第4話 幕間 それは蜘蛛の糸のような
※セイン視点
ずっと、気づかないフリをしていたんだ。
アルフェンルートに初めて出会ったときに覚えた、あの感情の意味に。
俺は娼婦だった母を持つ。
俺を生む前は高級娼婦だったという母親は、波打つ黒髪と緑の瞳がとても美しい女性だったと記憶している。
俺が生まれる前は上流階層の男達を相手にしていただけあって教養を兼ね備え、聡明で、身に沁みついた立ち居振る舞いはいつ見ても優雅だった。当時は高級娼館の中でも上位に入る娼婦だったのだと、母の娼婦仲間から聞いたことがある。
それ故に、実のところ俺が本当に第二王妃の生家であるエインズワース公爵家の子供であるのかはわからなかったりする。
公爵の顔立ちと、アルフェンルートの見た目と比べても多分そうだろうとは思うものの、母は俺の父親がエインズワース公爵であるとは言っていなかった。
というより、「誰かわからないわ」と笑っていた。
高級娼婦を相手にできるだけの財を持つ者は限られるとはいえ、一人だけを相手にしていたわけでもない。
今の俺の父となっているエインズワース公爵の相手も務めたが、同じくエインズワース公爵に連なる貴族の相手もしていた。
もしかしたら傍流の者が父である可能性もある。
勿論、それ以外も。
相手にしていたのが貴族や上流階層ばかりだったから、父親が誰であってもそれなりの血筋は引いているとは思う。
母はただ艶やかに笑っていた。
だからといって、母は俺を利用して貴族に取り入ろうとはしなかった。
俺を生んだことで下層に落ちて生活は苦しくなっても、一度でもそうしたいと口にすることすらなかった。
けれど子連れのうえ年齢を重ねるにつれて、取れる仕事は限られてくる。
俺を育てるために無理に客を取るようになり、その結果、体を壊して俺が7歳になる頃に亡くなってしまった。
娼婦の子供なんて、救護院でも忌み嫌われて引き取ってはもらえない。
俺は同じ状況の子供達に混じり、スラム街を寝床にして生きるために出来ることはなんでもやった。
そう、なんだって。
生きるためだと言い訳をして、自分の手は汚れていった。だけどそれに対して罪悪感も湧かなくなったのはいつからだろう。
漠然と、今日も明日も明後日も、ずっと同じような日が続いていくんだと思っていた。
それが覆されたのが、俺が9歳の時だった。
高級娼館が立ち並ぶ界隈で財布をスろうとして失敗してしまった時に、エインズワース公爵家に目を付けられた。
そのとき俺を捕まえた男は、俺の顔を見て心底驚いた顔をしていた。
驚きのあまり咄嗟に俺の手を離したそいつは、きっとアルフェンルートの顔を知っている貴族だったんだろう。
他人の空似と言ってしまうには、俺はアルフェンルートと似すぎていたから。絶対にありえないことだとは思いながらも、第二皇子がお忍びで来ているのだとでも思ったのかもしれない。
このときは手を離された隙に逃げることが出来た。
しかし、その数日後に俺は呆気なく捉えられて、エインズワース公爵家に連行されることになったのだ。
いざという時に、アルフェンルートの影武者として利用できる侍従として使うために。
引き取られてからの1年は監禁状態に近かった。
アルフェンルートに仕えるためだけに朝から晩まで徹底的に武術、教養、勉強を叩き込まれるという血反吐を吐きそうなほど過酷な環境を強いられた。思い出すと未だに顔が歪みそうになる。
唯一の幸いは母が生前、俺に様々な知識を授けてくれていたことがかなり役に立ったことだろう。
礼儀作法は当然として、場の空気を読むこと、人の真意を伺うこと。覚えていても損はないのだと幼い頃に母に教えてこまれたそれは、もしかしたらこういう状況に陥る日が来ることを見越していたのかもしれない。
その1年の後。
付け焼刃に近い状態とはいえ、公爵が求める最低限のラインをクリアした俺は、アルフェンルートに引き合わされることになった。
初めて対面したのは、アルフェンルートが静養と称されて第二王妃の実家であるエインズワース公爵家に連れてこられている時だった。
