第3話 代理戦争

 まだソ連が現存していた頃、前述のような、

「東西冷戦」

 という時代があった。

 その間に、

「代理戦争」

 と呼ばれるものがあったのだが、これはどう解釈すればいいのか、少し難しいところである。

 東西冷戦において、一番の問題となっていたのが、

「核開発競争」

 であった。

 核兵器を持っているということで、第二次大戦が終了してから、

「これで、戦争は不可能」

 となった。

 とまで言われた。

 最初は、アメリカしか、核兵器を持っていなかったので、もちろん、使うということはないだろうが、

「核の保有」

 によって、その地位を、明らかに優位にしていたのだ。

 しかし、そのうちに、しかも、思っていたよりも早く、ソ連が核兵器を持つことができるようになった。アメリカによる、

「核の優位性」

 というものは失われたが、ソ連が核保有国になるということで、

「核の抑止力」

 というものが働いているということになるのだった。

 核一発で、兵器の威力は、その時代でも、

「一一つの大都市を廃墟にできる」

 というものであった。

「ヒロシマ」

「ナガサキ」

 が、その例である。

 しかも、あとから、

「放射能の本当の恐ろしさ」

 というものが分かってくると、最初の破壊力だけではなく、

「死の灰」

 あるいは、

「黒い雨」

 と呼ばれるもので、

「人が住めなくなる」

 ということになるのだ。

「実際に核開発が続き、核保有国の所持している核爆弾を分かっているだけでも、数えると、1万発は、ゆうにある」

 ということである。

 それを考えると、

「すべての核爆発が起これば、地球規模の星が、いったいいくつ消えてなくなるだろう?」

 というほどではないだろうか?

 さらに放射能の恐怖もある。

 もっとも、

「地球外生物」

 というものがいるとすれば、

「放射能など、ものともしない」

 という生物であったり、逆に、

「放射能をエネルギーとする生物」

 ということになるかも知れない。何しろ、真空状態で、相手は生きているということだからである。

 そういえば、以前読んだマンガの中で、中学時代に流行ったのだったが、大人になっても、次世代の人にファンがいて、よく読まれている本があったのだが、そのマンガの途中の話に、

「代理戦争」

 の話があった、

 これは、大人になって考えた時、

「子供時代には、その本当の面白さを分かっていなかったのではないか?」

 と感じた。

 その証拠に大人になってから見た時。

「こんな話だったっけ?」

 と感じるのだ。

 しかし、そう感じたからといって、違和感があったり、不可思議な気持ちになったりしたわけではない、

 どちらかというと、

「子供の頃は、理解しようとして見ていた」

 と思っているが、実は、

「自分には理解できない」

 という思いが強く、それを認めたくないという思いが、そうさせているのではないか?

 と考えられるからではないだろうか?

 だから、大人になると、

「理解できて当たり前だ」

 と感じることが、無意識に自分を理解させようという思いを誘発し、無理なく、考えることができるようになっていることに気づかされる。

 それが、

「大人と子供の発想の違い」

 であって、それがいい悪いということではなく、

「自然に感じることができるようになるのが、

「大人になった証拠だ」

 といえるのではないだろうか?

 そのマンガでは、それぞれの戦争をしている星は、実は、

「自分たちがなぜ戦争をしているのか?」

 ということが分かっていない。

 彼らは、文明的には、

「後進星」

 であって、

「先進星」

 というものが、自分たちの派閥を作り、その頂点に立っているのだが、そのうちに、それだけでは満足できなくなり、

「宇宙の中心でなければ、我慢ができない」

 ということになるのだ。

 だから、

「宇宙船に乗っていても、下手をすれば、自分たちがどこにいるのか分からない場合もある。

 何しろ、

「先進星: 

