしそれが真実ならば、僕が生きる意味はもはやないのだろうか。僕らはそろってうなだれるばかりだった。

 そのとき、上流の方でぼんやりと小さく明滅する光を見た気がした。はじめは蛍の虫柱だと思ったが、目をこらしてみると、蛍は人型の輪郭の中に閉じ込められているように見える――となれば答えは一つ、ヤツらのうちのひとりだ。

 僕はいまこそミカの仇を討たんと、勇んでせせらぎを遡っていった。手にしているのは釘バット「756」ただ一つだけだ。この身を爪で引き裂かれ、牙で食いちぎられようが構わなかった。生き延びて、孤独になること以上に怖いものなどなかった。

 だが、僕を迎えたのは思いもよらない存在だった。

 せせらぎに立つその透き通った体は無数の星の輝きを閉じ込め、ほのかに明るく瞬く指先で、月夜を舞う数匹の蛍と戯れていた。それは、いつものポニーテールをほどいて長い黒髪を胸元に垂らしただけの、一糸まとわぬ『エリ』だった。

「エリ――生きてたんだね」

 僕はあまりのうれしさに『エリ』に歩み寄っていった。

 エリはただただ「愛」を求めているだけだ。そんな『エリ』に邪悪なものが宿る隙などあるはずがない。何を恐れることがあるというのか。

 『エリ』は僕に気付いて振り向くと微笑んだ。そして、透明だった肌に色味を帯びさせながら、僕の方へと一歩一歩近づいてきた――僕のことを憶えてくれているのだ!

 だが、僕はどこか違和感を感じていた。さっきまで意気消沈していたはずの僕のコイツはそんなことはどうでもいいとのたまうが、僕はその違和感を捨て置けなかった。

 エリはこんなにも妖艶な歩き方をする子ではない。それに彼女はもっと貧相な尻をしていた。だけどエリという子にはそれが似合っていたし、僕はそんなエリだからこそ愛していたのだ。だが、この『エリ』は、やたら厚ぼったくなった腰をクネクネさせて僕を誘惑してくる。そして何より違和感を覚えるのは、髪の毛に覆われた胸元だ。

 一歩ごとにそこの髪の毛が盛り上がっていく――つまり、髪の毛の下の肉、つまりオッパイがどんどん膨らんでいくのだ。

 ああ、エリ、君はいったい何を――。

 『エリ』は僕が一向にいい顔をしないことを訝ってか、ふっと顔色を曇らせた。そしてますます胸元を膨らませた。

「そうじゃないんだ、エリ、君は大きな思い違いをして――」

 僕が言い終わらぬうちに、『エリ』は僕のすぐ前に立って艶っぽく微笑んだ。乳房はこれでもかと膨らんで、もうまん丸のバレーボールほどになっている。

 エリ、僕の知る君は決してそんな子ではなかったはずだ。君は胸がぺったんこだって、一度だって自分を卑下することはなかった――いや、あったかもしれない。ともかく、エリ、それこそが君の本心、君がもっとも強く望んでいたことだったというのかい? そんなことのために君は怪物になったというのかい? それともこれは、もちろんそんなことじゃなくて、ただの小さな誤解がさらなる誤解を生んでしまった結果ではないのかい?

 『エリ』はついに、髪の毛を後ろへ跳ね上げて胸を露わにした。

 そこにいたのは――やはりというか――巨大な「かすかべいくん」たちだった。

「ああ、エリ――君はまだ誤解しているんだね」

 僕は『エリ』を突き放した。『エリ』の顔にさっと悲しみが駆け抜けた。だがそのとき『エリ』がおそらく僕のためを思ってしたことといえば、「かすかべいくん」をもう少し大きくさせたことだった。

 ひょっとして、君は僕のためにそれを? 僕を喜ばせたいということが君の真の願いだったということかい? やはり君は、僕の愛する君だったということかい?

「ああ、でも――それは、まったく僕の趣味じゃないんだ」

 この釘バット――「756」のサイン入りバットにふさわしく、僕はフラミンゴのように一本足で立ち、高々と引きつけた右膝から腹筋や背筋、全身のバネにぎゅっと力をためこむと、一瞬にして弾けるようにバネに溜めた力を解き放ち、顔面に迫りくる危険球を、アッパースイングで月星の輝く夜空へと振り抜いた。


 チャプター6 バトル・オブ・ザ・ジャングル


 そこかしこに煌々と焚かれたかがり火は、あたり一帯すみずみまでオレンジ色の光で照らしだし、どの小径、どの軒の下にも濃い影を落とさせない。長い間うち捨てられていたこの廃村は、立ちこめる煙に燻され、次第になにやら胸騒ぎのする熱気を帯びていく。

 集落の目抜き通りの真ん中で、僕はかがり火の炎を見るともなしに見、薪が爆ぜる音やひっきりなしの虫の音を聴くともなしに聴いていた。

 リュックの肩紐をきつく締め上げ、いかつい鉄片を穂先にした竹槍を肩に担ぎ上げた――森の際に立てたかがり火の一つが揺れ、そのあたりの虫の音が途絶えたのだ。

 炎に照らし出された巨大な塊が、森の中からのそりとこぼれ落ちるように現れた――『アライグマ』――『ロケット』だ。

 ただ、それまで狡猾に忍び寄ってきた怪物だが、無数のかがり火に驚いているのか、巨大な頭に比して異様に小さい瞳をパチクリして立ち尽くしている。

「なにやってる! こっちだ!」

 『ロケット』は首をぐいとひねって僕を目に留めると、やっぱりちっちゃな目をカッとめいっぱい見開き、獰猛な雄叫びをあげて突進してきた。

 僕はその巨体めがけて槍を投げた。だが、槍はいともたやすく払いのけられてしまった――すぐさま釘バットを拾って身を翻し、僕は小屋の間を抜ける小径へ飛び込んだ。

 振り返るひまはわずかもなく、転げるように小径を駆け抜ける――すぐ後ろから地響きとともに、小屋が破壊され、地面が引っ掻かれる音が追いかけてくる。小径を抜けて目抜き通りを右へ折れ、脇目も振らずに左の小径へと駆け込む――だが、ほんの少しも引き離せた感覚はゼロだった。それどころか、全力疾走する僕の首筋に、いままさに、獣の生臭い吐息が――。

 僕はぞくりとして首をひっこめた――その一瞬後、頭のてっぺんすれすれを、うなりを上げる五本の爪がかすめていった。

 僕は頭からダイブして地面に転がると、すぐに振り返って釘バットを構えた――だが、そんなことをしても無駄だろうことはわかりきっていた。案の定、自分がまるで無力だと悟らされただけだった。そこには、ミカをズタズタに引き裂いたカギ爪を高々と振りかざした身の丈三メートルのモンスターが仁王立ちして、僕にのしかかろうとしていた――。

 走馬燈。

 二十二年間の人生が僕の頭の中を駆け巡る――といっても、僕の人生なんて退屈なものだ。全編通してすべて三流のキャストたち。ヤマなしオチなし、くだらないシナリオ――やっとのクライマックスも目も当てられない。余韻の「よ」の字もない退屈なだけのエンドロール。ほれみろ、挙げ句の果てに昨今お約束の続編予告的蛇足シーンときたもんだ――ん? 続編?

 おそるおそるぎゅっとつむっていた目を開けると、『ロケット』は僕などそっちのけで、きょとんとした顔で突っ立っていた。

 その怪物は本来の愛くるしい顔で、不思議そうに首の周りに引っかかっているひもを、その器用な十本のカギ爪でいじくっている。しばらくそうしていたが、どうやらやっとひもをいじくるのに飽きたらしい。彼はくりっとしたちっちゃな瞳を僕に向けた。

 そのとき――遅ればせながら――罠の留め金がポキリと音を立てて外れた。

 ひもの輪がヒュッと音を立ててその太い首のところでぎゅっと締まり、『ロケット』はちっちゃすぎる目を見開いてキュウッと鳴いた。

 もがけばもがくほどその猪首はぐいぐいと締め上げられ、ロープはみるみるうちに首の全周に渡って食い込んでいった。同時に、束にした竹のバネによって巨体が重たそうにゆっくりと宙吊りにされていき、それでも怪物は手足をバタバタさせてもがき続けた。だが、太い尻尾も地面に付かない高さに吊り上げられてしまうと、口の端からぬめぬめした長い舌をだらりと垂らして、やがてピクリとも動かなくなった。

 だが、それで息絶えたわけではなかった――ふさふさとしたむく毛が突如ずぶ濡れになったかと思うと、不意にアライグマ特有の模様はすっかり色を失って透き通り、巨体のそこかしこがとろとろに溶けてぼたりぼたりと粘液をしたたり落としはじめた。やがて、怪物は粘液を地面にすっかり落としきり、ロープにはクルミほどの脳髄と一房の毛のような神経の束が引っかかって残るだけとなった。

 僕はリュックから火炎瓶を取り出して火を着けると、地面を蠢く粘液に投げつけた。

 瓶が割れ、炎が瞬時に粘液の塊を包み込んだ。そのうちに、ロープに引っかかっていたちっぽけな脳髄もつるっと滑り落ちて、炎の中に落ちてジュッと音を立てた。

 焼けて固まり、焦げていくタンパク質の塊を見下ろしていると、ミカの死以来、空虚でしかなかった僕の胸にどっと感傷が押し寄せてきた。

 ミカちゃん、仇は討ったよ――。

 涙は流さなかった。悲しんでいる暇などない。まだこれで終わりではないのだ。

 僕は雄叫びを上げた。森中に轟くように――いや、島中に巣くう、僕らの地球の敵どもすべての耳腔に轟くようにだ。これは僕からヤツらへの宣戦布告だ。

「いいか貴様ら、耳をかっぽじって、心して僕の怒りの声を聴け――ウッ、げほげぼん! けむりが――ごぼごぼ!」

 現実とはこんなものだ。

 煙にむせている場合ではない。森の奥から、地面を蹴る複数の足音が迫ってくる――。

 僕は竹槍と釘バットを拾い、あらかじめ用意しておいたたいまつに火を灯し、足下を照らしながら集落からジャングルへと通じるように切り開いておいた道を突き進んだ。

 藪が切れ、木々に囲まれた開けた場所に出ると、樹上からツタが垂れ下がっているその広場の真ん中で僕は立ち止まった。僕のすぐ背後まで迫ってきていたヤツらの足音もいきなり止んだ――どうやら左右に広がって、僕をぐるりと包囲しようとしているようだ。

 槍を構えたままたいまつを高く掲げて周囲を照らすと、ヤツらは姿を現した。

 この一日でまたさらに肥え太って鈍重になっているものと考えていたが、当てが外れた。奈津子さんのお父さんと伯父さんたちは、そろいもそろって身の丈二メートルはあろうかという初老の『マッチョ』に変貌していた。もはやのっぽもちびもない。願望を具現化するYBXの効能、そしてそのテラテラあぶらぎった質感の表現力恐るべし! 

