沸点
骨太の生存術
沸点
(雲助が――どいつもこいつも)
柿本徹次警部補は口の中で罵った。これ以上の蔑称を知らないのは実に残念でならなかった。
タクシー絡みの事故は、今夜はこれで四件目だ。腹立たしいのは、これが当直が明けるほんの一時間前だということだ。しかも、他の班はみな出払ってしまっていて柿本自身が出向かなければならなかった。その上、雨ときた。
小降りとはいえ、もういいかげん嫌気が差している。この佐倉照郎という意固地な男だけでなく、我が街をタクシーどもが我が物顔で走り回っていることにすらはらわたが煮えくりかえってくる。
佐倉照郎は傘も差さずに事故現場でじっと考え込んでいた。かと思えば、路上をふらふらとうろつきだして首をひねったりしている。そんなことしても無駄だ。後ろから来たスクーターを見た記憶がないというなら、それこそ「後方の安全確認を怠った」という証拠――つまりは事故の原因なのだ。
「あんたの言うとおりなら、こんな事故は起きなかっただろうが」
柿本は佐倉を呼び戻すつもりで声をかけた。だが、彼の耳には届いていないようだった。
(雲助め!)
苛々してきつくしかめた眉間はもはや痛いほどだった。
当直明けの今日は、午後から出かけるつもりだったのに、この調子じゃ帰って眠る暇もない。うっかり午睡を貪ってしまうと、PTAの会合とかで家を空ける女房に、娘と留守番してろと頼まれかねない。子供くらい一人で留守番できるだろうと口走ろうものなら、今度こそ家庭内サボタージュに発展するにちがいない。そうなったら目も当てられない。それもこれもあの雲助のせいだ――。
「くそったれ!」
「あのう――」
柿本は佐倉が戻ってきたのかと思ってびっくりした。だが、声をかけてきたのは作業着姿の若い男だった。
「何か?」
驚かされたことがおもしろくなく、柿本はぶっきらぼうに答えた。男は路傍に停めてある自分のトラックを指さして言った。
「あのバイク、僕のトラックにも当たったみたいなんですよ」
「なんだって?」
柿本は目を剥いた。そして、慌ててその男を佐倉照郎の目の届かないところへ引っ張っていった。
佐倉照郎は机に滴った水滴を袖口で拭おうとした。手の中のハンカチはすでにぐっしょりだった。ただ、袖口もすでに湿りきっていて、水滴を無駄に広げただけだった。無用の気遣いだと気付いて自分自身の愚かさに呆れた。溜息が震えた。この冷え切った部屋に来てから、悪寒が身も心もどうかしてしまうのをずっと堪えていた。
机と椅子があるだけの狭い部屋だった。すぐ背後には壁の圧迫を感じ、唯一のドアはでっぷりとした警官が立ち塞がっている。左右の壁も手を伸ばせば届くほどだ。嵌め殺しの小窓は鏡張りになっていて、その鏡の用途をなんとなく知っているからか、佐倉は得も言われぬ強迫観念に襲われていた。自分は「容疑者」だというのか?
納得しているわけではないが、自分がこの交通事故の加害者とされていることくらいは理解できたつもりだった。しかし、いまのこの状況はその理解の限界を超えていた。唯一、佐倉を「容疑者」でなくたんなる交通事故の「加害者」に留めてくれているのは、目の前にある「供述調書」なるものだけだった。
佐倉は自分に過失があるとされた「供述調書」を読み返した。この太った警官の、図体に似合わない神経質そうな尖った筆跡でぎっしりと綴られている。警官はこれを小一時間かけて書き上げると、早口で読み上げ、佐倉の方にボールペンと一緒に押しやった。
「読んで納得がいったら、署名しろ」
佐倉は拒んだ。そもそもこれは佐倉が「供述」したものではなく、最初から最後まですべてこの警官の作文で、佐倉の記憶を正確に反映しているものではなかった。
それになぜ、あれから実況検分のやり直しをしなかったのか。
「供述調書」とは名ばかりの、こんな妄想作文など破り捨てて突き返してやりたいと佐倉は本気で思った。
(本気で?)
抵抗する気力がどこに残っているというのか。脳天まで血が上るよう苛立ちや怒りと、不意に胸に差し込んでくる永久に理解されることがないのだという絶望感とのせめぎ合いに、精神は削りとられ、抵抗力は疲弊し、佐倉照郎の感覚はすっかり鈍麻しきっていた。もはや理性的思考は、率先して抵抗を諦めることを正当化していた。
事故は一瞬のことだ、記憶なんていい加減なもの、証言の食い違いは当たり前のことだ。納得しろ。怪我をしたのはお前じゃない、お前は加害者だ。だから署名しろ。
佐倉ははたと悟った。自分があの日、あの時刻、あの現場に居合わせた不運こそが事故の原因なのだと。あの瞬間、あの場所に、この自分がいなかったらそもそも事故は起きなかった。
(だから、やはり、私は――罪を犯したのだ)
震えはボールペンの先にまで達していた。
忸怩たる思いがあるかとも思ったがそんなものはなかった。ペン先を走らせはじめるとすぐに、すべてを終えた後の解放感を自分が待ちわびていることに気付いた。さっさと書き終えろと誰かが――多分自分自身なのだろう――佐倉に命じていた。
書き終えると、手で押さえたところがふやけてしまっていた。平らにならそうとしたが手もじめついていた。
「すみません」
自分の言葉に佐倉は驚いた。誰がそんなことを言わせた? 自分じゃないか! この署名も自分が書いたのだ!
むなしさが押し寄せてきた。だが、それでも、これで帰れるのだ。
何かの気配を感じて佐倉は顔を上げた。たしかに何かを感じた。だから顔を上げたのだ。そこには、警官の、たしかについいままで浮かべていたであろうしたり顔を、慌てて隠そうとして解ききる最後の瞬間の表情があった。
第一章
1
地下駐車場出口のスロープから、ギアの噛み合う甲高い音と重く轟く排気音とが完璧に調和をみせながら這い上ってくる。
CBR600RR。鮮やかな赤色のボディは猛禽類の目に似たヘッドライトリフレクターをぎらつかせ、スロットルの一捻りにレスポンス鋭く猛々しく吼えて応えた。
ライダーはバンプとトゥのささくれたパンプスでバレリーナのように爪先立った。ファイヤーパターンのフルフェイスヘルメットの奥で、エクステンションでもマスカラでも飾っていない長いまつげをまたたかせながら、ライナーもシャドウも引いていない素肌のままの目元がぎゅっとすぼめられ、その視線は車の流れを素早く走査した。そうしながら彼女は、派手なヘルメットとは対称的な、襟元の淡い水色のニットマフラーと胸元に垂れた黒髪の束をぱっと背中へ跳ね上げ、グローブをはめた指先で器用にベージュのスプリングコートのボタンを喉元まで留めていった。
彼女は思い切りよくクラッチを繋いだ。
縁石のふちから軽く跳んだバイクは、前後両輪の接地と同時に地面に吸い込まれるように左へと倒しこまれると、すぐに弾き返されるように起ち上がって一気に加速していった。タンデムシートにくくりつけられたがっしりした黒革の鞄が慌てたようにのけぞった。
赤信号の隙にバイクは先頭に立った。ライダー――槇村波瑠は、ヘルメットのバイザーを跳ね上げ、西日に目を細めた。
その光の下で、堀端の木という木、枝という枝に満ち満ちる花が、常緑樹の緑と陰の中で眩しいほどに真っ白に映えていた。軽く上向いた鼻孔から暖かな大気を吸い込むと、いつもよりアクセルをコンマ数秒でも長く、数ミリでも多くひねりたい気分になる。
(千鳥ヶ淵をまわっていこう)
そう心に決めた直後に青信号。波瑠はウインカーをキャンセルして軽く左手をあげて後続車に心変わりを詫びると、すぐさまその左手は一転、謙虚さをかなぐり捨ててクラッチを繋いでいく。フロントタイヤが軽く宙に浮く――腹筋と背筋とわずかな体重移動でそれを押さえ込む。気分をひときわハイにさせてくれる六〇〇ccエンジンに呼応して、エアインテークが音を立てて空気を吸い込んでいる。回転計は普段滅多に届かない九〇〇〇rpmの目盛りに触れる。
毎分九〇〇〇回転。
頭の中でざっと計算してみると、直列四気筒四サイクルエンジンのクランク軸は一秒間に一五〇回転、一つのシリンダーではクランク二回転で一回燃焼行程があるから一秒間では七十五回の燃焼行程、シリンダーは四つあるから、つまり、足の間で毎秒三〇〇回の気化ガソリンの小さな爆発的燃焼が起きているのだ。
そんな数瞬の間にもめまぐるしく景色が変わっていく。最初の交差点では丁寧に減速、丁寧に車体を倒し込んで左へ折れ、しかし起ち上がりは後輪をわずかに滑らせながらノークラッチ、アクセルワークでうまく回転を合わせてギアを上げて加速、一気に後続車を突き放す――ものの一秒で巡航速度に。
薄手のコートを透かす風はまだ冷たい。だが、脳髄の芯はすでに熱い。タイヤも良い具合だ。ウォームアップは終わり――信号機をレースシグナルに見立て、カウントをはかる。三、二、一──。
アクセルオン、シグナルブルー、クラッチミート──フロントリフトを力ずくで押さえこむ。はためくコートの裾とマフラーが鬱陶しい。革ツナギがいますぐ欲しくなる。最短のラインで大手門、物産カーブを駆け抜けて気象庁前カーブ、そして三段カーブ最終の丸紅前――波瑠はぶるっと震えた。武者震いだ。これからたどるラインを思い浮かべたせいだ。タイヤの接地面と同じ幅のライン。五センチ。S字カーブの綱渡り――新聞社の長い社屋が視界の端から飛び去っていく。速度と急激な加速Gとともに視界が狭まる。見えているのは竹橋カーブ先の上り坂――数瞬後、その坂を駆け上がる、代官町インター手前のS字カーブで右、左と車体を倒しこむ。インター入口横の狭路が視界に入る、その一点をめがけて──。
乗った。
五センチどころではない。無数に連なる極小の点をあやまたずなぞっていく感覚。
その直後、波瑠の体は光と陰のトンネルに飛びこんでいった。花びらの絨毯は風に吹き散らされ、濃い紅色の重い梢が波瑠を手招きする。若葉が透かす光は優しく、だが不意に梢の隙間から陽が目を突き刺してくる。
まぶしい――けれど、空気は春そのものだ。
思い出したようにギアを落とし、上半身を起こして空気抵抗のブレーキダウン。アクセル全閉、トーンを下げていくエンジンもしばしの一休み。波瑠もまた、目一杯温もった空気を吸い込み、高ぶり張りつめた緊張を緩め、その隙間の心地よさに一息つく。癖になってしまっていた、人に聞かれぬようにそっと吐く溜息もいまは忘れることができていた。
ただ、それもほんの束の間のことだった。
さっきまでの高揚感は一体何だったのかと思うほどに波瑠の心は萎れていった。だが、この気分の行き着く先はいつものところだ。慣れてるから――波瑠はそう自分に言い聞かせた。
2
「槇村弁護士事務所」の看板が掲げてある雑居ビルに着くと、その駐輪スペースにマットグレー一色のバイクが駐まっていた。
GSX-R750R。それも八九年発売の五百台限定車である。波瑠はこのバイクの持ち主を知っていた。
それは波瑠の記憶にあるものとはかなり変わってしまっていた。白ベースに青系の濃淡三色のオリジナルカラーは、ホイールも含めてざらついた艶消しの灰色で塗り潰されていた。テールカウルの赤ゼッケンに堂々と鎮座していたはずの「1」の文字も跡形もない。
ただ、古風な丸目二灯ヘッドライトの顔立ちや、ソロ仕様のボリュームあるテールカウルから角形の小さなテールレンズへとぎゅっと絞りこまれた造形は、やはりどんなバイクよりも馴染み深いものだった。波瑠はかつて、どこの峠でもゼッケンの「1」に恥じない最速の乗り手が駆るこのバイクの、この尾灯の明滅をいつも追いかけていたのである。
車体の右側に回りこんでみると、そこにはこのバイクにあるべきものがちゃんとあった。排気管ともどもブルーグラデーションに焼けたチタン製のサイレンサーだ。それがこのバイクの乗り手の、絶対譲れない好みであることを波瑠はよく知っていた。
「チタンの女──」
波瑠は口を衝いて出た自分の言葉に驚いた。
チタンの女――このバイクの主のかつての渾名だった。
鉄よりはるかに軽く、アルミよりはるかに堅牢なチタン。このバイクの主はチタン製の部品にこだわり、ボルトの一本まで可能な限り自分のバイクに組み込んでいた。軽量であることと剛性が高いことが速さを追求する上では不可欠だからだ。
ただ、「チタンの女」という渾名がつけられた本当の理由はそんなこととは無関係だった。そんな呼び名の真意など気にかけたことのない渾名の主に代わって、波瑠こそそれを嫌っていたはずなのだ。それなのにたったいま、それを自分が口にしたのだ。しかも、嘲りすら込めてである。
胸の内を整理できないまま階段を駆け上がると、給湯室から出てきた杖の男にぶつかりかけた。
「お父さん、あたしが――」
この事務所の所長である父、夏樹の手から湯飲みをのせた盆をひったくると、波瑠は足を引きずって歩く父に先立って事務所に入っていった。窓辺に鳴海響子の背中があった。
「バイク、乗り換えたのね。あのコの音が聴けると思ってたのに」
振り返るなり彼女は言った。波瑠はその言葉に棘、眼差しに冷ややかさを感じた。
響子の言う「あのコ」とは、以前の波瑠の愛車であるRVFのことだ。そのV型四気筒エンジンの排気音は猛獣のうなり声に似て荒々しく、これを御するライダーの獣性を揺さぶり起こす代物だった。響子に追いつこうと必死だった頃ならともかく、追いかける背もないいまとなっては自らを奮い立たせる必要もなくなっていた。
「キョウちゃんだって――ひどいものね、あの色」
「あれがいまのあたしにぴったりなの」
響子はふんと鼻を鳴らして窓辺を離れてソファに腰を沈めると、波瑠と同じく右耳の後ろで一つにまとめた長い黒髪を胸元に垂らしながら防風ジーンズの長い足を組んだ。白のレザージャケットは脱ぐ気はないようだった。そして、彼女は事務所を見回した。
波瑠は自分が値踏みされている気がして、いい心地はしなかった。
「それでご用件は? まさか思い出話に華を咲かせようってわけじゃないでしょう?」
そう言ってみたが、波瑠は途端に胸がざわついてきた。人材不足で常に多忙を極める検察官が、平日の昼下がりに普段着姿で暇をもてあますなど聞いたことがなかった。
「宇都宮地裁、二〇五号法廷。明日十三時開廷──遅れずに来て」
「一体なんのこと? 理由を言って」
「あたしは理由を訊かなかったけど」
響子の有無を言わせない意味を込めたその言葉と眼差しに、波瑠は返す言葉がなかった。
レザーオイルの濃い甘い匂いを残して響子は出ていった。やがて太いアイドリング音が轟きはじめ、二度三度甲高く吼えてから遠ざかっていった。
(あたしは理由を訊かなかったけど――)
八年越しの恨み言だ。
八年前、波瑠は彼女を遠ざけた。司法試験の直前──母の死の直後だった。いつかは共同の事務所を開けたらという二人の夢を、波瑠が一方的に突き崩したのだ。そして響子は、波瑠より二年早く司法試験に合格し、最初の希望通りに検察官の道へと進んでいった。
宇都宮地裁。二〇五号法廷。十三時。
その言葉に囚われて、残った煩雑な書類仕事もほとんど捗ることはなかった。
3
法廷の向かいにある待合室に響子はいた。振り返った彼女の襟元には秋霜烈日に例えられる検察官徽章は留められていなかった。
響子はすぐ脇にいる六十前後の恰幅のいい男を波瑠に紹介した。
「こちら大谷宗一先生。名前くらい聞いたことがあるでしょう?」
波瑠は動揺して会釈すら返せずにいると、大谷の方も渋面を崩さないままただ一瞥しただけだった。
大谷宗一は、前橋地検の検事正の職を最後に勇退し、刑事事件を専門に扱う弁護士に鞍替えした大人物だと聞いたことがある。この数年は、重大事犯がらみの裁判で逆転無罪判決を二つ勝ち取ったことでいっそう名を馳せたという。ただ、いまの彼には、自信や威厳を感じさせるものは皆無だった。
「そろそろね」
響子は意気揚々と波瑠の腕をとって引っ張っていった。引きずられながらも波瑠はどうにか廊下に貼りだされた開廷表を一瞬だけ見ることができた。だがそのとき、波瑠は我が目を疑った。
「被告人 鳴海響子」――その前には「自動車運転過失傷害 道路交通法違反」とあった。これら二つの罪名、そして記された順序からすると、彼女が問われている罪はつまり「轢き逃げ」だった。
響子はまっすぐ被告人席へ向かい、たった一人で長いベンチに座った。検察官席の後ろの扉から現れた若い検事が響子に一礼した。彼女はつんと顎を上げて軽く応えた。
波瑠は傍聴席の一つに放心状態で座り込んだが、直後に現れた裁判官たちに愕然とした。
裁判官が三人連なって姿を見せたのである。それは、この公判では合議制がとられていることを意味し、同時に、否認事件であることを意味しているのだ。
廷吏が起立を促し、裁判官らの着席を機に全員が席に着いた。
裁判長が口を開いた。「判決を言い渡します。被告人は前へ」
いきなり判決言い渡しと聞いてびっくりしているのは、これまでの経緯を知らない波瑠だけだった。響子が法廷のちょうど中心に立つと、裁判長はぼそぼそと早口で喋りはじめた。
「主文、被告人を禁固一年に処する。ただし、本判決確定の日から三年間、右刑の執行を猶予する」
響子は反応を示さなかった。波瑠はもう気が遠くなりかけていた。
「被告人鳴海響子は、平成二十二年六月二十九日午後八時五十三分頃、栃木県宇都宮市M町二丁目五番先の道路を直進してきて交差点を左折するに当たり、左後方から進行してくる車輌の有無およびその安全を確認しながら左折すべき自動車運転上の注意義務があるのにこれを怠り、左後方から進行してくる車輌の有無およびその安全確認不十分のまま漫然発進して左折した過失により、折から左後方から進行してきた島田保運転の軽車両に気付かず巻き込み、同軽車両右側部および同人右半身に自車左側部を衝突させ、その衝撃により同軽車両もろとも同人を路上に転倒させ、よって同人に加療約四週間を要する右下肢第五趾末節骨骨折等の傷害を負わせた。さらに右衝突後、同所にて、自己の過失により傷害を負わせた被害者を救護すべき義務があるのにこれを怠り、事故現場から走り去った──」
裁判長は喋り続けていた。
黒雲が湧き起こり積乱雲が起ち上がるように、朗読の文言のすべてが渦巻く嵐となって波瑠の意識の上空に到来しようとしていた。
響子の罪はやはり轢き逃げだった。左折しようとする彼女の車が自転車を巻き込んで倒し、さらには被害者の悲鳴と目撃者の制止を振り切って現場から逃走したというのである。
波瑠は響子の行為を蔑み、罪人へと堕落した彼女を憐れんだ。そして「轢き逃げ」と「有罪」の二つの言葉に、それがまるで自分のことのように、波瑠はひたすらうちひしがれていった。
不意に響子が波瑠を振り返り、小さく横に首を振った。
(ちがうとでも言うの?)
そう目で詰問すると、彼女はうなずいた。
裁判長は朗読をしめくくる間際に、「被告人は反省を一顧だにせず、情状酌量の余地無し」と述べた。
完全否認は裁判官の心証を悪くする。それゆえの禁固一年という重い判決なのだ。執行猶予がついたのは、ただ初犯だからというだけの理由だった。
恒例の裁判長による訓戒もなく、あっけなく閉廷が宣言された。
「こんな大事なことずっと黙ってたなんて!」
波瑠は柵越しに響子に詰め寄った。
「ニュースを見逃したのね」響子は平然と言った。「さあハル、今度はあなたがあたしの無実を証明して」
波瑠は絶句した。すがる思いで弁護人席の方を見たが、大谷は素っ気なく背を向けて退廷していった。
「元検事正も下野したら大したことないものね」
響子はそう彼を茶化した。波瑠はまったくうなずけなかった。刑事事件を知り尽くし、一地方検察庁のトップの座にまで上り詰めた大谷の手腕をもってしても響子は起訴を免れず、有罪は無罪にひっくり返らなかったのに、いまさら波瑠に何ができるというのか。
「鳴海さん、控訴はなさるんでしょうね」
声をかけてきたのはさっきまで検察官席にいた男だった。
「当然よ。ね? こちら新任の槇村先生」
響子の視線を追って、検事の視線が波瑠に注がれた。
「宇都宮地検の小山と申します。この度は不本意な結果になってしまって――」
「起訴したのはあなたでしょう」
響子は不服そうに鼻を鳴らしたが、小山は無視した。
「槇村先生、控訴なさるにしても量刑を争うだけに留めてください。無罪は無理です。被害者との示談、それに情状証言を頼むことが絶対条件だと――」
「聞くことないわ、ハル。行きましょ」
響子は波瑠の腕を取って法廷を後にした。二人の背中に小山の声が追いかけてくる。
「このままでは検察官を辞めなくてはならなくなるんですよ!」
国家公務員法の第三十八条に、いわゆる国家公務員資格の欠格条項が記されている。響子の場合、「禁固一年執行猶予三年」の有罪判決が確定すれば、第三十八条「次の各号のいずれかに該当する者は、人事院規則の定める場合を除くほか、官職に就く能力を有しない」の二項「禁固以上の刑に処せられ、その執行が終わるまで又は執行を受けることがなくなるまでの者」に該当し、小山の言うとおり、彼女は検察官の職を失うことになる。
4
単純な事件だった。
被害者島田保と目撃者榎木忠広の供述を元に作成した実況見分調書によれば事故態様はこうだった。
およそ十ヶ月前の事件発生当日の夜、加害者鳴海響子は地検庁舎から宿舎までの帰路にあった。その途上である住宅街の交差路で、響子の車は優先道路からの左折時に被害者島田保の運転する自転車を巻き込んだ。島田は転倒し、その際に自転車のペダルと車体に足の小指を挟んで骨折し、全治一ヶ月の診断を受けている。
響子の車には、左後部ドア下部より後方数十センチにかけて、被害者の靴底のゴムを擦りつけたような跡とそれに連なる自転車の金属ペダル端による直線状の擦過傷が残っていた。一方、ペダル側には車の青い塗膜片がこびりついていた。また、地面に転倒した被害者が車のボディに押し当てた掌紋もくっきりと残っていた。
通報者である榎木忠広は、加害者の車は一旦停止したもののすぐに発進して現場から走り去ったと証言した。
ルート配送トラックのドライバーである榎木は、目の前で起きた事故の一部始終を目撃するとすぐさまトラックを降りて被害者に駆け寄った。その間に加害者の車が走り去ろうとしたため、追いすがって車体を叩いて「止まれ」と怒鳴った。その際に付着した榎木の掌紋も響子の車のトランクリッド表面に残っていた。
彼らの供述は、警察調書、検面調書、法廷での証人尋問調書において、いずれも内容も筋もぶれはない。判決ではこの事故態様のほとんどすべてを事実認定した。
ぶれがないといえば、響子の供述も同じだった。
ただ彼女は、事故現場とされたその交差点を、その時刻に通りかかったことだけを認めたが、他すべてを否定している。事故はそもそも起きていない、すべて捏造だと主張したのである。
「もっとマシな言い訳はなかったの?」波瑠は思わず声を上げた。
明々白々の物的証拠と揺るぎない鉄壁の証言による圧倒的重武装で攻勢を仕掛ける検察が相手では、無罪請負人の元検事正といえども正面切って闘えるはずもなかった。むしろ担当検事の小山の忠告こそ、弁護方針としては至極真っ当なものだったはずだ。
刑事事件の場合、被疑者に裁判を受けさせるか否かの決定権は事件を担当する検察官にある。担当検事は被疑者の供述や物的証拠、証人、鑑定結果などいわゆる証拠に基づいて被疑事実を立証しようと試み、それが成功するものと、かつ裁判官をも説得できると確信したときはじめて起訴に踏み切るのだ。
また、被疑事実が明らかであってもそれが軽微な罪で訴追するまでもないと判断すれば起訴猶予処分となるし、赤キップなどの道路交通法違反や軽犯罪などで無罪放免と看過できない場合は略式起訴したりもする。略式起訴となれば、判決までの手続きが簡略化され、公判は開かれない。略式起訴される場合、被疑者は被疑事実を認めているため有罪が確定しているといっていい。
一方、被疑事実の立証や裁判官らの説得が不可能だと判断すれば、嫌疑不十分として不起訴処分にする。
こうして不起訴処分、起訴猶予処分となるのは、告訴告発された刑事事件全体の五割を超える。この数字の裏返し、つまり起訴された五割弱の刑事事件では有罪率はほぼ百パーセントにのぼる。
言い換えれば、検察は勝ち戦しかしないということである。負ける見込みがあれば、戦わずして勝負を降りてしまうのだ。
被疑者の立場からすれば、有罪となるか無罪となるかは、起訴されるか否かがまず第一の指標となる。たとえ本当は無実であっても起訴されたら有罪はほぼ確定したといってもいい。
そのあたりの事情を熟知しているはずの大谷宗一が、こんな事件の依頼を受けたのは不可解ではある。
(元検事正も下野したら大したことないものね)
その言葉はひょっとしたらそのまま大谷に向けられたことがあり、彼は自尊心を賭して依頼を受けたのかもしれない。
無罪を勝ち取ることを強いられた大谷はともかく、たいていの弁護士が刑事法廷で争おうとしているのは量刑の軽重ばかりであるというのが実情だ。無罪判決など弁護士が抱く夢のまた夢なのだ。
波瑠はファイルを放り出し、疲れた目を揉んだ。まぶたの裏には未来をなくした響子の姿が映りこんでくる。
そのとき電話が鳴った。ディスプレイは「公衆電話」の文字を明滅させている。その声は送話口を何かで覆っているらしく、くぐもって聞こえた。
「鳴海響子は無実だ。彼女の供述に嘘はない」
「どうして無実だと──」
波瑠が驚いて聞き返すと、通話は唐突に切れた。
「知らないわ」
心当たりがないか響子に電話して訊いてみたが、彼女は唐突の支持者の出現に、少しも期待する素振りを見せなかった。波瑠は落胆しつつ、明日は事故の検証を行うつもりだと伝えた。響子は途端に不機嫌になった。
「現場を見ずに依頼を受けるつもりはないわ」
波瑠はそう断言した。その実、波瑠はまだ、匿名電話の男ほど響子の無実を信じてはいなかったのである。
5
「もうとっくに調べ尽くしたことよ!」響子は声を荒げた。「矛盾を見つけられなかったから、あたしは司法の歴史上もっとも間抜けな言い訳を法廷のど真ん中で言い張るしかなかったのよ。『事故なんて起きてすらいない』――こともあろうにこのあたしがね!」
「キョウちゃん、聞いて――」
「その呼び方! ガキじゃあるまいし」響子はぴしゃりと言った。
響子は膝に置いたファイルにきつく爪を立て、CR-Xの助手席に差し込む午後の陽光を目を細めて睨みつけた。波瑠は、響子の端正な造りの顔から、眉間を割る醜い皺をいますぐ取り去ってやりたかった。だが、いまこの瞬間に彼女のためにしてやれることはほとんどなかった。ただ一つできることは、彼女の膝の上の忌まわしいファイルの束を、もう彼女の目に触れないように後ろのシートに放り投げてやることだけだった。
響子は礼を言うかわりにふんと鼻を鳴らした。
「プロの仕業よ。車にあらかじめ傷だの手垢だのつけて、骨まで折っておく念の入れよう。ピンポイントであたしが狙われたってこと」
「あらかじめって、いつそんなことができたのかしら」
「いつでもよ。車は朝から晩まで駐車場。あの田舎庁舎、防犯カメラはあっても死角だらけ。小細工なんてやりたい放題よ」
「でも、まだ一銭の金も渡してないんでしょう? 計画は失敗?」
「治療費もね。自賠責保険だって支払わせてない」
「その結果が昨日の判決。ある意味、成功ね」
「そんな暢気に構えてないで、逆転無罪をもぎ取る算段しなさいよ」
「示談も一つの手なんだけど――」
「白黒はっきりする前に頭下げて金を渡すなんておかしいと思わない? 相手は詐欺師かもしれないでしょう?」
「でも、あれだけ不利な証拠ばかりじゃどうにもできないよ」
「だから何? 諦める? 何人も公平な裁判を受ける権利があるってこと知らない? 日本国憲法第三十二条――」
「刑事裁判が公平? 本当にそう思ってるの?」
今度は波瑠が声を上げて突っ返したが、立場がちがうことなどのせいにするのもいまさらという気がしてきて波瑠も矛を収めた。気まずい沈黙の底から、響子がつぶやいた。
「所詮は他人事よね」
「泣き言ばかり」
「泣き言じゃない」響子は頑なに言い張った。
「だったらいいかげん洗いざらい話してよ。七年も検事をやってれば、星の数ほど恨みを買うものでしょう?」
「嫌味な言い草。嫌いよ」
響子は口を閉ざしたが、それでも怒りはおさまらない様子だった。そしてついには溜まっているものを吐き出すようにまくしたてた。
「ええ、そう、おっしゃる通りよ。あなたには殺意に満ちた目で睨まれる経験なんてないでしょうね。でも、そんなのいつだってお門違いよ。あたしは求刑するだけ。量刑を定めるのは裁判官だし、勝てないのは無能な弁護士のせいでしょう?」
響子は額を窓に押し当てるようにして波瑠から顔を背けた。波瑠はおそるおそる訊いた。
「私生活ではどうなの? 恨まれるようなことはしてない?」
「何もない」
「何もって──ほんとに、何も?」
「どんな答えを期待してた? 何もったら何もよ。ベッドと仕事場を往復するだけ。私生活なんてない」
「相変わらず『チタンの女』?」
あなたがそれを口にするの、という眼差しが返ってきて波瑠はひやひやした。ただ、ひりひりした空気が少し緩んだような気がした。
「チタンどころかタングステンよ。あたしをとろけるほど熱くしてくれるのはバイクだけ」
「『ヒート・ビート』の店長とは──進展ないの?」
波瑠はかつて響子と二人で通い詰めていたバイクショップの名を出した。一昨日見た響子のバイクに店名が入ったステッカーが貼ってあったところを見ると、縁が切れてしまったわけではないらしい。
「誰があんなのと! いまだに原チャリに振り回されてるようなやつよ。バイク屋の風上にも置けない。そう思わない?」
波瑠は声を上げて笑った。響子もやっと頬を緩ませた。
県境にさしかかり、利根川のきらめく川面に視線を戻した響子は幼児のように爪を噛みはじめた。波瑠は居ても立ってもいられず、シフトを一つ落としてアクセルを踏み込んだ。途端に、羊のような白く小さな車は、被った皮を破って秘めた獣性をあらわにした。猛りだしたエンジンに波瑠の全身が呼応する。毛穴という毛穴が開き、そこから高揚感が噴き出してくる。
助手席が軋んだ。響子は、さっきまでの目元の陰りをらんらんとぎらつく眼差しに変えていた。流れる血はあの頃と変わっていない。
「こうやってぶっ飛ばして、いつも乗り切ってきたじゃない?」
「リードしてあげてたのはいつもあたし」響子は即座に返した。
「いまはあたしの番よ!」
威勢よくそう言ったものの、波瑠はこうして鉄の猛獣の体にしがみつきながら、その咆吼の猛々しさにあわよくば気力を奮い立たせてもらおうとしているに過ぎなかった。そして自分自身わかりきっているとおり、そんなことがうまくいって心が太く強くなれた試しはただの一度もないのだ。ましてや、響子を無罪に導こうなど、途方もないことのように思えて仕方がなかった。
6
聞き込みのために用意した名刺は底を尽きかけていた。そろそろ「徒労」の二文字が脳裏を過ぎりはじめている。
当時も、大谷宗一や彼の助手らは事故現場とされた住宅街の交差路を中心にしらみ潰しに聞き込みをした。目撃情報──正確に言えば、事故が起きたとされる時刻、その場所で、そんな事故など目にしなかったという情報を募ったのだが、響子に有利な証言は出てこなかった。それどころか、不利となる証言も出てこなかった。現場周辺の住民が口をそろえるのは、パトカーや救急車のサイレンで騒がしくなってからの事故のあとの情報ばかりだったという。
それから十ヶ月近くも経ってしまっている。いまごろになって何か新たな発見が得られると期待するのはやはり無理があった。
日は一時間も前に落ちて、かすかに西の山の際の明るみを残すのみだった。東京の都心とちがって夜の冷え込みが早い。波瑠は春物のコートの襟を立てて首元に巻きつけ、夕餉の香を漂わせる町をなおも歩き、呼び鈴を鳴らしてまわった。胸中にさしこむのは冷気ばかりではない。諦めの思いも波瑠の胸の芯を冷たくする。
ついさっき行った再度の検証も収穫があったとはいえなかった。
波瑠は響子の車、ブルーのインプレッサWRXに乗り換えて現場に乗りつけ、響子には自転車を同僚から借りて来させた。
「これで半日無駄になるわ」
波瑠は「それでもやるの」とぴしゃりと言って響子を黙らせた。
響子の車には自転車のペダルによる擦過痕がそのまま残っていた。ゴムの黒いこびりつきは被害者の靴が挟まったときの痕跡だろう。一見するとやはり、よくある巻き込み事故のように思える。
波瑠は順を追って巻き込み事故の再現を試みた。響子を被害者役に立て、自分はインプレッサに乗り込んだ。
「はじめるよ」
響子は居心地悪そうに自転車にまたがると、投げやりに手を振った。波瑠はするすると車を発進させた。
車は左折のため徐行で交差路に進入。自転車は車に追いつき、車の左側をすり抜けようとするが、車が寄ってくるため急停止。しかし車はそのまま自転車に気付かず左折進行。自転車は車の左後部ドアあたりから巻き込まれ――響子の自転車は巻き込まれた体勢をとりつつ──、被害者島田保の右足爪先は自転車の金属製のペダルと車体との間に挟まれる――響子、「ぎゃあ」と叫ぶ。その爪先がペダルから外れると、今度はペダル端が車体と接触し、直線状の擦過傷がつく。接触位置は地面から一定の高さ。車はまだ進行。その擦過痕の端で、自転車はついに転倒。
調書添付写真にある被害者の衣服の損傷具合によると、ジャンパーの左肩と左肘、ズボンの左膝、靴左側面の擦り傷が転倒の際に負ったものとされている。また、転倒の際、被害者は受け身を取れなかったことから、頭部から膝にかけての左半身の打撲や擦過傷を負ったとされる。とくに疑問の余地はない。
車はなお左折進行中で、転倒した自転車の前輪を左後輪で轢いていく。調書添付の写真では、轢かれた自転車の前輪に残された車のタイヤ痕がインプレッサのトレッドパターンと一致している。
被害者役の響子は、地面に倒れたまま車を叩き、掌紋を残す。車はこのとき一旦停止したがすぐに再発進する。
ここから響子は目撃者役となり、走り去ろうとする車を追いかけ、追いつき、トランクを叩いて「止まれ」と大声を上げる。しかし、車は止まらずに走り去る。
「どっちもはっきり聞こえるじゃないの!」
戻ってくるなり波瑠は断言した。苛々と響子が返した。
「こんなことはまるっきりなかったって、あたしがいままで言ってきたこと聞いてた?」
そうは言うものの、百聞は一見にしかず、だ。裁判官も検察官も、調書の字面だけしか読んでいなければ、事故をただ見ている気になっているだけという可能性も十分に考えられる。しかし実際は、彼らの想像の範疇を超える何かが起きていたかもしれないのだ。
また事故直後の実況検分を行う警察官にしても、事故そのものを目にしたわけではない。彼らは関係者から聴取した供述を調書として書きしたためる際に、自身の語彙で上手に変換してしまうことが多々ある。というのは、支離滅裂でつじつまが合わない供述の場合、理路整然とつじつまを合わせるのは調書をしたためる警察官の役目だからだ。ときには、事故当事者の欠落した記憶を代わりに警察官が穴埋めするなどといった創作調書が生みだされることもある。
そうした過程を経たとしても、ひとたび調書が作成されると、以後、その調書こそが事故の顛末だとされてしまう。事故現場で何が起きたのかと問われれば、警察は調書のとおりだと答える。彼らにとってはそれ以上のものでも、それ以下のものでもなくなるのだ。
とはいえ、矛盾があれば覆す隙はある。そう信じて検証を行ったのだが、そんなものはどこにも見つからなかった。
「これでもあたしを信じられる?」
響子は波瑠を見据えてそう訊いた。波瑠は答えられなかった。
その響子は、まだ戻ってこない。「やるだけ無駄」と言い残して去っていったから、もはや聞き込みを手伝う気もないのだろう。
波瑠もまた、聞き込みが空振りするたびに響子の無実を信じたいという思いが萎え細っていく。
変わってしまったのだ。熱に浮かされたように法の理念、法の正義についてまぶしい目をして語り合った自分たちはもういない。
いまや法律はただの道具に過ぎないのだ。神聖荘厳に見えた法廷も、いまや流れ作業の工場も同然。ベルトコンベアで流れてくる事件に適当な道具を用いて作業したのち、完成品となった判決を送り出すばかりだ。
検事にとっては無罪判決という欠陥品を造らない優秀な有罪製造工場だ。響子はそんな工場の優秀な工員の一人だったにちがいない。
雑念を振り払い、波瑠は七階建てマンションの各部屋をしらみ潰しに聞き込みをはじめた。この建物は現場から五十メートルほど離れているが、四分の三以上の中上層階のベランダからは現場を見下ろせる位置にある。しかしインターホンの向こうの住人の言うことはみな同じだった。
五○四号室――チャイムの音を聞きながら住人の応答を待つ。
ふと壁に掲げてある建屋見取り図に目が留まり、波瑠はしまったと思った。東向きの五〇四号室はベランダも窓も現場に面していなかった。事故を目撃しようがない。
「ええ、憶えてますよ――あ、でもごめんなさい、この目で見たわけじゃないのよね。ウチからじゃその交差点は見えないの」
一瞬の期待も「やっぱり」というところに落ち着く。他の住人と同じくサイレンの音を聞いただけなのだろう。
「で、しばらくしたらパトカーと救急車だのがやってきて──」
波瑠は思わずスピーカーに耳を寄せた。
「しばらくしたらって、先ほどの『そのとき』っていうのは──」
「え、事故のことでしょ?」女は不思議そうに訊き返してきた。
「そちらのお宅からは、現場は見下ろせないのでは?」
「ええ、見えませんよ。でも──いえ、たぶんそうだと――」
主婦は自信をなくしたように口ごもった。だが波瑠にとって『そのとき』の情報は、闇に差す一条の光だった。
「『そのとき』というのは、どうして事故だと思われたのですか」
「音を聞いたんですよ。それで――」
「『ガチャン』とか『ギギギ』とか?」
「ううん、クラクションの音」
波瑠は拍子抜けした。主婦は続けた。
「パーパービービーうるさくってしつこくって――救急車がきたのはもっと後。だから、あ、さっきのは事故だったのかしらって」
クラクションのことは一切調書に記述はない。誰が鳴らしたのか。
「いまからクラクションを鳴らしますので、ベランダに出て音を聞いててもらえますか」
波瑠はインプレッサに駆け戻り、クラクションを鳴らした。社外製のクラクションはけたたましい音を住宅街に響き渡らせた。
「そっくり。だけどそれだけじゃないのよ。相手がいるの。そっちはもっと安っぽい音」
(相手? 自転車じゃない?)
波瑠は通りかかった車を片っ端から止め、頼み込んでクラクションを鳴らしてもらった。
「二番目ね。いちばん安っぽくてだらしない感じ。いまのがずっとしつっこかったんだから」
二番目に鳴らしたクラクションは原付バイクのものだ。目撃者榎木忠広のとほぼ同型の二トントラックのも鳴らしたが、主婦はそんな音は聞かなかったと答えた。
「音が止んだ後は怒鳴り声」波瑠を玄関先にあげた主婦は言った。「『待て、止まれ、この野郎』って。ケンカかと思った」
響子の車と原付バイクのクラクション。怒声は響子を止めようとした榎木忠広のものだろうか。
「その前に何か聞きませんでしたか? 悲鳴のような?」
「悲鳴ねぇ」主婦は首をひねった。「ずっとベランダで洗濯物を干してたけど、救急車のサイレンを聞くまで静かなものだったわね」
「時刻を憶えていますか」
「パートから帰ってきて夕飯だの片付けだのが終わって、それから洗濯してからだから──朝が忙しいから夜のうちに洗濯機かけちゃうのね。だから九時頃だと思うけど――正確にはわからないわ」
波瑠は礼を言うと、もう一度各部屋を呼び出してクラクションのことを訊ねてみた。しかしクラクションと怒声を聞いたのは五○四号室の主婦だけだった。
沿道の家々にも一連の騒音について訊ねてまわった。
あわよくば、という狙いは実った。五○四号室の主婦の他にも、「事故を目撃したか」という質問ではノーと答えた者たちが、「クラクションと怒声を聞いたか」という質問では、断片的に思い出す住民がいたのである。その十五歳女子中学生とその母親は、音の発生時刻をまさに記録していた。
女子中学生は学習塾からの帰路、先の方から聞こえてきたクラクションと怒声に怯えて家で待つ母親にメールを送った。母親は娘にその交差点を迂回するように勧めている。そのやりとりの時刻はまさに事故発生時刻とされた午後八時五十三分で、栃木県警通信指令センターに目撃者榎木からの通報があった時刻の一分前だった。
つまり、響子は事故発生時刻に現場でクラクションを鳴らし、原付バイクに鳴らし返され、さらに怒声を浴びせられていたのである。
聞き込みでわかったことがもう一つある。
それは、このあたり一帯に情報を求めて聞き込みしてまわった大谷の助手というのが、実は響子本人ではないかということである。住民らが言うには、その助手という女は背が高く、利口そうで、しかし冷たい目をしていたという。マンションの五○四号室に戻って訊いてみると、当時その女にもクラクションのことを話したが、今日の波瑠ほど興味を持たれなかったという。
波瑠は汗ばんだ襟元のストールを引き抜きながら交差点へと駆け戻っていった。
「気は済んだ?」
響子は街灯の真下に駐めた自分の車にもたれていた。その目は重い影の中にあり、何も読み取れなかった。
「あなたは運が良い。偶然にしてもちゃんと正解を引き当ててるんだもの――クラクション、あたし、ほんとは鳴らしたのよ」
彼女はばつが悪そうにしたが、すぐに開き直った。
「ここで左折しようとしたとき、原付が道を塞いでたから、クラクションを鳴らしたのね。そしたらしつっこく鳴らし返してきた。嫌なやつ、まったくどこうとしないんだもの。結局こっちがぎりぎり避けて通り抜けたわけ。それなのにあいつ、後ろから怒鳴ってきやがったの。『待て』だの『この野郎』だのなんて、散々よ」
「まだ隠してることがあるでしょう」
「明かす必要がある?」響子は飄々と言った。
「自分に都合の悪い証言があったら握り潰すつもりだった?」
「ひどい言い草ね」
「あなたはこの場所で、自転車を轢き、制止を振り切って逃げた」
「飛躍的で短絡的、論理の真ん中をぶっ飛ばしてるのに気付かないでしたり顔。みんなおんなじね。弁護士、裁判官、警察官――恥ずかしながら検察官も。はじめに原因らしきものがあって最後に結果があれば、途中の過程なんてどうだっていい――バカみたい」
「事実は――」波瑠はムキになって詰め寄った。
「事実は」響子は波瑠を遮った。「あたしは現場を通りかかった──事実。あたしはクラクションを鳴らした──事実。原付がクラクションを鳴らした、そして怒鳴られた。これも事実。で、以上」
「クラクションのことは重要よ! 原付がいたのだって──」
「罠よ。囮よ。注意を引きつけて、その瞬間の記憶を縛り付けるためのもの。いい? 原付は現場にいた。でも自転車もトラックもあの交差点にはいなかった。だけど轢き逃げは起きたことになっていて、それらしき被害者と目撃者がいる。原付のことなんか誰も口にしない。誰があたしの言うことを信じる? ううん、あたしが原付のことを話してたらどうなる? 結果はこう、『原付バイクに気を取られて注意散漫、自転車の存在に気付かずひっかけた』。以下同文よ。現にあたしだったら当然のようにそこを攻める。警察も同じ。あっという間にそんな実況見分調書を書き上げるに決まってる。あなたもわかるでしょ? これが交通事故裁判なんだってことが」
波瑠は反論できなかった。
被害者はすなわち交通弱者。弱者救済の理念に基づき交通事故は処理されていく。
ひとたび加害者とされると、自己弁護の余地はほとんどない。担当の警察官は被疑者を説得し、過失を認めさせることに躍起になる。否認するのなら裁判だ、裁判は面倒だと警察官はほのめかす。その言葉が裁判制度に詳しくないほとんどの人にとっては恫喝に等しいことを知っての上でだ。人は自分がまさか裁判で犯罪者扱いされることになるなんて考えたこともない。裁判なんて面倒はいやだ――。
自己弁護を諦めた頃、被疑者は警察官が作文した調書を読ませられる。事実と違う点があれば訂正するというが、被疑者には何が事実で何が事実でないかすらわかっていない。なぜなら、普段意識に上らないような細々したことまで書き連ねてあるからだ。だから、はっきりと「ここは事実とちがう」と言い切れない。記憶が曖昧だからと渋るとなお悪い。注意散漫、漫然運転――それこそが事故原因だと断定される。そして、被疑者は言いくるめられ、納得がいかないまま、しかし面倒ごとから早く逃れようと、ついには――あるいは早々に泣き寝入り――署名、押印する。
「島田と榎木、二人の供述が真実なら、そこに原付の存在とクラクションがあってしかるべき。だけど、二人ともその二つの要素を欠いたストーリーを語ってる。つまりそれが、やつらがはじめからグルだということの何よりの証拠よ」響子はひとつ息をついた。「同時に、やつらはあたしに、この捏造された轢き逃げ事件があたしを陥れるための罠だとわざわざ教えてくれてるのね」
「だとしても、嘘をつかれたら、助けられるものも助けられないわ」
「逆の立場だったらあたしもそう言う」響子はすぐに消え入りそうな笑みを浮かべた。「車はあなたが戻しといてくれる? キーはポストにでも放り込んでおいて。あたしは──ちょっと歩きたいわ」
言い終わるか終わらないかのうちに響子は踵を返した。波瑠はその背に問いかけた。
「どうしてあたしを? あたしなんかじゃあなたを救えるわけがないの、わかりきってるでしょう!」
「あたしの知る限り、あなたは一番優秀だったはずだけど?」
「そんなわけないじゃない! あたしはいつだって――」
「あたしの陰に隠れてた? いまでもそんなことが言える?」
そう言うと響子は、街灯の光から逃れるように歩み去っていった。
響子の言う通りかもしれない。その背はいつも自信に満ち満ちていたのに、その背は速すぎていつも追いつけた試しなどなかったのに、いまでは手を伸ばせば簡単に届きそうで、手の中にすっぽりおさまってしまいそうで、手の中であっけなく壊れてしまいそうなほどひたすら小さく、か細く見えてしまっていた。
7
母屋に増築されたガレージの電動シャッターがゆっくりとせり上がっていく。ふとルームミラーを自分に向けてみると、滅多にしないマスカラが流れ落ちて両頬にこびりついていた。どうりで頬のあたりがひりついていたわけだ。目の縁も黒ずんでいる。手の甲もだ。
泣きじゃくりはしなかった。それでもこの有様だ。
波瑠は黒ずみを拭ってから、CR-Xを中へと滑り込ませた。
ガレージの隅にはRVFが厚い埃を纏って佇んでいた。
RVF――かつて馴染んだ靴を履くように、半日もおくことなく跨がってきた。左出しマフラー、リアホイールの片持ちスイングアームなどの独特のフォルムや、小振りなヘッドライト周辺の造形、そして目を閉じれば耳に甦るV型四気筒エンジン音などどこをとってもかつては波瑠の愛情が絶え間なく注がれていたものだった。
いまではすっかりトリコロールカラーをくすませている。
中央には黒光りするパイプフレームが治具の上に鎮座していた。父のW1SAのものだ。歪み修正と塗装から戻ってきたのだろう。
「エンジンを載せるときは手伝ってくれるよな」
波瑠はWのフレームから視線を逸らしたが、興味のないふりを装うにはもう遅かった。夏樹は不自由な股関節に四苦八苦しながらガレージに降りてきた。
「おろしたての新車同然にしてみせるよ」
「何のために──」
声が喉につかえたが、波瑠は助かったと思った。問い詰めて嘘をつかれるのも本当のことを告げられるのも恐かったのだ。
(あれはただの事故なんかじゃないでしょう?)
夏樹は七年前の大事故から生還したものの、大破したバイクとともに彼の精神もそのとき修復しようのないクラックが入ってしまったようだった。暇さえあればバイクのメッキ磨きに余念がなかった父が、事故以来、数十年来の愛車を壊れたままガレージの隅に放置し、その残骸に見向きもしなくなっていたからである。
「乗る気がないなら、もう処分するよ?」
リハビリを怠ける父にハッパをかけるつもりで言った波瑠の言葉を、彼は自嘲で受けとめた。そのとき波瑠の胸はざわついた。父親の眼差しに「生き延びてしまったよ」という心の声を聞いた気がしたのだ。事故の本当の原因とその一年前の母の病死が、波瑠の中で一本に結びついた。
(やっぱり、あれはただの事故なんかじゃない!)
バイクで重傷事故を起こした夏樹のジャンパーの懐には、母の遺影が入っていたのである。
洗面所の引き戸がノックされ、波瑠は首まで湯船に浸かった。夏樹は洗面台で歯を磨きだした。そこが父の無神経なところだ。
歯磨きの気配は消えたが、彼は隅の籐椅子に腰を下ろした。
「キョウちゃん、大変なんだってな」
波瑠が返事できないでいると、夏樹は「おい、聞いてるか」と身を乗り出して磨りガラスに顔を近づけてきた。
「お父さん!」
ガラスに湯をかけると、夏樹は慌てた様子で首を引っ込めた。
「すまんすまん――で、今日は何があった?」
波瑠は今日一日の顛末を夏樹に聞かせた。実況見分調書に矛盾は見られなかったこと。さらに、新たな発見──クラクションの音。そして、それを響子が隠していたこと。
話し終えると、波瑠は響子の背中を思い出して、今度こそ声を上げて泣きたくなった。それを顔に湯をかけてまぎらわした。
「理にかなっている――正しくないがね」
「許せないよ」
波瑠は湯面を叩いた。夏樹はそれには応えず、やがて籐椅子の軋む音がして彼は立ち上がった。そしてトントンと床を杖で突く音が二つ──ぎこちない会話を終えるときのいつもの合図だ。
(前はどうしてたんだっけ――)
波瑠は色の薄い記憶を巡ってみた。
「この椅子、もう片付けようかな」
夏樹は独り言を残して洗面所を出ていった。結局、波瑠は父親との記憶の中で迷子になってしまった。
8
波瑠には目もくれず、榎木忠広は背丈ほどの高さに積み上げた番重をトラックの荷室へと移す作業を止めようとしなかった。
「事故を目撃する直前です。その現場にいたのは加害者の車、被害者の自転車、それに榎木さんのトラックだけでしたか?」
「いなかったと思うけど――いたかもしれない」
そう言って榎木は老化現象の進行著しいしみだらけの顔にへらへら笑いを浮かべながら荷室の奥へと入ってしまった。
「大事なことなんです!」波瑠は声を荒げた。「加害者の車が、自転車を巻き込んでしまったことに気付かなかった可能性はありませんか? 何かに気を取られていたとか――」
すると、榎木は荷室から底意地の悪そうな顔を突き出した。
「人を轢いちまったことに気付かなかったから無罪放免? そんな都合の良い言い訳、通用すんのかい?」
「あんな女は即刻検事を辞めるべきだ!」
頬の垂れた温厚そうな老人の沸点は予想以上に低かった。島田保は波瑠が渡した名刺を渡したそばから破り捨てた。
「あんたは知らんだろうが、前の弁護士は三百万積んできたぞ」
波瑠は愕然とした。響子は示談を拒んだのではなかったか。それとも大谷宗一が独断で示談交渉に動いたのだろうか。
「足の小指一本で三百万は破格だとさ。普通は十万かそこらだそうだ。当然突っぱねてやったよ」島田は泰然としたまま続けた。「金を積めば罪が軽くなるのか? それじゃ、貧乏人は重い罰を甘んじて受けろということか? 司法に携わる者が平気でそんな考え方を持っている。あんたもそうなのかね?」
「いえ、そんな──」
「それじゃあんたはいま、ここに何をしに来てるんだ? 前の弁護士と同じで、あわよくば示談をと考えてるんだろうが」
波瑠は返答に詰まった。
「意地を張るなとかいうのはよしてくれ。轢き逃げは大罪だぞ」
そう言って島田は古びたアパートの階段を上がりはじめた。波瑠は島田の猫背に追いすがった。
「必ずご満足頂けるよう、誠意を持って対応をさせていただき──」
「罰を受け入れろ。それが誠意だ」島田はきっぱりと言った。
「彼女に何か恨みでもあるんですか!」
波瑠は詰問口調になってしまったことを後悔した。自分がまったく冷静でないことの自覚が遅れてやっと追いついてくる。だが、島田ははじめて足を止め、階上から振り返った。
「先生ね、あの女に恨みなどありませんよ。別に命まで奪おうというわけじゃない。ただ、あの女が検察官だからこそ、もっとも重い罰を受けるべきだと考えているだけだ」
「彼女は自分の過ちを重く受けとめて、日々反省して過ごしています。どうか、一度でも彼女に会っていただけないでしょうか」
波瑠は再び腰を九十度に折った。島田の嘲笑が降りかかってくる。
「口から出任せも平気でやる――ま、メシの種と思えばこそか」
島田の言葉は的を射ていた。
口から出任せ──よく使ってきた手だ。
島田の言う通り、示談交渉は訴訟を扱う弁護士にとっては通常業務の一つといえる。嘘でも演技でもいいから加害者である依頼人に頭を下げさせて、被害者に示談に応じてもらうのだ。
示談を成立させることによって、民事裁判であれば厳しい判決を待たずに和解が勧告される可能性が高まるし、刑事裁判であれば裁判官の心証が良くなって処分の軽い判決が下されることもある。そうなれば、たとえ逆転勝利できなくても弁護士としては良い仕事をしたことになる。
一方で、被害者への対応も忘れてはならない。「金などが欲しいわけじゃない」という言葉を被害者の口から聞くことがあるが、そんな相手に金を受け取るよう説得することも弁護士が振るう手腕の一つだ。示談金は卑しいものではない、これには加害者の誠心誠意の謝罪の意思が込められているのだと言いながら、暗に、形なく消えてしまう謝罪の意思や言葉よりも、形として残る金を受け取った方が満足するものだとそれとなく気付かせてやるのだ。
階段を上がっていく様子から、島田保の足の小指は十分癒えて後遺症もないようだった。彼は示談金はもちろん、これまでかかった治療費をはじめ、慰謝料を含めた損害賠償金などの一切の金をいまだに受け取っていない。こんなことで国の金を使いたくないと、健康保険すら使わず全額自腹で治療している。
島田保は築三十年超のアパートに孤独に住まう年金受給者である。干涸らびたような薬指にかつて指輪が嵌まっていたと思しき肉のくびれがあったのは、そう遠くない過去に妻と離婚したか、あるいは彼の齢からみるに死別したかのどちらかだろう。
島田は一審の公判でこう答えている。
「被告人は私が受けた痛みを真に理解しているとは到底思えません。反省の色がまったくない。それどころか、私が嘘をつき、被告人を貶めたと罪人扱いする始末です。私は被告人に厳罰が与えられることを望みます」
三百万円を目の前に積まれ、それを毅然と蹴った上での言葉だ。それがあの老人なりの正義なのだろう。しかし、島田に何の得があるのだろうか。本当に金は欲しくないのか。三百万円では不足だというのか。とはいえ、轢き逃げをしておいて金を積んで許せというのが正義なはずがない。島田の方がどれだけ真っ当なことか――。
波瑠は慌ててその考えを思考から締めだした。響子を信じるなら、この事故は罠なのだ。島田も榎木も罠の仕掛け人であるはずなのだ。
ただ、いまだに、そんな策謀はほんの片鱗も見えてこない。島田も榎木も、彼らはただ、原付とクラクションのことを供述しなかっただけだ。その事実を二人に突きつけたところでいくらでも言い逃れはできる。すんなり追認するだけかもしれない。そして、それで響子が有利になることはないのだ。
しかし、彼らの動機はいったい何なのか。何が目的なのか。それほどの敵意を向けられる原因が響子にあるというのだろうか。
(殺意に満ちた目で睨まれる経験なんてないでしょうね)
その殺意は果たしてお門違いだと言い切れるのか。彼女は、罰されるべき罪を本当に背負い込んでいるのではないだろうか。
波瑠が連想するのは、「目には目を、歯には歯を」という同害報復である。これは決して「やられたらやり返せ」という意味ではなく、罪人には受けた被害以上の罰を与えないという、過剰な罰を抑制するためのハンムラビ法典由来の法原理である。
この罠は復讐にしては実に抑制的だと波瑠は感じた。島田も言っていた――「命まで奪おうというわけじゃない」。
目には目を、歯には歯を――冤罪には冤罪を。そして交通事故冤罪には交通事故冤罪を。
響子は冤罪を――それも交通事故冤罪を生みだしたことがあるのではないだろうか。
厳格に定められた法の下ではあるが、裁判が、人が人を裁くという制度である以上、冤罪はつねに起こりうるものだ。交通事故裁判に限ってはその性質上、より起こりやすいともいえる。何がそういう性質を持たせるのかというと、それはやはり道路交通法の至る所に塗り込められている弱者救済の理念に他ならないだろう。
動いている自動車が自転車や歩行者と接触し、相手を負傷させてしまったとする。どちらに非があるにせよ、警察の現場検証では自動車の運転者に対する目は厳しくなる。なぜなら、自動車には周囲の交通に対する「注意義務」があるからだ。自動車より軽く、小さく、ひ弱な自転車や歩行者などに対してはとくに道路交通法の随所にそれが明記されている。
しかしその逆に、歩行者や自転車などのいわゆる交通弱者が、相対的に強者である自動車に対して直接的に負う義務はない。交通弱者の側によほどの悪質な道交法違反がない限り、ある交通事故が刑事訴訟にまで発展した場合にその裁判での被告人となるのは、真に罪の有るか無しかに関わらず、ほとんど常に交通強者──自動車の運転者の方なのである。
大谷らの調査によれば、島田保は四年前までは東京都内で勤続二十五年のタクシー乗務員だった。榎木忠広はコンビニの配送ドライバーをしている。運転が生業。それが二人の共通点。といってもただそれだけで、どちらも事故で裁判沙汰になった記録はない。響子との接点も当然ない。だが、響子に復讐するという意志を一つにするに至った、二人に通ずるきっかけが必ずどこかにあるはずなのだ。
波瑠は大谷の調査報告を読み返してみた。島田保は三年弱前に宇都宮に移り住んでいる。正確には二年と十一ヶ月前。一方で榎木忠広は、二年と五ヶ月前に彼の本籍地がある神奈川県厚木市内の運送会社から同会社の支店のある宇都宮に移籍している。
響子が宇都宮地検勤務となったのはこの春でちょうど三年。つまり、響子が転勤した翌月に島田が、ほぼ半年後に榎木が宇都宮に移り住んだわけだ。
(復讐を果たす、それだけのために? まさか!)