 にとっては、はるか昔の文明であり、彼らからすれば、

「自分たちが生まれるはるか前の想像もつかないような世界」

 といってもいいだろう。

 それは、

「先進星」

 が、過去に思いを馳せる場合と、逆に、

「後進星」

 というものが、未来にがせている思いを感じさせるのであった。

 自分たちの未来や過去は、あくまでも

「母性の中でのこと」

 であり、宇宙空間の知らない世界では、どう解釈すればいいのか、そのすべてをうのみにするというのもおかしいだろう。

 これは地球上であれば、

「平面的に考えるかも知れない」

 といえるが、これが宇宙空間になれば、立体のみならず。時間の概念すら捻じ曲げて考えてしまうことになるだろう。

 当時、宇宙戦争という発想は、結構、SF小説では多かった。

 特に映画の話に多かったのだが、その話には、エピソードが多く。

「最初に映画化されたのが、そのエピソードの3つ目くらいの話」

 だったりしたのだ。

 だから、映画の最初の数分くらい、つまりは、プロローグのあたりで、

「宇宙戦争が始まった経緯を、文字であったり、ナレーションで、話したりしていた」

 ということであった。

 ただ、これは、

「歴史の話」

 であったとすれば、当たり前のことであり、この話のように、

「二つの国が争っている」

 ということが、戦争ということになるということになるのであれば、

「戦争が始まってから、数百年が経つ」

 ということだってあるだろう。

 その間に、国家元首がなくなり、それでも、戦争が終わらない。

 特に、それぞれの国が、地球でいうところの、

「王国」

 あるいは、

「帝国」

 などといわれる、一種の、

「専制君主」

 の星であったとすれば、その政治体制は、

「世襲制だ」

 といってもいいだろう。

 つまりは、

「皇帝が死んでも、その子供が後を継ぐ」

 ということになれば、

「基本的には、親の政治をそのまま引き継ぐ」

 ということになり、

「子供に時代が変わった」

 と言っても、革命的に考えが変わらなければ、戦争が収まるということはない。

 それを考えると、

「エピソードがいくつもあるという、数百年にわたって、戦争が行われるということもありだろう」

 といえる。

 しかも、

「宇宙人」

 という地球外生命体の基本は、あくまでも、

「地球人よりも、文明が発達した連中だ」

 といってもいいだろう。

 なんといっても、

「地球人は、まだ、火星にまでしか行ったことがない人種で、他の星に地球外生命体があることすら知らない」

 ということだ。

 この話の地球外生物は、少なくとも、

「他の星の同じような生命体を知っていて、そこと、戦争をしているのだ」

 戦争をするからには、それなりの大義名分があり、地球でいうところの、

「宣戦布告」

 というものが、宇宙間戦争において、必要なのかどうか分からないが、それぞれに、大義名分があることだろう。

 地球上での戦争であれば、

「宣戦布告というものがなぜ必要なのか?」

 というと、一番の理由としては、

「第三国に対して、宣戦を布告することで、その立場を明確にさせるためだ」

 ということである。

 つまりは、

「どちらかの国に加担する」

 という場合と、

「中立を宣言する」

 ということである。

 つまりは、

「同盟などを組んでいて。A国との関係性において、どちらかの国が戦争を起こせば、相手国に一緒になって戦争を起こす」

 というようなことである。

 それ以外でも、

「友好国」

 ということで、宣戦までは布告しないが、

「資金援助」

 であったり、

「武器の供与」

 などということが行われるということである。

 しかし、この場合は、宣戦布告は明記していないが、あからさまに、

「B国に対して、あからさまに敵対した」

 ということで、B国から、

「A国へ向かう武器などを乗せた船を検閲したり、相手が抵抗すれば、攻撃を加えるなどの、戦闘行為」

 にもなりかねない。

 つまりは、

「中立であったり、自国に味方をしない国は、すべて敵国のみなす」

 ということが、国際法上では認められている。

 このことは、

「宇宙間戦争」

 においても、いえることではないだろうか。

 だから、

「宣戦布告」

 というのは、重要な意味を持つのである。