 僕は死にものぐるいで槍とたいまつを振り回しながら『マッチョ』どもを牽制した。だが、七つ子は息を合わせて黒光りするご自慢の胸筋や上腕二頭筋を交互にビクッ、ビクッと震わせてフェイントを織り交ぜながら僕を翻弄し、愉悦に浸っているようだった。

 僕は不意にたいまつを落とした――哀れな獲物、絶望の果ての放心かって?

 もちろん断じてちがう。僕はわざとたいまつを足下に落としたのだ。

 あたりはふっと暗くなった――だが次の瞬間、僕の足下から炎が放射状に地面を走った。

 燃料の軌跡をたどる十数本の炎は、怪物たちの股の下をくぐってその背後へ突き抜けると、さらに左右に折れて広がり、ついには『筋肉』どもを取り囲むようにして、黒魔術の巨大な魔方陣のごとく地獄の炎の大車輪を地面に描きだした――言っておくが、『秘技 地獄車』から着想を得たわけではない。あれはまったくの別モノだ。

 炎の輪に囲まれた怪物たちは驚き、慌てだしたが、すぐに全員が僕に向き直った。

 「逃げ場を失ったのはお前も同じだ」――彼らのむさ苦しくて暑苦しくて汗臭そうな自信まんまん熱気ムンムンの、オイルなのか汗なのか粘液なのか知らないけどヌラヌラギトギト黒光りさせることがなぜかご自慢の肉体と、ソース顔ならぬ継ぎ足し継ぎ足ししてきた五十年ものの濃厚ダレ顔が真っ白な歯を剥き出しにして僕を取り囲んだ。

 僕はその七対の目を順繰りに見回すと、目の前に垂れ下がっているツタにしっかりと腕を絡みつかせ、強く引っ張った――と、樹上のそこかしこでざわめきが走った。

 僕の体は掛け金が外れたツタに引っ張られて上空に跳ね上げられ、同時に、広場を囲むように樹上に仕掛けておいたいくつもの燃料満杯の鍋がひっくり返り、地上に取り残された七人の『筋肉バカ』どもの頭に降り注いだ。

 ツタを揺すって太い枝に飛び移り、僕は眼下の惨状を見下ろした。

 地面の炎が燃料に引火し、怪物どもは火だるまになって踊り狂っている。プロテイン――いやタンパク質はよく燃える!

 と、怪物の一人があぶくを噴いて燃えながらも炎の大車輪を突破しようとしている。すかさず槍を投げつけると、槍は隆々とした広背筋から隆々とした腹直筋へと貫通し、地面に突き立った。すぐにそいつはその場で巨大な火柱となった。

 もうもうと黒煙を上げる炎はたっぷり十五分は燃え続けた。炎にあぶられたこのあたり一帯だけは、じめつく亜熱帯の森の夜も乾ききり、少なくとも煙の流れてこない風上であれば心地よいものだった。僕はリュックからバナナを取り出して悠然と腹ごしらえをしながら、燃やすものが尽きて自然と鎮火しつつある炎の中から七つの消し炭を数え上げた。

 そのとき不意に背筋に悪寒が走った。

 とっさに別のツタで向こうの木の枝に飛び移って振り返ると、僕がさっきまでいた太い枝が、粘液状の無数の触手にまとわりつかれて見る間にやせ細って枯れていった――いや、その枝だけではない、枝という枝が次々に溶かされていくのだ!

 僕はツタにぶらさがってフラフラと右往左往するしかなかった。太い枝に飛び移ろうとすると、触手に先回りされて跡形もなくされてしまう。ついにはぶらさがっていたツタも溶かされてしまい、僕はなすすべなく背中から地面に落ちた。

 息が詰まって地面に突っ伏してあえいでいると、ぬめっとした何かに首根っこをつかまれ、僕の体はあっという間に宙に高々と吊り上げられてしまった。

 もはやじたばたしてもはじまらない。母猫に運ばれる子猫のようにおとなしくぶら下げられているしかない。すると、目の前の藪がどろりと溶けだして一本の道が現れた。

 その道をやってきたのは、四方八方に触手を広げた『大輔さん』だった。

 『大輔さん』は僕の首根っこをつかんでいた触手を不意に引っ込めた。十秒前の再現だ――僕はまたもなすすべなく、したたかに地面に背中を打った。

 仁王立ちした『大輔さん』は、仁王の形相で僕を見下ろしていた。

「たびたびどうも――」

 とりあえず気安く挨拶してはみたものの、『大輔さん』が僕らのために払ってきた犠牲の数々を思えば、僕と『大輔さん』の間で緊張緩和の実現など、はるか彼方の蜃気楼を見たという夢を見た気がしたという妄想も同然であろう。

 『大輔さん』は握り固めた拳――のような粘液の塊で僕の腹をしこたま殴った。相当恨みがこもっているということを鑑みれば、まあ予想の範疇ではある。

 まあ、やっぱりそれだけでは済むはずもなく、それからはもう散々だ!

 僕がいかにしてズタボロにされたかを克明に描写する気はさらさらない。そんなものをいちいち並べ立てては主人公の威厳が損なわれ――いや、そんなものはあくびが出るほど退屈極まりないものとなるだろう。といっても、サンドバッグのように殴り飛ばされ、サッカーボールのように蹴り飛ばされ、室伏のハンマーのように投げ飛ばされている僕がそうされている間じゅうずっと退屈していたわけもなく、あくまで観客の側に立ってみたら退屈だろうという話であって、当事者の僕にとっては死ぬ思い以外のなにものでもない。いっそのこと主人公を誰かに譲ってあげてもいいと思ったくらいだ!

 それでもやっぱり僕は主人公なんだろうな、あんなにもヒドいことをされたのに、それでもまだ生きているのだから。脇役ならとっくに死んでるハズ――なんてことを薄れゆく意識の片隅でずっとぼんやり考えていたのだが、気付いたら、いつからか僕は殴る蹴る投げ飛ばされるの圧倒的な暴力の渦からはじき出されていたらしかった。

 仰向けで見上げた木々の梢の向こうに、もうすでに明るみはじめた空があった。遠くの方から目覚めた虫や鳥の声が押し寄せてくる――といっても、僕が消し炭にしたプロテインの煙はまだそこらをたゆたっていて、さほど長いこと意識を失っていたわけでもなさそうだった。それでも悪夢のようなこの一夜のことを思えば、生きて明くる朝を迎えられたことに希望が湧いてこないわけではない――ただ、もちろん、希望なんてものはたいていの場合、打ち砕かれるためにあるようなものだ。それこそがこの世の真理。そうでなくてはどうして「希望」などという字をあてるのだ?

 ぼんやりかすんだ視界がふっと影に覆われた――やっぱりだ。『大輔さん』が僕をのぞき込んでいる。きっと僕が目を覚ますのを待っていてくれたにちがいない。

 いやもう、ほとほとうんざりだ。うんざりを通り越して腹が立ってしょうがない。僕は『大輔さん』を、あらん限りの声で怒鳴りつけた。

「オチはないのかよ! 所詮は出オチ芸人か!」

 その瞬間、『大輔さん』の顔色が変わった――そう、僕はとっくに思い出していたのだ。「島尻大輔」がお笑いトリオ「大三元」の一員だということを。

 お笑いトリオ「大三元」のことは――実はよくは知らない。先日、深夜枠のお笑い番組「ドサンコズの本気でけっぱれ!」で文字通り一瞬チラッと映ったのを観ただけである。

 「本気でけっぱれ!」は北海道出身中堅お笑いコンビ「ドサンコズ」をMCに立てて企画された民放BS番組で、その中の一コーナー「スベってドボン!」は新人芸人を落とし穴のセットの上に立たせてネタを披露させ、審査員の「ドサンコズ」とゲストのセクシー女優を楽しませれば最後までネタを続けられ、一瞬でもつまらないと思わせたら彼らの手元のスイッチが押されてしまい、落とし穴のフタが開いて画面から消え、それだけでなく落ちたあとの一切のリアクションすらも映してもらえないというものだ。

 僕の記憶が正しければ、「大三元」が映ったシーンはこうである。

 おそろいの白いジャケットにそれぞれ白、緑、赤色のシャツと蝶ネクタイを着けた三人組が勢いよく登場し、まず自己紹介をする。

「どもー! 『大三元』の『白』ことお笑い界きっての色白美肌、シロヤンシロタでーす!」

「どもー! 『大三元』の『発』ことハツヤマでーす! ぱっつん前髪、発車オーライ、発ガン物質ハッスルハッスル!」

「どもー! 『大三元』のシマジリでーす」

 ガチャン、バタン――暗転。

 真っ暗な画面は、落ちた後のリアクション音声すらもカットされ、その暗闇の中では、スイッチを押した「ドサンコズ」ツッコミ担当のキレのある直球のツッコミが炸裂する。

「そこは『中』じゃないのかよッ、『中』の字のあるヤツ連れてこいッ」

 新人芸人としては「ドサンコズ」のキレッキレのツッコミを引き出せたし、出オチというのはこれはこれでオイシイという向きもあるらしいが、その後すぐに大輔さんが芸人を辞める決意をしたということを思えば、ついにつかんだテレビ出演のチャンスで、決して出オチを狙っていたわけではないことはまずたしかなようである。

