小さな巨人計画
第3話 小さな巨人計画1
佐久夜はギシギシときしむ音に聞き耳を立てると、音の主を探すように目を開けた。
視界がぼやけて顔は判然としないが、長い緑の黒髪をなびかせながら、だれかが慌てて立ち上がった。倒れる椅子の音が、まだ目覚めたばかりの体には突き刺さるほどの騒音だった。
「楠瀬です。宮・クレイトシス司令、湊崎佐久夜が目を覚ましました」
その声は朦朧としていた意識の中、何度も聞こえていた声であった。
佐久夜は首だけで部屋を見回すと、黒い鉄製の骨組みに薄いマットレスが敷かれたベッドで寝ており、洗面台や浴室が一つの部屋の中にあった。
「ここは病室?」
「そうよ」
楠瀬は長い髪を耳にかけて、佐久夜を見下ろした。
数人の男女が入室する。だが、その中に母はいなかった。
金髪を後ろで結った四十代ほどの女性が俺を見下ろすように立った。
「久しぶり、佐久夜くん」
その声色は宮・クレイトシス参謀長だったと記憶している。しかし、記憶している容姿とは一致しなかった。
「宮・クレイトシス参謀長……ですか?」
佐久夜は恐る恐る尋ねた。
「その反応も無理はない。私は今、参謀長としてではなく司令としてここにいる。きみは十年ぶりに肉体の付与が許可された。肉体年齢は最後の搭乗前と同じ青年期のままだ。まだ混乱しているかもしれないが、任務の話に移ろう。佐久夜には楠瀬と共に、涼子が残してくれた『小さな巨人計画』と呼称されている人類が海底巨人の本能になることを目的とした作戦に参加してもらう。本能には人間の巨人支配率を低下させることで近づくことができる。我々は搭乗者の胎児を消失させて、巨人に細胞を供給するだけの器官になることでそれを達成しようとしている。この作戦は我々が巨人と生きられるのか、それを判断する作戦となり、最終的に海洋国家連合の意志は海底巨人の意志となる。第一段階目である小さな巨人Ⅰの作戦開始日は明日だ。小さな巨人計画の詳細なミーティングはのちほど、きみの混乱が収まってからにしよう。短い時間ではあるが現状の理解を深め、この時代への適応を命じる。それが、きみの疑問を解消してくれることだろう」
まくし立てるように一方的な言葉を浴びせた宮・クレイトシス司令が背中を向けたので、佐久夜はとっさに呼び止めた。
「一つ、質問させてください。母と妹は無事なのですか?」
今が十年後であろうが、そうでなかろうが、それだけは共通の心配事だった。
宮・クレイトシスは足を止めて振り返った。
「ここにいないという現状を察してほしい。湊崎涼子元司令長官は佐久夜の作戦失敗を知ると自ら巨人に搭乗して出撃を試みるが、人間の巨人支配率が上昇せず格納庫で延命処置が施されている。面会は可能だ。来栖はきみと会いたがっていなかった。だが、まだ向き合う時間は残されている」
「もう一つ。巨人を殺すよう命令した母が、巨人と生きる作戦を発案したのですか? まるで小さな巨人計画は、自我と人間を切り離す実験のようにも思えてしまいます。母さんが、祖国を裏切った父と同じ思想を持つはずがありません」
「国際社会に逆らうことはできない。涼子もそれをわかっていた。だから、この作戦には大陸国家連合が提示した巨人との共存構想が多分に含まれている。しかし涼子が残してくれた小さな巨人計画は思想だけで実効力のない大陸国家連合を出し抜き、海底巨人を独占するだけの計画性を有している。本当にそこでしか生きられないのなら、そこにいるのは我々だけだ」
「そこでしか生きられないとは、どういうことなのですか?」
佐久夜は間髪入れずに質問した。
「私の言葉の意味を、これからその目で確かめてみるといい」
そう言い切ると宮・クレイトシスは退室した。
何が「そこでしか生きられない」だ。そんなことがわかっているなら、小さな巨人計画を残した母が海底巨人を殺そうだなんて思わないはずだ。
きっと母は海底巨人の専有だけを目標にしていた。今の司令部は小さな巨人計画に母が託した意志とは別の意味を見出している。
ただ容姿が十年前と変わっていない楠瀬は、まだ巨人が現役ということだけを示唆していた。
「楠瀬は、来栖が俺と会いたがらない理由を知っているのか?」
体を起こしベッドの端に座ると、窓から見えた景色には海底巨人が健在であった。
驚きはなかった。しかし呆然としていて楠瀬の答えが耳に入ってこなかった。ただ、励まされているということだけは声色から感じ取れた。
「俺は、失敗したのか――」うつむいて出たため息が、重く足に乗りかかる。「きっと俺は悪人として世間に認知されている。来栖が会いたがらないのも頷ける」
俺が誕生した日は、まだ海底巨人なんて発見されていなかった。巨人は佐久夜に搭乗者という特別な役割と母に高い地位を与えて家族の絆を強固にしてくれた。しかし、海底巨人は家族を破滅させた。
楠瀬はとなりに腰を下ろした。
「結果が変われば、私が悪人と呼ばれていた。佐久夜がしたことも日本を想ってのことだってことは私が知ってる。今は不安なことがたくさんあるだろうけど、なんでも質問して」
目を背けていたが、窓の外には海底巨人の存在よりも十年という月日の変遷を理解するにふさわしい光景が広がっていた。
ここは海沿いというわけでもないのに、海面や海底巨人を観察できる。そんな高さからでも無数といってさしつかえない数の巨大なパラボラアンテナが地上を覆うように建造されていた。
