第32話 27 なんだおまえか……!
私の頭を撫でた手が離れていって、「さて、もう一つの用件だが」と兄が切り出した。
てっきりさっきの件だけだと思っていただけに、再び私に緊張が走る。そんな私の隣で兄は首を巡らせて家令を見やり、「テオ」と呼びかけた。
「アレが寝室にいなかったのだが、どこに行ったかわかるか?」
「いないのでしたら巡回中なのだと思います。探して連れて参りましょうか?」
「頼む」
頷いた兄に「承りました」と頭を下げ、家令が静かに部屋を出ていく。
「時間を取らせてすまないな。もうしばらく付き合ってくれ」
「私はかまわないのですが、兄様こそお時間は大丈夫なのですか?」
ちょっと休憩というには、結構な時間が経ってしまっている気がする。時間を取られて困るのは私ではなく、兄の方のはずだ。
怪訝な顔で伺えば、「ここでお開きにしたら、わざわざ足を運ばせた意味がないからな」と諦めたように息を吐く。
「会わせたいものがいるといっただろう? たいてい私の寝室に入り浸っているのだが、今日に限って真面目に仕事をしているらしい」
そうひとりごちるように言って、兄は紅茶を口に運んだ。その姿は悠々としているが、こっちの内心は動揺の嵐だ。
寝室に入り浸ってるって、どういうこと!?
「まだ追い出してないのですか」
「そう毛嫌いしてやるな」
「ああいうのは甘やかすとつけあがります」
「既に手遅れな気はしているな」
兄の言葉に、それまで静かに護衛役に徹していたクライブが眉を顰めた。
クライブのその反応を見る限りでは、その相手にあまりいい印象を持っている感じはない。
(ちょっと待って。いまから兄様の寝室に入り浸れるような人を紹介されるってこと?)
第一王位継承者である兄の寝室に入れる人も限られているのに。更に入り浸っている人?
それはつまり、とても浅からぬ仲ということでは!?
(将来の奥さんとか!?)
兄は成人済みなわけだから、そういう人がいてもおかしくはない。
だけどこれまでに兄が婚約したという話は聞いたことがない。さすがに婚約者がいれば私の耳にも入るはずだけど、これまでそういう噂も聞いたことはなかった。
兄自身は貴族のご令嬢達から憧れの的だと聞いたことはある。実際、ゲームでも高嶺の花的な扱いだったわけだけど、結婚相手となると別問題だ。
後ろ盾の弱い小国の亡き皇女を母に持つ兄は、第一王位継承者と言っても微妙な立場にある。
私という存在がいる故に、周囲の貴族達はもしかしたら私が王位を継ぐ可能性も考えて、兄に自分達の娘を嫁がせる事に関しては様子見をしている節がある。
それ故に、大国の皇子でありながら兄は未だにフリーの身だ。だからこそ、ゲームでもヒロインと恋に落ちるルートがあったわけだけど。
そうでなければ、王族としての責任感をちゃんと自覚しているこの兄が、婚約者のいる状態で別の娘に手を出すわけがない。
(でも恋人ぐらいはいてもおかしくない)
ゲームまではあと2年もないとはいえ、それまでに一人や二人、そういう人がいてもおかしくはない。ここでは15歳で成人なわけだし、成人と同時に結婚する人だって勿論いる。
兄の年齢は現在17歳、いやもうすぐ18歳になるはず。
ならばいるでしょう、恋人の一人や二人。
皇子で、ましてやこの見た目。たとえ親に止められていても、ご令嬢達が大人しく指をくわえて見ているだけとも思えない。
ただ皇太子宮に入り浸らせるほど入れ込んでいる相手というのは、ちょっと想像できない。なおかつ相手も婚約もしていないのに入り浸っているなんて、ここの常識では考えられないけれど。
でも危うい立場の兄との婚約を許されず、若さゆえの反対されるほど燃え上がる恋心的な……そういうアレかもしれない。
この兄の姿からは、あまり想像つかないけど。
考えれば考えるほど心臓がバクバクと早鐘を打つ。心を落ち着かせるために紅茶を口に運んだけれど、緊張しすぎてさっきは美味しいと思ったお茶の味なんて全然わからない。
(本来は隠すべき恋人に会せてくれるぐらい、信頼されてるってことなのかな)
嬉しいというより複雑だ。いろんな意味で。
騙しているという罪悪感以上に、今そんな相手に会わせてもらってもどうしていいかわからない気持ちの方が強い。
だってなんて挨拶すればいい? 兄弟が彼女を連れてきたときの正しい反応って、どういうもの?
