第9話 小さな巨人計画7



 着替えを終えた佐久夜は更衣室を出ると、楠瀬が待っていた。


「歓迎されて嬉しいよ」


「来栖も来てくれるといいわね。実は私もこの十年間、来栖と会えていないの。来栖に訓練の予定が入っているときは今みたいに待ち伏せをしてみたけど、避けられているようで会ってくれなかった」


 男性の更衣室にはここしか出口がなかった。女性の更衣室にだけ複数の出口が用意されているとは考えにくい。楠瀬が待っていないことを確実に判断してから出てくることも不可能なはずだ。


「更衣室の中も、探したんだよな?」


「あたりまえよ。でも、一度たりとも会えることはなかった。私って、それくらい避けられているの。もしも今晩に会うことができたとしたら、罵詈雑言を覚悟してる。私って、来栖にとっても裏切り者なのよ」


「それを、わざわざ聞きに行くのか?」


「そうね。私は来栖の心を知りたい」


 俺は、なぜ会いたいのだろう。失敗を謝りたいのだろうか。それとも、慰めたいのだろうか。もしも失敗を非難されたら、会ったことを後悔してしまわないだろうか。

 答えが出ぬまま佐久夜は楠瀬とエレベーターで一階まで上がり、怯えながら正面玄関から外に出た。


 すでに空は暗くなっていた。

 どんな場所にいたのかと振り返ると、外壁に木目が映える木造の巨塔がそびえ立ち、最上階からなら海底巨人を見下ろすこともできそうなほど高層であった。

 軽く見上げた位置には、巨人が両手でこの建物を包むシンボルマークが目に入り、その下には基地併設中央病院の文字があった。

 それには、まるで巨人がここを守っているかのような印象を受けた。巨人は、俺にとってどんな存在であったのだろう。ただの仕事道具だと割り切れない感情は、海底巨人を保護しようとした父に寄り添うものだった。


 駅まで続く道は病室の窓から見えていた景色と同じ世界にいるのか疑ってしまうほど似ても似つかない歓楽街が広がっていた。そこは巨人の存在に翻弄されず自然と歩調を合わせた元来の生活が持続する馴染み深い場所だった。

 人の営みを感じさせるネオンサインが、行き交う人々の隙間で見え隠れする水溜りを鮮やかに彩り、畳まれた傘に付着した水滴がカラフルな光を反射させていた。

 だれ一人として立ち止まらない路上パフォーマーよりも世界からの孤立を感じていた佐久夜でさえ、雑踏の中を突き進むと次第に街へ溶け込んでいった。

 十年は街の輪郭を大きく変化させなかった。しかし、知らない路線や聞いたことのない駅が誕生するほどではあった。


 クレイトシス家の最寄り駅を出てからは、坂道が続いていた。

 地平線が見えなかった都市部から離れ、天まで続いていそうなほどまっすぐな坂道は壮観で、ずっとその先を見ていたいと思わせた。

 街灯で照らされたその道を二人は進んだ。


「私は今も母さんと住んでいるのよ。仕事には厳しい人だけど、家では仲の良い家族に戻れる。涼子さんもそうだった?」


「母さんは、いつでも厳しい人だった。だけど、俺も来栖もその期待に応えたいと思わせてくれる偉大な人物だった。対照的に、父さんは優しい人だった。よく、母が変わってしまったと嘆いていた。何があったのか教えてくれることはなかったけど、知っての通り父は軍を辞めて大陸国家連合に行ってしまった」


 クレイトシス家の住居は、山間部に建てられたマンションであった。

 まだ真新しい外観のマンション群は、ここら一体の開拓が海洋から迫りくる海底巨人の脅威に備えて進められたことを裏づけていた。


「父とは会いたくないの?」


 楠瀬はマンションの前で足を止めて言った。

 それはこの話題をマンション内に持ち込まないという強い意志を感じた。


「いつかは会いたいと思っている。でも父さんからの手紙を読む気持ちにはなれない。父さんのところに行ったら俺は裏切り者になってしまう。そのつらさは、楠瀬が一番に理解していることだろう?」


「そうね。でも裏切られた悲しみは、佐久夜が一番に理解していることでしょう? お父さんは佐久夜を信頼しているのかもしれない」


「そうだな。でも今は、俺に課せられた使命をまっとうしなければならない。それが父さんと決別する決定打になろうとも、たどり着く場所は同じだ。海底巨人の本能になることが正しかったのだと証明すれば、いつかは仲直りできるかもしれない」


「もしも佐久夜の父さんが正しかったとしても、あなたは寄り添ってあげて。きっと、どんな結末になろうと仲直りできるはず」


 楠瀬は言い切ると、エントランスに入った。



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