第32話

 風にねっとりと湿度がこもっている。雲はどこか重たげだ。それはまるで裕樹の気持ちとリンクしているかのようで。

 キィ、キィ、とブランコが鳴いている。裕樹はゴクリと喉を鳴らした。一歩、前へ進み出る。


「姫川さん」


 ブランコに乗っていた紗希が顔を上げる。

 彼女は裕樹を見て、不思議そうに瞬いた。


「石井君。どうしたの? 私は秀君に呼ばれたんだけど……もしかして石井君も?」


 彼女の笑みは柔らかい。ゆっくり近づくと、風に乗って石鹸の匂いがした。それだけで手に汗が滲みそうになる。


「僕が頼んだんだ」

「どういうこと?」

「僕は姫川さんの連絡先を知らないから……有馬君に頼んで呼び出してもらったんだ」


 やはりと言うべきか、紗希は小首を傾げた。

 彼女と話すのは三日ぶりだ。紗希は相変わらず友人に囲まれていたようだったので、用がなければ、裕樹が話す隙などなかった。秀とは時折会話をしていたようだけれど。その三日間、裕樹は別の作業に没頭していたのでどの道話す余裕などなかったのだけれど。

 紗希の隣のブランコに座ろうとして、やめた。彼女の真正面に立つ。彼女はブランコに座ったまま裕樹を見上げてくる。


「実は三日前、口裂け女に会ったんだよ」

「えっ……。大丈夫だったの?」

「うん。有馬君も一緒だったしね」

「秀君が?」

「それで……」


 裕樹はポケットを探った。中からストラップを取り出し、掌に乗せる。それを、彼女の眼前に突き出した。

 きょとんとしていた彼女の目が丸くなる。


「私のストラップ!」

「うん。どうも口裂け女が拾っていたらしくて……姫川さんの前に現れたのも、これを渡そうとしていたらしい」

「…………森のくまさん……?」


 思うことは同じらしい。紗希は信じられなさそうに呟いた。彼女にしては珍しく曖昧な笑みが浮かぶ。裕樹の言ったことをどう受け止めていいか分からないのか。


「姫川さん。口裂け女に親衛隊の人をけしかけたのは何で……?」

「え?」


 ストラップに手を伸ばしかけていた紗希が、瞬いた。一旦手を引っ込めた彼女は、キィ、と少しだけブランコに勢いを付ける。


「けしかけたなんて……。怖かったから一緒に帰るのはお願いしたよ。それだけ。あの人たちが逃げろって言うからそのまま逃げちゃったけど……。まさかストラップを届けてくれようとしてたなんて思わないし……だって口裂け女だよ? 石井君だって見たでしょ?」

「まあ、そうだね。ところで、姫川さんはサッキーって知ってる?」

「……何? 誰?」

「ネットアイドルだって。僕にはあまりピンと来ない分野だけど。そこそこ人気はあるらしくて」

「それと今の話に何の関係があるの?」

「最近、彼女は荒らしに遭ってたらしいんだ」

「大変だね」

「ブログやツブヤイッターに結構ひどいコメントが来てたみたいで」

「……ねえ。さっきからどうしたの? 石井君が何を言いたいのか分からないよ」

「……姫川さんが、荒らしてたんだね」


 ぬるい風が木々を揺らす。

 ギィ。錆びた音が裕樹の耳に届いた。

 紗希が笑う。困ったように。


「何を言ってるのか分からないんだけど……」

「ネットは匿名だけど、完全じゃないんだよ。IPアドレスとか色々あるけど……まあ、他にも優秀な特定班がいてさ。姫川さんのSNSとの整合性も確認した」

「……」


 本来ならこんな短時間で分かるものではないだろう。正当な手続きを踏んだわけでもない。秀に頼まれ調べ出した裕樹だが、秀の膨大な人脈による力も大きかった。厳密には妖怪のネットワークによるものかもしれないけれど。

 ブランコから降りた紗希が、裕樹の目の前に立つ。彼女は裕樹の手からストラップをつまみ上げた。それを握り締め――溜息。


「あーあ。バレないと思ったんだけどなぁ」

「どうしてそんなこと……」

「どうしてって。目立ってたのが面白くなかったからだよ? あんな顔を半分も隠してるような人のどこが可愛いんだか……ちやほやされてバカみたい。でも、そんなのを特定する石井君も悪趣味だね」


 あはは、と紗希は笑った。随分と軽い笑い声だった。

 彼女は肩をすくめてみせる。


「言う? クラスのみんなに」

「そんなつもりじゃ……」

「まあ、言っても信じないよね。石井君と私じゃ、周りの信頼が違うもん」


 もっともだった。クラスとあまり関わりを持っていない自分の話など誰も聞かないだろう。


「ついでに言うと、石井君に最初に話したストーカーね、あれは嘘」

「え」

「秀君に心配してもらおうと思ったんだよね。でも秀君に直接言うなんてあざといじゃない? 石井君、秀君とよく話すようになってたし……石井君は他に友達なんていないじゃない。だから私がストーカーに悩んでるって言えば、石井君、秀君に相談するしかないかなーって」

「それは……」


 その通りだったかもしれない。現に裕樹は、秀に泣きついた。


「それなのに口裂け女なんて出てくるからビックリしちゃった。しかも同一人物かは分からなかったけど、サッキーとかいう女っぽかったし。最初、バレて私に復讐しに来たのかと思っちゃった。懲りて更新もやめたみたいだからすっきりしたけど」

「……姫川さんは、あれを口裂け女だとは思ってないんだ……?」

「いるわけないでしょ? 石井君も秀君も本物っぽい口振りで話してるから、どう反応しようか迷っちゃったよー。まあ、秀君は石井君の話に合わせてあげたのかなって思ってるけど。彼、ノリいいしね」

