第29話

 結局昨日、口裂け女から逃げた後、紗希はピアノの稽古を休んだ。裕樹も賛成した。一人で出歩くなど危険でしかない。

 口裂け女は、はっきりと紗希を狙っているようだった。でなければこうも連続でやって来ないだろう。何せ時間帯もルートも違ったのだ。

 教室で見た紗希の顔色は悪かった。眠れていないのかもしれない。当然だ。裕樹でさえ気になってなかなか寝付けなかったのだから。


「姫川さん……大丈夫?」

「うん、ありがとう」


 微笑んだ紗希に、覇気は感じられない。無理に笑っているように見えて仕方ない。


「休んだ方が良かったんじゃ……」

「口裂け女だって言っても信じてもらえないし……あんまりみんなに心配かけたくないもの」

「姫川さん……」

「紗希ちゃんおはよ! 顔色悪いよ大丈夫?」

「姫川、また変な奴に追われたんだって? 大丈夫なのかよ」


 クラスの男女がこぞって割って入ってきた。裕樹ははねのけられる。会話をあっという間に奪われてしまった。紗希もまた笑顔の対応だ。

 裕樹は歯がゆく思う。自分がしてあげられることは、もう何もないのだろうか。こんな自分では――。



「あのさ、昨日のことなんすケド……」

「有馬君んんん!」

「うっわビックリした!」


 秀から声を掛けられた放課後、なりふり構わず裕樹は秀に泣きついた。

 それにしてもこの男は本当になかなか捕まらない。教室を出たら最後だ。あっという間に姿を見失う。笑い声はどこかで聞こえるのに、姿は見当たらないこともあった。人に聞いても「さっきまでいたんだけど」「他の人に呼ばれて行っちゃったよ」という証言ばかりだ。しかもその証言は至るところで得られる。どこにでもいるのに、どこにもいない。それが有馬秀という男だった。

 そんなわけで秀から声を掛けてくれたのは幸いだった。

 どうやら彼も気にかけてくれてはいたらしい。だが周りから色々と話しかけられ、彼自身なかなか裕樹の元へ来ることができなかったのだろう。その証拠とでも言うべきか、廊下から「有馬君~」と呼ぶ声が聞こえ、彼は「ひぇ」と声を漏らした。多忙だ。

 とはいえ、裕樹も彼を大人しく渡してはいられない。


「有馬君、何とかしてよ……! 僕じゃダメだったんだよ、口裂け女が来たけど、アプリじゃどうしても!」

「どうどう。日本語崩壊してっから落ち着こ?」

「……ごめん」

「うはは面白いからいいケド。で、昨日も会ったん? 口裂け女さんに?」


 裕樹はコクリと頷いた。よいせ、と机に座った秀が首を傾げる。


「アプリってあれっしょ? 『妖怪に用かい』」

「うん……有馬君が使ってたやつだよ。口裂け女を撮ったけど……何も変わらなかった」


 秀がワイフォンを操作し、『妖怪に用かい』を見せてくる。裕樹は改めて目を落とした。自分のものと違いがあるようには見えない。


「前も言ったケド。これは善くないモンをちょこっと吸い取ってくれるアプリなんすよ。闇の力でパワーアップじゃじゃーん! ってしたのをダウングレードしてくれるっつーか。だから大体の暴走は一旦落ち着いてくれるはずなんすケドー……」

「でも、変わらなかったんだ」

「だったら可能性は一つじゃね?」

「……何?」


 うーん、と秀は渋った。はっきりしない態度に裕樹は眉根を寄せる。何だというのだろう。


「ま、推測じゃ何言ってもな。しゃーなし。オレもついてくっすよ」

「あれ? 今日、部活は?」

「まあ、しゃーねえっしょ。人命救助優先といきましょ」


 カラリと笑った秀は、ワイフォンで連絡を入れたようだった。祐樹を見る。パチンとウインク。


「主将にどやされたらオレの骨は拾ってねん」


 祐樹は曖昧に頷いた。申し訳なさはあるが、正直なところ、ありがたい。


「それじゃあ姫川さんも呼んで……、あれ?」


 ハタと気づく。教室のどこにも紗希の姿がない。どこに行ってしまったというのか。

 ひょいと机から降りた秀が、すぐ近くにいた女子に声を掛ける。


「なあなあ。紗希の奴どこ行ったか知らね?」

「姫川さん? もう帰ったみたいだけど」

「もう? どんくらい前?」

「十分くらい前かな」

「そっかサンキュー。お礼に飴ちゃんどーぞ。ミックスベリー味あげちゃう」

「あはは。シュウっていつも細々したお菓子持ち歩いてるよね。飴とかキャラメルとかさぁ」

「なんかいつの間にか貰ったり増えたりしてるんだよなー」

「餌付けじゃん」

「うははひでぇ」


 女子とのトークも全く気後れが感じられない。裕樹は改めて彼は自分とは別人種なのだと認識した。

 秀はヒラヒラと手を振って女子に別れを告げた。裕樹にヘラリと笑みを向けてくる。


「あ、祐樹君も飴ちゃんいる?」

「有馬君」


 咎めるような声が出た。裕樹は顔をしかめる。彼はどうも危機感というものが抜け落ちている。いつものことだけれど。


「口裂け女はきっと姫川さんを狙ってるよ。早く追おう」

「んー。待って。そんなら先に口裂け女さんの方を探そうぜ」

「……え?」

「ほら、オレのフォロワーに口裂け女さんいるし」

「え……? え? ええええええ!?」


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