そのとき波瑠はふと思い出した。
波瑠と響子が司法試験の勉強に明け暮れていた頃、二人の勉強部屋に顔を出して夏樹が言った言葉がある。
犯罪は軽重あれど、その行為や行動自体はもちろん、その行動を起こさせた心理状態も常軌を逸していると考えるべき。つまり、常人の常識という定規では犯罪は測り得ないのだ。犯罪と犯罪者を本当に理解したければ、自分が犯罪者になってみることだ、と。
そのとき響子は神妙に耳を傾けていたが、波瑠は笑い飛ばしたものである。だが、おぞましいとさえいえるその考え方は根深く波瑠の脳裏に残っていた。
島田と榎木は、響子を罠に陥れるためだけに彼女の転勤先にまで追っていったのだろうか。
いや、もう一人いる。原付バイクの男もだ。
島田、榎木、響子の三者を結びつけたのは、実はこの原付バイクの男なのかもしれない。しかし、それが誰かを島田と榎木が素直に話すわけがない。
となると、攻めどころはやはり響子だけだ。
はじめからわかっていたことだが、真相に繋がる道は響子からはじまっている。ただ、誰が響子を問い質すことができるのか――。
(喰らいつけ! ほら!)
昂揚してキレた響子のインカム越しの声が脳裏に甦り、波瑠の頭蓋骨にがんがんと響きだした。
(喰らいついてこい! あたしのケツに喰らいつけってんだ!)
その声と排気音と排気ガスの臭い、GSX-Rのテールランプの明滅の記憶がごた混ぜになって脳の芯を責め立ててくる。波瑠はその騒々しさに頭が破裂しそうだった。
9
昨夜と同じで、花散らしの風が冬の名残を底攫っている。ガラスをはめた引き戸が震えていた。
平屋建ての家に灯は点っていなかった。小さな前庭には大型バイクの太い二本の轍だけがあった。響子は帰っていなかった。
響子の母、舞子の自転車もなかった。波瑠はふと思い立って、舞子が当時から勤めていたスーパーへ向かった。
思った通り、総菜売り場には値引きシールを貼っている舞子の姿があった。少し白髪が増えていた。記憶に残っている舞子の年齢に八という数字を指折り足してみる。最後の指を折ったとき、不意に波瑠は胸が締め付けられた。それはちょうど、母が亡くなったときの歳と同じだった。
「おばさま」
波瑠が声をかけると、懐かしい顔がぱっと跳ね上がった。驚き、そして輝いた顔に波瑠は胸の内がくすぐったくなった。
「ハルちゃん、あらまあ──」
「ご無沙汰してます」
波瑠は下唇を噛んだ。舞子が先に目を潤ませてそうしたからだ。
「あの子、まだ帰ってなかった?」
「ええ──でもあたし、おばさまの顔を見たくって」
波瑠のいまこの瞬間の本心に、舞子は顔中に笑みを広げた。
「ね、今晩、三人で水炊きでもつっつこうよ、ね!」
波瑠は大きくうなずいた。
波瑠にとって舞子は「元気な方の母親」だった。
車を先導するようにしてきびきびとペダルを漕ぐ後ろ姿は変わっていなかった。波瑠はそんな舞子の背中が好きでたまらなかった。
波瑠は自分の母親にもそんな後ろ姿を見せてもらいたかった。忙しく立ち働く姿や、自転車で疾走する姿、娘の親友を迎えて台所で嬉々としてご馳走を支度する後ろ姿をだ。
しかしそれは叶わぬ願いだった。看病の際に母親の背中を拭いてやることはあったが、それは病魔に負け続けた背中に過ぎなかった。母はもはや母以上の存在にはなれないのだということを思い知らされてからは、この小さな家を訪れる理由に別のものが付け加わった。それは「元気な方の母親」に会いたいがためというものだった。
ただそれが、母に対してあまりな仕打ちだということに気付いたのは、母が他界したあとだった。
家に灯を入れるなり、舞子は一息入れる間もなく台所に立った。
波瑠は舞子に断って響子の部屋に入った。
部屋はレザーオイルの甘い匂いで満たされていた。壁に掛かったツナギは膝のパッドが擦り切れている以外、手入れは万全だった。壁に貼られたポスターも昔のままだ。オレンジ色がまぶしいレプソルカラーのNSR500、それに跨がりコーナリングをしているライダー──九八年、ミック・ドゥーハン。彼がレースから引退した年に波瑠は初めてバイクに乗った。響子はこのチャンピオンが最多勝記録を樹立した年にはもう誰よりも速く峠を駆け抜けていた。
使い込まれた子供用の学習机や書棚にはオートバイ雑誌やロードレースの写真集でぎっしりだった。勉強の合間に読み漁り、グラビアを眺め回し、会話を弾ませた時間を波瑠はまざまざと思い出した。
洋服ダンスの上に見覚えのある写真があった。ツーリングのときのだ。埃まみれの化粧っ気のない二人。ヘルメットのせいでぺったりと額に張り付いた前髪、無邪気な笑顔をこぼれさせている。その笑顔の感覚が波瑠の頬に甦ってくる。
「もう、ホント困るわぁ!」コードレスホンを腹立たしげに握りしめた舞子が戸口にやってきて口を尖らせた。「この子、ゴハンいらないっていうの!」
波瑠は舞子の手から素早く電話機を受け取った。
「何か用?」響子は素っ気なく言った。
「聞きたいことがあるの。帰ってきて」
「あたしを尋問するつもり? 話すことはないわ」
「あなたが担当した交通事故裁判──その冤罪事件のことよ」
「冤罪なんて、犯罪者どもの戯れ言よ」
響子は声を落とした。だが波瑠は一歩も引く気はなかった。
「あなただけが正しいとでもいうの?」
はっと気付くと舞子がおろおろしていた。波瑠はいたたまれなくなって言葉を継ぐことができなかった。その間に通話は切れていた。
鍋いっぱいの水炊きは、やはり二人だけで食べるには多すぎた。上気した舞子の頬にはいつもの微笑みが戻っていたが、雑炊の焦げをお玉でかきとっているうちに思い出したように溜息をついた。
「あの子、どこか突っ張ったところがあるのよね」
「キョウちゃんはどっちに似たの? おばさま似でしょう?」
「そう見える? ま、どっちかっていうと」舞子は渋々といった様子で認めた。「それでもやっぱり、あたしとお父さんを足して――ケッサクなのは、二で割るんじゃなくて二を掛けるってところ」
波瑠と舞子とは顔を見合わせて笑った。
「でも、人さまに恨まれてるなんてねぇ」
「おばさま、まだそうときまったわけじゃ――」
「普通の交通事故なら、あの子、あれだけ乗り物好きだから覚悟してるところがあるんだけど、でも轢き逃げだなんて――だってあの子が一番憎んでる罪なのに――」
「憎んでる?」波瑠は不思議に思って訊いた。
「あの子のお父さんは、当て逃げされて死んでるの」舞子は不意に言葉を切って、取り繕うように続けた。「ほんとはよくわからないの。あの子がそう言ってるだけで――公式には単独事故」
響子の父親がバイク事故で亡くなったことは聞いたことがあったが、それが当て逃げだとは初耳だった。それに「公式には単独事故」とはどういうことなのか。
舞子は急に両手で顔を覆って肩を震わせはじめた。
「あの子のこと、誰も信じてくれなくて――でも、被告人席であんなに胸張って頑張ってて――それを見てるのがつらくて――」
はじめて目の当たりにした「もう一人の母」の慟哭がおさまるまで、波瑠は彼女の背中をさすり続けた。
10
剥き出しの尻や背中の汗が次第に冷えていくのを感じながら、ベッドに置き去りにされた響子はシャワールームの水はねの音を痺れた脳が覚めゆく中で聞いていた。ふと胸の辺りのひりつく痛みに気付き、重だるい体に鞭打って寝返りを打った。乳房についた歯形が内出血を起こし、血も滲んでいる。肌にまとわりついた男の体臭が鼻をつき、思わず顔をしかめた。だが、いまはまだシャワーで洗い流しにいく気にはなれない。浴びるなら一人になってからでいい。
携帯電話が鳴った。着信音で母とわかる。響子はシーツを頭からかぶって赤子のように身を丸めた。これで着信音も水音も少し遠ざかる。布一枚でもいくらかは己の惨めさを覆い隠してくれそうなのがありがたかった。
音が一切止んで、ふと思い立ってシーツから顔を出した。
脱ぎ散らかした衣服のそばにブランドものの紙バッグが転がっている。響子はシーツから足を伸ばし、爪先でひっかけて引き寄せた。中には香水の箱があった。リボンは下手くそに結わえ直してある。箱を開けると洒落たデザインの黒い瓶があり、当然のことながら液体が満たされていた。響子はそれを宙に一吹きした。甘い香りだが、胸がムカムカしてくる。響子はあらためて、これを受け取ったときの冷めた感情を思い出していた。
レインボーブリッジの頂点にさしかかる頃、車高を極端に低くしたダークパープルのシルビアが響子を瞬時に追い抜いていった。数瞬の間をおいてさらに三台、同類のスポーツカーが轟音を連ねて続いていく。
時代遅れのルーレット族の後ろ姿を見つめていると、自分もかつてはローリング族と呼ばれる集団の一員だった頃を思い出す。その後、響子は司法試験合格を機に、法治国家の狭い枠に収まった。
生半可にアウトローを気取っているだけの者はみないつかはそうなる。ほとんどの人間が法の束縛をまるで温い布団のように感じるようになり、心地よくなってくるものなのだ。
あの連中などすでにそうだ。新木場から辰巳、有明──四車線の広大な道路を縫うように駆け抜けて突っ張ってみせてはいるが、出している速度は制限速度プラス三十キロ程度だ。赤切符の速度違反も、一瞬ブレーキを踏めば青切符で済むかあるいは摘発対象とはならない速度まで落とすことができる。つまり、彼らは法を破るが、法に怯えてもいるのだ。確信的犯罪者ではない。
燃料計がレッドゾーンにさしかかっていた。ひと連なりのストップランプを横目に見送ると、響子は浜崎橋ジャンクションを直進し、環状線を抜け、長い六号線をひた走る。
総じて派手な夜景を彩る、しかし微塵も派手さのない人々の生活の灯火に、普段のように思いを馳せる余裕をいまは持てず、気付けばもう荒川を渡り切っていた。小菅ランプのスロープに飛びこみ、地上へと下る。胃のあたりが急に倍の重力を感じはじめる。
どこまでも平坦な住宅街を表通りからの惰性だけでタイヤを転がし、止まりかけると降りて重い車体を押して歩いた。貧相な平屋建ての群れが見えてくる。その中の自分の家の、ほんの小さな前庭にバイクを押し入れた。家に明かりはなかったが、響子が玄関前に立つとサッシが震えだした。暗い玄関の内側で錠を開けてくれている。
母は赤い目をしていた。響子は先手を打って言った。
「今日は疲れた。もう寝るね」
舞子は不満そうな顔をしたが、すぐに寝床に戻っていった。
自分の部屋に入ると、響子はバックパックから香水の瓶を取り出して蛍光灯にかざしてみた。黒いガラスを透かして液面が揺れ、波立ち、瓶の内壁にぶつかって泡が立っては弾けて消えていく。
それを見つめる響子の心中も、その液体のように無色透明だった。
そうか、と響子は悟った気がした。自分はもうすでに境界線に立っているのだ。迷い、自問し、葛藤している側でも、それらを振り切った真性の絶対悪のみを宿す向こう側でもない。響子はもう一度香水の瓶の中身を透かし見た。
きれいだった――いまはまだそう思える。だがそれもすぐにちがって見えてくるのだろう。
響子はリュックに工具とフラッシュライトを詰め込み、家を飛び出した。今度は貧しい住宅街に爆音が轟くのを厭うこともなかった。
11
「おっしゃることはわかります。ですが、私の話も聞いてください」
声からも小山検事が困り果てているのがわかる。だが波瑠は憤りと焦りを隠せなかった。昨夜、小山は「救う道があるのなら協力は惜しまない」と言い切ってくれた。それが今朝にはもう反故にされてしまうとは考えてもみなかったのだ。
「交通事故事件に限っていえば、鳴海検事が赴任されてからのこの一年二ヶ月で担当されたのは十数件ですが、そういったもののどれも否認事件や主張の対立するものではありません。槇村先生が期待されているような実は冤罪かもしれないなんてものは、ここには存在しないと考えていいでしょう」小山は断定的に言ったが、後に続く言葉はほとんど泣き言だった。「先輩は忠告を一つも聞き入れてくれない。あんな調子では、どうしたって起訴に踏み切らざるを得なかったんです」
しかし小山は一度は垣間見せた弱気を早々に引っ込めると、元の事務的な口調に戻って言った。
「やはりご本人の協力を得ることが一番の近道だと思います。担当した事件の事件番号や何やら、検事なら誰でも手元に控えがあるでしょうから──といっても先輩は嫌がるでしょうね」
だから助力を仰いでいるのだと、波瑠は言ってやりたかった。そんな気も知らず、小山は「ところで」と続けた。
「千葉地検の石黒検事をご存じですか。東京地検時代の鳴海さんの同僚だそうで、協力したいと名乗りを上げてくれました。連絡先をお教えしましょう」
石黒検事とは東京地裁の一階ロビーで落ち合うことになった。
波瑠はこれから会う相手の容姿を知らないし、向こうも波瑠のことを知らないはずだ。いまにもかかってくるかもしれない携帯電話を握りしめながら、スーツ姿の人混みを見るともなく眺めていた。どんな男なのだろうか。それに、その男は響子の何なのだろう。もうすでに石黒という男に会うことに波瑠は憂鬱になっていた。
「ハルちゃん!」
目を輝かせながら波瑠の名を呼んだその男は、入口でのセキュリティチェックを受ける数秒すらもどかしそうにしていた。波瑠はあっと声を上げそうになった。
キャンディレッドのAE86──その車のバケットシートから長身痩躯が颯爽と降り立つ姿がすぐに脳裏に甦った。
「久しぶり。元気そうだね」
石黒洋平は大きくさらっとした手で波瑠の手をさらい、きっちりと握手した。波瑠の憂鬱は一瞬で吹き飛んだ。
石黒は大学の先輩で、非公認の自動車サークルに所属していた。非公認というのは、公道である峠道で後輪を滑らせてカーブを高速で駆け抜ける、違法性の高いドリフト族の集団だからである。
(バイクに乗れない男なんて、全然興味ないから)
と言って響子は異性交遊自体にはまったく興味を抱かなかったが、それでも同類の親近感からか、彼らとは油臭いメカニカルな話題やテクニカルな話題は好んで交わしたし、さらには警察の取り締まり情報などを共有し、連絡し合ったりといった協力関係も築いたりしていた。波瑠はといえば、異性交遊に興味がないわけではなかったから、彼らに対して、とくに中でも女好きのする顔の石黒に対しては憧れを越えるか越えないかの境界で心惑わせた頃もあった。その境の向こうに間違っても転がり落ちていくことがなかったのは、誰よりも速い響子の背中の方にこそ強く惹かれていたからであり、そしてやはり、のちに翳り差す家庭の事情のためでもあった。
「ご無沙汰しています――」
そう言いながらも波瑠はまだ石黒が手を握っていることにどぎまぎしていた。石黒は「ああ、ごめん」とようやく手を離すと、頼もしさを感じないではいられない凛々しい顔で言った。
「積もる話は後にして、善は急げだよね」
石黒は波瑠を先導して斜向かいにある東京地方検察庁へと肩で風を切って向かっていった。波瑠は小走りして石黒の横に並んだ。
「急な頼み事で申し訳ありません」
「小山検事から大体のことは聞いてるよ。君の狙いは、僕が考えていたことと同じだ。響子は元被告人に恨まれ、復讐された。彼女はあのとおり手厳しい人だからね。だから僕は、とりあえずだけど、東京地検時代に響子が担当した事件の事件番号を手帳に控えてきてる。君の考えでは、交通事故事件だけに的を絞るんだったよね」
「全部把握してらっしゃるんですか」
「僕にはこちら側の伝がある。同期、先輩、後輩、上司──使えるものは何でも使おうよ」石黒はおもむろに振り返って話題を変えた。「君らはいつも一緒だったよねぇ。本当の姉妹あるいは本当の恋人みたいだった。失礼でなければ訊くけど――そうだったの?」
「そんな──ちがいます」波瑠は即座に否定した。
「それにしても、入り込む隙がなかったんだよなぁ――でも、なんで別れたんだい? 響子、どうしても話してくれないんだよ」
そのとき波瑠はやっと気付いた。彼は「響子」と名前で呼ぶのだ。
「別れるだなんてそんな――お互い忙しくなっただけです」
「そういうところ、女の子ってあっさりしてるんだよねぇ」
そう言いながら、石黒は地検の玄関ドアをまるで自分の家のドアのように開け放ち、波瑠を招き入れた。
刑事訴訟の公判記録は地検の記録部が保管している。十五階の記録閲覧室へと上るエレベーターの中で石黒は難しい顔をした。
「冤罪の可能性がある事件を掘り起こしたい──君は検察官を相手に相当無茶なことを頼もうとしているんだよ」
「重々承知しています。事件番号がわかればまだいいんですけど、担当検事の名前だけでは正規の閲覧請求すら無理なので──」
石黒は手帳を取り出すとぱらぱらとページをめくってみせた。そこには事件番号らしき文字を先頭にした数字の羅列がちらと見えた。番号の後に書かれているのは担当裁判官に被告人、弁護人の氏名だろうか。それらの情報こそ波瑠が欲しかったものだった。それらがあればここ検察庁記録部で裁判書──判決書をはじめとする裁判内容が記載された文書の閲覧申請ができる。
「響子がここ東京にいたのは最初の一年と、広島地検から戻ってきてからの二年。合計三年間。裁判書の保管期間は十五年だから、東京地検時代のものはここにすべてある」
「本当に助かります」
波瑠は心からの礼を言った。すると彼は照れ笑いを浮かべた。意外とうぶな面があるのだなと波瑠は胸の内でくすりと笑った。
「そうだ、君、無罪のものは必要ないんだろう? 無罪なら恨みを買うはずもないからね」
「無罪になった裁判があったんですか」
波瑠が驚くと、彼はにやりとして即答した。
「冗談だよ。そんなものはないね」
12
雑居ビルを出ると、石黒の車まで波瑠たちは無言で歩いていった。
車に乗り込むなり波瑠は一枚のリストを取り出し、忸怩たる思いで棒線を一本書き加えた。事件番号と罪名、被告人の氏名、弁護人の氏名と所在地のみを簡単に書き出したもので、これですべて棒線が引かれて消されてしまった。石黒が溜息まじりに言った。
「まあ、被告人らが実際に抱いた印象とはちがうかもしれないしさ」
「当たらずとも遠からず、です。やっぱり響子が恨まれる理由なんてないんです」
波瑠は鞄から紙挟みを一冊取り出し、その表紙にも「×」印を殴り書きした。中身は判決書などの裁判書の写しである。それら写しは石黒の協力があったからこそ個人情報の伏せ字なしでの謄本の閲覧を許された。波瑠たちは昨日の午後いっぱいかけて謄写室ですべてをコピーし、そして今朝から聞き取り調査をはじめたのである。
リストに挙げたのは十三件。捜査、公判の区別なく、響子が過去東京地検時代の計三年間に携わった交通事故裁判の裁判書の中から、波瑠が挙げた条件によって選別されたものである。その条件とは、交通事故事件であることと否認事件であることの二つである。
交通事故事件に的を絞ったのは、響子は「命までは奪われていない」という事実と、偽装轢き逃げという罠そのものに復讐者の交通事故に対するこだわりが感じられるためである。目には目を、冤罪には冤罪を――そして、交通事故冤罪には交通事故冤罪を。
否認事件に限った理由は、響子が捜査部で担当した事件と公判部で担当した事件とでは当然異なってくる。
まず、捜査を担当した場合を考えてみると、被疑者が罪を認めているときは恨みを買う理由はない。検察官は淡々と起訴手続をするだけだからだ。問題となるのは、被疑者が当初は無実を主張しながらも、検察官の取調の中で一転して罪を認めた場合だ。そのとき、被疑者は本当に罪を認めたのか、あるいは執拗で恫喝的な自白の強要があったのか。前者であれば問題はない。後者のような泣き寝入りによる「隠れ冤罪」の場合は、被疑者はのちのち担当検事に恨みを抱くようになるかもしれない。ただ、波瑠がいま得られる情報は裁判書の判決文だけだ。それだけでは被疑者の抵抗の証を知る手立てがなかった。そのため、とりあえずはこうした限定的なケースは考慮しないことにした。
公判部で担当した事件の場合では、被告人が罪状認否で罪を認めている場合は、検察官に対して復讐心を抱くというのは合理的とはいえない。検察官は求刑するだけで、最終的に量刑を決めるのは裁判官の役割だからだ。
先の限定的なケースもあるにはあるが、いずれの場合でも否認事件以外のものは除外した。
ここで波瑠が悩んだのは、否認事件で有罪とはなったが処分がごくごく軽い場合である。
有罪判決とはいえたかだか数万円から十数万円程度の罰金、科料の軽い罰のために、あれほど綿密な復讐計画を企ててまで一人の検事を罠にかける意義があるのだろうか、ということである。本当は無実なのに懲役刑や禁錮刑など、理不尽な罰を強いられてはじめて執念深い復讐を遂げようとするものではないだろうか。
検挙されたときのリスクの問題もある。島田や榎木のような協力者には虚偽告訴罪や偽証罪などが適用されるだろうし、金銭を受け取るようなことがあれば詐欺罪にも抵触する。刑法第一七二条、虚偽告訴罪は三月以上十年以下の懲役刑に処されるし、偽証罪も詐欺罪も処される刑はほぼ同様である。彼らを裏で糸を引く黒幕がいるならば、その人物は教唆罪に問われることになる。少額の罰金などのために、ここまで大きなリスクを背負うだろうか。
こういった理由から、否認事件で有罪判決が下されたが処分の軽いケースは有望でないとして、ひとまずリストの下位に回した。
調査方針として波瑠たちはまず、それぞれの被告人の弁護人から話を聞くことにした。被告人がその裁判に対してどのような思いで臨んでいたのかといった感触をつかむためである。
今日一日かけて訊ね回った有望な上位九件の裁判に携わった弁護士たちは、守秘義務を盾に依頼人のことを話したがらなかった。しかし、現職検事である石黒までが身分を明かし、鳴海響子の冤罪事件に関する調査だと告げるといくらか態度は軟化し、依頼人の鳴海響子に対する印象はどうだったかくらいは聞くことができた。しかし結局は全滅だった。
この九件に限って言えば、誰も検察官鳴海響子に恨みを抱いていそうな者はいなかったということである。彼らが終始恨み続けたのは、一様に、最初に嘘をついた自称「被害者」たちに対してのみだった。弁護人たち自身の鳴海響子への印象も、検察官として淡々と職務を全うしている、というものでとりわけ悪いものではなかった。
「まだ、あと五件残ってますから」
「でもあとは軽い処分の連中なんだよねぇ」石黒がやや飽き飽きといった調子で言った。「冤罪の恨みとかそんなんじゃなく、実はたんに当たり屋の類だったのかも。やつらは響子がもっと示談金を積むのを待っているだけかもしれない」
そんな言葉を聞くうちに、波瑠は自分がまちがってるのではと思いはじめ、今日一日無駄に引きずり回してしまった石黒に申し訳なくなってきた。
「今日はありがとうございました。私、事務所に戻ってもう一度検討し直してみます」
「もちろん、その再検討とやらに僕も付き合わせてくれるよね?」
「でも、これ以上ご迷惑は――」
「僕には早く帰る理由はないからね」
石黒はさらりと言って、シルバーのBMWを発進させた。
波瑠が事務所に帰ってくるのを待っていたかのように、机の電話が鳴り出した。前にもかかってきた匿名の男からだった。
「進展具合を聞かせてくれないか」
くぐもった声は疲れ切っていて、まるで覇気が無かった。波瑠は石黒にうなずいてみせた。石黒はすぐに反応し、さっと窓辺に走って通りを見渡した。だが、彼は首を振った。波瑠は電話口に努めて事務的に答えた。
「お答えする義理はあるのでしょうか? あなたが何を知って――」
「クラクションは鳴ったかね?」
波瑠は息をのんだ。男の笑ったような息遣いが聞こえた。
「優秀、優秀。クラクションを探し当てたか――では、そのバイクのことで、何かわかったことはあったかね」
波瑠が返答に詰まると、男は呻き声をあげた。波瑠はこの数日のことを話した。調査方針がまちがっていたかもしれないことも。その泣き言には暗にもっと有益な情報を与えてくれという意味を込めたつもりだった。
話し終えると、匿名の男は苛々しながら口を開いた。
「君はいまさっき何と言った? 『目には目を、交通事故冤罪には交通事故冤罪を』と言ったじゃないか! 罰金? 軽い処分? それでも冤罪は冤罪じゃないのかね?」
「たかが罰金でも? 復讐の動機としては弱すぎますし、リスクが大きすぎる。自分の主張が通らなかったから? 納得がいかなかったから? たったそれだけのために人生をどぶに捨てるの?」
「『たかが』だの『たったそれだけ』と言ってるようでは何もわからんぞ!」
「それじゃ、もっと何か役に立つことを教えてください!」
波瑠は思わず声を荒げた。と、いつの間にか受話口に耳を寄せていた石黒がいきなり受話器をひったくってまくし立てた。
「あんた一体何者だ? 俺たちを撹乱させようとしてるのか? やつらの仲間か? 待て――くそ! ああ、切れちゃったよ」
石黒は申し訳なさそうに受話器を置いた。しかし彼はすぐに悪びれもせずにつっけんどんに言った。
「あんなのを信用しちゃダメだよ。協力する気ならとっくに犯人の名前を教えてくれてるはずだろう? やつは知っていて教えないんだ。そんなのが信用できるものか」
「でも――」
「やつも何にも知らないのさ。相手するだけ無駄だよ」
置いた受話器を見下ろす石黒の目はどこか虚ろで――しかし、口にした言葉は断定的だった。
13
ガレージからはハロゲンランプの明かりにくわえ、重く硬い工具同士が触れ合う音が漏れてきていた。ただ普段とちがっていたのは、夏樹のバイクをいじっていたのが響子だったことだ。彼女は工具を置き、汚れた手をウェスで拭きはじめた。
「ちょっと飲みに行かない?」響子はそう気安く声をかけてきた。「夏樹さん、ごめんなさいね。ちょっと女同士で話をしたいの。エンジンを積むときになったら手伝うから言ってちょうだいね」
二人は表通りでタクシーをつかまえ、駅前の暖簾をくぐった。
波瑠の口数が少なかったためか、響子が他愛ない話を喋り続けた。次第に彼女もビールのジョッキをあおる時間の方が多くなっていった。手つかずの刺身は乾き、艶を失っていった。
「石黒に何か言われた?」
響子の問いに波瑠は曖昧に首を振った。
小山検事から石黒のことを聞いたのだろう。あるいは石黒本人からかもしれない。波瑠は、本当は彼女を直接問い詰めたかった。過去に冤罪を生んだことを自覚しているのか。そして、石黒とはどういう関係なのかと。
「例のあたしの渾名」響子はやれやれといった調子で言った。「名付け親は誰だか知ってる?」
「名付け親? まさか――」
「そのまさかよ。あいつ、あたしを尻軽女に見てたのね。そりゃ、あなた以外に付き合いのあるのは男ばっかりだったけど」
「でも、キョウちゃんはそんなんじゃない」
「『チタンの女』。それがあたしを評して言ったあいつの言葉――でも、言い得て妙よね」
響子は少しもおもしろくなさそうに言うと、店員に空ジョッキを高々と差し上げた。お代わりが運ばれてくるなり口をつけ、何度目かに唇の泡を拭った響子はきっぱりと言った。
「ハル、もう手を引いて。おしまいにしましょう」
「やめないわ」波瑠はむきになって言った。「あなたはどこかで必ず冤罪事件を生みだしてるの。そこにあなた自身の冤罪事件の鍵がある。でなきゃ、冤罪でもって復讐される理由がない」
「どうしても認めさせたいわけね」
「皆無だとは言わせない。心当たりがあるなら教えて」
「話はもうおしまい」
響子は吐き捨てるように言った。それからの響子は、焼酎を生のままで黙々と、次々とグラスを空にしていくばかりだった。波瑠はただ、彼女が酔いつぶれるのを待つしかなかった。
タクシーから酔った響子を引っぱり出して肩に担ごうとしていると、玄関灯が点って舞子が飛び出してきた。
響子を二人がかりでどうにかベッドに寝かせると、舞子は言った。
「つくづく世話かけるねぇ、この子は――お茶いれるからゆっくりしてって」
響子はもう寝息を立てていた。ついさっきまで理不尽なこの世に対して言いたい放題、悪態を吐きまくっていたというのにだ。波瑠は、響子にしては珍しい薄手の女物のコートを脱がしてジーンズのベルトを緩めてやると、体のラインに張り付いた黒のニットはそのままに布団をかけてやった。髪が乱れて唇に巻き込んでいるのをそっと取りのぞいてやり、ついでにひと撫で指の櫛で髪を梳いてやった。化粧はまるでしていなかった。充血した唇も素のままだ。黒々とした眉は何も引いていない。おとがいから耳の下までの流麗な線に波瑠は吸い込まれそうになった。
チタンの女――カルくて、カタくて、お高い女。
チタンという高価な金属は鋼鉄よりも軽く、堅牢だ。その硬さゆえ加工しづらい。男たちは――石黒洋平は、響子という女をチタンのこの特性になぞらえて渾名をつけたのかもしれない。つまり、男好きの尻の軽い女に見えて、実はお高くとまってカタく、男の思い通りの女に決してならない、という意味を込めて。
それはたんなる揶揄などではなく、その実、手も足も出ない彼らの敗北宣言なのだろう。
だが、いま波瑠の前で寝息を立てる女は、生身の、人並みに柔らかな生き物だった。避けられない苦難に背を向け、酒の酔いに逃げ込む。波瑠はそんな響子がいじらしかった。
(もっと女の子らしくしてもいいのに)
それは響子に対して、かつて何度となく思ってきたことだった。
響子は細身だが身長は百七十センチを超え、重量二百キロ超のバイクを乗りこなすために鍛えた肩周りは競泳選手のように厚みがあり、腹筋背筋は体操選手のように強靱なバネが張り巡らされ、その体躯はいつだって男勝りのライディングテクニックを見せてくれる。適度な豊かさの胸を張ってしなやかに、しかし大股で歩くその足下はいつも頑丈なライダーズブーツ。身長百六十をやっと超えたところで胸も腰も華奢なだけの波瑠は、響子を羨望の眼差しで見上げて学生時代を送ってきた。常にその背を追いかけていたが、手の届かないものと認め、諦めていた。自分と同じ種類の女性には思えなくなっていたほどだ。
(あたしや他の子と変わらない、同じ女の子だったらいいのに。メイクして、ときたま香水なんかつけちゃってさ──)
そのとき波瑠は本棚に一目で高級なものとわかる黒い香水の瓶があることに気が付いて、急に寂しさを覚えた。香水はもう半分も残っていない。彼女は日常的に香水を身につけているということだ。
響子のコートを思わずぎゅっと抱きしめたとき、その膨らんだポケットに気が付いた。何気なく見ると、無造作に数冊の黒革の手帳が突っ込んであった。波瑠は無意識に手が伸びた。だが、すんでのところで手を引っ込めた。響子の寝息が止んでいた。
「こんなの――卑怯だと思わない?」
波瑠がそう言うと、響子はむくりと身を起こした。酔いつぶれてなどいなかったのだ。
「こんなわざとらしい一芝居打つことなんてない! あたしがこれ幸いとあなたの手帳を勝手に盗み見ると思った? これはどういうこと? あなたの本心はどこ? あたしに調べさせたいの? やめさせたいの? あなたに過ちがあるなら正々堂々認めなさいよ!」
舞子がびっくりして戸口に顔を出した。響子は淡々と言った。
「あんたとあたしじゃ、そもそも住む世界がちがうの」
波瑠は破けそうになるほどきつく唇を噛み、手帳を拾い集めて響子の手に無理矢理握らせた。
「あなたの手から、あたしに渡して」
だが、響子は何もない宙でその手を開いた。手帳はばらばらと彼女の足下に落ちた。開いたページにとある月のスケジュールが見えた。カナに続く数字の羅列――事件番号だ。しかし波瑠は手帳から目を背けた。響子は冷然と言った。
「気に入らないならあたしの前からいなくなって。昔みたいに──」
波瑠は響子を睨みつけ、舞子の脇を抜けて部屋を飛び出した。
家を飛び出て走り出すと、サンダルの足音が追いかけてきた。
「待って、ハルちゃん!」
波瑠は立ち止まった。舞子の胸の中で泣きたくなったからだった。だが、その胸には手帳の束が抱かれていた。舞子が涙を溢れさせる前に、波瑠は手帳を受け取った。
14
控訴申立書のひな形を前にして波瑠はすでに気が重くなっていた。問題は申立書ではなく、後に提出する控訴趣意書の方である。これには控訴理由を明記しなくてはならない。
無罪を主張するなら新証拠が必須だが、いまのところそんなものはない。量刑が不当だとして控訴審に臨もうにも、やはり示談交渉の実績や被害者の情状証言などが必要になってくる。だが、響子は示談する気はさらさらないようだし、万一その気があっても三百万円を蹴った島田保が応じるとは思えない。
申立書はものの数分で作り上げ、その勢いに乗じて趣意書にも取りかかってみたが、控訴理由にまでは手を付けられなかった。誰が語る言葉がこの欄を埋めてくれるのだろうか。真実とは何なのだろうか――ただ、いまはその端緒を手にしているのかもしれなかった。
波瑠は電話を待っていた。
響子の手帳はすでに精査し終わっている。会いたいと留守電に吹き込んできた石黒には、午後五時に事務所に来るように彼の留守電に言付けてある。時計はもうその午後五時にさしかかろうとしていた。電話より石黒の方が先に来てしまうかもしれない。
ドアベルがチリンと鳴った。
石黒洋平はドアのところで遠慮がちに立っていた。夏樹は給湯室へ行きがけに心配そうな目線を投げかけてきたが、波瑠は平常心で出迎えた。石黒に応接ソファをすすめると、自分は彼の向かいに座って手にしていた薄いファイルを広げた。
「昨日のことで謝りたかったんだ。ただ、あんなわけのわからない輩はやはり信用しては――」
「いいんです。それより――実は昨夜、響子から手帳を預かったんです」波瑠は淡々と言った。「手帳には、彼女がこれまで担当したすべての事件や公判の日時などが、簡単にですが記録されていました。取り組んだ事件の事件番号、その罪状、取調した被疑者、証言者の氏名、面会した弁護人の氏名もです。他にもあります」
波瑠のあまりの素っ気なさに石黒は面食らっているようだった。
「同僚の検察官の名前です。石黒さんの名前も何度か登場しています。事件を捜査担当から公判担当へと引き継ぐ際の打ち合わせということでしょうか。響子が捜査を担当した事件を公判担当の石黒さんが引き継いだり、またはその逆のパターンも」
「たしかにそういうこともあるよ――これは尋問かい?」
「交通事故事件に限っていえば三件ありました。どれも先日、私には知らされず、リストにすら挙げられなかったものです」
波瑠が含みを込めると、石黒はばつが悪そうにこめかみを掻いた。
「僕はその三件がどういう事件だったかを知っている。僕が捜査なり公判なりを担当したんだからね。どれもが弁護士を焚きつけて駄々こねれば無罪になるんじゃないかとでも考えてるような連中だった。有罪は動かない。だから省いたんだ」
「私の考えはちがいます。これらはあなたが『隠したかったもの』だと考えています」
石黒の目つきが変わったが、すぐに元の穏やかな眼差しに戻った。
「本当に申し訳ない。いますぐに、その三件を調べにかかろう――」
突然鳴りだした電話は、足を引きずりつつ給湯室から駆け戻ってきた夏樹が応答した。そして彼はすぐに波瑠に目配せした。波瑠は自分の机に飛んでいって受話器をつかんだ。受話口は無言だった。だが、波瑠は丁寧に話しかけた。
「もしもし、私です。いまから――」
「そんなやつを信用しちゃダメだ! そいつは――」
波瑠は「黙れ!」と有無を言わさぬ勢いで手の平で石黒を制した。石黒は呻いた。
「いまから三人の名前を挙げます」
波瑠は受話口から聞こえる息遣いに聞き耳を立て、一つ唾を飲み込んでから切り出した。
「本宮浩二――」
反応は無かった。波瑠は夏樹を見た。石黒の表情を凝視していた夏樹は首を振った。
「何を――ハルちゃん、君はまちがってる!」
石黒は頓狂な声を上げた。波瑠は続けた。
「藤本明――」
受話口は無反応。石黒は顔を引きつらせている。夏樹はまたも首を振った。波瑠は三人目の名前を口にした。
「佐倉照郎」
そのとき、石黒の尖った喉仏が盛り上がって、唾を飲み下した。夏樹はうなずいた。しかし、波瑠は焦れる思いで受話器を握りしめた。そのとき、電話の男は深々と溜息をつき、そして言った。
「それだ」
直後、通話は切れた。
石黒はさも残念そうに首を振ってうなだれていた。波瑠は石黒に三人目の名前をもう一度繰り返した。
「佐倉照郎――当然ご存じですよね」
「君はもう、よもやこんな僕に協力を求めはしないだろうね」
波瑠は無言をもって返答した。石黒は足早に事務所を出て行った。
第二章
1
「お父上のことは昔から存じ上げてるよ。裁判所にあのピカピカのオートバイで乗り付けてね。私も若い頃は憧れたものだった。しかしまあ、あのオートバイは――とにかくものすごい音だったねぇ」
持田泰男の愛想笑いは長くは保たなかった。
昔の記憶を掘り起こして語る慇懃な言葉とは裏腹に、ファイルキャビネットを無造作に開け閉めし――その乱暴さの尺度足りうる、なにかしらの会合かサークル活動かの集合写真が入った十を超える額縁が、キャビネットの上で五つほどバタンと倒れた――、しかし引き出しの中身を漁る段になって急に緩慢になる態度からは、波瑠の来訪を煙たがっている雰囲気があからさまに滲み出ていた。
持田の弁護士事務所は新宿通りから路地一本南側に入った、野良猫の小便臭い雑居ビルの二階にあった。
「個人情報の部分は黒く塗り潰して頂いて構いませんので」
持田の背にそう声をかけると、持田は振り返って老眼鏡を下げ、波瑠をじろりと見た。「それが面倒なのだ」とその目が言っている。
「こう考えてみないかね。槇村先生は何が何でも佐倉照郎さんに会いに行くつもりでいる。となると、私がいまから小一時間費やしてコピーしたすべての裁判資料に、さらに小一時間費やして黒いマーカーで塗り潰すことにはとても意味があるとは思えない。だったら直接彼に会って裁判記録を見せてもらったらどうだろう? 佐倉さんには全書類のコピーを渡してある。私が仲介してあげてもいい」
波瑠のほんの数秒の思案の間も待てない様子で、彼はなおも駄々っ子のように愚痴を連ねた。
「私が自分の仕事をほっぽり出して半日潰して慎重に慎重を期して書類を黒く塗りたくるのを、先生はそこでぼうっと待っていられるかね? どうせ黒塗りしたって、その下に何が書いてあるかは槇村先生はほとんどわかっているというのに、私がわざわざ──」
「わかりました。では、先生のご提案どおりにお願いします」
途端に老眼鏡の上縁越しの目が細められると、持田はキャビネットを勢いよく閉じ、晴れ晴れとした表情をした。
「ではさっそく、連絡を取ってあげよう」
苦い過去を掘り返されたくない佐倉照郎の抵抗も、最終的には持田のくどくどと言いくるめようとする強引さによって退けられたようだ。持田は電話を切ると、冷めた茶をうまそうに飲み干した。
「やはり佐倉さんは冤罪でしょうか」
波瑠が訊ねると、彼は煙草に火をつけながら不機嫌そうに言った。
「そんなこと、私たちにはどうでもいいんじゃないかね」
「どういう意味ですか」
波瑠は驚いて聞き返した。持田は煙草をふかしながら語り出した。
「起訴前、被疑者が罪を犯したかどうかを判断するのは捜査機関だ。警察であり、検察だ。弁護士じゃない。私らが無実だと主張したからって、向こうさんが見解をコロリと変えるはずがない。向こうさんがすべての証拠を握っていて、向こうさんだけが向こうさんなりの検証をすることができる。法廷で採用される証拠も向こうさんが出すものだけで、都合の悪いものは出してこない。佐倉さんの裁判も例に漏れず、でしたな」
「佐倉さんは警察や――検事にどんな印象を抱いていましたか」
「印象?」持田は怪訝な顔をした。「まあ、警察のずさんさにはご立腹だったねぇ。それに比べたら、検事は話を聞いてくれると。だから彼、起訴までの半年、一生懸命自分の無実を訴えていたよ」
「半年――起訴まで半年もかかったんですか?」
「あんまりかかるものだから、不起訴になるかなと期待してたんだがね。その半年間ずっと、佐倉さんたちは自ら検証実験したり――」
「『たち』とおっしゃいますと?」
「ああ、佐倉さんの息子さんがね。いっぱしの事故鑑定人のごとく事故鑑定書を作ったんだよ」彼は口元をへの字に歪めた。「まあそうはいっても所詮は素人鑑定。無駄なあがきでしたねぇ。果たして誰があの事故のことを本当に一から十まで理解できたものかね」
そのとき、波瑠は持田の言葉の本当の意味がわかった気がした。
「失礼を承知でお訊ねしますが――持田先生はその事故を、一から十までご理解されていましたか」
「──当然だろう、君」
数瞬後、持田は目を吊り上げて波瑠を「君」呼ばわりした。
2
瓦葺の木造二階建て、ベージュ色のモルタル壁は煤煙を吹き付けたかのように黒ずみ、這い上る蔦もまた煤けて見える。錆止め塗料が塗りたくられた鉄階段はところどころ腐っていて、穴が開いている段は跨ぎ越した方がよさそうだった。目当ての部屋のドアに古めかしい呼び鈴があった。キン、コンと鳴った。
「ああ、ちょっと待ってね」
男の声が返ってきたが、しばらく待たされた。その間に、ふとドアの脇の窓枠にぽつんと置いてある傷だらけの白いミニカーに目が留まった。このアパートに住む子供のものだろうか。クラウンロイヤルサルーンとは、子供のものにしては渋い選択だと波瑠は思った。
「どうもどうも」
ようやくドアが開き、初老の小柄な男が顔を出した。ショルダーバッグを痩せた肩にひっかけ、波瑠の肩越しに階下の砂利敷きの駐車場を見下ろした。
「あのバイクはひょっとして先生の?」佐倉はしまったといった顔をした。「困ったなぁ。ちょっともう時間もないし――先生の車で近くの駅まで送ってもらうか、私の車で先生を駅まで送り届けるかして、その間に裁判のことをお話しようかと考えていたんですがね。バイクとなると――さて、どうしたものか」
「お話ももちろん拝聴したいのですが――」
「裁判資料でしょ。アレ、実は手元にないんです。全部息子のところ」佐倉は腕時計をちらと見た。「また後日ということにしますか」
「それじゃ途中までご一緒させていただけますか。お話だけでも――バイクはまた取りに戻りますので」
「それで良いのなら――では参りましょう」彼は嬉しそうに言った。
ジムニーの排気音が車中に轟く道中、佐倉照郎は終始機嫌がよかった。興が乗ったのか、彼は流れる景色をいちいち指さしては春の色彩について説明してくれる。とても楽しそうにだ。
波瑠は拍子抜けした。島田保のような取っつきにくい老人を想像していたのだ。さりげなく佐倉の左手を見ると、その薬指にも島田と同じような、長年指輪が食い込んでいた肉のくびれがあった。彼もまた伴侶と最近別れた孤独な老人なのだった。
他にも波瑠は、裁判書で知り得た範囲で佐倉照郎のことを知っていた。彼もまたかつてはタクシー運転手だったこと、一審の有罪判決で十五万円の罰金が課されたこと、そして一審、控訴審を経て、上告が棄却されるまで――最後まで裁判を闘ったことである。
「ああ、ええと──裁判のことでしたね」
佐倉は詳しいことは資料を読んでくれと前置いて、事故の顛末を語り出した。淡々と感情も挟まず語る様子は、まるで事故も裁判も他人事であるかのようだった。その後、はじめて自分の心情を吐露する段になっても、その「他人事」感は変わらなかった。
「十中八九、勝ち目はないと、いまなら一目瞭然なんですがね」佐倉ははにかんだ。「よっぽどまわりが見えていなかったんでしょう」
「冤罪だというお考えはいまでも変わりありませんか?」
「あれからもう五年も経ちます――運がなかったなぁと、いまではその程度です。悔しい思いは時間が洗い流してくれました」
そう言って佐倉は窓の景色に目を移した。さっきほどには興味を抱いていないようだった。
「ところで、先生はオートバイに乗られるんでしたよね」
「ええ」
「では、オートバイのことはお詳しいわけだ。専門はもちろん法律でしょうけど、理系の分野は苦手ですか? やはり文系のお方でしょうか。数学や物理──得意ですか?」
思いもよらない質問だった。弁護士だから世間一般的には文系だが、波瑠は高校レベルの数学や物理学でとくに悩んだことはなかった。バイクのセッティングやライディングテクニックでは、多少は物理学の運動法則の基本知識は必要だ。とはいえ、響子とはちがって、メカの設計者や技術者が必要とされるレベルの知識となると波瑠は完全にお手上げだ。
「ある程度なら──たぶん」
自信のない口調で答えてから、波瑠はしまったと思った。自分はいま値踏みされていたにちがいなかった。しかし、満点とは言えない回答でも、佐倉は満足そうにうんうんとうなずいた。
「手土産の一つも持たせられないのもなんですから、いまから息子のところへ行きますから、彼から資料を全部借りなさるといい。先生にはぜひ見てもらいたい」
3
(デジャヴ?)