 その元「大三元」の『大輔さん』は僕の前に仁王立ちになり、なにやらうめき声を上げはじめた――それがどうやらなんだかずっと続いていて、演説でもしているかのようにさかんに身振り手振りが入ったりもするのだが、正直何を言っているかわからない。

 うめき声が不意に止んだ。どうも僕に何かを問いかけているようである。だけど、何を言ってるかわからないのだから答えようがない。僕はただ、肩をすくめるしかなかった。

 『大輔さん』はいらいらと手をかざすと、指の先から針のような触手を伸ばして僕の頭に突き刺した――すると、『大輔さん』の言葉が直に頭の中で轟きだした。

『いいか、もう一度はじめから言うから心して聞け! お前たちは俺の大事な家族を――』

 僕は頭を掻きむしって触手を引っこ抜いた。すっと頭の中から説教くさい声が消えた。

 『大輔さん』は口をあんぐりと開けたまま唖然呆然としているが、そりゃそうだろう、物語のクライマックスで敵役が蕩々と世の罪を暴き立て、自分が悪の道を行かざるを得なくなった動機とその正当性を語りだす展開なんて、もうありきたりすぎて食傷気味なくらいだ。いまどき全然クールじゃない。

 僕はリュックからダイナマイトを取り出して、ライターで導火線に火をつけた。

「どうせ殺されるなら、道連れにしてやりますよ!」

 僕は叫んだ――だが一世一代の啖呵は鼻で笑われた。なにくそ本当に死んでやると思ったが、よくよく考えてみるとやっぱり死にたくない。なにより、主人公らしくない。こういうのを考えつくのは脇役の役目で、結局道連れを試みても失敗するパターンだ。

 僕は導火線から火花噴き出すダイナマイトを『大輔さん』に投げつけた。だが、それはいともたやすく触手にキャッチされると、すぐさまどこかへ放り投げられてしまった――ま、そうだろう。「Eat THIS!」なんて言ってダイナマイトを投げつけてモンスターを爆殺するなんてシーンはゴマンとある。そんな結末、いまさらだろう?

 そのとき、藪の向こうでダイナマイトが爆発して地面が揺れた。

 ジャングル中の鳥たちが一斉に飛び立ち、ギャアギャアと騒ぎはじめた。爆心地から吹き飛ばされてきた土砂が雨あられと降り注ぎ、爆風に煽られた木々の葉が舞い落ちてくる――僕はこれ幸いと、そのカオス状態の隙にこっそりと地面を這って逃げ出した。

 とはいっても、逃げ出したところでどうにかなるわけではなかった。

 どこへ行っても這い伸びてくる無数の触手に片っ端から藪や茂みが溶かされて隠れ場所を丸裸にされるし、その触手自体が感知センサーとなって僕の居場所がバレてしまう。それでも僕は地面を這いつくばって逃げるしかなかった。

 主人公は主人公らしく決して諦めずに戦うのだ!――とカッコつけたいところだが、正直なところ、圧倒的な力の差に、戦うどころではない。この世は力こそすべてなのだ!

 こうして逃げながらも実はひそかに策を練っている――わけもなく、もう小突き回されたり蹴られたりするのもウンザリだし、振り回されて投げ飛ばされて高いところから落とされるのも嫌だ。それらに比べれば、こうして地上十センチを自分の意志でゴロゴロ転がり回っている方がだいぶラクなのだ。この逃避行にそれ以上の理由などないのである!

 たったいま宣言したとおり、僕は無策のまま逃げ回るばかりだった。『大輔さん』も僕を弄んでいるにちがいない。とっくに触手に捕まっていてもおかしくないのに、わざと僕を泳がせているようなのだ。そうとわかっていても、僕は這いつくばって藪をかいくぐり、草むらを横断し、また次の藪へと突っ込んでいくしかなかった。

 そこは、木々の太い根が張り出し、起伏の激しい地面が広がっていた。熱々に溶けた鉛が詰まったような重い体を引きずって進むにはかなり苦労する。だが、立ち止まるわけにはいかなかった。僕の背後では、いままで這いつくばってやっとのことで通り抜けてきた草むらや鬱蒼とした藪や森が、瞬く間にキラキラ光る無数の触手が蠢くばかりの丸裸の荒れ地に変わり果てていくのだ。

「エイリアンの環境破壊を許すな! エイリアンは地球から出ていけ!」

 主人公ならではのウィットに富んだ、いまだかつて誰もやったことのない最先端のヘイトスピーチを声高に叫びながら、僕は四苦八苦して巨大な倒木をどうにか乗り越えた。

 倒木の向こうにはまばらな草むらが広がっていた。そこに足を踏み出しかけたとき、僕はふと鼻をひくつかせた。そして、足を引っ込めてあたりをじっくりと見回した。

 草むらの真ん中あたりに樹上から数本の太いツタがぶらさがっている。

 最後の力を振り絞ってツタに飛びつき、必死にしがみついて何度か前へ後ろへ揺らして勢いをつけると、草むらの向こうに転がり込んだ――そして、僕はついに力尽きた。

 ぼんやりした視界の隅で、さっき僕が乗り越えた倒木が跡形もなくなると、そこに素っ裸の荒れ地を背にし、蠢く無数の触手を従えた『大輔さん』が姿を現した。

「もう降参ですよ。ひと思いにやっちゃてくださいよ」

 僕は地面にへたりこむと、両手を挙げた。『大輔さん』は僕の有様を見てほくそ笑むと、余裕たっぷりに歩み寄ってきた。そして――不意に立ち止まった。さらには僕がしたように、目を細めてあたりを見回しはじめた。

 はじめは目の前にぶら下がって揺れているツタの束を、そして木の上を――その木の枝を伝って幹へ、地面へ、そして草むらへ――。

「どうした、かかってこいよ! やれってんだろ、この出オチ芸人が!」

 僕は挑発した。だが、『大輔さん』は乗ってはこなかった。

 『大輔さん』は「草むら」に顔を近づけた。そして顔を上げると、僕にニヤリとして人差し指を「チッチッチッ」と振った――僕はそのとき、すべてを諦めた。

 『大輔さん』さんはおもむろに両腕を広げ、指先からさらに触手を解き放った。

 森が、草木が無数の触手に折られ、揺さぶられ、耳をつんざく悲鳴のように軋みながら見る間に朽ちていき――樹上からいくつもの鍋が轟音を立てて転げ落ちてきた。途端に、あたり一帯が鼻をつくガソリン臭でいっぱいになった。「草むら」も、もうもうと土煙をたちのぼらせながら消え去った――その土煙の中から現れたのは、巨大な落とし穴だった。

 それは、アタル君がジョニーを殺すために作った罠だった。

 枯れた河床の跡を利用した広く深い穴の底には、先端を鋭く尖らせた竹槍が何十本も突き立てられていた。『大輔さん』はもう一度僕に向かって「チッチッチッ」とやった。

 僕はふと、この後に起きるであろう出来事を思い浮かべ――「ぷっ」と吹き出した。笑いが止まらなくなった。僕は『大輔さん』に「チッチッチッ」とやり返してやった。

 訝る『大輔さん』を尻目に、僕は悠然とリュックからバナナを取り出し、その分厚い皮を剥いて小さな実をほおばった。島バナナのさわやかな風味と濃厚な食感を優雅に味わいながら、僕はその皮を厳かに落とし穴の縁に置いた。それを見た『大輔さん』は瞬時に顔を歪ませた。僕は言い放った――。

「さあ、見せてくださいよ! あなたの芸人魂を!」

 みるみるうちに『大輔さん』の表情に苦悩の色が満ちていった。

 『大輔さん』はいま、胸の内で天秤に掛けているのだ――家族を殺された恨みを晴らすことと、生涯芸人として在ることを――そして、それゆえに死すことを。

 僕には勝算があった。

 人はひとたびYBXに寄生されて脳髄以外の肉体を侵食されてしまえば、かろうじて自分自身を残しながらも、人間であったときに積もり積もった抑圧された願望を解き放たずにはいられなくなるのだ。それはアタル君しかり、ケイしかり、また研究所の研究員たちや警備員たち、七つ子たちもそうだ。エリですらそうだった。

 アタル君の願望は幸福だった頃の五歳児の頃にかえりたいというものだった。ケイは僕への恋心を果たそうとした。睡眠欲を解放した研究員もいれば、怪物化してもなお日頃からの神経性の下痢症に支配されたままの者もいた。常に職務に忠実であろうという生真面目な者もいれば、職務そっちのけで唯一の楽しみであろう深夜ラジオに耳を傾ける者もいた。マッチョマンになろうとした年寄りたちもいた。愛が欲しいと言って僕の元を去ったエリは、しかし実は――いや、エリに関してはもはや何も語るまい。彼女はずっと誤解していたけれど、それでもあの願望は僕のためを思ってのものに他ならなかったのだから。

 では、島尻大輔の場合はどうだろうか。

 復讐は、彼にとっては頑なな「意思」であることにはちがいない。だが、それは後付けの義務や使命にすぎない。それ以上に彼の精神の深奥に在り続けたのは、お笑い芸人として売れることのはずだ――たぶん。幸福や愛を求めたり、思う存分生理的欲求を満たしたり、誇りを持って職務を遂行したりすることと同じように、島尻大輔にとって、ウケることだけが彼の脳髄を常日頃駆け巡る「願望」だったにちがいないのだ――たぶん。

 最期にお笑い芸人として花火のようにパッと華々しく咲き、その残像を束の間この世に残して散っていくのか、あるいはネバネバの怪物のまま今後も醜悪に生き続けるのか――あとは島尻大輔の「魂」次第だ。

