第5話 生殺与奪の「権利」

 今年で50歳になる横川は、そろそろ老人と呼ばれるくらいの年齢に入ってきて、今まで、一度結婚したのだが、うまくいかずに、離婚した。

 当時は、35歳くらいで、

「バツイチくらいは、別に何ともない、却って拍がつく」

 というくらいで、

「新婚旅行から帰ってきて、いきなり離婚する夫婦」

 のことを、当時では、

「成田離婚」

 と呼んでいたが、実際に、成田離婚をした人も知り合いには多いようだった。

 だが、さすがにそこまでのスピード離婚ではなかったが、離婚するまで、3年であったのに対し、交際期間が、5年くらいだったということで、口の悪い連中からは、

「長すぎた春だ」

 と言われたが、自分でも納得で、

「うまいことをいう」

 と言われたほどだった。

「子供がいなかったのは、幸いだったかも知れない」

 ただ、最初の一年間は、付き合っていた頃と変わらないほどの仲睦まじさであったが、「子供がいれば、離婚することもなかったのではないか?」

 と思うと、

「子供、作っておけばよかったかな?」

 とも感じたが、最終的には、

「子供を盾に結婚する」

 という連中が、ほとんど離婚していることを思えば、

「それも無理もないことか」

 と思うのであった。

 だが、さすがに、

「できちゃった婚」

 と言われるものでなかっただけでもよかったということになるだろう。

「作っておけばよかった」

 というのも、たいがいであるが、それ以上に、この、

「できちゃった婚」

 というのはたちが悪い。

「結婚するために、子供を作った」

 というわけではなく。

「できちゃったから、しょうがないので結婚する」

 ということで、

「どっちが悪いのか?」

 ということになると、それこそ、

「五十歩百歩」

 とでもいえばいいのか、

「最底辺のところで、罵りあっている」

 というだけの、情けなさでしかないというわけだ。

 どちらにしても、

「子供を利用している」

 ということに変わりはない。

 できちゃった婚などは、

「責任を取る」

 ということを言っているくせに、その根拠も計画性も何もない状態で言っているのだ。あてになるわけもない。

 そもそも、計画性のある男であれば、女性を妊娠させるようなことをするわけがない。

 その時の行き当たりばったりということでしか結果というものを見ることのできない男に、

「何ができるというのか?」

 ということである。

「その男にとっての、責任というのが何なのか?」

 相手の親から、ぶん殴られても、まだ足りないことであろう。


 もし、ぶん殴られても、

「何が起こったんだ」

 としか思わない、そんなバカな男でしかないのだろう。

「人間は生まれながらに平等だ」

 ということは、そう考えると、

「詭弁でしかない」

 ということだ。

 それこそ、

「底辺の苦しみを知らない人が、あたかも、底辺がかわいそうだ」

 ということで、ただ、同情しているだけではないか?

 そもそも、あの言葉を言ったのは、福沢諭吉ではないか、

 福沢諭吉というのが、

「聖人君子で、お釈迦様のような人間で、人類すべての人を救うことができる人なのだとすれば、いいのである」

 が、口ではそういっているが、

「戦争を擁護したり」

 革命家である、

「孫文に援助したり」

 ということで、革命を支援するということは、一種の内政干渉でもあるし、内乱で被害を受けるのは、非戦闘員ではないか?

 それを考えると、

「本当に、人の上に人を作らずなどという言葉の真意が、どこにあるのか?」

 ということを考えさせられるのであった。

 ただ、彼が著したこの本というのは、その名前を、

「学問ノススメ」

 というではないか。

 これは、人間生活全般のことを言っているわけではなく、あくまでも、

「学問上」

 のことを言っているのだろう。

 福沢諭吉だって、

「人間が生まれながらに平等なわけはない」

 ということくらいは分かっているだろう。

 ただ、一つ、学問を勉強して、高みを目指すことはできる。そういう意味で、

「勉強をするのに、平等を解いた」

 ということではないだろうか?

 あの時代は、まだまだ学校に行ける人の数も限られていた。

 まだまだ、身分制度の名残が残っている時代だった。諭吉が同じ目線で見ている人たちは、一部の人間であることは当たり前のことである。

 だから、まさかとは思うが、真剣に、

「人の上に人を作らず」

 と言った言葉を、

「すべての人間にいえることだ」

 と思っている人はいないだろう。

 せめて、

「人の上に人を作らず」

 と言った言葉に、疑問を抱いている人はいるだろう。

「その人たちがどれだけ、その理屈に近づくことができるのか?」

 それこそが学問というものであり、それが、

「交わることのない平行線である」

 ということを、ウスウス感じながらも、それでも、見えてくる答えを探そうと思っている人間こそが、

「学問を志している人たち」

 ということで、

「諭吉からつながる学者たちだ」

 といってもいいのではないだろうか?