砂利敷きの駐車場に茂る雑草がぬくぬくとした大気に若葉の先端を突き上げている。舞う羽虫。切れ切れの枯れ蔦が這うモルタル壁には、よくよく見ると新たな青い蔦の爪先が先代の足跡をたどろうとしている。
これで三度目だ。佐倉照郎の息子もまた、父親や島田と似たような築数十年のぼろぼろのアパートに住んでいた。
佐倉は鉄階段を見上げてためらっていた。
「いやね、元妻がいま息子のところに転がり込んでおりまして」
佐倉はそう言うと重い足取りで階段をのぼり、部屋の呼び鈴を鳴らした。五度目でやっとドアの前に人が立つ気配があった。だが、ドアは開かなかった。
「志郎、私だ。開けてくれないか。例の裁判のことで弁護士さんを連れてきてるんだ」
ドアの向こうで舌打ちが鳴った。波瑠と佐倉は顔を見合わせた。
ドアが開き、その隙間に予想したとおりのしかめ面が現れた。それでも波瑠は気後れせずに隙間から名刺を差し出した。
「いま何時です?」佐倉志郎は波瑠の自己紹介を遮って訊ねた。
「えっと――午後三時五分前です」
波瑠が答えると、彼は「寝過ごしたな」とつぶいて、自分の父親も来客も忘れてしまったかのようにドアを閉めてしまった。波瑠はどうしたものかと佐倉と目を合わせた。彼の顔に浮かんだ苦笑いが気の毒に思えてきた。
「あの!」波瑠は部屋の中に向かって声を張り上げた。「事故の検証実験は志郎さんが中心になって行われたと聞きました――」
「裁判の話はしたくありません。胸くそ悪くなるんです」
洗面所の方から水が弾ける音がしはじめた。今度は佐倉が声を張り上げた。
「槇村先生に、お前の鑑定書を見せてさしあげようと思ってな」
「そんなことしたってしょうがないでしょう」志郎が奥の部屋から投げやりに返してきた。
「でも、ぜひ一度――」
波瑠が言いかけると、志郎は床を踏みならすようにして嫌悪感もあらわに玄関から顔を出し、指折り数えながら言った。
「警察官、弁護士、検察官、裁判官──全員だ。全員そろいもそろって無能だった。あなたはちがうっていえる?」
志郎は鼻で笑い、再び波瑠の鼻先でドアを閉めた。佐倉は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。波瑠はこれ以上彼に惨めな思いをさせるのも悪い気がしてきた。
「日をあらためてまたおうかがいします」
波瑠は中に声をかけると、佐倉を促して階段を降りていった。
「すみませんね、あれはちょっと繊細なんで――でも、資料は必ず先生にお渡ししますので」
バス停まで送りましょうと佐倉は提案したが、聞くとすぐ近くだというので波瑠は遠慮して、佐倉のジムニーが甲高い音を立てて走り去るのを見送った。
結局、佐倉照郎という男を、響子を罠に陥れた張本人だとは一瞬たりとも感じることはなかった。法の正義を信じて最後の最後まで――それこそ上告棄却という最後の希望が潰えるまで冤罪という不正義と戦った者が、人を貶めて生活や人生を壊してしまうなどといった卑劣な犯罪行為を実行するだろうか。かつて夏樹が指摘したように、ある境界を、あるいは壁を、ついには飛び越えて現実に犯行に及んだ犯人は、やはり常軌を逸しているにちがいないのだ。佐倉照郎がそんな狂人だとは波瑠にはとても思えなかった。
それに匿名電話の男も石黒も、彼こそが復讐者だと断定したわけではない。ただ、何かしら関与しているというに過ぎない。
復讐者が佐倉照郎だとしたら、彼はたかが罰金十五万円の恨みのために、二人の実行犯を二年以上も前にわざわざ移住させ、鉄壁の物的証拠を捏造し、完璧なタイミングで計画を遂行したことになる。
波瑠はその動機にいまいちど思いを馳せてみた。だが、いくら目を凝らしてみてもその核心までは見通せなかった。それと波瑠との間に原因不明の陽炎が立ちのぼっていて、空間が歪んでしまっているようなのだ。歪みの原因は何なのか。
たかが十五万円だが冤罪は冤罪ではある。金額では推し量れない憤りがある。失望がある。失望は人からあらゆる力を奪い無気力にもするが、逆に反動的な原動力にも転換しうることは革命を繰り返してきた人類の歴史が数々物語っている。佐倉照郎も然りなのかもしれない。やはり彼こそが、波瑠には思いもよらない復讐心をごうごうと燃やして陽炎を立ちのぼらせている張本人なのかもしれなかった。
ただその炎は、触れて火傷するほどのものでもない気がする。
社会的な意味では響子は生命を絶たれたといえるが、物理的に命を奪われたわけではない。目には目、交通事故冤罪には交通事故冤罪。その分別がついているという点ではこの復讐は実に冷静だ。
冷たい熱。しかしその胸の内はすでに怒りで煮えたぎっている。
波瑠は立ち止まって、佐倉照郎からそんな熱気をわずかでも感じたかどうかを懸命に思い出そうとした。
「ちょっと」
はっと振り返ると、渋面の佐倉志郎が箱を二つ抱えて立っていた。
その段ボール箱を一つずつ抱えて、二人は黙ったままバス停へと歩いた。息子には父親のような愛想はひとかけらもなかった。
波瑠は志郎が一転して協力的になった理由を考えていた。
彼が最初に見せたような拒絶は悪事を秘めている者の態度に見えてしまい、もしかしたら彼こそが、という考えが波瑠の脳裏を過ぎったのだ。それでは父親はシロかというと、よくよく考えてみればどうも上手にはぐらかされた気がしないでもない。あるいは、父子の不仲はただの茶番で、実は親子仲良く共犯だという可能性もある。
もし彼らが響子への復讐に関与しているとしたら、波瑠が響子の弁護に動き出しているということも把握していて当然だ。となれば、波瑠の来訪の真の理由など見抜かれているはずだ。それなのに、復讐の動機を明らかにするかもしれない裁判資料をすんなり渡してくれ、掘り下げようとするのを厭う素振りもみせない。
それも計画の内なのだろうか。彼らは波瑠をどこかへ導こうとしているのだろうか。
バスが来て、二つの箱と一緒に波瑠が乗車口のステップに上がると、志郎がやっと口を開いた。
「そいつが手元からなくなって清々しますよ」
「明日には必ず連絡を――」
志郎はもう背を向けていた。ドアが閉まり、バスが動き出した。
波瑠は彼の心の内を透かし見ようと、その猫背にじっと視線を注いだ。感じ取れたのは、痛々しい何かだけだった。その何かとは、単純にかつて傷だったもの──かさぶたのようなものなのかもしれない。痛々しいが、乾いているような。ただ、そうだとしても、波瑠には彼が感じた痛みの程度まではわからなかった。
4
ファンファーレが鳴り出す一瞬前に、六艇のボートが一斉にピットを飛び出した。2サイクルエンジンの高音が開けた空に放たれ、六条の白波が水面にきらめく弧を描いていく。
肩も触れんばかりの混み合うスタンドでは誰も彼もが水面と手にした舟券を注視している。その中に、ただ一人だけ、双眼鏡の視線をスタンドの観客の中へ向けている男がいた。
その男はつまらなそうに──しかしそうすることが是が非でも必要とばかりに飽きることなく見つめている。
いきなりボートのエンジン音が胸を圧すほどの大音量で轟きだした。そのときばかりはその男──佐倉照郎も双眼鏡から目を外し、横並びにスタート地点を通過しようとするボートに視線を向けた。
大時計は滑らかに十二時を回る。各艇、ぴたり一文字。
佐倉は観客たちの昂揚を肌に感じた。
第一ターン、第二ターンで綾織りの航跡を残したボートたちはいま再び手前ストレートを、吹きだした風によって生じた波頭から波頭へと跳びはねるように低空飛行していく。そして、六艇がコンマ数秒の混戦のままドップラー現象を垣間見せて正面を駆け抜けていったとき、佐倉の上着のポケットで携帯電話が震えた。
見ると、メールの着信だった。送信者の欄には「小松茂」の名、タイトルは「手に入れました」。本文を開くと、そこには「表でお待ちしております」とだけある。
佐倉はそのメールに「間もなくそちらへ」と返信した。
レースはゴールを迎え、佐倉は何の感動も覚えないまま払戻窓口へと向かう人波の流れにまぎれ込み、その中の頭一つ抜けた猪首が、窓口に並ぶ列を恨めしげに見ながら破った舟券と空き缶を屑籠に叩き込むのを見届けると、踵を返して人混みから離れていった。
二人はバックミラーにじっと視線を注ぎ、駐車場から続々と出てくる車を眺めていた。
「例の件、やはり悪あがき――控訴するでしょうか」
小松茂はミラーから視線を外し、疲れた目元を揉みながら訊いた。
「実は、先ほど遅れた理由はそれでして――訊ねてきたんですよ、女弁護士さんが」
それを聞くと小松は二本の白い眉をいびつに歪めた。佐倉は苦い笑みをこぼすと、自分も目をしばたたいて目の間を揉み込んだ。
「かわいらしい方でしたよ」
「でも、それはつまり――嗅ぎつけられたということでしょう?」
「ご心配には及びませんよ」
佐倉は一度目をぱちくりと瞬くとバックミラーに目を戻した。小松もやがて怪訝な面持ちをゆるりと解きほぐした。
「どうせ、なにもできやしないでしょう――そうそう、例のモノを」
小松はバッグから包装紙でくるまれた手の平ほどの箱を佐倉に渡した。佐倉は包装紙をちょっとだけ剥がして中身をのぞきこんだ。
「まさにコイツですよ」
それから五分後、佐倉はおもむろにエンジンを始動させ、ギアを一速に押し込んで待った。脇を通過した銀色の車を指さして小松は驚いて愉快そうに笑い出した。
「本当に『まさに』ですねぇ」
銀色のセダンは幹線道路を十分ほど走ると、やがて路地を折れて住宅街に入っていった。佐倉の車はスピードを落とすことなく──当然、止まる素振りも見せることもなく、そして名残惜しそうに視線を注ぐこともなく、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
5
波瑠は尻をぶつけてドアを押し開け、二つの箱を抱えたまま歯を食いしばって階段を駆け上っていった。一分一秒も惜しかった。事務所に入るやすぐに厳重な封を開けにかかった。
目一杯に詰まったファイルというファイル、紙という紙から、波瑠は怨念のようなものを感じた。
箱の中身は、東京地裁刑事法廷における一審の裁判記録だけでなく、それ以前に被害者の訴えによって行われた簡易裁判所での損害賠償請求訴訟の記録や、佐倉志郎による事故鑑定書、その際のメモ書きの類もすべてファイルされて収められていた。
もう一つの箱を開けてみると、大型スクーターのプラスチック模型にすぐに目が留まった。二五〇ccエンジンを積んだこの大型スクーターこそが、佐倉の裁判で被害者とされた金子大介という男が事故時に乗車していたものだという。
この種の大型スクーターはビッグスクーターと呼ばれ、この十年、カスタムパーツの豊富さと楽な乗り心地と相まって若者の間で爆発的に人気が出た。とはいえ、波瑠や響子のような、体と車体との融合感を求めるバイク乗りは敬遠する類のものではある。その理由として、飾り以外の何物でもない樹脂外装で覆われた大柄すぎる車体、サイズの小さいタイヤ、尻の下にあるスクーター特有のエンジン位置、足の間にガソリンタンクを挟む形状ではないこと、そして単調すぎる無段階変速機構などが挙げられる。
ビッグスクーターに乗った経験のない者には、スクーターはスクーターでも原付スクーターとは大きく異なるその挙動や特性を正確に理解することは難しい。わざわざ模型を用意したのも、立体モデルの方が平面図や写真だけよりもずっと多くの情報を得られ、理解を助けると考えたからだろう。
見ると、前輪を保持する二本のフロントフォークのうち、左側の先端に「A」と記された小さなシールが、また車体の右側には「B」から「K」のシールがあちこちに貼られている(図1参照)。これらは車体に残された擦過傷の位置だという。またそれぞれの擦過傷には数本の矢印が引かれているものがある。
右アンダーカウルの「F」のあたりには車体の前から後ろの方向に、右フロントカウル上部の「I」や後席グラブバー「K」には車体の上から下の方向へとそれぞれ矢印線が引かれている。また、右リアカウルの「G」のあたりは矢印が混在している。
佐倉志郎の鑑定書にこの矢印――擦過傷の向きについての考察があった。
要は、ABSやPPなどの樹脂製のボディが堅いアスファルト上を滑るようにして擦れると、ボディに負った無数の線状の傷の後ろ側に削りカスが残ることから、車体がその部分を地面に接しているときにどの向きに滑っていたかがわかるというのである。
なるほど、と波瑠は思った。つまりは大根をおろし金でおろすのと同じ要領なのだ。おろし金に大根を押しつけ、擦りつける。手に持った大根は前方へ、おろしは後ろへ残る。大根のおろし口を見ると、削りカスは無数の線状の溝の後端すなわち大根の進行方向の後方に残ることになる。
具体的にいうと、「F」が地面に接触している間は転倒したスクーターは車体の前の方向へと滑っていき、「I」や「K」などの部分が地面に接触した瞬間には車体の上方向へ滑っていた。また「G」は、車体の滑走方向が前方向から上方向へと変遷していく数瞬をまさに「記録」しているというわけだ。
すなわち、これらの擦過傷はたんに地面から受けた傷だというだけでなく、それぞれが地面との抵抗すなわち部分的なブレーキとなって車体の回転や傾きなどの姿勢変化のきっかけとなったことの証だとしている。
車体はただたんに直線的になめらかに地面を滑走していたのではなく、アスファルトの凹凸につんのめったり、他車との接触による抵抗があったり、それをきっかけに車体が回転していったり、回転しながら転がろうとしたりと、刻一刻と姿勢を変化していった。これらの擦過傷の形成過程を解析することによって、スクーターの転倒後の挙動の一部始終を正確に推定できるというのである。
この箱にはタクシーとトラックの紙細工も入っていた。察するに、スクーターの模型のスケールに合わせて作られたものだろう。
丸い行灯様のものを乗せたセダンの形をした紙細工は加害者とされた佐倉照郎のタクシーを模したもので、その運転席ドア下縁から前方のタイヤハウスまでには、地面と平行に一直線に線が引かれ、スクーターの「A」に対応する「A’」と記されたシールが貼られている(図2上)。この紙細工には他に擦過傷を示すシールはない。つまり、タクシーの損傷箇所はこれだけということである。
また、トラックの紙細工は三人目の事故当事者、鈴谷真一が乗っていた二トントラックを模したもので、これには左リアフェンダー上方の荷室側面に緩く下降するカーブの線が引かれている。ここに貼ってあるシールは「D’」とあり、やはりスクーターの「D」の部分――ハンドルの右グリップ端が対応する(図2下)。
箱の底には折り畳まれた大判の模造紙があった。どうやら事故現場の模式図らしい。そこには横断歩道の縞模様と、第一通行帯と第二通行帯を区切る破線の白線、それに中央線を表す太い実線が引かれている。横断歩道上のある場所には、一直線の太く黒々とした線「C’」と、それに平行な二本の小さな線「B’」が引かれている。これもそれぞれスクーターの樹脂製の右後部席用フットステップ「C」、右フロントフォーク先端「B」に対応している。「B’」「C’」のどちらの線も、片側二車線道路の右側である第二通行帯から左側の第一通行帯へ、進行方向左斜め前へと延びている(図3)。
模型と模式図、佐倉志郎作成の事故鑑定書なる分厚いファイルの他に、写真や写真のカラーコピーなど五十枚ほどが綴じられたファイル、メモ用紙の束、それに警察の交通事故鑑定人阪上日出夫による事故鑑定書があった。
写真を綴じたファイルを開いてみると、佐倉父子が事故車両と同型のタクシーとレンタルバイクの同型スクーターを使用して行った検証実験の模様を撮影した写真、さらに模型を用いて一連の事故の流れの再現をコマ撮りした写真が綴じられている。
メモ用紙の束はどれも書き殴られた計算式と手書きの図で埋め尽くされていた。計算式は単純なものから積分方程式まである。積分といっても見たところさほど難解でもない。高校程度のレベルだろう。図の方は、タクシー車両に搭載されているデジタルタコグラフのデータと、その一部分を抜き出して拡大したグラフだ(図4)。縦軸に速度、横軸に時刻を置いている。拡大図では、傾きの急な右肩上がりの直線が、ある時点を境に傾きの緩やかな右肩下がりの直線に変わっていることがわかる。積分方程式の意味はつまり、このグラフから読み取れる右肩上がりと右肩下がりの二種類の直線で表される速度とその速度における経過時間から、タクシーの移動距離を求めようというものだろう。速度、時間、移動距離がわかれば、佐倉のタクシーの挙動がほとんど手に取るようにわかるからだ。
さらに波瑠は、検察側の交通事故鑑定人である阪上日出夫がまとめた事故鑑定書を開いた。この鑑定書もまた佐倉志郎のものと同様に公判では証拠採用されていないという。検察側が志郎のを拒否したように、弁護側が阪上のを拒否したのである。しかし、鑑定書そのものが採用されなかったかわりに、阪上日出夫は証人として出廷し、検察官――石黒洋平による証人尋問として、自身が作成した鑑定書の解説を試みようとしている。その際の証人尋問を文字起こししたものが一つ目の箱にあったファイルの束の中にあった。
阪上による鑑定書と証人尋問の書き起こしを読み進めていくにつれ、波瑠はそのときの佐倉父子の心境がだんだんとわかってきた。
また驚くべきは、阪上鑑定書の最後のページ――鑑定人阪上日出夫の交通課巡査時代から事故当時の警察大学校名誉教授までの経歴や肩書きがずらりと記述されているそのページにのみ、証拠の通し番号が付けられているのである。つまり、鑑定人のその輝かしい経歴が誇らしげにつらつらと綴られている一ページのみ、公判廷において証拠として採用されたのである。
波瑠は、志郎が言っていた「胸くそ悪い」の一端をここに見た気がした。ただ、それは文字通りほんの一端に過ぎなかった。
波瑠は一審の記録の山から、スクーターを運転していて被害者となった金子大介、巻き添えを喰ったとされるトラック運転手の鈴谷真一、一部始終を目撃したとして出廷した青田智宏、事故捜査を担当した天神署の柿本警部補らの、それぞれの宣誓供述を文字起こしした調書の束を手元に寄せ、一心不乱に読みはじめた。
6
アスファルトフィニッシャーがじわじわと進みながら黒光りする熱い砂利を敷き詰めていく。その鈍重な重機を急き立てるようにロードローラーが砂利を圧し、均しながら、行きつ戻りつしている。
佐倉は、臭い立つ蒸気と重機の排気ガスにまかれながら、ロードコーンの脇でピカピカ光る誘導棒を無心に振っていた。
リーダー格の作業員が彼に怒号を飛ばす。空の荷台を下げつつダンプが重機から離れようとしていた。佐倉は誘導棒を頭上で振り回しつつ車道に出て、信号の変わり目を読み、車の流れを止める。
止めたタクシーの運転席に懐かしい顔があった。同年代らしい運転手は彼に気付き、疲れた顔をほころばせた。
「どうだい、調子は」
「ぼちぼちだよ」
佐倉はそう答えると、相手は恨めしそうに言った。
「いつの間にかいなくなっちまうんだもん。その後、どうしてたんだい? あの息子さんは元気かい?」
この通りさ、と佐倉は自分の出で立ちを見せた。後の方の問いかけには苦笑いを返した。相手は寂しそうに笑った。
トランシーバーが合図を鳴らす。佐倉は誘導棒をくるくる回して車を流しはじめた。
「達者でな、テルさん」
「お前さんもな」
佐倉は元同僚のタクシーが見えなくなるまでどこか決意めいた視線を外そうとしなかった。
その眼差しの熱さは佐倉自身の身の内から沸き立つ決意の熱からくるものだけではなかった。それは、彼らの疲れた顔が、その心の深層では、汗水垂らす労働からくる爽やかなもののみであって欲しい、何か別の、煩わしいだけの厄介事を抱え込んで、それに思い悩むがために精神までもが疲れ切り、生活が、人生が空虚になってしまわないようにと、彼ら仲間、そしてその家族に向けての祈りでもあったのだ。
東の空がこれから今日一日の晴天を約束させる澄み切った夜明けを演出し、また、駐めっぱなしの女弁護士のバイクの赤色がどこか心弾む、華やかなる未来の兆しを感じさせ、佐倉はひっそりと、まだ灯る水銀灯の下でバイクの隅々までじっくり眺めながら嬉しそうな笑みを顔中に溢れかえらせていた。
(あの娘も、好きで乗っているんだな)
だが、そんな笑みも最後には引っ込んでしまった。現実を知ればこんなオモチャなど暢気に乗り回す気などしなくなるだろうという冷めた思いが微笑を掻き消したのである。そして、そのうちにあの女弁護士も現実を思い知ることになるだろうとも彼は思った。
鉄階段を上りきると、廊下に白いミニカーが落ちていた。それは前に佐倉が隣人の子供にくれてやったものだ。もう遊び尽くして飽きたのかもしれない。手に取ってみるともうすでに擦り傷だらけだった。佐倉はいったん部屋に入って、すぐに引き返してきた。そして隣人の子供のおもちゃカゴに、部屋から取ってきたまだ新しい青いミニカーを放り込んだ。だが、ふと思い立ってもう一度それを拾いあげると、ボディ側面の黒ずみを指で擦って落とした。ただ、刻み込まれた擦り傷までは消えなかった。
部屋に戻り、脱衣所で着ているものを脱ぎ、風呂場で蛇口をひねった。曇った鏡に白い痩せた肩と赤黒く日焼けした首と顔が映り込む。目尻の皺に溜まった粉塵を拭うと、こめかみが黒ずんだ。やがて湯気が鏡の中の老人を見えなくした。佐倉は頭からシャワーをかぶり、体の芯にまで熱が浸み通るのを待った。
(もう行きます)
廊下で声がした気がして佐倉は我に返った。だがその声は一年以上も前の記憶の中のものだった。
(ちょっと待て、すぐ出るから)
そのとき佐倉はそう答えた。返事はこうだった。
(いいんです。行きますね)
そして足音が衣擦れとともに玄関へと遠ざかっていく。佐倉はそのときと同じようにシャワーの飛沫に頭を突っ込み、目を閉じた。まぶたの裏に妻の後ろ姿を見ていた。安物の化繊のコートが上がり框にかがみ込んでいる。千円のスニーカーを履くためだ。そして、息子が子供の頃に少年野球の合宿にかついでいった、すっかり色褪せたスポーツバッグを抱え、少し肩をぶつけるようにして建て付けの悪いドアを開け放ち、未明の空を何かを思って見上げるのだろう。
心が萎えた。丸裸でいるのが恐くなった。湯が当たるところから融けて流されていくような気がした。歯を食いしばって理性を掻き集める。薄皮一枚でも身に纏わせなくては――。
(本当にやるのか? 意気地のないお前に成し遂げられるのか?)
(俺がやらなくて誰がやる? それにもう、後戻りはできない)
何度も繰り返してきた自問自答をいままた何度も繰り返す。
風呂を出て台所へ行くと、冷蔵庫にマグネットで留めてある封筒を手に取った。いまは空だが、妻が出て行ったとき、その中には離婚届が入っていた。あの夜、一睡もしなかったであろう彼女が押した、まだ濡れているかのような印の朱を佐倉は鮮明に憶えていた。それは妻の気配の残滓だった。ただそれは、いまもそのときも、見る間に艶をなくしていったのだった。
7
物と物とがぶつかりあえば、それぞれの強度、硬度に応じた傷がつき、歪み、削れ、壊れる。針で突いたのなら針による傷が付き、ハンマーで叩いたのならハンマーによる傷が付く。ぶつからなければそもそも互いに傷を付け合うこともない。誰の目にも明らかで、誰の胃の腑にもすとんと落ちる至極単純明快で常識的な原理。
佐倉志郎の事故鑑定書は、そんなごくごく普通の原理に基づいて、事故の顛末を細大漏らさず余さず、順序立てて解説しているだけだった。突飛な推察も妄想もない。論理の飛躍も欠如もない。ある物体が一瞬後には奇想天外な動きをしたりはしない。止まろうとしている物体が何の力も働いていないのにいきなり加速したりもしない。重い物体は重い動きしかせず、一瞬後に途端に軽くなって飛び上がったりもしない。ごく単純なニュートン物理学の基本法則に則っているため、一瞬後には何が起きているのかが容易に予測ができ、そしてまさにその通りの展開になる。ただ「細大漏らさず余さず」といった方針のために、多少話がこみいっているというだけだ。
しかし、この事故鑑定書は日の目を見ることはなかった。ならば法廷に集った者たちはいったい何を議論していたのか。その様子を佐倉照郎や志郎は、どのような眼差しで見つめていたのか。
波瑠はそんなことを想像しながら春日通り天神下交差点に立ち、上野広小路交差点へと歩き出した。
この片側二車線道路は、歩道寄りの第一通行帯は幅が五メートルあり、その広さは、歩道寄りに駐車車両があってもどうにか第二通行帯にはみ出さずにその右側を通過できる。とはいえ事故当時のように、横断歩道の先に設けられたバス停にバスが停車しているときは、車線からはみ出さないように通過するには慎重を要するし、たいていの場合は第二通行帯にはみ出るようにしてバスの横を通過していくことになる。一方、第二通行帯は幅三・三メートルと標準的な道幅となっている。
天神下と上野広小路交差点の中ほどにある横断歩道で、波瑠はその幅三十センチの白線の並びに目を凝らした。だが、いまとなっては分厚い塗料が上書きされていて当時の擦過痕はなくなっている。
午前七時半過ぎ現在、バスは七時から九時までは第一通行帯の路線バス専用レーンを走り、停留所に停まってはぞろぞろと客を降ろしていく。第二通行帯はというと、天神下交差点の信号が青になるたびに先を急ぐ乗用車やトラックの一群が走り抜けていく。
五年半前の、いまとは真逆の季節、この場所で交通事故が起きた。
十一月十五日、午前七時四十三分頃、小雨がしとつく空模様の下、金子大介二十五歳が運転する大型スクーターがちょうどこの場所で転倒した。金子は救急搬送され、右第九、第十肋骨骨折および右第五趾末節骨骨折のために約一ヶ月の加療見込みと診断された。
金子がはじめに接触したとされる佐倉照郎のタクシーには、地上三十センチの高さに位置する運転席ドア下端から地面と平行に前方タイヤハウスへと一直線に向かう約五十センチの長さの線傷がつけられていた。その傷は表面の塗膜をこそげ落としているが、地金を凹ませるほどのものではなかった。
また、同じくスクーターとの接触があった鈴谷真一の二トントラックには白色に塗装されたアルミ製荷台の左側面からリアフェンダーまで、緩やかに下降する弧を描く擦過痕があった。
この事故は人身事故扱いとなり、佐倉照郎の自動車運転過失傷害事件として検察官送致された。幾度かの取調を経て、およそ半年後の五月連休明けに捜査担当検事鳴海響子は起訴へと踏み切った。
事故態様に関する金子大介の供述は要約するとこうだ。
一、春日通り天神下交差点から第一通行帯内の右寄りを法定速度以下の時速三十五キロメートルで走行していた。
二、前方、第一通行帯の歩道寄りにタクシーが止まっているのを確認したが、停車していたのでそのままの速度で進行した。
三、そのタクシーがウインカーを出さずに急発進したために進路を完全に塞がれ、すぐに急ブレーキをかけたが間に合わず、タクシーの運転席ドアのあたりに衝突し、気がついたら倒れていた。
四、トラックとの接触については気が動転していたため憶えていない。だが、自車が最初にタクシーに衝突したことはたしかである。
トラック運転手の鈴谷真一はこう述べている。
一、第一通行帯はバス専用レーンのため自車は第二通行帯を走行していた。時速は法定速度以下の時速三十キロメートル弱。
二、第一通行帯は駐車車両があり、交通の流れは悪かった。
三、その中から停車していたタクシーが鼻先を出しはじめていたが、第二通行帯にまではみ出してくるような感じではなかったため、自車はそのままの速度で進行した。
四、左サイドミラーを確認したところ、タクシーと自車との間に金子大介のスクーターが突っ込んでくるのを認めたため、先に行かせようとした。見た限り、スクーターの速度は時速四十キロくらい。
五、タクシーの横を通過したあたりで車体が揺れたため、ぶつけられたと思った。
六、そこで再びミラーを見ると、タクシーの前方でスクーターが転倒していたため、自分はバス停の先で停車した。
一方、佐倉照郎の供述調書にはこうある。
一、横断歩道手前で乗客を降ろした後、前方の停留所に停車して乗客の乗降をはじめたバスをかわすため、第二通行帯へと進路を変更しようとした。
二、何かがぶつかってきて、そこではじめてスクーターが衝突してきたとわかった。そのため、そのままブレーキを踏み込んだ。
三、スクーターはタクシーの運転席側車体下部に接触し、さらに右車線走行中のトラックに接触したあと転倒して滑っていき、自車の前方で停止した。
四、この事故を起こした原因は、私、佐倉照郎の右後方に対する安全確認が足りなかったことである。
しかし、佐倉照郎はこの翌日同署を訪れ、調書の取り直しを求めた。応じたのは事故当日も事故処理を担当した交通事故捜査係係長の柿本徹次警部補である。佐倉はあらためてこう主張した。
一、横断歩道手前で乗客を降ろした後、前方の停留所に停車して乗客の乗降をはじめたバスをかわすため、ゆっくり右へと進路を変えつつも第二通行帯にはみ出さずにはかわしきれないと判断し、第二通行帯を走行してくる車両の一群をやり過ごすために停止した。
二、自車が停まっていた第一通行帯はバス専用レーンのためか、後方には駐車車両もなく見通しが良く、この車線を走行してくる車両は皆無だった。
三、第二通行帯の車の流れが途切れるのを待っている間に、バスが先に発車してくれるかもしれないと思って視線を前方に戻したりして、左前方のバスと右後方の第二通行帯の車の流れと交互に目を配っていると、いきなり運転席の下のあたりで「ガリガリ」という音を聞いた。衝撃はほとんどなかった。
四、転倒したスクーターが弧を描くように路面を滑走していくのが見え、自車の前方で停まった。
一審、二審ともに判決の方向性を決定づけたのは、一部始終を目撃していたという第三者――青田智宏の証言だった。事故発生からおよそ半年後に鳴海響子によって録取され、法廷でも述べられた証言は次の通りである。
一、スクーターは第一通行帯を走行していた。
二、するすると進んでいたタクシーに、スクーターが急ブレーキをかけながら接触した。
三、その後、スクーターはトラックに接触して転倒した。
この善意の第三者たる青田の目撃証言によって、金子の供述がほぼそのまま事実認定され、過失があるのは唯一の被告人である佐倉照郎だけとの結論が下された。
しかし、この判決には決して黙認できない欠陥が大きく三つある。
第一の欠陥は、審理のほとんどが「なぜ」事故が起きたのかといった原因論に的を絞られてしまい、「どのように」事故が起きたのかという過程に関する議論が不十分すぎたこと。第二の欠陥は、事実認定が、佐倉照郎を除く各関係者――金子大介、鈴谷真一、青田智宏の三人の供述にのみ重きを置いていること。それゆえ物的証拠に基づいた合理的事実が追究されなかったことが第三の欠陥である。
公判では、物的証拠の整合性に関する論点は無視されるか、あるいは整合性どころか、到底現実には起こりえないような解釈が為されるかのどちらかだった。つまり、現場の警察官、捜査担当の検察官、公判担当の検察官、合議制をとった三人の裁判官らは、事故発生から判決まで、各車両に残された擦過痕――すなわち「物的証拠」の形成過程をまともに論じることがなかったのである。
弁護人の持田ですら真相をほとんど追及できていなかった。控訴の際、佐倉が弁護人を替えた理由もうなずける。持田は佐倉志郎の事故鑑定書をやはりまるで理解していなかったのだ。
起訴までの半年間、佐倉父子は自らの主張すら控え、当事者間の感情のぶつかり合いや曖昧で食い違うばかりの供述などのノイズを一切排除し、事故が「どのように」起きたのか、可能な限り合理的に事故の有り様を検証し、それをもって真実を明らかにすべきとして、担当検事鳴海響子を説得しようと試みた。
佐倉志郎が主導して行った検証実験は、「被疑者佐倉照郎に対する自動車運転過失傷害被疑事件に関する実験報告書」と題字された、端的な文章と図版と写真からなる実験レポートそのものだった。
彼らは事故車両と同型のスクーターとタクシーを用意して検証実験を行い、すべての擦過傷の形成過程について、物理法則に矛盾しないよう合理的に説明してみせた。佐倉照郎の主張を支持する結論は、あくまでもその結果に過ぎない。
弁護人の持田が裁判所に提出した弁論要旨の半分は、この志郎鑑定の概要が述べられている。また、佐倉父子が行ったのと同等の実地検証を裁判所主導でも行うよう証拠調請求も提出したが、裁判長に即刻却下されている。
情報は頭に叩き込んである。あとはほんのわずかな想像力――物理法則に則った、常識的な想像力を働かせるだけだ。
波瑠は目を閉じた。まぶたの裏の残像に、事故当時のような雨粒がそぼ降りだす。
金子大介のビッグスクーターが天神下交差点から走ってくる。第一通行帯ではなく第二通行帯を、鈴谷真一の遅いトラックのすぐ後ろを。彼は車間を詰めてトラックを追い越そうとしている。追い越すにしてもトラックの右側はすぐセンターラインで対向車もある。ならば左側からだ。しかしこのとき、車間を詰め過ぎている金子はトラックの荷台のせいで第一通行帯の様子を視認できていない。だが、金子は左に車体を傾けて一息に車線を移る。
しかしそこには佐倉照郎のタクシーが鼻先を第二通行帯へ向けて停車していた。佐倉は鈴谷のトラックをはじめ、天神下交差点からくる車両の一群を停まってやり過ごそうとしていたのだ。
スクーターはトラックを追い越すために加速した矢先だった。そのためにトラックのすぐ左後輪のあたりまで飛び出していた。だが前方はタクシーで塞がっている。金子はとっさに第二通行帯へ戻ろうと車体を急に右に傾けた――しかし真横は鈴谷のトラックが併走している。スクーターに逃げ場はなかった。急ブレーキしか選択肢がなかった。金子は左右のブレーキレバーを力一杯握りこんだ。
車体は右に傾いている。二輪車において、もっともやってはいけない行為が、車体を傾けた状態での急制動だ。即座に転倒に繋がる。だがそれでも、金子はタクシーへの追突を避けるため急ブレーキをかけるしかなかった。そして例に漏れず、スクーターはほとんど瞬時にバランスを崩す。車体は右側を下に倒れ込む。その際、トラックより速い速度、加速状態でハンドル端「D」をトラック荷台「D’」に、前方下方へ弧を描くように擦りながら転倒していく。転倒開始初期には、マフラー「E」に車体前後方向に走る無数の線傷を生じさせ、ついには完全に横倒し状態となり右アンダーカウル「F」が強く地面に擦りつけられる。
その「F」の抵抗によって横倒し状態のまま前方へつんのめると、右フロントフォーク端のハブボルト「B」が横断歩道の白線塗膜の二ヶ所「B’」に接触し、塗膜の下にある地のアスファルトに達するまでえぐりとる。その直後、つんのめり状態が解消されると同時に右後部席用フットステップの黒いPP樹脂「C」が地面に擦れ、横断歩道の白線に長く黒い筋「C’」をつけ滑走していく。いずれも、並行するように右手前から左向こうへと向いている。
「C’」の直後に、左フロントフォーク先端「A」でタクシーの運転席ドア下端「A’」の塗膜を薄くこそげ取っていく。佐倉は衝撃を感じず、ただ「ガリガリ」といった音を聞く。
スクーターはタクシーとは「A」と「A’」のみで撫でるように接触しただけだったが、それでも多少は抵抗があった。それにくわえ、フロントカウル「H」周辺の地面との接触面積は「G」に比べて小さいため、地面からの抵抗がより大きかった。これらの抵抗によってスクーターの車体の前側はより速度を弱め、一方で車体の後ろ側、リアカウルのつるりと面積の広い「G」周辺は地面からの抵抗が小さいため、速度はさして弱まらなかった。
さらに、スクーター自体の重心がエンジンのある後ろ側、すなわち「G」付近にあることもあり、重いものは軽いものより動き続けようとするという慣性の法則のとおり、スクーターは前側より後ろ側の方がより長く速度を維持しようとした。
その結果、横倒しで滑走していたスクーターは緩やかに反時計回りの回転をはじめる。模型の右リアカウル「G」に続き、右フロントカウル「H」、「I」がその変遷の様子を擦過傷の方向として留めている。フロントカウル上部の「J」、後席グラブバー「K」は、スクーターがはじめの滑走状態からほぼ九十度反時計回りに回転した後に、これもまた地面の凹凸にひっかかるなどして進行方向前方へ転がるように傾いたときにはじめて地面に接触して擦過した際のもので、車体上下方向に線傷が走っている。これら各段階での滑走の方向性は擦過傷の削りカスが残された位置が線傷の進行方向にして後端にあることからも確かだといえる。
そして、金子の大型スクーターは緩やかに、転倒直後の滑走方向から九十度ほど回転しつつ、佐倉の供述通り、弧を描くようにしてタクシーの前方で止まった。
その後、佐倉の供述によると、金子に駆け寄って助け起こそうとしたとき彼はいきなり暴言を吐きかけられる。
(てめえ、これで年を越せなかったらどうしてくれるんだよ! たっぷり搾り取ってやるからな!)
佐倉は唖然としつつもマニュアルどおりに救急と警察に通報した。その時点では鈴谷のトラックなどどこにもおらず、一時間近く経ってから突然現場にやってきたと佐倉は主張している。
波瑠の想像はまだ終わらなかった。すぐそこの横断歩道の脇に、佐倉照郎の憔悴した姿を見ていた。白く、薄くなりかけた頭髪を小雨に濡らし、伝い落ちる水滴を皺の溝に流れるままにしている灰色の顔。その唇は寒さで震え、しかし憤りを必死に抑え込もうと真一文字に引き結ばれ、頑なに雨粒の侵入を許さない。しかし、この数時間後、彼はついに屈してしまったのだ。
波瑠は志郎に電話をかけた。
「弁護士の槇村です。お借りした資料、一通り読みました」
唸るような吐息が受話口に返ってくる。
「再審請求という手があります」
「よしてください。誰も望んでません」
「それでも、やってみたいんです。いまから、すぐにでも」
波瑠は自分で言いながら、その言葉の真意をはかりかねていた。本当に佐倉照郎を冤罪から救うためなのか、それともやはり結局は響子のためなのか。
「どうしてもですか?」
波瑠は自分の胸の内に煮えたぎる憤りを再確認した。それは、佐倉照郎に対して為された理不尽へのものだった。
「はい」と波瑠は答えた。
「では、先生――すぐそこに牛丼チェーンの店があるでしょう? そこにいる会田という店員に話を聞いてみてください」
8
ネームプレートに「会田晃司」とある若い店員が、波瑠の前に朝定食を置いた。波瑠はすかさず名刺を渡して話を切り出した。
「知らねぇよ!」会田の表情は一変した。「てめえ、あのストーカー野郎のダチか! いますぐ消えねえと警察呼ぶぞ!」
店中に轟く剣幕に怯え、波瑠は慌てて店を飛び出した。
二時間ほどして志郎は黄色いタクシーを運転してやってきた。彼もまたタクシー運転手だということに驚くべきなのだろうが、いまの波瑠はそれどころではなかった。
「ストーカーってどういうことですか!」
「あの店の常連って言っても、やっぱり納得しませんよね」志郎は愉快そうに笑いながら言った。
「当然です! あの人、ほんとは目撃者なんでしょう? それなのになんてことを!」
波瑠が詰め寄ると、志郎は途端にむっつりとして言った。
「あいつは目撃者だってことが、三十万に化けると考えたんですよ」
「三十万?」
「あいつの言い値。払ってやっても良かったんですけどね、親父が無罪になるなら。でも、親父は突っぱねた」
それを聞いて波瑠は溜飲が下がった。
「お父さまは正しいと思います――それにしてもストーカーって!」
波瑠が思い出したように腹を立てても、志郎は平然としている。
「まあ結局、あいつに証言させたところで、無駄でしたけどね」
「どういうことです?」
「会田の証言のキモは、親父のタクシーは事故の前と後では動いていないってことだけです。あいつは事故の直前にはすでにタクシーがあの場所にいたことを見ていました」
「事故そのものは目撃していないんですか」波瑠は拍子抜けした。
「事故は一瞬ですよ」志郎はなにをいまさらという目で波瑠を振り返った。「一部始終を見ていたという誰かの方が不自然でしょう」
「――会田って人は事故の何を目撃したんですか」
「見たんじゃなく、聞いたんです。『ガリガリ』という音を。で、振り返った――」
「スクーターは――」
「もちろん転倒したまま滑っていく光景。それとトラックがタクシーより一台分以上前を走っていく光景。タクシーも何事もなかったかのように同じ場所に停まってた。だから会田の印象は、ただのスクーターの単独事故だった。その間ずっと、タクシーのデジタコデータはご覧になったでしょう?」
タクシーに搭載されたデジタルタコグラフ――走行時間や走行距離など運行状況を記録するシステム――のデータは、法廷で採用された物証の一つである。警察も検察も、デジタルタコグラフのデータを証拠として法廷に提出することには異議を唱えない。デジタルデータは信憑性が高いと見なしているからである。
弁護側は、これこそが急発進ではない証拠、事故の前後で停止していた証拠だと主張した。しかし検察側は解釈の仕方が異なった。「急」かどうかはさておいて、検察はこのデータをタクシーが「発進」し、スクーターの衝突まで「動き続けていた」証拠だとした。
「あいつの証言があれば、速度ゼロ状態のときに事故が起きたことの裏付けができたはずです。親父が事故を誘発していないことが証明できたんです。だから証言を頼んだ。そしたら三十万だって」
「だからってストーカー行為は――」
「あいつ、相当参ってたでしょう?」
志郎はまた愉快そうに笑った。
9
「そういえば、志郎さんはお父さまと同じご職業だったんですね」
志郎のタクシーは水戸街道をひた走っていた。これから波瑠を金子大介に会わせるのだという。またもストーカー行為の成果を見せつけられるのだろうが、いまは彼こそが唯一の協力者であるため、波瑠はどうにかして志郎という人間を前向きに受け止めようと考えていた。
「この世のほとんどの人が就いている仕事と同じで、ろくでもないもんですよ」
志郎はかつて工務店を営む両親の手伝いをしていた。佐倉家のような零細業者は、景気後退により安くなる一方の施工費や年々減少する仕事の量にも将来性を見いだせず、ついには廃業を決意する者も少なくなかった。佐倉家もしかりで、佐倉照郎は六十を前にして一念発起し、志郎もまた宙ぶらりんでいるわけにもいかず、父子ともどもタクシー業界に飛び込んでいった。
二人ともタクシー乗務員という仕事とは水が合った。ただ、それも件の交通事故が起きるまでだった。一家に襲いかかったその悪夢を志郎は一言「理不尽の嵐」と表現した。
車は亀有駅から少し外れたマンション建設現場の前で停車した。
九時少し前で、数十名の建設作業員らが道路端で紫煙と灰を撒き散らしながら作業前のひとときを寛いでいた。金髪に黄色いタオルを巻いている男が金子大介だと志郎は指さした。
「僕はここで待ってますよ。ああいうタイプは苦手でして」
その方がいいに決まってると思い、波瑠は車を降りた。
相手が女だということもあってか場の雰囲気は気安い感じのままだった。だが、金子だけは剣呑な目つきに変わった。
「あのジジイがいきなり飛び出してきたんだよ」
「ええ、そう供述調書にありますし、あなたは法廷でもそう証言なさってます。ところが、それではとてもおかしなことになるんです」
波瑠は警察の実況検分調書の現場見取り図を広げ、次いでデジタルタコグラフの図を見せた。
「このグラフは警察も認める確かな証拠です。これによると、タクシーは乗客を降ろすあいだ十八秒間ほど停止していて、それから前方のバスをかわすために最初の停止位置から衝突地点である最後の停止位置――歩道寄りから二つの通行帯をわけるラインギリギリまで、二秒間かけて加速し、転じて八秒間かけて減速、停止しました。計十秒間。その間の最高速度は発進から二秒後の時速四キロ。最高速度に達した瞬間で、やっと人が歩く程度の速度です」
波瑠は少し離れ、道路の端から両手を広げて十秒間のタクシーの動きを再現してみせた。
「計算すると、タクシーは二秒間の加速で一・一メートル、八秒間の減速で四・四メートル、合計で五・五メートル。実際はハンドルを右に切って左に戻してと蛇行しているため、直線的には前進した距離はもっと短くなります。それでもおよそ車一台分弱。第一通行帯の歩道寄りのところから斜めおよそ十度の方向に向かって――発進、二秒間かけて人の歩く速度、時速四キロに達して――ここからは減速に転じます。八秒間かけて――五、六、七――停止。車一台分の距離。いかがです?」
顔を背けている金子を除いて、一同が波瑠のゆっくりとした歩みを興味津々で見守っていた。
「まだあるんですよ!」波瑠は続けた。「進行方向から斜めに十度ほど――そのことが何を意味するかおわかりですか? あなたが走行していたという真後ろからだと、タクシーは見かけ上は真横に移動しているように見えますよね? それがどれだけかというと、およそ一メートル。真横へ、たったの一メートルです。当然、見かけ上の速度も実際よりずっと遅くて、十秒かかって真横へ一メートル進んだように見えたのですから――」
「そりゃ急発進じゃねえよなぁ!」仲間内から野次が上がった。
「急発進じゃねえかもしれねえけど」金子は慌てて言った。「ジジイは俺の前を完全に塞ぎやがったんだよ」
「完全に? それもまちがいありませんか?」
「完全にだよ。法廷でもそう言ったぜ。隣の車線ギリギリまで鼻っ面出してきやがって。すぐ隣はトラック、目の前はタクシー、だから俺はぶつかるしかなかったんだろうが!」
「つまり、あなたは最低でも十秒間、発進から停止までタクシーが動いているのを見続けていたことになりますね。ではみなさん、もう一度ご覧ください」
波瑠はまたも十秒間かけて、しかし今度は斜め十度方向へではなく、真横に一メートル歩いた。金子の仲間たちからは失笑が漏れた。波瑠の動きはほとんど亀の歩みだったからだ。
「気付いてすぐに、もっとずっと手前で止まれませんでしたか?」
波瑠が大真面目に問いかけると、金子の仲間たちがどっと笑い出した。金子は叫んだ。
「ジジイが急発進してすぐにぶつかったんだよ! 一秒か二秒だ!」
「では、いま私が実演して見せた最初の一秒か二秒を思い出してください。一秒か二秒で、私がどれだけ動きましたか? あなたはがら空きのところを悠々と通り抜けられたでしょう?」
「うるせえ!」
金子は仲間たちの輪を飛び出した。波瑠は追いすがった。
「本当のことを教えてください。あなたは第二通行帯にいて、前を走るトラックのすぐ後ろを走っていたんでしょう? そのトラックを追い越そうとして、トラックの陰から飛び出した。だけどそこにはタクシーが停まっていた! それであなたは――」
「あの事故の被害者は俺なんだぞ!」
彼はそう怒鳴り散らすと、工事現場に逃げ込んでいった。
10
「あんな奴でも女房子供がいるんですよ。一人娘はこの春に小学校に上がったばかりです。簡単には非を認めませんよ」
志郎は右に左に軽々と車線変更を繰り返し、しかし丁寧そのもののアクセルワークで都心へとクラウンコンフォートを走らせた。やがてコンビニ前の路傍に寄せると、彼は悪戯っぽく言った。
「最近、ここのサンドイッチにハマってるんです。おごりますよ」
波瑠は腑に落ちないでいた。志郎はサンドイッチを頬張りだすと、途端に無口になり、すぐ横のコンビニトラックでせかせかと作業する配送員をぼんやりと眺めている。
「今度は誰に会わせるつもりです?」
志郎はそれには答えず、逆に波瑠に訊ねてきた。
「先生っておいくつですか」
「――三十前後です」
別に隠し立てすることでもないが、波瑠は曖昧に答えた。すると、志郎は驚いたが、すぐ後に続いた言葉には嘲りが込められていた。
「三十で『先生』って呼ばれるのってどんな気分です?」
「年齢は関係ありません」
「『先生』は『先生』ですよ。そう呼ばれることに慣れてるでしょ?」
「そんなこと――」
ない、とは言い切れなかった。波瑠は急に恥ずかしくなってきた。
「僕は『先生』と呼ばせてもらいますよ。だって先生は親父の無実を証明してくれるんでしょう? ご自分の興味というだけで」
波瑠は返答に窮した。波瑠がこの件に関わろうとする本当の理由を疑われているのだろうか。彼はサンドイッチの包みを丸めて助手席に無造作に放り出すといきなり車を発進させた。
急いで発進させたわりには彼はのんびりと車を走らせていた。先に発進したコンビニ配送トラックを追い越そうともしない。それどころか、そのトラックにぴったりくっついている。
「もしかして――」
と言いかけて波瑠は気付いた。トラックの荷台の扉に掲げた名札に「ドライバー 鈴谷真一」とあった。
「去年の暮れからこのルートです。五年前は別の会社でした」
志郎はトラックを追い越して路地に入っていった。波瑠が後ろを振り返ると、トラックが続いて入ってくるのが見える。彼はトラックのルートをわかっていて先回りしたのだ。志郎がどうするのか訝っていると、彼はハザードを焚いて停まり、路地を塞いだ。
「どうぞ」
「ここで、いきなりですか!」
トラックがクラクションを鳴らしはじめた。
「一緒に行ってもいいんですけど。ああいうタイプなら――」
「どうせ顔馴染みなんでしょうね!」
波瑠は車を降り、名刺を取り出しながらトラックへ近づき、半分開いている窓の中へと名刺を差し入れた。
「私、槇村法律事務所の槇村と申します。鈴谷真一さんですね。五年前の交通事故のことを憶えていらっしゃいますか」
鈴谷はみるみる表情を硬化させると、ウインドウをぴったり閉じてトラックをバックさせはじめた。
「待って!」トラックに追いすがりながら、波瑠は声を張り上げた。「あなたはタクシーが急発進したのを見てないんですよね? でも見てないのだったらあなたの供述は――危ない!」
トラックはバックのスピードを緩めないまま大通りに飛び出していった。他の車のクラクションが何重にも轟いた。それでも鈴谷はお構いなしに車の流れを断ち切ると、身がすくむようなギヤの嫌な音を立てた。そのバックから前進に切り替わる数瞬の停止状態の間に、波瑠は運転席のウインドウに回り込んだ。
「どうして嘘をついたんですか!」
しかし鈴谷のトラックは波瑠を振り切って走り去ってしまった。すぐ後に、志郎のタクシーも路地から出てきて波瑠を乗せた。
「こうなるってわかってたんでしょう!」
「素直なヤツだなんて一言も言ってませんよ」
そう平然と返す志郎に腹が立ったが波瑠は矛を収め、鈴谷の供述の論点をあらためて整理した。
「警察調書どおりなら、タクシーの急発進、そのタクシーとスクーターが接触。その後、鈴谷真一の供述どおり、トラックとスクーターの接触はタクシーの横を通り過ぎてから――」
志郎は鼻で笑った。波瑠は急いで続けた。
「もちろんそんなの信じてなんかいませんよ。スクーターはタクシーとの接触前にすでに急ブレーキをかけてるんだから、速度を維持している鈴谷のトラックに追いつくはずがありません。それに――」
「傷の位置」
「そう、傷の位置。どうしてそんなでたらめがまかり通ってしまったのかしら――」
「まだわからないんですか?」志郎は眉を吊り上げた。「どうして冤罪が起きたか? そんな議論いまさら勘弁してくださいよ!」
志郎は大きく溜息をつき、おもむろに手元のレバーを引いた。波瑠の横のドアが開いた。
「もうやめにしましょう。無駄ですから、こんなこと」
「聞いて、私が言いたいのは――」
なぜ響子がこんな矛盾だらけの警察調書を鵜呑みにしてしまったのか。佐倉側の言い分こそ正しいと認めて不起訴処分にできたはずなのに――だが、響子の話はできなかった。
「降りてください!」
志郎は声を荒げた。その表情は底知れない憎悪から湧き起こってきたかのようだった。波瑠はびくりと怯え、いわれるがままに車を降りた。タクシーは急発進した。
だが、車は五十メートル先で急停止した。ハンドルにしがみつくようにしてうなだれている志郎がリアウインドウ越しに見えた。駆け寄ると、ややあって志郎の側のウインドウが開いた。
「こんな――交通事故冤罪くらいで、と思うでしょうけどね。あなた方には日常茶飯事ですから――でもね、感じ方は人それぞれでしょう?」
苦しそうに彼は言い、ハンドルを拳で殴りつけた。
突きつけられた不条理をすんなりと受け入れられる者もいる。理不尽の嵐が過ぎ去るのをじっと耐えることができる者もいる。この佐倉志郎はそういう人種ではないのだろう。
(あれはちょっと繊細なんで――)
荒く息する志郎の肩を見つめながら、波瑠は佐倉照郎の言葉を思い出していた。志郎は言った。
「あいつ――鈴谷真一は、嘘をつかされたんです。おそらく、とてもくだらない理由で。でも、それがすべてのはじまりなんです」
11
天神署の一般来庁者用駐車場にタクシーで乗り入れると、親切にも立ち番の若い警官が空いたスペースへと誘導してくれた。志郎は警官とは目を合わそうともしなかった。
「よっぽど警察がお嫌いなんですね」
玄関へと向かいながら波瑠は志郎にこっそりと言った。
「敵地に乗り込むんです。誰かみたいに、にやついてなんかいられませんよ」
「別に、にやついてなんか――」波瑠は慌てて話題を変えた。「柿本警部補とも顔馴染みですか?」
「相手が相手ですから、顔馴染みなんかにはなりたくありません」
「本当に?」
志郎の返答がないままに、波瑠はカウンターにいた婦警に柿本に取り次いでもらえないかと訊ねた。
階段を上がったホールで二人は交通課事故捜査係係長柿本徹次警部補に出迎えられた。青い作業服に見事な太鼓腹を詰め込んだ柿本は、金縁メガネの奥の細い目で波瑠と志郎を交互に見やると、きょとんとした表情を浮かべた。
「五年前と言われても――サクラ? サクラテルオねぇ」
柿本は角刈りの頭を掻き、首を捻った。だが一瞬だけ志郎に視線を留めたときに、剣呑な光を帯びたように見えた。波瑠はさっき車の中で志郎から聞いた話を端緒に話を切り出した。
「裁判で証言台に立つのは、柿本警部補の長い経歴の中でもはじめてだったそうですね。それで大変困惑されたかと――」
柿本はベンチにどっかりと腰を下ろし、煙草に火をつけた。波瑠は鞄から警察調書のコピーの束を取り出した。
「当日、柿本さんは宿直勤務だったそうですが、柿本さんがこの事故を担当されたのはなぜですか」
「部下が出払ってたんでしょうね、私が出向いたということは」
柿本はそう言うと、灰皿を引き寄せて煙草の灰を落とした。
「実況見分にだいぶ手間取ったそうですね」
「さあ、どうでしたかねぇ、憶えてないなぁ」
「雨の降る中でおよそ二時間の現場検証、さらに二時間以上、ここ天神署の取調室で供述の録取をされたと聞いています」
「そりゃ、ずいぶん手こずったもんですなぁ」
柿本は体を揺らして笑いだした。
「ほんとそうですね。宿直で眠たかったでしょうし、雨が冷たくて寒くて嫌になってしまいますよね。宿直明けのせっかくの非番もご帰宅が遅れたら台無しですよね。それなら実況見分が滅茶苦茶になってもしかたありません」
柿本の顔から笑いが消えた。波瑠はすぐさま続けた。
「この事故、被害者が一人ではなかったんですね。一時間もしてから、やっともう一人の当事者が現れました。鈴谷真一さん――トラックの運転手です。こうなると、また一から実況検分をやりなおさなくちゃなりませんよね、普通は。そうですよね?」
柿本はへの字に口を歪めた。波瑠はたっぷり五秒の間をおいた。
「ところが、そうはなさらなかった。鈴谷さんのトラックの存在は、それまでの実況検分にたんに後付けされただけでした」
「やっぱり憶えてませんねぇ」
波瑠は供述調書の末尾に「柿本徹次」とある署名のページを開いて見せた。柿本は見ようとしなかった。
「調書を取られたのは柿本さんご自身でまちがいありません」
柿本は悠然と煙を吐き出した。煙の向こうで柿本が少し笑った。
「実は今朝から金子さんと鈴谷さんに会ってきたんです」
波瑠はいったん言葉を切って柿本の反応を見ようとした。だが彼は一片の動揺も見せなかった。
「どちらもご自身の供述に自信を持っていませんでした。どちらも事実を述べたものではない――つまり、これらの調書は創作されたのだと私は確信しています」
柿本は立ち上がると、覆い被さるように波瑠を見下ろした。
「いまさら五年も前のことを騒ぎたててどうするおつもりですか、弁護士先生――え?」
最後の一語は恫喝そのものだった。だが、波瑠はそれで火が付いた。柿本の目から決して視線を外さなかった。
「あなたが彼らの供述を創りあげたんですね」
柿本はかすかにうろたえた。波瑠は一気にまくし立てた。
「あなたは金子さんと佐倉さんだけの接触事故だと決めつけた。だから金子さんの『『第一通行帯を走行していた。タクシーが急発進したせいで転倒した』という言葉を鵜呑みにして実況見分を行った。金子さんはもう救急車で運ばれてしまって、彼の供述の信憑性について突き詰めることがその場ではできなかった。しかし、佐倉さんだけは現場にいる。そして、佐倉さんが金子さんのスクーターの存在を認識していなかったことをいいことに、これを後方の安全確認を怠ったと短絡的にとらえ、佐倉さんの『タクシーは停まっていた』という言い分をまったく聞き入れようとしなかった――おそらくは、穏やかそうな佐倉さんを見て、この人なら説得――いえ、言いくるめることができると踏んだのでしょう。ですが、物的証拠は嘘をつきません」
波瑠はばさりと現場見取り図を広げた。
「金子さんが供述しているように、第一通行帯を走行していて歩道寄りからタクシーが急発進したことに驚いたのなら、彼は第二通行帯の方向へ進路を転じて逃げようとするでしょう。それで転倒したとなると、横断歩道の擦過痕は第一通行帯から第二通行帯へ、つまり右斜め前へと刻まれることになります。しかし実際はその逆です。擦過痕は、第二通行帯から第一通行帯へ、左斜め前へと刻みつけられています――この物証が証明する事実は、金子さんのスクーターは第二車線から第一車線へと向かって転倒し、地面を滑っていったということだけです――問題はそれだけじゃありません」
柿本は一言も発さず、釘で打ちつけられたように突っ立っている。まだ終わりじゃない、と波瑠はさらに気を奮い立たせた。
「金子さんのスクーターはタクシーの運転席ドアの下の縁だけに接触したのですから、そのときには完全に横倒しの状態でなくてはなりません。それなのに――」
「どうしてそう言い切れる? 横倒しにならなくても擦ることくらいできるだろう?」
「いったいどのようにです?」波瑠は即座に応戦した。
「車体を斜めに傾けて――」
「このようにですね」
波瑠は阪上日出夫の鑑定書を取り出すと柿本の前に広げ、添付写真のページを開いた。タクシーのフロントフェンダーあたりに右斜め後方から進行してきた体でスクーターをあてがっている検証実験の光景だ。タクシーが唯一擦過傷を負った、運転席ドア下端あたりに地面と平行に五十センチほどの傷と、その傷を形成し、たしかにタクシーの塗膜片をこびりつかせているスクーターの左フロントフォーク先端を接触させようとして、柿本と同じ作業着を着た警察官がスクーターを斜めに傾けて支えている。柿本は勝ち誇ったように言った。
「そうだ。ちゃんとできるじゃないか」
「いえ、できません」波瑠は素っ気なく、しかし断定的に言った。「スクーターはピンポン球じゃありませんよ。二百キロ近い、とても重量のあるものです。この状態で斜め後方から接触したら、スクーターの車体はタクシーのフロントフェンダー、サイドミラー、おそらくはバンパーまで引っかけてもぎ取るくらいのことをして、滅茶苦茶に傷つけ、壊しながら、さらにスクーターの運転手はボンネットの上に転がっていることでしょう。ところが、タクシーにそんな傷はありません。あるのは運転席ドア下端からはじまるたった一本の長く薄い、上っ面の塗膜を擦り取った線傷だけです。地金に凹みすらついていません。これは転倒した状態で、タクシーの車体とごくごく浅い角度で、薄く接触しなくてはできないものです。言ってみれば、スクーターはタクシーの頬を撫でていっただけなんです」
さらに波瑠は、喋りながら用意していた別の写真を開いて見せた。
「これは鈴谷真一のトラックにあった擦過痕を撮影したものです――これは柿本さんご自身が撮ったものですよ」
写真には、二トントラックのアルミ荷台の側面に弧を描いたような擦過痕が写っている。
「この傷はちょうどスクーターのハンドルの端と同じ高さにあります。スクーターは、タクシーに対しては完全に転倒した状態でなくてはその擦過痕を残せませんが、一方ではトラックに対しては直立した状態でなくてはなりません。そして、大型スクーターに限らず、二輪のオートバイは一度完全に転倒してしまうと再び立ち上がって走行を続けることなどまずあり得ません。二百キロ近い重量のものが転倒した状態から再び立ち上がるには、そのきっかけとなる大きな力が必要ですが、横倒し状態で、ひっくり返った亀のようにタイヤを浮かせて地面を滑走しているときにそのような力が加わることはありません。衝突してもです。ましてやタクシーの塗膜を薄く剥ぐ程度の接触にそんな反作用の力はありません。二百キロプラス乗員の体重を起き上がらせるには、それ相応の力が――タクシーをがっつり、べっこり壊すくらいの力が働かなければなりません。でも、そんな傷はまったくありません。つまり、スクーターはまず直立状態でトラックに接触し、その後、転倒した状態でタクシーと接触したと考えるのが合理的だと思われます。要するに、スクーターがタクシーとトラックに接触した順序は、柿本さんの調書とはまったくの逆でなくてはならないのです」
波瑠は言葉を切った。だが、柿本の反応は濃い紫煙に隠れてしまっていた。まだ足りないのか、と波瑠は焦れた。