「いるよ。口裂け女は」


 裕樹の呟きと共に、現れた人影があった。影は二つ。一つは有馬秀のもので、もう一つは――。

 ぎょっと紗希が後ろへ下がる。

 額の真ん中から分けた、黒い髪。薄暗い今でも目立つ赤いコート。顔の半分を覆うほどの大きくて白いマスク。

 一瞬、紗希は秀の傍に駆け寄ることを考えたようだった。秀と口裂け女へ交互に視線を配る。

 しかし、秀は口裂け女より後ろだ。一方でじりじりと口裂け女は距離を詰める。うつむきがちで、重い足取りで。


「な、何よ……」


 紗希の声が震える。


「何なの……」


 紗希の声に苛立ちと怯えが混じる。

 その声に反応したのかは、分からない。

 しかし口裂け女――サッキーは、静かに顔を上げた。長い髪が風にさらわれる。二人の距離はぶつかりそうなほど。

 サッキーがスゥ、と息を吸った。

 真剣な表情で、彼女は言う。


「サインください!」

「「……………………え」」


 ポカンとした声は、裕樹と紗希、同時だった。

 色紙を突き出した状態で、サッキーは顔を赤くしてまくし立てる。


「わ、私、あなたのブログとかも見てて! いつも可愛くて素敵だなって! 憧れてネットアイドル始めたようなところもあって! お、応援してます!」

「……いや、あの、サッキーさん。姫川さんがサッキーさんに嫌がらせしてたわけだけど」

「そ、そうよねっ……そう聞いてたんだけどこうして本人見たら顔ちっちゃいし肌きれいだし目大きいし腰細いし、なんかもうワァーって。ワァーって! どうしよう緊張する!」

「サッキーさんひっひっふー」

「ひ、ひっひっふー!」

「有馬君は何を産ませる気だよ」


 滅茶苦茶だった。そういえば彼女は秀にサインをねだるほどミーハーなのだった。だからって。それにしたって。台無しだ。

 たじろいだ紗希が色紙を叩き落とす。


「な、何よ! ふざけてんの? それとも余裕を見せつけてるつもり? 私なんかとは張り合う必要もないって?」

「そ、そんなこと! 張り合うのも烏滸おこがましいっていうか、勝てる気しないっていうか、なんかもうファンっていうか……!」

「大体どうしてあんたが秀君と一緒にいるのよ! おかしいでしょうが!」

「それはシュウ君が優しいからっ……私一人じゃ不安だろうからってそれで」

「そうやって優しさに付け込んで! か弱いフリなんてしちゃってあざといのよ! あんたなんてぽっと出のくせに生意気なの!」

「あううでもでも」


 言い合いはヒートアップだ。一方的だが。サッキーは涙目でオロオロしているだけだが。見た目は年上のはずなのだが、立派な都市伝説のはずなのだが、威厳というものがまるで見当たらない。


「まあまあ、紗希もサッキーさんも落ち着いて……」

「シュウ坊!」

「ぎゃふ!?」


 止めに入ろうとした秀を遮るものがあった。裕樹の視界を黄金色がよぎる。風に吹かれたなびくそれは、波のようで。

 美しい女性だった。一見派手な金色の髪も、彼女の美しさをもってすれば嫌味にならない。ふさわしいとすら思えた。唐紅にたくさんの大柄の花をあしらった着物がとても目立つ。

 隠しているのか、耳と尻尾は見えない。しかし裕樹も見たことのある、化け狐のようだった。現に――とも言うべきか、秀が叫ぶ。


「コン姉!」

「用事ってのはまだ済まないのかい? シュウ坊が出張ることないじゃないさね」

「今、今ちょうどその用事だから……大事な場面だから……コン姉あんまお胸様を押しつけないでほしーんすケド」

「やぁね。あたしを寂しくさせた罰だから我慢おし」

「理不尽!」


 とんでもない美女に抱き潰され、慌てる秀。珍しい光景な気がした。裕樹はもちろん、紗希とサッキーもポカンと呑まれている。羨ましくなんてない。羨ましくなんて。

 一番に我に返ったのは紗希だった。


「あ、あなた、秀君の何なのよ」


 ぶるぶると震えて放たれた言葉に、美女は顔を向ける。それだけで紗希は一歩後ろへ引いた。ちなみにサッキーも「ひぃ!」と悲鳴を上げた。

 美女は形のいい、艶やかな唇を控えめにたわめてみせた。

 それは、余裕。


「あたしがシュウ坊の何であろうと、お嬢ちゃんに関係があって?」

「……」


 ぐうの音も出ない紗希が、唇を噛みしめる。

 満足気に笑った美女は、秀の頬に口づけた。


「シュウ坊。家で待ってたげるから、早く帰っておいで」

「……あはー」


 秀の笑いにも覇気がない。

 最後にもう一度立派すぎる胸を秀に押しつけ、美女は去っていった。まるで嵐だ。美という暴力だ。圧倒的美貌を振りまき、まき散らし、荒らすだけ荒らして消えていく。

 紗希とサッキーは、呆然と互いに顔を見合わせていた。

 ヒクリ、とサッキーが表情をひきつらせる。気まずい空気を打ち消そうと、彼女はぶんぶんと首を振った。


「さ、紗希ちゃんも負けてはいないよ……! わ、若さ! 若さではアドバンテージがあるもの……!」

「……サッキーもね……性格の良さも得点高いだろうし……」


 がしり。二人が固く握手を交わす。

 裕樹には分からない友情が成立した瞬間のようだった。


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