エインズワース公爵である父に促され、自分にとって正しくは姪であるが、それ以前に王族であるアルフェンルートの前で臣下の礼を取った。
片膝を床につき、片方の手を胸に当てて深く首を垂れる。
「今日からあなたにお仕えする、セイン・エインズワースと申します」
今日から俺は、貴方の犬です。
いっそ、そう皮肉を言ってやりたかったが、さすがにそこまで大人げない真似は出来なかった。冗談でもそんなことを口にしていたら、アルフェンルートの祖父であり、自分にとっては父である公爵にその場で切り捨てられていたことだろう。
まだ10歳の子供だった自分は権力に抗う術も持たず、脳内では唾を吐き捨てながらも、その場では教えられたままに頭を下げることしかできない。
傅いた俺をそのままに、公爵はアルフェンルートに「これからはこれをいいようにお使いください」と媚びるように言っていた。
それに対し、アルフェンルートが王族らしく鷹揚に頷いたようだ。
そのことに虫唾が走る程の嫌悪感を覚えた。
女の身でありながら第二皇子と偽り、なによりも誰よりも大切に、甘やかされて育てられているだろう存在。
会う前から、嫌悪感しか持っていなかった。
貴族なんて、どいつもこいつも人を人間扱いなんてしやがらない。どうせこいつも公爵家と同じ種類の人間だ。
俺なんて使い捨ての道具のつもりでいるのだろう。
そんな碌でもない奴の為に自分の人生を無駄に費やされる羽目になることに、絶望よりも怒りを覚えていいた。
このときの俺は、アルフェンルートに憎悪に近い感情を抱いていた。
だからこそ、不意にそいつが俺の前に屈みこみ、視線を合わせるように覗き込んできたことには息が止まるほど驚いた。
「よろしく、セイン」
俺の気も知らず、屈託なく挨拶するアルフェンルートは心底嬉しそうに俺に笑いかけてきた。
「!」
心臓が、止まるかと思った。
まさかそんな笑顔を向けられるなんて、欠片も予想していなかったから。
(なんだ、こいつ……っ)
小首を傾げる姿は無邪気で、そこにはまったく侮蔑も嫌悪も感じられなかった。どころか明らかな好意が感じられる。
まさかそんなに歓迎されるなんて全く考えてもおらず、俺は心底驚いて咄嗟に応じる言葉が出てこない。
公爵家に無理やり引き取られてからの1年、娼婦を母に持つ俺に対してこの家の使用人達からすら冷ややかな眼差ししか向けられたことがなかった。
どれだけ努力しようと、結果を出そうと、俺は使い潰しても困らない駒でしかない。
だからどうせこいつも同じ考えなんだろう。
そう疑ってもいなかったというのに、見るからに好意的な態度に動揺した。
けれどアルフェンルートの態度に安心はできなかった。荒んでいた俺の頭には、安堵よりも警戒心が湧いた。
(まさか俺の素性は聞かされていない?)
純粋に、ただの公爵の息子が自分の侍従になると思っているだけなのだろうか。
そう思いかけたけれど、公爵も亡き公爵夫人も金髪で、跡取りの長子も第二王妃も同じく金髪なのに、黒髪の自分が二人の息子だとはさすがに思わないだろうと考え直す。
(ということは、ちゃんとわかってて……?)
わかっていて、こんな好意的な態度になるものだろうか?
甘やかされて育ったから、世情をよく理解していない馬鹿皇子という可能性もある。
俺のことを新しい玩具だと思っているだけじゃないかという疑いも脳裏を過った。
思わず眉を顰めてしまった俺を見て、そのときアルフェンルートは少しだけ眉尻を下げて寂しそうな顔をした、ように見えた。
けれどそれは一瞬のことで、大きなアーモンド形の青い瞳を一度瞬きすれば、さっきと変わらない笑顔を浮かべて俺を見ている。
だから見間違いだと思った。
この頭の緩そうな皇子様が、そんな顔をするわけがないと。
事前によく似ていると聞かされていた通り、アルフェンルートの顔立ちは確かに自分とよく似ていた。ただ目つきの悪い俺よりも優し気な目元と明るい金髪のせいか、与える印象は俺とは全く違って見える。
春の陽だまりが似合いそうな、まさに絵本の中に出てくるような優しい皇子様というやつだ。
(王宮で純粋培養に育つと、悪意なんて抱かない生き物になるのか?)