「せっかくの創作調書も、残念ながら支離滅裂、辻褄合わずの滅茶苦茶なものでした。柿本さんが作文された調書によれば、トラックが横を通過していった後でタクシーが急発進したということになっています。このことを、金子さん、鈴谷さん二人の供述と辻褄が合うようにするためには――スクーターはタクシーに驚いて急ブレーキをかけて転倒し、タクシーと接触した。そのときにはトラックは何事もなくもうタクシーの先に行ってしまっているから、スクーターは大急ぎで立ち上がってトラックを追いかけていって接触し、また転倒ということにならなければなりません。柿本さんご自身が出廷された際の証人尋問調書のお言葉をお借りすると、これこそ『合理的に符合する』わけですけどね」
底意を込めて嘲笑の笑みを向けると、柿本は語気鋭く言った。
「事故ってのはね、あんたが言うようにちんたら起きてるもんじゃないんだ。ガーッときてドーン、ザッ、ガシャンなんだ。わかるか?」
波瑠は思わずぷっと吹いてしまった。志郎もだ。
「つまり、ガーッと滑ってきたスクーターがドーンとタクシーにぶつかって、その勢いでザッと起き上がってトラックにガシャンと?」
「そうとは言っていない!」柿本は顔を真っ赤にした。「それに俺がどこをどう擦ったと決めたわけじゃない!」
「そうですね。柿本さんは接触の順序を勝手に決定なさっただけです――佐倉照郎を事故の第一原因とするためだけに」
「ちょっと待て」柿本は大きな手を波瑠の前に突き出した。「俺を責めるのはお門違いじゃねえか?」
「私は柿本さんの捜査方針に問題があったと――」
「だから裁判所で白黒つけるんだろう。後のことは俺の知ったこっちゃねえよ」柿本はふて腐れたように煙草を吹かした。
「しかし、あなたが最初に佐倉さんを加害者扱いしたんじゃありませんか。鈴谷真一が現れたとき、本来なら実況検分を一からやり直すべきところ、それを怠ったんです! それに、鈴谷真一は事故当事者であり、その自覚もあるのに現場から一時間近くも離れていた。本来なら彼には佐倉さんとともに負傷者を救護する義務があります。つまり、鈴谷は救護義務違反の罪に問われるはず――いえ、彼こそ轢き逃げの罪に問われなければなりません! それなのにあなたは彼を不問にした。そのかわり、佐倉照郎にすべての過失を負わせ、佐倉照郎を取調室にまで押し込んで尋問し、あなたが作文した自白調書に強制的にサインさせた!」
柿本はおどけたようにまいったまいったと両手を挙げて降参のポーズをとった。しかし、その目はもとの薄ら笑いを含んでいた。
「弁護士の前でいい顔をする輩にはいつも苦労させられとるんです――でもね、私はこの目で見ていたんですがね、佐倉照郎は自発的に署名をしていましたよ。動かせない事実とはこれのことですな」
「――近いうち、法廷でお会いするかもしれませんね」
それが捨て台詞だとはわかっていながらも、波瑠は口に出さずにはいられなかった。ファイルを片付け、柿本に一礼して背を向けると、波瑠は志郎に先立って階段を降りていった。
志郎より先に、波瑠は自分でドアを開けて後部席に乗り込んだ。
「いやぁすごかった! 宣戦布告ですか」
志郎は他人事のように面白がっているようだった。
「ただのヤケクソです」
「『法廷で会いましょう』なんて啖呵切りましたけど、金子も鈴谷も証言を覆しませんよ。もちろんあの柿本が親父に自白を強要したなんて白状するはずもないし」
柿本を攻めきれなかった忸怩たる思いだけが波瑠の胸に残っていた。傲慢と恫喝の前では正論は無力なのだと思い知った。それでもまだ諦めたくはなかった。
「攻めどころはまだあります。青田智宏。唯一の目撃証人」
「あいつは見ていない」志郎は素っ気なく言った。「半年も経ってから現れた目撃者なんて、常識から考えればどういう意味かわかるでしょう? それなのに臆面も無く、ヤツはやりやがった」
「ヤツというのは?」
「金子大介に決まってるでしょう! あいつが自分に有利になるような証言を青田に頼んだにちがいないんだ」
「グルだっていう証拠はあるんですか」
「探偵でも雇いますか? けどね、百万吹っかけられますよ。成否にかかわらずの値段だそうですよ。いい商売ですよねぇ、人が困ってるってときはとくに。ねえ、先生。弁護士なんてそうでしょう?」
ミラーを介して志郎の視線が突き刺さった。
「どうしても考えてしまうんですよ。裁判ってイベントをメシの種にしてる人たちがいるってことをです。裁判官様、検察官殿、弁護士先生。ちがいますか? 先生だって誰かの弁護を引き受ける。人助けになってると思い込める上に、稼ぎにもなってるんだからそりゃ気分もいいでしょう。ところがこっちはちがう。金と時間と精神を――人生そのものを削り取られる一方だ。金はとくに重要ですよ。一番の味方のはずの弁護士に払った金が、親父にとって一番の大打撃だった。親父にはもう、ささやかな余生なんてない。毎晩埃まみれになって道路工事の旗振りだ――死ぬまでね」
波瑠は言葉を返せなかった。
「結局みんなグルなんですよ。庶民騙して裁判には真の正義があると信じ込ませ、その実、無い金を搾り取る。先生にその自覚がありますか?」
「騙してなんか――」
「だったら一番最初にはっきり言ってやんなよ! 裁判なんかやったってあなたは絶対負けます、無駄です、お帰りくださいって!」
志郎の剣幕に波瑠は絶句した。志郎はふと我に返り、険しくなった表情を緩めた。ただ、そこで本来の皮肉屋の彼に戻ることもなく、声も顔つきも抜け殻のように虚ろになった。
「自分は無実なんだから、裁判で当然無罪になるなんて考えるのは単細胞のバカだけ。俺も親父もどうしようもなくバカだった。濡れ衣だろうが何だろうが、あんな交通事故ごとき、泣き寝入りしときゃよかったんだよ」
「そんなの――」
まちがってる、という言葉が喉につかえた。志郎はミラー越しにじっと波瑠の目を見つめ、そして目を逸らした。
12
ダークパープルのシルビアがスロープを滑り降りてきて、すでに駐車スペースに停まっている仲間たちの車に合流した。
箱崎PA、夜八時過ぎ。
昼間、志郎とともに青田智宏がアルバイトをしているガソリンスタンドに行くと、彼は時間と場所、そしてタクシーでなくまともな車で来いと指定され、波瑠はひとりで自分のCR-Xで来ている。
志郎が彼らの集会を「下品の品評会」と評した理由が波瑠にもすぐにわかった。青田の車は最優秀賞といったところだろう。
ボンネットとトランクリッドに鎮座する派手なGTウイングはカーボンファイバー製。ブレンボのブレーキに、タイヤはスポーツ仕様。車内に張り巡らされたロールバーにバケットシート、小径ステアリングホイールに、ピラーとダッシュボードには五個も六個も計器類がずらりと並べられている。
公道を走る程度の速度なら高性能のブレーキもハイグリップタイヤもウイングもいらない。ロールバーに至っては論外だ。これは五点式シートベルトをきつく締めていないと、万一の事故の際、体が躍り上がって側頭部を打ちつける危険すらある。余計な計器類も、そんなものが必要になってくるのは本当のレースか計器で見張る必要があるよっぽどのポンコツ車だけだ。極端な低車高は最悪の乗り心地。図太いステンレスマフラーは重すぎるし、排気が抜けすぎる。スポーツ仕様ならクロームメッキのホイールは無用だ。要は、金を注ぎ込めるところに注ぎ込むことに執心しているだけで、彼らは純粋に車が好きなのではないのだ。
余計にそう感じてしまうのは、彼らの車の至る所に仕込まれたギラギラした電飾や、カーステレオからの重低音のせいだけではなく、やはり青田とその仲間たち、それに彼らにくっついている派手な女たちの、まるでパーティーでもはじまったかのようにはしゃぐ様を目にしたからだろう。彼らにとって車は、流行りの服や派手なアクセサリーに過ぎないのだ。
青田は助手席に不機嫌そうな女を残したまま車を降りると、ちらと波瑠の車を見るなりへらへらと笑いだした。
「彼氏に聞いてない? 俺に勝てたらなんでも喋ってあげるって」
波瑠の車が、白のくすんだ古いCR-Xだとわかって青田は薄笑いを浮かべた。彼の仲間たちも彼に同調した。
「勝つって何にですか?」
「走るんですよ、首都高をぐるって一周」
波瑠は慌てて首を振った。公道レースなど到底受け入れられない提案だ。いまとなっては波瑠は法を遵守する弁護士なのだ。
「だーかーら、先生が勝ったらなんでも喋ってあげるって。今日は女の子たちもいるから、眺めのいい湾岸からレインボーブリッジを走りたいんだけど、それでいい?」
返事をしたのは彼の仲間たちだった。アクセルの空吹かしと彼らの奇声が何重にも轟いた。
「じゃ決まり。スタートラインは駒形降り口の看板下。中環、湾岸、レインボーを渡って都心環状ぐるっと回ってゴールはここね」
青田はさっさと自分の車に乗り込んだ。助手席の不機嫌な彼女は不機嫌そうに波瑠をじっと睨んだ。青田の仲間たちはこれからはじまるパーティの余興に高揚し、連鎖的にアクセルを吹かしはじめた。
道路照明のオレンジ光にメタリックの粒子をきらめかせながら、磨き抜かれた車たちが二列縦隊で駆けていく。波瑠はその最後尾についていた。
駒形インターが近づいてくると、波瑠のすぐ前を走る彼らの車が次々と車線を空けていく。波瑠は自ずとその車線の先頭に立った。隣の車線の最前列にはすでに青田のシルビアがいた。二秒後、駒形出路の看板の下をくぐった瞬間にシルビアが甲高い音を立てて飛び出していった。仲間たちの車も数珠連なりに続いていった。
波瑠の車は、彼らとは数台ぶんの間隔を空けていた。危険な公道レースなどする気はなかった。強引にでも話を切り出し、金子や柿本にしたように矛盾を追求しようとだけ考えていた。
湾岸線に入ると、途端に車線が広くなる。四車線道路は青田たちを活気づかせた。仲間への合図だろう、シルビアのブレーキランプが三度明滅すると、全車が一斉に唸りを上げて加速しはじめた。
彼らの速度に合わせるのに躊躇していると、携帯電話が鳴り出した。ディスプレイは「小山検事」と表示している。石黒を引き合わせられたことを思い出したせいか、あまりいい予感はしなかった。
「目撃者ですよ!」小山は嬉々と声を弾ませた。「鳴海さんはやっぱり無実だったんです!」
波瑠は唖然として言葉を返せず、見る間に遠ざかるシルビアのテールランプをただ見送るばかりだった。
波瑠は東北道を急ぐ道中ずっと、粟立つ胸の内で何度も同じ文句をつぶやいていた。
(現れた――青田智宏のように)
五日前に波瑠が事故現場で行った再現検証の様子を人伝に聞き知った者が、自分こそが目撃者だと名乗り出てきた。
波瑠は単純に喜んでいられなかった。
この二日間、佐倉照郎の交通事故冤罪裁判の真実を追求しようとしてきた。匿名電話の男はついには響子の冤罪事件に佐倉照郎の関与を認め、石黒も態度で示唆した。響子の冤罪に佐倉照郎は必ず関わっている。ならば佐倉の冤罪を晴らすことが直接あるいは間接的に復讐者の怨念を鎮めることに繋がるかもしれない、響子の冤罪をも晴らすきっかけになるかもしれないと波瑠は期待していた。
しかし、佐倉の裁判の様相が明るみになるにつれ、検察官鳴海響子に対する疑惑は膨らむ一方だった。
響子もまた電話の男や石黒と同様に、手帳を波瑠に渡すまでは、佐倉照郎やその冤罪裁判の存在を意図的に隠そうとしていたにちがいないのだ。彼らが暴かれたくなかった真実とは何か。それは捜査や裁判がずさん過ぎたというだけではないはずだ。
それはつまり不正だ。
(現れた――青田智宏のように)
佐倉照郎は青田智宏の存在によって有罪が決定づけられた。
不意に嫌な考えが過ぎった。理性的とは決していえないものだ。だがいま、波瑠はそれを理性の天秤にかけようとしていた。
(キョウちゃんだけでも――無罪に)
しかしその途端、波瑠は吐き気を催してきた。
13
宇都宮市内にあるビジネスホテルのベッドで泥のような眠りから目覚めた後、波瑠はシャワーを浴びて軽いブランチをとり、コンビニで下着と化粧品を買い込んだ。ホテルの部屋に戻って下着を替え、固い歯ブラシで歯を磨き、薄くファンデーションを塗ると、鏡に映る姿だけはどうにかまともなものになった気がした。
小料理屋「雅」は繁華街からはずれたところにこじんまりと店を構えていた。「準備中」の札を横目に中に声をかけると、漂う醤油の匂いを追い越すように女将の声が応えた。
「弁護士さんね。お待ちしてました」
女将は池内雅子と名乗った。彼女は波瑠を白木のカウンターに座らせると、自分は調理場に立ってすぐに背を向けた。
「ごめんなさいね、仕込みしながらで。ウチは煮込みが売りだから」そう言いながら雅子は皮を剥いた根菜に包丁を入れはじめた。「検事さんにお話ししたことを、もう一度お話しすればいいのよね」
「ええ――お願いします」
そう返事をしたが、波瑠は彼女の後ろ姿に息をのんでいた。
「あたしはあの青い車があそこの轢き逃げに関わってるなんて全然思いもしなかったの。だってあの青い車はただあの交差点を曲がっていっただけなんだもの――」
その後、彼女は響子が供述したすべてを裏付け、さらにその交差点で行われた男二人の茶番劇の一部始終を語った。
東京に戻ると波瑠は響子に電話をかけた。重だるい気分を払拭できないうちに繋がった。
「目撃者がいたわ」
「小山君から聞いた」
普段より低い調子の声は苛ついている証拠だ。誰よりも早く吉報を告げたつもりでいる小山の意気消沈する顔が目に浮かんだ。
「あなたの供述を支えてくれる証言よ――いいのね?」
「どういう意味?」
互いに真意を探り合い、互いの受話口が押し黙った。沈黙に耐えられなかったのは波瑠の方だった。
「あなたは、どんな手を使ってでも勝ちたい?」
「――それが裁判でしょう?」沈黙の底から響子が答えた。
電話が切れると、波瑠は舞子が勤めるスーパーに向かった。
買い物客で賑わう惣菜売り場へ向かうと、棚に弁当のパックを並べる舞子の後ろ姿を見つけた。
「あら」
顔を上げた舞子はふっと表情を緩めたが、その笑みはぎこちなかった。舞子はすぐに波瑠の意図を察したようだった。
「これだけ済んだら休憩だから」
裏手にある搬入口の扉の前で待っていると、舞子が現れた。彼女の手には紙パックのジュースが二つ、一つを波瑠に渡し、自分のはさっさとストローを突き刺してごくごく飲みはじめた。中身が空になってあぶくを吸い込む音を何度か立てると、舞子はそっと息をついた。それから何も言葉を交わさない時間が十秒も続くと、波瑠は舞子の出方を待つのは酷だと思うようになった。
「キョウちゃんは、どんな手を使ってでも勝つつもりでいます」
「あの子らしいわ」
「おばさまは?」
「あたし? あたしは――」
「『雅』っていう小料理屋さんの女将さんが目撃証人なんです。おばさまと同じくらいの歳かな。その人が無実を証明してくれる――」
「それは――よかったわねぇ」
舞子はにっこりと微笑んだ。波瑠はそれを見ないようにした。
「その女将さん、後ろ姿がおばさまにそっくり。ちょうど重なるの、おばさまと雰囲気とか佇まいとか、話し方とか。宇都宮に赴任してから、キョウちゃんはたまたまそのお店を見つけて――そのお店によく通っていたんだと思うの。お店の常連だったんだと思う」
舞子は黙っていた。波瑠は途端に恐くなった。それでも止めるわけにはいかなかった。
「でも――キョウちゃんはそんなことはしない。自分に有利な証言を、親しい人に頼んだりはしないと思う。ましてや、自分の大好きなお母さんと同じ背中の人には、そんなことは絶対に」
「ハルちゃんねぇ、その『雅』ってお店、あたしも知ってるわ。だってね――」
舞子がさばさばとした調子で言いかけたところを波瑠は遮った。
「それに、いまのキョウちゃんだったら、その目撃証人は無罪を勝ち取るためだけに必要なんじゃない。裁判官でも検察官でもない、他の誰よりも、あたしを納得させなくちゃダメなの。だけど、その人の証言じゃあたしを納得させられない。偽の証言――」
舞子は俯いた。波瑠は続けた。
「その人は知らなかった――キョウちゃんがずっと隠していた秘密を。クラクション、それと原付バイクのこと。でも、それをいま知っているのは、あたしとキョウちゃんと、石黒さんていう人と、あともう一人だけ。おばさまはそれを知らなかったから――」
その先の言葉はもう出てこなかった。波瑠は舞子に背を向けた。そのとき舞子が口を開いた。
「あの子、被告人席に立つ人たちをいっぱい見てきてるから、でもそういう人たちと自分は全然ちがうからってあの子は気丈に振る舞って――でも現実は、あの子は被告人席に立たされて、責め立てられて――あたしは自分の子を守りたかっただけなの!」
舞子は波瑠の腕にすがりつこうとした。だが波瑠は体を硬くして拒んだ。舞子は諦めたようにか細い声で言った。
「公判が終わったあとでおキョウさんと行くと、いつもおいしい煮込みを温めてくれてて――女将さんも、我が娘のようにあの子のこと心配してくれてて、大事にしてくれてるの――だからあたし、藁をもつかむ思いで――」
波瑠はもうそれ以上聞くまいと歩き出した。振り返ればこの目に滲む憐憫の色で舞子を傷つけてしまうかもしれなかった。だが、車の窓に舞子の姿が映り込んでいた。舞子は深々と腰を折って頭を下げていた。波瑠は逃げ出すように車を急発進させた。
14
波瑠はタクシーで佐倉照郎のアパートに向かった。
タクシーを降りて歩き、のどけし陽気に暖められた袋小路を突き当たると、アパートの敷地内から男の子の声が聞こえてきた。
五、六歳といったところだろうか、波瑠のバイクの上を、縦横無尽に青いミニカーを飛んだり走らせたりしている。ありふれた、しかし荒々しいエンジン音の口まねに彼の熱い気持ちがこめられ、ついにはミニカーはCBRのリアシートの端から勢いよく押し出され、空高くジャンプした。青い軌跡が頂点に達した瞬間、波瑠はぞくりとした。
男の子はミニカーが転がっていった草むらへと駆けだしていった。そして青い車は彼の手に押されながらまるで本物のラリーカーのように土埃をあげながら雑草の株を縫って走り出てきた。それはまさにラリーカーそのもの、ブルーのインプレッサWRX――響子の車と同じものだった。
「ねえ、その車、おねえさんに見せてくれる?」
動揺を抑えながら男の子に頼みこむと、彼は鼻の下の青っ洟を舐めてから波瑠の手の平にミニカーをのせた。波瑠はその精巧なミニチュアモデルに目を寄せたとき、思わずあっと声を上げた。
「それ、さいしょからよごれてたんだよ」男の子は言った。
「これも?」
波瑠がミニカーのボディを指さして訊くと、彼はうなずいた。波瑠はその擦り傷と剥げ落ちかけた黒のマーカーに目を凝らした。
擦り傷は針のような尖ったもので刻みこまれていた。擦り傷もマーカーも、たしかに響子のインプレッサと同じ位置に刻まれたり描かれたりしていた。すなわち、擦り傷は島田の自転車のペダルが擦れたとされた位置、そしてマーカーの印は島田の靴のゴム底が擦れた位置と、島田と榎木の掌紋が発見された位置である。
「隣のおじちゃんにもらった」
男の子はアパートの二階を指さした。佐倉照郎の部屋だ。
そのとき、波瑠はふと思い出した。
「他にこんな車のおもちゃをもらったことある?」
彼は階段を駆け上がり、自分の部屋の前にあるおもちゃが詰まったカゴから白いミニカーをつかんで戻ってきた。それは前にここに来たときに見たものだった。白のクラウンロイヤルサルーン。ボディには泥汚れや薄い擦り傷の下に、やはり尖ったものでくっきりと刻まれた傷跡があり、さらには、ほとんど消えかけているがマーカーの印の痕跡もあった。
佐倉照郎は不在だった。
波瑠は表の通りでCBRのエンジンをスタートさせた。いつもなら心を高揚させてくれる排気音も、いまではあまたある騒音の一部でしかなかった。頭は白のクラウンのことでいっぱいだった。
(あなたがつきまとってきた人たちの中に、白のクラウンに乗ってる人はいる?)
志郎にそう問い質すことの衝動と躊躇の狭間で波瑠は揺れていた。問えばなぜ唐突に「白のクラウン」のことなど持ち出すのかと彼は訝るだろう。志郎が潔白であったとしても、勘のいい彼のことだから、波瑠が本当は何を知りたがっているのかと考えるにちがいない。例のストーカー行為によって彼が「白のクラウン」の乗り手をすでに知っていればなおさらである。槇村波瑠という弁護士は、ひょっとしたら父親の冤罪を晴らすためにやってきたのではないのではないか、と。
ただ、彼こそが復讐犯だとしたら話はまたちがってくる。もしそうならば、響子の冤罪判決を彼が把握しているのは当然で、となれば、波瑠が佐倉照郎の前に現れた本当の理由も当然はじめから十分すぎるほど知っているはずだ。
これまでどおり佐倉の冤罪事件に興味があるふりをすべきか、あるいはもう見抜かれていると判断すべきか。
そのときヘルメットのインカムが携帯電話の着信を知らせた。
「あんた、母さんに何を言ったの! あんたが――あんたが!」
響子は取り乱していた。そんな声はかつて一度も聞いたことがなかった。ただそれも一瞬のことで、彼女はすぐに声を落とした。
「――いま、病院にいるの。立石病院よ」
そこで通話が切れた。波瑠はCBRを瞬時に反転させ、アクセルを一杯まで捻った。
舞子はベッドで寝息を立てていた。そばにいるのは響子一人きりで、波瑠が病室に入ってきても彼女は振り返りもしなかった。響子は状況を淡々と話した。
急性アルコール中毒。
波瑠と別れた後、舞子はパートを早退してどこかで酒を買い、家で浴びるように飲んだ。響子が言うには、舞子は夫に死なれて酒に溺れた時期があったが、しばらくして一切の酒を断った。彼女が酒を浴びるように飲んだのは以来なかったことだという。
「あたしのせいよ――あたしが悪いの――」
響子は独り言のようにつぶやいた。そしてやはり波瑠を振り返りもせずに言った。
「呼んで悪かったわ。たいしたことじゃないの。もう行って――」
静かな言葉だが、彼女は明らかに激しい怒りを抑え込んでいた。
病院を飛び出すと、波瑠は猛然とバイクを走らせた。波瑠もまた全身に怒りの熱を帯びていた。
一刻も早く響子の冤罪を晴らさねばならなかった。舞子のためにも。舞子をあそこまで追い込んだ者たちが憎かった。復讐犯を、復讐犯を生んだ冤罪を、冤罪を生んだ者たちを波瑠は激しく憎悪した。
15
素肌にぴったりとしたインナーを着込み、革ツナギに爪先を通していく。思いのほかすんなりと太腿まで通り、八年前より自分が痩せたことを知った。ガレージでまだ熱いCBRのエンジンに火を入れると、アイドリングの排気圧によって鼓膜が圧された。ヘルメットを被ると途端に外界が遠ざかる。鈍った聴覚の中で、胸中にいまだ怒りが沸々と煮えたぎっているのをたしかめると、波瑠はシャッターが開ききるのを待たずにガレージを飛び出していった。
箱崎PAに青田たちの車が流れ込んできたのは昨日とほぼ同じ時刻だった。青田が車を降りてきた。助手席の不機嫌な女もだ。
「五年前、あなたは目撃証人として証言台に立った。今度また証言台に立って、五年前の証言が誰の指図だったか喋ってもらうわね」
「――こんなちっこいバイク、ずるいでしょ」
青田は顔を引きつらせながら波瑠の出で立ちとCBRに精一杯の嘲りを込めた一瞥をくれた。しかし、連れの女がいつもの不機嫌そうな顔で青田の肘を小突いた。
「しょうがねえなあ」
暢気な取り巻きたちは嬉々として自分たちの車に乗り込んだ。青田は連れの女が助手席に乗ろうとするのを追い払い、苛立たしげにアクセルを空吹かしした。それに仲間の車たちが呼応し、PA中がビリビリと震えだした。
波瑠はヘルメットを被ると、何重もの排気音に聴覚が痺れかけた無感覚の中心で、速くなった胸の動悸を感じていた。
と、唐突に波瑠は誰かに肘をつかまれた。青田の連れの女だ。彼女は波瑠のヘルメットの耳元に口を寄せた。
「勝って」
女ははっきりとそう言うと、仲間たちの車の方へ戻っていった。青田のシルビアが激しくタイヤを鳴かせて発進した。
(勝って?)
そもそも青田はなぜ勝負を持ちかけるのか。なぜ連れの女は彼が負けることを望んでいるのか。彼女は青田の不正を――偽証を知っていて、青田もそのことを懺悔したがっているのではないか。
となればこの勝負、波瑠は勝たなければならなかった――絶対に。
本線に合流したところで、先の両国ジャンクションのカーブをLEDやストロボで飾り立てた車列が滑るように走り抜けていくのが視界に入った。
S字カーブを抜けたところで波瑠は最後尾のマークⅡに張り付いた。その車が発したパッシングの合図は順々に前へと伝達され、やがてブレーキランプの三度の明滅となって折り返して戻ってきた。マークⅡのリアシートの女が前へ行けと波瑠に手を振った。
波瑠は車列を縫うように加速し、先頭のシルビアに並んだ。唯一電飾を点していないダークパープルの車は煌々とした夜景をぽっかりと穿つ闇のようで、ヘッドライトと排気音だけがそこに車が存在していることの証だとさえいえた。ただそれでも、断続的にナトリウム灯のオレンジ光を浴びるときだけは、メタリック粒子を妖しくきらめかせていた。
「レディーファースト!」
青田は窓から顔を突き出して怒鳴った。
波瑠は遠慮せず前に出ると、周囲の車の流れに乗って走った。青田もすぐには追い越しをかけてくる気配はなかった。遅いペースは大歓迎だ。それに、手の内を見せるにはまだ時期尚早だ。
堤通インターを通過し、波瑠を先頭にした車群が両岸の堤防間二百メートルを超える荒川河川敷を渡り、堀切ジャンクションの分岐路を右へ進路を取ってカーブを駆け抜けていく。
と、すぐ背後でシルビアが荒々しく吼えた。いつの間にかバックミラーいっぱいに黒い塊が二つの青白い目を光らせていた。
(こんなところで抜くつもり? ここは一車線しかないのに――)
シルビアは一息に加速し、路側帯の斜線部分に車体をはみ出させて波瑠のCBRに並んだ。抜かれると思ったとき、助手席のウインドウが開いた。
「いいケツしてんなぁ!」
青田は手を伸ばして波瑠の尻を揉むような仕草をした。
(どこまでもバカな男!)
波瑠は顔を背け、アクセルを思い切り捻った。もう悠長に構えてなどいられなかった。暢気な言葉とは裏腹に、青田の目は刺激を求めてギラギラしていた。波瑠は負けじと自らを奮い立たせた。
中央環状線との合流区間で、波瑠はフルスロットルで加速した。ミラーに映るシルビアの反応は遅れた。闇に浮かぶ二つの光点は他車両の光点にまぎれた。その間に波瑠は一台の大型貨物、一台のハッチバック、二台の軽自動車を追い抜いた。青田はといえば、轟音を轟かせながら十秒後には再び波瑠に迫ってきた。
その間、十秒の猶予の間に、波瑠は前方数台の車両の速度とそれらの相対的な位置関係をイメージし、予測シミュレーションを走らせていた。そして、四台前を走る十トントラックに目標を定めた。それは図体が大きいながらも比較的速い速度を維持し、集団のペースメーカーとなっていた。波瑠はその全長の長いトラックに追いつくと、そのすぐ右後方で太いワイヤーで繋がったかのようにぴたりと速度を合わせた。スピードメーターはきっかり時速八十キロ。
ミラーに青白いハイビームがぎらついた。後方五十メートル、四十、二十、十、五――青田は波瑠の真後ろでパッシングを繰り返し、ホーンを派手に鳴らしはじめた。
波瑠は挑発に乗らなかった。左車線はトラック、右車線は波瑠のCBRが塞いでいる。シルビアには追い抜く隙を与えない。
そんな思惑を察したのか、シルビアは急に車線を変えてトラックのバンパーに触れんばかりに接近した。波瑠の真横――また青田の減らず口が飛び出すのかと思ったが、彼はホーンを鳴らしてトラックを煽るのに夢中になっている。その苛立ちがトラックのドライバーに伝わったのか、トラックが速度を上げはじめた。波瑠も間髪を入れず速度を上げる。青田はさらに車の鼻先を左右に振ってトラックのバックミラーにハイビームをアピールしはじめた。
ついに根負けしたのか、トラックはゆうに乗用車二台分を超えるロングボディを無理矢理波瑠の方へ寄せてきた。
波瑠は、トラックの車体と側壁とで狭まりつつある右車線を一気に加速してすり抜け、トラックの前に飛び出した。そしてすぐにその鼻先を回り込んで今度は左車線に入った。ミラーをのぞくと、広がりつつある左車線をシルビアがどうにかすり抜けてくるところだった。波瑠は余裕たっぷりにじわりと速度を落としていった。波瑠の背後についた青田も速度を落とさざるを得なかった。そして今度はトラックのすぐ左後方に見えないワイヤーでしっかりと繋ぎ止められる。青田は窓から怒りの握り拳を突き上げていた。さっきのいやらしい手つきの方がまだかわいげがある。
(これが勝負ってもんでしょうが!)
十トントラックにぴたりと速度を合わせる。そのタイヤのかすかな動きも見逃さない。いまのところはほんのわずかな揺れ動き。それが直進走行中における正常な範囲内でのふらつきであるうちはまだいい。だが、もうまもなく、確実に、ラインとタイヤは意図をもって狭まってくる、跨ぎ超えてくる――青田が再びトラックをパッシングとホーンとで煽りはじめたのである。
タイヤとラインの幅が徐々に狭まってくる。数瞬遅れてトラックのウインカーが点された。しかしその一瞬前には、波瑠はギアを一つ落としてアクセルを思い切り捻っていた。
CBRは鋭い反応と背中を蹴飛ばすような加速を見せ、波瑠はトラックのウインカーが三度目を瞬くのを見ないうちにその鼻先を抜けるとすぐさま右車線に移り、速度を落としてまだ完全には車線変更を終え切っていないトラックの半分ほどまで後退した。青田のシルビアは五秒も遅れて車間を詰めてきて、怒り心頭といった様子で煽り立てるばかりだった。
気付くとトラックは速度を落として後退しようとしていた。
波瑠はもうトラックに構わず、前方に意識を集中させた。二百メートルほど先を走る集団の最後尾は、波瑠がいまいる集団から抜けていった速い車たちではなく、すでに前の集団の中の速度の遅い数台に取って代わられていた。だが、依然として一塊ではあった。
その間に、十トントラックのヘッドライトがCBRのミラーに映り込むまでに後退していた。青田は波瑠のバイクとの車間を詰めてトラックのすぐ前へ躍り出ようとしていた。
波瑠はフロントタイヤが浮き上がるほどに一気に加速をした。前方集団の最後尾へは百メートル強。シルビアも鋭く反応してついてくる――追突寸前までCBRに詰め寄り、いきなり車線を変え、追い越しをかけてくる――だが、すんでのところで波瑠の方が先に集団に達し、青田は遅い車たちに阻まれた。
この機を利用しない手はない。
波瑠は遅い車たちの間隙を縫って先頭に立つと、息つく間もなく次の集団へと追いつき、溶け込み、そしてここでも先頭に立った。
緩い左カーブ、短い直線、緩い右カーブ――この複合カーブをできる限り高い速度を保って駆け抜け、葛西ジャンクションの分岐路に飛び込む。大きな右カーブの向こうの東京湾に飛び出すかというほどのぎりぎりの速度を維持してバイクを倒し込んでいく。カーブを終えてバイクを起こしたところで、幅一キロを超える荒川河口を渡る間の一瞬だけ、波瑠は後方を振り返った。高回転域で回し続けるシルビアの直列四気筒ターボエンジンの唸りがここまで轟いてくる。ハイビームで前を走る車をなぎ払いながら、ちょうどジャンクションの分岐路にさしかかるところだった。波瑠は坂を駆け下りながら、鬼門となるであろう湾岸線西行きの本流に溶け込んでいった
「広い!」
四車線道路を見渡しながら、波瑠は思わずヘルメットの中で絶望の声を上げた。しかもそれぞれの車線の幅も広い。バイクの車幅程度でこれまでのように青田の頭を押さえることができるのか――。
予想以上に流れの速い第三車線、さらに第四車線へと移っていきながら、波瑠はここへきて勝機が手の内から漏れ出ていくのを感じていた。それでも、制限速度を四十も五十も超える速度を出してまで、青田が遅れをとっているいまのうちに引き離しにかかる考えはなかった。それをすれば青田も速度を上げて必死に追ってくるにちがいないからだ。
気力を奮い立たせると、波瑠は第一車線へと戻っていった。交通量はけっして少なくない。四車線のいずれも前後を見通せるほど空いてはいなかった。もう数秒もすればバックミラーの視界にシルビアが映り込んでくる。
青白いハイビーム――きた。光軸が鋭く左右に振られる。次々と前を走る車たちを煽り、追い抜きにかかっているのだ。焦りと苛立ちが手に取るようにわかる。
波瑠はいったん後退して、隣の車線を走るバンの左後ろに張り付かせた。フロントウインドウ越しに青田の顔が見えるまで接近してきたシルビアは、即座に車線を変えた。CBRのバックミラーからも消えた。慌ててさっと振り向くと、シルビアは第二、第三を超え、一気に第四車線まで飛び移ろうという勢いだった。ほんのコンマ数秒の間に目に焼き付けたハイビームの軌跡と速度を脳内に叩き込むと、波瑠も加速して隣のバンを一気に追い抜いてバンの前へ、そして第三車線のトレーラーの壁の前に出て、さらには右端の第四車線へと渡っていった。タイミングとしては最右端の車線にのったところで青田のハイビームがミラーを貫くはずだ。
第四車線――バックミラーがそそり立つトレーラーと路側壁との狭間に二つの発光体を捉えた。イメージ通りだ。青田の舌打ちが聞こえてくるようだった。しかし、シルビアはすぐにまたトレーラーの後方に姿を消した。波瑠もそれを視認すると車線を戻っていく。背後のトレーラーの速度維持を確認。さっき追い抜いたバンもトレーラーと併走中――その二台の隙間から一瞬だけ青白い光線が差し込んだ。その横滑りの速さからすると第二車線に留まろうという気はないらしい。となれば青田は左端の車線から前へ出てくる――波瑠は弾け飛ぶように第一車線へCBRを寄せると、第二車線にいる遅いバンのすぐ左前まで下がった。
そのときちょうど横滑りしてきたシルビアの鼻先を押さえる格好となった。うまい、と波瑠は喝采をあげた。
波瑠は眼球だけを動かして他の車線を見渡した。第三と第四の流れが速くなっている。第三車線のトレーラーは波瑠より前に出ていた。第四ではそれより速い速度でSUVが駆け抜けていった。
ミラーが不意に暗転した。シルビアの姿がミラーの視界から消えていた。すぐさま振り返ると、右後ろのバンの後方に留まっているのが見えた。ただ、さらに動きがあった。第三車線はトレーラーがいるが、第四車線はSUVが抜けていった――青田が目指しているのは第四車線のはずだ。
波瑠のCBRは第四車線に達したが、後方にシルビアはいなかった。ミラーに青白いビームが差す気配もない。青田はトレーラーの背後に隠れているのか。波瑠の視界から消え去って惑わそうとしているのだろうか。
ならば、と波瑠は思い切って時速百二十キロまで加速し、前方集団の最後尾に迫った。そのときミラーに最右端の車線からトレーラーの壁をすり抜けてくるハイビームが見えた。慌てたように加速している。だが、波瑠はもう前の集団に溶け込んでいくところだ。
後尾を走行する貨物車の壁をかいくぐっていくと、そこは乗用車の群れだった。波瑠と同様に、法定速度プラスアルファのハイペースな一群らしく、すでに波瑠がいますり抜けてきた貨物車たちをぐんぐんと引き離しつつあった。第一車線でも時速百十キロ超えで速度維持。第四車線はペースを上げ続け、徐々に突出していく。このハイペース集団の中でも速い車、遅い車があって、それぞれの車間は次第に間延びしていく。いま視界に入っている七台の車すべてが波瑠と青田の勝負に飛び入り参加しているかのようだった。
波瑠は思わず舌打ちをした。さっきまでは機敏さのない車両を壁にして立ち回れたが、この集団では同じ事はできない。
波瑠は未練がましく後ろを振り返った。やはり、たったいま抜けてきたばかりの貨物車の壁まで下がるにはもう遅すぎた。貨物車の集団との間にいつの間にか五十メートルほどの空間がぽっかりと空いていた――そしてその空間に、壁を超えてきた青田のシルビアが躍り出てきた。
(押さえろ、押さえろ!)
波瑠はギアを一つ落としてエンジンを怒らせ、ハイペース集団の後尾に下がって車線を変え、その後尾にいままさに手が届かせようとするシルビアの前に立ちはだかった。シルビアはすぐさま最左端の隙間を見出し、そこから波瑠を一気に追い抜こうとした。波瑠は足の間のエンジンに鞭打って最大トルクのピークで回し、最大限に集中力を尖らせて青田の動きに反応した。フルスロットルで加速したCBRはもっともハイペースな第四車線から前のセダンを追い越して第二、第一へと回り込んでシルビアの鼻先をひっぱたくように押さえつけた。ただ、青田の反応もこれまでにない早さだった。シルビアは躊躇なくすぐに一台分下がって第二、第三――そして第四へと一気に移っていく気配を見せた。波瑠も慌てて第四車線へ――。
デジャブだ。第四車線で、ミラーには何も映り込まなかった。
波瑠は一瞬だけさっと振り返って後ろを見回した。シルビアのハイビームに慣れてしまった波瑠の目には後続車のヘッドライト以外何も認識できずにいた。
一瞬、ハロゲン灯まばらな夜景を漆黒のシルエットが穿った気がした。波瑠はぎくりとした――青田は第二車線にいた。ヘッドライトを切って闇に溶け込んでいた。第四車線へ向かうと見せかけたフェイントだった。
波瑠はスロットルをもう一度いっぱいに開けた。シルビアは再びライトを点し、頭一つ抜け出して波瑠と車線一つ挟んで鼻先を並べた。二台はエンジンを唸らせ集団から飛び出した。
波瑠にとって運が良かったのは、追いついた前方集団の最後尾で、青田の方が先に前車に妨げられてブレーキを踏まざるを得なかったことだ。波瑠はその間にSUVを追い抜き、そのままその前に躍り出た。青田は遅い車を避けて第一へ移っていく。波瑠は第二へ。そのときシルビアの前にはベンツのクーペがいた。またも運がいい。波瑠は第二をキープし、クーペとともに青田の壁となった。
辰巳の立体交差が迫ってきていた。ここで第一車線は湾岸線における役目を終え、そのままジャンクションの入路となる。もっとも警戒すべき四車線道路がついに終わるのだ。
青田の前方を塞いでくれていたクーペは分岐路を駆け上がっていってしまった。青田のシルビアは波瑠の後方三十メートル。しかし、すぐ右隣には別のSUVが併走してくれている。車線が一つ減ったぶん、対処するのはぐっと楽になるはずだ。
そう安堵した矢先、波瑠ははっとしてブレーキに指を掛けた。波瑠のいる車線のペースが急激に落ちていく。第二車線、それにつられて第三車線もだ。前車のワンボックスがウインカーを点し、第二へと移っていく。その理由を確かめようと、激しい風圧の中に首を伸ばした。はるか前方に発煙筒の灯りとたなびく煙が見えた。
(いったいなんなの?)
有明インターの先あたりで車線規制車が炎をあげる発煙筒を次々投げ落としているのだった。道路工事の規制だ。すでにいくつもの発煙筒が第一車線を徐々に狭めていた。
波瑠は発煙筒の煙を浴び、臭いにむせ、火柱を噴き上げる音を一瞬聞きながらたまらず第二車線へと車線を変えた。二本目の炎と煙をやり過ごす。三本目そして第一車線の真ん中に転がっている四本目も。二百メートル先では鈍足の規制車が車線を塞いでいる。大丈夫、こうなれば青田も波瑠の後方につくしかない――そのとき、不意に背後の気配が消えた。
いや、音はあるのだ。だがミラーは闇しか映していない。それでもたしかに後ろにいた。そこだけが闇――シルビアは再びヘッドライトを消していた。
波瑠は動揺した。ミラー越しでは闇との距離感がつかめなかった。ただ、闇はミラーいっぱいに広がっていく――背筋がぞくりとした。恐れに屈して振り返ったとき、いきなり闇の中から強烈な光線が撃ち出された。手が届きそうなほど近くだった。
波瑠はとっさに自分がいまいる第二車線の位置を再確認した。発煙筒で規制された左側からは追い抜けるはずがない。右車線からの追い越しだけを警戒すればいい。右側には壁となってくれるSUVがいる。規制車の向こう側にレインボーブリッジへの入路が見えた。そこへ駆け込めばあとはずっと二車線道路。青田を抑えられる。とにかく、そこまで――。
波瑠はもう一度ミラーを見た――青田が何もできずそこにいることを確かめるために。自分が最善の手を打てていることを確かめるために。この状況に最適の判断と最速の対応で勝利にもう一歩近づけたことを確かめるために――。
次の瞬間、波瑠の心臓はぎゅっと引き絞られ、高圧の血流が脳髄へと殺到した。
シルビアは、がら空きの――しかし発煙筒で規制された第一車線を猛然と加速しはじめた。発煙筒のすべてを跳ね飛ばしながら、波瑠に並び――そして、追い抜いていった。そのタイヤに踏まれた発煙筒が火柱を吹き散らしながら波瑠の目の前で大きく跳ね上がり、波瑠はあっと叫んでウインドシールドに潜り込んだ。発煙筒はシールドを直撃し、後方へ弾かれていった。後続車の怒りのクラクションがけたたましく波瑠を責め立てた。その間に、シルビアは規制車をぎりぎりでかわし、波瑠を置き去りにしてレインボーブリッジの入路を駆け上がっていった。
波瑠がスロープを必死に駆け上がって追いかけても、青田のシルビアとの距離は広がっていくばかりだった。
(もう――お終い――)
追えば青田は速度を上げる。さっきの危険を顧みない追い越し、そしていまの加速の様子を目の当たりにして、彼はもう波瑠の先行を決して許さないだろうことを波瑠は感じ取っていた。レインボーブリッジから先の都心環状線は狭く交通量も多い。死にものぐるいで――それこそ大惨事へと転げ落ちていく勢いで、彼は残りの行程を走破する覚悟でいるにちがいなかった。
他に選択肢はなかった。
丸い四灯のテールランプを煌々と点しながらレインボーブリッジの袂へと続くカーブを駆け下りていくのを見ながら、波瑠は捻りっぱなしだったCBRのスロットルレバーをようやく緩めてやった。急激に差が開いた。波瑠は急に不安になった。
(いったいどれだけ出してるの? 百三十? 百五十?)
青田の仲間たちの車も相当な速度を出しながら、波瑠に奇声を浴びせて追い越し、青田を追いかけていった。一瞬、不機嫌な女と目が合ったが、彼女は不機嫌そうな一瞥をくれて過ぎていった。
彼らに数秒遅れで緩い複合カーブを駆け下りていくと、青田のシルビアはすでに浜崎橋ジャンクションの分岐に到達し、テールランプを数度瞬かせて仲間たちに合図を送っているところだった。
そのとき波瑠はふと違和感を感じた。
速すぎる――そう感じたとき、シルビアはジャンクションの路側壁に突っ込んでいった。
16
波瑠はヘルメットの中で絶叫した。
シルビアは急カーブしている路側壁にめりこむように突っ込んで壁に沿って火花を撒き散らすと、唐突にスピンしながら弾かれ、反対側の路側壁へと飛んでいき、そこでも鈍い轟音を立てた。
あたりは漏れたガソリンの臭いが立ちこめていた。
青田の仲間や女たちが頭を抱えたり、泣きわめいたりしているのを押し退け、波瑠はひしゃげたサイドウインドウの枠から頭を突っ込んだ。青田は頭から血を流していた。五点式シートベルトは緩んでいた。運転席を囲むロールバーから血が滴っていた。
波瑠は青田を窓枠から引きずり出そうとした。誰かが手助けした。
アスファルトに青田を横たえると、「息をしてる」と誰かが言った。直後、裂けたボンネットから炎が噴き出しはじめた。誰かの怒声と誰かの泣き声ががんがん頭に響いていた。
誰かが消化器で白い煙を撒き散らし、誰かが通報したらしく、やがてサイレンが聞こえてきた。
「下がって」と誰かに言われ、波瑠は誰かに引きずられるようにして路側壁が腰に当たるまで後ずさりし、壁を支えにしゃがみこんだ。青田の体がストレッチャーに移され、救急車に載せられた。サイレンが遠ざかっていった。
波瑠は誰かに何かを話していた。延々と話していた気がする。胸の内から溢れてくるものすべてを言葉にしていた。
波瑠は病院の廊下にいた。どうやってここまで来たか憶えていないが、手にはヘルメットとバイクのキーを持っていた。
青田の連れの女は泣きはらしていた。彼女に何か怒鳴られ、詰め寄られ、頬を叩かれ、拳で胸を突かれた。男たちが女を止めた。
そばにベンチがあった。そこに腰を落とし、頭を抱えた。
手に携帯電話を握っていた。「通話終了」の文字。その一瞬前に「父」の文字を見た気がした。
ベンチで膝を抱えてうずくまっていると、誰かが肩にオレンジ色のパーカーを掛けた。波瑠の頬をぶった女だった。
「冷えるでしょ」
波瑠は革ツナギの上半身を脱いで、ぴったりしたインナーを着ているだけだった。波瑠はパーカーの襟をかき寄せ、袖を通した。
「大丈夫だって! 死にゃしないって!」
女は威勢良く言ったが、いまにも泣きそうだった。
「こんなことになっちゃって――本当にごめんなさい」
波瑠はばらばらの思考から懸命に申し訳なさを掻き集めると、彼女にその思いを込めて伝えた。女は途端に両手に顔を埋めた。
「五年前よね――五年前なんだよね? それ、あたしのせいなの――あたしのせい――」
その言葉と、さらに続く言葉の意味をどうにか理解しようとしたが、どうしてもまとまらなかった。そのうちに、女は逃げるように立ち去っていった。
夏樹が病院の廊下を杖を突きながら突き進んできているということは、波瑠はやはり父に電話をかけていたのだろう。
「大丈夫か」夏樹は言った。
「うん――」波瑠は両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。「とんでもないことしちゃった、あたし」
夏樹は波瑠の肩をさすった。しばらくそうしてから彼は言った。
「ちょっと待ってられるか」
夏樹は青田の仲間たちのところへ行った。そこには警察官の姿もあった。しばらくして夏樹が戻ってきた。
「意識は戻っていないが、脳に大きな損傷はなかったそうだ」
波瑠はICUの方へ行きかけたが、不意に吐き気がこみ上げてきた。それをやりすごすまで、夏樹は背中をさすってくれた。
「さあ、もう帰ろう」
17
タオルにくるんだ氷嚢を腫れてきた頬にあてがいながら、波瑠は淹れ立てのコーヒーをすすった。その熱さに切れた口中が痛んだ。
波瑠の頬を平手で張るときも、青田が連れていた女――彼らの仲間はたしか「エリー」と呼んでいた――の目には迷いがあった。さっきは素通りしていった彼女の言葉がいまになって甦ってきた。
(あたしのせいなの――)
波瑠はその言葉に戦いた。誰のせいでもない、自分のせいだ。理由はどうあれ、あんな危険な賭けはするべきではなかったのだ。
エリーに叩かれた痛みを思い出し、いま一度自分で自分の頬に平手打ちを見舞わせた。もし彼が死んでいたら? 戒めの痛みは一度や二度ではまだ足りなかった。
最後の一打ちは、夏樹に止められた。夏樹は床に落ちた氷嚢を拾ってほぐし、波瑠の手に握らせた。波瑠はそれをさっきまでの倍以上に痛み出した頬に押し当てた。
「もうすぐ風呂が沸くから。支度しておいで」
自分の部屋でツナギを脱いでいると、この革ツナギが母の死という出来事を決して落ちない汚れとしてしみつけていることを思い出し、また頬が疼いた。ただ、その痛みは八年前に受けた痛みだった。
火葬炉から現れた母親の遺骨を目の当たりにしたとき、母をこんな姿にしてしまったのは自分だと波瑠は責め苛んだ。その夜、この革ツナギを着て無茶苦茶に真夜中の峠道を駆け抜けた。響子のGSX-Rを振り切って。ゴール地点は考えていなかった。目の前にあるカーブを、RVFの車体を限界まで倒し続け、限界までエンジンを回し続けた。手足や思考回路がどう働いたかなど意識に上らなかった。ただただカーブごとに失われた母を求めていた。気付くと夜更けの街並みの中を走っていた。波瑠はようやく、自分が母の後を追えなかったことに気付いた。そして、バイクを路傍に寄せて途方に暮れていると、追いついてきた響子に頬を張られたのだった。
(あたしなんか生きてたって――)
さらなる響子の平手打ちは強烈だった。
(死ぬ気なんかないくせに――)
響子はそのときそう吐き捨てるようにつぶやいた。胸の内の声が思いがけず漏れてしまったかのようだった。だが彼女はそれが過ちだとすぐに気付いて口をつぐんだ。
しかし、波瑠は何も言い返せなかった。響子を責めることもしなかった。彼女の言うとおりだったからだ。死ぬ気があるなら最初のカーブで死ねた。その次の崖へ飛び出してもよかった。その次の壁に突っ込んでも――波瑠にはどれもできなかった。そんな生ぬるい自分がただただ情けなかった。
部屋の引き戸がノックされた。
「いい湯加減だよ」
波瑠はTシャツと下着一枚の姿で夏樹を押し退けるように部屋を飛び出すと、そのままの姿でバスタブに飛び込み、そして湯の中に顔を沈めて泣いた。
第三章
1
自然に目覚めたとき、時刻は十時を回っていた。
キッチンに降りると、卵とベーコンを焼いた脂と、ポットにたっぷりとあるコーヒーの匂いが混ざり合って澱んでいた。プレートに添えた一枚のメモと一枚の名刺、それに洗濯されてきれいに畳まれたオレンジ色のパーカーに目が留まると、波瑠は昨夜の罪とそれに伴う義務を思い出した。
メモには夏樹の達筆で「今日はゆっくり休んで」とある。名刺の方は、昨日の事故処理を担当した警察官のものだ。
休んでなどいられないと受話器を取り、アポを正午にとりつけた。
添えられたクロワッサンはよけて、皿の上のベーコンとタマゴだけを急いで胃に詰め込むと、やや煮詰まったコーヒーを急いで飲み干し、顔を洗い、髪を整え、歯を磨いた。どうしたって憔悴を隠せない顔に、化粧は目の下のくまを隠す程度。パンツスーツに身を包み家を出る。道路端に立って十秒、つかまえたタクシーの運転手に新富町の住所を告げた。
「警視庁高速道路交通警察隊本部」の看板を脇に掲げたドアを開けると、待っていたとばかりに青い制服の隊員が波瑠を迎えた。反省を込めて腰を深く折って頭を下げたあと、彼の痩せた広い背中について階段を上がっていった。
「青田君はまだ昏睡状態ですが、検査の結果、さほど悲観的にならなくていいとのことでした」
細く鋭い、表情に乏しい目つきの古賀紀夫巡査部長は口元の微笑みを絶やさなかった。ただ、波瑠は彼の楽観を受け入れられなかった。「昏睡」の言葉が胸に重く残った。
古賀は自分の隣のデスクから空いた椅子を寄せてきて波瑠に座るように勧めた。向かい合うと、彼はその口元からはじめて笑みを消し、一転して厳しい表情になった。
「うかがいたいことは昨日と同じです。昨日はちょっと混乱していたようですからね」
古賀は青田智宏との関わりの端緒から話すよう求めた。波瑠は求められるがままに、十日前の響子の突然の来訪から語りはじめた。
「ひとまず、昨晩の事故のことから片付けていきましょう」
古賀はクリップボードに挟んだメモ用紙の束に目を走らせた。
「本音としては、あなたを無罪放免とはしたくありません」
彼は言葉を切ると、波瑠の供述メモもそれ以前のものもひとつにまとめ、その束に手を置いた。
「青田君はもちろん、あなたからも運転免許証を取り上げたいと本気で思っているくらいです。暴走族には公道を走ってもらいたくない。レースをしたければサーキットでどうぞ」
古賀の細い目からは素っ気ない言葉以上の意思を感じ取り、波瑠は耐えられず頭を垂れた。
「槇村さんは弁護士だし、これまでに交通事故を取り扱ったことは何度もあるかと思います。いま、それらの事故の加害者たちの顔を思い浮かべてみてください」
波瑠はできる限り、交通事故加害者一人一人の顔を――とりわけ大事故を引き起こした加害者たちの顔を思い出していった。
どれもみな精気が抜けていた。彼らは、生まれてからこれまでの歳月で満たしてきた苦楽を、積みに積んできたぶんだけ愛おしく誇らしい人生を、ほんの一瞬のために失ってしまったのだ。そして、まだ長い残りの人生を苦悩のみで満たしていく。
「あなたはそちら側の一員になるところだったんですよ。今度は被害者となった方々の顔を思い浮かべてみてください」
苦み切った脳裏と胸中に、今度は交通事故の犠牲者となった者たちの魂を呼び込んでみる。波瑠が目にするのは犠牲者たちの遺影であったり、彼らの幸福な頃のスナップ写真だったりする。
「あなたがひょっとしたら引き起こしたかもしれない交通事故の被害者は、青田君一人だとは限りません。二人、三人、あるいはもっとだったかもしれない。そしてその犠牲者となる人たちには必ず家族がいます。親、兄妹、息子、娘、孫――恋人や家族やご友人かもしれない。あなたは彼らの人生のとても大事な一部分を――あるいはほとんど全部を、一瞬にして、暴力的に、嵐のように、奪い去っていったかもしれないんです」
波瑠は一人の少女のことを思った。高校生の頃の響子だ。彼女は父親を事故で亡くした直後だ。彼女は奥多摩の崖から引き上げた父親のバイクを見つめている。そのそばには舞子の姿もあった。彼女たちはこれまで波瑠には決して見せたことのない表情をしている。そこには、破壊し尽くされた瓦礫ばかりが延々と続く死んだ街のように、鮮やかな色もなく、まばゆい光も差さない。しかし陰鬱さすらもない。あるのは空虚のみ。ざらつき、からからに乾いている。涙の流れた跡だけがかろうじてそこに生気が宿っていた証だが、彼女たちは涙を流したことすらも忘れてしまっている。
そしてまた、波瑠の脳裏に鉄屑も同然となった父のオートバイが過ぎる。父の血で濡れた路面のぎらつきが過ぎる。
波瑠は恐怖で全身が震えていた。いつの間にか嗚咽をもらしていた。その最中に、古賀の柔らかい声が聞こえてきた。
「今回は、運が良かっただけです。他の誰も、あの酷い事故に巻き込まずに済んだし、青田君もいずれ快復するでしょう。この幸運が、次もあるとは考えないでくださいね」
波瑠は懸命に涙を拭いて「はい」と応え、古賀の真剣な眼差しを受け止めようとした。古賀も納得のうなずきを返し、メモの束を全部クリップボードにばちりと綴じた。
「では、今日のところはこのへんにしときましょう――そうだ先生、まだお時間はありますか? 青田君の車を見に行きませんか?」
波瑠がきょとんとしていると、彼はにやりとして続けた。
「そういうの、お得意なんでしょう?」
塵の一粒もつるりと滑り落ちてしまうほどに磨き抜かれたパトカーの向こうに、粉塵にまみれた青田智宏の車があった。フロント部分は原型をとどめておらず右サイドのボディはくしゃくしゃにした紙切れのようで、黒っぽい下地と早くも錆を浮かせつつある地金を剥き出しにしていた。ぽっかり空いたタイヤハウス内で裂けたフロントタイヤはあらぬ方向を向いていた。最初の衝突後も路側壁は車体を削り続け、タイヤを破裂させ、アルミホイールの一部を粉末にしたようだった。
「路面にブレーキ痕はありませんでした。この大破した右前輪部分はともかく、他のブレーキラインで目立った損傷はありません。ブレーキの遅れか、よそ見運転か。事故の前までは普通に走っていたんですよね? 一緒に走っていて何か異変に気付きましたか?」
「いえ、とくには」
「衝突の直前、テールランプを点滅させて合図したというのは?」
「ええ、見ました。パッパッパッと三度ほど点滅させて。速度は落ちていなかったのでブレーキではなく、合図だと――」
「彼の友人たちもみんなそう思ったそうです。で、そのまま壁に突っ込んでいったと。合図することに気を取られてたんでしょうかね。ほんの一、二秒でもよそ見してると、時速百二十、百三十キロでの空走距離は数十メートルにもなりますからね」
古賀は太いロールバーが囲う車内をのぞきこみ、運転席の窓枠のすぐ上にあるバーを指さした。血がこびりついている。
「このロールバーのおかげで運転席が横方向に潰れるのを防げたんでしょうけどね、シートベルトが緩んでたのがまずかった。衝突の衝撃で体が浮いて、ここに頭をぶつけたようです」
波瑠も同意した。青田のシートベルトを外そうとしたとき、たしかにベルトが緩かったのを憶えている。
「せっかくの五点式シートベルトも、締め方ひとつで何の役にも立たなくなる。下手すればロールバーで首を折ることだってあります」
車体の傷の一つ一つが事故の惨状をあらわしていた。波瑠は目撃した通りに順を追って説明した。古賀はしきりにうなずいてはメモを取っていた。検証を終えると、古賀はあらたまって切り出した。
「槇村さんは、佐倉照郎さんという方の交通事故を調べているとのことでしたけど――もしよかったら私にも協力させてもらえませんか。阪上さんのことで協力できるかもしれません」
「阪上日出夫のことですか?」
「ええ。事故捜査で何度かお世話になったことがあって。いや、まあ、とくに恩師というわけではないんですけどね」
古賀は佐倉照郎の冤罪裁判に阪上日出夫の事故鑑定が関係していると知って、他人事ではいられないと感じたのだという。
「阪上さんは交通事故鑑識の権威です。その方が冤罪に関与しているのなら、問題は交通警察全体の問題でもあるんです」
古賀は真顔で――しかしそれゆえ本音の読み取れない表情でそう言うと、一瞬後には目元をふっとやわらかくして波瑠を送り出した。
2
ICUへと続く廊下のベンチにエリーはいた。
くるまった毛布から彼女は腫れぼったい目をあげた。ときどきは泣いていたのだろう、流れたマスカラが頬に少しこびりついていた。
「たかが脳震盪だってのに意気地がないのよ。早く起きろっつうの」
波瑠は彼女の隣に座り、パーカーの礼を言った。彼女はパーカーを着込みながら「わざわざ洗ってくれなくっても」と笑った。
「警察には、あんたは関係ないって言っといたから安心して」
彼女はそう言ったが、波瑠は今朝、事故担当の古賀に会ってきたことを話した。エリーは呆れた顔をした。
「バカ正直すぎるって! 黙ってりゃわかんないのにさ。あの事故はトモがバカだったの! 調子乗って前見てねえから!」
「でも、私が焚きつけたのは本当のことだから――」
「それ! やっぱ弁護士さんだから? ひょっとして人を騙したりなんてしたことない? 隠し事なんてしない?」
エリーにそう訊かれ、波瑠は返事に詰まった。
「後悔したくないから?」
「後悔っていうか――青田君の事故は、やっぱり私のせいだから」
波瑠がそう答えると、途端にエリーは白けた。
「模範解答ね。つまんない」
「ごめんなさい――青田君のことで、あなたに心配をかけさせてしまって、本当に申し訳なくて――」
「自分だけいい子ぶんなって! すっごいイラつく!」彼女は声を荒げた。「そもそもあいつの自業自得なの――」
彼女は言葉を途切れさせると、不意にわなないた唇を隠すように両手で顔を覆った。それが昨日の彼女の言葉に関係があると気付き、波瑠は思い切って訊いた。
「エリーさん、五年前のことって――」
「まず――」エリーは目元に滲んだ涙を拭いながら波瑠を遮った。「あたしの名前は里江梨花。エリーってみんな呼ぶけど『エリカ』じゃなくて『サトエ、リカ』ね。『リカちゃん』なんて古いお人形みたいでイヤだから、友達は『エリー』とか『エリカ』って呼んでくれてる。弁護士先生もそう呼んでくれて構わないけど、エリーに『さん』をつけるのはやめて。なんかヘンだから」
「それじゃ――梨花さん、でいいかしら」
エリーは波瑠をじろりと見た。彼女なりに距離感を計っているのだと気付いたが遅かった。彼女は目を逸らして素っ気なく言った。
「それがいいね、いまのところは」
エリーはつと立ち上がってICUのドアの窓から中をのぞきこんだ。それでカーテンが引かれた病床にいる青田の顔が見られるわけでもない。それでも彼女はその窓から離れようとしなかった。
3
思考が、ときに閃光のように鋭く、ときに粘液のように鈍く巡る。しかしそのどれもが形を成さないまま浮かんでは消え、浮かんでは消えするばかりだった。波瑠は痺れに似た感覚を覚えはじめた頭のままで四谷駅を出た。
「槇村弁護士事務所」とある窓ガラスのペイントを見上げたとき、居所定まらぬ心に蕩々と波瑠を諭す古賀の言葉が、そしてその言葉とともにICUのベッドの上掛けの、青田智宏の爪先の膨らみを見つめ続ける梨花の姿がまざまざと甦ってきた。
(あなたは彼らの人生のとても大事な一部分を、あるいはほとんど全部を、一瞬にして、暴力的に、嵐のように、奪い去っていったかもしれないんです)
古賀は言葉を選んだが、波瑠にとってそれは「お前は殺人未遂の犯罪者だ」というのと同義だった。
波瑠は踵を返して駅に戻った。やはりこの自分には、遵法を誓わなければならない弁護士の資格、資質があるとは到底思えなかった。
ただ、こうして背を向け、遵法の責務から遠ざかろうとしていること自体、たんに罪の重責から逃れたいだけなのではないかとも思えてくるのだ。
罪。
罪を犯す人の心理とはどういうものなのだろうか。
佐倉照郎――響子にあらぬ罪を着せた策謀の首謀者だという疑いは、例のミニカーの存在によってより濃厚となった。だが、最初の出会いのときに感じた印象はいまでも消えていない。あのとき見せた温厚で、知的で、物静かなたたずまいは、あれこそ彼の本質であり、本性なのだという確信が波瑠にはある。だからこそ彼が復讐に走った動機を知りたかった。それともあれは、実は犯罪者の本性を隠すための仮面の姿なのだろうか。
佐倉志郎――父親とちがって、全身の隅々まで怨恨の根を張り巡らせているかのようだ。五年もの間、空恐ろしいほどの執念で父親を貶めた者たちをつけ回し、行動を見張り続けてきた。しかし、見方を変えれば彼は自らの思いに正直で、純粋で、一途なのだとはいえないか。ストーカー行為はほめられた行為ではないが、その目指す先はやはり彼なりの正義なのかもしれない。
舞子は苦境に陥っている娘を救いたかっただけだ。それは理解できる。ただ、その思いを証言者を捏造するという行動にまで昇華した心情までは、波瑠には推し量ることができなかった。
それに比べ、他の者たちはどうだろうか。
響子は波瑠に嘘をついた。真実を隠そうとした。自己保身のためにだ。いまだにすべてを話してくれてはいない。石黒も同じだ。
思い出したくない顔たちが次々と脳裏を過ぎる。天神署の柿本のあの見下す視線。頑なな島田保、人を食った榎木忠広。金子、鈴谷、そして青田智宏――なぜ皆、嘘をつく? 真実を隠そうとする?
