第26話 小さな巨人計画24


 二人は、同じベッドで目を覚ました。

 佐久夜は父からの手紙が入った封筒を手にしていた。


「お父さんからの手紙を、本当に読んだことはないの?」


 楠瀬は手紙をのぞき込んで言った。


「うん。持ち歩いてはいたんだけど、やっぱり読む勇気がなくて……」


「本当に、それでいいの? まだ疎遠でいられるのは、きっと喪失感を覚えていないからよ。でもこのまま疎遠でいたら、きっと心に残らない別れを迎えることになる」


 楠瀬はいつも以上に真剣な眼差しを佐久夜に向けていた。


「わかった。読んでみようと思う――」


 俺はこの手紙を、楠瀬の力を借りずに読むことはできなかっただろう。

 二人でリビングのソファに座り、封筒を握った。でも、開けようとする手は動こうとしなかった。


「緊張しないで。私がついてる」


 封筒を掴む手が握られた。

 そうしてやっと、手紙を取り出した。


『巨人には搭乗するべきではない。父のもとに来なさい。宿泊しているホテルの名前を書いておく。明日、会えることを楽しみにしている』


「明日って、今日のことだよね? 佐久夜は、会いに行くつもり?」


 すぐには答えられなかった。でも、楠瀬とも和解できたように、父とも和解できるのなら再会したかった。


「――うん」


「私も、会いに行くべきだと思うよ。でも、必ず戻ってきて。それだけは約束して」

 また、背中を押されてしまった。「会わないで」と言ってくれたほうが、気持ちは楽だった。


「もちろんだよ。心配しなくていい」


 佐久夜は楠瀬を抱きしめ、固く誓った。

 玄関まで来ても、まだ楠瀬は不安そうに俺を見つめていた。


「大丈夫。小さな巨人Ⅲは、必ず成功させなくてはならない。戻ってくるよ」


「私は佐久夜が戻ってくるまで安心できない。だから、必ず安心させて」


「もちろんだよ。楠瀬は空白の十年間という不安から俺を救ってくれた。不安なままにはさせない」


「約束だよ」楠瀬の両腕が背中に回り、体が密着した。「気をつけてね」


 楠瀬の声が、こんなにも近く聞こえる。

 こんな幸せなことはない。


 記載されたホテルのロビーには、懐かしい背中があった。

 相手も気づいたようで、お互いに駆け寄った。


「久しぶり、父さん」


 顔を合わせるのは、どれほど久しいことか。その顔は記憶よりも歳を重ねていた。しかしまだ老いは感じさせず、黒いスーツを着こなした威厳のある風貌は尊敬していた父と何も変わっていなかった。


「佐久夜も元気にしていたようで嬉しいよ。会いに来てくれてありがとう。すぐにでも私たちの家に帰ろう」


 やはり、期待させていた。それでも会ったことに後悔はない。俺のことをまだ大事にしてくれていることがわかった。それだけでよかった。


「ごめん……。俺はそっちに行けないや」


「そうか――少し、お茶でもしよう」


 二人でロビー横のカフェラウンジに入った。

 グランドピアノが奏でる妙なる調べに聞き入る余裕はない。席についてからも落ち着くことはできなかった。

 ギリスはソファに体を預けた。


「何か食べようか?」


「飲み物だけでいいよ。アイスコーヒーにしようかな」


 父も同じくアイスコーヒーを注文した。緊張して体が熱くなっているのは同じようで、少し安心した。

 届いたアイスコーヒーをストローで少し吸った。


「小さな巨人計画は母が残した最後の作戦なんだ。俺が完遂させなければならない」


「大陸国家連合は有麻さんのおかげで大きく巨人技術が進歩した。今は小さな巨人計画に賛同する加盟国も増えている。しかし、父として佐久夜を搭乗させられない」


 大きな危険が伴うことはわかっている。俺の身を案じてくれていることはとても嬉しいが、それほど危険なら、なおさら楠瀬を一人にはできない。


「父さん――俺は搭乗するよ。海洋国家連合の本部で実行される小さな巨人Ⅲには父さんも招待されていると思う。絶対に来てほしい」


 小さな巨人Ⅲで巨人の本能になることの安全性が証明されれば応援してくれるだけではなく、両連合のより強固な架け橋になってくれるかもしれない。


「母さんの作戦は佐久夜でなくても完遂できる。本当に、もう佐久夜しかいないという状況になってからでも遅くない。いっしょに帰ろう。楠瀬・クレイトシスのことが気がかりなら、彼女も連れてくるといい。亡命の手続きをしよう」