「宣戦布告」

 をするということは、

「他の国に、自分たちが戦闘状態である」

 ということを宣言し、その立場を明確にしなければ、敵

「とみなされ、攻撃されないとも限らない」

 ということである。

 逆に、

「宣戦布告」

 というものがない状態で、戦争状態に陥る国もあった。

 というのは、

「宣戦布告をしてしまうと、まずいという状況に陥ることが考えられるからであった」

 例えば、

「A国と、B国が戦争状態にあり、戦争状態になるまでは、?国という国の存在」

 というのが、

「それぞれの国に、武器援助であったり、政治的な同盟に近いような関係だったりするところがある」

 という場合であった。

「?国は、A国にとっても、B国にとっても、お互いに、重要な存在である」

 ということが大前提だとすると、

「お互いに宣戦布告をしてしまうと、それぞれ、困ることになる」

 というのが分かっている場合である。

 というのは、

「どちらの戦闘国にとっても、?国に、中立になられては困る」

 ということからであった。

「A国としては、政治的な同盟国であり、戦争を始めたとして、今度は終わらせる時に、こちらに優位な立場であってほしい」

 と思っているということ。

 さらには、

「B国としては、普段から、武器の供与や、経済支援などをしてくれるのが、?国だ」

 ということになると、お互いの国にとって、

「宣戦布告をすると、?国はその立場上から、中立な立場になる」

 ということが分かっているからである。

 そうなると、どちらの国も大きな痛手であり、お互いに、

「宣戦布告をしてしまうと、不利だ」

 ということが分かり切っている場合には、

「宣戦布告なき、戦争」

 というのがある場合もあるのだ。

「一応、お互いに宣戦布告は必要だ」

 ということに、国際法ではなっているが、その理由が、

「第三国の立場を明確にする」

 ということからであった。

 だから、

「宣戦布告なき戦争状態」

 というのは、国際法では、

「戦争ではない」

 ということで、いろいろな、

「戦時下における法律」

 というのも定められているが、それらは、すべて、

「通用しない」

 ということになる。

 だから、

「戦闘相手の国に対して、援助している国の船を検閲したり、攻撃することは許されず、見逃すしかない」

 ということになるのだが、

「そんな状態になったとしても、それでも、?国の援助が、お互いに必要だ」

 ということになるのだろう。

 そういう意味で、

「宣戦布告なき、戦闘状態」

 というは、一歩間違えれば、

「世界から孤立してしまう」

 ということになりかねない。

 それだけ、

「戦争というのは、簡単に判断できるものではない」

 といえるのだ。

 そんな、

「地球上での法律が、宇宙で通用するか?」

 ということなのだろうが、正直、

「通用はしないだろう」

 ということであり、それは、

「それぞれの細かいことは、違うのだろうが、大まかなところでは。戦争という意味で、違っていてはいけない」

 といえるのではないだろうが、

 地球上の今までの戦争が、宇宙に適用されて考えることができるかどうか難しいが、とにかく、この話は、

「地球人が、宇宙に思いを馳せて書いた、フィクション」

 ということである。

 しょせん、発想としては、

「地球上における慣習というものの、域を出ない」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、

「宇宙というものを、地球上の慣習というものに、当てはめて考える」

 という、

「地球人のおこがましさ」

 というものから生まれたのが、

「この宇宙間戦争の話だ」

 といってもいいだろう。

「中立」

 ということで、

「第三国が、戦争に巻き込まれない」

 というのも、当然のことであるが、逆の場合というのもある。

 というのは、

「第三国で、それぞれの国に、それぞれの立場で影響をおよぼしている国が、それぞれに大きな力を持っているだけでなく、世界の存亡すら、影響を与えかねないような、超大国であれば、宣戦布告によって、立場を明確にしておかなければ、戦争をしている当事国だけではなく、他の国まで、それぞれに恐怖を感じながら、外交をしなければいけない」