(自分だけいい子ぶんなって!)
唐突に梨花の言葉が頭に響いた。波瑠こそ、まごうことなくこの八年間真実を隠し続けてきた罪人なのだ。
家の中は朝よりも温まっていて、玄関にまで朝食の残り香が漂っていた。ジャグに残ったコーヒーを流しに捨て、あらたに湯を沸かす。クロワッサンはトースターに放り込む。ゼンマイのタイマー音に重ねて、やかんがかすかに笛を鳴らしはじめる。熱せられたコンロが積年の油臭さをかすかに立ちのぼらせる。母が料理をしていた頃の匂いも混じっているのかもと思いを巡らす。だが、脳裏に浮かんだ光景は、母が料理する姿を決して映し出さなかった。そこにあったのは舞子の背中だった。無理矢理その後ろ姿に母の背中を重ねてみたが、すぐにやめた。吐き気を催すほど自分が嫌になった。
ごく普通の家庭に、ごく普通の母親のもとに生まれたかったと渇望してみせるのは、狡猾な自己正当化にすぎない。その実、母の病をついには疎ましく思うようになっただけでなく、母に対して憎しみすら抱いていた自分の残酷な性根を認めたくないだけなのだ。
波瑠は母を憐れんだ。こんな娘でなく、もっと心優しい娘に最期を看取ってもらえたらどんなに幸福だったろうかと。
波瑠ははたと思い当たった。ひょっとしたら佐倉志郎も自分と同じなのではないだろうか。
彼は父親を助け、あの事故鑑定書を完成させた。だが一審で敗訴すると彼は父親と距離を置き、裁判から逃げたという。ただ、彼はその後五年間、特異なやり口で父親の冤罪事件に関わってきた。なぜそんなことをするのか。志郎はきっと、父親とともに最期まで戦い抜かなかったことを悔やんでいるにちがいないのだ。その思いが彼の正義に対する姿勢を歪ませた。その歪みが、事件を忘れ去ろうとしない執念となって表れた。それこそが、彼なりの父親への罪滅ぼしなのかもしれない。そして彼もまた波瑠と同じ結論に達したのではないだろうか――もっと出来の良い息子だったら、やるべきことはやったとひょっとしたら納得のほんのひとかけらでも得られるかもしれない最後の最後までともに支えてやれたのに、と。
やかんの笛が重みをもって唸りはじめた。湯が沸きつつある。
沸騰――水の温度が摂氏百度の境界を超え、相転移する。水という液体は沸点に達したところから局所的に小規模爆発を起こし、瞬時に千七百倍の体積をもつ気体となる。
志郎は正義を追求したが、敗訴を機に正義に背を向け、ストーカーまがいの不法行為を繰り返した。佐倉照郎はそれ以上で、彼は復讐の道に身を投じた。
彼らだけではない。金子をはじめ佐倉照郎を冤罪に貶めたすべての者たちも、本当ならば普通の暮らしを営む罪なき人々のはずなのだ。しかし、たった一瞬の交通事故という出来事を前に、何かをきっかけにして誰も彼もが沸点に達してしまい、それまでとは変わり果てた罪の道へと踏み込んでしまったのだ。
やかんの笛に混じって携帯電話が鳴っていた。古賀からだった。
「明日、阪上先生に会うことになりました。槇村先生、例の交通事故冤罪のことをぶつけてみたらどうでしょうか」
阪上日出夫はいまでは悠々自適の隠居生活をしている。五年も経っているから裁判のことなど忘れているだろう、と彼は言った。
いかにも楽しい謀略を考えついたと無邪気に喋るのを聞いていて、波瑠は幾分彼のことを心配しさえした。阪上が不当な鑑定を行ったと知ったとき、彼の中で、彼の信じる法の――法を執行する彼らが振りかざす正義は崩れ去ってしまうのだろうか。そしてそのあと、彼はどう行動するのだろうか。
古賀の電話を切ったあとで、波瑠は志郎に電話をした。
「無駄です。結果は目に見えてますよ」彼は鼻で笑った。「それより、青田との勝負はどうなりました? 勝てました?」
波瑠は思わず天を仰いだ。彼にはまだ話していなかったのだ。
「僕が引き合わせようとしなければ――僕のせいです。本当に申し訳ないことをしました」
志郎は神妙にそう言って謝った。
電話を切り、波瑠はやかんのふたを取った。ふわりと湯気が立ちのぼったが、水面はもう気泡もなく静かだった。
誰もが沸騰しっぱなしではいられない。時間をおけば冷めていく。佐倉照郎は元来の温厚な人物に戻るはずだ。志郎は朴訥とした青年に戻るはずだ。誰もが皆、元に戻るはずだ。
波瑠は再びコンロに火をつけ、水の沸騰する様を眺めた。すぐにやかんの銀色の底から小さな気泡が生じはじめた。気泡は見る間に個々の大きさと量を増し、やかんの底からだけでなくあらゆるところから不規則に生まれるようになる。泡は水面で破裂し、飛沫を上げ、額と鼻先をじりじりと焼く水蒸気の熱が立ちのぼってくる。
ちがう、と波瑠は確信した。沸騰して気体となった水が、放っておけば再び相転移して液体に戻るのとはわけがちがう。ひとたび沸点を超えてしまうと前と同じ状態ではなくなる――もう己の沸点を知る前の自分には戻れなくなってしまうのが人の性なのだ。
4
誰も彼もが傘開く葛西駅を降りたとき、波瑠は後ろから声をかけられた。人より高く傘を上げて顔を見せたのは佐倉志郎だった。
「まさか、ずっと私を尾けてきたんですか」
動揺を隠すためにきつい言い方をすると、志郎はまごついた。
「いえ、ほら、行き先はわかってましたからね――」
きっと車両も同じだったにちがいない。ここへ来るまでの間、波瑠はずっと青田の容態を気にかけて悶々としていた。彼の意識が戻れば、梨花から連絡をもらえることになっていた。何度もメールチェックし、着信がないと溜息を漏らしたりしていた。顔にも焦燥が表れていたかもしれない。それを志郎にずっと観察されていたのかと思うと波瑠は急に恥ずかしくなり、同時に腹立たしくもあった。だが志郎を責める気にもなれないほどいまは気が重かった。
「気が変わりましたか? 昨日は阪上には興味なさそうでしたけど」
波瑠がつんとして言うと、彼はすぐに殊勝に頭を下げた。
「阪上日出夫のところへご一緒させてください。お願いします。自分は黙ってます。邪魔したりしませんから」
「勝手にここまでくっついてきておいて、お願いもへったくれもありません。こういうのを否応なしっていうんですよ」
波瑠は肩から提げた重い鞄を志郎に押しつけた。尾行の仕返しだ。
「落とさないようにお願いします。それと――」波瑠は目を細めて厳しい目を向けた。「いつもの皮肉と根暗と、例の目つきはやめてくださいね。ハキハキとした好青年キャラってのはどうです?」
「無理するとボロが出るかもしれません」
志郎は顔に本気の焦りを垣間見せた。
待ち合わせ場所に、古賀は手に一升瓶二本を携えてやってきた。
波瑠はまるで気の利かない自分を恥じて慌てたが、古賀は気にしなくていいと波瑠に財布をしまわせた。
「僕が持っていけば手土産ですけど、あなたが持っていったら贈収賄になりますから」
無論、冗談なのだろう。彼はその笑みを志郎にも向けた。志郎はぎこちない愛想笑いを浮かべた。
波瑠はすぐさま早口で、荷物が重いので助手を連れてきたのだと言った。志郎は行儀良くお辞儀をした。訊かれたときのために偽名を用意してあったが、古賀は気に留める様子もなかった。彼はすっきりした様子で威勢良く言った。
「さあ、善悪の所在をはっきりさせに行きましょう」
5
阪上日出夫は人当たりの良さそうな微笑を眼鏡の奥にたたえ、妻ともどもかつての教え子の来訪を喜んだ。古賀は波瑠を「長い付き合い」の友人だと紹介したところ、存外に彼らの好奇の目を引き、夫婦はもう仲人になった気分で波瑠を値踏みしはじめていた。
誤解はむしろやりやすいとばかりに波瑠は一向構わず、同時に志郎の手本となればと必要以上に愛想を振りまいた。阪上に名刺を手渡し、次いで志郎を見習い助手としてごくごく簡単に紹介した。
志郎は阪上と面識はないと断言したが、阪上が彼の顔に視線を留めた少しの間が波瑠には気になった。それでも、古賀の手土産に阪上の表情があらためてほころぶと、波瑠は思い過ごしだと安堵した。
「こんなものを! 君を贈賄のかどで現行犯逮捕するぞ」
「そのときは先生の過去数度の収賄を自供しますので」
「こりゃ参った。そのときは槇村先生、弁護をよろしく頼みますぞ」
「弁護士の立場としては、この現状を黙って見過ごすわけにはいきません。なので、そちらのお土産は私が持ち帰ることにいたします」
「おお、そりゃ拘置所暮らしよりきびしいわい!」
彼は名残惜しそうに瓶を妻に渡すと、上機嫌に手の平を擦り合わせて向き直った。
「では早速、話をうかがいましょう」
志郎は鞄から裁判資料を取り出してテーブルに並べていった。昨夜のうちにすべて波瑠が作り直したものだ。警察の実況検分調書と供述調書のコピーには、加害者、被害者、目撃者の名前のところを塗りつぶし、それぞれを「甲」「乙」「丙」と添えてある。
「この甲というのが第一原因とされたタクシーの運転手です。かいつまんでご説明いたしますと――」
「いや、説明はけっこうですよ。まっさらな頭で判断したいのでね。少々時間は掛かりますが――」
阪上はまずと実況検分調書のコピーを手元に引き寄せ、テーブルに広げた現場見取り図と照らし合わせつつ読みはじめ、続けて「甲」の――佐倉照郎の――供述調書を丹念に読み進めていった。その中ほどで阪上は急に眉をしかめた。
「最初に過失を認めてしまっているのはまずいねぇ。この方、警官の言うままに署名してしまったんでしょう?」
阪上は調書から顔を上げた。その顔に微かに嘲笑が浮かんでいた。
「そうです。止むに止まれず」
「調書に署名、押印したってことは罪を認めたってことなんですよ。先生ならおわかりでしょう? 裁判ではそれが非常に重い意味を持つ。自白偏重の捜査手法が世間では悪いことのように言われてるが、実はそうじゃないんだ。納得がいかなければ署名も押印もしなければいい。普通の人はそこのところがわかってない。その場しのぎで署名するのが実に多い」
阪上はふんぞり返って再び調書に目を落とした。波瑠は志郎をそっと振り返った。彼は固い笑みを浮かべながら阪上の妻からコーヒーカップを受け取っていた。
カップが行き渡ってからは誰も物も言わず身動ぎもせず、ただ阪上が調書や鑑定書の束をめくる不規則な紙擦れの音だけがしていた。彼は、文章に這わす視線を、めくるページを、目を凝らすカラーコピー写真を、ときに気怠げに、ときに急くようにして行きつ戻りつし、興味深げに、納得のうんうんといううなずきを交えながら警察側の事故鑑定書を熱心に読みふけった。そしてついにページを閉じると、「よくできてるじゃないか」と満足そうにうなずいた。
次いで阪上は弁護側の鑑定書を取り上げると、それまでと同様に丁寧に読みはじめた。しかしその表情には終始蔑みと嫌悪が浮かび、やがて呆れたといわんばかりに大きな溜息をついてテーブルに放り投げた。
「槇村先生の事故鑑定、これはまずいですよ。一体誰がこんないい加減なものを――」
波瑠はとっさに古賀と――そして振り返って志郎と視線を交わした。志郎は一切の表情を消していた。
その様子に阪上は不意に表情を硬くした。そして何かに気付いたように弁護側の鑑定書を再び手に取って急いでページをめくりだした。その表情が次第に焦燥に取って代わっていった。
すべての調書の束、資料の束を読み返す頃には、阪上の広い額には汗が拭きだし、丸い顔は紅潮し、しかし最後の最後には額も顔も真っ白になるほど血の気が引いていった。
阪上は膝やソファの袖に積み上がった紙の束を重だるそうにテーブルに放ると、充血した虚ろな目で順々に波瑠たちを一睨みした。
「一体誰がこんな悪戯を考えついたんだ?」
誰も答えないでいると、阪上はいきなり声を荒げた。
「まんまと君らの罠にはまったところを笑おうとでもいうのか――そうだ、憶えてるぞ!」
阪上ははっと顔を上げ、志郎に人差し指を突きつけた。
「あのとき傍聴席にいただろう! お前はあの被告人の身内か! そうか、これは――」
と、阪上は警察側の事故鑑定書を乱暴に引っつかんだが、しかしそれを開くこともなく手にしたままがっくりとうなだれた。志郎は蔑みの眼差しで阪上の禿げ上がった後頭部を見下ろしていた。古賀は横目で波瑠をじろりと睨んだ。彼もいまはじめて志郎の正体を知ったのだ。波瑠はその視線から逃れようと、阪上に向き直った。
「ご意見をお聞かせ願えますか」
「ふざけるな! おい、さっきの土産を持ってこい!」
阪上はいきり立って奥にいる妻に怒鳴った。そして妻の手から酒瓶をもぎ取ると、阪上はそれを古賀の目の前に投げ出した。古賀はむっつりとして、倒れた瓶を自分の脇へ置いた。
「やはり先生の鑑定眼は退官されてからも少しも劣っていませんね。おみそれしました」
古賀は頭を下げた。阪上はその警察側の――その実は佐倉志郎の鑑定書を乱暴に引っつかむと、古賀に投げつけた。次いで弁護側の鑑定書――実はこれこそが阪上自身がものした鑑定書――を真っ二つに引き裂こうとした。だが、紙の束は引き裂くには厚すぎた。彼は力尽きた。古賀は阪上の手から紙の束をそっとはずしてやり、あらためて阪上の前に二つの鑑定書を並べた。
「このような失礼、このような非道な行為の責任はすべて私にあります。今回の件は、私が槇村先生に提案させて頂きました。こうするのが最善だと思ったのです」
古賀は阪上の憎悪の目つきを無感情の細い目で受け止めた。
「先生は、終始一顧だにされなかった彼の――」
古賀は言葉を切って波瑠をじろりと見た。波瑠は慌てて言った。
「佐倉志郎さんです。佐倉照郎さんのご子息です」
古賀は志郎に一瞥をくれ、そして続けた。
「――佐倉志郎君の鑑定書を、実に興味深げにお読みになり、『よくできてる』と満足そうになさっていました」
古賀は皮肉すらうかがわせないほどに淡々と言ったが、しかし阪上はいままた顔を紅潮させ、唇をきつく噛んだ。
「さらに先生は、こちらの『弁護側』のものと称したこちらの――」
「もういい、やめろ!」
阪上は怒鳴った。だが、古賀は続けた。
「この鑑定書を『一体誰がこんないい加減なものを』と――遺憾ながら、これは先生ご自身がまとめられたものです」
「だからなんだ? 私を罠に嵌め、この男の鑑定こそ正しいと言質が取れたからどうだというんだ?」
「再審請求します。冤罪は晴らされなければなりません」
波瑠は鋭い口調で言った。阪上は判決書をめくって最後のページを手の平で叩いた。
「たかが交通事故だぞ? それもたかだか十五万の罰金だ! それにもう五年も経ってる!」
「阪上先生!」古賀は阪上に負けじと決然と言った。「私と先生は、これが冤罪であることを知ってしまったんですよ!」
「だからどうだというのだ」
「私は現役の警察官です。それに、先生も退官されるまでは警察官でありました。辞めたからといって目の前の犯罪を黙って見逃しますか? 私たちは交通事故のプロです。その私たちが、これは冤罪だと確信したのです、先生も、いままさに!」
古賀は身を乗り出して阪上に詰め寄った。しかし、阪上は頑なに顔を背けて古賀の視線から逃れようとした。古賀は続けた。
「警察の、この柿本という輩の事故処理からしてずさんなものだった。警察官の職務怠慢が罪なら、この男は重罪です。ですが阪上先生、あなたがしたためた鑑定書は輪をかけて罪作りなものです! こんな仕事をして恥ずかしくありませんでしたか!」
そう言って古賀は阪上の鑑定書の束を、阪上の目の前に放り出し、さらにその上に志郎の鑑定書をバサリと重ねた。
「先生もすでにお読みになっていたはずです。検察はこの完璧な鑑定書に対抗するために先生に鑑定を依頼した――ちがいますか?」
「だが結局は――」阪上は急に強気になった。「彼のも私のも、どちらの鑑定書も証拠採用されなかった。きわめて公平な裁判が行われたとは思わないかね?」
「そうでしょうか? なぜか、先生の交通事故鑑定人としての立派な経歴の一覧だけは証拠採用されています。検察官がその一ページだけでも、と――これがどういう意味を持つかわかりますか」
「権威主義」志郎が苛々と言った。「裁判官は中立公平なんかじゃないってことです。阪上日出夫が検察側に立って鑑定をした――あいつらにはその事実だけで事足りた。どうしたって裁判官の心証は交通事故鑑定の権威が後押しする検察側に傾く。鑑定の内容なんかクソでも関係ない」
志郎が吐き捨てるように言うと、古賀が後を引き取った。
「阪上日出夫が間違ったことを言っているはずがない――この一ページによってそんな印象を裁判官に植え付けることができた」
「こっちの弁護人がその意図に気付かなかったというのは、無能にもほどがあるとは思いますけどね」
「一方で、志郎君は交通事故の専門家ではない。実績のない素人だ。彼が語る言葉こそが事件の真相だなどと誰が考えるでしょうか? 完璧な検証も完璧な考察も、そして真実を導き出していたとしても、裁判官の目に留まらなければそもそも存在しないも同じです。案の定、検察も裁判官も、志郎君の鑑定書を却下しただけでなく、彼に証言台で語る機会すら与えようとしなかった」
古賀が振り返って同情の眼差しを志郎に向けると、彼は肩をすくめてみせた。古賀は阪上に向き直って続けた。
「ところが、阪上先生は立派な経歴がある。事故鑑定の専門家として証言台に立つことができる。ご自身の鑑定書の内容について、口頭ではあるけれど、検察側の見解を思う存分しゃべることができた」
「いやいや、そうは言うが、実際は惨憺たるものだったよ」
阪上は自嘲した。しかし古賀は苦しげに首を振り、口を衝いて出た言葉は師である阪上を責め立てていた。
「交通事故鑑定の基礎とすべきは関係者の供述などではなく物的証拠だ、物証を検証し尽くせ――先生はそう私たちに教えられたじゃありませんか! なのになぜ先生まで、あんな柿本とかいう輩の尻ぬぐいをしたんですか! 柿本を否定なさっていれば、結果のすべてがちがっていたはずなんですよ、先生!」
「『先生』だなんて呼ぶ価値もない」志郎は冷ややかに言った。
「君は黙ってろ!」古賀は声を荒げた。「先生、このままでは、これまでご立派に築き上げてきた名誉に傷が付きかねません。先生がこれまで行ってきた無数の鑑定が、確かなものまですべて疑われてしまうんです。こんな紙っぺら一枚には到底収まりきらない、先生の数々のご功績のすべてが根っこからひっくり返されてしまうんです! すべての信頼が、たった一つの冤罪を生みだしたために、すべて剥ぎ取られてしまうんです!」
しかし、自分がぶつけた思いも阪上日出夫という老人には暖簾に腕押しだと悟ると、古賀は決然と立ち上がった。
「私はいまではもう、この冤罪を放っておけない気になっています」
そして、持ってきた手土産を拾いあげると、あらたまって阪上と呆然としている彼の妻へ深々と頭を下げた。
「このようなご無礼、大変失礼いたしました」
古賀は部屋を出ていこうとした。そのとき、阪上が悲痛に叫んだ。
「なにもかもが狂ってたんだよ! 素人がしゃしゃり出てきたあげく、私までが証言台に立たされ、あんな面倒な事故を口頭だけで説明しなくちゃならんとは! 異常な裁判だったんだよ!」
「停まってるタクシーにスクーターが追突した。それだけだ」志郎は静かにしぼり出すように言った。「勝手に面倒なものにしたのはあなたがたでしょうが」
阪上ははじめて志郎に対して嫌悪をあらわにした。
「言わせてもらうと、君が絶対正解だとなぜ言い切れる? 君だって事故状況を完全に再現したわけではない。同じ速度で走らせてぶつけたわけじゃないだろう? 五十歩百歩だよ」
「スクーターの挙動に関しては連続性を重視しました。あなたが行ったような、前後の脈絡がなにもない、ただ都合良い位置関係のみを『あてがって』再現しているだけのとはわけがちがう」
志郎は静かに言った。阪上はもう志郎の眼差しを受け止めきれなくなって俯いてしまった。
「過ちがあったなら正せばいいんです、先生」
古賀は懇願するように言った。しかし阪上は顔を背け、志郎はその阪上を鼻で笑った。古賀はまだ阪上を見限ろうとはしなかった。
「再審もする。正しい検証も、鑑定もやり直すべきです。謝罪もするべきでしょう。本当の被害者を加害者に仕立て上げてしまったんですから。それも、四十年の経験のある阪上先生が、自ら後押ししてしまったんですから」
古賀の言葉に、阪上の消沈した表情がみるみる変わっていった。それは怒りと嫌悪感への逆戻りだった。
「私が後押し? 冗談じゃないぞ! 文句があるならいまの交通事故裁判のシステムを作ったやつに言え。裁判は、警察や検察の主張と弁護側の主張を並べ、裁判官が中立公平に審理して、どちらがより真実に近いか、正しいかをつまびらかにしていくものだろう? それなのになんだあれは? 私は証人尋問であそこに立ってああだこうだおしゃべりしたが、検察官はわざと的を外した質問ばかりする! 弁護人もだ! まずもって何が何だかわかっていないから要領を得ない的外れの質問ばかりだ。裁判官に至っては、検察側、弁護側双方ともにお互いの鑑定書の証拠採用を却下しあったものだから、手元に写真の一枚すらないときてる。だから、細かいところを語ろうにも彼らにはちんぷんかんぷんだったはずだ。フロントフォークとはそもそも何か、どんな形状をしているかなんてことからいちいち説明しなくてはならん。あの三人いる裁判官のうちで、何人が大型スクーターの車体の大きさや重さ、挙動を正確に想像できたか。なるほどわかったといった顔をして質問してきたかと思えば、結局唯一現場見取り図が添付され、スクーターとトラックの嘘つきどもの下らぬ供述を元に作文された警察の実況検分調書に関する質問だけだ――実に、なにもかもが狂った裁判だったんだよ!」
阪上はまくし立て、志郎を見据えた。
「君の親父さんには心底同情するよ。想像するだに、まるで悪夢だ」
「あなたなんかにわかるわけがない」志郎は唸るように言った。「同じ目に遭った者にしか、あの恐怖はわからないんだ――」
「私は職務を全うしただけだ」阪上は呆然として言った。
「職務を全う? ふざけるな!」
志郎は怒鳴った。ずっと萎縮していた阪上の妻がびくりとした。阪上は妻の怯えを見て取ると、怒りをあらわに志郎を一喝した。
「この若造が! 無礼にもほどがあるぞ!」
「あんたら警察はそうやって人を見下して、権力を振りかざして弱い者たちに言うことをきかせてきたんだよ。それこそ恫喝だ! こっちが素人だからって、タクシー運転手だからって、たかが交通事故だからって、恫喝して全部押さえつけにかかってくる。あんたらは、ただたんに逆らわれることが受け入れられなかっただけだろう? お上にたてつくなどとんでもない、平民は黙って従ってればいい――いつもそう考えてるんだろう!」
「馬鹿を言え!」
阪上は目を剥いて怒鳴り返した。だが志郎は引き下がらなかった。
「現実にあんたはそうしてきたんだよ。素人のとその道の権威のとで、裁判でどっちが優位に立てるかわかりきった上で、平気であんなインチキ鑑定をして、インチキまみれのおとぎ話を堂々と法廷でしゃべりまくった。裁判官が無能であることをいいことに、さも自分が語ることこそ真実だとばかりに! さっきご大層にシステムが悪いだのなんだの言ってたよな? よく見ろよ、あんたはその腐ったシステムの一部だよ。あんたこそ裁判を、司法を――あんたらが後生大事にしてるっていう法律を愚弄し、冒涜してるんだよ」
阪上は、腕を組み、睨み付け、しかしその口は硬く引き結ばれたまま開こうとしなかった。志郎はそんな阪上を露骨に嘲った。
「それがあんたの四十年だ」志郎はいい気味だとばかりに笑った。「残り短い余生を、存分に後悔のために費やしてください。死屍累々の犠牲者を生み続けた人生だ、まさか自己満足に溺れるわけはないでしょうしね」
「死屍累々?」阪上はいきなり笑い出した。「私がどっちを向いて仕事をしてきたかまだわかってないのか? 私は君には想像もつかない大きな組織の一員だったんだぞ? 私が冤罪から被害者を救うために反旗を翻すと思うか? まさか! 犠牲者を悼む? まさか! 後悔? まさか! 私が自分を清廉潔白だと考えているとでも? まさか! 『ノー』だ! そんなつもりは毛頭ない!」
阪上ははっきりと言い放つと、苦々しげな古賀を冷然と見据え、唖然としている波瑠を冷笑し、しかし、うろたえている志郎には不敵にもにっこりと微笑んでみせた。
「ひとつはっきりさせておこうか、佐倉志郎君――私はとくに忘れっぽい性格ではないし、まだ呆けてもいない。君はあの法廷の傍聴席で唯一私に対して殺気立っていたからいまさっきどうにか思い出せたが、それでもさっきがはじめてだ。つまり、あの法廷を出てからこれまで、まったく君のことなど頭に浮かんだことはなかったんだよ。君の父上のことなんかいまでも顔を思い出せない。私があの裁判で憶えていることといったら、あそこに立たされて要領を得ない質問をうんざりするほど浴びせられ、資料も何もない中で曖昧にしか答えさせてくれなかったという消化不良感と、そんな中途半端なことをさせられたという屈辱感しかない――いや、もう一つある。擦った転んだのくだらない、たかが罰金程度の交通事故だというのに、ぐだぐだと能書き垂れるど素人がしゃしゃり出てきてややこしくしやがって、あのとき私は非常に貴様に腹が立っていたんだよ!」
阪上はテーブルを叩き、そこにあった資料の束――とくに分厚い志郎の鑑定書を苛立たしく払い落とした。一瞬の沈黙の最中に、それらが床に散らばり落ちる音がした。そして――志郎は阪上の喉元に飛びかかった。
「だめ!」
波瑠は声は阪上の妻の悲鳴に掻き消され、その間に、志郎と阪上はもつれ合ってソファの向こうに倒れ込んでいった。そこへ古賀が飛び込んでいき、志郎を阪上の喉から引きはがした。志郎は床に押さえつけられ、それでも暴れ、唸り、獣のようにわめき散らした。
「逮捕しろ! 現行犯逮捕だ! 暴行――いや傷害だ!」
阪上は唇に滲んだ血を拭いながら叫んだ。古賀は困惑し、阪上の怒りをなだめようとした。だが、阪上は妻に通報させた。と、古賀に押さえ込まれたまま、志郎は蒼白な顔で床に嘔吐した。透明な胃液を吐き尽くすと、彼は吐瀉物の中にうずくまって床に爪を立て、引っ掻き、何度も何度も拳を打ちつけ、噛み締めた唇は血と呻きを溢れさせていた。
6
せいぜい三畳ほどしかない細長い部屋の様子も、そして、こちらに同情的でももちろん好意的でもない相手を納得させることの困難さも、佐倉照郎が語ったとおりだった。
波瑠は取調室に二時間近く閉じ込められていた。彼らにしてみれば監禁も軟禁もしているつもりはないのだろうが、それでも取り調べを受ける側はそう感じずにはいられない状況に置かされる。
葛西署の警察官たちは最初から波瑠を疑ってかかっていた。阪上日出夫を来訪したのは、かねてからの志郎の恨みを晴らすための計画的なものだったのではないかという結論を、彼らは早々に導き出していたのである。
波瑠は取調官に対して必死の弁明を続けた。しかしいつからか冷静さを欠き、頭に血が上り、声高くまくし立て、こちらの言い分を信用しない相手を睨み付け、呆れ、諦め、口を噤み、頭を抱え、そして頭に血を上らせて声を荒げ――それを何度も繰り返していた。
結果的に古賀が二人の嫌疑をあらかたぬぐい去ってくれた。彼は阪上を説得し、暴行被害の訴えそのものを取り下げさせたのである。
阪上が翻意した理由はすぐにわかった。自己保身のためである。
志郎が逮捕されれば、阪上も古賀も経緯を一部始終話さねばならなくなる。阪上は口を閉ざすだろうが、現役の交通警察隊勤務の警察官である古賀が、阪上が過去に行った鑑定が過ちであり、それがもとで冤罪が生まれたと証言すれば、阪上の経歴に傷がつくことにもなりかねない。すでに退官した身とはいえ、阪上としてはやはり不名誉な事態は避けたかったのだ。
葛西署ははじめこそ阪上の急な翻意をまともに取り合わなかったが、ケガの程度が軽いものだったこともあり、最終的には志郎を釈放した。ただ、それまでに志郎は取調室で四時間もこってり絞りあげられ、さらには三時間も留置場に閉じ込められて自省を促された。
志郎の釈放に際して警察は身元引受人を求め、当事者であるため不適とされた波瑠の代わりに、志郎の父親が呼び出された。
受付の当直警官に話しかけている佐倉照郎の声に、波瑠は疲れ切った果ての放心から目覚めた。
「佐倉さん」
波瑠が声をかけると、佐倉は振り返って固かった表情を少し解いた。仕事を抜け出してきたのだろう、顔は埃で薄汚れていた。
「こんなことになってしまって、本当に申し訳ありませんでした」
波瑠が頭を下げると、佐倉はそれ以上に腰を折った。
「息子がご面倒をおかけしまして――それと、相手様のケガはいかがなんでしょうか。その方は――」
「ご心配には及びません。もう帰られましたよ」
波瑠に代わって古賀がそう答えると、彼は経緯を話しはじめた。ただその内容には、阪上が自分の鑑定の過ちを認めたことは省かれていた。古賀としても阪上の面子を保たせてやりたいのだろう。
「では、志郎君を迎えに行きましょう」
話し終えた古賀は、いままでにない優しい口調で言った。佐倉はあらためて波瑠と古賀に深々と頭を下げた。
留置所の係官が志郎の所持品をカウンターに並べていく。腕時計や携帯電話、財布とわずかばかりのものだった。係官がいちいち目録を読み上げて確認するが、志郎の反応は薄く、そのうちに係官はただ取り出しては無言で並べるだけになった。
財布の札入れから紙の束――シールの束――が抜き取られたとき、一目でそれが何なのかが波瑠にはわかった。係官は怪訝な顔をして手を止めると、さっきまでとはちがう目で志郎を一瞥したが、すぐに興味を無くしたようにトレイにシールの束を置いた。
そのシールから「パキシル」という文字が読み取れた。他にも数種類の薬剤の名前が連なっていた。薬剤情報や用法が記載された、いわゆる「お薬手帳シール」だった。パキシルは抗鬱剤である。波瑠も以前、同じ薬を処方されていたことがあった。
志郎が不意に波瑠を振り返り、気まずそうな顔をした。波瑠もかける言葉が見つからなかった。
警察署を出たところで古賀と別れ、波瑠は終始無言の佐倉父子の背中を見つめながら駅まで歩いた。
「息子を家まで送ってやってくれませんか」駅に着くと佐倉照郎はいきなり波瑠の手に一万円札を握らせて言った。「ご覧の通り仕事を抜け出してきたもので」
波瑠は金を返そうとしたが彼は頑として受け取らず、波瑠に頭を深々と下げて駅の雑踏へとまぎれていった。
突然吹いた寒風に息が詰まり、波瑠は思わずコートの襟を掻き合わせた。志郎は気付かない様子で、地面すれすれを舞う紙くずと落ち葉の渦に自ら飲み込まれていった。
「寒いね」
波瑠は志郎のすぐ隣に並んで歩き、努めて明るい調子で言った。街の灯りの下でも、志郎の顔は青白いままだった。
ちょうど通りかかったタクシーをつかまえて志郎を先に乗せると、波瑠は彼のアパートの住所を運転手に告げた。
「今日は、すみませんでした」
彼はコートの襟に顎を埋めながらぼそりと言った。波瑠は思わず志郎の手を握った。冷たい手にほんの少し力が入り、それは波瑠の思いに応えるという形になって返ってきた。そこではじめて波瑠は急に恥ずかしくなってきた。だからといって手を離そうとはしなかった。むしろ彼の冷たい指先を手の平で包み込んでやった。同じ温もりになるまでと波瑠は心に決めた。
と、いきなり志郎の手がびくりとして波瑠の手から離れ、しかしすぐに彼の方から手を強く握ってきた。波瑠はそっとそれを包み込むように握り返した。そうすると彼の思いが伝わってくる気がする。
彼の脳裏には阪上の言葉が甦ってきているのかもしれない。そして理性が抑えきれなくなった瞬間も。波瑠もまた忸怩たる思いで阪上の家での出来事をまざまざと思い返していた。
内容物のない嘔吐としゃくりあげるような嗚咽と、床に拳を打ちつけ続けることで、志郎は全身の力を消耗しきっていた。波瑠は古賀を押し退け、擦り剥けた志郎の拳を押さえ、彼の背を懸命に抱きすくめた。熱くなった背中は汗の蒸気と彼の体臭を吐瀉物の臭いの中に発散していた。その熱気に高ぶり湧き起こるような震えと体の強張りに彼の怒りの激しさを感じ、その直後の全身の弛緩とまた別の種の――崩壊の予兆のような震えに彼の苦しみの底深さを感じて、波瑠はただただ目と鼻の奥を痛ませるばかりだったのだ。
アパートの前でタクシーを降りると、志郎は自分の部屋を見上げて溜息をついた。部屋には明かりが灯っていた。同居の母親にどう説明するか考えているのかもしれない。
波瑠は志郎の唇に乾いた血がこびりついているのに気付いた。古賀に押さえ込まれたときにつけた傷だろう。
「ちょっと待って」
波瑠はアパートの水道場でハンカチを濡らし、傷の血を拭ってやろうとした。だが彼は「汚しちゃいますから」と遠慮し、蛇口をひねってざぶざぶと顔を洗いだした。波瑠は、それがいい、と思った。今日のことも一緒にさっぱり洗い流してしまったらいい。
彼は袖口で顔を拭い、唇を巻き込むようにして傷口を舐めた。
「捕まってもよかったんだ。全部喋ってやるつもりだった。阪上をまた証言台に引っ張り出して、しどろもどろさせてやれたのに」
志郎はにやりとした。波瑠は呆れた。
「人生台無しよ。何の得にもならない」
「損得の問題じゃありませんよ、人生って。何を成し遂げるかです」
「あなたが罪を着せられたわけじゃない!」
「あなたの立ってるところからじゃ何も見えないだけだ」
「それはどういう意味?」
波瑠は志郎の目を見つめて慎重に訊ねた。それはつまり、響子の「立っているところ」からなら「見える」ということを意味するのだろうか。しかし志郎は答えず、逆に波瑠に訊ねてきた。
「先生――僕らはただ法というものに怖がってなくちゃいけないんでしょうか――同じように、あなたたちに対しても?」
志郎は波瑠の答えを待たずに続けた。
「僕みたいな普通の人間は、法律のことをあんまりよく知らないんです。知らないから法律ってものに従順でいればまちがいないとだけ思ってる。だから、違法なことは普通やらない。人を殺さないし、人の物も盗まない。誰かを騙すことなんかもしない。普通の人は悪いことは後ろめたさがあったりして踏みとどまるものです。でも、アウトロー気取りの連中を別にすれば、悪いことをするのは法律のことをよく知っている人、知り尽くしている人たちだ。平気で滅茶苦茶をやる。法律がたんなる言葉だってわかっているから、法の網の目をかいくぐったり、自分勝手に解釈したり、嘘を真実だとでっちあげたりして。違法でなければ悪いことでもやっていいんですか? あなたたちには正義の観念というものはないんですか? 法に正義の信念を織り込むつもりはないんですか? それとも、そもそもそんなことをするものではないんですか?」
波瑠は志郎の問いにやっと首を振ることしかできなかった。
「あのとき、僕らは絶対勝てると思ってた。僕らは正しいことをしてるんだからって」志郎は急に泣き出しそうな顔をした。「僕が意地になってたから、親父は退くに退けなかったんです」
「あなたは絶対無実の論拠を示した。誰だって無罪を信じて闘う」
「後悔しかありませんよ。泣き寝入りしときゃよかった。そりゃそのときすぐは悔しいだろうけど、いまごろは全部跡形もなく忘れてると思いますよ。あんなクソの役にも立たない、頭をぼやけさせるだけの薬なんかなくたって――」志郎は急に言葉を切って、照れくさそうに俯いた。「先生が来てから、やめてるんです――薬飲むの。ひょっとしたらこれをきっかけに断ち切れるかもと思って」
抗鬱剤の服用を唐突にやめたせいで、その後数週間は精神的なもののみならず、肉体的にも苦しんだ経験が波瑠にもあった。
「みんなに腫れ物扱いされるのはもう嫌だったから――親父にも、それにお袋にも――」
彼は自分の部屋を見上げた。
「お袋、いろんなことがあって、やっぱり少し気が細っちゃったみたいで――だからさっき取調室で『どうしようかなぁ、逮捕だなんてお袋にはショッキングだよなぁ』ってずっと考えてたんです」
その反省のない言い草に波瑠は思わずぷっと吹きだした。志郎もようやく泣き顔を解いて笑った。
「母親って、子供をいつまでも子供扱いしますよねぇ――」
志郎の言葉に、波瑠は急に迷路に迷い込んだ感覚に襲われた。その数瞬の間に志郎は敏感に感じ取ったようで、彼は不意に口を噤んだ。ただ、その沈黙こそがつらかった。だから波瑠は自分から母のことを切り出した。
「私の母はその逆――私のことをもうすっかり大人だと思ってたんだと思う。いつもいつも『ありがとう、助かるわぁ』って言われた。もうほとんど口癖みたいに」波瑠は自分が過去形で語っていたことに気付き、言い添えた。「もう八年にもなるんだけどね」
志郎の目に憐憫の色が差した。その眼差しこそ、波瑠にとっての「腫れ物扱い」なのだ。波瑠はそんな眼差しから逃れたかった。だから、もう帰るような素振りを見せた。アパート前の通りは街灯がちらつくばかりで暗く、寒々としていた。表の通りに出なくてはタクシーもつかまりそうになかった。急に心細くなって助けを求めるように志郎を振り返った。彼の目にはまだ憐れみが残っていた。波瑠はやはりひとりでこの暗い道に踏み出そうと思った。まるで親しい友人のように志郎と別れの挨拶をし――「それじゃ、またね」――、しかし志郎は同じようには返さなかった。波瑠は表の通りへと早足で歩き出した。
7
ガレージに灯されるハロゲンランプがこの家ではもっとも明るい光源で、他は陰ばかりだった。
波瑠がほんの子供だった頃、まだこの廊下は庭に面した縁側で、季節が来れば草花が茂る景色が見渡せたものだった。しかし、その庭に、庭木や花壇に興味のなかった父が病床の母のさほど抵抗感のない反対をやすやすと押し切ってガレージを建てたのである。
廊下を挟んでガレージに父、向かいの部屋に病床の母というのが槇村家ではよく見かける光景だった。呆れとも諦めともとれる母の父への眼差しの横で、波瑠は母親の世話に明け暮れながら父を軽蔑の目で見ていたものである。とはいえ、そうなる少し前までは波瑠こそがガレージでバイクいじりに夢中になっていて、ふと気付くと困惑顔の母に見つめられて居心地悪く感じるという頃もあった。
夏樹は鋼鉄のカムシャフトを宝飾品を扱うようにそっとウエスの上に置いて作業の手を止めた。だが、波瑠はそれに気付かないふりをして自室に引っ込んだ。
ベッドに身を投げ出して今日一日の出来事の一つ一つに自己嫌悪を塗り重ねていると、風呂場で轟く湯の音にだいぶ遅れてコーヒーの匂いが漂ってきた。「煎れたてだから降りておいで」といういつもの声がそろそろかかる頃だ。それにどう返事するか――愛想よく? 苛々と? それとも感情を押し隠して? ――考えることすら億劫に感じ、波瑠は呼ばれる前に階下へ降りていった。
意表を突かれた父の顔はすぐにほころんだ。向かい合って熱いコーヒーをすすりはじめたが、「今日はどうだった?」「疲れた」「暇だった」「お疲れさん」――予期していたそんな建前だけの会話はなかった。いっそ疲れたふりをしてしまおうと波瑠は思った。現に、本当に身も心も疲れ果てていた。
「今日は大変だったみたいだな」
夏樹は波瑠の顔に、今日一日吹き荒れた嵐の爪痕を見たのだろう。さっきまでの思いが吹き飛んで、波瑠は急に泣き出したくなった。みなが自分の気持ちを察してくれる、優しい言葉をかけてくれる――そして、みな一様に無神経だ。彼らのいたわりは本当に癒すべき胸の芯にまで届くことはないまま、引き波のように遠のいていく。
いつものことだ。波瑠はもうさしてめげることなく今日の出来事を努めて淡々と夏樹に話した。しかし話しながらも波瑠は何度も自嘲を漏らさずにはいられなかった。自分の身勝手のせいで一人を死なせかけたし、今度は別の一人を監獄送りにしかけたのだ。
風呂場の轟きが聞こえなくなっていた。湯が満ちてきているのだ。コーヒーを飲み干してこの時間をおしまいにしたかったが、ひと息に飲み干せるほどにはまだ冷めていなかった。
「彼はもう平気なのか」
「――だと思う」
彼は別れ際にはもう、他人のことを憐れむ余裕があったくらいだ。
「お互いのお母さんのことを、話したの――ほんの少しだけ」
ほんの少しだけ――それなのに彼はあんな目で自分を見つめてきた。言葉以上に波瑠は心の内を溢れさせてしまっていたというのか。志郎はどこまで深く波瑠の心を透かし見たのだろう。たんに母親を亡くした悲しみではない、波瑠が隠してきたあの「過ち」への後悔と恐怖を見抜かれてしまっただろうか。
(まさか!)
あの「過ち」は墓場までもっていく秘密だった。棺の中に横たわる母の姿を見つめながら、そしてその蓋が閉じられるとき、波瑠はこの秘密は自分自身が棺に入ったときに一緒に閉じ込めるのだと、そう固く心に決めていたのだ。無意識にだってそう簡単に人にさらけだすはずはない。
しかし、波瑠はいつのまにか涙をぼろぼろとこぼしていた。そのことに気付いても、もはやどうにも止められなかった。胸の内で何かが形を崩しつつあった。
秘密は毒で、それをこぼさぬように守ってきた瓶にひびが入り、ついには砕けてしまったのかもしれなかった。
胸の中が毒素で冒されていく。吐き出さなければならなかった。だが、吐き出したら――波瑠の「過ち」が日の下にさらされてしまう。いや、いっそのこと全部吐き出してしまえばいい。なにもかも全部――そう、全部――。
「お母さんのことでは――お前に苦労をかけた」
唐突に、夏樹が重々しく切り出した。波瑠は何を言い出すのかと目を瞠った。
「もっとお母さんのそばにいてやればよかった――私こそが。それなのに、お母さんの言葉に甘えてしまって――」
「甘えてしまって? お母さんの言葉?」波瑠は突っかかるように夏樹の言葉を遮った。波瑠の剣幕に夏樹は焦っていた。
「お母さんは自分のことで私を縛り付けたくなかったんだと思う。だから――『波瑠がいてくれるから大丈夫、安心していってらっしゃい』――それがお母さんの最後の言葉だった」
「最後の言葉って――」波瑠は急に胸の芯が冷たくなった。「あの日のことを言ってるの? あの日、それがお母さんの本心だったと本気で信じてるの?」
夏樹に荒々しくぶつけてから、波瑠は激しく自己嫌悪した。この握りしめた拳で自分を叩き潰したくもなった。
「お前の言う通りだよ」夏樹は苦々しく言った。「私はお母さんをほったらかしにした自分を許せなかった。お前が私を恨んでいることもわかっていた。私がすべきことはまず、お前に謝ることだった」
「お父さんが最初にしたのは、お母さんの後を追おうとしたことよ」
「あれはちがうんだ! 落ち葉だ。濡れた落ち葉にタイヤを乗せてしまった。あれはよく滑るんだ!」
「お母さんの遺影を抱いて? 落ち葉だなんて、誰がそんないいわけ信じる? あれは自殺よ」
波瑠が冷めた声で言い放つと、夏樹は額をテーブルにつくほどに頭を下げた。波瑠は父親の後頭部から目を逸らした。
毒の瓶はいつのまにか修復されて中身を一滴も漏らさなくなっていた。「秘密」は再び胸の奥にしまいこまれた。やはり、死んでこの身が灰となるまで、「過ち」の記憶はただただ苦悩として存在し続けねばならないさだめなのだ。
自分の部屋に逃げ込んでベッドに仰向けになると、天井に貼った特大のポスターが視界いっぱいに迫ってくる。響子の部屋に貼ってあったものと同じ、レプソルカラーのNSRを駆るミック・ドゥーハンだ。勝つか負けるかの境界を、ひたすら勝つ方に向かって疾走したこのレースの後、彼には表彰台の一番高いところでシャンペンシャワーを浴びるという至福の時間が待っている。
自分はといえば、勝つも負けるもない境界線上を、どちらに転げ落ちるかも構わず当てずっぽうに疾走している気がした。その境界線とは何かというと――生きるか、死ぬかだ。
刹那、鼓動が強く打ち、胸がひどく痛んだ。
(生きるか死ぬかだなんて!)
母の死の直後と同じだった。あのとき波瑠はもう生きていたくはなかった。ただ、母の後を追いたくもなかった。向こうで自分の「過ち」を責め立てられるのが恐かったからだ。だからといって生き続ける覚悟も勇気も持てなかった。だからあのとき波瑠は、運命の為すがままに身を任せようという思いに掻き立てられ、生きるか死ぬかの境界線上を突っ走ったのだ。
その思いがいままた波瑠の胸にまざまざと甦ってきていた。
波瑠はのろのろとベッドから起きあがり、下着姿になると革ツナギを着た。冷たく、硬く、自分が拒まれているのかと思いもしたが、どうせすぐに体温で柔らかくなる。波瑠はガレージに降り立って自分のCBR600RRにまたがると、冷気の塊を断ち割るようにして飛び出していった。
8
母という人はいつも寂しげだった。
健やかな頃の笑顔や声、飾っていた頃の佇まいや匂い、抱きすくめてくれていた頃の温もり──どの記憶も感覚も薄れてしまっていた。いまでも色濃く残っているのは、最期の半年ほどの看病疲れ、あまりに気を遣い、気を遣われるあまりに互いに本音をさらけ出せずに日々冷たくしていく胸の内、そして病人のすえた臭いばかりだ。
(あなたが立派な弁護士になるのが、私の楽しみなの)
母はそんなことを口癖のようによく言っていた。
(だったらさっさと入院してよ。ずっと入院しててよ)
退院するたびに「家が一番ね」と定位置のベッドにくつろぐ母に向かって、自分でもぞっとするそんな本音を吐けるはずがなかった。
思いに反して、波瑠は司法試験への、そしてバイクへの情熱の炎をすべて吹き消してしまって母の看病に専念しようとした。そしてついにそう決意を固め、内に燃える熱の源を一つ一つ吹き消していくとき、波瑠は自らの手で自分の未来を閉ざしている気がした。視界は暗転し、先が見通せなくなった。バイクは埃をかぶり、詰め込んだ知識は狭くなった世界には非現実的でしかなくなった。
そんな波瑠の心情を知ってか知らずか、母は在宅医療用の酸素マスク越しにいっそうの感謝と気遣いを見せる。だが波瑠は自分を嫌悪していた。波瑠は、ろうそくほどのほんの小さな炎を一つ、まだ吹き消せないでいたのである。
目をつぶれば闇に一つの炎が灯っている。何にも実らないかもしれない人生の残りかすとわかっていても捨てられない。だが、それこそが母を殺すかもしれない。自己矛盾に荒々しく、なすすべなく揺さぶられ、波瑠の心の疲労は誰にも知られず蓄積していった。
そして、あの日の朝、波瑠はついに布団から這って出ることすらもできなくなっていた。
家の中はひっそりとしていて、唯一動的なのは刻一刻と床をにじる陽の光線のみだった。波瑠は朝を恨み、自分を恨みながら、布団の中で身動ぎ一つできずにただわけのわからない涙を流していた。
(眠りたい。眠ろう。眠ったっていいじゃないか)
そうして開き直ってはじめて、波瑠は深く眠ることができた。
母の声を聞いた気がして、ぼんやりとしたままベッドを這い出た。
気のせいだった。母は昏々と眠っていた。ただ、その呼吸はほとんど止まりかけていた。
途絶えるまで続けられる――そのためだけの息遣いを聞きながら、自分もまた生きるための呼吸をしている気がしなくなっていた。しかし一方で、これで終わるんだという思いもあった。これで解放される、自分の人生をはじめられる――お母さん、もういいから、もう終わりにしようよ――。
母の呼吸が止まった。波瑠は安堵した。そしてすぐに激しい後悔が襲ってきた。
取り返しのつかないことをしてしまった、自分にはまだ何かできたはずだ、母はまだ生きていられたはずだ、まだまだ長生きして、ひょっとしたら病気も治ったかもしれない――揺さぶっても声をかけても、母は戻ってこなかった。
波瑠は呆然とした。自分の勝手で残酷で下劣な思いが、未練がましく残した小さな炎が、母を孤独な死へと追い立てたのだ。
波瑠はひたすら自分の思いを隠した。だから、誰も波瑠を責めなかった。だから、波瑠は自分で自分を激しく責め立てた。
響子は力ずくで波瑠を引っ張り上げようとした。舞子は優しさで包み込もうとした。だが、波瑠はどの気遣いに対しても身勝手な反抗で応じた。なぜなら、彼女たちこそ波瑠を幸福にさせてくれた存在であり、しかしその存在に関わるすべてが、母への裏切りだったのだとしか波瑠には思えなかったからである。
母の死、父の自殺未遂、抗鬱剤のまどろみにどっぷり浸かった日々から波瑠を救い出したのは時間の経過と、やはり最後まで消せずにいた胸の内の炎だった。
響子に遅れること二年、ほとんど末席ながら波瑠は司法試験に合格した。修習期間も滞りなく修了することができた。なにより、何の苦もなく夜になれば眠ることができるようになった。あの朝、母が息を引き取ったのは必然だったとも思えてくる。みぞおちあたりを圧していた後悔や自責の念もいつのまにか薄れていった。
ただ、いまでも唐突に恐怖に身を震わすときがある。
あのとき、やはり何よりも母を大事にすべきだったのではないか。あの頃のすべての瞬間に、それ以上に価値あることなど他にあるはずがないというのに、それなのにろうそくたった一本の炎を吹き消せずにいた。長く長く残っている自分の人生のうちのたった数ヶ月を、数週間を、数日を、数時間を──母を心穏やかに看取る数秒を、微笑みで送り出すほんの一瞬を、なぜ母のために費やしてやらなかったのか。母はその一瞬をどれほど欲したかもしれないのに。
結局、ここに行き着く。この八年、自分の胸に問いかける言葉は厚く層をなすばかりだった。
(お前は犯した罪をどう償うつもりだ?)