 そのとき、朝日が遠く向こうのジャングルの樹冠から顔を出した。僕と『大輔さん』は目を細めて一瞬ごとに昇りゆく太陽を見つめた。陽光は横ざまに『大輔さん』を照らしだし、黒々とした影に塗りつぶされた裸の大地の上に神々しくその姿を浮かび上がらせた。

 それはまさしく、天然のスポットライトだった。

 僕は『大輔さん』にうなずいてみせた――『大輔さん』も穏やかにうなずきかえした。そして、光を浴びてキラキラと輝きを増した『大輔さん』の体が一瞬だけ半透明になったかと思うと、見る間に例の白ジャケットに赤シャツ、赤蝶ネクタイのきらびやかな舞台衣装を身につけた姿に変わっていった。

 僕の頬を涙が伝った。どうにもとまらない。どうしてか、勝手にあふれてくるのだ。

 『大輔さん』はまたひとつうなずいてみせた――今度は僕がうなずきかえした。そして『大輔さん』はツタに飛びつき、僕に向かって宙を飛んだ――。

 スポットライトの焦点はあやまたず『大輔さん』に絞り込まれていた。

 彼は手で宙を掻き、懸命に足の先を伸ばした。そして、見事に五メートルの狭間を飛び越え、穴の縁に着地した――もちろん穴の縁に置かれたバナナの皮の上にだ。

 『大三元の【中】こと島尻大輔』は、バナナの皮を踏んでつるりと滑り、真っ逆さまに穴の底へと落ちていった。

 何も聞こえてこなかった。僕はそっと穴の底をのぞき込んだ。

 『大輔さん』の体は十数本の竹槍に串刺しになっていた。彼はゆっくりと僕の方に顔を向けると、口の端を持ち上げてニヤリとし、まだ動く右手をもちあげて親指を突き立てた。

 えーと――えへん、おほん。

 なんていうか、その――ちっとも笑えない。感涙にむせび泣いてしまい、笑うどころではなかった、というならまだしも、本当にちっとも面白くなかったのだ。さっきまでの涙なんてどこへやら、いったい何が僕にさっきまで涙を流させたのかすら思い出せない。

 まあ少なくとも、命を賭してまで成し遂げた落ち芸は賞賛すべきかもしれないし、たしかに島尻大輔という一芸人の熱意のようなものを見せてもらったような気がしないでもない。だけど、ただのシロウトにすぎない僕のフリ(まさかのバナナの皮)を、ただただなんの工夫もなく予定調和的なノリでボケられても、やっぱりせいぜい愛想笑いくらいしかできない。誰だってそうだろう? バナナの皮だよ? いまどきのお笑いのレベルって、バナナの皮で滑ってドボンなんて、そんなもんじゃないんじゃない? スベってるって!

 ま、ある意味、一周回って、見方を変えれば、島尻大輔の笑いは死してシュールな領域に到達したということなのかもしれない。 

 僕は発煙筒を着火すると、さっきから僕の反応の薄さに戸惑いの色を隠せないでいる『大輔さん』をじっと見下ろした。

「イピカイエー、マザファッカ!」

 この最高にクールな決めセリフはせめてものはなむけだ。

 穴に投げ入れた赤い炎は、底につく前に、気化して充満していたガソリンに引火した。熱風をまとう火柱が噴き上がり、小さな黒いキノコ雲が立ちのぼり、すさまじい業火が空を焦がした。やがて、最後の粘液の怪物は、消し炭すらも残さずに跡形もなく燃え尽きた。


 島の西端の浜に島尻家のクルーザーが停泊しているというが、結局、そのカギは見つけられなかった。もとより、僕はもう、島からの脱出なんてことはどうでもよくなっていた。それでも、ともかく僕は西の浜へと歩き出した。

 途中、川で傷と泥だらけの体を洗ったりしながら、ほとんど休まず歩き続けた。その道中、僕の脳裏をずっと支配し続けていたのは、とある一つの対立する考えだった。

 それはこの数日に経験したことすべての根底に常に在り続けた究極の選択だ――「いかに生きるか」あるいは「いかに死ぬか」だ。

 なにも大げさなことではない。というのも、僕のような人生経験の浅い若輩者が、これほどまでに生命の存続をかけた戦いをすることなど普通の暮らしをしている限りはあり得ることではなく、僕以外の友人たちプラスαがすべて尋常ならざる死に至ることになったことを含めても、この数日に起きた出来事の鋭い爪牙がどれほど僕の精神を深々とえぐってきたかに考え至れば、自ずと理解と共感を得られるにちがいない。

 人は、いかによりよく生きるかを考え、実行に移そうとする。それは目標を達成することだったり、夢や理想を追い求めることだったりする。夢、目標、理想、そして希望をもつこと――それらは欲望に他ならないが、どれもすべて良きこととされ、それらを実現することこそが、他の動物とはかけ離れた知性を獲得し得た人類の存在意義だとされてきた節がある。

 しかし、人が抱く欲望は尽きることがない――見苦しいほどに。

 夢、目標、理想、希望――それらが満たされねば人生の失敗を意味する社会通念a.k.a強迫観念が、ゆりかごを這い出た頃から人を尽きることのない強欲に駆り立て、そして自らの強欲でがんじがらめにする。それはやっと片足を墓場に突っ込むまで延々と続く。

 はたして人はそんな欲望のどれほどを、その生涯のうちに満たせるのだろうか。そのリストの大半は「済」のチェックを入れられることなく手つかずのまま、それでも諦める潔さはさらさらなく、希望は捨てちゃいけない、未来は自分の手で切り開くものだなんてだましだまししながら生きながらえ、でも結局は人生なんてそもそもそんなもの、気楽に行こうぜとのらりくらりと現実逃避に終始するばかり――現実はそんなところだろう。

 考えてみれば、薔薇色の人生を謳歌できる者など、力や金、容姿やチャンス――そんな特権に恵まれたほんの一握りの人間だけだ。「持たざる者」の中に、そのことに早くから気付く者はいない。行く先は常に靄と霧と真っ暗闇、どこへ足を踏み出すにも手探りしてゆかなければならない、生まれも育ちも見た目も運もなにもかも持ち合わせていない、特権階級の食い物にされているこの世の大多数の「持たざる者」――「ザ・平凡」の人々の人生に、そもそも価値などありはしないのだ。

 あるとすれば、特権を持つ者たちによって死ぬまで社会に酷使される奴隷、絞り尽くされる家畜としての「利用価値」だけだ。だが、おのれの人生がそんな悲惨なものでしかないことを早々に自ら認める者がどこにいようか。無知蒙昧であることを、「ザ・平凡」は特権階級によくよく躾けられているのである。

 平々凡々な人生は苦しみでしかないというのに、従順な奴隷もしくは家畜であることのご褒美にときどきもらえるアメ玉で頭をボンヤリさせられて、また明日からの奴隷労働(その現実すらも実はよく見えていない)に駆り出されることを厭わない者のいかに多いことか。見方を変えれば、現代の奴隷制度は相当にうまくできているということなのだろう。

 ただ、人は病気や戦争や災害などで死の淵に一度でも立ったことがあると、その人生観が変わるという。僕もそうだ。今回のこの出来事を経験してきた僕にとって、これまでの生き方を続けることのむなしさといったらない。僕は、いかに生き、いかに幸福を享受するかなどとあれこれ悩むことのばかばかしさに気付いてしまったのだ。

 では、僕のような「ザ・平凡」はどう生きていけばいいのだろうか。

 そこで、視点を真裏にひっくり返してみて、僕は「いかに死ぬか」に着目してみた。

 なるほど、その点に目をつけてみると、それこそが僕のような平々凡々な人間にとっては価値ある時間の過ごし方を見出すヒントではなかろうかという気になってくる。

 つまり、生きている間のことはどうせどうにもならないのだからこの際もうどうでもよくて、そのかわり、自分自身の「死に方」について常に思いを馳せるのだ。つまり、「死ぬときくらいは自分の好きなように死のう」というのである。

 死は一人につき一回きり。誰にも必ず平等に訪れる。やがて来ることがわかりきっているのだから、そのただ一度の機会に向けて早くから用意周到に準備ができる。つまり、その準備を怠らなければ、理想的な「死に方」の実現可能性が自ずと高くなってくるのだ。

 子や孫に見守られながら死にたいのであれば、あらかじめやるべきことは決まっている。ナツキの言ではないが、「ヤッてヤッてヤリまくれ」だ。結婚相手など選り好みせず(どうせツラの皮一枚のちがいだもの)、とにかくガキンチョをポンポンたくさん生んでおけばいい。お家の懐具合なんて構うことはない(産めば産むだけ国がカネを配ってくれるし)。要は確率の問題だ。子や孫が多ければ多いほど、そのときに誰かしら都合のつく者がいて、誰かしら枕元にいてくれるだろうからだ。ただし、子や孫がいくら大勢いたとしても、みながみな薄情者である可能性もゼロとは言い切れないが。それはそれで当人の生前からの準備が足らなかったということに尽きる。

 病気に苦しんで死にたくないのであれば、若いうちから健康に気遣ってストレスのない生活を送る努力をすればいい。そうすれば、ある程度の高い確率で安らかな死を迎えられるだろう――ただ、安らかな死というものが本当にあるのならばという前提の上でだが。無論、それ以前に不慮の事故に見舞われる可能性もなきにしもあらず。

 はたまた、死の危機に瀕している誰かの身代わりになったり誰かを救おうとして英雄的に死ぬのが本望というのなら、戦地や紛争地域、あるいは犯罪多発地帯をうろついていればいずれはそんな機会に出くわすかもしれない。その際、あらかじめ犬死も広義の意味で英雄死の範疇に含めておくと後悔も少なくてなおよろしい。

 「死に方」をあらかじめ決めておけば、おのずと「生き方」は決まってくる。たとえ、「死ぬ」そのときまで特権階級の連中へのご奉仕人生であることになんら変わりはなくても、その「生き方」は自分自身の「死に方」のための人生といえるから無駄ではなくなる。死に際に目標を定めることをせずに、のんきにいかに生きれば幸せになれるだろうかと見果てぬ夢を見、そのときそのときの、手にすることができるかどうかもわからないくだらない欲望のままに生きてばかりだから、最期の最期というときに、不意に訪れる混沌の恐怖に恐れおののき、望む形ではない死(「死に方」を考えないのだから望むも望まないもないが)を迎えることになるのだ。