 という、

「一触即発」

 という星間での交渉であったり、問題であったりが、

「?国が絡むことによって、2国間の戦争が、一歩間違えれば、宇宙大戦争ということになりかねない」

 という場合があるからであった。

 これは、地球上でもあったことだった。

 特に、

20世紀と呼ばれる時代における戦争」

 というのは、その前半は、2回にわたる、

「世界大戦」

 の時代であった。

 この戦争は、

「ヨーロッパのほとんどの国を巻き込む形で行われたものだった」

 というもので、

 特に最初の世界大戦では、まわりの国との間に、

「どちらかの国がどこかの国と戦争状態になれば、自分たちも、同盟国の立場に立って、戦う」

 ということであった。

 これは、

「重複して同じ時期に結べない」

 という条約ということでもあった。

 なぜなら、複数の国と同盟を結んだとして、そのそれぞれの国が敵対すれば、

「どっちの側につくか?」

 ということである。

 中立を保たない限り、必ず、

「どちらかの国を裏切る」

 ということになるのだ。

 だからといって、中立を宣言すると、今度は、

「どちらに対しても、同盟国としての、約束をたがえることになるわけで、それであれば、そもそもの同盟など、あってないようなものとなる」

 ということである。

 だから、一つの国家間戦争に、同盟国が参加してくると、一気に世界大戦というものに発展することは当たり前のことだった。

 といえるだろう。

 しかも、この時代は、戦争における兵器の開発が進んだ時代で、それこそ、

「大量殺戮の時代」

 と言われた頃であり、

「戦争において、相手を殲滅しないと、こちらも殲滅されてしまう」

 ということになり、

「戦争で、被害をなるべく少なくするには、戦争を早く終わらせるしかない」

 という理屈である。

「戦争を早く終わらせるためには、相手国を完膚なきまでにやっつける」

 ということになるのだ。

 そのためには、

「自国の被害をいかに少なく、相手を殲滅させられるか?」

 ということを考えると、

「一気に勝負を決するための、大量殺りく兵器というものが、必要なのだ」

 ということであった。

 そのために、第一次大戦では、

「航空機」

「戦車」

「潜水艦」

 などという、乗り物兵器の開発に加え、

「毒ガス」

 という悪魔の兵器が開発されたりしたのだ。

 何とか、それでも、最初の世界大戦が終了し、その後で、ちょうど、20年というくらいしか経っていない時代に、今度は、さらなる世界大戦が起こった。

 これは、

「起こるべくして起こった戦争」

 といってもいい、

 最初の世界大戦で、

「敗戦国」

 として、世界から、さらし者となり、さらには、国家としては、死にたいとなり、

「返済できるはずのない額の賠償金を求められたことで、その反発から生まれた、ファシズムという、強力な独裁国家による。他国への領土を求めて、侵略戦争が起こった」

 というわけで、

「侵略を受けた国」

 というのは、特に戦勝国であれば、

「自業自得」

 といっていいのか、

「因果応報」

 ということなのか、

「それぞれの国としては、あっという間に攻め落とされ、ヨーロッパを、巨大ファシズム帝国」

 というものが起こりつつあったのは、事実だった。

 元々、

「敗戦国」

 とはいえ、確かに、

「二度と戦争を起こさない」

 という意味で、武器も領土も、金も取り上げることで、再軍備や、他の国に逆らえない状態にしようとしたのだろうが、

「一つの国家を、そんな簡単に押さえつけることなど、できるわけはない」

 ということになることは、この時証明されたといってもいいだろう。

 次の世界大戦では、さらなる犠牲が大きくなった。

 というのは、

 最初の世界大戦というと、完全に、ヨーロッパに限られていたが、今度は、