波瑠はミラーをのぞきこんで自分の目を見据えた。
虫も鳴かない静寂の中に波瑠はいた。エンジンの高回転域ばかりをつかってここまで駆け上がってきたせいで、耳腔はまだ残響で騒々しい。ただそれも、すぐにこの深く静かな闇に馴染むだろう。いまや街や星々の明かりも、崩落防止のコンクリート壁と、梢という梢を狭い空へと駆け上がらせる針葉樹林に遮られている。CBRのヘッドライトだけが光源で、その狭い照射範囲だけが世界のすべてにさえ思えてくる。
昼間は採石場を行き来するダンプカーでひどく埃っぽくなるのだろうが、いまはそんな往来も絶えて空気が澄んでいる。赤茶けた落ち葉が端に掃き清められた道路は、羽虫がきらめく光線の先で不意に途切れているように見えた。その実、道は下りながら右に緩くカーブしている。さらにその先には、山肌に沿った高速カーブが連なり、車体をフルバンクさせるヘアピンカーブがあり、ウインドシールドに潜り込んでフル加速する長い直線がある。
この道は響子と二人で無数に走った。
ここを訪れるのは母の葬儀を終えたあと、響子に誘われたとき以来である。ただそのときは、波瑠は響子を振り切って狂ったように駆け抜けたのだ。
あの夜とはちがう――波瑠はそう何度もたしかめた。
あの深夜、響子が訪れる直前までひとりベッドで泣いていたのは、夢のせいだった。うたた寝の夢に出てきた母が可哀想だったのだ。
夢の中で、波瑠は一家三人でツーリングに行こうという計画を立てていた。二輪免許を持っていない母のために、父は窮屈な後部シートじゃ辛かろうと自分のバイクにサイドカーを装着する算段までしている。母もまた、サイドカーに乗っている様子を夢見る眼差しで思い描いている。
波瑠は涙の熱さで目が覚め、声を殺して泣いた。
実現するはずがないのだ。
母はよく「病気が治ったら」「調子が良くなったら」という枕詞を添えた近い未来のことを語った。母はそれが決して実現するはずがないとわかりきっていたにちがいない。母にとって未来は夢物語だ。希望でさえない。ましてや、苦難を乗り越えて実現しようとする目標であるはずがなかった。
波瑠はいつからかそのことを見抜いていた。そして波瑠が見抜いていたことに、母は気付いていた。
そして母は、もう夢さえ語れなくなってしまった。
タイヤが鳴き、ゴムの焼けた臭いがヘルメットの内部にまで這い上る――しかし次の瞬間、どっと流れ込む冷気に取って代わられた。
ハイビームが照らす景色が急激に波瑠に迫ってくる。周辺視野は目の隅で流れ、ぼやけ、漆黒の闇に溶け込んでいく。いつエンジンを始動させ、いつクラッチを握り、いつシフトペダルを踏み、いつスロットルを捻ったかはわからなかった。無意識にすべてを流れるように――あるいはほとんど同時にやっていた。CBR600RRが獣のように吼えながら静寂を掻き乱していく様にはっと気付いたときには、波瑠の体もすでに熱くたぎっていた。
全身が無意識に連動し、ことごとくカーブを駆け抜けていく。ブレーキを司る右手指と右足、それに左手指のクラッチレバー、左足のシフトペダルはあやまたず連携し、ガソリンタンクを挟む腿と膝もシートに載せている尻も、ハンドルを抱え込む腕、肩、そして上半身もまた、機が訪れれば流れるように正確に作動した。
あの夜とはちがう。
あの夜は一体何だったのだろう。滅茶苦茶な走りだった。ブレーキングは遅れ、スロットルのタイミングも開度も大雑把だった。ライン取りに根拠はなく、カーブごとに車体をねじ伏せる。コンクリートの壁や断崖への恐怖はなかった。むしろ波瑠は自分をそれらへと激しく追い立てていた。しかし、あの夜、波瑠が行き着いたのは崖の底でも固い壁でもなかった。波瑠を穏やかに、慰めるように、見知らぬ街の明かりが迎えてくれた。しかし波瑠は余計に辛かった。街灯の下にバイクを停め、ボロボロに溶けたタイヤとニーパッドの焦げた臭いの中で、追いついた響子に強かに頬を叩かれるまで、母との距離が一歩も近づかなかったことに失望していた。
あの夜とはちがう?
いや、同じだった。波瑠はすべてのカーブに母の姿を求めていた。
(どうして拒むの? あたし、いけない子だった?)
答えを得る間もなく、真っ白にまばゆいガードレールを寸前でかわしていく。母の亡霊は先へ先へと行ってしまう。波瑠はアクセルを思い切りひねり、突進し、追いすがろうとする。長い直線などあろうものなら全速力で坂を駆け下り、次のカーブの闇に母の姿を見出そうとする。しかし、そのたびにただただ、うねるガードレール、立ちはだかるコンクリートの絶壁をかわしていくことしかできない。後輪がグリップ力の限界を超えてずるずると悲鳴を上げて滑り出す。アスファルトが左右のニーパッドを激しく削る。波瑠の頭の中で警報がけたたましく鳴り続けている。しかし、それがむしろ波瑠の自己否定に拍車をかけた。
(待って! 聞いて! 教えて! あたしはひどい娘だったよね!?)
コントロールは崩壊しつつあった。CBRのポテンシャルが唯一波瑠をガードレールの内側に引き留めているに過ぎなかった。
長い下り坂を駆け下り、突き当たりの絶壁が視野いっぱいに迫りつつあるとき、波瑠は我に返った。
右手の指先、右足の爪先は無意識のうちにタイミングたがわずフルブレーキング――しかし、その応答に違和感を覚えたのだ。波瑠はブレーキレバーを握り直した。
ぐにゃりとした手応え。柔らかいゴムボールを握り込んだ感触――前輪のブレーキがまるで効いていなかった。
頭の中の最大音量の警報の中で、それまで波瑠を支配していた何かが破裂して消し飛んだ。波瑠はいま、精神と肉体――全身の制御を一挙に取り戻した。
ハイビームが切り取る絶壁がもう目前に迫っていた。前輪ブレーキなしには減速しきれない。波瑠は後輪のブレーキペダルを底突きするまで踏み込んだ。
後輪は瞬時に回転を止めてロックし、激しく鳴きながら左右にぶれはじめた。右、左、右――二度目に左へ振れたのに合わせて、波瑠は一気に後輪を振り出して車体を転倒させた。地面と車体に挟まれないようにたたんだ右足でガソリンタンクを蹴り出すと、それをきっかけに車体と体が離れ、波瑠はバックステップの先端が散らす火花の中を車体に続いて滑っていった。
革ツナギが音を立てて削れていく。車体はもっと派手な音を立てて削れていく。火花を上げ、熱くなった金属が焼け、プラスチックが溶け、焦げた臭気が鼻をつく。ツナギのどこかが地面にひっかかったのか、いきなり体が弾みだして波瑠はなすすべなく激しく転がりはじめた。
視界いっぱいに現れたアスファルトに恐怖を感じ、視界転じて梢からのぞく星明かりに妙な安堵を感じたり――それは絶えずめまぐるしく繰り返された。肘や肩や膝や腰の痛みも最初の一回だけで、二度目からは同じ場所を地面に打ちつけても何も感じなくなった。そのうちに車体が壁面に突き当たって跳ね上がるのがちらと見え、同時に低く鈍い、甲高く鋭い、大質量の物体がつぶれ、ひしゃげ、小質量の物体が瞬時に破壊されるときの不快な音を立て続けに聞いた――直後、波瑠の体は絶壁の寸前で止まった。
平衡感覚を失って目を回した視界と脳は、星空をゆっくりと地平にどうにかして落としてやろうとしていた。波瑠は体を起こそうとしてうつ伏せになり、肘と膝をにじって四つん這いになり、また地面にごろりと転がった。突き指で痛み、痺れ、自分のものという気がまるでしない指先でヘルメットのバイザーをこじあけた。
振り返ると、壁の下にCBRが静かに横たわっていた。波瑠はにじるようにしてバイクの方へ這っていった。
バイクは前輪のあたりが大破していた。ヘッドライトレンズは砕け、左右のフロントフォークはもはや並行を保っておらず、それぞれ継ぎ目からオイルを垂らし、フロントタイヤをあらぬ方向へ向けていた。ブレーキオイル、ラジエター液なども漏れているらしく、地面が車体のあたりだけ黒々となっていた。これ以上体を動かすのも億劫で、波瑠はそこでまたごろりと地面に横たわった。まだ熱いタイヤがゴムの溶ける臭いを立ちのぼらせている。どのオイルとも異なる、嗅いだことのない甘ったるい臭いも漂ってきた。これはなんの臭いだろうと考えたが、波瑠の思考は疑問の渦のど真ん中で一度ぐるりとめぐり、そして力尽きた。波瑠はイグニッションキーを引き抜き、シートのキーホールに差し込んで捻った。シートが音を立てて外れると、携帯電話が転がり落ちてきた。
少しもためらうことなくダイヤルしたのは響子の番号だった。
寒気が革のツナギの内側に浸みこんできた。
コンクリートの絶壁に背をもたれ、膝を抱えてちぢこまり、意識はといえば、急に襲ってきた疲労感と脱力感にぼんやりとしていた。そんな中でも、アドレナリンの残りかすでいまだに脳内を無秩序に踊る思考の断片を、波瑠は飛び跳ねるがままに任せていた。
それにしても、なぜ響子に電話をかけたのだろうか。
何度となくそんな疑問が湧いてくる。ただ、答えはもうほとんどわかっていた。しかし、それを脳内においてさえ、意味ある言葉にしたり断定的に結論を下すのを波瑠は恐れていた。
どうやら残留アドレナリンもついには使い果たしてしまったようだ。あるいは風も虫も鳴かない無音の空間があらゆる感覚を麻痺させているのかもしれない。寒さももう感じていなかった。革ツナギの中の無重力空間で、手足や体といったものすべてが形をなくしたか、あるいは切り離されたかして、もう何も思考しなくなった意識だけがそうっと漂っているようだった。
いつからか、山あいには排気音が甲高くこだましていた。その高音の長さと、高音と低音との間隔の狭さに、音の源が急いていることがぼんやりとわかった。音は次第に野太さと音量を増していった。
いつの間にかそこにあったヘッドライトの光の中から響子が現れた。彼女の手が体中のいたるところに触れ、いたるところが痛んだ。何かを何度も訊ねられ、「寒い」と答えてみた。口にしてみると本当に寒さを感じはじめた。顎を持ち上げられ、目をのぞきこまれ、しまいには頬を何度もはたかれた。そのしつこい手から逃れようとしているうちに目が覚めてきた。響子の声は怒っていて、しかし彼女に抱きかかえられ体をさすられて、寒くて震えていたのが温まってきて、ついに波瑠は響子の胸にすがりついて泣き出した。
そのうちに、車体に「ヒート・ビート」のステッカーを貼ったレッカー車がけたたましい唸りを上げて停まった。波瑠は傷だらけのヘルメットとともにトラックの助手席に押し込まれ、半分崩れたCBRが荷台に載せられるのを放心状態で待っていた。やがて響子のバイクが先導するように走り出し、トラックも後に続いた。
「ケガしてなくて何よりだよ」
「ヒート・ビート」の店長、小野瀬誠は変わっていなかった。痩せた見た目通りにその声は甲高く遠慮がちで、およそ頼りがいがあるとはいえないものだが、いまの波瑠には心地よいものだった。
「びっくりしたよ、もう。おキョウさんから電話があってさ、慌てて飛び起きて飛んできたってわけ」
彼はどこか嬉しそうで、話してるうちにますます喜びがこみ上げてくるという風だった。
「ちょっと寒いかな」
小野瀬はヒーターの温度を上げた。おかげで体が温まってきて、断片的な思考もはっきりとまとまりをもつようになってきた。
「相変わらず勇ましい走りだねぇ、おキョウさんは――しっかし、いいケツしてやがんなぁ」
前を走る響子をにやにやと眺めながら小野瀬が言った。波瑠も響子の背中をずっと見つめていたが、波瑠には彼女の背中がもはやまるで見知らぬもののように見えてならなかった。
「店長、お願いがあるんだけど――」
9
携帯電話の着信音で目が覚めたが、全身が痛んでベッドに縛り付けられたように身動き一つとれなかった。
志郎からだった。留守電にメッセージが吹き込まれていた。
階下から上機嫌な夏樹の声が聞こえてきた。響子と小野瀬が来ているようだ。波瑠は志郎の言葉の残響に目眩を覚えながらも、どうにかベッドから体を引きはがすようにして起き上がった。
青痣だらけの体を鏡に映しながら着替えを終えると、足音を忍ばせて階下に降りた。ガレージをのぞくと、波瑠のかつての愛車RVFがぴかぴかに磨かれてあった。
「ハル――」
響子が振り返ったが、波瑠は先んじて小野瀬に声をかけた。
「店長、修理の見積もりしてくれた?」
大破したCBRは昨晩のうちに小野瀬のショップに引き取ってもらってあった。だが、用件はそのことではなかった。
「ざっとね。トラックにあるからちょっと取ってくるよ」
彼はそう言ってガレージを出ていった。波瑠は彼の後を追った。
「これ、例のブツ」
外に出ると、小野瀬は真ん中が膨らんだ封筒を人目をはばかるように波瑠に渡した。中には液体で満たされた小瓶があった。
「でも、どうしてこんなものを――」
「店長は気にしなくていいんです」
波瑠はキッチンで古びた天ぷら用の温度計を探しだし、次いでアルミ製の計量カップに、小瓶の中身――黄色みがかったオイル状の液体を注いだ。それをコンロの弱火であぶりはじめ、そしてすぐに温度計を液体に入れようとしたとき、波瑠はあっと声を上げて手を止めた。そのオイル状の液体は、甘い香りを立ちのぼらせながら早くも気泡を生じはじめていた。
「あいつゼッタイ、タヌキ寝入りしてるんだよ。事故からまだ三十七時間と二十三分しかたってないんだもん、まだセーフなはずよ」
その言葉とは裏腹に、受話口から聞こえるエリーの声は自信がなさそうだった。
「いきなり目が覚めるんだって。でも記憶を無くしてるかもって――あたしのこと忘れちゃってたりしてね、嫌な記憶と一緒にさ」
「嫌な記憶? 五年前の?」波瑠は聞き返した。
「五年前? ううん――」
エリーは急に口を噤んだが、すぐに取り繕うように言った。
「ヤバっ、あたし、トモのそばにいなきゃ!」
通話は一方的に切れた。
古賀に電話をして青田智宏の事故の件で頼み事を一つした後、波瑠は誰にも言い置かずにそっと家を出て、タクシーで二子玉川駅へ向かった。その道すがら、志郎のメッセージを聞き直した。
「あんなことをしでかしておいてなんですけど――ここでやめたら元の木阿弥だと思うんです」静かな声で彼は続けた。「先生は親父の冤罪をどうにかしたいと思ってくれた唯一の人です。だから――」
波瑠は続く志郎の言葉を思い出して、いままた目眩を覚えた。
「今日、先生に会ってもらいたいのは、一審の裁判官――いや、元裁判官ですね。その人、実は轢き逃げ犯なんですよ」
10
志郎は信号待ちの合間に新聞記事の切り抜きをよこしてにやりとした。その嘲りの笑みが、父親に有罪判決を下した主陪席判事国見杜夫のなれの果てに対するものだと思うと波瑠はぞくりとした。
記事は昨年の九月のものだった。自動車運転過失傷害および救護義務違反――いわゆる轢き逃げの罪で有罪となり、控訴断念した地裁判事が職を辞したと報じる記事だった。事件そのものは二月の出来事だが、判決まで半年もかかっている。
「親父と同じです――国見杜夫は無罪を主張したんですよ」
ちがうと波瑠は思った。轢き逃げ、否認、そして有罪判決。国見の身に起きたことは、佐倉照郎の件とではなく、響子のとまったく同じなのだ。
「あそこです」
志郎が指さした家は、窮屈そうに軒を連ねるうちの一軒だった。
玄関の脇に立派なもみの木が生い茂っているのだが、その植木の大ぶりの枝が駐車スペースにまで張り出していて、元は真っ白であったろう高級セダンのルーフやボンネットを落ち葉と砂埃で半ば埋もれさせていた。本来、フロントグリルの真ん中で堂々としているはずのエンブレムも、いまや茶色くくすんで輝きを失っている。
白のクラウンロイヤルサルーン。佐倉の隣人の子供が彼からもらったというミニカーと同じだ。ミニカーに傷があったあたりをのぞきこんでみたが、そのあたりは汚れで厚く覆われていた。
インターホンを鳴らすとややあってから玄関のドアが開き、隙間から女の顔がのぞいた。
「槇村法律事務所の槇村と申します。ご主人はご在宅でしょうか」
目の周りのむくみのせいか、女の顔は無表情に見えた。
「――出かけています」
「いつ頃お帰りになりますか」
女は首を傾げ、それきり反応が途切れた。志郎がこっそり波瑠の肘を突いて小さく首を振った。
「また後ほどうかがわせていただきます」
波瑠が言い終わらないうちにドアが閉まった。志郎は言った。
「向こうに大きな公園があって、たぶんそこにいますよ、あの人」
その男は、春の日差しが誰の頭上にも公平に降り注ぎ、その心地よさがもたらす喜びの笑みが溢れかえる等々力緑地において、たった一人の例外だといえた。
二人が近づいていくと、男は陰気な顔を上げた。途端に彼は唖然とし、数瞬の間に憤怒の表情をあらわにし、そしてすぐに意気消沈していっそうベンチに沈み込んでしまったかに見えた。国見の視線が志郎に向いていたように感じて、波瑠は志郎にそっと訊いた。
「やっぱり面識あるんじゃない?」
「まさか――」
志郎は吐き捨てるように言った。波瑠は国見の前に立って声をかけようとすると、国見はいきなり志郎に向かって言い放った。
「『目には目を、冤罪には冤罪を』か。実によくできた復讐劇だ」
波瑠はどきりとした。志郎は冷徹な表情で国見を見下ろしていた。
「私が君のことを憶えていないとでも思ったかね。私はすぐに君に嵌められたと気付いたよ」
「僕があなたに復讐したとでも――まさか僕を疑ってるんですか?」
最後の言葉は波瑠に向けられていた。波瑠が返答に詰まっているのを国見はにやにやしながら眺めていた。
「すぐに思い出したよ。立ち上がってわめいただろう? 傍聴席の最前列で、こう、腕を振り上げて私に向かって――『冤罪だ!』」
「わめいたから犯人ですか? あなたこそ、実は本当に轢き逃げをしたんじゃないですか? 裁判官という立場上、それを認めたくないから無実だと言い張ってるだけなんでしょう?」
志郎は負けじと嘲笑を浴びせた。だが国見は挑発に乗らなかった。
「私は無実だ――鳴海響子もな」
志郎は一瞬きょとんとしたが、すぐに思い当たったのかすぐに険しい表情に戻った。
「鳴海響子って親父を起訴した検事でしょう。知ってますよ。でも、『も』ってどういう意味です? 先生、この人何を言って――」
志郎は波瑠に目を向けたが、彼が突き当たったのは明かされたくない秘密を暴露された者の戸惑いの表情だった。国見はふんぞり返って笑い出した。
「君じゃなけりゃ君の父上か?」
「だから、何の話をしてるんだよ! 『も』ってなんだよ!」
「それにしてもこの男を連れてくるとは意外だったな。つまり槇村先生はこの男ではなく親父の方を疑っているというわけか」
「疑ってる? 親父が犯人だって? 証拠はあるのかよ!」
「それをその女先生が調べてるんだよ」国見はのんびりと言った。
「調べてる?」
「志郎さん、話を聞いて――」
志郎の腕に手をかけようとして振り払われ、波瑠は宙に浮いた手を胸の前で握りしめた。心臓が飛び出そうなほど拍動していた。志郎の眼差しはいまでは波瑠をも敵視していた。
志郎はやはり響子の事件を知らなかったのだ。東京に居を構える国見のことはフォローできても、宇都宮の響子にまでは手が回らなかったのだろう。
「私はあなたのお父さんの冤罪を本気で晴らしたいと思ってる。もう一度裁判をやり直せるようにって。キョウちゃん――鳴海響子のためだけじゃない――」
「いまずいぶん親しげに呼びましたね。つまり、親しいご友人なわけだ――あの女と!」
志郎は波瑠から目を背け、そして憤然と歩み去っていった。喉の奥で笑い声を立てた国見を波瑠はきっと睨んだ。しかし、国見の表情に嬉々としたものは見られなかった。やがてその頭は肩の間にがくりとうなだれた。
「家内に会っただろう」国見は虚ろに言った。「たとえ一地方裁判所の末席を汚す凡庸な裁判官に過ぎなくても、その妻であることを家内は誇りにしていたんだ。それが一夜にして下劣な轢き逃げ犯の妻だ――ああやって壊れてみせて、私を責め立ててるつもりなんだ」
「でも、たしかに冤罪なんですね?」
「必ずや公正な裁判が行われる――私はそう信じていた。ところがいざふたを開けてみると、やはり、いつもの裁判ゲームだった」
波瑠は内心で呆然とした。国見が「いつもの」と言うからには、やはり裁判は決して公平公正なものではなかったのだ。
「控訴しませんでしたね。なぜですか?」
「無駄だからだ。完全否認して争ったぶん、ただただ裁判官の心証を悪くしただけだった。おかしな話だ。真実を求めれば求めるほど、反省が見られないとされ、罪は深くなり、罰は大きくなる。それにくわえ、公判が長引いたぶん、なんだかんだと請求してくる弁護士への支払いのためにかなり散財もしたよ。あげく妻が鬱になり、私は職を、信用を失った――失ってばかりだ」
それからようやく国見杜夫は事件のあらましを語り出した。
轢き逃げの現場とされたのは昼下がりの祖師谷商店街だった。
それは延々一・三キロメートルも続く道幅の狭い一方通行路で、早朝の通勤時間帯は駅へと流れていく人と自転車とで溢れかえり、夕方は歩行者専用通行帯となって買い物客で賑わう。国見がそこを自分のクラウンで通ったのは、比較的通行人がまばらだったときで、それでも彼は慎重に徐行運転で進んでいった。
週に一度の趣味のテニス通いの日、帰り道はいつも商店街に寄り、妻に頼まれた買い物をする。買い物を済ませると、国見は狭い裏道を通って環八へと抜けるのが常だった。
その日も何事もなくその道を通って帰ろうとした。ただ一つ普段と異なったのは、商店街から路地へと入った先の十字路で、原付バイクと道を譲るか譲らないかの押し問答になったことである。
「例の――クラクションだよ」国見は苦々しく言った。
狭い交差路を左折しかけたところで、向こうから猛然と突っ込んできた原付バイクが進路を塞ぎ、狂ったようにクラクションを鳴らしはじめた。しかたなく国見の方がゆっくりと後退して原付バイクを先に行かせることになった。
何事もなかったように環八へ抜けて帰路についたが、東京インターの先で白バイ警官に停止を命じられた。
「私が轢き逃げをしたとされた場所はまさにその原付バイクとやりあったところだった。そこで私は、バックしたときに杖をついた老人を引っかけてしまったというのだ」
物的証拠は申し分なくそろっていた。被害者である七十代男性の折れた足の指、そしてその杖にはバンパーの塗料、さらに国見の車の方には、被害者の指紋と掌紋、とどめは一部始終を目の当たりにし、車を止めようとしたという目撃証人の掌紋だった。
「どこかで聞いた話だろう?」
「同じです。鳴海響子と――目には目を、冤罪には冤罪を」
「『あれで審理を尽くしたというのか』――さっきのあの男の叫びが頭から離れたことはない」国見はうなだれてつぶやいた。
「国見さん、あなたはいわゆる『文系人間』ではありませんか?」
波瑠は訊ねた。国見は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに質問の意味を理解したようだった。
「得てして人は、自分の弱点をさらけだして勝負には出ない。弱点をひた隠し、強い面を押し出して勝ちを獲りにいくものだろう?」
「そのお考えが公判中の証人尋問によくあらわれていました。あなたはご自分が見たいものだけを――いえ、ご自分に『見える』ものだけを見て、ご自分の理解の範囲内で論じられるものだけを論じていました。それ以外はまるで無視でしたね」
国見は否定しなかった。波瑠は続けた。
「しかしながら佐倉照郎の事件に関しては、速度と走行距離と時間の関係なんて中学生レベルの算数ですよ。それなのに、あなたははなから考えようとしなかったように見受けられます。証拠一つ取っても、何の根拠もない、一方的な解釈ばかりが目立ちました」
「そんなこと、何も特別なことではない」国見は強い調子で言い切った。「一つの事実を取り上げて、一方がある真実を見出すが、他方ではまた別の相反する真実を見出すこともあるのだ。物事は常に多面的――白でも黒でもない、灰色なのだ。解釈という作為、てんで勝手に振り回すスポットライトによって都合の良い一面だけが白っぽく照らし出されているにすぎない。私もまた私のスポットライトで照らし出しただけだ。どちらの肩を持ったというつもりはない」
「いいえ、あなたはただ鵜呑みにしただけです。ちょっと想像力を働かせるだけで、何が真実で何が嘘かを見抜けたはずです」
「君の言うとおり、私も含め、あの場にいた誰もが、単純な数字いじりすらできない馬鹿者どもの集まりだった」
「なにをそんな悠長なことを! 裁判官の役目は、弁論大会の審査員などではないはずです! 佐倉照郎の冤罪に関してはあなたに責任があるんですよ。なぜなら憲法では――」
「憲法七十六条三項、すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される――にわか仕込みの三流弁護士に言われんでも知ってる。だが、すべて裁判官任せだというその法こそが不備なのだ。裁判システムの欠陥なのだ。裁判官は機械じゃない。人間なのだから出来不出来、得手不得手があるのは当然だろう? 物わかりの悪そうな裁判官だと思うなら、裁判官の忌避を申し立てればよかったんだ。裁判官の中にも探せば理系的思考の持ち主くらいいる、理系畑出身の者だっているはずだ。そういう者があの公判を取り仕切ればよかったんじゃないかね?」
波瑠は国見の他人事のような言い草に腹が立ってきた。
「そんな理由で、裁判官の除斥、忌避の申し立てが通るとでも?」
「しかし誰を責められる? 刑事訴訟法の欠陥を放置したままでいる議員連中か? はたまた戦後GHQにまで遡るか?」
「私は――私たちは、たんにあなたの怠慢だったと考えています。不得手であるなら、『理系』的思考を助けてくれる事故鑑定書を証拠採用するべきでした。そのための鑑定書でしょう」
「あれは、検察、弁護側の双方が採用に異議を――」
「異議を認めるか否かは判事の裁量です。どちらの鑑定書も公平に採用なさればよかったことではありませんか」
「鑑定書なんてものは自分の側に都合良く――」
「その結果がどうなったのかはご自身でもおわかりでしょう? 双方ともに証人尋問で――写真や図版すらもなく口頭のみで、複雑な事故のあらましを説明しなくてはならなくなったんです。しかも不公平なことに、検察側は鑑定書を書いた交通事故鑑定人の阪上日出夫本人が尋問に立てたのですが、弁護側はそれすらできませんでした。弁護側には持論を展開する権利さえ与えられなかったのです」
「弁護人が被告人を立てて解説させていただろう」
「『質問』に『答える』という尋問型式では限界があります。証人尋問の書き起こしを読みましたが、あれを見る限り、弁護側の事故鑑定書の三分の一も説明できていません。それに、検察官の反対尋問もまったく的外れの質問ばかりで、結局論点は矮小化されてしまった。それはまあ当然でしょう、検察側としては弁護側の鑑定の内容など正確に、詳細に記録されない方が好都合なのですから。また同時に、検察側の鑑定人、阪上日出夫の解説も終始曖昧で、彼の自説の全貌が見えてくるものではありませんでした。それゆえ、弁護人による反対尋問も検察側の見解を追及するには不十分すぎて、その致命的な欠点、欠陥が隠されたままでした。そもそも阪上日出夫の鑑定書という矛盾だらけのものが、証拠採用されなかったために存在しないことになっているんですから、検察としても大助かりだったのです。国見さん、もう一度お訊ねしますが、あなたは彼らの供述から何がわかったんですか?」
「君が弁護人だったらひょっとしたら――いや、それはないな」国見はひとつ溜息をついた。「裁判はゲームだ。テクニックや駆け引きが物を言う。しかしそのルールは検察側にきわめて有利なように偏っている。裁判は決して公正、公平ではないというのはここだよ」
「あなたがそれをお認めになってしまっては――」
「むしろ正直者だと言ってもらいたいね――公判の主導権は常に、すべての物証を握っている検察側にある。有利なものを表に出し、不利なものはひた隠し、なりふり構わず有罪判決へと裁判官を導く――言ってしまえば、裁判なんてものは検察という英雄の勝利の道を描いた舞台劇なのだ。被告人は大枚はたいて特等席のチケットを買い、後味の悪い結末を見せられる観客だな」
「そしてあなたがた裁判官は、さながらそんな猿芝居の提灯記事を書く、お抱え演劇評論家といったところでしょうか」
波瑠が国見の例えに乗じて素っ気なく返すと、国見はむっとした。
「あなたは佐倉志郎に疑いを持った。その際、あらためて佐倉照郎の事件を見直したと思いますが――幾分、味付けが濃すぎるとは思いませんでしたか?」
「目撃証人のことを言っているのかね」国見は慎重に訊いた。
「青田智宏――事故後、半年も経ってから名乗り出たという善意の第三者です」
「半年? その証人は事故当初から警察が確保していたはずだ。起訴するのに必要になったから証言を求めたのだと」
「半年も経ってから? そんな理由はいくらでも後付けできます」
「それはつまり――しかし、いささか妄想が過ぎるんじゃないのか」
「判決文では、その第三者――青田智宏の供述を重視していますね。スクーター、タクシー、トラックの、衝突の順序について」
「支離滅裂の曖昧な尋問合戦の最中だ。第三者の証言に重きを置くのは意義あることではないか?」
「ですが、その証言に基づくと、それこそ支離滅裂な事故態様になってしまいます。そのご認識、ご理解はありましたか?」
「阪上とかいう鑑定人も矛盾はないと言っていた――」
「それこそ想像力の欠如だと言っているんです。阪上日出夫という交通事故鑑定の権威が『あり得る』と言えばすべて『あり得る』ことになるんですか。裁判官の独立性はどこへ行ってしまったんです? あなたは検察の押しの一手で唯一証拠採用された阪上鑑定の中の一ページ、阪上日出夫のご立派なプロフィールがつらつらと書き綴られた紙切れを眺めて、この阪上という人物の言うことは信用できるという予断を持ち、弁護側の鑑定は素人がやったものだという偏見を持って、この裁判に臨まれたのではありませんか? あなたは阪上の名を出しましたが、もう一方の鑑定人は素人扱いで一顧だにしなかった。あなたは裁判官でありながら、権威主義以外の何者でもありません!」
「そんなことは断じて――」
国見はうろたえて言葉を詰まらせたが、波瑠は手を緩めなかった。
「あなたの怠慢は挙げたらキリがない。弁護側は裁判所主導で実地検証するよう申し立てましたが、あなたはそれを即座に却下しました。『その必要は無い』と言い添えてまで」
「その必要はなかった――」
「検証していればあんな判決にはならなかった。あなたは事故態様に関してまったく無理解のまま、矛盾だらけの嘘ばかりを一切合切鵜呑みにしただけ。それも佐倉照郎の供述だけをそっちのけにして」
「私は、第三者の目撃者の証言を――」
「なぜその第三者の目撃者が現れたのか――突如として」
「何を――ばかな! あの証人は宣誓して証言したのだ!」
しかし国見は、すぐにがっくりとうなだれた。
「言い訳をさせてくれるかね」国見が力無く言った。「弱者救済というのを知っているだろう?」
「自動車より二輪車、二輪車より自転車、自転車より歩行者、歩行者のうちでも視覚障害者、幼児、高齢者。交通弱者は守られなければならない――道交法のいたるところにみられる基本理念です」
「その基本理念というのがやっかいなところなんだ。いっそのことその強弱の度合を数値にでもして明記しておいてくれれば解釈の仕方も限られるだろうに、実際は曖昧模糊としている」
「佐倉照郎の件に限っていえば、解釈は一つです。百対ゼロで金子のスクーターが第一原因の事故なんです」
「公判中はまだそれは『事実』ではなく『争点』に過ぎなかった。となれば、当然、そこには弱者救済の理念が差し挟まれてくる」
「しかし、それは『予断』そのものです。裁判官ならば排除すべき偏見です。弱者救済、弱者保護なんて聞こえはいいけれど、もし公判中にあなたの頭の中にその言葉があったのなら、裁判はやはり不公正だったという証拠です。実際は何が起きたか、正しい事実を導き出すことが弱者救済なんかより最優先されるべきでした」
「しかし、私だけの罪かね? そもそも警察がただの追突事故をそのように導いたのではないのかね? 警察が――実況検分を担当した所轄の警察官が――」
「警視庁天神署の柿本警部補です」
「その柿本の頭の中こそ弱者救済、弱者保護というアプリオリに毒されていたんだとは考えられないかね。是が非でも自動車を加害者にし、比して交通弱者である二輪車を被害者にする――その警察官は、頭から佐倉照郎に罪を着せる気だったのだ」
「第三者の目撃者も柿本が捏造したと?」
「バカも休み休み言いたまえ! 私が言うのは――供述の誘導くらいはあったんじゃなかろうかという程度に過ぎん!」
波瑠には自分の考えがまちがっているとは思えなかった。青田の行動とエリーの言動から、二人には何か佐倉照郎の事件に関係した秘密があるにちがいないのだ。
「佐倉照郎は私の前に立ったときにはすでに罪を着せられていたのだ。私にはそれをひっくり返す術はなかった」
「いいえ、あなたはあらゆるすべき努力をことごとく怠った。誰の目にもそうとしか映りません。だから志郎さんは声を上げたんです」
「『あれで審理を尽くしたというのか』――か」
「職務怠慢は罪です。とくに裁判官としてあるならば――」
「私の資質を問うのか? いまさらだな。私はもう辞めている」
「あなたは辞めたんじゃない。辞めさせられたんですよ」
「私だけが問題か? 私はこの世界の大半の人間と同様、職業倫理――ひいては人としての倫理に多少欠けているだけに過ぎない。道路交通法を遵守すべき者が誰もがやる程度の違反を犯し、真実を語るべき者が自己中心的な保身のためだけに偽りを語り、事実のみに基づいて捜査すべき者が勝手な自己解釈のために捜査方針を見誤り、公正な裁判を執り行うべき者が――いや、もう言うまい」
国見は自虐的に笑った。
「裁判はやり直せます。佐倉照郎のも――あなたのも」
「再審など幻想だ。私は終わったんだ」
「まだ諦めたわけではないでしょう? だからあなたは私に電話をしてきた。『鳴海響子は無実だ』。あれはあなたです! あれは何のためだったんですか? 私を導くためではないのですか?」
「そう言うわりには、だいぶ寄り道をしているように見受けられるがね」
「最初の電話ですべてを――いえ、あなたはご自分と鳴海響子の事件の共通性を、真っ先に警察に話すべきだった」
「私が下した有罪判決が出火元とされるのは本意ではない」
「ではどういう解決をお望みだったのです? いずれにせよ、あなたと響子の冤罪が晴らされれば、必然的に復讐者佐倉照郎の犯行動機である冤罪被害も明らかになって――」
「そして世間の耳目を集めることだろう。なにせやつは完全犯罪によって現職の裁判官と検察官を失職に追い込んだのだ。正義を為したやつらは交通事故冤罪被害者にとっては英雄となる。一方で、私は冤罪判決を下した最悪の裁判官だ。となれば、妻の鬱はますますもって悪化するだろう――だから、もうやめたのだ」
「やめた?」
「文字通りの意味だよ」国見は呆として言った。「すべてを忘れてしまえるときがくるのか、それより先に人生が終わるのか。日々競争だ。負けそうだがね。妻に関しては――もう諦めているんだ。あれは私という人間を誇りに生きてきたようなものだからね。その私には名誉挽回のチャンスなど訪れやしない――妻はあのままだ」
「佐倉照郎の冤罪を晴らせられれば――」
「それはつまり誤審を認めろということだろう?」
「何に対して忠実になるか、ということです。あなたがご自分の自尊心にのみ忠実であるなら消極的な自己保身もいいでしょう。しかし、裁判官としてあるならば、法にのみ忠実でいようとするならば、自己を滅してでも積極的に真実を語るべきです」
そう言うと、国見はいきなり笑い出した。
「是が非でも私を説得しようというのだな。だが、三流弁護士の小娘に説得などされん。それに私は根っからの俗人なのだ。裁判官を辞めてますますもって俗人以下に成り下がったよ。この前など、スーパーで酒を一瓶失敬してやったくらいだ。それがな、罪悪を感じるどころか、むしろせいせいすらしているんだ」
「国見さん! 奥様のためにも――」
「妻の話などするな」
国見は一喝した。しかしすぐに泣き出しそうな顔になり、それを隠そうと両手に埋めた。
「君の思うようにやったらいい。私や女検事なんかはいっそ放っておけ。佐倉照郎を冤罪から救ってやったらいい。君は自分ができるつもりでいるんだろう?」
「――努力はしています」
「努力、努力、努力――涙ぐましい努力か」
「国見さんの裁判資料をお借りできませんか」
国見は顔を上げた。
「私は佐倉照郎の冤罪を晴らしたいと思っています。鳴海響子のことも諦めていません。同様に、国見さんの冤罪も晴らしたいと思っています。私はすべてを終わらせたいんです」
「――勝手にするがいい」
一言もかわさないまま波瑠と国見は並んで歩き、彼の自宅で段ボール箱一つぶんの裁判資料を受け取った。
「酒の瓶は、店を出る前に元の棚に戻しておいたんだ。本当だ。ほんの五秒で冷めたんだよ。どうしようもなく吐きそうだった」国見は苦笑いを浮かべた。「私に犯罪は向いていない。平気で罪を犯せる者たちの気が知れないよ」
その言葉を聞いてすぐに佐倉照郎と志郎の顔が連想されたが、波瑠の脳裏に映る彼らは、いずれも国見が言うほど平気で罪を犯しているようには見えなかった。
「よほど腹に据えかねていたんだろうな。だからあんな復讐を――」
「正義を信じているんです」波瑠はふと思い付いた言葉を口にして、すぐに打ち消した。「矛盾してますよね」
「当の本人に訊いてみないことには何とも言えないのだろうな」
「助言を頂けるのでしたら、またお電話ください」
国見は一度かぶりを振ると、波瑠に背を向けた。
11
(復讐はまだ遂げられてはいない)
まだたった二人――裁判官の国見杜夫、起訴検事の鳴海響子だけだ。罰せられるべき人物がこの二人だけだとは思えない。金子大介も鈴谷真一も、天神署の柿本はもちろん、阪上日出夫、それに公判検事の石黒も標的となり得るのだ。
(だけど、青田智宏は――)
波瑠はぞくりとした。彼はちがう。彼は罰せられたのではない。
「先生、乗ってください」
声に振り返ると、志郎のタクシーがすぐ横に来て止まった。
「容疑者の車には乗れませんか」
志郎は冗談っぽく言った。しかし波瑠は答えられなかった。志郎も脳天気な表情を消し去った。
「先生は――本当に親父を疑ってるんですか?」
「私はこう考えてる。あなたのお父さんの冤罪を晴らせないのなら、私は響子を助けたいとは思わない」
「偽善的な言い訳は聞きたくなかったけど――どうぞ、乗って。行けるところまで行きましょうか」
波瑠は後部席に乗り込んだものの、志郎が「行けるところまで」と言った意味を理解できたわけではなかった。それが波瑠とともに目指す決着であるのか、はたまた彼だけが思い描く終着点があるのか、それともたんに成り行きにまかせようということなのだろうか。バックミラーに志郎の顔は映り込まず、彼はその真意が宿るかもしれない目を波瑠に見せようとはしなかった。
環状七号線にさしかかろうというとき、渋滞がはじまった。
「この仕事をしてると、事故を見ない日は一日だってありませんよ」
彼の言ったとおりたしかに交通事故だった。あさってを向いた事故車両が二車線の道路のほとんどを塞ぎ、その前後で救急車とパトカーが赤色灯を慌ただしく巡らしている。
志郎は前の車を指さした。前の車のカップルが、速度を落として物珍しそうに事故現場を眺めている。
「あの事故のために何人もの人が、この先、何日も何ヶ月も心を煩わせられるかもしれないというのに。ひょっとしたら、誰かにとっては一生の後悔のはじまりかもしれないのに――いや、当事者だって、いまこの瞬間はそんな先のことまで考えてはいないかもしれません。ましてや悪夢のような日々がくるなんて思いもよらない――」
志郎は不意に言葉を切ると、少ししてそのとき飲み込んだ空気を一気に吐き出した。
「親父だって、そんなこと考えてもいなかったはずなんです。なにはともあれまずは怪我人を助けなくてはって気持ちしかなかった。でもそのとき親父はあの金子大介にいきなり罵られた――『てめえ、ふざけんな、徹底的に搾り取ってやるから覚悟しろよ』。酷いもんでしょ? 親父は呆然としたそうですよ。ただ停まっていただけなのに。突然どこからかふっと湧いて出てきたような、しかも自分の息子ほどの歳の男に、いきなり酷い口をきかれたんですから。親父はまずもって自分が事故当事者かどうかもわかっていなかった。自分のせいで事故が起きてしまったという印象も感覚もなかった。それなのに、あいつの言い草は――いや、あいつだけじゃない、その瞬間からずっと親父は犯罪者扱いされてきた。雨の降る中で、警察の取調室で、何時間も何時間も責められ、何度も何度も検察庁に呼び出されて同じ事を問い詰められ、だけど自分の言うことだけは一切信じてもらえない。それはどこへ行っても同じで、味方のはずの会社の組合でも折れることを勧められ、弁護士にもいい顔をされず、裁判所ではまるで無視された。かわりに事実――真実とされたのはでっちあげた作り話だ。親父は――ただその時間に、ただその場所に、ただ停まっていただけ――ただ、こうやって!」
志郎は赤信号で車をぎゅっと停めると、怒りにまかせて両手をハンドルに叩きつけようとした。だが、彼は寸前で思い直し、振り上げた手をそっとハンドルに戻した。
「こんなんじゃない――もっと静かに――ただ静かに停まっていただけなんです」
「志郎さんはそれをちゃんと証明してみせた。そのおかげでお父様は最後までがんばれたのよ」
「最後ってのは、泥沼のどん底に沈んだことですか? 最後までがんばって、どん底で結局何を得たと思います? なんにもです! 面倒をかけた会社にもいられなくなり、有罪判決で決まった罰金の、その十倍以上もの弁護費用を払うためにぼろ家も売った。あげく、三十年も連れ添った母にすらも見限られた――」
痛々しげな志郎に波瑠は言葉を返せなかった。
「それに僕だって――僕は親父を見捨てたんです。あの一審のあと、僕は諦めたんです。放り投げたんです。何をやっても無駄だと悟った。声を荒げて嘘を突き通す者、恫喝する者、権力を振りかざす者こそ強者。そんなやつらがこの世を支配してる。弱い者は強い者に弄ばれるだけ。非合理、理不尽の嵐の中で、僕らはただ地面に這いつくばっていることを強いられた。だけど法は真の弱者を守らない。法に正義はない。痛いほど思い知らされた! 失望! 絶望! そんなのはもうごめんです!」
やがて、志郎はふっと息を吐いて強ばった肩から力を抜いていった。そしてミラー越しに波瑠を見つめ、不敵に笑った。
「『目には目を』ですか? まさにその通りにしてしまいたかった。やつらに思い知らせてやりたかった。嘘、怠慢、不正義の代償をこの手で払わせてやりたかった。何度も復讐を考えましたよ。いや、復讐なんてもんじゃない、制裁です。やつらにつきまとい、その機をうかがった――だけど、できなかった。心の中のもう一人の自分が言うんですよ、そんなことぜんぶ忘れてしまえって。いまこの瞬間だって聞こえてますよ。やつらに負わされた恥辱など長い人生のほんの一点のしみにすぎないんだって。そんな声が聞こえるようになってから、僕は、自分を納得させようという方向に向かっていったわけです。あんな連中、放っておけばいいんだって。だから、僕はやつらの生き様を遠くから見るだけにしてきた」
不意に志郎の目から一切の感情が消え去ったかのように見えた。
「これまで僕が何を見てきたと思います? 何のことはない、誰も彼も、何の変哲も無い、特別な幸福もなく、特別な不幸もなく、くだらないと言えばくだらない生き様ばかりでした。普通の暮らしですよ。言ってしまえば、ただただありきたりの日常です。やつらは親父に対して誠実で真っ正直であったって、きっといまと何の変わりもない普通の人生を送っているはずなんです。だってたかが交通事故ですよ? 命を取った取られたってほどのことじゃない。ちょっと時間が経てばみんな忘れてしまうものなんですよ。金子大介が、鈴谷真一があのとき嘘をつかなかったら、五年後のいま、彼らが不幸のどん底に落ち込んでると思いますか? そんなことはないでしょう。交通事故を起こしてしまったことなどそれこそ人生においてはほんの一点のしみでしかない。柿本は職務怠慢の汚点を背負い込むことはなかった。青田智宏だっていまごろピンピンしてるはずだった。国見はあらぬ罪を着せられるという形であらゆるものを失った。女検事もだ――こう言っちゃ悪いけど、馬鹿なやつらですよ。自業自得だ!」
志郎の感情が高ぶりを見せたが、それはすぐに鳴りを潜めた。
「やつらは、あのときちょっとばかり不誠実で不正義で嘘つきだったせいで、多くのものを失うことになるんだ」
波瑠はミラー越しに見た志郎の目つきにぞっとした。やがて信号が青に変わり、彼は車をゆっくりと発進させた。
「状況証拠に過ぎませんよ。それこそ誰かの罠かもしれないし」
志郎に佐倉照郎を疑う根拠を訊かれ、波瑠は二つのミニカーとそれに刻まれた傷のことを話した。だが、彼は一蹴した。
それきり彼は押し黙って運転を続けたが、頻繁に視線をバックミラーに振るようになった。波瑠がそれに気付いて後ろを振り返ろうとすると、志郎が止めた。
「シルバーのBMW。二台後ろ。公園を出てからずっと――もっと前からかもしれないけど」
波瑠はその車の持ち主に心当たりがあった。
「逆光でもないのにサンバイザーを下げて――」志郎はいきなりくっくっと笑い出した。「あれで賢いつもりなのかな、あの人」
志郎は車線変更を繰り返し、そのうちに志郎の車はBMWのすぐ前に位置取った。そして信号待ちで停車したとき、志郎はいきなり猛然とバックしてBMWに衝突する寸前でぎゅっと停まると、車から飛び出した。波瑠も慌てて後を追った。
BMWは逃げようとして慌ててバックしかけたが、後続車で後方は塞がれていた。やがて、降参の合図かのようにウインドウがゆっくりと音を立てて下がった。石黒洋平だった。
後続車は追突事故だと思い込んで二台を避けて通り過ぎていく。石黒は車を降りて波瑠にばつの悪い顔を向けた。志郎はずっと石黒を睨みつけていた。
「偶然君たちを見かけたんだ――と言っても信じてくれないよね。この際だから正直に言ったほうがいいかな」
石黒は飄然と言って志郎を一瞥すると、波瑠に向き直った。
「僕は、響子と国見杜夫の二つの事件の共通性を知っていた。正確に言えば、国見から警告を受けてたんだけど、最初は取り合わなかったんだ。証拠からいって国見は本当に轢き逃げをしたように思えたし。だけどすぐに警告は本物だとわかった。次は響子だったからね」
「やっぱり! 私に隠して、その後どうするつもりだったんですか」
波瑠は石黒に詰め寄ったが、彼の本性を思い出してぞっとした。
「別に」石黒は冷ややかに言った。「君に引っかき回されてこの男に勘ぐられたくなかっただけだよ」
石黒は志郎ににやにやとした視線を据えた。
「君、傍聴席の柵を半分乗り越えてたよなぁ。君の突発的異常性にはぞくぞくしたもんだ。衝動で行動する人間は、大抵は被告人席にいるものだが、君はまだ傍聴席の側にいた。だけどあの騒動の瞬間、僕には未来が見えた――君が被告人席にいる未来がね。そこでまた君はぶざまにわめくんだろうね」
「それはいくらなんでも、あんまりな言い方です!」
波瑠が言うと、石黒は驚いた表情をして、声を立てて笑い出した
「君が挑発されてどうする? 彼の方がよっぽど冷静じゃないか。もっと落ち着きたまえ」
石黒はいきなり波瑠の両肩をつかんで体ごとぐるりと回し、志郎の方へ向かせた。
「よく見るんだ――この佐倉志郎という男は、あろうことか我々の神聖な法廷でキャンキャンわめき散らした。この男は衝動的にカッとなって、何をやらかすかわかったもんじゃない人間だ。君はそんな彼を知らない。こいつは犯罪を犯す! 誰かを抹殺する男だ!」石黒はもったいぶってひとつ息をついた。「国見杜夫――そして響子がこいつの餌食になった」
波瑠は石黒の手を振り払った。石黒は波瑠を泰然と見下ろした。
「衝動的であることと理性的であることは全然相反しないんだよ。それどころか、その二つの性質こそ計画犯罪を実行する者にみられるひとつの典型的パターンなんだ。理性的な、冷静沈着な人格が練り上げた犯罪計画を、衝動的な別人格がきわめて力強く、迅速に推し進めるわけだ。僕はこの男にそんな犯罪者の一面を見ている。職業柄、僕は彼のような犯罪者を多く見てきたからわかる。君は情が移ってしまって、盲目になってるだけだ」
「ちがいます!」波瑠は思わず声を上げた。「志郎さんは、冤罪被害を受けることの痛みを、苦しみを知っています。冤罪は家族全員が傷つくんです」
「何を言いだすかと思えば――だからこそ動機十分なんだろう? それとも順当に親父の佐倉照郎を疑っているということか? あの男は虫も殺さないように見えたけどなぁ」
石黒はすぐに波瑠が考えているとおりの言葉を継いだ。
「とはいえ、無罪を主張し続け、無謀にも正面切って闘った根性は、佐倉照郎、ちょっとそらおそろしいほどだ」
石黒はうんうんとひとりうなずいて、当時の公判の様子を脳裏に思い浮かべているようだった。
「ただねぇ、あの国見という裁判官は仕返しされて当然だけど、僕や響子を責めるのはお門違いなんだよなぁ。君ね、親父さんにさ、くだらないことはもうやめて自首するように説得してくれないか」
「同罪だよ。女検事も、あんたもな」
志郎が素っ気なく突っ返すと、石黒は態度を一変させた。
「五年も前に済んだことだろうがよ。たかが交通事故ごときをいつまでも女々しくひきずってるんじゃねえよ」
波瑠ははっとしたが、志郎はにやりとしてみせた。
「どうせ挑発でしょう。この人は僕が恐いだけ。いつ何されるかって戦々恐々。だから人の尻を追っかけ回して見張ってなくちゃ気が済まないんだ。そうでしょ?」
「ほざいてろよ」
石黒は凄んだが、志郎はまばたきひとつせずに見返した。
「あなたこそ犯罪者だ。いつか必ず、誰かが罰を下すよ――」
志郎はそう言い残して自分の車の方に戻っていった。石黒は目を剥いて波瑠に訊いた。
「いまのは脅迫か? 犯行予告か?」
「私にはそうは聞こえませんでしたが」
「いまじゃ連中の肩を持つ身か――響子は知っているのか? いまの君の立ち位置を」
波瑠は答えなかった。石黒はその理由を察したかのように勝ち誇った表情を浮かべた。
「君は響子を信頼していない。彼女こそが、佐倉照郎の冤罪の根本原因だと考えている。そんな本音を、響子が知ったらどう思うかな」
「響子だけの責任じゃ――」
「君ははじめからそうだった! 僕だけだ! 彼女の無実を信じているのは!」
石黒の突然の剣幕に波瑠はひるんだ。彼はふっと表情を緩め、しかし波瑠を侮蔑を込めた眼差しで見下ろして言った。
「僕だけが彼女を救える。僕だけが、響子を、愛してやれるんだ――君にはできない」
BMWは走り去り、視界から姿を消した。
「邪魔者もいなくなったことだし、それじゃひとつ、とっておきのスペシャルなお役立ち情報を掘り起こしに行きましょうか」
志郎はわざとらしい陽気さで言った。しかし波瑠は、脳内で石黒の最後の言葉が駆け巡っていて、志郎にただうなずくことしかできなかった。
12
着いた先は持田弁護士の事務所だった。持田と志郎はおざなりに五年ぶりの挨拶を交わしたが、はために見ても二人の相性は良いとはいえなかった。持田は応接ソファとまずい茶を勧めながら来訪の理由を波瑠に訊ねた。しかし答えたのは志郎だった。
「先生は父に、冤罪被害者の会のような集まりに出席することを勧めましたよね。たしか一審の中盤当たりでしたっけ」
「ああ――ええ、たしか、まあそうだったね」持田は額を掻きながら言葉を濁し、すぐに波瑠に向けて言い訳をした。「私がタクシー労組の法対部顧問をしていることは前に言ったかな。それの関係で、交通事故冤罪の情報交換を目的に、年に一回会合を開いてるんですよ。といっても、冤罪被害に遭われた方ばかりが集まるわけではなく、私や労組の働きかけで不起訴処分を勝ち取った方も何人も出席する。そういった方々の話を聞いて、刑事処分や行政処分への対策を練る意味でもこの会は有益で――」
「そんなのは建前でしょうが」志郎は腹立たしげに言った。「所詮は負け犬同士、愚痴こぼしてくだ巻いて、しこたま酒くらって鬱憤を晴らすだけの集まりだ。そんなところに裁判真っ直中奮闘中の父を誘うなんて気が知れません――まあ、もういいですけど。いま知りたいのは、父がその会に出席したことがあったかどうかです」
「もちろん。佐倉さんのように、最高裁まで闘ったその志は後に続く者にとって大いに励みに――」
「親父も傷をなめ合う人たちの仲間入りをしたわけですね――先生、そのときの名簿ってありますか。見せてもらえますか」
「それはできませんね。個人情報に関わるものですから」
持田はへの字に口元を曲げた。志郎はおもむろに立ち上がった。
「年に一回ってことは、もう何十回も開かれてるんですよね――あれは、そのときの記念写真でしょう?」
数日前に訪れたときは、キャビネットの乱暴な開け閉めのせいでその上に置かれた額縁のうちのいくつかが倒れたものだが、いまはまた全部が整然と並べられていた。
「あれは――」
持田は慌てたように腰を上げかけたが、志郎はいち早く額縁を手にとって写真をつぶさに調べはじめた。
「まさか個人情報保護なんて言い出しませんよね。こうやって誰にでも見えるように並べてあるんだから」
持田も渋々キャビネットの上に並ぶ額縁を順々に見ていった。
「ああ、これだ。佐倉さんが出席した会は――」
持田が額縁に手を伸ばしかけたところを志郎はさっと横から取り上げ、波瑠に渡した。写真にはカメラ目線の中年男たちが三列に並んでいるのが写っている。最後列の隅に、佐倉照郎の固い表情があった。期待していた島田保や榎木忠広の顔はなかった。志郎はすぐに他の額縁を波瑠に渡していった。三枚目の写真――佐倉照郎が参加した会の二年前のもの――で波瑠は思わず声を上げた。
「島田です」
波瑠はすぐさま鞄から、国見に借りた裁判資料を取り出した。
「持田先生、いまから名前を挙げますので、その人物がこの中にいるか教えていただけませんか」
「いや、もう名簿を持ってくるよ」
名簿を持って戻ってきた持田は、写真の顔ぶれと名簿に記された氏名を特定させた。中には国見の轢き逃げ事件の目撃者もいた。
「これ――」
志郎が他の写真からも島田保の顔を見つけ出していた。彼はこの例会に、過去七年間ほど毎年のように参加していた。
「この人は面倒見が良くてね。いつも新しい顔ぶれを慰め回ってくれるんです。彼のおかげで例会はいつも暗くなりすぎなくて、その上、参加者みんなに一致団結の意識を高めてくれるんだ」
(あの女が検察官だからこそ、もっとも重い罰を受けるべきだと考えているだけだ)
波瑠は島田の言葉を思い出していた。それから持田に訊ねた。
「この方々はみなさん、タクシー乗務員ですよね」
「私はタクシー労組の顧問だからね」
「他の職業の方――たとえば、トラックドライバーなどは参加されたことはありませんか」
「まったくないこともないんじゃないかな。人伝に例会のことを知って来る方もいるし、いつも参加する方が同僚を連れてきたりすることもあるからね。私としては、参加者それぞれが意欲的に、こういった意見交換、情報交換グループの輪を広げてくれることを好ましく思っているんですよ」
波瑠は何度も写真を見返したが、やはり榎木忠広と国見の轢き逃げ事件のもう一人の関係者を見つけることはできなかった。
四谷の街に出ると、太陽に滲んだ大気は建物の向こう側へ沈んでいくところだった。
志郎は浮かない顔をしていた。思ったほど収穫がなかったのかと思ったが、彼は波瑠と目が合うなり親指を立ててみせた。暗い表情は残光を背負っているからだけではなく、五年来の染みついた陰なのだと波瑠は気付いた。
「冤罪被害者が集まる別のグループがあってもおかしくない。親父を、あるいは島田保を中心としたね」
志郎はそう言うと、今度は独り言のようにつぶやいた。
「止めないと――親父がやっているのなら」
刻々と迫る黄昏の薄闇のためだろうか、志郎の顔の陰はいっそう濃くなっていった。
「決定的な証拠がほしい。ミニカーなんてもんじゃダメです――先生、僕らはここでいったん別れましょう」
「何をするつもりです?」
波瑠が急に不安になって問うと、彼はポケットから小さな袋を取り出し、中身を広げて見せた。波瑠は目を瞠った。
「それを使うの? 使ったことがあるの? あるのね? ――ああ、正直に言わなくていいです」
波瑠が目を背けたのは手製のピッキングツールだった。
「先生だって一線を越えたじゃないですか。危険を顧みず公道レースだなんて――でも、僕も同じ考えです。正義があるのなら、ためらわず越えていく。それに――」志郎は言葉を切ってはにかんだ。「あなたが一線を越えたときから、僕はあなたという人を本当に信じる気になったんです――そう信じさせてくれる人ってこれまで誰もいなかったんですよ」
波瑠は急に顔が熱くなった。その隙に志郎はさっさと車に乗り込んで発進させようとした。
「あ、ちょっと! 絶対ダメですからね!」
「大丈夫ですよ、身内のところだし」
志郎は手を振って波瑠を置き去りにした。
波瑠は慌てて携帯電話で志郎を説得しようとしたが、そのとき留守電にメッセージが入っていることに気付いた。
「警視庁交通警察隊の古賀ですが」古賀の声は硬かった。「急で申し訳ありませんが、直接お話ししたいことがありまして。できればいますぐに――」
13
新富町の交通警察隊本部では古賀が波瑠を出迎えた。その重々しい表情に波瑠は胸がざわついた。案内されるままに会議室に入ると、そこにはスーツ姿の男が一人いた。剣呑ともとれる無表情は古賀のそれと比ではない鋭さを秘めているようだった。男は立ち上がって一礼したが、波瑠に対する目つきは変わらず、それどころか瞳を通して波瑠の心中をほじくり返そうかというほどだった。
「立川です。古賀からうかがっております」
差し出された名刺には「警視庁刑事部捜査第一課巡査部長 立川昇」とあった。その肩書きを目にして、波瑠には予想通りの展開ではあったが、いざ予想が的中すると血の気が引く思いだった。
彼は波瑠が自分の名刺を取り出すのを待たず、さっさと元の椅子に座り、波瑠にも座るように促した。ただ、喋るのは古賀に任せるようだった。
「まずは今朝お電話を頂いた件なんですが――いま現在、先生は何をご存じなのかお聞かせ願えますか」
波瑠は二人がたんなる事情聴取のためにこの会合をもったのではないことを察した。
「何をと言われても――私は今朝の電話では、青田智宏さんの事故原因がベーパーロック現象である可能性を申し上げただけです」
ベーパーロック現象とは、激しいブレーキングや長い下り坂でブレーキを長くかけ続けることによって、ブレーキパッド・ディスクローター間の摩擦熱のために、ブレーキオイルに気泡が生じてしまう――オイルの沸騰がはじまってしまう現象のことである。気泡は圧力によって容易に体積を増減させるため、ブレーキオイルへの圧力が気泡が縮こまることによって減殺されてしまう。結果としてブレーキペダルを踏んでもブレーキが効かなくなる。
唐突に、昨晩の峠での自身の事故が脳裏を過ぎった。ほんの数瞬の出来事だったはずだが、いまの波瑠の脳裏で、そのとき視界に入った光景、嗅いだ臭い、聞いた音、皮膚感覚、胸の内の感情、脳髄の思考の一部始終すべてが微に入り細を穿つまでに正確に、克明に再生された。肘や腰に革一枚を隔てたアスファルトの凹凸すらも、いまここで甦ってきた。
視線を感じて顔を上げると、古賀が不審な表情で波瑠の顔をのぞきこんでいた。
「そうお考えになる理由は?」
波瑠は、そうすべきだと頭ではわかっていたが、昨夜自分がベーパーロック現象のために峠道で事故を起こしたことを古賀に打ち明けることはできなかった。波瑠はごくごく事務的な声音と表情を作って答えた。
「状況的にあり得ることだと思いまして。ベーパーロック現象は、長い下り坂でだらだらとブレーキを踏みっぱなしにしたために起きるとよくいわれていますが、もしブレーキオイルに――」波瑠はさりげなく言い直した。「ブレーキオイルが劣化していれば、猛スピードからの急制動でも同じようにベーパーロックが起きるのではないかと。それに路側壁に衝突する直前、彼はブレーキランプを明滅させていました。あの明滅を私などは仲間への合図だと思い込んでいましたが、あれは効かないブレーキを何度も踏み直していたのではないかと考えたんです――これは古賀さんにもお話ししましたが」
ブレーキオイル本来の沸点は、種類にもよるが、新品の状態で二〇〇℃以上となる。ブレーキオイルは経年変化で吸湿することがあり、そのためにオイルでも水でもない、それぞれの沸点とは異なる沸点が現れるようになる。それを共沸点といい、混在する成分個々の沸点とは異なる温度で沸騰しはじめる現象を共沸現象という。
ブレーキオイルが多く、水分がごく微量の場合、共沸点は吸湿の度合によってオイル本来の沸点から徐々に降下していく。正常な使用においては、水分が混入するといっても一、二年の経年変化でせいぜいブレーキオイルに対してほんの一~二%、多くても三%程度だが、それでも使用の継続には問題が生じる。ブレーキオイルメーカーのデータによると一般的な車用のブレーキオイルの場合、水分量がたった三・七%の共沸点は一四〇℃ほどにまで降下してしまうのである。
しかし今朝、波瑠が台所での実験で見たものは、たんなるオイルの劣化のせいであるはずがなかった。
「そう、それで今朝古賀から頼まれまして、青田智宏の車のブレーキオイルを科捜研で分析させました」
立川は「科捜研」という言葉を強調した。そして、いままさに波瑠が思い浮かべていた言葉を彼は口にした。
14
一人暮らしの父親の部屋は、自分の部屋に似ていた。無味乾燥そのものなのだ。清潔を心がけているといった生活感こそあるが、父らしい色がないのである。
父はマス釣りを趣味にしていた。月に二度は渓流や湖を訪れる父の部屋は、まるで本物の羽虫のような手製の疑似餌を作るための工房だった。長押には驚くほど大きなニジマスの魚拓がいくつもあった。そういったもののことごとくがこの部屋には皆無だった。
志郎は感傷を振り払い、手がかりを求めた。
キッチンテーブルのレターラックにミニカーを見つけた。銀色のセダンとスクーターとトラックである。志郎は呆然とした。
父は自分の事故を再現しようとしているのかもしれない。
セダンの銀色のボディには、波瑠が言ったように、マーカーで引かれた筋があった。ここに転倒させたスクーターを接触させようというのだろうか。しかし、いつ、どこで?
