第24話
じんじんと突き刺さる太陽が、今日は珍しく隠れがちだった。
しかし、それでも額からは汗が噴き出る。出るなと思えば思うほどだらだらと汗が流れ、白いワイシャツにシミを作る。
石井裕樹はゴクリと唾を飲み込んだ。
先ほどから止めどないこの汗は、外気温とは別の原因だ。
裕樹はできるだけ首を動かさないよう、細心の注意を払う。そうして、自身の左へ目を向けた。
ニコリ、と笑みが返ってくる。黒目がちな大きな目が、楽しげに細められている。無言でもその目は雄弁で、なぁに、と問うているようだった。
裕樹の隣を歩く女子は、髪色はやや明るい。しかし派手さはなく、自然に馴染んでいる。いつもヘアアレンジが多彩で、今日は編み込みとかいうもののようだった。制服はいつもパリッと清潔感に溢れている。先ほどから吸い込まれそうになる大きな目が、小動物みたいだと評判だ。
――こんな、美少女と、二人きりの下校。
クラスでも浮きがちな、地味だの薄いだの言われ放題の自分が。クラスのアイドルとも囁かれている、姫川紗希と。
親衛隊がいるなどと噂もされているような、あの姫川紗希と、まさかの。
なぜそんな事態になったのか。
裕樹は現実逃避を兼ねて思考をスライドさせた。
パンッ!
窓の外で、両の手に持っていた黒板消しを叩きつける。途端に粉塵が舞い上がる。裕樹は思わず咳き込んだ。
それでももう一度、先ほどより強く叩いてやる。ひっくり返して見た黒板消しも、心なし綺麗になった。ふう、と一息。
「石井君?」
「うわっはぁ!?」
背後からの声に、裕樹の心臓が飛び跳ねた。危うく黒板消しを外に落とすところだ。黒板消しをばくばくと握り締め、恐る恐る振り向く。
相手は紗希だった。聞き取りやすい、通る声で分かっていたけれど。
「ひ、ひ、姫川さん」
「びっくりした。どうしたの?」
「あ、いや、僕、日直で。最後に黒板消しを綺麗にしようと思って」
「クリーナーを使わないで?」
「ストレス発散も兼ねて……」
言ってから、しまった、と思う。事実だが、ありのままに言い過ぎた。ただでさえ暗く思われがちな自分が、ますます根暗なイメージを持たれてしまう。
しかし、紗希は楽しそうに口元に手を当てた。
「石井君って面白いこと言うんだね」
「いや、ははは。姫川さんは、どうしてこの時間に? もう大体みんな帰った……よね」
野球部の声援や吹奏楽部の演奏は聞こえるので、部活の生徒はいるだろう。裕樹も日直の仕事が終われば帰るつもりだった。
教室の中まで入ってきた紗希が、ズレていた机を整える。
「私は先生に頼まれてた仕事があって……」
「え、偉いね!」
「たまたま捕まっちゃっただけだよー」
彼女が笑うと、ほわりと花が舞うようだった。マイナスイオンでも噴き出しているのだろうか。
しかし、気まずい。もっと言うなら居心地が悪い。裕樹はえてして「イケメン」や「美少女」と呼ばれる相手が苦手だ。自分が勝手に自虐的な気持ちになるだけなのだけれど。
「そ、それじゃ僕はこれで……」
「あの、石井君」
「へい!?」
「突然でごめんね。でも、相談があるんだけど……いいかな」
「僕に? 姫川さんが? 僕に?」
「今、頼めるのは石井君しかいなくて」
紗希は困ったように眉を下げる。裕樹は慌てた。自分なんぞが彼女にそんな顔をさせるのは申し訳ない。誰かに責められているわけでもないのだけれど。
ぎこちなく、黒板消しを元の場所に戻す。何となく、滲んだ手の汗をズボンで拭った。
「聞くだけ、なら……とりあえず」
「ありがと。あのね、一緒に帰ってもらってもいいかな」
「……へ?」
あっさり告げられた相談は、思いがけないもので。
「僕と? 姫川さんが? 僕と? 何で?」
「一人で帰るの、心細くて……」
「あ、ああ……でも、まだそんなに暗くはないけど」
「……最近、変な人に付きまとわれてる気がするの」
「それって」
ヒュッと息を飲む。
ストーカー。言い掛けて、口をつぐんだ。
「私もここまで時間かかると思ってなくて。大丈夫だとは思うんだけど、やっぱり少し怖くて……でも、石井君が一緒にいてくれれば、大丈夫かなって……」
裕樹は口をはくはくと動かした。
すぐに頷くことはできなかった。一緒にいたところで自分に何かできるとは思えない。それならもっと適任がきっといる。だが、しかし、この場には確かに自分しかいない。
しばしの沈黙。
紗希が不安そうに笑った。
「……だめ、だよね」
――あんな不安そうにされて、良心が痛まない方がどうかしている。
結局、裕樹は「自分なんかで良ければ」と二人で下校することにしたのだった。
(可愛い子ってのは大変なんだな……)
しみじみと考え、裕樹はちらと紗希に視線を送った。
そう。彼女は可愛い。クラスの中でも周知の事実だ。
顔が小さい。肌が白い。目は大きい。髪はサラサラだ。しかも、なぜだかいい匂いがする。石鹸の匂いだろうか。それにしては少し甘いような。
何より自分のような地味な男にも隔てなく話しかけてくれる。素晴らしすぎないだろうか。それどころか隣を歩く距離も近い。
どうしよう。自分は変な緊張で汗だくだ。臭くないだろうか。顔が熱くなっていないだろうか。女性に免疫がなさすぎるのがバレるのでは――。
こんなとき、彼――
ぐるぐると思考が落ち着かないでいると、ふいに茂みから物音がした。
ビクリ、と裕樹は足を止める。
「あ、猫!」
「……何だ。びっくりした」
「石井君、緊張しすぎだよ」
「そ、そりゃあするよ。僕は護身術もないからね。変質者に襲われたらこの身を捧げるしかできないわけで」
「そこまでしてなんて言ってないよー」
おかしそうに笑った紗希が、屈み込む。彼女は屈託のない笑顔で猫に手を伸ばした。
「おいでー」
「……姫川さん、猫、好きなの?」
「好きだよー。可愛いよね。ほら見て、ストラップも猫なの」
取り出した彼女が見せてくれたのは、ワイフォンにくっついた、小さな黒猫のストラップ。シンプルな作りだが可愛らしい。女子だな、と思う。
紗希はニコニコとワイフォンを掲げた。それを、気持ち良さそうに喉を撫でられている黒猫へ向ける。写真を撮るのだろう。
邪魔にならないように一歩引いた裕樹は、気づいた。数メートル先の電柱に隠れるように、人影がこちらを見ていることに。
女だった。
真夏だというのに、長い、赤いコート。黒々とした髪で顔はよく見えない。代わりに目に焼き付くのは、大きな白いマスク。
ぬるい風が、頬を撫でた。
「石井君……?」
固まっていた裕樹を不思議に思ったらしい紗希が、声を掛けてくる。しかし裕樹は話せなかった。ただただその場に立ち尽くす。
視線を裕樹と同じ方向へ向けた紗希が――短い悲鳴を上げ、
その悲鳴に反応するように、女が顔を上げた。ゆらりと一歩、こちらへ踏み出してくる。
女が笑う。
口元など見えやしないのに、なぜかそう分かった。目、かもしれない。ともかく女は、笑った。確かに。
「私、きれい?」
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