単純に娼婦が何かわかっていなかっただけかもしれない。どちらにしろ、俺はこのときアルフェンルートを得体のしれない気味が悪い存在だと決めつけて、自分の中で線引いた。
わかりあおうなんて考えてはいけない。もし下手に踏み込んでしまったら、と考えかけて猛烈に嫌な予感に襲われたから、俺は自分の勘を信じて心の中で一歩退いた。
──今思えば、そうやって自分の中で線引きしないと、俺の立場では超えてはいけない線を簡単に超えてしまいそうに思えたんだろう。
「殿下。貴方は王になられる身なのだから、臣下に対してそのような態度を取られてはならない」
皇子の行動に困惑した俺同様に、公爵もさすがにアルフェンルートの態度は不味いと思ったのだろう。苦い顔で苦言を呈せば、俺を嬉しそうに見つめていたアルフェンルートの顔が今度は明らかに陰ったのがわかった。
公爵からは見えなかっただろうが、確かにその時アルフェンルートの表情からは子供らしい純粋さが掻き消えて、まるで人形のように映った。
スラム街にいた子供達ですら、ここまで光を失って濁ったような目はしないと思えるほどに、虚ろな瞳。
その落差を目の当たりにして、俺の心臓は一際大きくドクリと跳ねた。
ひどく無邪気なのかと思えば、一瞬で何もかも諦めてしまっている屍のような目をする。
そのことに、わけもなく心がざわついた。
だがアルフェンルートは何も言わずに立ち上がった。公爵を振り返った時には、もうさっきまでの虚ろさが嘘みたいに穏やかに笑っていた。
「エインズワース公爵、セインに庭を案内してもらってもよいですか?」
そしてまるで何も聞かなかったように子供の無邪気さを見せると、俺の手を取った。
公爵が快諾したのを確認して、このとき俺は乞われるままにやたらと広い公爵家の庭へと案内した。
移動する間、俺が懸念したようにアルフェンルートは無神経に根掘り葉掘り聞こうとする素振りすら見せなかった。
興味がないというより、たぶんおとなしい性格なんだろう。
そう最初は思った。
だが俺の隣を歩くアルフェンルートの歩調が絶妙に俺に合わせられていることに気づき、こいつは周りをよく見ているのだと内心で舌を巻いた。
きっとその身に抱える秘密を守るために、人との間に一定の距離を置いている。心も体も、一定以上は踏み込まないし、踏み込ませない。
けして強く線引いて拒否するわけじゃない。相手に寄り添うように見せて、自分と相手の間に真綿で境界線を置く。
お互いに空気を読んで量られる距離は本来は心地よいはずなのに、このとき異様に息苦しく感じた。
ここから入ってくるなときつく言われるよりも、俺にはわからないようにやんわりと拒否されていることに気づいて焦燥感が湧いてくる。
自分にとっては都合がいいはずのことなのに焦る心がわからなくて、うまく話しかける余裕がない。
視界の開けた花壇に辿り着くと、やっと普通に息が吸えたと感じた。見渡す限り大きな障害物がないため、危険がないと判断されて目に見える位置に衛兵の姿もなかったおかげもあるだろう。
細く息を吸って、吐いて、少しだけ頭がすっきりとする。
それを待っていてくれたかのようなタイミングで、「セイン」と呼びかけられた。
「なんでしょう、アルフェンルート殿下」
「セインは私の叔父でもあるのだから、もっと呼びやすい呼び方にしてください」
どう接すればいいのか惑って無表情で固い声を返した俺に対して、少し困ったように笑ってアルフェンルートは小首を傾げた。
小さな頭が揺れて、耳にかかる程度の長さの髪がさらりと揺れる。キラキラと日の光を反射して、眩しさに思わず目を眇めた。
一見すると、夢がいっぱい詰まった絵本の中から飛び出してきたみたいな皇子様だ。
当時はまだ髪も短くて、とても少女には見えない。乙女が夢見る理想の皇子様が具現化したような姿。
だから俺は、公爵に言いつけられた通りに彼女を自分と同じ男としか見ないと決めた。
さっきから妙にざわめく胸も、近づけないことになぜか焦る心も全部押し殺して。
アルフェンルートの傍に仕えるのはただの『仕事』だと自分に言い聞かせた。
「では、アル殿下」
「誰もいない場所なら、殿下もいらないよ」
これから嫌でも一緒に過ごすのだから、遠慮なく簡略化した呼び方をしてもアルフェンルートは嫌な顔ひとつしなかった。それどころか、少し口調を崩して笑いかけてくる。
そうやって話すと、更に少年としか思えなくなった。
「さすがに、それは……」
眉を顰めた俺を見て、アルは困ったように笑った。