「学問というものが、いかに大切なことであるか?」

 ということを誰が分かっているのか。

「国民の三大義務である教育というものは、学問を受ける義務ではなく、学問を受けさせる義務なのだ」

 ということだ、学問を受けるというのは、

「権利だ」

 ということになるだろう。

「権利と義務」

 それぞれに正反対のものだ。

 これは、

「受けるものと与えるもの」

 という意味もある、

「受ける」

 という言葉を、

「奪う」

 と解釈すると、

「与える、奪う」

 というのは、それぞれに、

「義務、権利」

 だと言ってもいいだろう。

 だから、

「生殺与奪」

 というものは、それぞれに、

「生きるということを与える」

 というのは、義務ということであり、

「殺すということで、命を奪うというのは、権利だ」

 といってもいい。

 だから、本来であれば、

「生殺与奪」

 という言葉を一つにしてしまうのは、考え方としておかしいのであり、問題は、

「命を奪う」

 つまり、

「人を殺すことを権利」

 ということになるのだろう。

 ただ、この言葉は、本当に、

「人の命のやり取りまでを権利とした」

 というわけではなく、

 誰かの人生に対して、その決定権を大きな影響力によって、ある程度掌握しているということをいうのだという。

 つまり、

「これから送る、その人の人生に、大きな影響を持っているので、その人の意志とは関係なく、その人の人生を決めることのできる存在という人が持っている。その人に対しての権利」

 というものが、

「生殺与奪の権利」

 ということになるのだというのだ。

「本当の生命のやり取り」

 というものに対して、大きな影響力を持っているというわけではないのだろうが、奴隷などのように、

「一般人としての、人権のない」

 と思われていた人間に対し、その国の支配者であったり、国家元首などのような、

「絶対的な権力を持った人間」

 によって、裁判を経ることがなく、その人物の判断で、死刑に処したりする場合のことをいう。

 つまり、当時のその国家にとっての奴隷には、

「人権」

 というものが通用しなかったということなのか、それとも、

「国家権力というものが、奴隷に対しては、法律よりも、強いものだった」

 ということになるのだろうか?

「生殺与奪の権利」

 というのは、

「そういう影響力のことである」

 といえるもので、

 いわゆる、

「暴君」

 と呼ばれた人はたくさんいたようだが、中には、

「皇帝ネロ」

 などが、いわゆる、

「暴君」

 として、名をの推しているが、彼は、一種の粛清のようなことをやったようだ。

「波乱に満ちた一生であった」

 といっていいのだろうが、それこそ、彼の人生には、

「生殺与奪の権利」

 が付きまとっていたといってもいいだろう。

 しかし、そんな

「生殺与奪の権利」

 というものは、

「誰か一人が有しているから、問題だ」

 ということではないだろうか、

「人の人生に大きく影響を与える」

 ということであれば、戦争と呼ばれる、

「有事」

 というものは、それこそ、

「生殺与奪の権利」

 というものを有しているといってもいいのではないだろうか?

「大日本帝国」

 などでは、

「国民のことを、臣民と呼んでいる」

 ということであったが、この臣民というのは、

「国家にとって、平時の場合は、法律に則った、権利義務が、与えられているのでだが、それが、有事となると、国民は、国家の行う戦争のために、その権利の一部をはく奪される」