しかも私はゲームの知識とはいえ、少し未来を知っている。さすがに兄が二股をかける人間だとは思わないので、ゲーム時に兄がヒロインと恋に落ちるということは、今から紹介される人とは2年後に別れているってことになる。
そうだ、別れているんだ。つまり未来の皇太子妃にはなりえない人。
(そんな相手と顔を合わせるなんて、気まずいってレベルじゃない!)
適当な理由をつけて逃げ出してしまいたい。でもさっき「私はかまわないのですが」と言ってしまった。逃げられない。
この場を繋ぐ会話も思いつかず、紅茶の最後の一口を飲み干したところで、ノックの音が響いた。ごくり、と息を呑む。
「失礼します。連れてまいりました」
音もたてずに開いた扉を、行儀が悪いと思いながらも食い入るように見つめてしまった。
バックンバックンと鳴り響く自分の心音がやけにうるさい。
「…………、猫?」
だけど私の視界に映ったものは、予想していたご令嬢ではなかった。家令の腕に抱かれているのは、一匹の猫。
ブルーグレーの艶やかな毛並みをした、緑の瞳が印象的な猫。
猫!? なんで!?
「見覚えはないか?」
「見覚え、ですか?」
連れてこられた猫を兄が受け取り、そのまま私の膝の上へと下ろす。
膝の上にあたたかいぬくもりと重みを感じて、反射的に「かわいい」と呟いてしまった。手が勝手にその毛並みを撫でてしまう。ベルベッドのごとき手触りは無条件に癒されて頬が緩む。
猫好きとしては仕方がない反応だと思う。猫を抱っこできる機会なんてほとんどない。至福の時だ。
しかし覚えているかと聞かれても、王宮ではネズミ捕り用に何匹か猫が放たれている。その内の一匹なのだとは思うけど、さすがに全部は覚えてない。たまに見かけるとおやつをあげたりして、近づいてきたときに少し撫でさせてもらっていた程度だ。
「私を庇ったとき、この猫を追いかけていただろう?」
「! 思い出しました」
言われてようやく思い出した。
そうだ、確かそれが兄と話すようになった最初のきっかけだった。
「あの時の子なんですね」
視線を猫へと落とす。
確かあの時、たぶん別の猫と喧嘩でもして怪我をしていた。後ろ足を見れば、もうすっかり治っている。
ほっと安堵の息を吐いてそっと撫でれば、足に触るなと言わんばかりに尻尾でやんわり叩かれた。でも可愛い。
それに私と兄を繋いでくれた猫だと思えば、愛しさも増す。ありがとうと告げるかわりに、撫でる手を更に優しくする。
「てっきりアルフェの猫だと思って保護しておいたのだが。あの後もおまえは何も言わなかったし、アルフェの猫でないのなら怪我が治ったら放つつもりだったが……私の部屋に居着いてしまってな」
諦め混じりの息を吐き、伸びてきた手が猫を撫でる。
抵抗なく撫でられるところを見ると、かなり気を許しているのがわかる。私に対しても警戒していないので元々おとなしい猫なのだろうけど、ちゃんと可愛がられていることがわかる。
「仕事は真面目にするからそのまま置いていたわけだが、連れて帰るか?」
仕事というのは、ネズミ捕りのことだろう。猫が1匹常駐するだけでネズミは格段に減る。
兄の寝室に入り浸るなどなんて贅沢者だと思わなくもないけれど、それなりに役には立っているなら私が咎める話ではない。むしろうらやましい。
だから兄の言葉に心は揺れたものの、ゆるく首を横に振った。
「いいえ。仕事もちゃんとするならこのまま兄様のところに置いてあげてください。猫は家に付くと言いますから、慣れた場所から離すのはかわいそうです」
「そうか」
私の言葉に頷いた兄の反応を見る限りでは、それなりに癒しになっているのだと思う。きっと兄も私同様に殺伐とした生活を余儀なくされているだろうから、これぐらいの癒しはあってもいいはずだ。
(それにしても女の人じゃなくて、本当によかった!)