「アジア、太平洋。米国」

 までもが、その戦闘の範囲内だったといってもいいだろう。

 そんな戦争が、あちこちで起こっていて、

「そもそも、日本は、回してはいけない国を敵に回し、最初から、亡国の道を歩み続けていた」

 というのが、実情だったのだ。

 世界大戦というものが、最後にたどり着いたものが、

「原爆投下」

 という、その後の戦争を占うという形での終わり方だった。

 アメリカとすれば、すでに起こっている、

「東西冷戦」

 というものが、

「戦後処理」

 と同様に、懸念されることであり、

「戦勝ムードに湧く」

 などという、そんな生易しいものではなかったのだ。

 つまりは、

「一つの共通の敵にために、一時期だけ、手を組むということになった」

 ということであり、

「共通の敵がなくなったという時点で、その二つは、敵対することになる」

 ということであった。

 つまりは、

「一度踏み入れてしまえば、抜け出すことのできない泥沼に、すでに入り込んでしまっている」

 ということになるのだった。

 それが、

「アメリカを中心とした民主国家陣営」

 さらに、

「ソ連を中心とした社会主義陣営」

 の二つの体制が、それぞれにらみを利かせているというわけである。

 その抑制としての象徴が、

「核の抑止力」

 というものであったのだ。

 それがあることで、

「世界から、戦争はなくなった」

 というセリフが出てくるくらいになった。

 だが、これは、

「恒久平和がもたらされた」

 ということで、

「よかった」

 とは、手放しに言えることではなかった。

 というのが、それが

「核の抑止力」

 というもので、

「核戦争というものが起こり、お互いにミサイルを打ち合えば、それがm戦争当事国だけではなく、地球上で、人が生活ができなくなる」

 ということを、放射能が証明しているということになるのだった。

 確かに、

「核の抑止力」

 というものは、

「正常な状況判断」

 であれば、なんでもないことだ。

 しかし、もし、国家元首に、かつての、ヒトラーや、スターリンのような独裁者がいて、その精神状態によって、

「核のボタンを押しかねない」

 といえるのではないだろうか。

 確かに、国家元首の持っているボタンだけでは、その実行はできないかも知れないが、

「その国家元首というものが、本当の独裁者で、まわりに対しての恐怖政治で、核ボタンを押さなければ、自分が殺されるという究極の選択を迫られると?」

 ということを想像すると、

「核の抑止力」

 というものが、実に薄越辺ライオブラートの下に作られた、

「張りぼての平和」

 であるということが分かるというものだ。

 戦争において、

「戦争であっても、国際法というものがあり、それに伴った戦争でなければならない」

 ということであるが、今までの戦争と国際法の関係は、

「後付けといってもいい、法律」

 というのが、

「戦時国際法」

 というものなのかも知れない。

「かつての戦争を繰り返してはならない」

 ということで国際法がどんどん整備されていくことになるのだが、それはあくまでも、

「一度起こったことを繰り返さない」

 ということに尽きるのであって、

「そう簡単に、次の戦争を予期できるなどということはありえないだろう」

 ということであった。

 それを考えると。

「戦争というものが、この世からなくならないという理由が分かったのではないか」

 といえるのではないだろうか?

 戦争というものが、国際社会において、どういうことになるかと考えると、

「あってはいけないことではあるが、そう簡単になくなるものではない」

 ともいえるだろう、

 それを考えると、

「世界平和の代償」

 という意味で、

「戦争とは、一種の必要悪」

 というものではないだろうか?

