第49話
この学校内で秀の存在を知らない者はいるのだろうか。
そう裕樹が疑問に思うレベルで、彼の顔の広さはとてつもない。
それはつまり、彼の炎上を知る者も多いのだ。直接は知らなくても、知人・友人から情報が入ってくる。噂の広がり方は速い。本当に。教室ではもちろん、廊下を歩いているだけでも噂が絶えない。
それでも、裕樹はまだ楽観視していた。ワイフォンが壊れているという秀の言葉を信じていた。みんなもきっと、すぐに分かるだろう。それで元通り。秀のワイフォンも戻ってくれば、万々歳だ。不思議なことがあったものだと、笑い話にすらできるかもしれない。何せ相手は常にふざけた笑いの絶えない秀である。
とはいえ――みんなが秀を遠巻きにしているものだから、秀は今の状況をきちんと把握できていない。
下手な注目を浴びるのが怖くて、裕樹もあれからろくに話せなかった。秀の方から「どゆこと?」と聞いてくるかと思ったが、そのあてもはずれた。
そうしてもたついている間に放課後だ。秀は早々に部活に行ってしまった。
少しくらい話せないものか。説明できるなら説明してやりたい。上手く話せる気はしないが、ツブヤイッターを見せてやれば話も早いだろう。それとも、部活のメンバーがもう説明しているだろうか。しているかもしれない。
裕樹はバスケ部の部室へ足を向けつつ、ウロウロと近くをさまよった。土壇場になって怖じ気付いてしまった。今更自分が首を突っ込む必要はないのではないか。どうせ他の誰かが、もしくは時間が解決する。今行っても邪魔なだけかもしれない。それならせめて明日になってからでも。
そうだ。そうに違いない。
帰ろう。
「キャアアアアアアッッ!!」
「うわ!?」
いきなり部室から甲高い悲鳴が響き、裕樹は飛び跳ねた。びっくりした。心臓が一回転した!
「一体何が……」
「助けて!」
バン! と激しくドアが開いた。
中から出てきたのは、莉緒だった。
ぎょっとする。服が乱れ、目元が濡れている。制服の肩の近くに切れ目が入っていて、白い肌が目に焼き付いた。
莉緒は真っ直ぐに裕樹へ走ってきて――素通りした。
駆けつけてきたのは、バスケ部員だろう。特に大柄な男性に莉緒が飛びつく。小柄な肩が震えている。
「奈良! どうした!」
「う、うう……」
「今の悲鳴は奈良だろう!? それにその格好……何があったんだ!」
「シュ、シュウ君が……」
「何!?」
それ以上は言葉にならない。涙をボロボロとこぼして、莉緒は男の胸に顔を埋める。
ふと、花のヘアピンが足りないことに気づいた。いつも二つつけていたはずだ。それが一つしかない。
裕樹は混乱しながら視線を走らせた。開け放たれたドアの下に、ヘアピンが落ちている。走ってきたときに取れたのだろう。
そのヘアピンをひょいと拾い、部屋から出てきたのは――。
「有馬、お前……!」
「オレは何もしてないんすケドね?」
秀はヘラリと笑う。反して、部員たちは殺気立つ。
「奈良、どうしたんだ。話せるか?」
「私……シュウ君とちゃんと話したくて……シュウ君があんなことするなんて何かの間違いじゃないかって……もし本当なら、何か理由があるんじゃないかって……それで話そうとしたら、いきなり、襲いかかってきて……っ」
「奈良、もういい。怖かったな」
莉緒のすすり泣く声が痛々しい。
たまらず、部員の一人が飛び出した。秀の胸ぐらをつかむ。
「てめえ! 神聖な部室で! 寄り添おうとしてくれたマネージャーに何て真似しやがる!」
「だからオレは別に」
「黙れ!」
激昂した男が、殴る!
勢いで、秀がよろめいた。男が振りかぶる。
もう一発――。
「梶浦。やめろ」
「部長!」
「話すだけ無駄だ。暴力沙汰になるなら、お前まで処分を受けるぞ」
「そ、それは……」
「奈良も、すまない。今すぐにでもやり返してやりたいだろうが……まずは落ち着く時間をくれ」
莉緒を抱きしめていた男――彼が部長らしい――が、不器用に頭を撫でる。莉緒はふるふると首を振った。
「いえ、私の方こそ……部に余計なごたごたを増やすような真似を……」
「お前は部員の心配をしただけだろう。褒められこそすれ、それを咎めたりなんてするもんか。悪いのはそんなお前の優しさを利用しようとした相手だ」
じろりと、部長は秀を睨む。大柄な彼が威圧していると、ハタから見ると秀や裕樹はまるで子供のようだ。
「有馬」
秀は答えなかった。
部長は低く告げる。
「帰れ」
「……」
「聞こえなかったのか!? 帰れ! 莉緒ちゃんの前に姿見せんな!」
また別の部員が、バスケットボールを投げてきた。秀の背中に当たる。下手をすると頭に当たるところだ。
当たったボールが、床に情けなく転がった。
「失礼します」
肩をすくめ、鞄を持ち直した秀は頭を下げた。ヘアピンをその場に置き、くるりと背を向け歩き出す。こちらを振り返ることはない。
「……ウソだろ……?」
呆然と、裕樹は呟いていた。
理解が追いつかない。現実味が湧いてこない。
それでも確かに――裕樹が置いてけぼりになっている間に、事態は、奇妙な方向へ転がっているようだった。
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