志郎はあらためてキッチンを見回した。
一つ一つが雑然としている。区別のない食器の重ね方、うっすら積もった埃、曲がって掛けられたコルクボードやカレンダー、そのカレンダーを折って千切って束にしたメモ帳、落ちている米粒――父はこの中で寝起きしながら、いつか復讐を遂げようと沸々と恨みをたぎらせながら策を練ってきたのだ。このテーブルの上で、このミニカーをぶつけあいながら。
壁のカレンダーに目を凝らすと、ところどころ印が書き込まれている。自分の勤務日を記入しているのだろう。ただ、印は二種類あった。自分と――もう一人別の人物のにちがいない。
志郎はテーブルの上でミニカーを転がし、ぶつけ合った。スクーターは転倒し、トラックもひっくり返った。銀色のセダンはテーブルから落ちた。志郎はそれを拾いあげようとかがみこんだ。
そのとき、テーブルに虫ピンほどの小さな穴が空いていることに気付いた――よくよく見ると穴はいくつもあった。
志郎はコルクボードから画鋲をむしり取ってきて穴に刺そうとした。だが、よくよく見ると穴は数十個もあった。何か意味を成しているようには思えなかった。落胆しながらコルクボードに画鋲を戻そうとしたとき、彼はその手を止めた。
クリップで束ねたメモに、端から端まで鉛筆で線が引かれていた。さらに、ピンの穴が一つあいていた。彼はメモの束をテーブルの上にばらばらに広げた。
穴も線も、別のメモにいくつもあった。そのメモの束をテープで元通り繋ぎ合わせてみるとそれは去年の六月のカレンダーになった。それをそのまま裏返したとき、志郎は思わず声を上げた。
小さくカットされたメモでは意味を成さなかった鉛筆の線が、意味のあるもの――すなわち、道路の見取り図となったのだ。そこには車線や歩道、沿道の店舗の名前やバス停のマークもあった。志郎はすぐさま穴のすべてに画鋲を刺していった。
画鋲を刺したそれぞれの位置の役割は一目瞭然だった。一つは銀色のセダンの場所だろう。そしておそらくは待機場所と衝突時のそれぞれのトラックとスクーターの場所だ。
それらの現場からぽつんと離れたところに一つ穴があった。志郎はそこにも画鋲を突き刺した。
片側一車線の道路。車道も歩道も広いバス通りで、店舗が並んでいる――志郎はその場所に心当たりがあった。
15
立川は不意に言葉を切って、波瑠にじっとりと視線を注いだ。
「あまり驚かれていないようですね」
「いえそんなことは――」
波瑠は怪しまれないように動揺したふりをしてみせたが、その半分以上は意図して繕った素振りではなかった。これまでたんなる疑念だったものが物証によって裏付けられ、いまになってようやく実感ある恐れがこみ上げてきたのである。
「実はもう一つお話があるんですが――」立川は声を潜めた。「録音などは、いまされていませんよね?」
波瑠は訝りながらもうなずいた。それでも彼はまだ安心したわけではなかった。
「言質を取ったとされては困る類のことです。それでも先生にこうしてお伝えしようというのは、私のまったくの好意からです。あなたがこの情報を公表したとしても、我々は決してその存在を認めたりはしません」
「お約束します。決して口外しません」
「いいでしょう」
立川はひとつ区切りを入れると、すぐに淡々と切り出した。
「先生がお調べになっている五年前の佐倉照郎の事故のことですが、当時、青田智宏はその現場にはいませんでした」
「え?」波瑠は素っ頓狂な声を上げた。
「Nシステムをご存じでしょう。自動車ナンバー自動読取装置です。文字通り、走行中のすべての自動車のナンバーを撮影記録するものです。これは道路上に設置されてる装置ですが、管轄は交通警察ではなく我々刑事部門にあります。というのは、この装置はもっぱら犯罪捜査に用いられるからです。この記録を調べたところ、佐倉照郎の事故の前後、青田智宏と彼の車は、事故現場付近どころか、三十キロも離れた第三京浜を走行していたことがわかりました」
「五年も前の記録が残ってるんですか」
「五年どころか、Nシステム設置からこのかた、記録を削除したことはありません。公式にも記録の保管期間は明記されていないので警察としては嘘はついていないのですが、永久保管というのは人権侵害という点であまりよろしくないので突っ込まれたくないところではあります。なので、Nシステムの記録が法廷で証拠採用されることはこれまでもありませんし、これからもないといっていいでしょう。法廷で証拠採用されるには、まずシステムに証拠能力があるかどうかを検証しなくてはなりませんからね。その際に、Nシステムは人権侵害だと糾弾されればシステムの存続自体が危うくなってしまう。それではまずい。Nシステムは犯罪捜査にこの上なく有効なもの。いくつもの重大事件で解明の糸口になっているのです。だから、システムの存続に関しては決して邪魔されたくないのです」
その言葉の真意を察し、波瑠は腹立たしくなってきた。
「つまり、たかが交通事故冤罪などのために、目撃者の供述の信憑性を覆すためだけに表に出されたくない、ということですね」
「はっきりいってしまえば、そのとおりです。ですので、この情報を根拠に青田智宏の偽証を暴くことはできません。あくまで槇村先生の調査の指針としてのみ考えてもらいたい」
波瑠は受け入れるしかなかった。彼の言い分ももっともだし、Nシステムが現にいまも存続しているからこそ青田の偽証が明らかになったのだ。
「わかりました。貴重な情報をどうもありがとうございました。このことは私の胸の内に留めておきます」
波瑠は殊勝に頭を下げた。立川は、もう一つ、と続けた。
「以前にも、青田智宏の記録が閲覧されたことがありまして。アクセスログが残っていたんです。いずれも検察庁からの閲覧請求で、四年前の四月――」
「それは誰が?」
「佐倉照郎を起訴した検事――鳴海響子です」
波瑠は唖然とした。やはり響子は青田の偽証を知っていたのだ。そのとき波瑠ははたと気付いた。
「『いずれも』とおっしゃいましたよね。他にもそのことを知っている人が――」波瑠は思い当たった。「それは、石黒洋平ですね」
「ええ――ですが、その石黒検事はまた別件でしょうね。彼が閲覧請求したのは七年前のことですから」
波瑠の全身に戦慄が走った。
16
台所では舞子が野菜を刻んでいた。退院してからその背中は黙ったきりだった。父親が死んだ直後の頃と同じ光景、同じ空気だった。
携帯電話が震えた。波瑠からだ。
「おばさまは?」
「平気」響子は素っ気なく返した。「何か用?」
「あなたは青田智宏の偽証を知っていた――起訴の前に」
「言いたいことはそれだけ?」
「そっちこそ、言うことはそれだけ?」
「嘘ついてごめんなさいって?」
「――あなたの目を見て、その言葉を聞くことにする」
「来ないで!」
響子は拒絶したが、通話は一方的に切られた。
「ハルちゃん、来るって?」
いつからか舞子が戸口に立っていた。以前なら、波瑠が訪れるのを無邪気に喜ぶ母だったが、いまは不安そうな面持ちしかなかった。
「私はあなたを信じてるわ」
舞子が言った。だが響子は目を逸らした。
「信じる」という言葉には「疑う」という対の言葉が必ずつきまとう。疑わないと決めることが「信じる」ことだが、そこに行き着くまでには「疑い」を吟味してきたはずだ。つまりは、舞子はその狭間で揺れていたということなのだ。一度ならず「疑い」に傾いたこともあったかもしれない――いや、必ずあったのだ。響子もその「疑い」を真っ向否定できないゆえ、舞子の言葉は響子にとっては、むしろまるで心臓を貫く杭のごとく致命的な一撃となるのである。
「それ、前にも言ったよね。お父さんが死んだ後に――」
響子は先を言うのをやめ、急に泣き出しそうに顔を歪めた舞子の脇をすり抜けて家を飛び出した。
外に出てすぐに大気が冷え込んでいることに気付いた。身震いする間もなくダイヤルした電話はすぐに繋がった。響子は相手の応答を待たずに切り出した。
「あの子はもう、全部を知ったわ」
17
急がせたタクシーを降り、門の向こうへと続く轍の先に響子のバイクがあることをたしかめた波瑠は意を決して呼び鈴を押した。しかし、響子はいなかった。
「さっき、急にちょっと出かけてくるって」舞子が言った。「出たばかりだから、電話して戻ってきてもらう?」
波瑠はやっぱりかと諦めた。それに、舞子の前で響子を追求するようなこともしたくなかった。
「ううん、いいんです。それよりおばさま、お体は――」
「もう平気――病院に来てくれたんだってね」舞子は弱々しい笑みを浮かべた。「何か温かいもの入れるわね」
そう言って波瑠を中へ入れると、舞子は先に立って台所に向かった。波瑠はその背に声をかけた。
「おばさま、キョウちゃんの部屋にいてもいい?」
「ええ、もちろん」
響子は電話に出なかった。何コールかして留守電に切り替わってしまい、波瑠は通話を切って響子の部屋を見回した。
部屋は冷え切っていて、しかしそれでも、さっきまで響子がここにいたと確信させるような、彼女の体温のようなものをそこかしこに感じさせた。波瑠はそれらを拾い集めようとしていた。彼女がさっきまで何を考えていたのかを知りたかったのだ。ベッドの縁が乱れていてそこに座っていた跡があった。ただ、それ以外には何もなかった。響子はこの数日間、息を抜き、くつろげたことはなかったにちがいないのだ。あれのせいで――。
波瑠は書棚や箪笥の上、机のまわりを見て回った。前に来たときに見かけた香水の瓶を探していたのだ。そのとき、ココアの匂いをともなって舞子が戸口に立った。
「探しもの?」
不安顔で舞子が訊ねた。彼女の脳裏には手帳のことがあるのだろう。娘にはまだ何か秘密を隠しているのではないかと。波瑠は努めて何でもない風を装ってカップを受け取った。
「ううん、前に高そうな香水があったのを思い出してたの。香水なんて、キョウちゃんらしくないなぁっておかしくって」
言葉にしたとおりに波瑠はおかしそうに笑ってみせたが、舞子は波瑠の態度を信じ込んではいないようだった。
「いったい何が起きてるの? あの子は何に巻き込まれてるの? さっきだって、急に男の人が来て――あの子、急に出かけるって言い出して――」
「どこへ――」
舞子はいきなり立ち上がって部屋を出ていき、波瑠が探していた香水の瓶を持って戻ってきた。
「捨ててあった――ハルちゃん、何もかも話してくれない? どうしてこれを探していたの? これは香水なんかじゃない! 黙ってられるくらいなら、全部知ってしまった方がまだマシよ!」舞子は波瑠にすがりついた。「もし、あの子が本当に罪を犯していたなら、あたしの責任。知らなかったじゃ済まされないの!」
波瑠は舞子にすべてを話した。
わっと泣き出した舞子の痛々しい姿から目を逸らすことは許されないと波瑠は思った。これは波瑠自身がまいた種だからだ。波瑠が深追いしなければ、こんなことにはならなかったはずだからだ。
舞子は泣き顔を上げた。
「あの子をそんなふうにしたのはあたしのせいなの。あの人が――あの子のお父さんが生きてた頃は、本当に良い子だったの! ハルちゃんだって憶えてるでしょう? あなたと一緒にいた頃のこと。あたし、元通りのあの子を見られて嬉しくて――でも、またひとりになっちゃって、あの子、あの頃に戻っちゃって――あの子にそんなことをさせたのは、このあたし――」
舞子は言葉を途切れさせると、両手で顔を覆って肩を震わせはじめた。そうしながらも、彼女は吐き出すように響子の過去を語った。そして話し終えると、舞子は顔を上げて言った。
「ハルちゃん、あの子を助けてやってくれる? 罪を償わせて――罪を――」そのとき舞子ははっと顔を上げた。「あの子、ひょっとしたらいまも――」
「おばさま、キョウちゃんはいま――」
波瑠は胸騒ぎがした。
「銀色の車――男の人が――」舞子は目を回したかのように視線をぐるりと巡らし、壁の時計に目を留めた。「もう三十分も前――」
波瑠は玄関を飛び出しながらエリーの番号に電話をかけた。だが、さっき電話を途中で切られたばかりだ。やはり彼女は出なかった。
「ハルちゃん!」
舞子が追いかけてきて響子のヘルメットとグローブ、それにバイクのキーを波瑠の胸に押しつけた。
「行って!」
波瑠は大きくうなずくと、響子のGSX-Rを目覚めさせた。
18
両国ジャンクションを抜けると渋滞はゆるゆると解けていった。
シルバーのBMWは鼻先が入るほどの緩み目さえあれば他車に構わず突っ込んでいく。
(俺とお前は一蓮托生だからな)
石黒洋平は言った。有無を言わせぬ口調は、彼がすでに自身の終焉に気付いていることをうかがわせた。要するに、この男は道連れがほしいのだ。それならそれで別に構わないと響子は思っていた。
「落ち着いたら? みっともない」
石黒は舌打ちすると、いきなり響子の首筋をつかんで無理矢理自分の方に引き寄せ、噛み付くように唇を吸った。響子は両腕を突っ張って石黒の体を突き放した。弾けるようにして体は離れたが、唇に痛みを感じた。血の味がした。その血が石黒の唇にも残っていた。石黒はそれに気付くと、激しく蛇行したBMWに修正舵を入れながら、嬉しそうに舌で舐めとった。
「これが終わったら、また抱いてやる」
虫酸が走る台詞だが、響子は顔には出さなかった。反応を見せればどんなものでもこの男を喜ばせることになるからだ。
「そんなことしてる暇はないわ。あんたもあたしも、捕まるだけ」
「今度こそはうまくやるんだ!」
石黒はわめき、響子の髪をつかんで乱暴に揺さぶった。
響子は乱れた髪を指で梳きながら、石黒を哀れな男だと思った。そして、嫌悪感こそ妥当な評価であるべきこんな男にさえ哀れみを感じてならない自分もまた同類なのだとしみじみと思うのだった。
この男にもこの男なりに心の奥底から信じる正義があることは理解している。ただ、それが歪んでいることに彼自身は気付いていない。あるいは気付いていても、周囲が自分を理解できないだけだと開き直るのを常としている。
法というものが解釈によって縛めの力加減が変化するものであることをまざまざと見せつけられたとき、石黒も、かつての響子と同じように法に心底失望し、見下すようになった。その後、彼がたどった道は、法を踏みにじらずには進めない悪路だった。己が信じる正義のためなら証拠や供述の改変、捏造もした。彼はそうして真に罪を償うべき犯罪者が証拠不十分の不起訴処分となるところを、ことごとく覆しては有罪に仕立て上げていったのである。
法なんぞにやつらを見逃させてなるものかと彼は豪語する。そんな彼のやり方が響子には正しいと思えることも多々あった。この心情を説明できる言葉があるとすれば、それは「期待」だろう。響子の正義観も、石黒のそれと相通ずるものがあったのだ。
響子が法律を学びはじめたきっかけは、かつて自分が犯した罪の是非を自ら問うためだった。
復讐は正義か。それともやはり悪なのだろうか。戦争での殺人は認められるのに、なぜ復讐で人を殺してはならないのか。人は人を殺してならぬという法がなぜ存在するのか。この胸の内にあったのは憎悪ではなく正義だったと響子は確信している。それなのになぜ、この胸は虚しさでいっぱいなのか。それは法が「目には目を、歯には歯を」といった同害報復を否定し、法がこの自分を否定しようとするからか。ならば、法こそ真の「正義」だというのか?
かつて波瑠と理想を語り合った頃には手が届きそうに感じられた、法の条文の一字一句が放つ「正義」のきらめきなどは、いままた灰色の靄にまぎれて見えなくなっていた。なぜあの頃は手が届きそうに感じられたのかすらも忘れてしまっていた。
一方で、石黒はストレートに「悪」を見せてくれた。そして、その「悪」は世が世なら「真の正義」と見なされるだろうと思われることもあった。彼は、法の条文一字一句が放つきらめきの影にこそ「真の正義」が潜んでいる――法の偽善を排除した先にのみ、真に求めるべき正義は存在するのだと悟らせてくれた。
内なる本性をひた隠そうとする毒々しい欺瞞体質こそが病的なのだと考えるようになった響子は、どこか石黒のはばかることなく平然と悪を表出する姿に羨望の眼差しを注いでいたのである。建前のゆりかごでぬくぬくと生き、その中からありきたりの絵に描いたような正義観を蕩々と語る者にこそ響子の嫌悪は向くのだった。
しかし、石黒という男は響子が考える以上の「悪」――あるいはある意味「悪」の風上にもおけない下劣極まる「悪」だった。
響子は石黒に、波瑠にも話せなかった自分の境遇を語ったことがあった。彼は理解してくれた。ただ、そのときはまだ石黒の本性を見抜けていなかったのだ。
(母上どのは、このことをどこまで知っているのかな)
その言葉とともに、響子は否応なくこの男の真のおぞましさを知ることになったのである。
しかし、響子は石黒の束縛の有る無しに関係なく、彼を見捨てることはできなかった。たとえ、いまの彼が、二人で暗黙のもとに信じてきた、「悪」にこそ宿ることのできる「真の正義」をすっかり忘れ、もはや「悪」の「悪」たる部分のみが助長して、下劣でしかない自己保身に走っているとしてもである。ここでこの男を見捨てれば、響子は自身がこれまで嫌悪し、背を向けてきた偽善者の仲間入りをしてしまうように思えてならなかった。それに、自分が建前でも正義ぶるのはいまさら遅かった。この身はそもそも十七の頃から真っ黒なのだから。
車は高速を降り、ほどなくして大通りの路傍に停まった。石黒は内ポケットからナイロンのペンケースを取り出した。ジッパーを開けると液で満たされたプラスチックの注射器がのぞいた。響子はそれを受け取った。
「あんたも来る?」
「これを見届けずにいられるかよ」
車を降りると途端に都心の喧噪と臭気が響子を取り巻いた。だが、この身はもちろん、この心も、微塵もその大気に溶け込もうとしなかった。皮膚一枚で世界を隔絶しているのだ。向こう側に降り立った石黒も同じ思いを抱いているのかもしれない。にやりと笑ってコートの襟を立てた。孤高の「悪」を気取るいつもの彼だった。二人は目配せし、足早に通りを横切って病院の玄関へと入っていった。
19
手の中のフラペチーノはほとんど溶けてしまっていた。梨花は冷たくなって濡れた手をパーカーのポケットに突っ込むと、思い出したように体が震えてきた。鬱々とした気分も一緒にだ。
さっき槇村弁護士から電話があった。
(七年前、青田君に何があったか、あなたなら憶えてるんじゃないかと思って――前に言ってた嫌な記憶ってそのこと?)
すぐに切った。二度目の着信からは無視した。出るのが恐かった。
(ねえトモ、もう喋ってもいい?)
枕元で何度訊いても彼は答えてくれない。自分の言葉に反応すらみせない彼をこの数日で何度見限り、そして同じ数だけよりを戻したいと彼の手を握ってきたことか。いまは絶縁期。二時間前にもう別れると宣言して彼の病室を飛び出し、そして酷い言葉をかけたことに後悔しながら階下のカフェでぼうっとしていたところだった。
七年前、青田智宏は梨花を救った白馬の騎士だった。少なくとも、そのときの自分はそう信じていた。だが、やはりそれはあやまちだったことに気付いた。以来、後悔しない日は一日もなかった。
彼が別の事件で目撃証人として出廷することを知ったのは五年前だった。梨花は疑った。彼は本当に目撃者なのか。彼の証言がまた誰かを無罪ではないのに無罪にするかもしれないのではないか。
実際はその真逆だった。
その後、智宏は若い男にしつこくつきまとわれた。ただの言いがかりだと思い込もうとしたができなかった。そして四日前、女の弁護士がやってきた。そのとき、智宏はもうすべてを洗いざらい告白したがっていることに梨花は気付いた。智宏が負けてほしいとひそかに願っていた。彼にすべてを委ねた結果ならば受け入れられると思った。同時に、彼が負けるのも恐かった。真実を告白した後、自分たちはいったいどうなるのだろうかと未来を想像できなかった。
ところが、賭けは勝ち負けどころではなくなった。智宏が永遠に口を閉ざしてしまったら、真実を語るか語らないかは、梨花がひとりで決めなくてはならないのだ。
また身震いがした。やはり、ひとりでは抱えていられなかった。梨花はもう一度智宏の顔を見たいと思った。拒まれるはずがないと信じ込み、もう一度訊いてみようと自らを鼓舞し、溶けたフラペチーノを一気に飲み干すと、彼女はエレベーターホールへと向かった。
青田智宏の個室は廊下の突き当たりにあった。
石黒と響子はドアの細窓から部屋の中をうかがうと、滑り込むように中に入った。
枕元の電灯の光の下で、青田智宏は顔面にまで広がってきた痣があることをのぞいて、ただ眠っているだけのように見えた。繋がれている医療機器は酸素マスクに心電計などのモニター、それに点滴台から吊り下げたバッグとチューブだけと、さほど大げさなものではなかった。あとは目覚めるのを待つだけといった簡素な処置が、石黒は気に入らない様子だった。
石黒はドアの細窓から廊下を見張りはじめた。響子はベッドの脇に立ち、青田の顔をまじまじと見つめた。
「殺されるほどのことを、この子がした?」
無意識に口を衝いて出た、遅きに失した疑問に響子は急におかしさがこみ上げてきて笑い出した。
「偽証の代償が死ぬことだなんて。刑法だってそこまで求めてない。それに刑も罰も、決めるのは裁判官の仕事。あたしたちじゃない」
「なら訊くが、こいつの浅はかな考えのせいで二つの家庭が崩壊したことについてどう始末をつける?」
響子は石黒の言葉を反芻した。想像は闇の底へと転げ落ちていくばかりだ。しかし、それは石黒の言葉によって寸断された。
「考え方によっちゃ、人をひとり殺すよりも罪は重い」
「本音で話しなさいよ。あなたは本当はただ――」
石黒は大股で近寄ってきて響子の頬を張った。しかし、その声音は優しかった。
「このままじゃ親父さんに顔向けできないだろう? 親父さんが死んで保険金が下りて、その金があったから君は進学できて検事になれたんだ。いまやらなかったら、すべてが台無しになる――それでは母上が悲しむぞ」
すべての汚辱を被って犯罪者の掃き溜めに落ちていくか、あるいはこの身この精神が汚れようがなんだろうがかじりついてでも検事であり続けるか。前者は父の死を無に帰し、母をも失望させることになる。後者は、少なくとも自分ひとりの中で解決できる問題だ。それは石黒がそうであるように、そのうちに問題でなくなる。
「数秒で済む」
そう言うと、石黒はドアの方へ戻っていった。
響子はケースのジッパーを引き開け、液が満たされている注射器を取り出した。その先端を点滴チューブの途中にある三方活栓に差し込むと、レバーを切り替えてプランジャーに親指をあてがった。
その瞬間からどういうわけか、響子の注意は指先から逸れていた。無意識に何かを待っているような感覚だけがあった。それがなんなのかがようやくわかった。響子は聞いていた。遠く彼方の轟きを感じていた。その音の源が近づいてくるのがわかった。それは響子にとって心地よい耳慣れた音――GSX-Rの排気音だった。
波瑠にちがいなかった。アクセルワークの荒っぽさから彼女の息遣いが聞こえてくるようだった。エキゾーストノートを纏った彼女の存在が急激に胸の内で大きく膨らんでいく。それはやがて病棟のすぐ下のあたりでひときわ吼えてから静まった。それでも音の余韻は耳腔にしばらく留まった。
その余韻が覚めると、響子は石黒を押しのけて部屋を飛び出した。
エレベーターを降りるとすぐにナースステーションの看護師と目が合い、梨花はいつものように軽く会釈した。彼女たちの同情の眼差しが梨花にはつらかった。同情してもらう資格なんてないの、と思わず俯いてしまう。彼女はいつものように足早に廊下を曲がって、少ししてから顔を上げた。
そのとき、背の高い女が奥の階段室へと吸い込まれるように見えなくなるところだった。誰の見舞客だろうと梨花はふと思った。智宏の部屋のドアがちょうど閉まったのを見たような気もした。
部屋の前に立つと、そんな考えもすぐに消えた。破裂するかというくらいに心臓が大きくひとつ打った。
ドアの細窓の向こうに男の影があった。男の背が智宏の脇に立っているのだ。梨花は明かりに照らされたその端正な横顔を、七年が経ったいまでも昨日見たことのようにはっきりと憶えていた。
膝は震えるばかりだった。男の影が動き、すっとドアが開いた。
男と目が合った。
男は見る間に凶暴な目つきに変わった。梨花はぺたりと床にしゃがみこんで頭を抱えた。何事もなく嵐が過ぎ去ってくれればいいと切に願って――。
次の瞬間、バチッという音と同時にいきなり閉じた目の奥で閃光が炸裂した。激しい痛みとしびれが全身を駆け巡った。何が起きたのか理解できなかったが、自分が歯を食いしばって床に這いつくばっているのだけはわかった。そして、男に抱え上げられ、運ばれようとしているのも――智宏の部屋から何かの警告音が鳴り出したのも、梨花は聞いた気がした。
波瑠は階段を駆け上がった。どこかの階が騒然としていた。
騒ぎの元となっている階に上りきると、廊下の突き当たりにある部屋を看護師が慌ただしく出入りしているのが見えた。梨花の姿を探したがどこにも見当たらなかった。
建物の外が騒々しくなったのはそのときだった。吼えたてるような轟音は、響子のGSX-Rのものにちがいなかった。
20
ドライビングには運転する者のそのときの感情が如実に表れる。
前を疾走するBMWからは、加減速の緩急、エンジンがあげる唸り、ハンドル捌きのどれをとっても憤怒を叩きつけるような激しさがあるだけだった。
そもそも怒りこそが石黒の「悪」の――あるいは彼なりの真の「正義」の原動力だったと響子は思い出した。
石黒という男は、犯罪者を裁く道具としての法の不甲斐なさに呆れも諦めもしない。それらいずれの過程も経ることなく、彼は彼なりの「正義」を行使する。それも自白の強要などといった生半可なやり方ではない。より完全に近い物的証拠を捏造するなどして、法の裁きから逃れようとする犯罪者を確実に徹底的に追い詰めるのが彼のやり方だ。真の「悪」に対する純粋な憤りが彼を突き動かす――そんな石黒の真の「正義」に響子は共感したのである。
ただ、はたしていまの石黒洋平は「正義」だといえるか。響子は即座に否定した。
青田智宏に殺される理由はない。あの助手席の女もだ。彼らを裁くのは、もはや「正義」の欠片もない自分たちではない。
この身に染まり、もはや黒々として限りなく光を吸い込むばかりの「悪」に響子は思いを巡らせた。かつてこの「悪」は、たしかに真の「正義」が落とす影だった。表裏一体の必然だった。
そんな「真の正義」を行使したのは、父の死がきっかけだった。
父は違法な暴走行為をするいわゆる走り屋とはちがった。彼は、バイクと一体となることによって、平常時には体感することのできない速度や重力の高揚感を享受する、生粋のバイク乗りだった。だからこそ響子は父親を敬愛していた。
十六歳になって父娘連れ立って峠を走るようになったことに、響子は友人付き合いや学問、部活動などに勤しむばかりの学校生活では到底味わえない最上の喜びを見出していた。だが、そんな幸福は父の死によって完全に終わりを告げた。
父は単独でのツーリング中に、ガードレールを突き破って崖から転落して死んだ。警察は無謀運転による単独事故と断じた。しかし残された母子のもとに戻ってきたバイクの残骸から、響子は当て逃げの証拠をみつけた。バイクのカウルに緑色の塗膜がこびりついていたのである。
そのことを警察に訴えると、それは転落したときに木や草の葉の汁がこびりついたものだとろくに確かめもされずに断定された。当時、峠道を占拠するローリング族やドリフト族に手を焼いていた警察は、いかにも走り屋といった者たちの事故には冷淡だったのだ。
父の骨と灰が炉から姿を現したとき、響子に悲しみはなかった。あるのは渦巻く怒りだけで、そのために気が狂いそうだった。
(犯人を探しだしてやる――探しだして、必ず罪を償わせてやる)
響子とちがって、夫が本当に無謀運転をしたのではないかという疑念に心病むほど苛まれていた舞子は、父のバイクの残骸を、見るのもいやだから早く処分してちょうだいと言いだしたが、響子は彼女を説き伏せて、狭い庭にそれを置いて綿密に調べた。
警察の言うとおり、カウルやフレームなどには草や葉の汁がこびりついて緑色に染まった部分が多く見られたが、響子が発見した緑色の擦れはたしかに塗料によるものだった。
それから響子は無断で学校を休んでは、毎日のように父が死んだ峠へ向かった。
その峠道は、未明から早朝にかけて砕石を積んだダンプカーがひっきりなしに、かなりの速度で街へと坂を駆け下るような場所だった。そのうちの数台は、父のバイクにこびりついていた塗膜と同色で、さらにその中に補修塗装をしたばかりのものが一台あった。
そのダンプカーは三日続けて事故現場をほぼ同じ時刻――父の死亡推定時刻に通過した。カーブで中央車線をまたぐような雑な運転の様を見て、響子は確信した。このダンプカー、そしてこの運転手が、父のバイクを崖の底へと突き落としたのだと。
ある日の未明、響子はそのダンプカーを峠道の路傍で待っていた。そのダンプカーがやってくると、助かったという演技をしながら両手を振って車を停めた。
「乗せてってくれます? バイクがエンコしちゃって」
十代女子の無邪気さに男は何も疑わず、嬉々として響子を助手席に乗せた。
父の事故現場にさしかかったとき、不意に響子は男に言った。
「前に、ここで誰か死にましたよね」
男の狼狽を響子は見逃さなかった。そして機会を待った。
それはもっとも切り立った崖の上にあった。
「お前がお父さんを殺したんだ!」
響子はいきなりハンドルにしがみついて、思いきり体重をかけて崖の方へ切った。
ダンプカーはガードレールを突き破った。車体が崖の下をのぞいたとき、響子は体をぶつけるようにしてドアを開け、飛び降りた。
宙に浮いた感覚のすぐあと、針葉樹の枝という枝が響子の体中を叩いた。枝に打たれ、葉に擦られ、しかしその最下端の太い枝が響子の体を手厳しいながらもしっかりと受け止めた。
だが、ダンプカーはそうはいかなかった。巨大な車体は一直線の道筋をつくって崖の底まで落ちていった。
その日のニュースで、ダンプカーを運転していた男は即死だったと報じられた。響子はそれはちがうと思った。崖の底に達するまでの短い間のどこかの瞬間に、男は父を殺したことを悔やんだはずだ。
その後、響子は父の形見となったGSX-Rを修理した。
しかし、父を殺した犯人に復讐しても、父の形見を愛でてみても、心は決して満たされなかった。舞子の心配をよそに、響子は学校に行かなくなり、自棄気味にバイクを乗り回す日々が続いた。だが、ついには母親の願いを聞き入れ、響子は進学した。といっても講義に出たのははじめの頃だけで、すぐに再びバイク漬け、父が死んだ峠通いの日常に埋もれていった。
そんな頃、その峠で出会ったのが波瑠だった。
バイク乗りの父親を持ち、しかし父親を失っていない波瑠に、響子はかつての自分を重ね合わせてみた。父親を失っていなければ、自分も彼女のように生きることを楽しんでいたかもしれない。波瑠がうらやましかった。その幸福にあやかりたいと響子は波瑠と行動をともにするようになり、いつしか生気に溢れた時間を過ごすように――同時に自分が成し遂げた「正義」を客観的に見つめられるようになっていった。
響子は転学して波瑠と同じ大学、学部へ通うようになった。波瑠とともに生きたいと思うようになっただけでなく、自分なりの「正義」の是非の答えを法学を学ぶことによって得られるのではないかと思ったからである。
しかし、波瑠は彼女の母親の死をきっかけに離れていった。喪失感は、響子を惑わせた。自分という人間の居所を見失ってしまった。はっきりとわかるのは、自分が人殺しだという事実だけが残ったことだった。
意識は脳裏のどこかでさまよっていたが、視覚ははっきりとBMWのリアウインドウ越しの青白い小さな電光をとらえていた。石黒が拉致した女にスタンガンを使ったのだ。
不意に目が覚めた。自分はあの男とは断じてちがう、と。
響子は車の前に割り込み、手を振って止まるように合図した。
「女をトランクに移す。手伝え」
石黒は車から降りると響子に否応ない口調で命じた。響子が応えないでいると、彼は続けた。
「俺はお前を見捨てない。お前だってそうだろう?」
「そうね」響子は素っ気なく答えた。
シートを半分倒した助手席で、女が――たしか里江梨花といったはずだ――歯を食いしばって呻いていた。石黒は内ポケットから例のナイロンのペンケースを取り出すと、注射器だけを取り出し、ハンカチで丁寧に自分の指紋を拭ってから梨花の手にしっかりと持たせ、プランジャーの背を彼女の親指に押し当てた。
「さっきの子は? 何を入れたの?」
「塩化カリウム溶液。高カリウム血症で、ほとんど即死のはずだ」
石黒は街灯の灯りに注射器をかざし、梨花の指紋がしっかりついたのを確認すると、それを彼女のバッグに放り込んだ。
「誰でも手に入れられる。こんな安物の注射器もな」
梨花は唇の端から唾液を垂れ流し、涙で化粧を溶かしながら、目だけを動かして響子に訴えかけていた。だがそれに応える前に、石黒は梨花を抱き起こし、響子にも手伝うよう促した。
二人がかりで梨花の体をトランクに入れると、石黒は彼女の服をまくりあげ、剥き出しの背中をつぶさに検めた。
「うまいもんだ。スタンガンの跡もない」
「どうするつもり?」
「青田智宏はこの女が殺した」石黒は梨花の免許証を街灯の明かりの下で調べながら言った。「彼氏の無残な姿が見るに忍びなくて安楽死、いや、心中という筋書きだ――北区赤羽、マンションの六階。ちょうどいい。それなら飛び降り自殺としよう」
石黒がトランクを閉めようとしたところ、響子はトランクリッドをつかんで阻んだ。
「そこまでする必要がある?」
「こいつらは俺をコケにしたんだ。一度は共謀して俺を騙した。だが俺は許した。だが、その恩をこいつらは仇で返そうとした」
響子は唐突に石黒の「悪」の底の浅さを知った気がした。
「これがあたしたちの『正義』だとでもいうの?」
「やむを得ない処置だ。だが、本当の『悪』と闘うには――」
「佐倉照郎が本当の『悪』?」
「やつは俺たちに喧嘩をふっかけてきた。ずさんな捜査をした警察と徹底的に闘うと――あれは俺たちへの恫喝だ」
「あんなど素人連中に何ができるっていうの?」
「まあな。だが、それでもああいう輩は前もってきつくこらしめておいたほうがいい。金輪際、刃向かう相手を間違えないようにな」
「それがあなたの『正義』。あなたは力を誇示したいだけ。法を超える力を振るいたいだけ」
「いまここで講釈をたれる暇はないがね」石黒はにやりと笑った。「俺についてくる気があるなら、覚悟を決めろ。まだあの親子の始末が残ってるんだ」
そう言い置いて石黒はさっさと運転席に乗り込んだ。梨花はトランクの中で背中を向けたまま、痺れのために動けずにすすり泣いていた。響子は彼女の体を転がして自分に向けさせた。梨花は恐怖と見苦しいほどの切望の入り交じった目をしていた。
(覚悟を決めろ?)