「これほどの電波望遠鏡が必要とされる理由を教えてくれ。海底巨人を監視する程度のことなら地球観測衛星で事足りる」
佐久夜は返答を待っているあいだ、窓枠やガラスに細工がなされていないか確かめるため立ち上がった。
脳が収縮するような頭痛に襲われ少しふらついたが、支えなくして窓まで歩み寄る。
ガラスがモニターになっているのではないかと訝しみ開放するが何もかもが健在であり、身を乗り出して外壁の感触を確認しても想像とかけ離れたものではなかった。
「ちょ、ちょっと、何をしているのよ」
楠瀬が腰にしがみついて、病室へと引き戻された。
「少し確かめたいことがあっただけだ」
「驚かせないでよ。まさしく、あれは巨大な電波望遠鏡よ。海洋国家連合は地球と同じ行く末にある惑星の捜索と、大陸国家連合が生み出した宇宙巨人の監視をしている。宇宙巨人は、いずれ地球に落下してくることがわかっている。そのため観測の妨げとなる人工衛星がいくつも撃墜されたわ。もう人類は海底巨人の本能になるしか生き残れないのかもしれない」
「宇宙巨人なんてものを大陸国家連合が生み出したから、俺たちは人間であることを捨てて海底巨人の本能にならないといけないのか。しかし、本能って俺たちがなれるものなのかよ? そもそも、俺は巨人の自我という存在を知らない。そんなものが存在していると感じたこともない」佐久夜はふらつく足で立ち上がり、楠瀬の両肩を掴んだ。「巨人と対話をしてギリス・バーベイト議長に言われるがまま降伏した楠瀬なら、巨人の自我がどんな存在だったのか知っているだろ? 俺にとって巨人の自我は、ただ忌むべき存在でしかない」
楠瀬は視線を落として口を開いた。「胎児の再分解中に経験した巨人との対話は、奇妙なものだったわ。来栖とそっくりな女性が語りかけてきて、まるで巨人こそが自我の拠り所であるかのような錯覚に襲われた。だから第一分隊はギリスの言葉に耳を貸してしまった」
それが第一分隊の降伏に直結した。俺も巨人の声を聞いてしまっていたら、母の命令に背いていたのかもしれない。それを思うと怖くなった。
「来栖とそっくりな容姿を、楠瀬も見ていたのか? 来栖はドッペルゲンガーに語りかけられたと言っていた。楠瀬と同じものを、人間の支配下にない巨人に細胞を供給していた来栖も見ていたのかもしれない」
「そのようね。胎児の再分解でも、人間の巨人支配が及ばない状況で分解された胎児の細胞が巨人に供給される。国際社会は私や来栖が経験した出来事を、巨人との対話だと定義した。佐久夜は、海底巨人の脳内で第一分隊の巨人に発生した容姿の変化を目撃したでしょう?」
「もちろんだ。海底巨人の脳内で胎児の再分解を実行した第一分隊の巨人は、来栖のような容姿に変化していた。もしかして俺たちは、あの容姿をした自我の本能になろうとしているのか?」
「そうよ。あれは巨人の自我が容姿となってあらわれたのだと結論づけられたわ」
俺は漠然と巨人の本能になるのだと思っていたが、生理的に受け入れられない容姿をした自我の本能になるのではなく安心していた。来栖に似ていようが巨人の自我であることに変わりないが、見知った容姿であるほうが受け入れられやすい。
「あの来栖に似た容姿が巨人の自我を体現したものであるなら、どうして来栖に似ているんだよ? だれも疑問に思わなかったのかよ……?」
佐久夜の腕は楠瀬から離れ、無気力に垂れ下がった。
「疑問に思ったとしても、巨人を排除することはできなかった。巨人を受け入れなかった国々は国力に差をつけられ、今や発展途上国と化した。主要国と対峙して博打をするくらいなら、どれだけ苦渋な決断であろうとも、裏切り者と罵られようとも、この国を最良な形で残せる選択する。私は、佐久夜と立場が逆になっても構わないと思っていた」
志が同じところにあることを再確認させられ、責める理由を失った佐久夜は国の安寧よりも自分の理想を追い求めていたと実感させられた。
気持ちが落ち着き、再びベッドの端に腰をかけた。
「楠瀬の選択が正しかったから、今も日本は平和でいられる。俺は家族のことしか考えていなかった。あそこで海底巨人を殺せていても、巨人が消えることはない。宇宙巨人が作り出されたように、海底巨人も作り出されただけだったかもしれない」
自分を納得させるための言い訳のように聞こえた。でも言い訳をしなければ納得しきれなかった。
「涼子司令長官が生きていたら、きっと阻止していたでしょうね。それと、残念だけど平和ではないの……。両連合は手を取り合い、巨人を共同で研究するまで関係は深まった。でも、海底巨人と宇宙巨人の殺害を目論む『第三勢力圏』が誕生してしまった。今も戦争は激しさを増している。佐久夜は、人間を守ることよりも巨人を守ることが自我の役目だと思う? 海底巨人を生かしたから、宇宙巨人も生かすしかなくなってる」
佐久夜は耳を疑った。
楠瀬の選択が正しいと思ったから納得できそうだったのに、その選択が最良でないのなら、俺の使命としていたことは最低限の平和である国民の安全な生活すら守れない以下のことだったのかよ。母を失わなければ、こうはならなかったかもしれないのに。
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