第5話 幕間 頼りない救いだとしても

※セイン視点



 その日は、朝から様子がおかしかった。

 いつものようにアルの私室に伺うと、常ならば朝食を取っているアルの姿は見当たらなかった。滅多に寝坊なんてしない奴だけど、まだ寝ているのかと呆れて寝室の扉をノックしようと扉に向かいかける。

 だがそれより早く、珍しく強張った表情をしている侍女のメリッサが俺の前に立ち塞がった。


「アルフェンルート様は体調を崩されてお休みでおいでです」


 元々俺に対して愛想のない侍女ではあるものの、硬い表情と声はいつも以上に冷たく感じる。

 いくら普段はアルを男扱いしているとはいえ、寝室の扉をノックすることはあるが中まで踏み入ったことはない。それなのに、絶対に入れてなるものかと言わんばかりの過剰な程に警戒に内心驚きつつ、そこまで悪いのかと眉を顰めた。


「高熱でも出たのか?」


 確かにここ数日、少しけだるげにしているように見えた。昨日、気になって大丈夫かと問いかけた時にはいつものように笑って「問題ないよ」と言っていたが、やはりただ意地を張っていただけなのかと溜息を吐きかける。

 けれどその予想は、俺の耳にだけなんとか届くぐらい潜められたメリッサの声で吐き出されることなく喉の奥で固まった。


「…………月のものが降りられました」


 一瞬、言われた言葉が理解できなかった。

 滅多に俺に向けて感情を出さないメリッサが、奥歯を噛み締めて少し血の気の引いた顔をしている。それだけでも重大な事項であることはわかった。

 月のもの、というのは隠語だろう。言われた言葉を脳内で反芻して、思い至ると同時に息を呑んだ。

 初潮、だ。


「!」


 女の身なのだから当たり前の生理現象とはいえ、今の今まで完全に失念していた。驚きのあまり息を詰まらせる。理解すると同時に、自分の顔が熱を持つのがわかる。

 男である自分には完全に未知の世界だったから、想定もしていなかった。

 女性特有のそれは、男は下手に触れてはいけないという暗黙の了解がある。実際、そう告げられても咄嗟にどうしたらいいのかもわからずに冷や汗が滲んだ。心臓がバクバクと心拍数を上げ、ひどく動揺しているのがわかる。


「……妃殿下には?」


 王妃から遣わされてくる侍女はいつも部屋の中までは入ってこない。そのためメリッサと俺しかいない部屋だが、それでも二人の間だけでしか聞こえないぐらい声を潜めた。

 とはいえわざわざ小声にするまでもなく、自分の声は緊張と焦りでひどく掠れていた。メリッサは更に顔を強張らせ、僅かに首を横に振る。


「これから、私がご報告に上がります。それと薬も取りに行ってまいりますので、セイン様はこちらでアルフェンルート様のお傍にいてくださいませ」

「妃殿下への報告はわかったが、スラットリー老は呼べば来るだろう?」


 第二皇子お抱えの主治医スラットリー老は、当然エインズワース公爵の息がかかっているので事情は知っている。というか、あの爺さんはアルにとって誰よりも味方である。下手にメリッサが動くよりも、まずは高熱という名目で彼を呼んだ方がいいだろう。

 それに男の自分を一人残されても、情けないことだが途方に暮れてしまう。

 だが、メリッサが今度は強く首を横に振った。


「今はアルフェンルート様も混乱しておいでです。極力、誰も……スラットリー老であっても、男の方を近寄らせたくはありません」


 俺も男なわけだが、子どもでよくわかっていない分、アルに何も言えないだけマシだと思われたのだろう。それでも、男である自分が傍に控えたところで何ができるのかさっぱりわからない。

 その困惑が表に出てしまっていたのか、舌打ちでもしそうなほど厭わし気にメリッサが眉根を寄せる。


「一応、万が一に備えて少し扉は開けておきますが、セイン様も不測の事態以外は寝室へのお立ち入りはご遠慮くださいませ。出来れば今こちらにいらっしゃっていることも知られていただきたくはないのです」


 おまえには盾になる以外の期待はしてない。ただここで物言わぬ衛兵のように命に代えても守ってろ――榛色の瞳にそう命じられていると感じた。

 いくら俺が娼婦の子だとはいえ、地位的にはメリッサより俺の方が上だ。しかしアルのことになると、メリッサは容赦なく遠慮のない態度に出る。

 けれどだからこそ、メリッサのことは信頼できた。

 きっと彼女はアルに何があろうと、その命を賭しても最後まで仕えるくらいの気概がある。むしろ俺なんかよりもずっと、アルに対する忠誠心は絶対だ。

 どちらにしろ、冷静に考えれば命じられるまでもなく今の俺には確かにそれぐらいしか出来ない。秘密は絶対に誰にも知られるわけにはいけないのだ。今ここで自分以上に護衛の適任はいないし、元々俺はそのための存在だ。