まさか猫とは思わなかったけど。猫好き仲間が出来たのは嬉しくて自然と笑顔になる。
視界の端では、クライブが顔を顰めているけれど。
「クライブは猫が嫌いなのですか?」
思わず尋ねると、クライブが顰め面で「嫌いではありませんが」と答えた。
とても嫌いじゃないと思っている顔ではない。
「言うことを聞きませんし、骨が入っていないような、妙に柔らかい感触が苦手なだけです」
それを世間では嫌いって言うんじゃないのかな……。
苦手な人に無理強いするつもりはないけれど、否定されると少し寂しくて眉尻を下げる。するとクライブが顰めていた顔を真面目な表情に戻して、「僕個人的には、ですよ」と続けた。
「猫を好きだという方を否定するつもりはありません」
「私の時は否定したのに、アルフェには随分甘いのではないか」
「貴方は否定しても全く堪えないでしょう」
皮肉の応酬をしている二人を見ると、仲がいいんだなとつくづく思わされる。
その間にも猫をくすぐるように撫でていると、ごろごろと喉が鳴るのが伝わってくる。可愛いね、と呼びかけようとして、ふと名前を聞いていないことに気づいた。
「ところで、この子はなんて呼んでいるのですか?」
すると兄は数瞬黙った後、端的に答えた。
「……猫、だな」
「猫、ですか」
最初に私の猫だと思ったのなら、別の名前を付けるのもどうかと思ったのかもしれない。でもたぶん、猫に名前を付けるという概念自体がなかったようにも思える。城の中では、猫は愛玩動物ではなく家畜扱いだ。
しかしちゃんと飼うのならば、名前ぐらいつけてあげればいいのに。
そう思ったのが伝わったのか、兄が小首を傾げてとんでもないことを言い出した。
「アルフェが名付けてやればいい」
「私がですか?」
ぎょっとして聞き返した。
そんなこといきなり言われても困る。名づけのセンスなんてない。
猫と言えばタマとか、ミケとか、ブチとか。そういうのしか思い浮かばない。まじまじと見つめた猫はブルーグレーの毛並みだけど、「灰」と呼ぶわけにはいかないだろう。
つまりそれぐらいしか思い浮かばないぐらい、センスがない。
途方に暮れて兄を見るが、兄は私が決めると信じて疑っていないのか待つ体勢だ。
(ええ……どうしよう)
ブルーグレーの短く艶やかな毛並み。ラウンド形の瞳は綺麗なエメラルドグリーン。しなやかな体つきで、覗き込んだ顔はきりりとした美系。
(なんかこういう猫、いたよね。なんだっけ。シャルトリュー?)
性格的には合ってるけど、シャルトリューはゴールド系の目だった気がする。となると。
「……ロシアン?」
ロシアンブルーっぽい。気がする。色的に。あくまで色的に。
「ロシアンか」
「こういう色の毛並みの緑の目をした猫で、ロシアンブルーと呼ぶ品種があるのです。実際にそうなのかまではわかりませんが……」
「いいのではないか。今までは猫だったのだ。それよりはマシだろう」
兄は属で呼び、私は品種で呼ぶ。
兄妹揃ってネーミングセンスに問題があることが発覚してしまった。だが兄が納得したのなら、それでいいことにしよう。
名前が決まったところで兄が私の上から猫を抱き上げた。床の上に下ろしてから立ち上がる。不満そうに鳴かれたが、結構な時間を潰してしまった事に気づいて慌てて私も立ち上がった。
「さて、用も済んだことだしそろそろ行くか。ロシアンと遊びたくなったらまたいつでも来ればいい。テオには言っておく」
「そういうわけには……」
「生憎と私の膝の上にはあまり長居しなくてな。見ている限りアルフェのことを気に入っているようだから、時間があれば遊びに来てやってくれ」
(それはただの今までの餌付けの成果だと思うけど)
だけど社交辞令でも兄の言葉が嬉しくて、笑って頷いておいた。
まさか本当にまた来る日がくるとは、夢にも思わなかったけれど。
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