 という考え方もあったりする。

 そんな、

「東西冷戦」

 と呼ばれた時代に、巻き起こったのが、

「代理戦争」

 というものであった。

 代理戦争という表現が適切なのかどうかは、なんともいえないところであったが、

「もう、戦争は不可能になった」

 という、

「第二次大戦後」

 に言われた言葉の意味は、あくまでも、

「核の抑止力」

 というものが影響し、

「戦争を行えば、あとは、破滅の道しか残っていない」

 という漠然とした思いからであっ。

 実際に、戦争をすることで、

「核兵器は使えない」

 ということになるので、

「核兵器を使わない戦争」

 ということが考えられるようになった。

 そもそも、それまでの戦争は、

「地域紛争」

 であったり、

「民族問題」

 などから、戦争状態になっていったのだ。

 しかも、そこん、同盟関係というものがあることっで、

「こじんまりとした紛争が、いつの間にか、世界大戦になっていた」

 ということになるので、今度は逆に、世界大戦もならないうようにするには、

「こじんまりとした紛争に対して、不拡大政策を取ればいい」

 ということになるのだ。

 特に。

「核保有国」

 が、なるべく戦闘に参加しないということが大前提となり、

「世界大戦になるのを抑えるには、後ろに、超大国が控えている」

 ということで、けん制し、相手にも、

「もう戦争はできなくなった」

 ということで、超大国の関与を表向きにしないというやり方が、主流になってきた。

 だから、一見。

「相手陣営を代表して戦争を行っている」

 ということで、便宜上の表現であろうが、それを、

「代理戦争」

 という形の言葉で表現されるということであった。

 だから、

「代理戦争」

 という表現がいいのか悪いのか、それが問題ではあるが、結果として。

「陣営を代表として戦争をする」

 ということで、とりあえずの表現としてはいいのではないだろうか?

 それを考えると、

「代表戦争」

 といってもいいくらいかも知れないが、代表というと、

「バックに大将が控えていて。最後に大将戦が控えている」

 ということになり、

 それは表現上もまずいだろう。

 かつての、世界大戦では、

「代表戦」

 というような考え方があった。

 当時の石原莞爾大佐が、提唱していたことで、

「世界最終戦争論」

 と呼ばれる本も出したくらいだった。

 世界大戦では、

「各地域の代表が決まり、地域の代表が、全世界大戦を行い、そして、最後に超大国の二つが残ったところで、その国によって、

「2大超大国の決勝戦により、勝ち残る国が世界の代表として、君臨し、そのあとに、恒久平和がやってくる」

 という考え方であった。

 だから、

「世界大戦の時代は、消耗戦争であり、代表を決める大戦なのだ」

 という考え方だったのだ。

 当時の政治家や軍も、世界大戦になった時点で、似たようなことを思い描いていたであろうが、

「核兵器のような、すべてを破壊するという兵器の登場まで予知していたのかどうか分からないが、結果として、世界において、どのような体制を取ればいいか?」

 ということが、第二次大戦が終わった時点で、想像できたであろうか?

 少なくとも、

「東西冷戦」

 というところまでは想像できただろうが、

「核兵器を生み出したアメリカにも、このような、代理戦争などというものが想像できたのかどうか、難しいところだ」

 と言えるであろう。

 ただ、この、

「代理戦争」

 という考え方が、

「宇宙間戦争」

 において、どのような形になるのか、なかなか想像はつかない。

 ただ、

「宇宙というものを、地球の拡大解釈」

 ということで、

「無重力の空気のない世界」

 ということで、発想は、いくらでもできるだろう。

 そういう意味で、

「SF」

 というものは、

「無限の可能性を秘める時空のような考え方」

 とことができるのではないだろうか?

 と言えるのであった。

 そして、

「宇宙における、代理戦争というのも、地球上の考え方と同じで、宇宙大戦争になるのを、避けている」

 と考えると、

「宇宙にも、いくつかの星を一発で破壊できるくらいの超兵器が存在していて、それぞれの陣営が持っていることで、抑止力が働いている」

 ということになり、その考えが、

「宇宙戦争の基本」

 ということで、ほとんどのSF作家は考えていたことだろう。

「逆の考え方があるのなら。教えてほしい」

 と思えるのだろうが、その思いを一番感じなければいけないのは、政治家や、軍部であろう。

 しかし、悲しいかな、

「そんな人間は存在しない」

 と言い切っておいいだろう。

 なぜなら、本当に世界を憂いているのであれば、

「SF作家が思いつくという、これくらいのことであれば、政治家が思いつかないというのも、おかしなことだ」

 と言えるだろう。

 つまりは、

「普段から、真剣に平和について考えていないか?」

 あるいは、

「政治家や軍部の首脳にいるほどの、知能を持った人間が、皆無だ」

 ということになるだろう。

 そんな人物がいたとしても、結局は、

「数の理論」

 ということで、多数派に押しつぶされているのかも知れない。

 いや、それよりも、

「見えない秘密結社のような連中に、つぶされないように、表に出てこない」

 ということになるしかないだろう。

「代理戦争」

 の発想は、しょせん

「地球の代理戦争の発想の域を出ることはない」

 ということになるに違いない。


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