 ということが、やむを得ないということになるのだった。

 例えば、

「赤紙」

 というものもそうであろう、

 いわゆる、

「召集令状」

 というもので、

「兵役」

 というわけではなく、国家にとって、

「兵員が足りない」

 ということで、臨時徴用されるということであった。

 また、戦時体制ということで、

「国家総動員法」

 というものが発せられると、家庭の金属なども、その対象となり、

「戦争に必要なものであれば、廃品でなくとも、回収の対象として、国家に提供するものである」

 とする、

「金属類回収令」

 というものがあった。

 要するに、

「武器を作るのに、資源が足りない」

 ということで、金属類を多く家庭などに求めたのだ。

 中には、

「罰当たり」

 といえるものもあり、

「神社仏閣」

 というものにある金属も例外ではなあった。

「釣鐘」

 であったり、

「金属製の大仏」

 というのも、供出の対象であり、

「鋳つぶされて、兵器にされてしまったものも少なくなかった」

 ということであった。

 日常生活に影響おW与えるというだけではなく、

「戦争突入」

 ということで、政府には、これこそ、いかにも、

「生殺与奪の権利」

 といえるものがあった、

 いわゆる、

「戦陣訓」

 などというものが、それではなかっただろうか。

「虜囚の辱めを受けず」

 ということが叫ばれ、

「戦いに敗れたならば、相手に対して辱めを受けることなく、その場で、命を断て」

 ということで、

「青酸カリ」

 などの毒薬や、

「戦場となった場所において、戦況が圧倒的に不利になると、少しでも、敵兵を巻き込んで死ねとでも言わんばかりに、手りゅう弾というものが渡された」

 ということであった。

 アメリカ兵が、捕虜勧告をしようと、下手に取り囲まれた女子供に近寄ろうなどとすると、

「相手は、自分たちをまきこんで、そのまま自爆してしまう」

 ということで、

「うかつには近寄れない」

 のであって、

 しょうがなく、捕虜にしようとすれば、こっちの命が危ないということで、射殺もやむを得ないということも、現地ではあったことだろう。

 その組織的な行動が、

「玉砕」

 というものである。

 なるべく、最後まで耐えに耐えて戦闘を行っていた、兵であったり、非戦闘員も、追い詰められて、

「もう、組織的な作戦も立てられない」

 という状態になった時、

「玉砕」

 という形の捨て身の戦いを挑むことになる。

 これは、それこそ、

「死にに行く戦い」

 ということで、

「捕虜になるくらいなら」

 という考えの下、戦闘に参加している。

 といってもいいだろう。

 確かに、大日本帝国では、戦争突入後、

「鬼畜米英」

 ということで、

「捕虜になると、何をされるか分からない」

 ということを言われていた。

 さらに、当時の戦闘は、米英戦の前、3,4年に渡る、中華民国との間に、

「宣戦布告」

 のないまま続いていた、

「シナ事変」

 というものが、その発端における、

「通州事件」

 というものに代表される、

「日本人に対する、居留民といわれる非戦闘員に対しての、大虐殺」

 などが行われていた。

 それを知っているだけに、

「捕虜となれば、間違いなく、虐殺される運命が待っている」

 ということになるので、そんな思いをするくらいなら、その場で、潔く死を選ぶというのも、ある意味当たり前のことだといえるだろう。

 それだけ、

「有事」

 というものが、

「簡単にはいかない」

 という精神状態をもたらすといってもいいだろう。

 それだけ、世界情勢は異常だったということであり、特に、欧米列強は、アジアを植民地化して、

「大いにアジアを搾取していた」

 といってもいい。

 そんな欧米列強から、アジアを解放し、アジアに対して、日本が中心になって、その後の、

「新秩序」

 を作り出すという、

「大東亜共栄圏建設」

 という大義名分が、あった戦争で、

「大東亜戦争」

 というのは、そういう意味を込めてつけられた、

「閣議決定」

 による命名であった。

 それを、

「勝者の裁判」

 として、戦争犯罪人を裁くうえで、この名前や大義名分は邪魔だった。

 ただでさえ、

「勝者のよる裁判」

 という、

「公平性を著しく欠いた裁判なのだから、当然神経質になるのも当たり前だ」

 そういう意味で、本来であれば、

「通常戦争に対しての罪」

 というのと、

「平和に対しての罪」

 というものは、普通にあり得るのだが、

「人道に対する罪」

 という項目もあった。

 これは、ナチスドイツを裁くという意味での、

「ニュルンベルク裁判」

 というものを、日本における、

「極東国際軍事裁判」

 にも適用させるというものであったが、結局は、

「人道に対する罪」

 というもので裁かれる人はいなかったのだ。

 もし、それを裁いてしまうと、

「日本の掲げた、大東亜共栄圏」

 に抵触することが分かっていたからではないだろうか?