 そういうことではない。

 佐久夜はコーヒーを少し口に含んで、渇いた喉を潤した。


「人類のため、他人任せにはできない。俺たちが一番に選ばれた。それには理由があるはずだ」


「佐久夜の信念が正しいことに向けられていたのなら、それは感服いたすことだ。だから、間違えているその心を放っておけない。しかし、正しいと信じているかぎり、その心を折ることはできないとわかっている。非常に残念だが、今はあきらめよう。小さな巨人Ⅲの成功を祈っている」


「父さんは、どうして小さな巨人計画に反対しているのか教えてほしい。この作戦は、巨人を生かそうとする父さんや大陸国家連合に寄り添ったものだ。それに有麻さんは『海底巨人の本能という存在にこだわっていない』と言っていた。多くの巨人がいるんだ。おのおのが国家の体裁を保ったまま、巨人の本能になれる」


 立ち上がろうとしていたギリスは、再び腰を下ろした。


「海洋国家連合は本心から巨人を新たな母星にすると考えていないからだ。あいつらは、海底巨人が宇宙巨人を受け止めるだけでいいと思っている。だから、佐久夜にも身を引いてほしい。命を危険に晒す必要はない。霜月は俺の元部下でもある。非常に賢い男だと佐久夜も知っているはずだ。任せればいい」


 霜月の宇宙に避難するべきだという提案も、本部では議論されている。まだ小さな巨人計画は最重要視されていない。そんな今だからこそ、搭乗者がいなくなるような心配をかけられない。このまま身を引いて小さな巨人計画を延期させてしまっては、本当に頓挫させてしまう。


「小さな巨人計画が頓挫しようと、海底巨人は宇宙巨人を受け止めなければならない。それはわかっている。それに巨人の子どもたちは、巨人の本能という場所でないと解放されない。だから俺たちは巨人の本能になれるということを証明しないといけないんだ」


「素晴らしい心がけだと思う。でも、応援はできない。もしも来栖がいたら、いっしょに止めてほしかった」


 来栖という名前に、心が持っていかれた。


「来栖とは、会えたの?」


 ギリスは首を横に振った。「実は、事実婚ではあるが再婚したんだ。すでに娘とも会ったと聞いている。来栖にも伝えたかった」


 頭に浮かんだのは有麻さんの娘、紗綾さんだった。


「有麻さんからはそんなこと、一言も聞いていない」


「穂乃佳さんは涼子の代わりにはなれない。よく佐久夜と来栖との距離感に悩んでいた。それで言い出しづらかったんだろう」


 コーヒーを飲もうとしたが、すでにグラスは氷を残しているだけとなっていた。緊張しているからか、いつも以上に喉が渇いた。


「もう……来栖のことはあきらめちまったのかよ? 探さないのかよ?」


「ずっと探し続けてきたさ。それは今だって変わらない。穂乃佳さんは、救世主のような存在だった。彼女は来栖の捜索を親身になって協力してくれた。彼女は今だって、探し続けてくれている」


 楠瀬も、来栖を探すべきだと背中を押してくれた。そんな楠瀬に俺は心を惹かれた。だから有麻さんにも好感が持てた。


「俺も来栖のことは探している。何か手がかりがあるなら教えてもらいたい」


「いいや、残念なことに、ここまでして何もない」


「ありがとう、父さんがいてくれてよかった。同じく来栖のことを気にかけている家族がいてくれてよかった。父さんとは、叶うならまた会いたい。結婚、おめでとう」


 父さんを憎めはしなかった。だから少しでも良い印象を与えたくて、過大な感謝と祝福が口から出た。

 父さんは、母のことをあきらめてしまったようだった。俺が母さんを救っても、母さんを待ちこがれる父はいない。


 大きな手が佐久夜の肩を叩いた。


「ありがとう。もしも母さんが生きていたら、会わせる顔がない。紗綾と接する機会があったら、仲良くしてほしい」


「母さんとは、本当に思想が異なっていたという理由から離婚したの?」


「そんなことは些細な問題だったよ。簡単に言ってしまえば、教育方針の違いということだよ。でも今は、こうなってよかったと思っている。来栖が戻れる場所は、二つ必要なのかもしれない。どちらを選択してもいいように、まだ違う道を歩こう。また迎えに来る」


 今まで教えてくれなかった離婚の理由を、ここではすぐに話してくれた。十年という月日の経過が思いを風化させてしまっていた。


 佐久夜は、すっかり氷が溶け切ったグラスの底に溜まった水も飲み干してしまった。それに引きかえ、父さんのグラスには水が溜まっていた。

 俺にはそれが、意のままになると確信している余裕のようにも感じられた。


 母さんは忘れられようとしている。小さな巨人計画をあきらめない俺のことも、いつかあきらめられてしまうのだろうか。

 それなら、最初から一人にしてくれよ。

 どうしても楠瀬のもとに帰る気持ちにはなれなかった。だれもいないミツキの家だけが、楠瀬の約束も守れそうにない俺でも受け入れてくれた。

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