第4話
實川に言われたことをきっかけに、夏休みのほとんどを美術部の準備室で過ごしていた真里也は、二学期が始まっても放課後だけでは足りず、家に帰って夕食を済ませると、ずっと自室に籠ったまま彫刻に没頭していた。
──彫刻家の登竜門、日本芸術コンクールに挑戦しないか。
締め切りまであまり日はないけれど、ちょうど夏休みだし、休みを全部注ぎ込む気でやれば間に合うからと實川が言ってくれた。
テーマは不問。各人が自由なテーマで制作することと、作品は、木彫、石彫、
高さ・幅・奥行き、重量がそれぞれ概ね決まっている。
年齢も国籍も不問だから、きっと応募してくる人は多いだろう。
そんな中で、初心者の高校生が挑むには腰が引けるけれど、チャレンジしてみれば、見えなかったことや、知らなかったことを知れるきっかけになるかもしれない。實川はそう言っていた。
まずテーマを決めて、それに向かってただ彫る。彫って彫って、ただの四角錐から自分の思い描く立体的な形を生み出す。
作りたいものは決まっている。俺の大切なものだ……。
夢中で彫っていると、ふと、視線を感じて真里也は顔を上げた。
「……羽琉か。風呂上がったの?」
「ああ。なあ、それって今度、何とかコンクールに出す作品か」
タオルを首にかけた羽琉が、床に新聞紙を敷き、その上であぐらをかいている真里也の横に屈んできた。
「そうだよ。あー、ほら羽琉。せっかく風呂に入ったのに、木クズがくっつくぞ」
風呂から出たばっかりで暑いのか、羽琉は上半身裸だった。髪は水分を含んだままでしっとりしていて、シャンプーのいい匂いがする。自分も同じものを使っているのに、羽琉から香ると別の匂いに感じる。庶民的ではなく、どこかラグジュアリーな、香水のような香りだ。
以前、何かの本で読んだことがあったけれど、人の持つ体臭が身につけた香水や、柔軟剤に混ざり、独自の匂いに変化すると言う。
香りにも相性みたい? なのがあって、自分にはいい香りでも、他に人は真逆な匂いに感じたりすることもあるらしい。
味付けの好みのように、匂いもそれぞれ好き嫌いがあるのは当然かなと思える。
羽琉の醸し出す香りは好きだなと、真里也は思った。
完成間近の作品をまじまじと見ている羽琉の横顔を見ながら、そんなことを思っていると、何となく視線は顔から首、肩、胸を辿っていた。
引き締まった肉体は程よい筋肉に覆われ、風呂上がりのせいか、肌はしっとりして見える。どんな感触なんだろうと、触りたくなったけれど、変態扱いされたら嫌なのでやめておく。
白くて薄っぺらな自分の体とは比較にならない、羽琉の美しい裸体をモデルにして、いつか彫ってみたいなと思った。
ただ、真里也お気に入りの髪型を表現するのは難しそうだ。
今は風呂上がりで茶色の髪は乾いている時より濃く見え、天パも伸びて真っ直ぐに近い。この状態の方が描きやすそうだけれど、乾いている方がやっぱり好きだなとひとりほくそ笑んでいた。
そんなことを考えていると、なあ、これってタイトルあるの? と、質問された。
「うん、あるよ」
「へー、そうなんだ。何て言うんだ?」
膝を抱えたスタイルで屈んだまま、小首を傾げた羽琉が聞いてくる。
流し目で見つめられると、なぜかドキッとした。いつもより妙に色気が滲み出ている気がする。こんな眼差しを浴びた日には、女生徒の大半が不整脈を起こして救急搬送されるかもしれない。
いや、言い過ぎか……。
頭の中で吐き出した言葉に反省していると、なあ、何てタイトルなんだよと、また尋ねられた。
「あ、えっと。『
「カカ? 何だ、カカって」
母ちゃんの別の言い方か? と羽琉が言ったけれど、作品を見て、いや、違うなと首を捻っている。
「呵呵って言うのは、大声で笑う様って意味だよ。あははーってさ」
「へー、爆笑ってことか。真里也は物知りだな。それに、センスがある。コレにピッタリだ」
「爆笑──そっか、俺の作りたいものにピッタリだ。羽琉の方が感性があるんじゃないか」
真里也はもうすぐ完成する予定の、作品を両手で持つと、表面に残っている木クズに向かって、ふぅーっと息を吹きかけて飛ばした。
横顔に視線を感じ、何だよと、横目で羽琉を見た。
「……いや、ほっぺた膨らまして、そうやって息を吹きかけてるの、なんか色っぽいなって思ってさ」
い、色っぽい? 俺が? それはこっちのセリフだっての。
心の中で叫んだけれど、羽琉の視線がいつもと違い、熱を帯びて見えたから、何となくここはスルーする方がいいのではと直感した。
羽琉の視線を封じ込めるよう、首にかかっていたタオルを奪うと茶色の髪に被せてやった。
「くだらないこと言ってないで、早く服を着ろ。夜は寒いくらい涼しくなってきてるんだ、風邪引いたらバイト行けないだろ」
わしゃわしゃとタオルで水分を拭ってやった。
「い、痛いって。もうちょっと優しくしてくれー」
「半乾きのままでウチの洗面所にいると寒いからな、これくらいはしないと。ほら、髪をちゃんと乾かしてこい。俺はキリのいいのとこまでやったら入るから」
わかった、わかったと言い、羽琉が手の中から逃げて行く。
ドアを開けて部屋を出ようとしながら、「母ちゃんはうるさいな」何て言うから、明日の弁当作ってやらないぞと、奥の手で脅してやった。
「ダメっ。それは絶対ダメだ。真里也さま、お許しをー」
わざわざ振り返って、拝むようなポーズで禁句を言うから、側にあったクッションを投げつけてやった。けれど、運動神経抜群の体はそれをさらりと交わし、早く風呂入れよーと、捨て台詞を残して廊下をかけて行った。
「ったく。言うなって言ってるのに、何でわざと言うんだ」
……羽琉は敢えてわざと言ってくるんだ。名前に『様』を付けられること何て、大したことないんだと教えるように。
小学生の真里也に、愛ではなくトラウマだけを植え付けた母親のことなんて忘れろと、羽琉は言ってくれてるんだ。
父の葬儀の時、式に出席しようかと母親から連絡があった。
絶対に会いたくなかったから、真里也は博に断って欲しいと泣いて頼んだ。
博はちゃんと断ってくれたけれど、いつ、母親が姿を現すかと、ヒヤヒヤしていた時に羽琉が言ってくれた。
──女装のことも、名前の呼び方も、先に親孝行してやったと思え。それでもう、親子の関係は終わりだ。お前が落ち込むのは勿体無い。
自分と同じ中学生なのに、大人っぽい考え方だなと、聞いた時は腑に落ちなかったけれど、後で羽琉の言う通りだなと思えた。
考え方を切り替えろと、羽琉は言ってくれたのだと思う。
真里也は彫刻刀をケースに戻すと、スッと立ち上がって全身についている木クズを払い、作品と道具を机の上にそっと置いた。
掃除機で床をきれいにし、壁にかけてある時計で時刻を確認する。
「まだ、十時前だ。羽琉が帰ってしまう前に、風呂から出て一緒にアイス食おうっと」
大きな独り言を呟くと、部屋の電気を消して真里也は風呂場へ向かった。
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