 元々は、ドイツの、

「ホロコースト」

 などと言った、一定の民族への迫害、虐殺を裁くためのものだったのだ。

 日本においても、

「731部隊」

 と呼ばれる、

「非人道的」

 と言われた部隊の証拠が残っていれば、罪に問うことができるのだが、実際には、

「敗戦時までに、すべての証拠を抹殺した」

 ということで、裁くとこはできない。

 一説には、

「アメリカが接収した」

 という話もあるが、どこまで本当なのか、こちらも証拠がないので、何ともいえない。

 ただ実際に、

「731部隊」

 にかかわった人が、裁判にかけられたという事実はない。

 つまり、

「戦時中の噂」

 というとことでしか、語られていないということであった。

 それを思うと、

「大日本帝国」

 に対しての恨みを持っている国は多いだろうが。それも、当時の世界情勢からすれば、

「仕方のないこと」

 であり、敗戦ということになった時点で、その言い訳が利かなくなったということなのであろう。

「やむを得ない部分があった」

 とはいえ、

「大日本帝国」

 が行った、

「国家総動員法」

 というものを可決させ、有無も言わさず、

「国民を戦争に引きずり込んだ」

 ということは、

「罪に値する」

 といえるだろう。

 だが、戦争に突入しなければ、今度は日本が、欧米列強から、植民地化されることになり、

「まるで、開国当時の不平等条約」

 いや、それよりももっとひどい状況での、条約を結ばされるということになり、

「時代が、約100年逆戻りし、それまでの努力が、無に帰してしまう」

 ということとなり、

「大日本帝国」

 ではなくなってしまうということを、黙って見ているというわけにはいくわけはないだろう。

 それを考えると、

「大東亜戦争」

 というものは、必要不可欠なものだったということになるのであった。

「敗戦はあくまで、結果」

 といってもいいのだろうが、どうしても、

「米英を相手に戦うなど、無謀」

 と今では言われている。

 しかし、明治時代の、

「ロシアに対しての、日露戦争」

 に対しては、

「無謀だった」

 という人間は誰もいないだろう。

 それは、

「敗戦しなかった」

 ということが大きなことであり、しかも、北欧の国の、

「対ロシア」

 を意識しなければいけない国からすれば、

「勇気を与えられた」

 ということで、賞賛に値するものだったのだ。

 日本人はそれを誇りに思い、ひょっとすると、

「米英戦でも、勝てるのではないか?」

 と思ったことだろう。

 しかし、実際には、その考えが甘かったことは分かり切っていることであり、

「日露戦争の時には、日英同盟というものがあり、外交により、強力な味方を得ることができた」

 ということであったが、

「大東亜戦争においては、基本的に、日本は孤立してしまったことで、戦争をせざるを得ない状況になったのだから、日本の興亡という意味では、日本に勝ち目はなかったということは、あとから見たことであり、突入しなければ、いけない状況だったというのは、しょうがないことだった」

 ということである。

 しかし、

「何とか外交で、戦争回避を」

 と考えていたのも、

「米英戦を無謀な戦争だ」

 ということが分かっていたからであり、本当であれば、

「いずれはやってくるであろう、対米戦に対して、万全の備えをしておく」

 ということは考えての、大陸進出だったのだろうが、

「世界情勢がそれを許さなかった」

 ということであろうか、それとも、

「日本が、孤立の道を選んだことが間違いだったのか?」

 ということになるだろう、

 確かに、

「満州事変」

 というのは、

「自作自演だった」

 ということなのかも知れないが、

「日本の事情」

 としては、やむを得ないことであった。

 それは、

「ソ連に対して、満州は、日本の生命線」

 と呼ばれていたことも、その理由であるが、それよりも、大きかったのが、

「日本における食糧問題」

 ということであった

「日本民族の人口が増えすぎた」

 ということ、さらに、

「東北地方の不作」

 あるいは、昭和恐慌などの、経済不安から、

「農民は、娘を売らないと、食事ができない」

 というくらいにまで追い詰められていた。

 その問題を解決するために、新しい土地を得ることで、そこに、日本から送り込み、

「日本の人口を少しでも、満州に開拓者として送り込める」

 ということであり、り、さらには、

「満州」

 という国土に、

「王道楽土」

 というものを求めた。

 さらに、

「日本人、朝鮮人、漢民族、満州民族、蒙古民族」

 という、いわゆる、

「五族」

 というものを、

「共存する」

 ということで、

「五族共存」

 というスローガンもあることで、

「新たな国家の礎になる」

 といって、どうせ日本にいても、ただの食いぶちとしての立場でしかない。

「農家の次男、三男」

 が満州に移民し、そこで新たな自分の存在を表すという夢をもって、たくさんの人が満州に渡ったのである。

 しかし、

「聞くと見る」

 とでは多いな差があったようで、

「満州という国では、ほとんど農地として活用できるわけでもなく、さらには、取れる資源も、南方のものと違い、かなり劣化しているものだ」

 ということであった。

 戦後、日本に帰った人が、北海道の土地に開拓民として渡ったということであるが、これが、まるで、

「満州に夢をもって渡った時と同じ」

 ということであったが、今回は、騙されたわけではなく、ほぼ強制的だったといってもいい。

 何しろ、戻ってくるはずのない人たちだという計算が、政府にはあったからで、北海道の開拓という話も、

「ただの欺瞞でしかない」

 ということであった。


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