 わかった、と言う代わりに頷くと少しだけメリッサの表情が和らいだ。

 そしてそのままいつもアルに向けている穏やかな表情を取り繕うと、寝室の扉の向こうへと消えていった。アルを起こし、先ほど俺に告げた通りに王妃と主治医の元に行くことだけを告げる。アルは寝ぼけているのか体調が悪いのか、ぼんやりと掠れた声で頷いているようだった。

 いつもよりもずっと弱々しげな声に、ギシリと俺の胸の奥が軋んだ。


(あんな声、聞いたことない)


 いつだって穏やかな、それでも聴き取りやすい声で話す。そのアルがあんなにも掠れた声を出すということに動揺して、わけもなく胸がざわめく。

 一礼して部屋から出てきたメリッサが、寝室の扉脇で気配を殺していた佇んでいた俺に目配せをする。動揺している俺に気づいたのか、眉を顰めてくれぐれも余計なことをするなと目で念を押してくる。

 わかってる。俺にできることなんて、ただ黙ってここでアルを守る、それだけしか出来ない。

 だけ俺は、その後すぐにその役割すら出来ていなかったんじゃないかと思い知らされた。

 しんと静まり返った部屋の中、不意に僅かな扉の隙間から聞こえてきたのは、掠れた苦しげな吐息。


「ふ……っぅう、っ」


 よほど苦しいものなのかと、ギクリと体が強張った。

 かといって、部屋に立ち入ることは許されていない。もし入れたとしても、男である自分にはアルの苦しみはわからない。何が出来るっていうんだ。

 反射的に動きそうになった足に力を入れ、気配を悟られぬように息を潜める。


「ぅ、あ……あぁ、うぅ……ッ」


 静かな部屋の中、聞こえてきたそれが苦しげな吐息ではなく、押し殺した嗚咽なのだと気づいた。


(泣いてる、のか……!?)


 本当なら誰もいないはずの部屋なのに、それでも誰にも届かないように必死に声を押し殺して。

 だけど、噛み殺し切れずに零す。

 その声に、心臓がバクバクと大きく皮膚の下で鳴り響き出した。緊張で急速に指先が冷たくなっていくのがわかる。静かな部屋の中に自分の心音が響いてしまうんじゃないかと恐れるほど、うるさく脈打つ音が体中に駆け回る。

 聞いてはいけない、とわかっていた。本当はここでこのまま気づかれないように立ち去るのが優しさで、紳士的な対応だと頭では理解していた。

 ちゃんと理解していたのに、無意識に息を止めて、耳が必死に扉の向こうの音を聞こうとしていた。

 ずっとアルが笑顔の下に覆い隠して、押し殺し続けていた感情を、暴いてしまおうとしている。


「っこわい……こわい、よぉっ!」


 嗚咽混じりの苦しげな息の合間に、喉の奥底から絞り出したような細い悲鳴を聞いた。


 ――それは、初めて聞く弱音だった。


 泣き声も。悲鳴も。嘆きも。俺は一度だって見たことがなかった。聞いたことがなかった。

 だからこいつは大丈夫だと、きっとアルはよくわかってない。こいつは俺が思うほど気にしてないんだろう、そう思っていた。心のどこかでは軽んじていた。

 ……そんなことあるはずが、なかったのに。


「ッ!」


 心臓が、引き絞られるように大きく軋んだ。

 ひゅっと喉が詰まり息が出来なくなって、顔から血の気が引いていく。握りしめていた自分の手は震えていて、自分のこれまでの甘さと愚かさを嫌というほど思い知らされた。

 扉の向こうで、誰もいない場所でしか弱音を零せないアルが声を殺して泣いている。怖い、と喉を振り絞って叫びたいだろう言葉をか細い声で呻く。

 もし普通に皇女として育っていたら、これは寿がれることのはずだった。

 きっと少し恥ずかしそうにしながらも、大人の女性の仲間入りをしたことを誇って笑ったはずだ。

 綺麗なドレスと宝石に身を包み、周りをたくさんの人に囲まれて蝶よ花よと愛されて、いつかは政略結婚かもしれないけど皇女として釣り合う存在と引き合わされ、もしかしたらそこで恋をする。

 誰よりも恵まれた場所で、綺麗に咲く花であったはずだ。


(女の子、だったんだ)


 アルフェンルートも、普通の一人の女の子だったんだ。

 ようやくそれが現実的に突き付けられて、全身が凍るような激しい自己嫌悪と後悔に襲われた。

 今更過ぎるけれど、本来ならまだ守られるべき年齢の、愛されるべき立場であったはずだったんだ。

 皇女としてだけでなく、ただの女の子としても。

 ……それなのに彼女は自分の意志とは関係なく押し付けられたエゴにより、たった一人、大人になったことを心の底から嘆かなければならないなんて。信頼できる僅かな人すらもいない時を見計らって、ようやく心に抱えた恐怖を吐き出せるだなんて。

 今頃になって、ようやく彼女を取り巻くすべてに憎悪を覚えた。

 でも周りだけを責められない。

 こんな時に、たった一人になってやっと涙を流すことができるようにしてしまったのは、俺の罪でもあるんだ。


(もっと、やれることはあっただろ……!)


