夏休み(1)

 特に玉木さんとの関わりもないまま一学期は終わり、学校は夏休みに入った。

 部活に入っていない僕は、有り余る時間を利用して市立図書館の文学棚を端から攻めるつもりでいたのだけど、「昨今の世界情勢を鑑み(?)、お小遣いを廃止することとなりました」という両親からの突然の通達により、冬休みまでの雑費に充てる資金を稼がなくてはならなくなった。


 田舎というほどのどかではなく、かといって決して都会ではないこの中途半端なベッドタウンに於いて、高校生にできるアルバイトは限られていた。

 更に僕の場合、「接客はイヤ」「単純作業も眠くなる」「重いもの持ちたくない」といった条件が加わって、選択肢は針の穴ぐらい狭まった。

 その結果見つけたのが、水上公園での仕事だった。


 水上公園とは、平たく言えばプールだ。

 四角い競泳用のそれではなく、さざ波プールやウォータースライダーなどを備えた、〈陽〉に属する人々がこぞって行くような場所である。

 どちらかといえば〈陰〉に属する僕は監視員として、不埒な遊戯に興じる若者たちに笛を鳴らしまくる——わけではなく、園内に設置されたゴミ箱を回って溜まったゴミを回収する仕事に就いた。接客も単純作業も重いものもないけれど、代わりに食べ残しと飲み残しとその他正体不明の何かが混じった臭いに耐えなければならなかった。

 ところが、いざ夏休みが始まってみると、連日の酷暑である。

 客足を伸ばす助けとなる暑さが、今年は完全に裏目に出た。開園こそしているものの、水に入るまでが暑すぎてお客さんは誰も来ない。

 人がいなければゴミも出ず、僕らの仕事は炎天下の中、台車を押して空のゴミ箱を開けて周るだけのものとなっていた。

 それでも、一時間働いて一時間休憩して、また一時間働いたら一時間休憩——という働き方は僕の性に合っていた。


 ある晴れた午後のことだった。

 いつものように熱々の鉄板のようになったプールサイドを歩いていると、どこかから甲高い声がした。小さい子供の声で、必殺技を叫んでいるみたいだった。

 この暑いのにこんな所に来る物好きが、と声の方を見るや、顔に何かがぶつかってきた。

「ぶ」

 衝撃はあったけど、痛みはなかった。

 軽いビニールか何か。ポーンポーンと跳ねていくそれは空気を入れて膨らませるビーチボールだった。

「キャハハハ」

 ガラスを引っ掻くような笑い声。それも二人分。

 水着姿の幼稚園児と思しき男の子が駆けてきて、転がるボールを拾い上げた。

 二人は全く同じ顔をこちらに向けてきて、僕を指さし、また「キャハハハ」と笑った。

「こら!」

 今度は後ろから女性の声がした。

「今、この人にぶつけたろ! 謝んな!」

 男の子たちは「やべっ」と言って駆けていく。

 入れ替わるように女の人が傍に来る。

 母親にしては若い。高校生ぐらいに見える。

 それにどこかで見覚えがある——

「あ」

 麦わら帽子にTシャツ姿のその人は、思わず声が漏れたといった調子で言った。

 言わずもがな、玉木さんだった。


 一時間の休憩を取った後、再び外に出ると、暑さは少しも和らいでいなかった。

 さっきの場所に行くと、玉木さんの弟たちは相変わらずビーチボールを投げ合って遊んでいた。プールに入ったかどうかは知らないけれど、全く疲れた様子はなかった。

 一時間半前、弟たちの不逞を(渋々)謝ってきた玉木さんの姿は見えなかった。小さい子たちだけで大丈夫かとも思ったけど、監視員の眼もあることだしと僕は自分の仕事(ゴミ箱を開けて閉める)をすることにした。

「秘技なんたらかんたら——」という叫びが上がった後で、強い風が吹いた。

 決して心地よくはない生温かい風を感じていると、

「あー」

 と間延びした声が聞こえてきた。


 あらぬ方へ飛んでいったと思しきビーチボールが、プールサイドを転がっていた。

 それを玉木さんの弟の一人(どっちが双子の兄で弟なんだろう)が追いかけていた。

「あ」

 と、今度は僕が声を漏らした。

 ボールの転がる先には競泳用のプールがあった。競泳用とあって、小さい子どころか大人でも脚を付けられないほどの深さになっているプールだ。


 僕は駆け出そうとしたけれど、台車に引っ掛かって転んだ。

 その間にもボールは、そしてそれを追いかける玉木さんの弟は競泳プールに向かっていく。


 やばい。


 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい——


 すると、ビーチボールは突然、進んでいた方とは反対側に跳ねた。向かい風を受けたような動きだったけど、僕は何も感じなかった。

 ボールは追いかけてきた男の子の足下に転がっていき、拾い上げられた。

 その様を、僕は四つん這いになって眺めていた。


 サンダル履きの足が視界の端に現れた。

 爪はいずれも真っ赤に塗られていた。

「立てる?」

 手を差し伸べられたけど、「大丈夫」と言って自分で立った。

 玉木さんは持っていたコーラのペットボトルを開け、一口飲んだ。

 それから言った。

「あのさ」

 言いかけて、炭酸で「む」となりながらも続ける。

「今夜、少しだけ時間ある?」

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