インドの亡霊、なのかもしれない

世楽 八九郎

インドの亡霊、なのかもしれない

 人生で一度だけ金縛りにあったことがある。それも妙な金縛りだ。

 大学生だった頃、友人とインドを旅行したときにそれは起きた。


 その夜、俺と友人は食中りに苦しんでいた。

 ややマイナーな都市を訪れたときのことだった。

 インド旅行に食中りは付き物だが俺たちには経験から得たインドハックがあった。

 それは白人バックパッカーが出入りしている店を選ぶことだった。独自のネットワークがあるのか、彼らが利用する店の料理は安全だった。

 しかし、この都市では白人バックパッカーをそれほど見かけることはなくこのライフハックは使えなかった。

 こうして己の勘に頼らざるをえなくなった俺たちは普通のお店とベジタリアンのお店の二択を迫られることになった。

 いままで入ったことがないことに加えて『なんだかクリーンそうだから』という理由で俺たちはベジタリアンの店を選んだ。


 その結果、俺たちは上から下から噴射マーライオン状態に陥った。


 こうして俺は何度目かの噴射マーライオンの後にホテルのベッドに仰向けで倒れていた。

 全身が痙攣するだけの管にでもなった気分で天井を見上げていると、不意に気配を感じた。友人のものではない。同室の彼は俺から見て左手のベッドに突っ伏していた。


 気配は


 何者の気配かも知れないそれは俺の右下、ベッドの脚の辺りからモコモコと膨れ上がるように存在感を増した。

 だが、衰弱しきっていたのか俺はそれを怖いとは思わなかった。

 気配がこちらを見つめている。そんな気がしたが、そちらに顔を向けるのさえ億劫だった。


『……日本に、帰りたいです』


 突然、気配が俺に話しかけてきた。声を発したのか、テレパシー的なものなのかは不明だが、そいつの意思が呼びかけてきたのは間違いない。

 身体を起こしてその正体を確認したいが、気づけば身体はピクリとも動かない。

 金縛り状態だった。

 しかし、続いて妙なことが起こる。


「どうしたんですか?」


 誰かが気配に話しかけたのだ。


『……日本に、帰れないんです』

「そうなんですか」


 気配と誰かの会話が始まった。相変わらず身体は一向に動かない。

 気配の奴は口下手なのか、容量を得ない繰り返しのような回答を続けており、話しかけている誰かは話を引き出せるよう聞き手に徹していた。

 会話を聞いているうちに俺はあることに気づいた。


 気配と話している誰かとは俺だ。正確にはのだ。


 まったく意味が分からないが、聞けば聞くほどこれは俺の声だった。初対面の人との会話が切れないようにいつもよりハイテンション気味なところなど間違いない。


 俺はいま謎の気配と会話しているが、その発言内容に俺の意思はまったく反映されていない。


「どうして帰れないんですか?」

『10ルピー足りなくて、帰れないんです』

「分かりました。それなら朝になったら私が10ルピー渡しますので、一緒に日本に帰りましょう」


 金がないと述べる気配に対して俺の口は勝手に援助を申し出て、俺は気配と共に帰国することが俺の意思を介さず決定された。

 ただ、その言葉に安心したのか気配は落ち着いたようで室内は正常な静けさに戻った。俺の口はそれ以上勝手に動くことはなく、気づけば寝落ちしていたらしく、朝には何とか動ける程度に身体は回復していた。


 俺はこの体験を脱水症が原因の幻聴だと思っている。

 根拠は気配が日本に帰れない理由の10ルピーだ。多めに見積もっても20円ほどだ。これが理由で帰国できないとは少し考え難い。

 だから俺は友達にこの夜のことをわざわざ確認したりもしていない。翌朝から大変だったこともあるが、大して気に留めていなかったのだ。


 ただ、いまになって思うことがある。


 あの部屋に10ルピー置いてチェックアウトすればよかったのかもしれない。

 もしかしたら気配はいまもあそこにいるんじゃないかと。

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インドの亡霊、なのかもしれない 世楽 八九郎 @selark896

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