 もっともっと、傍にいた自分ならしてあげられることがあっただろう。

 踏み込むのが怖いだとか、自分の気持ちに手を付けられなくなるのが恐ろしいだとか、そんな自己防衛をしている場合じゃなかったんだ。

 思い出すのは、初めて出会ったときに向けられた屈託のない好意的な笑顔。

 あのとき俺は驚いて、それでも心の片隅では、嬉しい、と感じていた。

 好意的な眼差しも。微笑みかけられることも。よろしく、と俺に寄り添おうとしてくれたことも。

 全部、初めてだった。

 俺が娼婦の子であると知っていても、俺が頑なに線引いていても、無茶な要望を押し付けようとしている時ですら困ったように笑いはするものの、嫌悪を向けてくることはなかった。

 いつだってそのままの俺を、俺だと認めてくれていた。


(そんなアルに、俺はなんて思っていた?)


 自分の恐怖も絶望も胸の内に覆い隠して、俺達を心配させないようにずっと一人で戦ってきた彼女を、どうして弱いだなんて思えたんだろう。

 俺は本当に底なしの救えないほどの馬鹿なんじゃないのか。奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めて、自分を殴りたい衝動を必死に堪える。

 初めて会ったあのとき、もし俺が自己保身など考えずに彼女を受け入れていたら。もっと心の支えになれる存在になってやれたかもしれないのに。

 ……それでも今も尚、泣いている彼女の前に出ることはまだできなかった。

 そこまでアルを追い詰めたのは自分でもあるとわかっていた。弱音なんて吐けない状況を作ってしまったのは、紛れもなく俺の罪だ。

 そんな俺が、この状況でどの面下げて向き合えるというのだろう。

 アルだってもしかしたら、もう俺に救いなんて求めていないことだって、考えられるのに。

 それは考えただけで全身の血が凍えそうな恐怖だった。

 奥歯を噛み締めて、掌に爪が食い込んで血が滲むほど強く拳を握りしめた。このときの自分には、必死に気配を殺してアルにとって『ここには誰もいない場所』を作り出すことしかできなかった。せめて今だけ安心して泣ける場所を守ることしか、出来なかった。

 なんて、俺は無力なんだろう。

 自分の愚かさを悔いて、悔いて、どれだけ悔いたところでそれは自己満足でしかなかっただろうけど、そのとき誓ったんだ。


(今度こそ、守るから)


 ずっと俺の心を守ってくれていた彼女を、今度こそ俺は本当に彼女の身も心も守るんだと。



  *


 しかしそう誓った傍から、その数日後にエインズワース公爵からアルの状況を確認するために呼び出されて王宮から離れてしまった。

 まさかその時に、アルが第一皇子を庇って毒矢を受けることになるなんて思いもしなかった。



 報を受けるや否や慌てて王宮に取って返し、一時は本当に危なかったこともあって初めてアルの寝室へと足を踏み入れた。

 事情を知っていて本当に信頼できる人間なんて、メリッサと自分と主治医しかいない。アルが泣いたあの日以降も一度としてアルの元へと来なかった第二王妃には不信感しかなく、その侍女になんて俺もメリッサも触れさせたくなかった。

 だからといってメリッサだけに不眠不休で任せるわけにもいかず、夜の時間、主治医が仮眠を取る間は俺もアルに突き添った。

 脂汗の滲んだ苦しげな顔。不規則な呼吸。月明かりの下で見るアルの顔は自分とよく似ているのに全く違う、頼りなげな少女に見えた。

 むしろ、どうして今まで男として扱ってこれたんだろう。

 似た顔立ちだと言っても、男と女ではやはりどうしたって違ってくる。兄妹のようによく似ているといっても、兄を見て女の顔だと思う人はいないし、妹を見て男のようだと思うことはあまりないだろう。

 目の前で整った顔が苦しそうに歪むのを和らげたくて、手を伸ばしかけた。だけど触れる直前で指を止めて拳を握り込む。


「……ごめん」


 そんな資格もないのに、泣きたくなる衝動が込み上げてきた。聞こえていないとわかっていても、謝罪の言葉を口にした。

 離れてごめん。

 守れなくてごめん。

 いつもいつも手遅れになって、役に立てなくてごめん。

 第一皇子を庇うという行動に出るほど……きっと自分は死んでもいいと思ってしまうほど追い詰められてたんだって、薄々感づいていたのに。

 こんな風になるまで救ってやれなくて、ごめん。

 ふとその時、俺と同じサファイアブルーの瞳が薄く開いた。ゆっくりと視線が揺らぐ。ギクリと肩を震わせた俺の気配に気づいたのか、確かにその瞳は俺を映した。

 そしてありえないことだと思うのに、その時その目元がほっとしたように緩んで見えた。


 ……まるでそれは蜘蛛の糸にように細く頼りない糸のようではあったけど、まだ俺はアルと繋がっているのだと思えて。

 その瞬間、胸に熱く込み上げてきた感情には、俺は名前が付けられそうにない。


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