 ただ、しかし――いや、もうこの議論はいいかげんここで終わりにしよう。長々くどくどと理屈を並べ立てておきながら、唐突に「終わり」だなんて勝手にぜんぶちゃぶ台返しして、僕の暴論に対してせっかく山と反論を用意しておられる方々には申し訳なさがないでもないが、こればかりはしかたがない。実際、僕も驚いて困惑しているのだ。つまり、もはや、いかに生きようがいかに死のうが、それらのカタチがどうだろうと、僕にとってだけでなく、誰にとっても、人生に「価値」なんてものはまるっきりなくなってしまったのだ――この新しい世界においては。

 亜熱帯の陽光が木々や草葉の隙間に残る宵の頃の闇と湿り気をあらかた追い出しきる頃には、僕はこの島が一夜にして様変わりしてしまったことを認めざるをえなかった――地球外生命体YBXは、すでにこの島のすみずみにまで蔓延してしまっていたのだ。

 『大輔さん』によって根こそぎ丸裸にされた大地は、夜明けから数時間たらずのうちに草原に覆われていた。

 イネ科の草はとどまることなくその尖った細い葉を空へと突き上げていく。ただそれも束の間のことで、風や虫や鳥によってどこからか運ばれてきたのか、あるいはもともと土に埋もれていたのか、草の隙間でいつの間にか芽吹いた別の草や幼木が、根を張るのもそこそこに急激に背丈を伸ばしはじめていた。そこかしこで限られた土と限られた陽光を奪い合う草木たちの熾烈な争いが、ふと立ち止まった僕の眼前で繰り広げられていく。その勝者もまた別の強者に打ち負かされると、急速に分解されて土へと帰り、また別の植物の養分となっていく。

 様々な虫や小動物、鳥たちも無限の餌場に大挙して押し寄せてきては、彼らもまた獲物の奪い合いや食い食われの生存闘争を激化させていった。

 まだイネ科が支配的な草原は、バッタの実験場でもあった。ある一群のバッタは大顎を鋭くしたり大きくしたり、顎の筋力を強化したりして、より堅くなった葉をかじり取って食んでいた。別のバッタは大顎でかじり取った葉をよく咀嚼することを極め、さらなる発展型といえる別の者は消化能力を高めた胃で効率よく栄養分を摂取している――ただ、どのカタチがもっとも生存に適しているかは、草を食べる能力だけで決まるものではない。彼らは、彼ら同類の間で争うのと同時進行で、捕食者とも闘わなくてはならないからだ。

 捕食対象となるあらゆる虫たちのその一部は、背中や足に硬く鋭い棘を生やした。別の虫たちは化学的防御手段として体内や体表に毒素を生みだした。また、跳躍のための脚を強靱にしたり、飛翔のための羽や筋肉を発達させた者もあった。その逆で、足や羽を貧弱にする代わりに甲殻を硬く厚く作り替えた者もいた。いずれも捕食を免れるためだろう。

 こういった防御手段を講じた一群が他のカタチをした同じ仲間の者たちよりも生き残る場面もあった。だが、捕食者のほうでもまた自らを変貌させる力を獲得していた。

 獲物の棘を嫌がった鳥のうちのある者は、すぐさまくちばしや顎のまわりの筋肉を作り替え、変形させて、硬い棘や甲殻をもかみ砕く能力を持った。体内で毒素を中和したり分解したりする分泌物を産生し、もはや毒素をものともしないどころか、その誰も食べようとしない毒虫を好んで食べる者もすぐさま現れるようになった。

 この島に棲む誰もが、新しい世界の夜明けを迎えて戸惑いがあっただろう。なにしろYBXの寄生(あるいは共生)も唐突ながら、従来ならば何万年、何百万年もの時間のかかるはずの生物進化の道筋を、ほんの一飛びで駆け抜けていかねばならなくなったのだから。だが、それぞれが自らの内に秘めた新たな能力の可能性に気付くやいなや、彼らはこの世界を受け入れ、我先にと、行く果ての知れない、地球生命史上どんな生物も経験したことのない未来へと、おのおの己の足で一散に踏み出していった。生き物たちはこの瞬間瞬間も、めまぐるしく劇的に変貌してゆく生息環境(大なり小なり己を取り巻くすべてのもの)を前に、持ちうるすべての能力を尽くし、存亡を賭して適応し、敵と競い合い、味方と助け合い、その繁栄と衰退を、僕の目の前で、目に見える速さで繰り広げていくのだった。

 この世界を受け入れられないで出遅れるのは、「いかに生きるか」だの「いかに死ぬか」だのとくだらないことで頭を悩ませてばかりの我々人間だけだろう。この「知性」のレスポンスの悪さ――はっきり言ってしまえば、この「愚鈍さ」は実に嘆かわしい。人類は、略奪と殺戮にはいくらでも知恵を回すのに、自らを生かすこととなるととんとその術を知らない異様な種族といえよう――などとエラそうなことをのたまってはみたが、当の僕がまさにそれなのだ。もうすでに十歩も百歩も千歩も出遅れてしまっているじゃないか!

 こんな状況、すぐに「はいわかりました」と受け入れられる人間などいるだろうか。さっきまでああだこうだと人としての観点で人としての生き死に考えを巡らしていたことが、どうやらそっくりぜんぶ無駄だったことをいまやっと理解したばかりなのだ。ついさっきまで意味あるものと信じていたことが、いまではもう、そっくり、すべて、まったくなにもかもが無意味なことになっている。

 とはいえ、そこは僕という人間、だんだんと慣れてくるものである。

 一夜にして気味悪いほどに大きな黒い種ばかりになってしまって甘くも何ともない島バナナを一房もぎ取ってどうにか腹を満たし、こんもりとした二ツ山――殿岳と姫岳の谷間を流れる小水川の清流の水をたっぷりすくって喉をうるおした。この新たな世界を受け入れるにあたって、これ以上にふさわしい朝食はないだろう。

 川の支流を遡って山へ分け入り、途中から比較的なだらかな斜面を登って尾根に出ると、途端に眼下に海の景色が広がった。

 そこでは、浜や岩礁に打ち寄せる波や、沖合で風に立つ波とはまったく別の、この尻島を中心にして同心円状に広がりゆく進化の波紋を一望することができた。その波紋の第一陣が地球の真裏に届くまでどのくらいの時間がかかるのだろうか――そう思いを馳せるのは実に愉快なことだった。僕はもう、この新しい世界の虜になっていた。

 山を下りる途中、一頭の『アライグマ』に出くわした。YBXに寄生されていることは明らかだった。自前のふさふさの毛並みからして、おそらくまだフェイズ3だろう。しかしそいつは、半分溶けかかった死に損ないのフェイズ4の研究員を三人か四人ほど束にして小脇に抱え、地上三メートルの高さからつぶらな瞳で僕を一瞥すると、大蛇のようなムカデを一節ずつバリボリかじりながら藪の中に姿を消した。

 山を下りきると舗装された道路が海の方へ延びていて、それをたどっていくと桟橋に大型のクルーザーがただ一隻停泊しているだけの小さな港があった。

 桟橋の突端に立つと、僕はサファイアブルーの海へと飛び込んだ。

 仰向けに漂ってはのんびり空を眺めつつ、水中の喧噪を聞きつけては耳を傾け、ときどき潜ってはその一部始終を眺めていたりした。そうしている間にも、この島から放たれるいくつもの進化の波紋が僕をのみこんでは過ぎ去っていく。僕は午後いっぱいをそうして過ごし、徐々にではあるけれど、この新しい世界への理解を深めていった。

 夕暮れの頃には、凪とともに、僕の心は水を打ったように静かなものとなっていた。

 僕だって人間だった。「いかに生きるか」などと考えることが無駄だと頭でわかっていても、それでも幸福に生きるための算段をまったくやめてしまうほど世捨て人にはなりきれなかっただろうし、「いかに死ぬか」だけを考えれば苦はなくなるはずだと自分に言い聞かせても、死ぬまでの長い時間をすべて諦めることができようはずがなかった――だが、いまの僕はちがう。この新しい世界の仕組みに、一生命体として、がっちりはまりこむことができる自信があったのだ。

 僕は気になって、空に手をかざしてみた。見たところ何も変わっていない。指は五本だし、爪も丸いままだし、昨夜の傷やアザもそのままだ。僕だけは何も変わっていなかった。この世界に溶け込めると確信していたつもりだったけれど、やはり僕は――いや、僕だけじゃない、人類はこの世界には適応することのできない異質な存在なのだろうか。