思うに、俺が一番見たことのある顔はこの少し困ったような笑顔ばかりだ。
「いいから。セインは、好きで私に仕えるわけではないでしょう?」
ごめん、と消えそうに小さな声が耳に届いて目を瞠った。
咄嗟に何も言えずに息を詰めた俺の前で、アルは僅かに苦笑すると視線を外して遠くを見つめた。
その深い青い瞳は目の前の光景は何も映しておらず、もっとずっと遠くの未来を描いているようだった。
けれどそれは、けして自分が王として立つ未来を夢見て輝いたりはしてしない。
仄暗く、感情の籠らない瞳はまるで人形のよう。
さっき垣間見たものと同じ、何もかも諦めているような、ぞっとするほど作り物めいて見える姿。
そこからは人の温度を感じさせなくて背筋が震えた。
「!」
咄嗟に、その手を掴んでしまっていた。
俺の動作に驚いたのか、輝きを取り戻した瞳を丸く見開いて俺を見つめる。
「どうしたの?」
問われても、胸の奥から突き上げてきた衝動の理由はわからなかった。俺は問いに返す言葉を持たない。
ただ無性に、引き留めなければいけない。そんな気持ちに駆られて、気づいた時には動いていただけだ。
理由なんて、自分こそが知りたい。
結局なにも言えないまま、それでもなぜか掴んだ手も離せない俺を見つめて、アルはそっとその手を握り返してきた。
きっとこのときだけは、アルは俺との間の境界線を取り払ってくれていた。
それは運命共同体ともいえる立場になった俺に対する、アルなりの礼儀のつもりだったのかもしれない。
けれど結局アルは困ったように笑って、「ごめん」ともう一度だけ呟くと握り返す指から力を抜いた。
──その言葉に、笑顔に、離れていった指に。俺は無性に苛立った。
それから俺はアルと共に王宮へと入ることになり、アルの秘密を知っている侍従として4年間過ごしてきた。
乳姉妹である侍女のメリッサと、事情を知る主治医であるスラットリー老の次に、アルの傍にいたのは自分だ。
けれどあの日から、俺とアルの距離はそれほど近づいてはいない。
秘密も知っていて1歳しか違わないけれど、兄妹の如き親密さは生まれなかった。かといって、友達といえる程のおこがましい感情も抱けない。
付き合っていくうちに口調は随分と砕けたものの、心までは打ち解けているとはとても言えない状況。
踏み込まないのではなくて、踏み込めなかった。
一度でも同情してしまったら、心を傾けてしまったら、自分には越えることを許されていない線を越えてしまいそうに思えたから。
それでもアルを取り巻く環境を理解した時点で、本当はかなり大きく心はぐらついていた。
アルの生活は、俺が想像していたように甘やかされて大事にされて、というものではなかった。
確かに危険からは完全に遠ざけられてはいたけれど、それは守られていると言うよりも籠の鳥のような生活だった。
決められた部屋で、決められた時間に、決められたことしか許されない。
そしてアルはその秘密のせいで、傍における人間は事情を知っているメリッサと俺しかいなかった。
メリッサ以外の侍女は、第二王妃の元から秘密を知っているらしい2名が週替わりで交互にやってくるだけ。
部屋の外に護衛は多いが、それは守っているというよりも監視に感じられた。
滅多なことでは人が立ち寄ることが許されていないアルの私室は常に人気がなく、第二とはいえ皇子だというのに本来侍女に任せることもアルは平気で自分でやっていた。
そしてアル自身も自分が女であることを知られないために、それらに文句を言うことも歯向かうこともなかった。
勉強する時間以外は主に部屋にいて、出かける先は入れる人間が限られている王宮の図書室のみ。たまに外に出かけるといえば、自分の庭として与えられている王宮内の庭園までがせいぜい。
家族である王や異母兄である第一皇子との交流も皆無。
必要な式典で顔を合わせはするものの、挨拶程度しかしないようだ。
そして実母である第二王妃に関して言えば、アルが私的に言葉を交わした姿を俺は見たことがない。
それというのも、アルフェンルートは第二王妃にとって望まれた子ではなかった。
第二王妃には、王と結婚する前に一途に想う相手がいたらしい。
相手も第二王妃を想っていて、第一王妃が第一皇子を生んですぐ亡くなりさえしなければ、その二人は結婚していただろうと囁かれている。
第二王妃が王の元へと嫁いだのは、彼女の父で俺の父でもあるエインズワース公爵による政略結婚だった。
本来ならば第一皇子がいる以上、世継ぎの問題はないので無理に第二王妃を迎える必要ない。王の亡き第一王妃への深い愛情は、俺でも聞いたことがあるほどの話だったから。