響子は鼻で笑った。自分は十七のときにとっくに覚悟を決めている。いまさら言われるまでもない。BMWのクラクションが響子を急かすように鳴った。響子は梨花に顔を近づけ、問いかけた。
「あなた、覚悟はある? ――過去の罪を清算する覚悟が」
梨花の目から恐怖が消え、命乞いの見苦しさも消えた。そして、彼女は歯を食いしばってかすかにうなずいた。
「良い子ね」
響子は運転席に回ってウインドウを叩いた。
「あの子、動き出すわ。さっきの貸して」
石黒は嬉々として響子にスタンガンを渡した。響子は試しにスイッチを入れた。左右の尖った電極の間で青白い放電が起こった。
「場所を選べ。皮膚を傷付けるなよ」
「どれくらい効くの?」
「やりようによるさ」
「そう」
響子はいきなりスタンガンを石黒に押しつけた。石黒はあっと声を上げてのけぞった。「やりようによる」という言葉を思い出して、念を入れてもう三秒ほどスタンガンを押しつけた。
自分のバイクから応急処置用ガムテープを持ってきて石黒の手足を縛ると、梨花を助手席に移してスタンガンを手に持たせ、その手を石黒の太腿に押しつけてテープで留めた。
「いまから警察に通報する。あたしとこの男はもちろんだけど、あんたとカレのやったことも、もうけじめをつけましょうね。いい?」
響子が言うと、梨花の目から涙がこぼれだした。響子は流れた化粧と一緒にハンカチで拭ってきれいにしてやった。響子は続けた。
「指くらいは動かせるでしょ? あたし、電話してくるからね」
響子が背を向けた途端、断続的に弾ける音とともに石黒のくぐもった悲鳴が上がった。
「やりすぎちゃダメよ」
言うそばから、またも放電音と同時に石黒が呻いた。目には目を、歯には歯を――響子は急におかしさがこみ上げてきた。だが、久しぶりの笑みも、電話が一一〇番に繋がるとすぐに消え失せた。
「私は宇都宮地検の検事、鳴海響子。いまから話すことを――いいからあなたは黙って聞いててちょうだい――」
21
聞き慣れた排気音が徐々に近づいてきて、窓のすぐ下で止まった。カーテンを開けると、革ツナギ姿の響子がそこにいた。
「ちょっと走りにいかない?」
ツナギを着ながら、波瑠はこの数時間の出来事を思い返していた。
里江梨花は響子の通報通りの場所で保護された。石黒洋平はその場で逮捕された。しかし響子はそこに留まらなかった。だが、必ずここに来ると波瑠にはわかっていた。
ガレージへ降りて電動シャッターを開け、七年ぶりとなるRVFを押して通りへ出た。今朝、夏樹や小野瀬、響子ら三人がかりで行った整備が万全であることは手触りと転がりでわかる。
響子と並んで表通りへとバイクを押して歩きはじめたが、どちらも一言も発さずにいた。しびれを切らしたように響子が口を開いた。
「はっきりさせときたいのならいまよ。でなきゃ、あなたが色々聞くのはあたしが被告人席に立っているときね」
「いますぐにでも出頭するべきよ――」
波瑠の返答に響子は急に立ち止まり、怒ったような顔を向けた。
「それにしてもあなた、ずいぶんとこのコに乱暴してくれたじゃない? 見なさいよ――」
響子はGSX-Rのリアタイヤの縁を指さした。接地面の両端がささくれ立っている。
「こんなに寝かし込んで。力任せにねじ伏せてやる気がなくちゃこうまでならないわ」しかし響子は寂しそうに微笑んで続けた。「でも、上手になったのね――あたしがいなくても」
波瑠は何も言えず、ただ激しい動揺と後悔が胸を襲った。
甲州街道に出ると、響子はシートにまたがったが、ヘルメットはタンクの上に置いた。まだ走り出すつもりはないようだった。
「それで――」響子はさっきと同じことを繰り返した。「いま、いろいろとはっきりさせときましょうか」
「どうしてあんなことをしたの?」波瑠は訊いた。
「今日のこと? 青田智宏のこと? ――彼、死んだ?」
平然と聞き返す響子を罵ってやりたいのを波瑠はぐっと堪えた。「助かったわ。処置が間に合ったの」
響子は目を見開いて驚き、そして笑い出した。
「石黒の計画なんて、所詮は悪だくみの域を出ないのよね。本当に人を殺すことなんてあいつにはできない――」
「本当に死ぬところだったのよ! それがどういうことか――」
「わかるかって? わかるわ。誰よりもね」
響子は言い放った。そして自分の言葉を後悔するように表情をふっと曇らせた。しかし、次に顔を上げたときは元のさばさばとした顔に戻っていた。
「でも――そうね、良かったわ。あれ、本当はあたしがやるところだったの。一歩手前までいった。この親指一本が動かなかっただけ――といっても、あたしも石黒と同罪だけどね」
「本気で彼を殺そうとしたの?」
「まちがってると思ったから踏みとどまったわけだけど?」
「香水の瓶は?」
波瑠は語気を強めた。響子は愉快そうに笑った。
「何でもお見通しなのね」
「ひどい事故だった」波瑠は恨みがましく言った。「あたしはあなたたちの殺人計画の引き金を引かされたのよ!」
「計画は失敗だったというべきね。仕掛けはうまく働いたけど。でも、イイ線いってたと思わない? 悔しいけどアレ、石黒のアイデアよ。でも仕込むためにボンネットを開ける専用工具を作ったのはあたし。検事やってるといろんな方法を知ることができるの――」
嬉々として語る響子の頬を、波瑠は思い切り張った。だが、響子の不敵な笑みだけはその顔に残った。
「あたしを殺す計画も失敗だったわけね」
波瑠が鋭く言うと、響子はようやく笑みを消した。
波瑠は小野瀬に頼んでCBRから採取したブレーキオイルをコンロの火で熱した。そのとき気泡が発生しはじめたのは――その液体が甘い匂いを立ちのぼらせて沸騰しはじめたのは、水が沸騰する一〇〇℃にも満たなかった。
ブレーキオイルの主成分であるエチレングリコールと分離せず混ざり合い、共沸点が一〇〇℃以下となる甘い匂いの物質――それこそが科捜研の分析によって検出された摂氏六十一・二度の沸点をもつ液体、クロロホルムだった。
沸点が摂氏百度の水よりも低いクロロホルムを混入することによって通常の経年変化以上にブレーキオイルの性能を低下させ、容易にベーパーロック現象を引き起こしてブレーキを機能不全に陥らせることができたのだ。
クロロホルムは、映画やテレビドラマでは万能の催眠剤のように用いられるが、実際はそんな効果はない。だが、ブレーキオイルに混入させることで人を眠らす以上の効果を発揮したことになる。
「佐倉照郎のアパートに何日か駐めっぱなしだったでしょ? あんなの無防備すぎよ。誰に悪戯されるかわかったもんじゃないわ」
「悪戯? あたしに死んでほしかったんでしょう?」
「あなたは死ななかった。スピード勝負をしなかったのは賢明ね」
「そんなにあたしのこと憎んでたの? そんなに恨んでたの?」
波瑠は詰め寄った。だが響子は波瑠をかわすと、ヘルメットをかぶるために髪を縛り直しながら素っ気なく言った。
「エンジンかけなさい。暖まったら行くよ」
彼女はヘルメットをかぶるとすぐにイグニッションキーを捻り、それに応えるようにGSX-Rのエンジンは準備万端とばかりにひとつ荒々しく吼えたてた。
バイクを抱え込むように丸めた響子の背中を見つめながら、波瑠はついに口を開いた。
「あたしのことはもういい――でも、どうして青田君を?」
「黙らせるため。他に理由がある?」かすかな風切り音に混じって、インカム越しに声が返ってくる。「偽証させたのが石黒だったら? そのことをバラされるとなったら話は別でしょ? あの男は自分の願望のためにまだ検事の地位を捨てられない」
「やっぱり、あたしのせいなのね――青田君と梨花さんは、ずっと過去の罪を打ち明けたがってた――」
「知ってるのなら話は早いわね」
波瑠は立川から青田智宏の事故の原因がクロロホルムにあることを聞かされたとき――つまり、青田と波瑠が事故に見せかけて殺害されるところだったという疑念がついに確信に変わったとき、その理由が佐倉照郎の裁判からさらに遡ること二年、いまから七年前の石黒洋平と青田智宏の関係にあると踏んで、古賀に里江梨花も含めた三人の関係を調べてもらったのだ。
七年前、里江梨花は原付バイクで人身事故を起こした。相手は子供で、打ち所悪くして死んだが、子供が信号を無視して飛び出してきたという目撃証言があったために梨花は不起訴処分となった。その目撃者というのが青田智宏だった。
「石黒さんは後になって、青田君がそのとき現場にいなかった証拠を見つけた」
「あなた、いいお友達を持ったもんだわね」響子は驚いたように言った。「石黒も青田の車が事故発生時刻にどこにいたか、Nシステムの記録を照会した。事故発生から十五分後に、彼の車は事故現場に近いインターを降りている。つまり、彼が事故を目撃することはなかったの。真実は、きっと真逆だったんでしょうね。里江梨花は真っ先に友人に連絡した。彼と彼女の関係は、実は友人の友人のそのまた友人ってところ。その繋がりで青田智宏は里江梨花を助けようと偽証した――それを見抜けず、事故は不可避だったとしてあの子を不問にしたのが、まだ駆けだしの頃の石黒だったってわけ」
淡々とした響子の言葉の背後から、石黒の憎悪のような感情が迫り来るような気がして波瑠はぞっとした。響子はあっけらかんと笑い声を立てた。
「あの男が怒りだしたかって? 逆よ。むしろこれ幸いと喜んでた」
「どうして?」
「それが石黒洋平という男が普通でないところよ」
「――隠蔽したのね」
「そう。地検や警察、それに同僚からもね」
「でも、石黒さんはまだ任官したばかりで――それなのに――」
「なぜ二人を見逃したか? いまさら聞く? ああ、それとも新人にありがちの、子供の遺族の心痛を考えて義憤に駆られなかったのかってこと? もちろん彼は遺族のことを考えたそうよ。でも彼が言うには、遺族のことを思い返してみると、真っ先に思い出したのが、里江梨花を不起訴処分とした後、子供の両親に『能なし検事め』と罵倒されたことだけだったそうよ」
「そんな――」波瑠は絶句した。
「その二年後、あたしが佐倉照郎に手を焼いてるのを見かねて、石黒はここぞとばかりに青田を引きずり込んだ。もちろん脅しのネタは里江梨花の件。彼と彼女は例の事故がきっかけか知らないけど、そのときには付き合ってたのね。だから、彼の偽証のことだけじゃなく、彼女をいまからでも起訴してやるって脅しは効き目十分。二人の嘘が暴かれ、それによって罪を逃れたのだとわかれば、再捜査、起訴、そしていざ公判となった時点で裁判官の心証は最悪。彼女の罪は最大限に重くなる。子供が死んでるのに、自己保身で罪を逃れようとしたんだもの。実刑は免れない。絶対に」
「青田君と梨花さんはずっと重荷にしてきたのよ。きっかけを探してたはずなのに――」
「相手が悪いわ。あの男が黙って道連れにされるはずがないもの」
「だからって――」
「でもさ、先に責められるべきはあの子たちの方じゃない?」
響子の冷めた言い草に波瑠はどきりとした。その一瞬の間に駆け巡った波瑠の思考を、響子は一笑に付した。
「あいつを売ったからって、あたしの考え方があなたと一緒だなんて勘違いしないでちょうだい。あたしはどっちかっていうとあいつの方にいるんだから――いまだって」
「キョウちゃん――」
「あいつはあいつなりの正義観を持っていたのは確か。法は真の正義ではない、真の正義は法の範疇の外にあるって。あたしも同感。だって法なんて、作ったのは所詮愚かな人間。親に似て出来損ないなのは当たり前。解釈次第でがらっと形が変わる。真の悪を前にしたら、正義たる法がそんなんじゃ物足りないわ。真の正義は真の悪に対抗――いえ、完全制圧できるような絶対的なものでなくてはならないの。それは真理だとあたしは信じる。それは石黒もだった」
響子はそう言いきったが、続く言葉は嘲笑混じりだった。
「だけど、それを実践しようとした石黒は、彼自身も気付いていないけど、やってることはその実、上っ面を撫でてる以上のなにものでもなかった。あの男が自ら信じ込んでいる真の正義――本当はまやかしでしかないエセ正義の鉄槌を振るおうというとき、その根っこにあるのは、石黒洋平という凡庸な男が抱くただの自己満足にすぎなかった。それも生半可な、安っぽいやつ――」
響子は口にするのも嫌だというふうに言葉を切った。
「そんなあいつの本性が如実に表れたのが、佐倉照郎の事件――あなたも彼らの事故鑑定書とやらを読んで少しは思わなかった? 素人連中の戯れ事が、本職の仕事を差し置いてこれこそ正しいなんて認められたら、本職のプライドズタズタだって。柿本は真っ青になってたし、阪上のオヤジは禿げたおでこまで真っ赤にして『素人考えだ』と言い張ってばかり。ほんとは自分たちのやったことが無茶苦茶だってわかってるくせに。だからこそ余計に佐倉志郎の鑑定を潰さなくちゃならなかった。佐倉照郎は取調のときあたしに言ったの――『あんたたちはこんなこともわからないのか』って。それを石黒は部屋の外で聞いてて、相当しゃくに障ったみたいね」
「でも、つまりそれは、志郎さんの鑑定の方がより合理的だとあなたたちみんなが暗に認めたわけでしょう?」
「言ったでしょ? プライドの問題だって。プロフェッショナルに挑みかかってくる素人という構図もそうだけど、その素人がプロを打ち負かせるという身の程知らずの幻想を抱いているというのも、その道のプロにとっては気に入らないことなのよね。でもあの件に関しては幻想なんてもんじゃない――完全に素人がプロを徹底的に打ち負かすところだった。石黒にとってそれは許しがたいもの。自分たちの威厳がなんたらかんたら、愚弄されてそれでいいのかうんぬんかんぬん――結局のところ、自分だけが『真の正義』の執行者を気取りたいわけだから、素人連中にそのお株を奪われたくなかったのね。だから、完膚なきまでに叩きのめしておかなくては――石黒はあたしにそう言ったわ」
「青田君はそのために偽証証人に仕立て上げられたのね」
「善意の第三者の目撃証言っていうのは実に効果的。その証言の前では、被告人側から出てくる鑑定なんて無意味。本当は完璧に合理的で隅々まで緻密なんだけど、それだけにそんなのを被告人の身内が、しかも素人が鑑定したなんて誰が信じる? ショートしっぱなしの欠陥思考回路しかもたない三流以下の裁判官には、逆にこじつけの作り話に聞こえてならないのよ」
「でも、Nシステムが――」
「それを法廷に出せる?」響子は即座に返した。「警察の中にいいお友達を持ったのは褒めてあげたいところだけど、そんなこと言い出したらきっとお友達は手の平を返してデータを引っ込めるに決まってる。ましてや、いくらそれが事実だとしたって、逆転無罪の証拠を警察が出してくれるわけないでしょう?」
「あたしが言いたいのは、あなたがってこと! あなたは起訴の前には青田君の偽証に気付いてた!」
「言ったでしょ? あたしはあなたの側じゃないって」
「矛盾してる! 佐倉照郎に繋がる手帳を渡してくれたのはあなた! それがすべてのはじまりだったはずよ!」
「石黒はその前にはもうあの子たちを抹殺する気でいたの――ほんとよ。あなたが見つけ出した原付バイクとクラクションが直接のきっかけ。あなたがそこまでできるなんて想定外だったわ。それで石黒は危機感を抱いた――異常な被害妄想ぶりだとは思ったけど、それが石黒という男。でも彼の考えは正しかった。彼は破滅しかけてた――あの子たちは過去の罪を告白するきっかけを待ってたし、あなたはあたり構わず引っかき回してた。現にあなたは彼を追い詰めたのよ」
「そこは想定外?」波瑠は鼻で笑った。「それとも、あなたはそうなることを期待してあたしに手帳を渡したの?」
「死ぬときってさ、自分がなぜ死ななきゃならないのかを知っておくべきじゃない? あたしの手帳をきっかけにあなたが現れたおかげで、あの子たちは自分たちの罪をまざまざと思い出したはずよ」
「ちがう! あなたはあたしに止めてもらいたかったのよ!」
「石黒の肩を持つわけじゃないけど、あの子たち、二人共謀して子供殺しを隠し続けて、なのに七年も経ってやっぱり後ろめたいからっていまさら洗いざらい告白したいなんて、自分勝手すぎると思わない? 子供を奪われた親の立場からしたら、あんなやつら死んで当然だってあなたは思わない?」
「それでも、彼らはちゃんとけじめをつけようと考えてた。それだって彼らなりの正しさでしょう? あたしたちが為そうとした本当の正義って、そういうことじゃなかった?」
「一緒にしないで」
「認めなさいよ」波瑠は譲らなかった。「法は不完全だけど、だからこそ最後の最後には人が本当の正義を為すんだって――これはあなたの言葉よ」
「都合の良い解釈ね――あなたは本当のあたしをまだ知らないわ」
響子は静かにそれだけ言うと、沈黙した。
中央道を八王子第二インターで降りてからも二台のバイクの針路は延々と西へと向けられていた。
前後を走る車も少なく自然とハイスピードになり、前を走る響子のバイクの熱気を唯一肌が露出している顎の下にごくたまに感じるほかは、常に冷たい空気塊をバイクと体でびりびりと切り裂いていくかのようだった。その間ずっと二人の間のインカムはスイッチがオンの状態だったが、ただの一言も交わされなかった。
かつての頃もこんな沈黙はあった。こんなとき波瑠は言葉をすっかり失ってしまうのだった。
響子の背中には隙がなく、まるで本物の常勝GPライダーが公道に現れたかのような神々しさすらあった。そんな背中を、自分なんかの手が届くはずがないという分をわきまえた諦観に、決して尽きることのない憧憬とちょっぴりの羨望とが入り交じった思いで見つめ、それでもこのときだけは自分一人のものだという優越感に胸を躍らせながら波瑠は追いかけていたのだ。
だが、そんな思いがいまとなっては過去のものとなってしまっていることに、波瑠は寂しさを感じてならなかった。
響子の言うとおりだった。波瑠は本当の響子を知らない。その知らない面こそ、響子という人間そのものなのかもしれない。あの頃の沈黙の間、響子は何を考えていたのか。ひょっとしたら、たったいま考えていることと同じことかもしれなかった。それは、やはり、彼女の父親のことだ。
道が山間に入って街灯が途絶え、ついにバイクのヘッドライトと風と冷気と二人だけの世界になったとき、波瑠は寂しさに耐えられなくなっておそるおそる口を開いた。
「石黒さんと、付き合ってたの?」
スピーカーから響子の笑い声がした。すぐ目の前で笑っているようで、そんな笑い声を立てている彼女の顔すらも思い浮かぶようだった。だが、いまヘルメットのバイザー越しに見える響子の背中は、こんなときに見えるいつもの光景と何ら変わるところがなかった。響子は笑い止むと、つまらなそうに言った。
「世間一般の男女の付き合いというのを想像してるなら、そんなものはなかったと言っておくわ。肉体関係があったかどうかってことなら、あったと答えるしかないけど」響子は鼻を鳴らして自嘲した。「といっても、毒蛇同士の交尾みたいなもん。本能剥き出し、互いに絞め殺さんばかりに絡みあうだけ――うんざりよ」
「どうしてあんな人と――男の人になんて見向きもしなかったのに」
「いまならわかるでしょ? あたしが普通の人と付き合えると思う? 石黒は――まあ、普通の男じゃなかったのね。忌み嫌われる者同士。あたしと同類――まあ、あなたには一生かかっても理解できないことね。住む世界がそもそもちがうんだから」
「理解なんてできるわけないじゃない! あなたは多くの人を巻き込んだ! 苦しめた! 悲しませたのよ! あなたはそれを理解してるの? それにあなたのお父さんだって――」
波瑠が言い終わらないうちに、響子はいきなり急加速した。インカムは途切れて無音になり、響子の背中とテールランプはやがてカーブの向こうに見えなくなった。
GSX-Rは路傍に寄せられ、エンジンブロックが静かに音を立てて冷えつつあった。波瑠もそのそばでRVFのエンジンを切り、ライトを消した。光は天頂の月明かりのみとなり、あらゆるものが真昼のように影を落としていた。
響子は見晴らしのいいガードレールの向こう側に立っていた。その足下は急峻な崖の縁で、針葉樹の尖った樹冠すら目線の下にある。
「ここで――お父さんがガードレールを跳び越えたの」響子の落ち着いた声が思いのほか凛と響いた。「そのコも後を追って、崖の下で一緒になってた。お父さん、そのコのこと可愛がってた――だから、あたしも大事にするの」
振り返った響子の顔に嬉々とした笑みが広がった。
「あなたのバイク、背中で音を聞けて、あの頃と同じ気分に戻れた気がするわ」
嘘つき、と波瑠は胸の内でつぶやいた。
「あなたが、あたしの背中を見てる。必死になって追いかけてくる。あたしは止まれない。ひたすらあなたの前を走らなくちゃ――」
もしかしたら本心を語っているのかも、と波瑠は思い直した。
「あたしが前を走り続ける。そのわけ――笑っちゃうけど、青田智宏と同じよ。あたし、ずっと一人で賭をしてたの。あなたに追い抜かれることがあったら、全部おしまいにしようって」
「おしまいに――」
「もう知ってるのよね? あたしが犯した罪のこと」
波瑠はうなずいた。響子は続けた。
「あたしたちが出会ったとき、あなたは免許取り立て、あたしもまだ半人前。二人とも上手になりたくて、うずうずしてて必死だった」
波瑠は昨日のことのように憶えている。この八年、その頃のことを考えない日はなかった。
「あなたには素質があったと思う――本当よ」
「そんなことない――」
「話は最後まで聞いて」響子は声音を厳しくした。「あたしはその機会を利用しようと思った。あなたがあたしを追い抜けたらって――でも、あなた、全然ダメ。後ろを走るのに満足しちゃってて」
「もし勝ててたら?」
「そのとき全部が終わってた――あたしは自首するの」
「いまさら遅いのよ!」
波瑠の目に急に涙がこみ上げてきた。堪えようとして、いったん鼻をすすると、もう堰が切れた。響子は近づいてきて、波瑠を胸に抱きしめた。
「ごめんね、ハル――あなたの言うとおり、遅かった。ぜんぶ償い終えてから、あなたと出会いたかったわ」
響子は「でもね」と続けた。
「犯した罪に対する罰は受けなくちゃいけないとは頭ではわかってる。復讐は真っ当な『正義』じゃないとも――だけど、復讐をやり遂げたことは、これっぽっちも後悔してないの」
「ダメに決まってるじゃない!」波瑠は響子の胸を突き放した。「亡くなったお父さんが喜ぶわけない!」
しかし、響子は冷ややかに笑っただけだった。
「あたしはそこまでセンチメンタルな人間じゃない。お父さんはいまじゃ、ただの骨と灰――」響子は思い直して首を振った。「いえ――いまはやっぱりごめんなさい、かな。お父さんが遺してくれた保険金のおかげであなたと同じ大学に行かせてもらえたのに、こんなことになっちゃってるんだもの。ほんと親不孝よね。そればっかりは胸が痛いわ」
「だったらもっと早く、もっと前に――」
「言ったでしょ、後悔はしてないって。お父さんの命はいまのあたしの人生なの。そう、あたしは考えてる。あたしは自分の人生を守ろうとした。あたしを育てるお金に変わってしまったお父さんの命を無駄にしたくなかった。罠にハマってクビなんて、それこそお父さんが浮かばれないと思わない? だから石黒の言いなりになってでも、あたしは彼の『悪』を受け入れた。彼が無実の人間をいくつも有罪にしてきたのを知ってるから、その逆に、あたしを無罪にできるというなら彼はできるの。そして、あたしに道がそれしかないのなら、なんでも『やれ』と言われればやるわ」
波瑠は響子の胸を拳で叩いた。響子はその拳を受け止め、そして波瑠の手を愛おしそうに包み込もうとした。だが、それもすぐに思い直して、手を離した。そして彼女は波瑠を真正面から見据えた。
「ねえ、ハル――あたしを負かしてくれない?」
その目は冗談を言っているのでも、波瑠への侮りでもなかった。それは切実そのものだった。
波瑠は響子の提案を受け、二人はさらに上へと向かった。
七五〇ccのGSX-Rと四〇〇ccのRVFとのパワーの差を埋めるべく、勝負は峠の頂上からのダウンヒル。曲がりくねる下りのワインディングロードを一気に麓まで駆け下りる。湖を一望する広い路側帯に先に着いた方が勝ちとなる。
排気量差すなわちパワー差ゆえコーナー出口の立ち上がり加速でこそ波瑠のRVFは劣るかもしれないが、ダウンヒルであれば車重と体重の差で合計でおよそ三十キロは軽いぶん、ブレーキングとコーナリングの機敏さでカバーできるはずだった。
「肩の力抜いて。まだはじまってもいないんだから」振り返った響子がインカム越しに言った。「出会ったばかりの頃のあなたみたいよ、それじゃ」
「お互い様よ」
波瑠がきつく返すと、響子は笑い声を立てた。素直にも、それから彼女は丁寧に走るようになった。波瑠もそれにならった。肩にたしかにあった力みがすっと抜けていく。
しばらくして、ためらいがちな声がスピーカーからこぼれてきた。
「お母さんね、あなたと会ってくるって言ったら行かせてくれた。絶対引き留められると思ったのに――お母さん、あなたのこと信じてるの、無条件に。どうしてかわかる?」
波瑠が答えられないでいると、響子は自ら答えた。
「あなたのこと、実の娘のように思ってるのよ。自分の娘だから信じてる。本当の娘のあたしよりも」
「――そんなことない」
「そんなことなくないの。お父さんが生きてた頃はね、あたし、あなたにそっくりだったんだと思う。あたしね、あなたに近づいたのも本当はそれが理由だったのかも。昔の自分を見てるようだった。あたし、いまじゃこんなだけど、お父さんが死ぬ前は無邪気で利発的で、両親が喜ぶお利口さんだったんだから」
こみ上げる喜びを溢れさせるように響子は言葉を継いだ。
「あなたと知り合ってすぐに思ったわ。あなたを連れて帰ったらお母さんはきっと喜ぶって。思った通りだった。お母さんは見違えるように元気になった。あたしも、あなたと同じ大学で頑張って勉強して――あなたと同じ夢を見られることが本当に嬉しかった」
波瑠は何も言えなかった。そんな響子と舞子の思いに波瑠は背を向けたのだ。
「でも、どう考えてみても幻想なのよね。あたしは人殺し。その事実は消せない。あなたを引き留める資格なんてない。結局、元通り――あたしとお母さんは秘密を抱えた暮らしに戻っていく。お母さんは幻想の中に迷い込んで――あたしをどういう目で見ればいいのか戸惑ってたっけ。無垢な愛娘としてか、それとも人を一人殺したことがある恐ろしい罪人としてか。あなたと出会って別れてわかったのは、あたしはもうお母さんが求める娘ではないってこと」
その突然の転調に、波瑠は胸がきつく締め付けられた。そしてすぐに、響子の言葉の意味を知った気がした。
「この勝負、あたしが勝ったら――」
「もちろん自首するわ。そのときはあなたを雇ってあげるかも」
「勝てなかったら?」
「――そのときはそのときね」響子は曖昧に言った。
峠の頂上で波瑠たちはターンし、並んで止まった。
二台のエンジンのアイドリングで地面がかすかに震えているのがブーツ越しにもわかる。響子は波瑠をちらとも見ようとはしなかった。しかしインカムがささやいた。
「どうして責めないの? あたしが――あなたを殺そうとしたこと」
「死んでないし――生きてるのもあなたの教えのおかげだから」
「答えになってないわ」
「訊けば答えてくれるの?」
波瑠が問うと、響子は黙って俯いた。波瑠はその答えがわかっている気がした――それが答えだからこそ、響子は答えられないのだ。
響子は前屈みになってハンドルを握った。波瑠も同じことをした。クラッチレバーを握り、ギアをローに蹴り込んだ。
スタートの合図はいつも響子がしていた。だが、いまもまだじっと俯いたままだった。やがて彼女は言った。
「もし、本当にあなたを殺してたら――あたし、生きてられない」
響子はいきなり発進した。波瑠も、ほんの一瞬も遅れずに猛然と飛び出した。
響子の走りは気が触れてるとしか思えなかった。
街灯などなく、二台のバイクのヘッドライトが闇を穿つだけの極端に狭い視界の中で、これ以上ないというまさに「そのただ一点」で一気に掛けられるブレーキ、高性能スポーツタイヤの縁ぎりぎりまで車体をバンクさせるハングオン、対向車線に構わず道幅一杯を使い切るライン取りとアクセルワーク、それらのどれもが無謀すぎて、狂気じみていて、越えてはならない一線の先へ片足を突っ込んでいて、踏み出しかけているもう片方の足にも躊躇はなく、その向こう側から戻ってくる気も響子にはさらさらないように思えてくる。しかし彼女は、インカムから聞こえてくる深呼吸かというほどの一糸乱れぬ平静な息遣いのまま、崖あるいは絶壁に向かって猛然と突っ込んでいってはまちがいなく生還してくるのだ。
「速いよ! 無理!」
波瑠は絶叫に近い声で叫んだが、響子の返答は、かつてのような叱咤も励ましもなく、この状況下では異常なほど冷ややかだった。
「なら、あたしひとりで行くわ」
(それはダメ!)
波瑠は喉から這い出してくる弱気と恐怖を、奥歯を噛み締めてその頭のてっぺんを押さえ込んだ。そして強引に自分の限界を響子の方へと押し広げ、重ね合わせ、恐怖の震えを武者震いだと自分に思い込ませようとした。
頭頂から足の爪先の隅々まで神経を覚醒させ、筋肉のこわばり、捻り、緩みによって体重移動をより素早く大胆に、しかし一桁センチ――いや、一桁ミリの精度を極めよ。聴覚はエンジンの鼓動、タイヤの声に集中させよ。それらはRVFの息遣いだ。呼吸する車体に、アクセル、クラッチの開度、シフトチェンジをもって会話し、ぴたりと息を合わせるのだ。
視界は暗く、狭かった。だが響子のテールランプの明滅が道しるべとなってくれる。そうするうちに、GSX-Rのリアタイヤによって描かれる軌跡が発光して見えてくる――その光を正確にトレースせよ。やがて波瑠とRVFは、響子とGSX-Rの息遣いと完全に調和していった。
そのまま二つもコーナーを抜けると、波瑠は狂気のシンクロをついには楽しみはじめていた。ついていけると確信しはじめていた。事実、GSX-RのリアタイヤとRVFのフロントタイヤは五十センチも離れることがなかった。タイヤが通った痕跡が目に見えるとしたら、それは一台分しかないはずだった。波瑠は完全に響子と同じ線の上を走っていた。直列四気筒とV型四気筒の異なる波長の排気音が、しかしまったく同じ旋律を奏でていた。いつからか響子と波瑠の息遣いもインカム越しに同調していた。深く、長く、寝息のような息遣いだった。ふと、このまま永遠に二人で走り続けていたいという考えが脳裏を過ぎった。そして、そんな思いこそが、実は無意識のうちにこの八年間で切に願っていたことだったということにも気付いた。だから波瑠は、たとえひとりになってもバイクを降りることはなかった――そんな確信さえ覚えはじめていた。
波瑠はこの思いを響子に伝えたくてしかたがなかった。だが、声にはならなかった。声に出せばせっかくの響子との一体感が乱れてしまう気がした。そんなもったいないことはしたくなかった。勝ち負けなどどうでもいいというわけではなかったが、この完璧さを極めた状況下では勝敗がつくはずがないことはわかりきっていた。響子だってそれは認めるだろう。なぜなら、この上ないほど、二人は一つになれたのだから。たった一つしかないものが勝ちと負けを争うことなどできないのだから。
しかし、乱れは不意に訪れた。他愛ないコーナーだった。
これまでアスファルトを確実にグリップし続けていたGSX-Rのリアタイヤがわずかに滑って横に流れたのだ。一瞬ののち、そのタイヤの下から黒いものが蠢いて這い出てきたのが見えた。
濡れ落ち葉だ。
意識があっと叫ぶ間に、波瑠は尻を無意識に数センチばかりイン側に落として車体をもう数度倒し込ませ、響子のラインの内側へとRVFを飛び込ませていた。ガードレールが頭頂すれすれをかすめ飛び、その根元に生える雑草の束がヘルメットを滅茶苦茶に叩いていったが、体はより内側のラインと速度を頑なに維持した。膝のパッドが地面を擦って小石を跳ね散らかすのを感じつつ、しかしRVFはそのままイン側をべったり張り付くように走り続けた。
これを逃しては響子を追い抜く機会などもうない――あたしはいま勝ちたくなんかないのに! ――波瑠の意識が数瞬も遅れてようやくそう思い至ったときには、すべてを無意識がとうに完了させていた。後はこのコーナーの出口が近づいたらまちがいなく最速の脱出速度で抜けて響子の前に立ち――ただ、一緒に走りたいだけなのに! ――次のコーナーに飛び込めばいいだけだった。だが、インカムからは響子の息遣いが聞こえなくなっていた。それどころか、そばにいるはずのGSX-Rの鼓動も何も聞こえなかった。バックミラーも真っ暗なまま――どこ? どこにいるの! ――そして波瑠はいきなり何もかもから、自分の体からさえも心が離れ、意識だけが切り離されて真っ暗闇に宙ぶらりんになった気がした。
波瑠はどきりとして我に返った。すぐ右耳の後ろあたりから、太いが甲高い轟音が唐突に沸き起こり、それが一瞬にして、赤いテールランプの光跡を残して波瑠を抜き去っていった。
波瑠はもう終わりだと悟った。もう追いつけない。絶対に。
落ち葉でタイヤを滑らせたのはミスのはずだった――だが、響子にとってはミスではなかったのだ。
響子はリアタイヤを滑らせたが、そのおかげで、結果的に鼻先をより早くコーナー出口に向かせることができ、脱出速度を高めることができた。一方で波瑠は小回りして距離を稼げたが、車体を深くバンクさせすぎたために、立ち上がり加速のためのアクセルを開くタイミングが遅れてしまったのだ。
「待って! ダメよ!」
波瑠は叫んだが、二台の間隔が開いてインカムに雑音が入りはじめていた。それでも言葉の断片は聞こえているはずだった。スピードダウンした波瑠が負けを認めたことはわかっているはずだった。だが、返事はなく、背中は遠ざかっていくばかりだった。波瑠は必死に赤い光跡を追った。だが、さっきまでのような走りはもうできなかった。意識も体も、それゆえバイク自体も、すべてがちぐはぐの動きしかできなかった。
「待って!」
徐々に差は開いていった。響子は一向に速度を緩めず、湖の沿道の連続カーブを全力で走り続けていた。ヘアピンカーブのブレーキングで少しだけ距離が詰まったとき、スピーカーの雑音の中、響子の途切れ途切れの声が聞こえてきた。
「このさき――うみが――きれい――」
響子に三秒も遅れてヘアピンカーブを抜けたとき、彼女の言葉の意味がようやくわかった。直線の先にある短いトンネルの向こうに湖が見えるのだ。ちょうど月明かりが湖面に落ちていた。
二人が好きな場所――そして、そこがゴール地点だった。
そこは道路が湖にもっとも近づくカーブで、路肩が広くなっていて七、八メートル崖下の湖を一望できる。かつては峠越えの緊張感を緩めて愛車ともどもそこでひと息ついたりしたものだった。そういえば、響子の部屋にあった二人のスナップ写真はそこで撮ったものだった。
次の瞬間、波瑠はあっと叫んだ。
先にトンネルに飛び込んでいった響子が、その出口でおもむろに上半身を起こすと、ステップに立ち上がり、ハンドルから手を離して両手を広げたのだ――全身に風を受け止めるように。そして、波瑠が悲鳴を上げている間に――インカムから響子の声が何か聞こえてきた――その待避所の砂塵を舞い上げたのちに、響子とGSX-Rはガードレールに突き当たってつんのめるように跳ね上がり――そして、崖の向こうへ消えていった。
波瑠はひしゃげたガードレールの寸前でバイクを飛び降り、崖下をのぞきこんだ。湖面には大きな波紋が広がっていた。
波瑠は崖をほとんど転げ落ちるように滑りおりると、ヘルメットと革ツナギとブーツを一瞬とも永遠とも思えるほどの混乱した時間を経てどうにか脱ぎ捨ててTシャツと下着姿になり、ためらいも恐れも水の冷たさすらも感じる余裕のないまま、波紋があった場所の中心へと月夜の湖に飛び込んだ。
水は澄んでいて、月明かりが差し込んでいて明るかった。
一方で底の方は完全な闇だった。波瑠はがむしゃらに水を掻いて潜っては目を凝らした。潜れば潜るほど胸が苦しくなっていく。少し息を吐き出すと幾分楽になったが、同時に、底からのあぶくを見失った。波瑠は必死にあたりを見回した。月明かりもほとんど届かなくなっていた。苦しくて息を吐き出し、そのために別の息苦しさに頭がぼうっとなりかけたところで、いきなり目の前に小さなあぶくが浮かんできた。見下ろすと、立ちのぼるあぶくの先に白っぽいものが見えた。ライディングブーツの爪先だった。波瑠は身を反転して手を伸ばし、ブーツをつかむと手応えを感じながら猛然とたぐり寄せ、響子の体をしっかりと抱き寄せた。
身を翻して水面を見上げると、月はぼんやりとした光の玉だった。ただ、それも消えていく――二人はいままさに底へと沈もうとしているのだった。
息が漏れ、あぶくが二人を置き去りにしていく。視界はもう暗幕がおりかけていた。波瑠は目をつぶって何も考えずに足で水を蹴り続けた。そのうちに何も考えられなくなった。視界だけでなく、全身の感覚がぼんやりしはじめた。腕に響子を抱きかかえている感触も消え、水を蹴る足がまだ動いているかどうかもわからなくなった。意識が目と目の間で小さく収束していくのだけはわかった。
そのごくごく小さくごくごく狭い意識の中で、なにかくすぐったい感触を覚えたような気がした。
次の瞬間、意識は爆発したように広がり、すべての感覚が戻った。
波瑠は湖面から飛び出していた。大きく息を吸い込んだとき、腕の中に響子がいることも思い出した。急いで近い岸を探し、そこに向かって重く水を吸い込んだ響子の体を引っ張っていった。
足が浅瀬の底につくと、波瑠は響子を引きずって岸に上げ、ヘルメットを脱がせた。呼びかけ、気付かせようと頬を叩くたびに響子の口から水が漏れてきた。ツナギの前を開け、胸に耳を当てたが、拍動はなかった。それでも波瑠に焦りも戸惑いもなかった。無意識が波瑠を動かした。
響子の胸の肉の間にある胸骨の、その奥にある止まった心臓を、波瑠は怒りすら込めて激しく叱咤し、そして冷たい唇に切実な願いを注ぎ込み続けた。そうしながら波瑠は祈った。何度繰り返したか、どれだけの時間が経ったか、ただ胸を圧す腕ががくがくと震えはじめ、重だるくなり、怒りや祈りが諦めに変わろうとするのを拒絶できなくなっていくことだけが波瑠に情け容赦ない時の経過を思い知らせるだけだった。それでも唇から唇へと息を吹き込むときだけは決して諦めないという思いを込めることができた。響子が戻ってこなかったら、波瑠は生きていたくはなかった。響子も同じことを言った――もし自分があのときに死んでいたら、彼女も生きていられない、と。そこに行き着くまでの過程がどうあれ、最後には本能は本心とイコールなのだ。
(生きて――お願い!)
もがくように激しい胸骨圧迫と人工呼吸を繰り返し、朦朧とする意識と視界の中からでも、波瑠はどこかにまぎれた一本の糸のような生の兆しを探した。そんなものはどこにもないように思えた。響子はもうどこにもいないように思えた。それでも波瑠は自分の呼吸が止まって死に絶えるまで続けるつもりでいた。
いきなり、響子は水を吐き出した。身をよじり、咳き込み、そのたびに水を吐いた。波瑠は下唇をきつく噛んで、泣き出したくなるのを堪えた。響子が目を開いたときにそこに自分が映っていたかった。戻ってきてくれたこの喜びで彼女を迎えたかった。波瑠は響子の頭と肩をしっかりと抱きかかえ、きつく、もう金輪際絶対離すまいと心に決めた。そのうちに響子は薄く目を開けた。波瑠より先に、響子がむせび泣きはじめた。波瑠には一度も見せたことのない姿だった。響子は決して誰にもそんな姿を見せたことはなかっただろう。ずっと堪えていたものをいま止めどなく溢れさせていた。響子は波瑠の胸にしがみついて泣きじゃくった。それは、ほんの幼子からほんの少しも成長していないような泣き顔だった。
終章
1
いくつもの靴音がドアの前で止まり、小窓から立川の顔がのぞいた。彼は波瑠に目配せをした。
「大丈夫だから――もう行って」
ベッドの中の響子はまだ何か言いたそうにしながら、しかし何も言わずに、ずっと握ったままだった波瑠の手をもう一度ぎゅっと握ってから離した。
入ってきた若い刑事と黙礼を交わして波瑠は廊下に出た。立川は廊下で待っていた。
「どうです、彼女は?」
「落ち着いています」
波瑠が答えると、立川はほっとしたようだった。
「恥ずかしながら正直申し上げると、石黒洋平がなかなか手強くて、取調官はかなり苦労してます――ただ、今日あたりこちらにも良い切り札が手に入りそうなんです。クロロホルムの入手経路ですよ」
科捜研での分析の結果、青田智宏の車のブレーキオイルから検出されたクロロホルムには、微量ながらいわゆる合成麻薬の成分が含まれていたのだという。
石黒の周辺を捜査したところ、彼が担当した事件で、下宿で合成麻薬を製造していた薬学部の学生が検挙され、訴追されたというのがあり、押収された証拠品の中に抽出溶媒に用いられた廃液タンク一本分のクロロホルムがあった。捜査担当検事の石黒は、立場上、地検の証拠保管庫にあるそのタンクに容易に近づくことができ、保管袋越しに注射器で抜き取ることもできる。その廃液の成分比が青田の車のものと同一であれば、クロロホルムと石黒洋平、そして青田智宏の車が一本に繋がるというのである。
「彼女からは、何が聞けるか楽しみですな」
立川は上機嫌で病室に入っていった。
響子はすべてを語るだろうか。いや、すべては語るまい。
彼女は事実に関しては包み隠さず、それこそ十七歳の頃の殺人から語りはじめるだろう。そして、警察がいまだ知らない事実である、波瑠のCBRへの細工もだ。ただ彼女は、波瑠の殺害動機だけは語らないだろう――波瑠にも明かそうとしないのだから。
波瑠もあえて訊ねることはしなかった。響子が話したくないのならそれでいいと思っている。
それでも波瑠は響子の幼子のような涙を見ている。きっと自分を亡き者にしようとした動機は、十七の少女が抱くような、いまの響子に似つかわしくない幼稚なものなのだろう。
母親を取られたくない、母を奪う者なんかいなくなってしまえ。
現在の響子の理性であれば、そんな理由が殺害動機になるわけがないと鼻で笑って否定するだろう。しかし、彼女の善悪の判断に関する本能は十七歳で成長を止めてしまっているのだ。
善悪の判断は、普通であれば、何をしてよくて、何をしてはいけないかといった小さな経験を積み重ねながら、本能に刻み込みながら育まれるものだ。だが、響子の場合はちがった。
十七歳――響子はこの歳に、この世の不条理にもみくちゃにされた。父に死をもたらした者が、法の裁きを逃れるのを目の当たりにした。そしてその不条理に抗ったとき、彼女はなにものにも揺るがせにできない絶対的正義の行使という手段を見出してしまった。
響子は殺人を犯した。しかし、それは彼女なりの絶対的正義のもとで行われたものだから、彼女はその殺人を正当化できているのだ。そして、その殺人こそが彼女の真の正義の規準となってしまった。
殺人は例外なく悪であるという常識は、響子には通用しない。彼女にはすでに独自の善悪の判断規準があるからだ。だからこそ彼女は石黒に協調した。人としての倫理が備わっていないのかと問われれば、彼女はこう答えるだろう――誰がその倫理を説くのだ? 法の遵守者か? 正義は法のみにあると宣うのか? ならば、その人は親を殺されたことがあるか? 法に見放されたことがあるか?
常識的な善悪など、ひどくくだらないものに見えただろう。それらが彼女の善悪の判断力を育んだり、修正したりすることは決してなかった。響子にとっては、法は不足すぎたのだ。だから彼女は、自分で正義を行使してきたのだ。
一方で、十七歳で成長を止めた本能はやはり幼かった。母親を奪われるという本能的恐れ、奪われまいとする反射的抵抗が、十七歳の心に、柔軟性に欠けた分厚く固い殻を重ねただけの彼女の理性を支配してしまった。そして、彼女は沸点の低い本能の向くままに行動した。他人に母を奪わせない、と。
波瑠は振り返ってドアの小窓から響子の様子をのぞき見た。響子はベッドの上で体を起こし、胸を張り、ときに笑みすら浮かべている。しかしやはり彼女はすべてを語らないだろう。響子という人間は、決して曲がらないのである。
再びドアに背を向けたとき、廊下の先に志郎がいることに気付いた。だが、波瑠は彼を避けるように逆の方へと歩き出した。志郎は波瑠に追いすがった。
「どうして電話に出てくれないんですか。メールだって気付いてたでしょう?」
「あなたのお父さんの再審請求は認められます。どうぞ持田先生にこの現状をお伝えください」
波瑠が素っ気なく言うと、志郎は波瑠の前に立ちはだかった。
「もう終わりだって言うんですか?」
「私はもう用済みでしょう? もう十分でしょう!」
波瑠は悲痛に叫んだ。取り乱してうずくまってしまいそうだった。そのとき、志郎の手が両肩をつかんで支えた。
「あなたがやってきたことは本当の正義だ」
「そんなものために人が死ぬのよ。くだらないわ」
「あなたが行動を起こさなかったら、悪いやつらが勝ったままだった。そんな世でも平穏無事だと信じ込んでのうのうと生きていたいですか? 僕はいやだ。そんな世の中には絶望だ」
波瑠はそれでも首を振った。志郎の言い分は二日前ならまちがいなく賛同していた。だが、いまはどうしたって認められなかった。命を犠牲にしてまで為すべき正義など波瑠はいらなかった。
「悪いことを正そうとするのをみんながほったらかしにしてしまえば、苦しむ人はもっと増えます。そういう世の中に誰が希望を抱けますか? 誰が形だけの法に従いますか? やられたらやり返す、復讐こそが正義であっていいんですか?」
波瑠は顔を上げた。潤んだ目がじっと波瑠を見下ろしていた。
「僕たちはみんな本当の正義が必要なんです。法にこそ、法を司る人たちにこそ、真の正義の魂が宿っていてほしいと本気で考えてるんです」
「あたしなんかに何ができるって言うの?」
「あなたは親父の無実を信じ、冤罪を晴らしてくれた。あなたの言葉なら無視はできない。どうか親父を説得してください――親父はいまにも新たな計画を実行しようとしているんです」
2
波瑠はRVFのステップに立ち上がって先の方を見渡した。佐倉照郎のアパートで志郎が見つけた、犯行現場と考えられる見取り図どおりの光景が見えてきた。
池上通りが第二京浜へと突き当たる直前、片側一車線道路はやや広がって、およそ車二台半ぶんの幅になる。バス停を示す白い路面標識の網模様が黒いアスファルトの上で黄昏の陽光に発光し、沿道のコンビニエンスストアや古びた床屋の看板も影の中で煌々と灯りはじめていた。車道ではひっきりなしに乗用車やトラック、バスが、歩道では歩行者や自転車が行き交い、どこにでも見られるありふれた夕方五時の光景だった。
「着いた! まだはじまってない!」
波瑠は携帯電話に繋いだインカムに叫んだ。即座に志郎の焦った声が返ってくる。彼はこの二日間で、佐倉照郎の部屋で見つけたミニカーの車種から、次なる目標の行動パターンを把握しようと奔走していた。だが、たった二日では確かなことはつかめなかった。
「あいつは競艇場をもう出ています! 早く切り上げたんです。いつ出たかもわからない――もう着く頃かもしれない、もうはじまろうとしてるのかも――」
波瑠はバイクの上で伸び上がってあたりを見回した。歩道には買い物客の往来があるだけで、いざ事が起きるのを待ち構えて仕組まれた交通事故の目撃者となろうとする様子の者は見当たらなかった。トラックもスクーターも、それにもう一台――。
そのとき波瑠は現場から少し離れたところに、見覚えのある小柄なシルエットを見つけた。逆光を手で遮りながら目をこらすと、それは佐倉照郎だった。
彼は胸の辺りでビデオカメラを構え、その液晶画面に視線を落としていた――と、彼はふと顔を上げ、波瑠と目を合わせた。前に会ったときの温厚そうな顔ではまったくなかった。彼の手が動いて口元で止まった。小型のトランシーバーだ。
波瑠の視界の隅でシルバーの車がいきなり動き出した。そのサイドウインドウの向こうで、金縁眼鏡が光った。
次の瞬間、その車の前に停まっていた車もタイミングを合わせるかのように急発進した。クラクションがけたたましく鳴りだした。
波瑠は急ブレーキを掛けて、後ろを振り返った。
クラクションを鳴らしているのはシルバーのプリメーラ――天神署の柿本徹次だった。発進を妨げられて苛立っているのだった。だが、そのすぐ前の車も譲ろうとしなかった。柿本の車はむきになってさらに右へと鼻先を向けた――ちょうどそこへ一台のトラックが迫ってきていた。しかし柿本の車はそのまま猛然と急発進した。
トラックはすんでのところでプリメーラを避けた――波瑠はあっと叫んだ。
トラックの背後から大型スクーターが現れたのだ。そしてそれは、まっすぐ柿本の車に突っ込んでいった。
スクーターのライダーの体は瞬時に宙に投げ出された。そしてプリメーラの頭上で勢いよく回転し、その勢いは地面に叩きつけられてようやく止まった。それからライダーは、ゆっくりと、もだえるようにうごめきはじめた。
柿本は車の中で目を見開いて呆然としていた。その目が焦点を波瑠の目に定めたとき、彼は醜く顔を歪ませてハンドルをぐるぐると切りはじめた。波瑠がまさかと思う間に、柿本のプリメーラは激しくタイヤをわめかせながら発進し、走り去っていった。
怒号が飛んだ。駆けだして車を追いかけようとする者もいた。誰かが通報している声もあった。人だかりがライダーを囲んだ。波瑠は佐倉照郎がいた場所を振り向いた。
彼はまだそこにいた。事故が起きる直前とまったく同じ立ち姿で、トランシーバーで交信を続けていた。だが、波瑠が大股で詰め寄ると、彼は交信を切って言った。
「警察と救急には通報済みです。小松さんは――あそこで倒れている人なんですが――大丈夫のようです」
「大ケガするかもしれなかった! 死ぬかもしれなかった!」
波瑠は憤りを佐倉にぶつけた。だが彼は平然と受け止めた。
「覚悟の上です。彼の意思を尊重しました」
「なんの意思だというんですか? 人を罠に嵌めることがそうだというんですか?」
佐倉は照れくさそうに苦笑った。波瑠はあまりの呆れと憤りで目眩を起こしそうだった。だが、すぐにはっとした。
「柿本はどうして逃げたりなんかしたんです? あれじゃまるで――いいえ、完全に轢き逃げです! でもいったいどうして――」
「酔うと判断が鈍るという典型です」
「酔うと? あの人は酔っ払ってたんですか?」
「悪い習慣ほどなかなか抜け出せないものです」
柿本は競艇場へ行くと、必ず缶ビールを一、二本ひっかけるのを無上の楽しみとしているのだという。佐倉は柿本の飲酒運転の習慣を計画当初に突き止めていたのだ。
「だから、彼に関しては、本当の交通事故を起こさせるだけでよかったんです――まさか逃げるとは思いもしませんでしたが」
「でも、どうしてこんなことを? 理由を聞かせてください」
「理由ですか――」
佐倉は照れたような、困ったような顔をした。波瑠はさらに詰め寄った。
「あなたはたしかに冤罪被害者です。その苦しみを知り尽くしているはずです。あらぬ罪を着せられればどう感じるのか、あなたなら彼らが――」
「彼らは自分たちが苦しむ以前に人を苦しめてきた。彼らが苦しんでいるのなら、計画は大成功です」
佐倉は表情を消して冷然と言い放った。波瑠は食い下がった。
「目には目を、歯には歯を――そんなことがいまの世の中で、この国の法の下で認められるわけがないことはおわかりでしょう?」
「告発しますか」
「見過ごすことはできません」
「そうですか」
佐倉はスマートフォンを取り出した。画面を何度か指先で叩くと、彼は「よし」と言って晴れやかに顔を上げた。
「いまインターネット上にあるサイトにファイルをアップロードしました――このサイトは有志の方々によっていろんな形でどんどんと増殖していく手筈になってます。ほんの手始めですが、あとは自然と浄化されることを願うばかりです」
「ファイル? 浄化?」
「裁判官、検察官、警察官のです。冤罪を生み、または加担した者たちの実名やなにやらです。本当は今後順次計画を実行していくつもりでいたんですがね」そう言ってから彼は慌てて取り繕った。「誤解しないでくださいよ。ファイルといっても秘密にすべき個人情報を暴露しようってわけじゃありません。裁判記録などの情報を公開したんです。どれも傍聴席にいれば知ることができる類のものです。興味を持った人ならそれをもとに誰でも実際に裁判書を閲覧できるし、そもそもこのファイルには公判の全記録が含まれている。いかにして冤罪が生みだされていくのか、その全過程を知ることができる。もちろん元被告人たちの許可を取り付けてあります」
波瑠は唖然とした。佐倉は続けた。
「罰せられるべき当人たちにとってはほんのいっときのサボタージュのつもりでしょうが、その者たちの怠慢のために人生を狂わされる犠牲者は一体どれほどになるでしょうか。十人や二十人じゃ済みませんよ」
「でも、だからってこんなことをしてまで――」
「彼らを野放しにして裁こうとしないのなら、もはや法も無法も変わりはありません。自分たちの信じる正義は自分たちの手で行うしかない。そういう結論です」
佐倉は厳かに言うと、すぐに声音をやわらげた。
「我々だってもともとは法の遵守者だった。法は人としてよりよく生きる指針です。宗教における戒律に等しいといってもいい。人はときに愚かになり、惑い、迷うけれど、法はそんな人々を導くためのうっすら光る道しるべです。その道を外れれば不安にもなるし、後ろめたくもなったりする。それこそが法の存在意義ではないでしょうか。ほとんどの善良な人々にとっては法は安寧のための拠り所なのです。法が守ってくれる。法にこそ正義がある――我々は敬虔な法の信者です。そして同時に、我々は、法を矛として悪を貫く法曹関係者諸氏こそ真の正義を為し、善良なる国民の良き味方になってくれることを期待する者たちなのです」
彼は途端に表情を曇らせた。
「しかし、現実は少しちがう――私が思うに、あなたがたはいわば職人なんでしょう。法という道具を駆使して善良なる民のために安心安全な住環境を築く職人です――もちろん民はそのためにあなたがたに大金を支払わなければなりません」
同じことを志郎にも言われたことを波瑠は思い出した。
「あなたがたの売り物である安心、安全、そして正義なんてものは、言ってみればより良い暮らしのための有料オプションです。ところがこれまでは民の誰もが、当たり前に提供される最低限の無料サービスだと思い込んでしまっていた。普段、安穏と暮らしているうちは必要のないものですから気にかけてこなかったんです。大地震が起きるまで、地震に耐える耐震補強が本当に施されてるかどうかって、よくよく考えてみればわからないものですよね。長い釘を使わねばならないところに寸足らずの釘、筋交いを張らなければならないところを省いてしまったり」
佐倉ははたと気付いて「わかりづらい例えでしたね」と苦笑いを浮かべた。
「しかしやはり、職人の手抜き工事――すなわち冤罪が生まれてしまう責任はわれわれ民の側にもあるのでしょう。本来なら、我々はあなたがたの施工過程を逐一見張っていなければならなかった。しかし現実は、きちんとやってくれてるものだと信じ込んでしまい、あなたがたの野放図を許してきてしまった。我々の見てないところで、あなたがた職人は、実は素人さんがやる日曜大工以下の、ガタガタの家をたくさん作ってきた」
唐突に、佐倉の手にあるスマートフォンが着信音を発した。
「使える道具は上手に使わないと」彼はその画面をちらと見ると、再び波瑠に向き直った。「マスコミ各社への送信も完了したとのことです。興味を持ってくれるかどうかはわかりませんが、国見杜夫、石黒洋平、鳴海響子、柿本徹次、それに青田君の存在も良い効果をもたらしてくれるでしょう」
佐倉は真剣な顔で続けた。
「もちろん私どももけじめをつけねばなりません――でもその前にちょっと、お世話になった皆さんに挨拶させてください」
佐倉は事故現場を見渡しながら、トランシーバーの送信ボタンを押してマイクにぼそぼそと話しかけた。
「あー皆さん、どうぞそのままで聞いてください――誠に、えー、遺憾ながら、私はこれから警察に出頭します」
その言葉の直後、波瑠は息が止まるほどに驚いた。
視界に入る人々すべてが一斉に佐倉を振り返ったのである。三十人を超える男女のほとんどが佐倉と同年代のようだった。中には、持田の事務所にあった写真で見た顔も多くあった。そして全員がまた、もとの通行人――事故の目撃者に戻っていった。佐倉は波瑠に「ほんの一握りですよ」とささやき、再びマイクに語りかけた。
「皆さんはこの轢き逃げ事件における善良なる第三者の目撃者ですので、どうか責務を果たしていただきたいと思います」
佐倉は波瑠に目で許可を求めた。拒めるはずがなかった。
「本来の計画通りとはいきませんで、早々に店じまいせねばならないこと、皆さんに申し訳ないと思っております。ですが、これはこれで予定のうちです。罪を犯した私は――いえ、この私だからこそ、法の裁きから逃れるわけにはいきませんのです」
そのとき、斜向かいの喫茶店から、数人の男たちが飛び出してきた。その中に島田保と榎木忠広の姿があった。彼らは波瑠たちのところへ真っ直ぐにやってきた。佐倉は彼らと視線を交わしてうなずくと、ポケットからメモリーカードを取り出して波瑠に手渡した。
「これに国見杜夫と鳴海響子の無実の証拠がすべて入っています。あなたのタイミングで、どうかお役立てください」
そう言うと佐倉は再び送信ボタンを押して話しはじめた。
「こんな私的制裁が許されるのか、他に方法があるのではないかとお考えの方もいまだおられるでしょう。正義を標榜しようという者が罪を犯すことの矛盾は、もちろん常に私の胸にあり続けました。それでもやはり、私はやらねばならなかったと固く信じております」
島田たちの間で交わされる言葉は無かった。ただ、それぞれが固く握手を交わしあい、誇らしげに胸を張っていた。
「私は自分の冤罪事件で最後の最後まで闘おうとしました。けれども、その最後の最後まで、正義が貫かれることはありませんでした。私は失望しました。ですが――息子には、私以上に失望させてしまった。父親の私が身をもって、彼に司法の不正義を思い知らせてしまったのです――その責任はとても重い。私の人生などもうあと十年もないでしょうが、息子にはまだまだある。それに彼だけではありません。彼の失望は彼の子、そして彼の孫にまで伝わっていってしまうかもしれない。希望のない世の中だと、彼らはそんな思いを抱いて生きねばならないのでしょうか。そんな世に誰がしたのでしょうか。それは私たちの世代かもしれない――そう思うと、悔やんでも悔やみきれません」
佐倉は俯いて言葉を詰まらせた。島田が彼の肩に手を置いて顔を上げるよう促した。顔を上げた視線の先に、着いたばかりの志郎がいた。救急車のサイレンも近づいてきていた。佐倉は駆け寄ってくる志郎の姿を凝視し、振り絞るように言葉を継いだ。
「どうにかして――どうにかして正義を取り戻したかった。その思い一つで行動してきました。短絡的ではありますが、私のような老いぼれに残された時間は少ない。そんな私に何ができるか。息子や孫に、何を残せるか。法の成熟など到底待っていられない。ならばと、私は――私たちは、法に、そして法曹に刺激を与えることによって、自浄を促したいと思ったわけであります」
志郎は唖然として自分の父親を見つめていた。佐倉はマイクに話しかけていたが、その潤んだ目は息子だけを見つめ返していた。
「その効果のほどはまだわかりませんが、今日この日までの闘いは決して無駄ではなかった――いや、これで終わりではありません。我々の意志はあなたたちに引き継がれていく。法が、法を司る者たちが真の正義を取り戻すまで――私はそう確信しています」
そして佐倉は誰にともなく深く一礼した。そして顔を上げると、トランシーバーを波瑠の手に持たせた。
「どうぞ、何か一言を」
島田たちも波瑠に期待の眼差しを注いでいた。志郎もだった。
捨て身を覚悟した佐倉照郎たちの圧倒的な信念の前で、波瑠は自分ごときが彼らに何を言えるのかと自問した。そんな資格があるとは到底思えなかった。むしろ、自分を恥じていた。佐倉たちに申し訳なかった。響子と夜を徹して語り合った頃の自分なら、まだ何か語るべき理想があったはずだ。しかしいまの自分にはそれは失われてしまっていた。
佐倉たちが必死で身を挺しているというのに、その未来を託されようという次世代の自分には少しも輝くところがない。本来なら、現状に不満があれば波瑠たち世代こそが先陣切っていまを変えていく原動力となるべきなのにだ。
波瑠は志郎に助けを求めようとした。だが、志郎も同じ思いだった。この場で俯いているのは若い自分たちだけだった。
「みんな、あなたの言葉を聞きたいんです」
「私なんかが――」
「私は、息子が見込んだあなただからこそ、こうして頼むんですよ。あなたのような方を、我々は待ち望んでいたんです」
佐倉は波瑠の手を取り、トランシーバーの送信ボタンを押させ、マイクを口元へもってこさせた。
「あの――」
言葉が出てこなかった。佐倉はほほえみ、うなずいて先を促した。
「私は――私にできることは――」
脳裏にかつて響子と語り合った理想の言葉がことごとく甦ってきた。しかし、その頃の自分たちはあまりに若すぎて、現実を知らなかった。法を知ることが正義を知ることだと勘違いしていた。正義とは何かを知った気になっていただけなのだ。波瑠は目をつぶって取り乱しかけた気持ちを抑え込もうとしたが、彼らの期待にはやはり応えられそうになかった。
「ごめんなさい――やっぱり私は未熟者です」
志郎が首を振った。そして彼は言った。
「誰より、あなたが本当の正義を知ってる」
波瑠ははっと顔を上げた。志郎だけではなかった。佐倉照郎をはじめ、視界いっぱいのすべての人々が波瑠を見つめていた。波瑠は一人一人の目を見つめ返していった。そうするうちに波瑠は気付いた。自分が、法が、誰のためにあるのかということをだ。
波瑠は送信ボタンを離し、かわりに深く頭を下げた。佐倉は満足そうにうなずいた。
「これであなたも同志です」
サイレンの音が人だかりの向こうで止まった。佐倉は言った。
「さあ皆さん、参りましょう。池上署がすぐそこですから」
「付き添わせてください」
波瑠が言うと、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。
「それは心強い」
佐倉が歩き出したのをきっかけに、集まった男たちも歩き出した。
波瑠は志郎と並んで後をついていった。志郎は涙を拭うことに精一杯で、顔を上げることさえままならなかった。波瑠は歩みの遅れる彼の手を握り、父親世代の男たちの足取りに遅れないよう引っ張ってやった。そうすることで彼も、顔を濡らしたままではあったが、真っ直ぐ顔を上げて歩くことができた。志郎は目を細め、目を凝らし、彼らの背中を懸命に見つめようとしていた。
波瑠も彼にならった。しかし、波瑠もまた、志郎のように目を細めずには前を行く男たちの背中を見つめていられなかった。なぜなら、彼らはみな六十半ばを過ぎた者たちばかりではあったが、そのピンと伸びた背筋はどれもが誇らしげで、それはある種、煌々と放つ輝きといえるものだったからだ。
ガレージからは相変わらずハロゲンランプの明かりと工具の音が通りへとこぼれていた。波瑠はミラーをのぞいて自分の顔がどうやら見せられるものだとたしかめると、RVFを押してガレージへ入っていった。
中では夏樹がエンジンクレーンを組み立てていた。W1SAの二気筒エンジンはもうフレームに積み込む段階にあった。波瑠はジャケットを脱いで袖をまくると、何も言わずにスリングベルトを拾いあげてエンジンにまわし掛けはじめた。それから二人は必要最低限の言葉だけを交わしながら作業に没頭した。
「お父さん」
波瑠は、最後のボルトの、トルクレンチの最後のクリック音の後でと心に決めていた。ついにその瞬間が訪れて、波瑠は思い切って口を開いた。
「あたし、お母さんにとって良い娘じゃなかったよ。だって――」
涙が急に溢れてきた。しかし波瑠はその涙の勢いのままにすべてを夏樹に語った。
波瑠が語り終え、夏樹が聞き終えると、あとはもう誰も――自分自身ですら――波瑠を責める者はいなかった。
やはり時間こそが、犯した罪とこれまでの苦悩をすべて浄化してくれていたのだと波瑠は悟った。それを境に、脳裏に思い描く母の顔がどれも愛おしく温かに見えてくる。母の最期の顔もだ。その死に際して抱いた安堵の思いも、いまなら肯定できる気がした。
「ありがとうな――母さんを看取ってくれて」夏樹は言った。「私にはその勇気がなかったんだ。私は母さんと――母さんの死と向き合うことからずっと逃げてきた――」
夏樹は顎が胸に着くほど俯いた。涙が彼の杖の先に滴った。
「母さんに、寂しい思いをさせたかなぁ」
波瑠はそんなことはない、と思った。母と二人でいて息が詰まる時間が多くあったことは否めない。だが、そうでない時間もたしかに存在したのだ。いまならいくらでもそんな記憶を呼び起こすことができた。どこから湧いて溢れてくるのかと思うほどに、洪水のように波瑠の胸を満たしているのだった。
「あたしがずっとそばにいたし、お父さんだってここに、このガレージに、お母さんの見えるところに、ずっとそばにいたじゃない」
自分の部屋から、このガレージにいる夏樹の姿を見つめる母の困ったような微笑みは、あれは母の満足の証なのだ。
都合良く解釈してるだけかもと訝ってみるが、やはりそうではない。確かな記憶だった。
波瑠は母の自分を見つめるときの表情はどうだったか思い出した。母は自分の本音を見透かしていただろうか。
波瑠は苦しんだ。自分の人生を犠牲にする覚悟もした。それを母のせいにしたこともあった。恨む気持ちもあった。
だが、母と面と向かっているときに抱いていた思いこそが本音だったのだといまならいえる。
人生をなげうつ決意は、それは母と過ごすことを選んだことの裏返しに他ならない。その決意は、波瑠は母を愛し、慈しんでいたからこそのものなのだ。波瑠は、自分のほとんどすべての時間を母のために捧げようとしていたのである。
母は寂しい人だったか?
その真実を確かめる術はもはや失われたが、それが母の心からの微笑みの数や、建前や偽りを言うことのない母の「ありがとう」の言葉の数で量れるものなら、母は決して孤独ではなかったはずだ。なぜなら、いま波瑠のまぶたの裏には母の微笑みが無数に巡り、耳には母の穏やかな声が次々と甦ってくるのだから。
そしていま、波瑠は夏樹に対する思いも確かめようとした。それはやはり、恨みや憎しみであるはずがなかった。そんなものがかつてあったとしても、いまは一切合切を流し去ったあとだった。波瑠はいま、母を愛するのと同じように、いま涙をこぼす父も愛おしく思い、慈しまないではいられなかった。
「リハビリ、手を抜くんだったら絶対バイクに乗せないからね」
波瑠はきつく言ってみせた。しかし、夏樹は嬉しくてしかたないようだった。
「なあ、二人がかりでこいつをさっさと組んで、ちょっと回してみないか?」
一時間後、ガレージ中を震わすキャブトンマフラーの轟音の最中で、母が迷惑そうに耳を塞ぎながらも驚きと喜びを湛えた満面の笑顔を思い出し、父の歓喜の表情と合わせて、波瑠はいまあらためて脳裏に強く刻みこんだのだった。
了
沸点 骨太の生存術 @HONEBUTO782
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