 異質といえば、あの音だ――ランドローバーのエンジン音だ。

 僕は桟橋に上がって、ランドローバーを出迎えた。運転席から降りてきたのはもちろん、僕らの中で唯一マニュアル車を運転できるヨシだ。

 彼は車を停め、降りてくるなり申し訳なさそうに言った。

「もうダメかと思ったんだ、俺もお前もみんな。別に置き去りにしたわけじゃないんだぜ」

「主人公は死なないさ――だろ?」

 僕はあっさりと答えた。ヨシは不満とも納得ともとれる妙な顔をしたが、最後には僕の言葉を飲み込んでくれたようだった。

「そりゃ、俺は主役キャラじゃないものな」

 車の中をのぞいてみると、荷物が満載されていた。ヨシは勝手に慌てだした。

「めちゃくちゃに走ったもんだから、道に迷っちゃってさ。やっと見覚えのある道に出たと思ったら、すぐそこにゲストハウスがあってさ。だからちょっと寄ってきたんだ――」

 ヨシはテールゲートを開いて、満載されたペットボトルの水や食糧を披露した。

「な? こういう脇役も大事だろ?」

 彼は水やらスナック菓子やらを取り出して僕に差し出したが、僕は断った。そうか、とヨシはボトルのキャップをひねってごくごくと飲みだした。

「言っとくけど、そのへんのものに手をつけないほうがいいぞ。この島、かなりどうかしちゃってんだ。生き物たちはヘンだし、川の水だって怪しいぜ」

「僕も見てきたよ」

「だったら、わかるだろ? こんなヤバいとこ、早くおさらばしようぜ」

 ヨシはポケットから鍵の束を取り出し、得意げにチャラチャラいわせた。

「研究所でさ、逃げ込んだ部屋にたまたまコレがあったんだ。これで船を動かせるぞ」

 ヨシはブタのように鼻を鳴らして得意げだ。

「僕はいいんだ。君は一人で行けばいい」

 僕は言った。ヨシは目を丸くし、そしてその目に怯えの色が差した。

「俺を疑ってるのか? 俺はまだ人間だって! なんだったら血を検査したっていい」

 ヨシは自分の指をがぶりとかじってみせた――が、痛かったらしくすぐにやめた。

「その必要はないよ。君が怪物だろうと人間だろうと、どっちだって構わない」

 その僕の言い方が、彼の恐怖を真逆の方向に増幅させたようだった。

「ひょっとして、お前――いつからだ?」

「いつから?」

 僕は自分の手をじっと見つめた――僕の五本の指先がひょろりとした触手に形を変えた。どうやら念じるだけでいいらしい。その造形を思い浮かべれば、細胞の隅々まで行き渡ったYBXが僕の細胞の塊を思い通りに作り替えてくれるようだ。

「やっぱりな! この島に着いた頃から俺はお前のことを――」

 僕は触手を細く硬く尖らせると、すくみあがっているヨシの頭に突き刺した。

「痛たたッ」

 ヨシは頭を掻きむしろうとしたが、すぐに両腕をだらりとさげて恍惚の表情を浮かべた。頭蓋骨や膜を貫いた触手の先端を無数に枝分かれさせて脳髄のあらゆる場所に潜り込ませたところ、ほとんど難なくヨシの体の動きを司る神経回路網を制御することができた。

 ヨシの思考と記憶を探っていると、彼はニタニタしてヨダレを垂らした。

「い、いい、なぁ~~おで、おでも、ミカちゃんと、じ、じごくいき~~~」

 途端に僕の脳裏にヨシのおぞましいイメージが入り込んできて、僕は慌てて触手を引き抜いた。どうやらこの方法は思考や記憶が相互通行してしまうようだ。

 僕はヨシに謝った。触手も指の形に戻した。怯えさせるつもりはなかった。

「俺を殺さないのか? 俺のことがブタに見えてうまそうなんじゃないのか?」

「殺さないよ。君のことをブタだなんて、僕は一度たりとも考えたことはない」

「ウソだ! さっきお前の頭の中を見たんだぞ! 俺のことをいつだって――」 

「悪かった。ウソをついた。だけど事実、君はブタじゃない。それに、いまは腹は減ってないんだ。脅かしたお詫びに荷物を積み込むのを手伝うよ」

 僕はヨシに手を貸して、クルーザーにたっぷりの水と食糧を積み込んだ。

 水平線に太陽が沈む直前、ヨシと目が合ったとき、彼の目はなぜか物悲しそうだった。

「どうしてだよ? どうして怪物になんてなりたいんだ? あれほどみんなで生きて帰るんだって言ってたお前が――」

「心境の変化だよ」

 僕はそう答えた。そんなありがちな言葉でヨシが納得するわけがないけれど、僕自身もそんなのが答えだなんて思ってはいない。そもそも現時点で答えなど見つかるはずがないじゃないか。だって、この新しい世界はまだはじまったばかりなんだから。

「心境の変化だよ」

 僕はもう一度そう言った。ヨシの中ではともかく、今度のは僕の中で飲み込める意味でだ。まったく別次元の新しい世界になって、「生きる」という意味合いもともに変わったのだ。僕は「生きる」ことをやめたが、これからは『生きる』ことがはじまる。

「本当にこの島に残るつもりか?」

 フライングブリッジに上がったヨシが訊いた。僕は係留ロープをほどきながら答えた。

「ああ、達者でな」

「そっちもな――ああでも、最後に一つ訊いていいか?」

「一つと言わず、何でも訊けよ」

「それじゃ訊くけど――あれはマジか? お前、ミカちゃんの『秘技 地獄車』を――」

 僕はため息をついた。僕には人類の行く末が(少なくともヨシの近い未来は)容易に想像できる気がした。この世界はもはや誰に対しても寛容というわけではないのだ。

「ヨシ、僕もそろそろ腹が減ってきたところなんだが――」

 ヨシは慌ててクルーザーを出航させた。はじめは蛇行して危なっかしかったが、入り江を抜けると金色に輝く落ち日を浴びながら沖へと真っ直ぐに滑り出した。

 僕はこのまま桟橋で船が見えなくなるまで見送るつもりだった――だが、その船影は、突如海面から空高く跳ねた『巨大魚』の大口に飲み込まれて瞬時に消え去った。


 ――と、まあ、この物語はこれで一つの区切りにしようと思う。

 この物語を綴った『僕』の真の目的は、あなたがこの新しい世界をいつか迎え入れる際に、いくばくかの『生きる』助けになればとの考えにある。

 その根底には、『僕』がこの新しい世界が幕を開ける端緒となった一連の出来事の唯一の目撃証人であるという理由で、『僕』でしか担えない使命もあるにちがいないと確信しているからだ――などとのたまうのはあまりに自分に都合が良すぎるだろうか。無論、その一面がまるでないということではないが、実のところ、『僕』はおそらくかなりの部分で、その一連の出来事をことごとく抑え込めなかった責任を負う立場にあり、その反省と悔恨から、せめてあなたが『生きる』ことをどうにかして助けたいという衝動に駆られたというのが本心であるのかもしれない。

 しかし、こうなってしまった現状で『僕』があなたにどうにかできるわけでもなく、あなたは否が応でも孤独にこの新しい世界で『生き』ねばならないのだ。さもなくば、あなたは早々にこの寄生生命体YBXに見限られ、研究所の人々のようにすぐさま種をばらまくためだけのさやか袋にされてしまうだろう。抵抗や拒絶はもはや不毛でしかないのだ。

 あなたがそんな適応できなかった連中とは気質を異にすることを『僕』は期待している。もしもあなたが前向きで好奇心旺盛で、運命を自ら切り開く気概のある方であれば、何も知らないままなし崩し的にこの新しい世界のうねりにただただ飲み込まれるのは御免こうむりたいところだろう。今後、この新しい世界がどんなものになるかはどうあれ、どうにかして『生きる』術のヒントを得ておきたいと請い願うはずだ。

 ご安心あれ!

 それを見込んで、『僕』はフェイズ2YBXに分子レベルで「脳」を模した光子回路を組み込み、この物語を記憶させてメッセンジャーとした。これは何世代何十世代も増殖を繰り返し、あらゆる生物体を経由しながら、進化の波紋とともに広がっていく。『僕』からのこのメッセージが世界の隅々まで送り届けられるのも時間の問題だろう。

 そしていま、あなたがいまこの物語を読んでいるということは、無事にメッセージ付きのYBXがあなたに届いたということだ。このメッセージを受け取ったならば、あなたは以後、二重カギ括弧つきで『生きる』ことから決して逃れられない――さもなくば、さっきも言ったように、種を撒き散らすためのさやとなることを覚悟せねばならないだろう。

 『生きる』ことに不安を覚えるだろうか? 何も恐れることはない。うまくすれば、はるか銀河の彼方、遊星からやってきた物体――いや地球外生命体が、すべてこの新しい世界での幸福の享受を保証してくれるはずだ。本能の、願望のおもむくままに『生きる』――その楽しみといったら、きっと他にはない!




 漆黒の宇宙空間にどこからともなく現れた巨大でいびつな氷塊は、色彩に乏しい岩石かあるいはガスばかりの惑星の中でただ一つ青々と艶やかな星をめがけて漂っていく。

 その塊は、青い星が抱く灰色の衛星の脇を通り抜けたところで、唐突に溶けはじめた。

 それはただ溶けているのではなかった――ぐにゃぐにゃと変形しているのだ。巨大なぐにゃぐにゃの塊は、やがてあらゆるところで整然と結晶化しはじめた。その結晶構造は細部を見れば刺々しく鋭利だが、菱形に準拠していて、全体としては流麗とさえいえた。

 外観的な造形の結晶化プロセスと同時に、内部ではブクブクと無数の泡が寄り集まって一つの大きな空間が生まれようとしていた。

 まだ結晶化が進行していない壁の一部から、一塊のブヨブヨとした粘液がプツリと切り離されるや、すぐに二つに分裂してそれぞれがなにやらでっぷりした形とひょろりとした形のようなものになった。

 でっぷりした方の表面にいくつか穴があき、そのうちの一つがぽっかりと開いた。

「こんなもんでええでっしゃろ」

 するともう一方のひょろりとした塊が、背筋をしゃんとして即座に答えた。

「はい、司令官。我々がこのような『地球人』を模倣すること――すなわち地球人が畏怖畏敬の念を抱かずにはおれない神々しさと、誰しも抵抗を諦めひざまずかずにはおれない圧倒的な戦闘力を保有する恒星間航行可能な宇宙戦艦の形態を取ることをはじめとして、一方で彼らに親近感を抱かせるに過不足ない貧弱な人型の形態および彼らが哀れにも唯一の誇りとするちっぽけな脳神経系がせいぜいもたらす低水準の思考およびその狂気の沙汰としか思えない価値基準、さらには貧相な言語パターンに則った思考を不承不承模することに関しては、この惑星に唯一存在する下等な文明と接触するにあたってはまったく妥当なことかと思われます」