それを王に迫る力を持つエインズワース公爵が半ば強引に進めて、自分の娘と婚姻させてしまったのだ。
第二王妃は愛する相手との幸せを目前にして引き離され、望みもしない婚姻の末に生まれてきた子供をどうしても愛せなかったらしい。
せめて王がもっと彼女に心を傾けていれば話は変わったかもしれない。
だが、王は第一王妃を亡くした心の痛みを癒す間もなく押し付けられた彼女を愛することが出来なかったようだ。
そのせいで、第二王妃はこの子供を得るためだけに愛する人と引き剥がされたのだと、アルフェンルートを逆恨みしたんだろう。
子供を守る気がないどころか憎しみすら抱いていた第二王妃は、エインズワース公爵の望むがままにアルフェンルートを第二皇子として性別を偽って育てることを良しとしてしまった。
アルフェンルートから、皇女としての幸せを奪ったのだ。
それは自分の女としての幸せを奪われた彼女なりの復讐だったのかもしれない。
勿論、アルフェンルートにとってはただの八つ当たりにすぎないけれど、誰にも止められなかったのだろう。
そして本来ならばすぐに破綻しそうなこの計画は、公爵の大きな権力故に今の今まで綻びることなく叶えられてしまっていた。
エインズワース公爵は、自分の孫を王にすることに執着している。
かといって、アルフェンルートに正しく王として執政することは望んではいない。
アルの勉強の一覧に、帝王学は入っていない。普通の貴族の子供よりは武術以外の教養は組まれているものの、それはあくまで表面上は外面のいい王を装うためのものに過ぎない。
アルフェンルートに望まれているのは、エインズワース公爵家にとって操りやすい傀儡としての器だけ。
そしてそのことを、アル自身も気づいていた。
だからこそ、俺はアルのあり方に苛立っていた。
アルはけして愚かな子供ではなかった。どころか聡い子供だった。初めて出会った9歳の頃には、既に自分に求められているものを理解していた。
その先に広がる自分の最悪の未来すらも、想定していた。
そしてそれらをすべて胸の内に飲み込んで、穏やかに笑っていた。
俺はそんなアルを見て、愚かではないけど、どうしようもない馬鹿だと思った。
どうせ逃げられはしないのだから、いっそ逆手にとって公爵など太刀打ちできない王になってやるぐらいの気概を見せればいいのに。
もっと強かに、狡賢く立ち回って自分の立ち位置を盤石なものにすればいいのに。
俺でもなんでも使えるものは全て利用して、もっと強かに生きていけばいいのに。
俺が責めるように見つめれば、視線に気づいたアルはいつも困ったように笑った。
ごめん、と口に出すよりも雄弁に謝罪されているような気持ちになった。
なんでそんな簡単に諦めてしまうんだと詰りたくなった。
もっと戦えばいいじゃないか、と奥歯を噛み締めたい衝動に駆られた。
胸倉を掴んで、公爵の思惑なんて覆してやればいいとけしかけてやりたかった。
それでも俺のそんな衝動を、いつもアルは困ったように笑う顔で押し止める。
なんて弱い奴なんだと、ずっとそう思っていた。
……愚かなことに俺はアルの強さを、全くわかってやれていなかったんだ。
あんなにも傍にいたのに。
そして俺はアルが自分より一つ年下の、何の力も持たない女の子だとわかっていなかった。
一番わかっていたくせに、わからないフリをして目を逸らし続けていたんだ。
初めて出会った頃に芽生えて、俺の理性を無視して胸の奥底で育っていきそうになる感情を必死に押し付けて蓋をして、考えないようにし続けていたせいで。
そんな当たり前のことを認められなかったんだ。
自分の立場ではこの気持ちが報われないことを知りたくなくて、殊更、彼女に皇子であることを強いてしまっていた。
(本当なら、誰より俺が守らなければいけなかったのに……!)
初めて出会ったときに向けられた屈託のない笑顔を、あれから俺は一度も見れていない。
思い出すのは、いつもいつも困ったように笑う顔ばかり。感情をすべてを飲み下して胸の内を見せない、穏やかな仮面。
──よく考えると、俺はそれまでアルが泣いた姿も一度も見たことがなかった。
4年間、アルが9歳から13歳までの間、一度としてだ。
よくよく思うと異常なことだ。これだけ傍にいたのに、一度だってアルの弱音を聞いたこともなかった。
あの日、アルが女の子になった、その時まで。
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