「ちくりちくりといやらしいがな」

 でっぷりした方は眉をしかめた。すると、今度はひょろりとした方が眉をしかめた。

「それにしても、司令官。なぜに司令官は『メス』――地球人でいうところの『女性』の姿をしているのですか。あと、なぜにこの人種をお選びになったのですか。ついでにうかがいますが、なぜに司令官は、その――いわゆる関西人が嫌う関西弁風にお話しなさるのですか。地球の文明に関する資料はありとあらゆるものがそろっておりましたのに、いったいどの資料をご参考になられたのか、私ははなはだ疑問であります」 

 でっぷりした方はしかたあらへんがなと思った。さきほど分裂するとき、資料から得たレベル5――標準レベル以上の知識をそっちに持っていかれてしまったのだ。だが、「司令官」と呼ばれる立場である以上、小生意気な副官に弱みは見せたくなかった。

「『郷に入っては郷に従え』やで」

「はあ」

「この地球の生命体のキホンはオンナなんや。オンナが繁殖のカナメなんやで。オンナなくして繁栄なし。だったら、地球の文明だってオンナが主役のはずや」

「――司令官、その認識には大きな誤解があるかと思われます。地球の一生命体としてはオスとメスのうち、メスの役割は重要であることは確かでありますが、地球人が築き上げてきた数々の文明において、女性が主役だったことはほぼ皆無だということは厳然とした事実であります。先遣隊が送信してきた最新の資料によれば女性の地位は向上する傾向にあったといわれていますが、私の分析ではそんなものは虚妄に過ぎず、女性は地球人社会においてはほとんど常に差別的に扱われ、男性はほとんど常にその心の内奥では女性を性的対象としてしか――」

「ああ、もうええもうええ。わかったわ。せやけど、これならオトコのキミも認めるやろ」

 司令官は見る間にすらりと背が伸び、胸と尻と唇がぷっくりと誇張された姿になった。

「オンナの武器やねん。『ジョリ姉』いうんやで。地球人はこういうのが好きやねんて」

 甘ったるい声でそう言いながら、司令官は流し目で妖しげに微笑んだ。だが、副官の無感情な眼差しにあからさまな侮蔑の色が上塗りされただけだった。

「ま、そんなことより、はよあそこに、ええと――『(表音不能)』を送りこまんかい」

「司令官、我々の『(表音不能)』はこの地球人のこの人種の言語では『偵察機』と呼ぶのが妥当と思われます。それにくわえ、地球人の発声器官である喉頭の構造では我々の言語は器官を痛める可能性が非常に高いため、やはり地球人の言語で発声するのが適当かと思われます。『郷に入っては郷に従え』であります」

 言われてみるとたしかに喉がむずがゆい。だが司令官は副官が憎たらしくなってきた。

「ああもう、ちゃっちゃとテイサツキちゅうもん送ったらんかい、どんくさいやっちゃな」

 副官はムスっとしてパネルを叩くと、無数の小さな氷塊が『船』から飛び出していった。

 やがて、地球上に散らばっていった偵察機からチカチカと光が返ってきた。それは副官の前にあるパネルにあるキラキラとした水たまり――データプールに溜まっていく。

「モタモタしとらんで、さっさと報告せんかい」

 どうもイライラするのは、地球人のメスの体を模倣する際、アノ日までそっくりマネてしまったせいかもしれない。データプールに顔面を突っ込んでいた副官が、びしょ濡れの顔を上げて振り返った。

「報告します。我々の先遣隊がこの惑星に投下した――ええと――」

「『(表音不能2)』のことやな」

 司令官は言ったあとでゲホゲホと咳き込んだ。

「そうです。地球人の言語で言えば――『テラフォーミング・マシーン』といいましょうか、そのマシーンは最大限の効果を発揮しているようであります――」

 司令官は副官の報告をよそに、昔を懐かしんでいた。

 本来はその「先遣隊」こそがこの星に関する任務に就いた本隊のはずだった。その指揮官とは親の肉体と意識を分けた、いわば「きょうだい」だった。どちらが先にその任務に就けるか、地球にある「大阪」という文明の名物である「たこ焼き」なる食べ物を賭けたものである。結局、きょうだいがその任に就くことになり、後続隊となった司令官は地球で合流した暁には「たこ焼き」をおごる約束を交わしていたのである。

 ところが、地球に到達したきょうだいは、マシーンを投下した直後にその後の連絡が突然途絶えてしまったのだ。地球基準の時間に換算して一万年前のことだった。

 親しき友に思いを馳せている間も、副官の報告は続いていた。

「――地球上の生命体に普遍的に含有されていた毒素は消失し、すべて我々の食用に最適化されております。マシーンの第一の目的は見事に達成されました」

 友が任務を遂行したということだけはたしかなようだ。司令官は頬の涙を拭い(これぞまさに地球人やな――)、誇らしげに胸を反り返らせている副官に先を促した。

「地球の生命体は私のマシーンによって環境に迅速に最適化し、現状、地球上の有効有機体量は存在限界点に達し、生物量は飽和状態のまま、地球時間にして一万年もの間、高レベル水準で平衡状態にあります。私が開発したマシーンの効果は絶大であります!」

「自画自賛もええとこやな。気になるんは、実際のところどうだったんやろかってことや」

「はい、司令官。私のマシーンは、地球時間にして一万年もの間、地球上のありとあらゆる生命体にもれなく組み込まれ、遺憾なくその素晴らしい性能を発揮し続けてきました。その最大の目的は先ほど申し上げましたとおり、地球上の全生命体が含有する有害アミノ酸を無害なアミノ酸に置換することにあります。また目的の一つとして、マシーンそれぞれが――つまりマシーンを組み込んだ生命体それぞれが経験してきた出来事を逐一あまさず記録すること、というのがあります。生命体が世代を重ねるさい、本能や習性そして親世代が生息環境に最適に適応するために身につけた形質の形成傾向を司る遺伝子を子世代へと継承するのと同様に、私のマシーンもまた記録を後世へと受け継いでいくのです。したがって、地球上の生命体に組み込まれたマシーンから記録を抽出することで、この地球時間にして一万年間の歴史のすべてを細大漏らさず知ることが可能となるのです」

「生命体がまったくおらんところだってあるやろ。それやと記録もなにもあらへんやん?」

「いいえ。あらゆる地球環境があらゆる生命体の生息場所となり、そのすべてにおいて最大効率で最大生産の達成がなされているのであります――私のマシーンによって!」

「なにが最大生産や。いくらマシーンがマシーンがゆうても、なかには絶滅した生きモンもおるやろ。記録ちゅうても、そのぶんのはそこで途絶えとるはずやがな」

「すでに絶滅した生命体に関しても、その近傍で存続してきたものに組み込まれたマシーンが記録を受け継いでおります――私のマシーンにぬかりはありません」

 司令官はげんなりしてきた。

「御託はもうええ。はよ、その記録とやらを見せえや」

 副官はデータープールからキラキラ光る粘液のしずくを手の平ですくって器用に丸めると、いきなり司令官の顔面に投げつけた。ビシャリと音を立て、キラキラした粘液は司令官の体に吸い込まれていった。司令官は満足してうなずいたが、すぐに悲しくなってきた。

「なるほど、ようわかった――せやけど、絶滅してもうた生き物の数も相当なもんやな」

「それは致し方ないことであります、司令官。存続を懸けた生存闘争において、総合的にみて最大効率で繁殖する能力を後天的に獲得し得た個体はそもそもその優れた後天的形質を獲得するための先天的習性や本能および形態的特徴を有している系統ともいえるため、それよりもわずかでも劣る系統、同じニッチを争う同種他個体および近縁種を絶滅せしめるのは、マシーンの投下以前から変わらぬ自然の摂理であります。異なるのは、その自然の摂理が結果を出す速度であり、それがアミノ酸置換に次ぐ最大の目的でもあるのです。すなわち、何万年何百万年とちんたらしていた地球の生命の進化が、我がマシーンによって瞬時に理想的進化を遂げられることに我がマシーンの存在意義はあるのであります!」

「なにいうてるかようわからへんけど、ただただキミ個人の宣伝がしつこいねん」

 司令官はチクリと言ってやったものの、さらにもう三十度ほど胸を反っくり返らせている副官には聞こえていないようだった。

「司令官のご懸念も無理はありません。しかしなにも我がマシーンは生命体を絶滅させるためだけに存在するのではありません。地球時間にして一万年が経過した現在、生存闘争の上、あるニッチを獲得し、恒常的にその地位を維持し続けてきた生物は、ニッチを奪い合わない道をたどった同種他個体や他種とは、互いの繁殖力を高め合うための緊密な共生関係を構築することに成功しております。つまり、現状においては地球上の生命体は至る所でそういう持ちつ持たれつの関係性の平衡状態にあり、したがって地球の自然界にはほとんど無駄がなくなり――あっ、なんということでしょう!」

「なんやねん急に! びっくりするやないか!」

「司令官! 地球人は一万年前に絶滅しております!」

「なんやて!」

 副官は伝送されたデータを閉じ込めた粘液を顔面にバシャバシャ浴びながら目を白黒させていた。そして、ぐしょぬれの顔いっぱいの悲壮な面持ちで司令官を振り返った。

「報告します――地球人は我々のマシーンが効果を発揮しはじめてまもなく、その文明もろとも消滅したようであります」

「キミの、やがな。キミのマシーンに欠陥があったっちゅうことやないか?」

「――引き続き、記録の収集・分析につとめます」

 副官は意気消沈した様子で言った。司令官はさすがにこの高慢な副官が哀れになってきた。この星の知的生命体の知識を蒐集することも課された任務の一つだったため、マシーンが唯一の知的生命体を絶滅してしまったとなれば、いずれその開発者の誰かのクビが飛ぶことになるはずだからだ――「クビが飛ぶ」とは、これまたいかにも首のある地球人的発想やな、と司令官はクスリと笑った。

「せやけど、キミのマシーンが原因とは限らへんで。絶滅の原因は別にあるのやろきっと」

 慰めのつもりでそう言ってみたが、副官は力なく首を振った。

「マシーンは完璧でした。完璧すぎたのです――つまり、地球人は太陽系きっての知的生命体であるどころか、マシーンが作り上げた新機軸の地球環境に適応できないほど弱々しい欠陥だらけの生命体だったということなのです――どうぞご覧ください」

 副官は自分の頭からキラキラした粘液の塊をちぎり取ると、司令官の顔に投げつけた。

「なるほど。地球人は食うモンに困っとったわけやね」

 マシーンが集めた記録の断片を読み解いていくと、地球人の文明がいかに非効率的に膨大な量の資源を独占することによって成り立っていたかをうかがい知ることができた。

 地球人が食物として作り上げてきた穀物をはじめとした植物は、それら自身が最大繁殖をはかろうとしたことの一環としてことごとくその実に毒素を産生してマズくなったために、まもなく地球人の食用に適さなくなった。それでもいたちごっこ的ながらどうにか貧相なテクノロジーを駆使して食用に適した栽培品種を作り続けようとした地球人だが、今度は農地自体が管理不可能となってしまった。どういうことかというと、マシーンによって後天的進化し放題となった害虫にはどんな農薬も効かなくなってしまったというだけでなく、強壮な野生植物の農地への侵入をどうにも阻止することができず、やがて人工的に管理された旧式の貧弱な栽培品種は駆逐されていくばかりとなったのである。

 農業だけではなかった。畜産業・漁業にも甚大な被害が及んだのである。

 魚は、漁網を食い破り、釣り針を噛み砕く顎と歯を獲得し、動物でもツナなら食べてもよいという奇妙な菜食主義者たちを絶望させ、餓死させた。大人しく従順であったはずの家畜の牛や豚は、かねてから渇望していた自由を求めて地球人に反抗し、凶暴化した。彼らはその蹄で畜産業者を文字通り蹂躙したのち、ニッチを求めて自然環境下における生存闘争に新規参入した。鶏はいわずもがな空高く飛び去っていった。無論、それらの大半は生存闘争に早々に敗れて地球上から姿を消したりもした。それでもごく少数は生き残り、元の姿とは似ても似つかない猛獣へと「進化」を遂げた。いずれにせよ、地球人が作り上げてきた家畜品種は地球上から瞬く間に絶滅した。

 人類の最後の砦、頼みの綱である食糧としての昆虫は、やはり地球人との全面戦争を繰り広げた結果、そのすべてがマシーンのおかげで猛毒を身につけて自衛することとなった。

 唯一地球人に味方したのは体内共生細菌群のみだったが、人類の最大の天敵となったのもまた菌類や細菌類だった。それらは地球人の食物をことごとく侵して食用に適さなくしただけでなく、自在に姿形を変えて無限の寄生・感染経路を編み出し、地球人の免疫力を超越し、生きた地球人そのものをむさぼり食うようになった。

 地球の生命体を語る上で欠かせない存在であるウイルスはというと、その立場には諸説あるものの、マシーンの開発者が頑としてこれを生命体と認めなかったため、設計段階でマシーンを組み込む対象から除外されたという。そのため、ウイルスはマシーンを組み込んだ他生物の細胞レベルの防御システムによってことごとく増殖を妨げられた。ウイルスはしかたなしに、生き延びる術として、肩身の狭い居候のようにアンバランスな互恵的細胞内共生体として遅々とした進化を遂げる他はなかった。

 もちろん、地球人も他の生物と同様にその体内・細胞内にマシーンを組み込まれはしたが、文明の利器頼みだった地球人は、ことごとくそれらすべてを失ったとあっては、最期のときまで他の生物との生存闘争に打ち勝つ術を自ら編み出すことはなかった。

 食糧は枯渇し、未知の、不治の病は地球上を覆い尽くし、人口は激減し、国家は次々滅亡し、文明はいともたやすく滅びた。もちろんそれと同時に、種の存続を懸けた生存闘争において唯一の対抗手段といえた軍事力も消滅した。本来、地球人の最大の武器であったはずの知能はといえば、神経系に組み込まれたマシーンによって助長された不安と恐怖によって、ただただ醜いパニックのさなかで狂乱し、絶望することしかしなかったのである。

 それら不安と恐怖を克服した地球人も中にはいた。だが、地球人元来の長すぎる繁殖サイクルは、新しい世界ではまったく適応的ではなかったことも絶滅の一因となった。遺伝的に決定されている、受精から誕生までの十ヶ月、そして誕生から数年の身体的能力の低さは、マシーンによる後天的進化の可能性をもってしても生存闘争を生き抜くほどまでに改善・改良、すなわち『進化』することができなかったのである。

 副官は分析に大わらわだった。その間、司令官は地球人の滅亡に思いを馳せた――「たこ焼き」は「元祖」と「本家」とどっちがうまいのやろ、永久にわからずじまいやったな――まあ、どっちでもええことやけど。

「知的文明が滅ぶとは――実にもったいないのう」

 司令官がぽつりとつぶやくと、副官はぼそりと言った。

「司令官――私は、家畜に知性は必要ないものと考えます」

「は?」

「だいたい、地球人という知性がたった一種で独占していた資源量がいかほどのものだったかご存じでありましょう! それにもまして、彼らが地球環境へ及ぼしていた悪影響のほどを司令官はとくとご存じでしょう! アイツら七十六億人すべてが死滅してくれたおかげで、そのぶんの炭素資源がまるまる別の生物の糧となり得たのです! それに地球人の活動の完全停止こそが、生物全般の最大効率、最大生産のための大気中の酸素:二酸化炭素比率の最適化に必須だという研究結果をご存じでありましょう! 私の研究はすべてにおいて正しかったのです!」

 あ、こいつ、開き直りよった、と司令官は思った。なんならグンポー会議もんやで!――とは思ったが、やはりぐうの音も出ない。

「司令官、一つ意見を具申してもよろしいでしょうか」

「なんやあらたまって。いまさら一つも二つもあらへんがな」

「ではお言葉に甘えて――私が思うに、地球人の文明はたかだか数千年の歴史しか持っておらず、しかもあっという間に滅んでしまいました――つまりは、そもそも地球人の知性など取るに足らないものだったのではないでしょうか? いえ、私はそう確信します! そんな地球人の文明や知性など、我々にとっていったい何の価値がありましょうか!」

「まあまあ、キミ、落ち着いてやな――」

「私自身、いまこうして地球人を模した姿になり、地球人の思考パターンをもって地球人の言葉で喋っておりますが、これらすべてのことがとても不本意――いえ、率直に言って不快であります! 地球人の姿は実に虚弱で醜悪でありますし、その情緒や思考は無意味な部分ばかりでただただ不愉快極まりない。地球人の言葉は意思伝達手段としては非効率的すぎて、我々が本来、瞬時に相互に交換できる情報量をこなすのに、地球時間にして数万年単位の時間が必要となるでしょう。我々の『(表音不能3)』ゲホブホッにおいては私の知性は群を抜いて素晴らしいものであったはずなのに、なんだか、自分がバカになっていくような気がしてしかたないのです――ああ、はやく『(表音不能3)』ゲホンゲホンッに帰りたい! ああもう、こんな考え方、まるで地球人みたいですっごくイラつきます!」

 副官はいきなり頭を掻きむしりだしたかと思うと、突っ伏して頭を抱え込んだ。

(ホームシックやな――地球人の思考パターンのせいやろか)

 司令官は副官を部屋の隅で休ませ、代わりに自分で分析を続けることにした。

 と、いきなりデータプールの中に司令官宛ての地球語のメッセージが飛び込んできた。

「おい、キミ! 地球人がまだおったで!」

 しかし副官は膝を抱えて座り込んだままピクリとも動こうとしなかった。

(重傷やな――)

 司令官はデータープールにびしゃんと顔を突っ込んで地球人と交信をはじめた。

「もしもし、こちら『(表音不能3)』ゲホブホンッの使者です。ご機嫌いかがでおますか?」

「あーどうも。僕はたぶん人類の最後の一人だと思われます。そちら様はえーと――」

「『(表音不能3)』ゲホンゲホンッのお使いのモンですねん」

「え? いまなんと?」

「ああ、もうそこはええですねん。それより、いまからそちらにうかがおとおもてんねんけど、ウチらの『船』、そこから見えとりますやろ? とんがったカタチしたやつねんけど。で、どうでっしゃろ、ここはひとつお互いに穏便にコトをはこぶっちゅうのは――」

「えー、その前にですね、そちら様の意向をおうかがいする前にですね、数点ほどこちらの権利を主張させていただきたいと思いまして――えーと、まず一つ目ですけど、地球を侵略するつもりならどうかお止めいただきたい、そういうふうに思っております。あ、その気がなかったのならそこは聞き流してくださっても――で、二つ目はですね、もし侵略するつもりならばですけど、僕の生存の保証を――」

 司令官はざばっとデータプールから顔を上げた。

(一万年経っても進歩のないやっちゃな、地球人ちゅうのは。そのくせエラそうなことばっかり言いよる――家畜のくせして)

 司令官は副官の言葉を思い出していた。「家畜に知性は必要ない」――もっともやな。

「ねえ、キミ。やっぱしウチもキミの言ったとおりやと思う――」

 司令官は振り返った。副官は任務を放棄して早々に「船」へと同化しはじめていた。

 司令官はやれやれと思ったが、同時に自分一人が醜い姿のままでいることに嫌気がさしてきた。そしてちょっとためらいつつも――こうすることが地球人の良心でもあるのやろと司令官はふと思った――偵察機に指令を送った。その命令を受けたいくつかの偵察機は情報の収集を打ち切り、『僕』なる最後の地球人を抹消するために飛び立った。

(さて――)

 司令官はいくぶんスッキリした気分でいた。地球人が完全に滅んだいま、自分も地球人の姿である必要はないのだ。

 地球人のメスの姿をした司令官はドロドロに溶けだし、足下の「船」に吸い込まれていった。同時に、「船」の内外の造形も元通りのいびつな氷の塊に戻っていく。そうして果てしない漆黒の宇宙空間に再び現れた氷塊は、濁りない青々とした惑星へとゆっくりと降下していった。


                                完

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アウトバースト! 骨太の生存術 @HONEBUTO782

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